表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
91/464

29◆ 斜陽の帰路

 熱が、俺の周囲に充満するように残っていた。

 真冬とは思えない程に熱せられた空気が、ゆるゆると上へ上へと移動していく。


 覚えず喘ぎ、俺はその場に崩れるように座り込んだ。


 体重を後ろに傾けたのは防衛本能だった。

 目の前には〈呪い荒原〉がある。そちらに向かって倒れ込むほど、俺の生存本能は弱っていなかった。


 座り込んだ拍子に新たな血が溢れた。

 どこが出血箇所なのかはもはや把握できなかったが、とにかく血を吐くのを止めなければ、息苦しくて仕方がなかった。



 ――体内の損傷の治癒は、慣れている。

 かつて魔王の城において、暗殺に晒され続けた日々のゆえに。



 じわ、と身体の奥のどこかにくすぐったさが走って、直後に俺の気道が確保された。

 途端に、げほ、と(むせ)てしまったのは、自分で思っていた以上に呼吸が圧迫されていたからか。



 ――目の前には、本当にもう、何もない。

 レヴナントは消え失せている。


 あれほど俺を苦しめておいて、最後は呆気ないほど簡単に抵抗を手放した。――なぜだろう。



「――、――いッ」


 立ち上がろうとすると、唇の間から変な声が漏れた。

 全身の神経が、がなり立てるように激痛を訴えた。


 俺の脳は激痛を追い切れなくて、ただ手足の感覚を遠いものに感じるのみだったが。


 よろめきながら立ち上がり、外套を脱ぐ。

 裾が朽ちていたものの、まだ立派に外套の形を保っている。



 ――裾が朽ちたのは〈呪い荒原〉に踏み入ったからだ。

 踏み入る者全てを原因不明の病で殺すはずの大地が、なぜだか俺にだけは容赦を加えた。


 ――なぜだろう。



 ふとそう思ったが、すぐにその疑問は頭の中から溶け消えていった。

 そんなことを考えている場合じゃない。


 踵を返す。

 その途端にふらついて、俺は自分自身に舌打ちした。


 確かに結構な量の血は流したが、それが何だ。こんなんじゃ救世主を名乗れない。



 こんなんじゃ救世主を名乗れない。



 乾き切った地面に足を置き、歩き出す。


 俺がレヴナントを押し進んだ分の距離が、見事に焼き焦げた不毛の大地と化していた。

 そうでなくてもこの場所は、そう遠くない未来に〈呪い荒原〉に呑まれる場所だが。


 歩く度に砂埃が上がって、血液を存分に吸った俺の軍服のズボンの裾と軍靴は、あっと言う間に灰色の砂埃で汚れた。


 風が吹く。

 冷たいはずの風だったが、未だに周囲に名残を残す俺の魔法が、その風さえも生温くした。



 決して長くはない距離を歩いて、俺はシャロンさんのすぐ傍に立った。


 そこには奇跡的に火の手が及んでおらず、彼の――無傷が保たれていた部分は無事だった。


 死に顔は分からなかった――頭部の半ばが潰れていたがために。

 俺が治癒を進めたから、見て取ろうと注視すれば、彼の最期の表情の欠片は拾えただろうが、俺はその顔を見られなかった。


 申し訳のなさに、心臓が誰かに握り潰されようとしているような心地がした。

 罪悪感は、痛みというよりも圧迫を伴って俺に降り掛かった。

 ――気道から血は取り除いたはずなのに、息が苦しい。



 こんなんじゃ救世主を名乗れない。



 顔を背けたまま、俺は手にした外套を広げて、出来るだけそっと彼に覆い被せた。

 ここにディセントラがいれば、何よりも確実に彼を守れただろう。だが俺に、それは出来ない。


「――――」


 口を開いた。謝罪しようとした。――言葉が出なかった。

