07◆ 漂流に嵐
――とはいえやるしかないのである。
日が昇る前からせっせと作業に精を出し、みんなに会えたらこの苦労を何て語ろうか、なんて現実逃避気味のことを考えているうちに、俺の筏もどきは完成に近づいていった。
手が何回ズル剥けたかなんて覚えてません。
捲れ上がったささくれで、手やら足やらを何回ざっくり切ったことか。
途中から縄の残量に焦り出し、いざとなったら泳いででも海を渡ろうと思い詰めた。
何しろ今更物資の調達なんて出来ないからね。
で、筏もどきが完成したのが日暮れ時。
如何な俺でも、夜の海に出航するほど愚かじゃない。
そんなわけで已む無く、今晩まではこの島に留め置かれるわけだけど。
「帰りてぇ――」
すっかり俺の寝床になった、苔むした巨岩の上で呟く。
保存食は持って来ているが、海上生活を考えると切り詰めざるを得ない。
そんなわけで俺は今でもやっぱり空腹。
空腹は人の心を弱らせる。
外套に包まり、背中を丸めて目を瞑る。
なんとか明るいことを考えようと、俺は呟いた。
「明日には脱出、明日には脱出――」
そう、生まれて初めてのこの島からの脱出だ。快挙じゃないか。
そうやって必死に自分を慰める俺の腹が、盛大にぐぅと鳴った。
――つらい。
――もう頑張れないかも知れない。
ここまできて弱気になった俺の瞼の裏に過るのは、やはりあいつの飴色の目だ。
俺が見てきたあいつの顔は横顔が多いから、俺の脳裏に甦るあいつの目は、いつも俺ではない何か、目の前にある何かを見ている。
一度も折れたことなどないと言わんばかりに、強く凛としている。
「――……」
あいつの名前を声に載せようとして息を吸い込んで、でも俺は何も言わずにその息を吐き出した。
面と向かって名前を呼んだことなんて数える程しかないから、未だにあいつの名前だけが俺の舌に馴染まない。
代わりに、いつものように呟いた。
「――帰りてぇ……」
――とはいえ、どんなに長くとも夜は明ける。
朝だ。待ちかねた朝だ。
黄金の太陽が海原からゆっくりと顔を出すのを、今か今かと待ち構えていた俺である。
ここまで嬉しい日の出って初めてかも知れない。
崖の上で日が昇るのを拝んでから、俺は一度筏を回収にここ数日の寝床へ戻る。
荷物を担いでから、筏の上で大きく薙ぐように手を振った途端、ふわっと浮き上がる筏。
ここからは体力勝負ならぬ魔力勝負だ。
浮遊する筏を伴って崖の上に戻り、俺は朝日を迎えて白く輝く海を睥睨する。
――大陸までの距離は知っている。
だからこそ厳しい顔にもなる。
ともあれ行くしかない。
俺の居場所は海の向こうにある。
自分の後ろでふわふわ浮く筏を振り返り、俺は人差し指をぴっと立てて海を示す。
俺が法を書き換えた通りに、筏は従順な動きで崖を越え、海に向かって一直線。
見守る俺の視線の先で、海面を突き破る巨岩を上手く躱して筏が着水した。
飛沫が上がるのが見えたが、持ち堪えている。浮いている。
まあそりゃそうだけど。水の浮力を何倍にもして受けるよう、あの筏に働く世界の法を変更したのは俺だけど。
「――まだ楽だな」
この頃増えてきた独り言。
――空中で物を浮かせるより、水面に物を浮かせる方が随分と楽だ。
元より浮力が働く原理があるからだろうが、覚悟していたよりも消費魔力は小さくて済みそうな予感。
ふう、と息を吐いてから、俺は崖を蹴って空中に飛び出した。
くるっと空中で無駄に一回転を決めてから、狙い違わず筏に着地。
ぐらんぐらんと揺れる筏にひやっとしたが、何とか転覆を堪えてくれた。
ざざーん、と響く海の音。
いつもこの音は、何とも言えぬ苦々しさと共に聞いてきた。
だが、さて、今回はここからである。
