09◆ 現在地不明、ゆえに絶望
翌日、日が高く昇ってから目を覚ました俺は、まずいの一番に火を起こして服と靴を乾かした。
湿り気の取れた服を着て一息。
これで寒さは大分マシ。
その後、靴は脱いだままで手に持って、いそいそと砂浜まで降り、湿った砂に足が沈むのを楽しみつつ、海岸線をぐるりと回って俺が漂着したと思しき場所まで歩いた。
言わずもがな、物資の回収のためである。
俺が持っている食糧が流されてしまったのである。
万に一つの可能性ではあれ、同じ場所に荷物が流れ着いているかどうか、確認しないのはまずいだろう。
海岸線を歩きながら、ここが大陸なのか島なのかを考えていたが、決め手になる情報が得られない。
ここが島だとすれば、延々と海岸を歩き続ければ一周できるのだろうが、さすがにすごい距離になってしまう。
一方ここが大陸だとしても、大陸に何回も生まれ落ちている俺とはいえ、大陸の海岸を全部知っているわけじゃない。判断がつかない。
白い砂浜に足を埋めながら、波とは少し距離を置いて歩く。
今が夏だったら海に踏み込んで遊んでいただろうけど、なにせ冬だからね。
吹く風は潮の匂い。
周囲には人っ子一人いなくて、聞こえる音と言えば波の音と風の音、そして海鳥の鳴き声だけ。
――平和だ。
久々の陸地に気分が上がりまくった俺は、無意味に砂を蹴立ててみたり、屈んで砂を手に取ってばら撒いてみたりと一人遊び。
いやあ楽しい。みんながいれば最高だったんだけど。
砂浜を少し内陸側に進めば、俺が地下から出てきた場所と同様に岩がごろごろしている岩山に入るわけだが、歩いていくうちに徐々にその岩山が範囲を広げ、海岸は砂浜から岩場へと様子を変えた。
靴を履くのも面倒なので裸足のまま岩の上に飛び乗る。
高く昇った日に温められて、岩の表面は微かに熱を帯びていた。
でこぼこした岩場を渡りつつ、俺は思案深げに独り言ちる。
「……打ち上げられた場所もこんな感じだったな」
嵐に翻弄されて朦朧としている中で見ただけだったので、断言は出来ないが。
ひょいひょいと岩山を渡って、海岸ぎりぎりの岩に登って海を見下ろす。
白く弾ける波が岩壁にぶつかって跳ね返っていく様が見えた。
陽光を受けて煌めく海は、僅かに緑がかった色に見え、透き通って底まで見通せる。
陸地付近の海底は浅く、潮が引けば露出するのかも知れない。
そんな海底を水面越しにじっと見た俺は、右を見て、左を見て、溜息と共に肩を落とした。
「――そんな簡単に見付からねえかぁ……」
荷物を手放したのがどのタイミングなのかも、俺はよく覚えていない。
嵐の勢いが増してきてからは握っていた覚えがあるが、筏が壊れた辺りからの記憶が曖昧だ。
――まあ、客観的に考えれば荷物は今ごろ海の真ん中で漂流中だよな……。
受け容れざるを得ない現実を見据えて、俺は思わず低く呻いた。
――これからどうしよう。
食べ物はおろか、飲み水まで失ってしまった。
空腹はもはや痛みのレベル。喉が渇き過ぎて頭痛がする。
〈無から有を生み出すことはできない〉と絶対法に定められている以上、どこからともなく食べ物を出してくるなんてことは、俺の魔法を以ても不可能だし、〈あるべき形からの変容はできない〉と絶対法に定められている以上、その辺の石をパンに変えるなんてことも不可能なのだ。
かなり、やばい状況かも知れない……。
こんなときカルディオスがいれば、と、俺は暗褐色の髪の昔馴染みを思う。
魔法では、世界の法を変えることしか出来ないが――そして絶対法には触れることすら出来ないが、俺たち救世主は、予め定められた方向性で絶対法を超えることが許されている。
正当な救世主の座にあるとき、それは顕著に顕われる。
だが一方で、救世主の座にないとき――準救世主であるときも、微妙に世界の法を超えることが許されている気がするのだ。
転生という形ではあれ、毎回同一人物として復活して人生を続けていること、そして俺たちの固有の力――それぞれの得意分野――他の魔法を使うときよりも断然に少ない魔力で折り紙付きの威力を発揮する、予め俺たちに与えられた、〈変えることが出来る世界の法の枠〉。
カルディオスの固有の力はリスクも大きいが非常に便利で、俺が今置かれているような状況では活躍待ったなしの能力だ。
カルディオスとディセントラ、アナベル、そして前回救世主だったあいつは、準救世主のときでさえ絶対法を僅かに超えることを許されていると思える固有の力を持っている。
大抵みんなは、救世主の地位にあるときには、それぞれの固有の力に何かしらのおまけが付くか、あるいは固有の力が強化されるか、あるいは別方向の固有の力を授かる。
たとえば俺。
