10◆ 救世主の帰還
――俺たちの睨んだ通り、ムンドゥスは今度は意識を失わなかった。
馬車には世双珠が使われていないからだと考えれば筋も通る。
馬車の窓枠にしがみ付いて、鏡の色の大きな目で、窓の外を流れる町並みを無表情ながら熱心に観察していた。
そんなムンドゥスの服の裾を、ルインがはっしと握っている。万が一にも座席から転がり落ちたりしないよう、気を張ってくれているのだ。
アランが、そんなルインとムンドゥスを見て、ふと思い付いたように声を出した。
「――そういえば、カルディオス。この二人は雇ったって言っていたけど、ガルシアまで連れて行くのか?」
「連れてくよ、でも砦には入れない」
カルディオスがのんびりと応じる。
トゥイーディアの隣に陣取って、俺たちの汽車旅行の一部始終を喋りまくっているところを邪魔されたわけだが、特段不快に思った様子はなかった。
ルインがぎょっとしたように俺を見た。
俺は「落ち着け」と身振りで示す。何も捨てるとは言ってねぇんだから……。
「取り敢えず、寮にいてもらおうと思うの」
ディセントラが、カルディオスを補うようにそう言って、ルインに微笑み掛けた。
ルインは特段顔色を変えなかったが、ディセントラの絶世の美貌に浮かぶ微笑に、アランが顔を赤らめた。
「ほら、私たちが正式な隊員になる前に入っていたところね。あそこなら、私も以前いたところで顔も利くし、悪いようにはされないだろうし、任務のない日は会いに行けるし」
ルインがほっとしたように表情を緩める。
ムンドゥスをヘリアンサスに対する人質として使う以上――そして、人質としてヘリアンサスの前に出すその直前までは、彼女がガルシアにいるということをヘリアンサスに伏せなければならないということを考えれば、ムンドゥスをガルシアの砦内に入れることは論外だった。
偶然にもヘリアンサスとご対面、なんてことになったら笑えないからね。
お世話係のルインも当然、砦に入れるわけにはいかない。
「――任務のない日なんて、今は殆どないですよ……」
ララが死んだ声で呟き、トゥイーディアが思わずといった様子でその手を握って力説した。
「大丈夫です、皆さんにきちんとお休みいただけるように、私たちが頑張りますから!」
頑張り過ぎないでくれ、トゥイーディア……。
――馬車に揺られること二時間。
夕方近くになって、俺たちは恙なくガルシアに辿り着いた。
もう冬至を過ぎた冬、日は既に低く冷たい風が吹く。
ガルシアの門を馬車が潜る瞬間、俺たちは一様に身震いしたものだ。
遂にここまで来てしまった……。
今まで、何十回と自分たちを殺した相手がいる場所に踏み込んで、緊張するなという方が無理だろう。
むしろフラッシュバック祭りだ。
今までの何十回という自分の死に際が、ここぞとばかりに脳裏を駆け巡る。吐きそう。
緊張を呑み下し、ガルシアに入ったところで馬車を降り、ディセントラの先導で人通りの少ない裏道を通り、寮と呼ばれる建物まで歩く。
道中、ディセントラが緊張を忘れ去ろうとするかの如く、軽く寮での思い出話をしてくれて、俺としては興味深かった。
みんなが再会するまでの経験談は、どの人生でも結構面白い。
まあ、だんとつで面白かったのは二十三年間に亘って俺たちの誰とも会えなかったコリウスの、「生まれ方を間違えたのかと思っていた」って一言だったけど。
ガルシアの砦にほど近く、建物を囲む芝生のために他の建物からは一歩距離を置くようにして、寮は建っていた。
石造りの五階建ての建物で、芝生に飛び石が敷かれて入り口へと続いている。
入り口を入ったところは二階分が吹き抜けになったホールになっていた。
ニールたち付き添いのガルシア隊員が外で待つ中、ホールでディセントラが人を呼ぶと、礼儀正しい十二歳くらいの少年がぱたぱたと走り出て来た。
将来、ガルシアの隊員になってレヴナントと渡り合うかも知れない一人ではあっても、幼い顔立ちは可愛らしかった。
