08◆ 地下の広間と壁画と洞
目が覚めた瞬間に俺は、それがこの世での目覚めかあの世での目覚めか、割と真剣に考えた。
が、そんな思考は一秒で終わった。
何しろ割れるように頭が痛い。
生きてるわ、これ。生きてるからこその痛みだわ。
目を開けると真っ暗だった。
さてこれは。
夜になったからなのか、それともどこか光を遮る所にいるからなのか。
「うぅー、痛ってぇ――」
呻き声を上げながら身体を起こす。
その声が微妙に反響して聞こえた――俺はどうやら音が反響するような場所にいるらしい。
さすがに密閉された所とは考えづらいから、洞穴か何かかな?
てか、頭だけじゃなくて全身が痛いわ。
あの後何が起こったんだ?
気を失った俺は、奇跡的に陸地に打ち上げられたってことか?
全身打ち付けながら?
だとしたら飛び抜けての強運を発揮したことになるな――痛いけど。涙目だけど。
それに寒い。比喩抜きにして凍りそう。
指先は感覚がなくて、起きた瞬間から歯の根が合わない。
服が濡れているのが寒さに拍車を掛けている。
とかなんとか呑気に考えていた俺だったが、割れるように痛む頭から生暖かい粘っこい液体が頬に落ちるのを感じて、完全に表情を消して硬直することと相成った。
待って待って、これ、血。
――割れるように痛むとかじゃねえわ。
割れてんだわ、これ。ディセントラ、助けてくれ。
こういうときには俺たちの中の誰よりも活躍する奴を思い浮かべつつも、俺はまだ冷静だった。
なんせ俺は、不本意ながら魔王。
出血部位を探して手を上げる。
蟀谷の辺りがざっくりと切れているようだった。あと額の上の方。
俺は思いっ切り頭を打ったんだろう。よく生きてるな。
とにかく止血を施して頭を巡らせると、ぶっ倒れていた俺の頭側――つまりは俺の背後に、ぼんやりと光が差している場所があった。
俺の視点より上の方。――確定だ。
ここは洞穴、あそこが出口。
ここからは傾斜を登って出口に辿り着く必要がある、と。
――取り敢えずここから出ないと。現在地を把握しないと。
あと時間を。外が明るいってことは今は昼間?
俺は慎重に立ち上がった。
身に纏った外套が重い。濡れてずっしりと重みを増して冷たい。
そのせいで少しよろめきながらも、これ以上頭を痛めつけたくはないので、頭上注意。
なにせ出口から差し込む光はここまで届かず、目の前は真っ暗。
思ったよりも天井が低かったとかで頭を打ったら笑えない。
そろそろと立ち上がり、両手で頭上を探りながら慎重に立ち上がる。
背筋を伸ばしてなお高さには余裕がある場所に俺はいるらしい。
ふう、と息を吐いて、俺は今更ながら目の前に小さな灯りを点した。
空中に浮かぶ蝋燭レベルの灯火。
暖色の光がごくごく狭い範囲を照らし出す。
思った以上に疲れているのか、得意分野の魔法であっても、このレベルの魔法の行使で眩暈を感じた。
手をこすり合わせて温めようとしながら、頭を振って周囲を窺い見るに、周囲はやっぱり洞穴の中。
何時間気絶してたんだろう。
多分、波に揉まれた俺がこの洞穴の入り口に打ち寄せられて、それで傾斜を転がり落ちて現在に至るんだろうな。
ここは海の近くだろう。
――なんて考えながら、ゆっくりと足を踏み出したときだった。
ふらりとよろけた。
ついで、ずるりと滑った。え?
ばったりと倒れようとしながら、俺は目をぱちくりさせる。
え? なんで俺、転んでるの?
――答えは単純明快に目の前にあった。
血溜り。
うわあ、俺、あんなに出血したんだ。
空腹で栄養不足、そこに失血が重なれば、そりゃまあ一回や二回はふらっとくるわな。
で、運悪く自分の流した血で滑ろうとしていると。
ってか血が固まってないってことは、俺はそんなに長い間気絶してたわけじゃないんだな。
――なんて、納得してる場合じゃない。もう痛い思いはしたくない。
慌てて体勢を立て直そうとしたのが仇になった。
空腹と失血で頭が回らず、ついでに身ごなしも鈍く、俺の足が縺れた。
そのまま冗談みたいに盛大にこけようとするのを、俺は慌てて片足で踏ん張り、踏ん張り切れずに数歩、跳ねるように躓いて――
いやまあ、よくある話。
転び掛けたらこんな風になるだろ?