 何と言えばいいのかは分かっているのに、喉が動かない。

 謝罪したところで、それが自己満足にしかならないことを、俺自身がよく分かっていた。


 唇を引き結び、俺は足を引いた。

 シャロンさんの向こうに視線を向ける。俺が焼き払って作った広場の向こう。まだ灌木の茂っている、その向こう。

 距離があったが、疲労した俺の目はその距離を正確に測ることを放棄した。


 ――この向こうにコリウスがいるはずだ。多分アリーも。


 アリーの悲鳴が聞こえていたが、何があったのか。

 さすがにレヴナントが暴れていれば、ここにまで音は聞こえてくるだろう。つまり、三体目のレヴナントが出たのではない――そう祈りたい。


 さすがにもう戦えない。

 治癒が及ぶ傷ばかりだろうが、精神力に限界がきた。



 何百年と生きてきたのに、いやだからこそ、人が死ぬことに俺は慣れない。

 顔を知り、名前を知り、声を知り、為人ひととなりを知った、そういう人が命を落とすことに、俺は慣れない。



「……少し待っていてください。すぐに戻って来ます」


 呟くようにそう言って、俺はシャロンさんから離れ、未だ茂る灌木の方へと、重い足を動かし始めた。





◆◆◆





「――やだ、やだ、やだ……」


 茂みの奥から声が聞こえてきたとき、俺はそれを空耳だと思った。

 それほど小さな声で、震えていて、何を言っているのか咄嗟には分からなかったからだ。


「……やだ、やだよ、やだ……」


 が、引き続いて同じ声が聞こえてきたことで、俺はそれが人の声だと判断した。

 それから数秒遅れて、俺はそれがアリーの声だと気付いた。


 屈んで灌木の下を潜り、その向こうの茂みを腕で掻き分け、膝で地面を進む。

 硬い草が腕の傷(いつ負ったのか覚えていない)に突き刺さり、新たな血がじわりとシャツを染めた。


 シャツは白いから非常に目立つ。

 いやもう、目立つ云々の前にあちこち真っ赤だけど。もはや、元から真っ赤なシャツだったと言った方が整合性が認められるくらいだ。

 それも、徐々に黒ずみ始めてはいるものの。


 黒いウェストコートも、血で赤を通り越して茶色く変色しつつある。


 茂みを押し分け、俺が顔を出した先に、果たせるかなアリーの後ろ姿があった。

 茂みの切れ目に座り込み、小さな肩を震わせながら、震える繰り言を呟き続けている。


 がさり、と茂みを掻き分ける音に、アリーがびくりと震えた。

 そして、恐らくは反射的にだろう、膝立ちになって振り返り、両手を広げた。


 まるで何かを守ろうとするかのように。


 涙に濡れた大きな栗色の目が、恐怖に瞳孔を収縮させながら俺を見た。


 そして、一秒。


「――る、ルドベキアさん……」


 茫然と声を零し、アリーの目にみるみる涙が盛り上がる。

 ぺたんと座り込んだ彼女が、小さな両手で顔を覆った。


「ルドベキアさん……」


 が、俺はアリーを一瞥だにしなかった。

 そんな余裕はまるでなかった。


 心臓の鼓動が一息のうちに倍になった。

 どんどん狭くなる視野の中、アリーの向こう側に見える姿しか見えていない。


 俺に出来たのは、ただ端的に、自分でも分かるほど素っ気なく声を掛けることだけだった。


「どいて」


 アリーは腰が抜けたらしく、俺に声を掛けられてなお動かない。


 舌打ちして、俺は立ち上がり、半ばアリーを跨ぎ越すようにして、彼女の向こうで倒れ込んでいるコリウスに近付いた。


「コリウス」


 声を掛ける。アリーに掛けた声とは温度の違う声だと自覚できた。

 焦燥に声が大きくなる。


「コリウス、おい!」


 茂みの中で、コリウスは力尽きたように倒れている。

