25◆ 思慕という呪い
『――ねぇきみ、先に私と再会したこと、忘れてない? なんか、最初に再会したのがディセントラだったみたいな喜びようね。
何度も喧嘩はさせていただいてたから、私の存在にはさすがに気付いてたと思ってたけど、違った?』
――これが、過去にトゥイーディアに言われた嫌味である。
彼女は苦虫を噛み潰したような表情で、「会いたかった!」と互いに抱擁を交わしたディセントラと俺を見ていた。
あのときは、俺は生まれて早々に親を亡くし、剣奴として闘技場に売られていた。
尤も、その境遇も別に俺からすれば悲嘆の対象にはならなくて、むしろ名を上げる機会と捉えていたくらい。
名を上げておけば、他のみんなに俺の居場所が早く伝わって、合流が早まることは自明の理だからね。
奴隷の脱走となれば大事になるから、誰かと再会した後に脱走したいなあと思っていた。
誰か俺の噂を聞きつけて迎えに来てくれないかな、と思いつつ、俺は弱冠十二歳にして連戦連勝、大いに闘技場の売上に貢献し、野次や歓声の中で毎日を過ごしていた。
そんなある日、観衆の中にトゥイーディアを発見したときの俺の歓喜たるや。
誰かが来てくれただけで嬉しかったというのに、それがトゥイーディアだったのだ。
嬉しさ余って心臓が止まるかと思ったね。殺伐とした闘技場の景色が、その瞬間に楽園に見え始めたくらいだ。
トゥイーディアはトゥイーディアで、再会したのは俺が最初で、救世主仲間との再会というだけで嬉しかったらしい。犬猿の仲とは思えないほど嬉しそうに俺に向かって手を振ってくれていた。
当時、あいつは十五歳。
あいつはその場でちゃっかり俺に賭け(まあ、そのときには俺が異様なくらいに腕が立つことは知れ渡っていたから、倍率としてはそれほど良くなかっただろうが)、有り金をちょっと増やしてから、真夜中に剣奴の牢屋(実際には牢屋ではないんだけど、扱いとしては牢屋に等しかった)に来てくれた。
俺は淡白な会釈ひとつで挨拶を済ませたものの、あいつは俺のそれまでの境遇に大いに憤ってくれたし、あれこれあって拵えていた俺の怪我一つ一つを、勿体ないほどに心配してくれた。
俺からすれば、心配の言葉を掛けてもらえたというだけで、今まで俺に怪我をさせた全員に対する感謝が募ったくらいだった。
その場で他の剣奴にも逃走するよう勧めて――いやほんと、あいつが通り過ぎた牢屋の鉄格子が次々にへし折れていく様は圧巻だった――、俺たちはめでたく脱走した。
俺は、出来ることならめちゃくちゃトゥイーディアに抱き着いて彼女を褒め称え、お礼もめちゃくちゃ言いたかったところを、口に出せたのはただ一言、「まともな服が欲しい」それだけだった。
それからディセントラや他のみんなと再会するまでの間、俺はトゥイーディアと二人で過ごしたが、まともな会話が成立したのは一回か二回だけだった。後は会話の後に罵詈雑言がくっ付くような有様。
何なら、立ち寄った町で俺とあいつが恋人同士に間違われたとき、トゥイーディアが「もう面倒だしそれで通そう」みたいな顔をする一方で、俺が「訂正しろ!」とガチ切れしたせいで、乱闘騒ぎになったこともあるくらいだった。
トゥイーディアは乱闘の中で頭を抱えていたっけ。
そんなだから、やっと再会したディセントラ相手に俺がごく普通に感激の挨拶を交わしたのを見たときの、トゥイーディアの心境は察するに余りある。
ディセントラがトゥイーディアの顔を見て、「イーディ、顔色悪くない?」と尋ねた瞬間に、俺の心は罪悪感で死に掛けたけどね。
――誰にも知られていない、気付かれた例のないことがあるのだ。
例えば――山越えの最中に猛吹雪に遭い、慌てて山小屋に駆け込んでランタン一つの明かりを頼りに夜を過ごしたとき。
先に寝入ったあいつの顔を、頼りない灯火の中で俺が殆ど一晩中眺めていたこととか。