片足跳びみたいにして踏み留まろうとするだろ?
俺が最高にツイてなかったのは、そうやって片足跳びで飛び込んでしまった場所だった。
ごとん、と重い音が響き、俺の顔が強張る。
「待っ――」
そして次の瞬間、軋むような音を立てて盛大に落ち込んだ地面と一緒に、俺は地下に落ちて行った。
――普通、そんな簡単に地面って割れる?
やっぱ俺、今生では運に見放されてるみたいだ。
そんなことを思った俺は支えを失い真下へ一直線。
いやこの一瞬で、疲れ切ってて気絶から覚めた直後で空腹で寒さに震えていて、咄嗟に魔法なんて出てこないもんだな。
いや、この残り滓の魔力ではそもそも重力を書き換えるのは無理か。
どうか下が柔らかい場所でありますように――と真剣に祈りながら目を閉じた俺だったが、直後に尾骶骨に響く衝撃に叫び声を上げた。
「いたぁっ!?」
浅い! 思ったよりも穴が浅い!
地下というほど大したものではないのかも知れない!
なんか、足を踏み外した程度っぽい!
――なんて期待したのは一瞬、次の瞬間、俺はバウンドするようにして更に下へ落ちて行った。
ばきっ! と洒落にならない音が身体の下から響いた。
いや、バウンドというよりこれは、この落ち方は――
「なんで階段ん――っ!?」
ケツで階段を落ちて行くとか幼児かよ。
屈辱極まるわ。俺はここ何百年も真面目に幼児をやってこなかったんだぞ!
とかいうことはさておいて、
「痛い痛い痛い痛い――っ!」
絶叫する俺がようやく落下を止められたのは、十数段の落下の後だった。
尻ズル剥けだ、クソが。
ぜぇぜぇと肩で息をしながら、俺は階段らしき場所で壁に手を突いて立つ。
その壁はじっとりと冷たい。
なんだここは。
なんでこんな所に階段がある。
さっき、妙に簡単に地面が割れたのは、あそこがちょうど跳ね戸になっていたからか。
失血と空腹で気分が悪く、魔力も尽きようとしているが、俺はひとつ首を振って自分の頭上に炎を浮かべた。
暖色の灯りがやわやわと周囲を照らし出す。
ぐらり、と眩暈に襲われてふらつく足許を、必死に踏みしめて持ち堪える。
確かに階段、だった。
竪穴の壁沿いに、木造の螺旋階段が設けられている感じ。
がっしりとした木は、長年の行き来を示すかのように滑らかな光沢を放っているが、どうやら腐食しているものもある。
竪穴の壁一面に木の枠組みが設けられ、俺が落っこちた場所から始まる階段が、ぐるぐるぐるぐると、下に向かって延々と続いていた。
なんだここ?
竪穴そのものを彫り抜いて階段を作るんじゃ駄目だったのか?
階段の一段一段が、枠組みにしっかりと支えられるよう設計されてるのは見事だが……。
興味はあったが、今は出来心で冒険をしているような場合ではない。
ふう、と息を吐いて、俺は落ちてきた階段を昇ろうと振り仰いだ。
「…………」
相当古い木だったんだろうな、それは分かる。
落ちるとき確かに、洒落にならない音がしてたな、それも聞こえてた。
あれ、俺の骨が砕ける音じゃなかったんだな、良かった。
俺の背後、昇っていくべき階段が、見事に崩れていた。
持ち堪えている段もあるが、枠組みから外れてしまっていたり割れてしまったりした段が大半。
……うーむ。
思わず顎に手を当てて考えてしまう。
ぶっちゃけ、足場が崩れていようが、俺なら元の場所に辿り着くことも出来る。
長い漂流生活の末に嵐と戦ったせいで魔力はすっからかんになり掛け、体力気力も底を尽きかけているが、この場で回復を待てばいいのだ。
座り込んでひと眠りすれば、恐らく外へ脱出するための魔力くらいは回復するだろう。
ちら、と己の下を見る。この下に何かあるからこそ、この階段が造られたのだろう。
――気になるな。
「うーん……」
気になるな。
――言い訳をすると、俺も疲れて頭が回ってなかった。
あと、退屈な漂流生活にうんざりしていて冒険心を持て余していた。
あと、みんなに再会したときに、なにか土産話がほしかった。
あと、あいつの驚く顔が見たいなと、ちょっとだけ思った。
更に言えば、この陰鬱に暗い場所には長くいたくなかった。