 結わえた銀髪がばらりと下草の上に広がって、ぴくりとも動かない。

 身体を丸めるようにして倒れているから顔も見えない。


 心底ぞっとした。


 まさかと思い、コリウスの肩に手を掛ける。

 心臓がばくばくと脈打って手が震えた。――温かい。



 生きている。



 落ち着け、と自分に言い聞かせて細く息を吸う。

 肋骨の中で暴れる心臓の鼓動は、もはや痛いほどだった。


 唇を噛み、俺はコリウスを慎重に抱え起こした。

 そして、彼の顔が見えた瞬間、またもぞっとして息を呑んだ。


 顔色は青白く、出血がひどい。


 口許が滴るほどに真っ赤になっていて、相当な血を吐いたのだと分かる。

 事実、コリウスが顔を伏せていた下草は鮮血でぬらぬらと光って、コリウスの白皙の頬も血で汚れていた。


 そして何よりぞっとしたのが、コリウスの目許を見てのことだった。


 銀色の、男にしては長い睫毛が伏せられた目許。

 そこもまた真っ赤になっていて――コリウスが血涙を流したと分かったからだ。


 呼吸が弱い。


「コリウス」


 呼び掛けながら、ざっと手足を検分する。


 目立った傷はない。

 傷を負っていないことはないが、軽傷ばかりだ。何なら俺の方が重傷だ。


 だが、これは――。


 血を吐いたと分かる顔、血涙を流したと分かる目許。

 これは、〈呪い荒原〉の病を受けたときの症状に似ている。



 身体中から血を噴き出して――死に至る病。



 ――なんで。


〈呪い荒原〉までは距離がある。

 事実、シャロンさんもあの距離にいて、〈呪い荒原〉の病は受けなかった。

 アリーもここにいるが、今のところは平気そうだ。


 なのに、なんで。


「コリウス、起きろ」


 命令するように呼び掛けて、俺は細心の注意を以てコリウスの傷を癒し始めた。



 コリウスの出血の原因を、体内の傷ついたどこかを、急速に癒すよう世界ののりを変更する。

 絶対法を超えて、世界の法を曲げる。



 コリウスの全身の皮膚の下が淡く輝き始めて、俺はますますぞっとした。



 ――俺は医術の専門家ではないから、コリウスの身体の治すべき箇所を、具体的に指定して魔法を使ったわけではない。

 コリウスの身体の重篤な傷を癒せと命令したのみだ。


 それでこうも全身に魔法が行き渡るということは、出血箇所は顔面だけに思えて、その実コリウスの身体の内側は、全身に及んで傷ついていたのだ。



「コリウス」


 アリーが泣きながら何か言っている。

「急に」だの、「花を」だのと聞こえてくるが、心底どうでもいい。


 経過なんてどうでもいい。

 ここでコリウスが助かればそれでいい。


「起きろ。ディセントラが泣くぞ」


 コリウスの呼吸が少し深くなった。

 抱え起こした彼の身体が、微かに動いたのが分かった。


「起きろ、コリウス。また五人だけにするつもりか」


 コリウスの肩を抱く手に力を籠める。


「今度は俺がカルに殺されるぞ。コリウス、起きてくれ」



 俺たちの死因は悉くがヘリアンサス――白髪金眼の魔王だが、コリウスだけには例外がある。

 当時の恋人に殺されたという例外が。


 そしてその人生において、コリウスを殺したあいつを捜し出したのはカルディオスだった。

 見たこともない程に怒り狂ったあいつは、一切の情け容赦なく奴を手に掛けた。


 俺たちが、魔王討伐に関わりのないところで他人の命を奪うことなどまずないというのに、あのときのカルディオスに躊躇いはなかった。


 あのとき、正当な救世主の地位にあったカルディオスが、自ら率先して人を殺すほど――そして誰もそれを止めなかったほどに、あのとき俺たちは目が見えなくなる程の怒りを覚えていた。