有り金が尽きた食糧難のときに、二人並んで――とはいえ、距離は三ヤードくらい開いていたけど――湖畔に座り込み、延々と釣り竿を垂らしていたとき。
大物にはしゃいだ挙句に躓いて湖に転落したあいつを見て、俺が一瞬本気で、湖を干上がらせようと考えたこととか。
湖面に顔を出したあいつを俺が大いに嘲笑し、それにぶちっと切れたあいつが俺まで湖に引き摺り込んだ結果、立ち泳ぎしながら大喧嘩に発展したときでさえ、俺が内心でめちゃくちゃどきどきしていたこととか。
まあ、その後五日間はお互いに口を利かなかったわけだけど。
釣り上げた魚を焚火で焼いて食べているときのあいつの顔を、俺が未だに鮮明に覚えていて、事あるごとに思い返していることとか。
安い酒場で食事中、酒を気付かず一口飲んでしまって撃沈した俺を、店の人に頭を下げて朝までそのまま置いといてもらったらしいとき。
朝になって目を覚まし、唖然としている俺が笑い転げる店主から話を聞き(「こんなに酒に弱いのは見たことがない!」と言われた)、横を見るとトゥイーディアがテーブルに突っ伏して寝ていて、伏せたその顔ですら愛おしくて愛おしくてならなかったこととか。
――そういう全部、知っているのは俺だけだった。
他の誰も、絶対に、俺がトゥイーディアに対して抱いているこの膨大な感情を、欠片ですら知ることはなかった。
今この瞬間までは。
――俺の目の前では、焼き払われた灌木の上に、いよいよレヴナントが立ち上がろうとしていた。
天を仰いで咆哮する巨体――だがもうそれにすら、俺は関心の半分ほどしか向けていなかった。
つい先ほど、俺は、代償に縛られるべき言動を自由に行った。
大いに気分はいいが、まずは落ち着こう――いや無理だ、落ち着けない。だが取り敢えず考えろ。
これが一時的なものなのか恒久的なものなのか確認しなければ。
コリウスにも恐らくは――というか間違いなく、代償があるだろう。
だからあいつにそれとなく確認しよう。
いや待て、本当に代償が消え失せたのならば、代償そのもののことも口に出せるのでは? それも確認しよう――。
しかし、それにしても、ああ、なんで。
なんでこのタイミングで代償が消えたんだろう。
なんで、俺がガルシアの、トゥイーディアのすぐ隣にいるときじゃなかったんだろう。
代償が解けたのが、恒久的なものであればいいんだが、もしもこれが一時的なものだったのだとすれば、それは口惜し過ぎる。
俺が気持ちを伝えるべき最たる相手、トゥイーディア本人に想いを伝えることが出来ないのならば。
トゥイーディアが今ここにいれば、声を大にして、全世界に向かって宣言するようにして、俺のこの何百年と溜め込み続けてきた――そして今なお、日々大きくなっていく気持ちを伝えることが出来たのに。
――伝えたら、あいつはどんな顔をするだろうか。
俺があいつに嫌われていることは重々承知しているが、それでもなお、俺が唐突にそんなことを言い出したら、あいつはどんな顔をするんだろうか。
驚くだろうか、迷惑そうにするだろうか。
あるいは信じてくれないだろうか。
揶揄っていると思って怒るだろうか。
あるいは苦笑して、婉曲に俺を遠ざけようとするだろうか。
あるいは、――本当にもしかしたら――俺のこれまでの言動の原因を察して、許してくれたりするだろうか。
あいつの飴色の目がくっきりと目に浮かんだ。
俺がこの長い人生で、焦がれ続けたあいつの瞳。
もしあいつが――あの目で俺を真っ直ぐに見て微笑んでくれたなら。
そして俺も、それを真っ直ぐに見詰め返すことが出来たなら。
――それは、どんなに。
レヴナントが咆哮する。腕を振り下ろす。
殆ど見もせずにその腕を炎上させて、俺は思わず低く吐き捨てた。
「――おまえにかかずらってる暇はねぇんだよ……」
いやマジで。
許されるならこいつは放り出して、コリウスと合流したい。
――ていうか、待てよ?