熱を司る固有の力が、準救世主の地位にあるとき――つまり今――ですら頭打ちに強力なもんだから、救世主に選ばれたときには別方向の力を授かる。
我ながら狡いくらいの能力で、相対した相手の時間を支配下に置くという能力。
極めて限定的な範囲ではあるが、絶対法をあからさまに超えている能力だ。
あれはいい。喧嘩では負けなしだった。
何しろ相手が何が起こったか分からないでいるうちに、一方的にボコれるから。
まあ、そんな能力を以てしても魔王を倒せたことはなかったんだけどな。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺はこの絶望的な状況を打破するべく、靴を履き直しててくてくと内陸に向けて歩を進めていた。
この島だか大陸だか、とにかくここは、目に映る範囲では海辺から内陸に向けて、傾斜を描いて土地が高くなっている。
海岸からしばらくは岩山が続き、やがて鬱蒼とした森に入ってこんもりとした山になっているのだ。
この状況、まずは飲み水を確保しなければ俺は死ぬ。
森に入れば湧き水の一つもあろうという算段だ。
ついでに何か獲物がいれば狩っておきたい。
ごつごつと足場の悪い岩山を登り、わさわさと灌木の生い茂る森に突入。
魔界で抜けた森とは違って、幹の細い木が目立つ。樹齢が若いのか、あるいはそういう種類なのか。植物に疎いから俺には分からない。
この近辺には本当に人が住んでいないのか、道の一つもありはしない。
灌木が切り拓かれて道っぽくなっている箇所があると思ってそこを進むと、やはりというべきかそれは獣道。
ばったり野生の猪に遭遇して肝を潰した。
本当ならば仕留めて美味しく頂きたかったのだが、湧き水発見の方にばかり気を取られていて、俺はごくごく平和的に猪をやり過ごした。
喉の渇きは相当に切羽詰まっている。目が血走っているのが自分でも分かった。
これだけ植物が生い茂っているのだから、水がなきゃ詐欺だろう。
必死になって探し、夕方近くになってようやく湧き水を発見した。
窪んだ地面に滾々と湧き出る水を見た瞬間の安堵は計り知れない。
まずは指先で掬って少し舐めてみて、塩分が含まれ過ぎていないか確認。
その後は両手で掬ってがぶ飲みした。助かった。
――なんとか喉の渇きを癒した俺は、冷静になって現在の状況を再確認した。
まず、現在地が全く分からない。
ここが大陸なのか、それとも大陸と大陸の間、少し南側に張り出して広がる諸島のうち一つなのか、それすら分からない。
手持ちの食糧はゼロ。
飲み水は発見した湧き水のみ。
――あれ、詰んでる?
思わずそう考えてしまったが、いやいやと首を振って考え直す。
俺は準救世主、こんなところで人生が詰むわけがない。
やっとここまで来たのだ、必ず帰ってみせる。
言い聞かせる思考は必死。
何しろ客観的に見れば詰んでいる。
まず、現在地の把握。
これはなかなか厄介だ。
まずここが大陸なのか諸島の一つなのか、そこから見当をつけないと。
食糧と水は、この森でなんとか調達するしかない。
なんとかして……なんとかして。
――なんだかなあ。
湧き水の辺に座り込んで、斜陽も木々に遮られる暗がりで、俺は独り重い溜息を零した。
――なんでこんな苦労してるんだろう。
俺はただ、あいつらのところに帰りたいだけなのに。
「帰りてぇ……」
弱音を吐くと同時、ぐう、と俺の腹が鳴った。
飢え切っていて疲労の限界で、服も靴ももうぼろぼろで、髪も伸びてぼさぼさで、惨めなことこの上ない。
もうこのまま、一生みんなと再会できずに死んでいくんだろうか。
なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
寒さがまた暗い気分に拍車を掛ける。
――深刻に、俺は絶望の淵に立っていた。
絶望の淵に立ち、翌朝、夜明けと同時に俺は目を覚ました。
凍りそうな寒さで、眠りながらも俺は震えていたらしい。
真っ赤を通り越して紫色を呈している指先に、はぁはぁと息を吹き掛けて、僅かながらも暖を取る。
痛いほどの冷たさに耐えて湧き水を掬って喉を潤し、火を熾して身体を温めた。
寒さに耐えようとする身体は、あちこちに力が入りっ放しになっていて、身体の節々が痛んだ。
つらい。
その後、相変わらずの空きっ腹を抱え、ふらふらと森を抜けて海岸に戻る。
そのまま、特に何をするでもなく岩場に座り込み、ぼんやりと潮風に吹かれながら海を眺めていた俺だったが、どうやら運に見放されてはいなかったらしい。
朝靄の這う海面を憂鬱な気分で見詰めていた俺の目が、朝靄が不自然に流れていくのを捉えた。
なんだ?
心持ち警戒して腰を浮かせていると、やがて、朝靄を割り開いて船影が近付いてくるのが見えた。
感想などございましたらお恵みください……