 カルディオスが自分の恋人を手に掛けたことを、コリウスは未だに知らないけれど。



 ――六人のうちの誰かが欠けるということは、そういうことだ。



 俺たちはばらばらの状態では不具で、不完全で、どうしようもない。

 支え合って生きていて、皆が皆、お互いを無意識のうちに頼っているから。


 しばらくの間の別行動ならまだしも、誰かを強制的に奪われたり、もう会えなくなったり、そんなことは考えもしないし考えたくもない。

 生まれると同時に全員がお互いを目指して動き始めて、死ぬ日は同じ。


 そうでなくては。


 いつから始まったのかもう覚えていない程に長い人生、ずっとずっとそうだった。



 というより――ここでコリウスに死なれたら、カルディオスに殺される云々の前に、俺も後追いするかも知れない。

 それでなくとも心が折れる。


 東の国境で救世主が二人死亡なんて報が届くと同時に、ガルシアでも何人か死ぬかも。

 俺としては、そこにトゥイーディアが含まれないことを祈るけれども。



 だから、本当に――どうか、どうか。



「コリウス――コリウス」


 もはや祈るように呼び掛けた。


 コリウスの手足の末端から、淡い光が明滅して消えていく。

 俺の魔力が尽きたのではないから、魔法が目的を達したはずだ。


 引いていく光は最後に、コリウスの心臓辺りで大きく脈打った。


 そうしてすうっと消えた光を見送って、俺は口調を強くして、コリウスの肩を揺らした。


 怖くて怖くて仕方がなかった。



 ――魔法が及ばない傷だったがゆえに、魔法が終わったのだったらどうしたらいい。



「――頼む。起きろ、コリウス」


 声を大きくする。

 叱りつけるような口調は恐慌の隠蔽だった。



 う、と小さく呻き声が上がって、コリウスの銀の睫毛がさざめいた。

 ゆっくりと瞼が上がる――濃紫の目が、しばし焦点の定まらない様子でぼんやりと揺れた。


「――――」


 心の底からの安堵に、俺は声を失った。

 胸の底で動いた感情が余りにも大きくて、泣きそうになった。



 ――目が覚めた。生きている。

 無事だった。



 息を詰める俺を、コリウスがゆるりと見上げる。


 そして何か言おうとして口を開き――声の出ない様子で咳き込んだ。

 慌ててコリウスの背中を擦ろうとする俺を制すような仕草をして、コリウスの視線がふらりと動いた。


 その濃紫の目がアリーを見て、ふ、と眼差しが緩む。


 気を失う寸前、コリウスが何を考えていたのかがよく分かった。



 全身の内側が傷つき、文字通り血を吐く苦悶の中でなお、こいつはアリーの無事を案じていたのだ。



 そう認識した瞬間に、俺の耳がアリーの声を捉えた。

 恐らくアリーはずっと泣きながら何か言っていたんだろうが、まるで聞こえていなかったのだ。


 今もアリーはしゃくり上げるばかりで、声は言葉を成していない。


「――アリー、コリウスは大丈夫だ」


 ようやくアリーに向けてそう言って、俺は視線をコリウスから引き剥がした。


 俺にぐったりと凭れるコリウスは、消耗し切った様子ではあったものの、緊迫した命の危機の中にはないように思えた。


 座り込んだアリーを見る。

 ざっと見たところ、怪我をしている様子も痛がっている様子もないが、念のために、言葉に出して尋ねた。


「おまえは、怪我はないか」


 ぼろぼろと泣き、真っ赤になった頬を掌で擦りながら、アリーが首を振った。

 しゃくり上げ、肩を震わせながらも言葉を吐き出す。


「な――な――ないぃ……」


「そうか、良かった」


 そうとだけ答えて、俺はコリウスにもう一度視線を向ける。