もしもこの現象が一時的なものであったにせよ、最悪、コリウスにさえ伝えることが出来れば、コリウスからトゥイーディアに伝えてもらえるのでは?
トゥイーディアは頭の回転が速いから、そうすれば絶対に俺の代償に気付くはずだ。
完璧だ。とっととコリウスと合流しないと。
炎上し、しとどに溶け出す腕を見て、レヴナントは耳を聾する絶叫を上げている。
それを眺めながら、俺は滅多にないくらいに頭に血が上っているのを感じ取っていた。
十割が焦りだ。さっきまでの比ではない。
この千載一遇の機会を、何とかしてものにしたい。
レヴナントが、残った片腕を俺とシャロンさんの頭上に向かって振り下ろしてきた。
俺は無造作に腕を振って、その腕をも素早く炎上させる。
爆音が轟き、それを上回るレヴナントの絶叫が耳を劈く。
――こいつには、攻撃を避ける知能はない。
ふう、と息を吐いて、俺は苛立ち露わに手を振り上げた。
ごっ、と、空気が熱で弾ける音が響いた。
激烈な熱の塊が、レヴナントの頭上に球状に白く凝る。
周囲の空気を歪ませて、その場の影すら蒸発させて、第二の太陽のように低空に君臨する。
シャロンさんが、俺の背後で唖然としているのが気配で分かった。
俺としても、ここまで大袈裟な魔法でこいつを仕留めるつもりではなかった。――当初は。
今は違う。今は何もかもが違う。
先程の代償の消失が、一時的なものなのか恒久的なものなのか確かめること、それが全てに優先する。
このレヴナントは“斃すべき目標物”ではなくて、“ただの邪魔物”だ。
――このときの俺が、いつも以上に頭が悪くなっていて、かつ視野狭窄を起こしていたことを否定できない。
何百年もの間、俺を苦しめ続けた代償が消え失せたのだということ、それを確信したくて仕方がなかった。
一言でいいからトゥイーディアに俺の気持ちを伝えることが出来れば、それはどんなに幸福なことかと、その想像で頭がいっぱいになっていた。
嫌われていてもいい。好きになってもらえなくてもいい。
気持ちを伝えたところで、受け容れられなくてもいい。
ただ俺が、どれだけあいつを好きかということ、どんなに言葉を尽くしても足りない程に大切に思っているのだということを、あいつに知ってほしかった。
あいつが怪我をすれば、その度に俺が心配しているのだということ、あいつが無理をすれば、その分だけ俺も辛いのだということ――そういうことを、あいつの記憶の片隅にでも留めておいてもらえれば、もうそれだけで良かった。
自分の願いがささやか過ぎることは十分に分かるけど、でもそれでいい。
それすら伝えられない何百年を、俺は過ごしてきたんだから。
――手を振り下ろす。
その刹那、俺はけたたましいアリーの悲鳴を聞いた。
◆◆◆
爆音が轟き、熱の籠もった爆風が吹き荒れる。
砂塵と灰が舞い上がり、視界は一気に曇った。
――レヴナントの上に、俺が熱の塊を落としたからだ。
大袈裟すぎる魔法は大袈裟すぎる結果を招いた。
爆炎と粉塵のために、もはやレヴナントの姿すら見えない。
が、絶叫すらも聞こえないことを思えば、消し飛んだと考えるのが妥当だろう。
――今はそれより気に掛かることがある。
代償のことでいっぱいになっていた頭に、ようやく少し隙間が出来た。
熱からシャロンさんを庇って後ろに下がりつつ、俺は咳き込むシャロンさんをちらりと振り返った。
「――今の、聞こえました?」
「はい」
ごほ、と咳き込みつつ、シャロンさんが頷いた。その緋色の目に危機感がある。
すぐにでも声が聞こえた方向に走り出したいのだろうが、視界が効かない状況を見て堪えてくれている。
ただし、声は緊張に張り詰めて震えていた。
「アリーの……、何かあったんでしょうか」
シャロンさんの、いっそ縋るような言葉に対する返答を保留にして、俺は掌を小さく動かした。
俺の魔力が世界の法を書き換え、空気に流れを生んで熱塊がもたらした砂塵と灰の霧を払う。
熱は速やかに収束し、辺りには真冬の冷たい空気が戻った。
視線の高さから徐々に晴れていく視界の中には、案の定レヴナントはいなかった。
頭上には舞い上がった塵がふわふわと滞留し、なお空も見えない有様だが、レヴナントは空を飛べないはずなので、上空に逃げたなんてこともないだろう。
こちらは片付いた――では、コリウスは。
アリーの声が聞こえた。子供の甲高い声だ、距離を跨いで通るとは思うが、それほど離れてはいないんだろう。
つまりコリウスは、アリーを連れて俺の方へ向かっていた――そう考えられる。
で、何があった?