そんな少年が真面目な顔をして用件を聞いてくれるのに応え、ディセントラが丁寧に目を合わせながら、
「寮母さまはいらっしゃる?」
と尋ねる。
「呼んで参ります」
と、声変わり前の高い声でそう言って、少年がまた、ぱたぱたと奥へ駆け込んで行く。
しばしして少年は、四十を幾つか過ぎたと見える、ふくよかな女性を連れて戻って来た。
女性はディセントラを見てぱあっと顔を輝かせて。
「まあ! まあまあ! ディセントラ、久し振りね! あなた救世主だったんでしょう、本当に誇らしいわ!」
そのままディセントラを抱擁した女性の背中を、されるがままになりつつぽんぽんと叩き、ディセントラは苦笑ぎみ。
「ええ、お久し振りです、寮母さま。お願いがあって参ったのですけれど、よろしい?」
時間もないからか、さっくりと本題に入ろうとするディセントラ。
彼女を離して、寮母さんは何かを思い出したのか切なそうな表情を浮かべる。
「何なりと仰いな。――本当にこの頃は、暗い話ばかりで。つい先日も、ルニーが……」
涙ぐむ寮母さんの手を握り、ディセントラは眉を寄せた。
「ルニーが? そう……」
語調からして知り合いだろうか。
暗い顔をするディセントラに、寮母さんは首を振って涙を拭い、笑顔を向けた。
「ええ。でも、いつまでも悲しんではいられないわね。――お願いってなあに?」
ディセントラも、振り切るようにひとつ首を振った。
それから一歩下がり、代わりにルイン(と、彼に手を握られたムンドゥス)を前に押し出す。
「この二人なんですけれど。ルイン、それからムンドゥスと申します。
――遠征中に、身寄りを失ったところを拾って雇ったはいいのですが、砦に入れるとなると手続きが煩雑ですし……。出来ればここに、しばらく置いてほしいのですけれど」
寮母さんはぱちくりと瞬きし、まずはルインを、それからムンドゥスを見た。
ちょっと息を呑んで後退ったのは、ムンドゥスの凄烈なまでの美しさのゆえか。
ムンドゥスは周囲には無関心に、ホールを無表情に見渡している。
「お部屋とお食事を分けてくだされば、それでいいのです。お礼は私たちの給金から」
首を傾げ、ディセントラがムンドゥスの肩に手を置き、寮母さんをじっと見た。
淡紅色の目が甘えるように相手を見る破壊力たるや。
余談だが、ディセントラは何回か前の人生で、手違いで投獄されたことがある。
そのときも彼女は、己の容姿を武器にして、堂々と脱獄を図った実績を持っているのだ。
平然と戻って来たディセントラを見て、そのとき真剣にディセントラを助け出す方法を議論していた俺たちは唖然としたものである。
寮母さんも、ディセントラの魅力に屈した一人だった。顔を赤らめ、はたはたと手を振る。
「やあね、お礼なんて。ディセントラ、あなたのお願いならもちろん。お部屋も、ちょうど今、空いているところがあるのよ」
じっと黙っていた少年が、寮母さんとディセントラを交互に見上げた後、「僕、あのお部屋の窓を開けて来ますね」と、ぱたぱたとまた奥へ入って行った。
気が利く子だ……。
それを見送りつつディセントラは、「よしっ」と言わんばかりに小さく拳を握っていた。
斯くして、ディセントラのお蔭で二人の寝場所は定まった。
「絶対会いに来るから大丈夫だぞ」とルインに言い残し、「白髪金眼の奴には絶対にムンドゥスを会わせるな」と言い含めて、俺たちは寮を出た。
不安そうにするかと思いきや、ルインは案外平気そうだった。
むしろムンドゥスの方が、出て行こうとする俺の服の裾を掴んで抵抗したくらいである。
そんなことは予想だにしていなかったし、子供に縋られてしまって俺は狼狽えたが、トゥイーディアが一歩前に出た瞬間、ムンドゥスは潔く俺を離した。
どんだけトゥイーディアのことが嫌いなんだ。
寮を出た俺たちは、付き添いのガルシア隊員と合流して砦へ向かう。