 シャツの袖でその顔を拭いてやろうとしたが、やめた。俺のシャツで拭った日には、コリウスの顔がいっそう血塗れになる。


 俺の挙動から、俺が何をしようとしたのか察したのか、コリウスがゆっくりと、重たげに、自分の手を持ち上げた。

 そうして掌で顔を拭い、そこに付着した血液を、しばしじっと見た。

 何を考えているのかは分からなかったが、動揺のない表情だった。


 それから、ゆるりと視線を動かし、コリウスが訝しげに俺を見た。


「――――」


 俺は声が出なかった。


 ――何をこいつが怪訝に思っているのかは分かる。

 逆の立場であれば、俺も真っ先にそれを訊いただろうから。


 胸が痛い。

 罪悪感に、心臓が潰れそうな圧迫感が圧し掛かる。


 それを必死に呑み下し、俺はやっとの思いで言葉を押し出した。


「……――コリウス、立てるか。支えるから、戻ろう」


 促す俺に、コリウスが銀色の柳眉を寄せる。


 そして口を開こうとして――黙り込んだ。



 ――俺は、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。

 至近の距離にあるコリウスの目には俺の顔が映って見えただろうが、自分自身で目を逸らしていた。


 でも恐らくは、コリウスに状況を教えるに足る顔をしていたんだろう。



 コリウスが息を吸い込んだ。

 傷を憚るような、細い息の吸い込み方だった。


 目の色が翳ったが、それでもその瞳には理解があった。

 俺が何を考えているのか、こいつは察してくれたんだろう。



 ――こいつはアリーに、誰が彼女を捜しにここまで来たのか、言っただろうか。



 アリーは知らない。

 アリーは、この近くにシャロンさんが来ていたことを知らない。コリウスがそれを告げていなければ。

 シャロンさんがこの近くに来ていることを知らないのであれば、ここから俺たち三人だけで集落へ戻ることに、疑念など抱くはずもない。



 ――そうであれば、アリーはシャロンさんの訃報を知らずに済む。



 コリウスが口を開いた。

 今度は咳き込まなかったが、声は低く掠れていた。


「――ああ。ルドベキア、一人で大変だったんだな」


 俺は息を止めた。

 ――コリウスは、アリーにシャロンさんの動向を伝えていない。


 それを言外に俺に教えるために、コリウスは敢えて、「一人で」と言ったんだろう。


 止めた息を無理やりに吐き出して、俺はアリーの方を向いた。


「――アリー、みんな心配してたぞ。俺はさすがにおまえまでは抱えられないから、一人で歩けるか?」


 こくこくと頷き、なおも大粒の涙が転がり落ちる頬を拭いながら、よたよたとアリーが立ち上がった。

 膝が震えているのが俺から見ても分かる。


「ご――ごめんなさい……」


 小さな震える声でそう言われて、俺は強いて明るい声を出した――そんな声を、俺自身がどこか遠くに聞いていた。


「帰ったら怒ってもらおうな」


 アリーが、栗色の目でじっと俺を見上げた。

 俺は努めて平静に、いつも通りに、ちょっと怒っているように、その目を見詰め返した。


 そろり、とアリーが口を開く。


「……兵隊のおじさんも、怒ってた……?」


 俺は一秒、固まった。


 兵隊のおじさん――シャロンさんのことだ。

 硬直は俺の舌を根元から冷やしたが、それも一秒のみだった。


 すぐに俺は溜息を吐く仕草を見せる。


「ああ、ちょっとだけな」


「怒られちゃう……」


 しゅんとした声でアリーが呟き、俺はその場で絶叫したくなった。



 ――違う。シャロンさんはおまえを怒ったりしない。

 ()()()()()()()()()()

 もういないから。()()()()()()()()()()