視界が利き始めた瞬間に走り出そうとしたシャロンさんを、反射的に片手で止める。
何があったのか分からない以上、彼を先に立てるのは危険すぎるからね。
まだそのくらいの冷静さは残っていた。
「コリウスさまは――」
止められて、やや不満そうに言い差すシャロンさんに、俺は思わずがしがしと頭を掻いた。
「あいつに限って、すぐ近くにいるアリーを守り切れないなんてことはないとは思いますけど……、――今は心当たりがないこともないといいますか」
俺同様、コリウスの代償も消え失せたのならば、それに気付いたコリウスが他の一切を忘れ去ったとしても不思議はない。
コリウスの代償が何なのかは知らないから、それをコリウスがどれだけ負担に思っていたかは分からないが。
ぶっちゃけ俺は、俺が一番行動に制約を受ける代償を背負っていると思っている。
……いやでも、待てよ?
「――……ん? いや……」
――おかしい。
俺はたまたま、シャロンさんにトゥイーディアの話をしたから――その会話の流れだったから、代償が消失したことを知った。
だけどコリウスは?
例えば、ディセントラなら。
代償が消失したことを、彼女はどうやって知る?
ディセントラの代償は、〈仲間の誰かが必ず自分を庇って死ぬ〉というものだ。
代償が消えたことを確信するのは、俺たちの誰もディセントラを庇わず、その上でディセントラの一生が終わるときだろう。
つまり、死ぬまで代償の消失には気付けない。
トゥイーディアに至っては、自身の代償の有無は死んでなお分からない。
〈救世主を経験した直後の人生において記憶を失う〉という代償だから、今の彼女が――考えたくもないことだが――死んで、かつ転生した後でなければ代償の消失には気付けない。
コリウスの代償は何だ?
これほど素早く代償の消失に気付けるのか?
もしそうでないとしたら――
「……違う」
覚えず呟いて、俺はシャロンさんを振り返った。
シャロンさんの緋色の目に、唐突に湧き上がった危機感に強張る自分の顔が映って見えた。
シャロンさんの表情は元より固くなっていて、瞳が揺れている。
――コリウスがアリーを守り切れないはずがない。
であれば、アリーの悲鳴が聞こえたということは、コリウスに何かあったのだ。
あいつが代償の消失に気を取られたのでなければ、他に何か――
そのとき唐突に、頭上に滞留し続けていた塵の雲が引き裂かれて割れた。
――それに咄嗟に反応できたのは、間違いなく俺の人生経験ゆえだ。
何十回と殺されてきた経験が培った条件反射だ。
ばんッ! と凄まじい音が鳴り響き、俺は自分の防御が間一髪で間に合ったことを知った。
咄嗟に頭上で硬化させた空気は濁っていて、煙の色を孕んでいる。
それでも立派に盾として機能した、その不透明で小さな天蓋に、巨大な掌が叩き付けられていた。
――もはや何なのかは考えるまでもない、レヴナントの掌だ。
揺らめく輪郭に比して、不自然なまでにくっきりと象られた五指。
防がれたことが分かったのか、容赦なく力を込めてくる。
みしみしと盾が鳴る。ばきッ、と罅が入る音がした。くそ。
「――右へ!」
俺が叫ぶと同時、間髪入れずにシャロンさんが右へ飛び退いた。さすが軍人。
俺もシャロンさんに続いて右に飛び退り、それと同時に空気の盾を維持していた魔力の供給を打ち切った。
ぱりん、と儚く高い音がして、空気の盾が粉々に砕け散る。
陽光にあえかに煌めきながら、硝子片にも見える硬化した空気が散り――しかしすぐに、硬化が解けて周囲に溶け消えて見えなくなった。
同瞬、レヴナントが掌を翻す。