そうして歩いていると顕著だったが、様子が以前までとは明らかに違った。
表通りですら、人通りが少ないのだ。
ガルシアの隊員の多くが遠征に出ているというのだからそれも道理だが、以前までは結構な人出があった、食い物屋の並びの通りですら、今は辛うじて二、三人を見掛けた程度。
「こりゃあ酷い」
カルディオスがぼそりと言った。応じて、コリウスが呟く。
「店仕舞いするところも出ているだろうな」
一緒に歩くニールたちも驚いている様子だった。
「こんなことになってたんだ……」
と、愕然とした様子で呟いていたので、
「ん? おまえらはこの状況、知ってたんじゃねえの?」
妙に思って尋ねてみるに、憂い顔のララが首を振って答えた。
「ううん。遠征に出されたのがかなり前だから……。こんなに人が減ってるなんて思わなかったわ」
すっかり寂れたように見える町を通り、奥の砦へ。
砦の門を守護する番兵たちは、誰何に応じて「救世主」と名乗った瞬間、平伏せんばかりの態度で門を開けてくれた。どんだけ待たれてたんだ、俺たち。
むしろ慄きながら門を潜る。
さて、ここからどこへ向かえばいいんだ?
尋ねるようにガルシア隊員たちを見詰めていると、彼らは彼らで困惑した様子だった。
「いや、どこに連れて行けばいいかは聞いてない……」
ニールが狼狽しながら白状し、俺は目を剥いた。まじかよ。
一方、コリウスとカルディオスは何か思い当たった顔をしたが、二人が何か言うよりも早く声を上げた人がいた。
他の隊員を見かねたのか、ティリーが一歩前に踏み出し、鳶色の目を怒らせて断言したのである。
「――役所よ、決まっているでしょう。せっかく戻って来た救世主さまたちを、宿舎なんかに案内してどうするのよ。ガルシアの指揮は役所が統轄しているの、知らないわけじゃないでしょう」
なるほど……。
言ってることは正論だけど、言葉きついな。トゥイーディアに対する俺みたいだ。
――と、そんなことを思いつつも、俺たちは宿舎を回り込んで奥へ。
宿舎からは全く人の気配がしなくて、マジでガルシア隊員は眠れる状況じゃないのかも知れない。
魔法研究院は通常通りといった雰囲気を漂わせていたが、ここは変人が多いからな。事態の異常さを図る指標としては当てにならん。
訓練場はもぬけの殻となっていて、今は訓練どころではないのだということがひしひしと伝わってきた。
――ヘリアンサスもどこかに遠征に行っていたりしないだろうか。
あいつも今は、一応はガルシアの隊員という扱いになっているから、有り得ない話ではないんじゃないだろうか。
――どうか、どうか、あいつの顔を見ずに済みますよう。
出来れば――というか、何が何でも――、魔王を殺しに行くその瞬間までは、あいつの顔は見たくない。
――今まで、何十回となく俺たちを、――トゥイーディアを殺してきた奴だ。
トゥイーディアは今度こそ奴を討とうとしているけれど、正直に言えば勝てる見込みはまずない相手。
何百年という時間を、あいつを殺すためだけに生きてきたとも言える、俺たちの仇敵だ。
顔を見たいと思うはずもない。
広大なガルシアを足早に突っ切って、俺たちは海を望む崖の方へ。
二棟に分かれて建つ、司法と行政を統轄する役所へ急ぐ。
急いだとはいえ、ガルシアの砦が広すぎる。
最短経路を通ったはずだが、砦に入ってから半時間ほどが経過した。無言でひたすら歩く半時間は軽い苦行である。
先頭を切って歩くティリーは、振り返りもしなければ口を開きもしない。
ティリーのすぐ後ろを歩くトゥイーディアもまた、それに合わせるかのように沈黙を貫いたがために、何となく俺たちも黙り込んでしまったのだ。
二棟に分かれて建つ役所の間には、海岸へと抜ける階段が拓かれている。
遠目に見えた海は、夕日を迎えて赤々と輝く波に揺れていた。
役所に一歩入るや否や、ぴりぴりした空気が俺たちを出迎えた。