 ぐ、と横腹をコリウスの肘で押されて、俺は必死になって声音を保った。


 コリウスの濃紫の目が、紛うことなき案じる色で、俺を映して顰められている。


「……そうだな。じゃあ、行こう。――コリウス、おまえがぶっ倒れたりするから、アリーが怖がってるじゃねえか」


「失敬な。おまえたちが頑丈なだけだ」


 コリウスが俺に調子を合わせる。


 多分、また痛みは引き切ってはいない。

 それでも、しゃんとした声で俺と言葉の応酬をしてくれている。


「頑丈だってさ。アリー、褒められたぞ」


 軽い口調を保つ俺は、コリウスの腕を俺の肩に掛けさせた。

「せーの」と声を掛け、コリウスを立ち上がらせる。


 僅かによろめいたものの、コリウスは俺に縋って立ち上がった。


 そのときになってようやく、俺の格好が尋常でないことに気付いたのか、アリーが大きく目を見開いた。


「――ルドベキアさん、どうしたの?」


 俺は顔を顰めてみせた。

 自分がどんな顔をするべきか考えて、その通りに顔の筋肉を動かした。


「どうしたの、じゃねえよ。まったく、途中でコリウスに放り出されて、こっちは散々だったっての」


 ふう、と息を吐いて、俺はアリーに顎をしゃくった。


「はい、ほら。アリー、先を歩いて」


 こくん、と頷き、踵を返して歩き始めたアリーだったが、ものの三歩目で俺たちの方を不安げに振り返ってきた。

 苦笑して、俺は頷く。


「――やっぱり、アリー。コリウスの反対側を歩いてくれ。こいつ、ふらふらしてるから支えてやって」


 ごしごしと顔を擦って、アリーが大きく頷いた。


「うんっ!」


 俺と二人でコリウスを挟む位置に、とたとたと走って来たアリーは、恐怖と緊張の糸が切れたのか、堰を切ったように話し始めた。



 ――トムに花があると言われて集落を出たこと、背の高い茂みに入った辺りで方向が分からくなって迷っていたこと、彷徨っているうちにレヴナントが見えたこと。

 レヴナントの近くに人がいるのが見えたので、そちらに向かって走って行ったこと。

 そこでコリウスに守られていたこと。

 コリウスが見たこともないような大規模な魔法で地面に割れ目を作り、レヴナントをそこに落っことしたこと。

 それにはしゃいでいると怒られたこと。

 レヴナントは割れ目に落とされてなお動いたこと。


 二体目のレヴナントが出てびっくりして泣いてしまったこと。

 そのレヴナントは別のところを目指して歩いて行ってほっとしたこと。

 離れたところで爆音が聞こえてきて怖かったこと(間違いなく俺の戦闘の音だ)。


 レヴナントにとどめを刺し切れないまま、〈呪い荒原〉に少し近付いたところでコリウスが盛大に血を吐き、思わず悲鳴を上げてしまったこと――



 ――コリウスも俺も黙っていたが、恐らく内心では同じことを考えていた。


 つまり、コリウスが〈呪い荒原〉に対して、余りにも顕著に影響を受け過ぎているということ。

 俺たちは〈呪い荒原〉に頻繁に近付くほど馬鹿でもなかったから、これまでの人生で、〈呪い荒原〉の近くにこれほど接近したことはない。


 俺は大丈夫だった。

 つまり――もしかして、救世主は〈呪い荒原〉に顕著な影響を受けるのかも知れない。

 魔王は逆に守られるのかも知れない。


 検証のしようもないことだけれど。



 それにしても、アリーの話を聞いているだけでコリウスの苦労が偲ばれる。

 あちこちへ動こうとするアリーから目を離せなくて、相当肝を冷やしたに違いない。


 それでもあの一瞬に、二体目のレヴナントの出現を警戒するよう火花を飛ばしてくれたのだから恐れ入る。

 俺ならもしかしたら、アリーを抱えて逃亡していたかも知れない。

 コリウスが仮に逃亡していたとしたら、俺は二体のレヴナントを全く同時に相手取らねばならなくなって、さすがに詰んでいたかも知れない。



 ――アリーの話は続いている。


 血を吐きながらもコリウスが自分を守ってくれたこと。

 何がなんだか分からず怖かったこと。


 しばらくするとレヴナントが離れて行ったこと。

 アリーが叫んだりしてレヴナントの気を引いてしまわないように、コリウスがずっとアリーの口を押さえ込んでいたこと。


 また遠くの方で爆音が聞こえて、怖がるアリーにコリウスが、あれはルドベキア(おれ)の魔法だと教えてくれたこと。


 動くに動けぬコリウスと一緒に身を潜めていることしばし、コリウスが気を失って、怖くなってまた悲鳴を上げてしまったこと――



「ルドベキアさんが来てくれて、ほんとにすっごく安心したのよ!」


 幼いというのは偉大だ。

 相当怖かっただろうに、アリーはもうけろっとした顔をしている。


 とはいえまだ風が吹いて茂みが揺れたりすれば、その音にすらびくっとしているので、恐怖を忘れたわけではないだろう。

 安心した反動で、たぶん自分でも何を言っているのかよく分からないまま、思い付いたことをひたすら喋っているんだろうな。


「そうかそうか」


「お花も全然見つからなかったし、トムってば嘘を教えたんだわ!」


「どうだろうな」


「ルドベキアさん、あとでトムのこと怒ってくれる?」


「まずはおまえだ、馬鹿。〈呪い荒原〉は危ないとこだって教えてもらわなかったのか」


 説教する自分の口調を、俺はやっぱり遠いところに聞いている。


 コリウスはずっと黙っていたが、時折案じるような視線が自分を掠めるのを、俺は感じ取っていた。


「それは教えてもらってたけど……」


 むぅ、と顔を顰めるアリー。

 集落に帰り着いたあと、散々に怒られる自分を想像したのか、ちょっと涙目になっている。



 ――俺はその顔をまともに見られなかった。


 アリーの想像の中では、シャロンさんもアリーを叱る面々の中に入っているだろう。

 でもそれは出来ない。


 シャロンさんはもういない。()()()()()()()()()()