俺とシャロンさんを叩き潰そうとするかのように追ってくるその掌を、シャロンさんが更に飛び退って躱した一方、俺は躱すこともせずに熱波を撃ち出して迎撃した。
ぼッ、と低い音を立てて迸った真っ白な熱波を、レヴナントが手を引いて避けた。
――どォして……どォしてぇ……
呻くような、地を這う低い唸り声を聞き、俺は顔を顰めた。
――こいつ、そこそこ知能の高い個体だ。コリウスが一撃で仕留められていないのだから、そうだろうなとは思っていたけど。
――鬱陶しいな、次から次に。
そう思いながらも一応、シャロンさんの方へ視線は向けずに注意を促す。
「――シャロンさん、〈呪い荒原〉の近くです。あっちに近付き過ぎないようにしてください」
ただでさえ、既に〈呪い荒原〉との距離は幾許もない所まで来ているのだ。
はい、と折り目正しい返答を聞き届け、頷いた俺は苛立ちを抑えようと息を吸い込んだ。
濛々と立ち込めていた粉塵と灰の雲は、レヴナントの巨躯が動いた空気の流れを受けて、徐々に晴れつつあった。
そうして確保された視界の中、聳え立つレヴナントを見上げる。
身の丈はおよそ五十ヤード、見上げるばかりの高さ。間違いなくコリウスが討伐に向かったはずのレヴナントだ。
この巨体が近付いて来ることに気付かなかったとは、俺は相当周囲への注意を怠っていたらしい。
俺たちに向かって打ち据えられたのは右手だったが、それもそのはず、このレヴナントの左腕は、その根元から断ち切られていた。
人間でいえば肩に当たる部分にも大きな欠損があり、コリウスは相当こいつを痛めつけたらしい。
――それでもとどめを刺せていないのは、十中八九がアリーを庇っていたためだろうが――
「……コリウスは」
思わず低く呟き、俺はレヴナントを睨み上げた。
――本当に邪魔だ。
今は、今だけは、こんな奴が出てきていい間合いではなかった。
俺がこの長い人生で一番大きな期待を感じて、なおかつ一番焦っているときだ。
本当に邪魔で、邪魔で邪魔で仕方がない。
こんな奴に割いている時間なんてない。
それなのに。
――あああああ!
レヴナントが大きく頭を振って絶叫する。
それと同時に振り抜かれた掌を、俺は再び硬化させた空気で受け止めた。
がっ、と障害物に当たって止められた己が掌を、レヴナントがまじまじと見下ろす。
そんな挙動に付き合う義理もなく、間髪入れずに撃ち出した俺の熱閃を、驚いたことにこのレヴナントはなおも避けた。
とはいえ余波は喰らった様子で、ジュッ、と小さな音と共にレヴナントの側頭から細く煙が立ち昇る。
――ああああ!
ぱっかりと口を開けて絶叫し、レヴナントは目のない視線を俺に向けた。
その瞬間、爆ぜるような轟音と共にその足許が爆発する――言うまでもなく俺のしたことだ。
が、巨躯をふらつかせながらも、レヴナントはその場から飛び退いてそれも直撃を免れた。
レヴナントの着地そのものは、その巨体を思えば有り得ない程に静かなものだったが、踏み抜かれた茂みがばきばきと耳につく音を立てた。
爆発と共に舞い上がった砂塵と灰の中、レヴナントは大きく頭を振り、なおも絶叫。
ああああ、ああああ、と意味のない声を張り上げる。
「――くそが」
舌打ちが漏れた。こんなに苛立ったのは初めてだ。
――何の権利があって、こいつはここにいるんだ?
何の権利があって、俺の、一番大事なトゥイーディアに気持ちを伝えられるかも知れない、この千載一遇の機会を邪魔しているんだ?
何の権利で、何百年と報われなかった俺の恋をなおも止めようとしてるんだ?