――そんなわけで俺は、浮かべた炎を伴って、ところどころが腐って崩れ掛けている階段を、一段一段慎重に降り始めたのだった。
――結論から言うと、災害に出遭った。
災害には出遭ったけれども、出口もあった。
足を乗せた瞬間に抜けそうになる階段にびくつきながら下へ降りて行くこと十数分。
降り立った穴の底は円形のホールのようになっていて、そこから更に奥へと続く横穴の入り口が開いていた。
そこを進んでいくと、またしても階段で下へ。
今度は地面を彫り刻んだ石の階段だったので、安心して降りられた。
階段を降りてしばらく進むと、またしても円形に空間を開いたホールのような場所へ辿り着いた。
そのホールの中央は作為的な円形に少し窪んでいて、昔は何かをそこに安置していたことが窺える。
ホールの壁には、目を凝らして見なければ分からない程に薄くなっていたものの、絵の具で殴り描きしたような絵がいっぱいに描かれていた。
じっと見ていると何やら気味が悪い。
そして何より肝を冷やしたのが、ホールの端の方に〈洞〉が開いていたことだ。
「うわ、マジかよ……」
今生初めて見る〈洞〉は、世界に亀裂を生じさせたが如くに、全き無として、空気を何かが鉤爪で引き裂いたかのようにしてそこに在った。
音もなければ色もなく、何も存在しないことで明々白々にそこに存在している、この世で最も恐ろしい自然災害。
思わず、じり、と後退る。
〈洞〉は人を吸い込んだりしないが――もっと言えば、人以外の生物の目には留まらず、また人以外に害を為すこともしないが――、下手に近寄れば魂ごと消滅すると言われているのだ。
ここで行き止まりか――と思いきや、〈洞〉の反対側のホールの隅っこに小さな穴があった。
これまで通ってきた階段や通路は、謂わば本職の人間が彫り抜いた造形だった。
一インチの狂いもなく丁寧に、設計の通りに彫り抜かれた、そんな感じだった。
それに対して、このホールの端に空いていた穴は、「抜け穴」という感じだった。
力任せに岩を砕いた感じだ。しかも腹這いにならないと潜れない高さ。
〈洞〉から逃げるようにそそくさとその抜け穴に近寄り、腹這いになってそこを潜ると、すぐに急勾配の昇り階段(もはや手足を使って昇るためのものだろ、と思ったくらいの急勾配)があった。
その階段もまた、段差さえあれば昇れるだろうという作り手の杜撰な意図を感じるものだった。
段差の高さもばらばらならば、地面と平行の段差なんて無い、歪みまくった階段もどき。
正直、そのときには体力の限界がきていて、ふらふらしながらそこを昇った。
段差は徐々に緩やかになり、しばらくすると潮の匂いがしてきて、行く手に明かりが差し始め、期待して顔を出した先が出口だった。
顔を出したのは、小さな岩山の中腹だった。
そこから視線を前へ遣れば、岩はまばらになり、その先に一面の砂浜が広がっていて、随分と穏やかになった海がしずしずと波を寄せていたのである。
「外だ……」
呟いて、外に這い出る。
岩山は湿った砂を被っていて、掌にざらざらした感触を伝えた。
濡れた服に砂粒が纏い付く。
「外だ……」
もう一度呟いて、岩山の傾斜に立ち上がって海を望み、深呼吸。
時刻は日没のようだった。
今目の前にしている砂浜はどうやら東に向かっている。
正面に見える空は、既に藍の色合いに沈んでいた。
背後から届く陽光は、雲を纏っていてもなお、地下に慣れた目には少し眩しい。
俺はどれくらい気絶していたのだろう。
一日か、二日か。
流血があんまり乾いていなかったから短い時間かと思っていたけれど、海がすっかり穏やかになっているところを見るに、かなりの間なのかも知れない。
その割にはさっぱり疲れが取れていないが。
岩山にどっかりと腰を下ろし、俺はそのまま仰向けに横になった。
目を閉じて、頬を撫でる冷たい潮風の匂いを嗅ぐ。伸びた髪が風に靡くのが分かった。
「陸だ……」
目を閉じたまましみじみと呟いた俺は、そのまま墜落するように眠りに落ちた。
――揺れない地面って最高だね。