早足で廊下を行き交う人たちの顔に、笑みは一切ない。
隈を作った壮絶な表情で、ある人は書類の山を抱え、ある人は書状一枚握り締め、またある人は分厚い本を頭に乗せて支えつつ、互いに挨拶もせず廊下を突き進み擦れ違っている。
戦場然とした様相に、俺は顔を顰めた。
ディセントラとトゥイーディアが輪を掛けた憂い顔になる一方、コリウスとアナベルは眉間に皺を寄せる。
カルディオスは軽く天を仰いでいた。
何を考えてるか分かる。
前回の人生で、ヘリアンサスが魔界から大陸に向けて悪質な魔力の瘴気を流し込んで来たときも、国の中枢はこんな感じの阿鼻叫喚だった。それを思い出しているんだろう。
迷いのない足取りで、ティリーが廊下を進んで奥へ向かった。
見えてきた大きな螺旋階段を、当然と言わんばかりに昇り始める。
擦れ違う人たちが、訝しそうに俺たちを見てきた。
が、あちらも多忙を極めているのだろう、特段声を掛けられることはなく。
階段に敷かれた深紅の絨毯が足音を吸い込む。
磨き抜かれた木の手摺が、早くも点されている灯火の明かりをまろやかに映していた。
俺は――他に当ても無かったので――疑問なくティリーに続いたが、三階を過ぎようとした時点で、アランががっと前に出てティリーの腕を掴み、待ったを掛けた。
「――ティリー、この上は最上階だ。大隊長以上しか立ち入れないはずだが……」
「だから?」
ティリーは顎を上げてアランの手を振り払い、言い放つ。
「私たちは救世主を案内しているのよ。救世主が大隊長に劣る権利しかないとでも? 何なら私が案内するから、あなたはここで待っていれば?」
高飛車な物言いに、アランがさあっと顔を赤くした。
俺は思わず呻く。喧嘩は面倒だからやめてくれ……。
「ティリー嬢、お気遣いありがとうございます」
コリウスが割って入るように言って、貴公子の鑑のような仕草でティリーの手を取った。
さぞかし格好よく見えるだろうが、俺には――というか、俺たちには分かる。
こいつは単に、アランとティリーの間で揉め事が勃発したら面倒だから割って入っただけだ。
「ですが、ここまで来れば僕にも、指揮を執る皆さまがどちらにいらっしゃるかは見当が付きます。どうぞ、ティリー嬢もこちらでお待ちを」
ティリーは一瞬、何か言いたそうに唇を薄く開けた。
だが、一瞬の逡巡ののちに足を引いて、軽く頭を下げる。
「――はい、コリウス」
同僚だという意識があるからか、ティリーは救世主であるコリウスを呼び捨てにした。
応じて、にこ、と氷の彫像の如くに整った顔に笑みを載せてから、コリウスは俺たちを振り返って号令した。
「行くぞ」
「おう」
そうして俺たちは、六人だけで階段を上がった。
コリウスは――そして恐らくカルディオスも、そしてティリーも――、貴族出身だからこそ、こうした役所の内部構造に詳しいのだろう。
アランも下級貴族の出身だと言っていたから、何階まで立ち入りが可能か知っていたんだろうな。
トゥイーディアに関して言えば、多分、こういうガルシアの粋を案内されることはなかったはずだ。
彼女は、ガルシアにいる間はずっと、魔法研究院とテルセ侯爵の屋敷ばっかり行ったり来たりしていたしね。
俺としても、ここに入るのは初めてだ。
――が、階段を登り切った辺りで、そんな俺にもどの部屋を目指せばいいのか見当が付いた。
何しろ、侃々諤々の大荒れの議論が筒抜けで聞こえてきたからね。
「プラットライナには応援を遣っただろう!」
「元々治安の悪かった地域だぞ! あれだけで足りるものか!」
「だからといって、応援に回せる部隊ももうない!」
「だから、ヴィールダッチへの応援を削れば――」
「出来ない、あそこはアルフェラット公の重要な領地だ。どれだけの小麦を生産していると思っている? あそこが潰れれば小麦の値段が目も当てられないことになるぞ!」