「――ルドベキアさま」
俺の顔が相当凶悪なことになっているからだろう、シャロンさんが声を掛けてくる。
本当に申し訳ないが、俺はそちらを一瞥もしなかった。ただ吐き捨てるように伝えた。
「少し離れててください」
ざっ、と靴音がして、シャロンさんが俺の指示に従ったのが分かった。
焦りが過ぎて視野が狭くなっていることが自覚できる。
だが、それを拙いと思うことすら億劫だった。
左手の指を鳴らす。
それを合図にレヴナントの足許が再び爆発した。
どんっ! と腹に響く音が耳を聾する――が、なおもレヴナントは爆発の直撃を避け、今度は俺に近付く方向に跳び退いた。
舞い落ちる灰の中、レヴナントの巨大な足裏が地面に着くよりも早く、俺は、今度は肩の高さに上げた左手を振り下ろしていた。
爆裂音と共に、熱波が真上からレヴナントを打ち据える。
熱波の中で紅蓮の火花が光る。
――あ、
レヴナントの、ぱっかりと裂けたように開く口から絶叫が漏れ出す――しかし、それも一秒。
直後、舞い散る灰がかっと光った。
赤く光った灰が、一瞬ののちには凄まじい勢いで熱と光を伝播させていく。
周囲の灰が次々に引火する。
まるで空中に炎の鎖を引いたかのような光景が広がり、刹那――
爆音が轟いた。光と熱が吹き荒れた。
俺が焼き払って作った円形の広場を席巻し、空中で爆発的に広がった炎の渦が、壮絶な勢いでその場の酸素を喰い尽くそうと立ち上がる。
その勢いすら支配下において、俺は自分自身とシャロンさんの目の前で、他の魔術師では不可能な緻密さで、空気から熱を奪っていく。
その様はまるで、熱という熱が俺とシャロンさんを嫌って消え失せていくかの如く。
――あああああああ!!
爆炎の中、これまでで最大級の絶叫が上がった。
絶叫が聞こえてくるということは、レヴナントが消し飛んでいないということだ。
苛立ちの余り舌打ちを漏らし、俺はとどめの一撃となるべき魔法を撃ち出そうと手を振り上げた――
その瞬間、熱に巻かれたレヴナントが、倒れ込むようにして炎の中から姿を現した。
全身を焼かれ、溶け出そうとする巨躯を抱えて、なおも動く灰色の巨人が、がむしゃらに短い距離を突進する。
――俺は我に返った。
自分がどれだけ焦っているのかを自覚した。
これは、このレヴナントは、
「――シャロンさん!」
叫ぶ自分の声を、俺は脈打つ血潮の音の向こうに聞いた。
「――避けて!!」
声を張り上げながら腕を振って炎を呼び出し、自分自身もまた飛び出して、俺はレヴナントとシャロンさんの間に割って入ろうとした。
そう、このレヴナント、なんの偶然か悪意か知らないが、シャロンさんの方へ突っ込む形で突進したのである。
俺の方に突っ込んで来たなら捌きようもあったものを、こいつは――
俺の試みは半ば成功した。
二人してもんどりうって転んだものの、俺はシャロンさんとレヴナントの間に割り込むことが出来た。
咄嗟に呼び出した炎はレヴナントの顔面に当たる部分を打擲し、吼え猛るレヴナントがなおもその声を高める。
「シャロンさん、立てますか」
膝立ちになり、俺はレヴナントを見上げながらシャロンさんを急き立てた。
それと同時に、レヴナントの――もはや形を失いつつある右手が振り下ろされる。
ばんっ! と強烈な音が響き、俺が瞬時に硬化させた空気がそれを受け止めた。
シャロンさんは俺に気遣われるまでもなく、素早く起き上がり、立ち上がっていた。
軍人の体力と頑健さは伊達ではなかった。
レヴナントが咆哮する。
この至近距離にあって、眩暈すら覚える程の大音声。
繰り返しの強打を受けて、俺が硬化させた空気が軋む。
シャロンさんが身構える――だが俺は、全く別のことを気にしていた。
魔王ならば、レヴナントを防ぐことは造作なかろう。
守護にて絶対法を超えるのが魔王の地位に許された権能だ。
だが、俺たちはレヴナントを避けるために、〈呪い荒原〉までの距離を詰めている。
俺からすればレヴナントよりも、この死の大地の方がよほど恐ろしかった。