「――あっ、ねえっ、ルドベキアさん!」


 くるくると表情を変えて、アリーは日頃よりずいぶん早口に俺を呼ぶ。

 やっぱりまだ、パニックも恐怖も頭のどこかに残っているのか、声も少し高かった。


「あのおっきいレヴナント、ルドベキアさんがやっつけたの?」


 ゆっくりと息をして、俺は自然な声音を最大限保った。


 ――大丈夫、こんな子供一人に、俺の誤魔化しが看破されるはずもない。

 良くも悪くも、俺は人生経験を積み過ぎた。


「ああ、そうだよ。お陰でこの様だけどな」


「ルドベキアさんすごーい……」


 素直な煌めく眼差しを、俺はとてもではないが受けられない。


 前だけを見る俺に何ら不自然なものを感じた様子もなく、アリーは慌てたように付け加えた。


「救世主さまもすごかったと思います!」


 たどたどしい、丁寧になり切れない口調に、俺は笑い声を上げてみせた。

 そこまで自然にこなせる自分を嫌悪した。


「救世主さまじゃあ、誰を呼んでんのか分かんねぇぞ。

 こいつはコリウス。でもお偉い人の息子さんだから、閣下とでも呼んでおこうな」


「ルドベキア、おまえ」


 コリウスが俺に調子を合わせて、窘めるように俺を呼ぶ。

 アリーは目を瞬かせて、それから首を傾げてきょとん、と。


「……かっか……?」


「そうそう」



 そんな馬鹿なことを言いながら、俺たちは往路に比べて何倍もの時間を掛けて、ゆっくりと集落に向かった。


 アリーの住む集落は、最も町に近い集落だ。

 途中で幾つもの集落を通り、あるいは迂回して、俺たちはじれったいほどにゆっくりと帰還しつつあった。



 日はとっくに中天を過ぎて、今は西に近い。

 地平線まではまだ間があるものの、俺は内心で気が気ではなかった。


 ――シャロンさんは……シャロンさんの身体は無事か。

 アリーに見せるわけにいかないから、それに、さすがにシャロンさんを運ぶことにまでは手が回らないから後に回した。


 その判断は正しかったか。

 シャロンさんがなおも傷つけられることになってはいないか。



 集落を通る度に、「救世主さまだ!」と声が掛かる。

 その都度、俺たちと並んで歩くアリーがちょっと胸を張るのを、いつもなら微笑ましいと思って見ていただろう。


 ――今はそこまで気が回らない。

 何でもない風を装って笑顔を向けるのが精一杯。


 コリウスの様子も俺の様子も尋常でないから、「何があったんですか!?」と度肝を抜かれたような声も掛けられる。

 俺はそれにも笑って、「レヴナントが二体ですよー、信じられます?」と応じる。



 ――へらへら笑っている自分に吐き気すら覚えた。



 レヴナントが、人一人の手には余るというのは周知の事実。

 だからこそ、レヴナントが二体出たということは、救世主一人あたり一体を片付けたと推察されたのだろう、「さすがですね!」と声も掛けられたが、俺は聞こえない振りをした。