――思っていたよりやばそうだな。
とはいえ、この声が聞こえてくる部屋こそが、俺たちが目指すべき部屋だろう。
敷き詰められた絨毯を踏み、樫材の扉を幾つか数えて、俺たちは突き当りに見える巨大な両開きの扉に歩み寄った。
寄ってみると、明々白々。
議論の声はこの扉の下を伝って聞こえてきている。
最後はトゥイーディアが小走りで扉との距離を詰め、その扉をノックした。
こんこんこんっ、と、忙しなく扉を叩いて、ちょっと下がって待機。
――応答なし。
中の人は誰もノックに気付いてないっぽい。
む、と唇を曲げて、もう一度トゥイーディアが扉をノックする。
今度は、先程よりも大きな音を立てて、彼女の指関節が扉を叩いた。
最後の一回は特に、ノックなのか扉を殴ってんのか分からなかった勢いだったが――応答なし。
扉の向こうからは、烈火の勢いで議論を続ける声が聞こえている。
この際小麦の値の高騰もやむを得まい、いや何を言う民を殺す気か、各地の領主に備蓄があるならその放出を、そんな要請に応じる貴族がどれだけいるかは分からんぞ――
テルセ侯爵の耳にも届くだろう議論の場で、貴族をばっさりと切り捨てるように評する発言が飛び出したことに、俺はびっくりした。
骨のある人がいるんじゃん!
「どうする?」
アナベルが肩を竦める一方、トゥイーディアは即断即決だった。
「開けちゃいましょう」
俺たちのうち誰かが同意の声を上げるまでもなく、間髪入れずにトゥイーディアは、無遠慮に扉を大きく開け放っていた。
中は絨毯すら敷かれぬ石の床。
そこに円卓が据えられて、十人ばかりの人々が、円卓を囲んで声を限りに議論していた。
天窓が開き、宵に沈みつつある空が見える。
円卓の中央には絢爛な意匠の燭台が置かれ、蝋燭の火がゆらゆらと揺れて室内を照らすほか、壁際に幾つかのカンテラも吊るされていて中は明るかった。
扉が開け放たれた途端、室内で円卓を囲んでいた数人が、射殺さんばかりの目で俺たちを見た。
どの顔も壮年から初老。
男ばかりかと思いきや、二人ばかり女性もいた。
俺は数箇月ガルシアにいたが、下っ端の下っ端だったので、ガルシアの指揮を執る人たちと顔を合わせるのはこれが初めてである。
「――誰だ!」
最も下座の男が吼えると同時、トゥイーディアが左小指から指輪を抜き取り、それを杖の形に変じさせるや石突で床を強く叩いた。
かぁーん、と、清々しいまでの音が響き渡る。
一瞬にして静まり返る室内。
「――救世主です。急ぎ戻って参ったのですけれど?」
トゥイーディアが名乗った瞬間、怒鳴った男が「やばい」という顔をした。
その男の隣に座っていた初老の男性が、「リリタリスの令嬢だ、顔を見たことがあるだろう!」と小声で叱責している。
俺もいるよ、会ったことあるでしょ、とアピールするかの如く、カルディオスが静かに咳払いした。
トゥイーディアはぐるりと室内を見渡し、愛想笑いを浮かべた。
だがそれも一瞬。その飴色の目が円卓の面々を素早く吟味していくとともに、溶けるように笑顔が消えていく。
刹那、何かを考えるように蜂蜜色の睫毛を半ば伏せ、トゥイーディアは息を吸い込んだ。
「……救世主どの、戻って来てくださったか――」
奥の方からしわがれた声が、震えんばかりの歓迎を籠めてそう言った。
俺たちは反射的にそちらに視線を向けた。
一番奥に座っていた老嬢が、わななく掌を円卓に突いて立ち上がっていた。
彼女を見た俺たちは咄嗟に、この何百年で培われてきた、救世主としての笑顔を頬に昇らせる。
大丈夫だよ、と相手に言い聞かせるための笑顔は、全員がこれまでに身に着けた、一番当たり障りのない表情だ。
何しろ、扉を叩き付けるように開け放っての登場である。穏やかとは言い難かったからね。
他のみんなと同じように笑顔を浮かべたカルディオスが、しかし老嬢をまじまじと見るや、あからさまに目を逸らした。知り合いかな?