魔王であっても、死を超えて人を呼び返すことは出来ない。
そして俺はこれまでの長い人生で、〈呪い荒原〉が如何に人を素早く絶命せしめるのか、繰り返し繰り返し伝え聞いてきた――自分自身でその光景を目の当たりにすることもあった。
だからこそ、シャロンさんが〈呪い荒原〉に近付き過ぎること――その結果命を落とすことを、俺は一番に警戒したのだ。
――〈呪い荒原〉は本当にもう近くにある。
元よりアリー捜索のため、距離を詰めていたことが災いした。
もっと言えば、〈呪い荒原〉と自分たちの間の灌木の茂みを、焼き払っていたことも災いした。
そのせいで俺たちとこの呪われた死の大地の間には、なんの障害物もない。
目測ではもう二十ヤード先が〈呪い荒原〉だ。
その先で、地面がぱっきりと線を引かれたように変色している。
背中を悪寒が駆け上る。
背骨に氷水を流し込まれたようにすら感じながら、俺はシャロンさんと並ぶ位置に立った。
「シャロンさん、後ろが」
言い差す俺を遮って、シャロンさんがやや強い口調で断言した。
「承知しておりますよ。この距離ならば大丈夫、一度レヴナントを、〈呪い荒原〉に追い込む形で討伐したこともございます。そのときも、この程度の距離ならば身体に障りはありませんでしたからな」
言い切って、シャロンさんはどこか気遣わしげなまでの目で俺を見た。
「どうなすった、ルドベキアさま」
「……どうかしてた」
返事になっていない答えをぼそりと零して、俺は息を吸い込んだ。
――トゥイーディアなら、こんな無様は晒さなかっただろう。
あいつなら、どんなに焦っていても優先順位を間違えない。
レヴナントが出てきたことに苛立って、守るべき人を疎かにしたりなんてしないだろう。
今、優先するべきは、まず第一にコリウスの安否だ。
アリーの悲鳴が聞こえてきたということは、コリウスに何かあったのだ。それを確かめなければならない。
そして第二に、シャロンさんとアリーの身の安全の確保。
トゥイーディアがここにいたならば、間違いなくコリウスの安否確認は後に回して、シャロンさんとアリーを第一に優先しただろう。
コリウスならば自力で何とかするはずだという、無条件の信頼を向けただろう。
だが、俺にそれは出来ない。
コリウスがどれだけ秘密主義なのか、この長い付き合いで分かっているし、あいつがなぜだか俺たちを完璧に信頼したりはせずに、いつも一線引いて接しているのも察しているから。
コリウスがどれだけ腕が立つのかは知っているが、何かがあったことが確実である以上、俺からあいつに向ける信頼ですら今は度外視するべきだ。
――それに、単純に、俺にとってはシャロンさんやアリーよりも、コリウスの方が重要だ。
頭の中を整理する。
思考をひとつ行う度に、呪いのように脳裏に浮かぶ飴色の瞳。
彼女に想いを伝える機会を、なお未練がましく俺の本能が叫んでいる。
何百年にも亘る、一瞬たりとも褪せることのない呪いだ。
――俺があいつに向ける思慕は、それこそ呪いのように深くて、長くて、強烈で、――強まる以外の変化を受け付けない。
俺の一部で、俺の根っこになっている。
背後に広がる荒原を喩えるならばそれも呪いの一言を以てされるが、同じ呪いでも全然違った。
〈呪い荒原〉を喩える呪いが死に向かうものであるならば、俺があいつに向ける思慕を喩える呪いは生きることに集約される。
だからこそ、まずは、コリウスと二人であいつの前に帰ることを考えなければ。
――かつてコリウスが恋人に殺されたとき、あいつのいない俺たちの中で、トゥイーディアは泣かなかった。
ディセントラはそれこそ大海の如くに涙を流したが、泣いたのはあいつだけだったと言っていい。
俺とカルディオスはどちらかと言えば憤怒に感情を振り切ったし、アナベルはどこか茫然としているようだった。
そしてトゥイーディアは、全ての感情を殺したような顔をしていた。
唇を噛んで、自分自身の心を襲う感情の嵐を、じっと静かに耐え忍んでいるようだった。
――あんな顔を、二度とさせるつもりはない。