 ――さすがなんかじゃない。他の誰かがあの場にいれば、結末だって変わっていたかも知れないのに。



 コリウスが俺を見る目に、気遣わしげな色が増すのを感じたが、そんな目で見られる権利は俺にはない。

 それすら勿体ない。


 心からそう思う。



「ルドベキアさん、いっぱい褒められたねぇ」


「ああ、そうだな」


「あんまり嬉しくないの?」


 無邪気に尋ねられて、俺は息を吸い込んだ。


「――疲れたんだ」




 身体中で内部から出血したばかりのコリウスと、まだ子供のアリー、そして言うまでもなく重傷を誤魔化す俺の三人は、西日の中でゆっくりと戻るべき集落に近付いて行った。




 斜陽の中に戻るべき集落を見付けると同時、そこからわっと声が上がったのが聞こえた。


 俺たちは足を止めた。


 ――集落から、我先にと駆け寄って来る人たちがいる。


 その中には無論のことアリーのお母さんもいて、母親を見分けたアリーは、前のめりになって飛び出した。


「――お母さんっ!」


 先程までの歩調が嘘のように、競走でもしているかのような勢いで母親に向かって突進していくアリー。

 号泣しているトムやカイ、ジェーンも見えた。


 母親に抱き着き、危うくそのまま転ばせそうになったアリーの周囲に、集落の人々が集まって声を掛け始める。



 その一方、俺とコリウスの方へは、一目でそれと分かる軍籍の人々が駆け寄ってきた。

 先頭に立つのはアーノルドさんで、俺とコリウスを見て、むしろぽかんとした顔をしていた。


「お戻りで……遅いのでこっちも気を揉んでいたところでして……」


 駆け寄って来るなりそう言って、アーノルドさんは俺とコリウスの格好を上から下までまじまじと見た。

 見た目が派手なことになっているのはどっちかというと俺だから、視線も俺の方に長く割かれた。


 あっと言う間に軍籍の人たちに取り囲まれた俺は、ここまでずっと支えていたコリウスの腕を肩から外した。

 途端によろめくコリウスを、有無を言わせず手近な人に押し付ける。


 突然救世主を支えることになって、押し付けられた側も泡を喰った顔をした。


「――きゅ、救世主さま……」


「ルドベキア」


 コリウスが、眉を顰めて俺を呼んだ。



 俺はそちらの方は見られなかった。


 心配の視線を向けられているだろうことが、耐え難いほど申し訳なかった。



 アーノルドさんはコリウスを見て、それからまた俺を見た。

 その表情が露骨に、事態の理解が出来ていないことを訴えるものだった。


「――ルドベキアさま、何があったんですかい? そんな血だらけで……。

 それに、――()()()()()()()()()?」


 俺は息を吸い込んだ。

 そして、もはや隠しようもなく低くなった声で囁いた。


「申し訳ありません、コリウスをしばらくお願いします。〈呪い荒原〉に近付き過ぎました。応急処置はしましたが、まだ完全じゃないかも知れない。俺が戻って来たらきちんと治療をしますから、それまでここにいさせてください」


「それは勿論……。しかし、ルドベキアさま」


 アーノルドさんが眉を寄せ、頭を掻いた。そして、首を傾げた。


「シャロンはどこに? あいつ、どっかをふらふらしてんですかい?」



 首を振って、俺はその場で膝を突いた。


 ――この場での俺の姿勢は、軍人の人垣が壁になってアリーたちの方へは見えない。



 驚きの声が波紋のように広がる。

「ルドベキア」と、もう一度、責めるように俺を呼ぶコリウスの声が聞こえる。


 ――全部聞かなかったことにして、俺はそのまま、深く頭を下げた。


「……シャロンさんは――」


 みっともなく声が震えることを予期したが、小声は真っ直ぐに喉から出た。

 ただ、妙に平坦だった。


「申し訳ありません。――守れませんでした」


 愕然としたどよめきが上がる、その一瞬前に、俺は必死になって、小声で言い募っていた。


「お願いします、後ろに――近くに、子供がいます。

 しばらくは隠してください、お願いします」


 軍人たちが一斉に声と息を呑み込んだ。


 僅かな間を置いて、アーノルドさんが呟くように尋ねた。


「……それで、シャロンはどこです」


 立ち上がり、俺は顔を上げた。


 アーノルドさんの顔には――そして周囲の軍人の顔には、怒りの色はまだ見られなかった。

 ただ、各々が愕然とした顔で俺を見ていた。



 ――俺が、救世主の役割に泥を塗った。


 ――こんなんじゃ救世主を名乗れない。



 それを突き付けられるようにして感じ取りながら、俺はもう一度頭を下げた。


「本当に申し訳ありません。――一緒にお連れできなくて、……迎えに行きたいので、お願いします、どなたか手を貸してください」


 即座に反応したのはアーノルドさんだった。

 周囲を見渡し、辺りを憚る低声で指示を出す。


「――俺が行く。あと、ローラン、ケイリー、手を貸せ。

 残りはここで、特にあの子たちにはシャロンの不在を隠し通せ」


 はい、と折り目正しい返答があって、ローランとケイリーと呼ばれた若者が進み出る。



 その中で、俺はコリウスに近付いて軽く彼の腕を叩いた。


「――コリウス、ちょっとここで待っててくれ。戻って来たらちゃんと看るから」


「ああ」


 呟くようにそう答えて、それからコリウスは、頭を傾けるようにして俺の耳に顔を寄せた。

 そして、極めてきっぱりと囁いた。



「何があったかは後で訊く。だが、ルドベキア。

 ――おまえが責められたらそのときは、僕からだと思って一発殴れ。僕が許す」



 ――コリウス。


 泣きそうになりながらも涙は出なかった。

 俺は唇を噛んで首を振ったが、ぎゅっと一度、強くコリウスの腕を掴んで気持ちを伝えた。



 ――経緯が分からなくても、状況を見ていなかったとしても、こいつは俺が全力を尽くしたと信じてくれる。



 心配も気遣いも案じる気持ちも、今の俺には余りにも勿体ないものだったが、その信頼だけは受け取っていい気がした。



 これは、この信頼は、俺たちがこの何百年という人生を共にすることで築き上げてきたものだ。

 お互いを長年に亘って見てきたその上で、コリウスが俺という人間に置いた価値だ。



 簡単な感謝の言葉も出なかったので、俺は頷いて、踵を返した。


 そして、こちらを――案じるような、疑うような――そんな目で見るアーノルドさんの瞳を見て、言った。



「――案内します」















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