先頭に立つトゥイーディアが、しゅん、と小さな音と共に、杖を素早く指輪の形に戻して頭を下げた。
「無礼をお許し願います。――他国民の身ではございますが、わたくしの主君からお許しを頂戴し、あなた様方の指揮の下、尽くすために戻って参りました。
他の救世主と共に、帝国をレヴナントからお守り申します」
顔を上げ、トゥイーディアは一歩下がって微笑んだ。
その表情は、完全に作られたものだった。
彼女が心から笑うときの、独特のしなやかさのない表情。
微笑で固定されたトゥイーディアの面の上で、飴色の目が冴えて冷えていくのを、俺は見た。
――何を考えているんだろう。
円卓の人々が立ち上がる。
椅子の脚が石の床を擦る音に紛れて、口々に述べられる感謝と歓迎の言葉の群れ。
それすら聞き流すかの如く、ただ微笑みながら佇んで、トゥイーディアがまた頭を下げた。
そして、す、とまた一歩足を引く。
――なんか、ここを出て行こうとしているみたいだな?
俺が違和感を覚えると同時に、顔を上げたトゥイーディアは、俺たちの度肝を抜くことを平然と言い放った。
「――戻ったばかりで恐れ入ります。わたくしはここで失礼を。救世主に下されるご命令は、他の者から後ほど申し受けます。
――お尋ねしますが、わたくしの婚約者候補どのは何処です?」
俺は愕然として動きを止めた。
指揮官たちの手前だというのに、表情を取り繕うことすら忘れた。
他のみんなも、唖然とした様子でトゥイーディアに視線を集中させる。
比較的感情が顔に出にくいアナベルとコリウスですら、耳を疑うかのようにトゥイーディアを凝視していた。
――なんでだ、トゥイーディア。
確かにヘリアンサスのことは殺さなければならないが、それはまだだろう。
おまえの、今の父親の面子を保つためとやらで、あいつがおまえの正式な婚約者になるまで待つって話だっただろう。
どうして今、あいつに会いに行こうとするんだよ。
俺たちはいつだって、あいつを殺そうとするときにしか、魔王の前に出て行こうなんてしなかったじゃないか。
「……イーディ?」
ディセントラが、震える小さな声を押し出した。
淡紅色の目が恐怖に翳るのが分かった。
それに気付いたのか、ちらりと彼女を一瞥したトゥイーディアが、小さく潜めた声で素早く囁く。
「――大丈夫、行くのは私一人だから」
……は?
俺は声が出なかった。
――ふざけるな、冗談じゃないと思っているのに、その感情が言葉にならない。
――ヘリアンサスに会いに行くというだけで論外だが、トゥイーディア一人でなんて、行かせられるはずがない。
トゥイーディアには、今はヘリアンサスに手を出せない明確な理由がある。
だが、ヘリアンサスの側にそんなものはないだろう。
ヘリアンサスの前へ進み出たその瞬間に、トゥイーディアが殺されることも有り得るのだ。
行くなと言いたいのに声が出ない。喉が凍る。
表情にすら、危機感の欠片さえ昇らない。
コリウスが、思わずといった様子でトゥイーディアの手を掴んだ。
それを、一瞥すらくれずに軽い仕草で振り解き、トゥイーディアは唇の端のみに苦笑を載せる。
カルディオスとアナベルは、もはや何を聞いたのかすら分からないといった顔をしていた。
無理もない、無理もないが――頼むからトゥイーディアを止めてくれ。
俺には止められないんだから。
必死で俺が祈っているのを知りようもなく、俺たちの方なんて見もせずに、トゥイーディアは、凄みさえ籠めて言い切っていた。
「一刻も早くお会いしたい。ヘリアンサス・ロベリアどのはどちらにいらっしゃいますか」