当然だが、筏というものに推進力はない。
進もうと思えば、ひぃひぃ言いながら必死に櫂で漕ぐか、あるいは――
「俺がコリウスだったらなあ」
そんなことを零しつつ、俺は麻袋に突っ込んであったシーツを取り出す。
その端二箇所を、筏の四隅のうち斜交いの二箇所に括り付ける。
シーツの端っこの残り二箇所は一纏めにして筏の空いている四隅のうち一つに括り付け、俺自身はシーツが括り付けられてない端っこの近くにちょこんと座る。
重さが偏り、筏が傾きそうになるも、そこは何とか魔法で誤魔化す。
こんなに湯水のように魔力を使ってて大丈夫か、俺。
さて、三角形の形に筏に括り付けられたシーツである。
これが何かというと、工作の才能に乏しい俺には帆を張る帆柱が造れなかったというだけの話。
「マジでカッコ悪いよなあ」
苦笑しながらそう零して、俺はぱちんと指を鳴らした。
途端、空気を孕んでシーツが膨らむ。
そして、あたかも順調な風を受けているかの如くに、筏を前へ前へと動かし始めた。
――俺の得意分野、固有の力は熱を司る。
だからこうやって、周りの空気から熱を奪って任意の場所に集めることも容易い。
集められた熱気は気流を生んで、帆に風を孕ませるかの如くに筏を前へ進めてくれる。
巨岩の間を抜けて、いよいよ大海原に向けて視界が開けた。
振り返れば俺を十八年閉じ込めた島が背後に遠くなっていっている。
筏の下で白波が弾け、波立つ海面を筏が割り開いて進んでいく。
込み上げるものがあって、俺は拳を握った。
昨夜は心が折れそうだったとか、そんなことは忘れた。
今は、今は、今考えるべきは、
――やった、やった、本当に出た! 本当に脱出した!
この長い長い長い人生で初めて!
「よっしゃあ――っ!」
叫んだ俺の大声が、広い広い海に静かに呑み込まれていった。
◆◆◆
そこからの俺の旅路は苦行の一言に尽きる。
海に出た直後こそ、気分も上がり大いにはしゃげたが、進めども進めども変わらぬ光景、立って動いたりは出来ない環境、そして誰一人話す相手もいない。
増え続ける独り言、せめて何かの変化をと、雲を探して空を見上げる時間は日を追って長くなる。
最悪なのは船出三日目にして大雨に降られたことだ。
朝からどんよりと曇っていて、遠雷が鳴り始めた時点で嫌な予感はしていたが、実際に降ってみれば滝のような大雨。
雨から自分の周囲を守るなんて造作もないが、海が荒れるとどうしようもないだろ。
文字通り荒波に揉まれながら、雨が止むまでひたすら祈ることしか出来なかった。
筏がぶっ壊れないか本気でひやひやした。
その次の日はからっと晴れて、俺は見失っていた方角を取り戻した。
俺が最も警戒したのは〈洞〉に出遭うことだが――〈洞〉は突発的に自然発生する謂わば世界の空洞で、吸い込まれたら最後、消滅待ったなしの災害だ――、幸いにも、俺の旅路に〈洞〉は発生しなかった。
とにかく北へ。北上あるのみ。
多少進路がずれていたとしても、北に向かってさえいれば、大陸を素通りすることなんて無いはずだ。
北へ北へ。
たまには魔法を休んで天然の風も利用しつつ、ひたすら北へ。
寝ている間に何か起こったらどうしようと、不慣れな船旅(船旅とも言えない。もはや漂流生活に近い)のために積み重なる睡眠不足。
食糧は切り詰めざるを得ないので、常に空腹。空腹が過ぎてむしろもう腹が痛い。
それでもなお陸の影は見えない。
まだ見えるはずがないから落ち着けと自分に言い聞かせるものの、頼るもののないだだっ広い海上で、何度パニックに襲われたことか。
太陽の位置を指差し確認、絶対に進む方向は間違っていないと、増え続ける独り言には狂気が混じる。
雨が降る度に不安に慄き、うたた寝中に見る夢は悪夢か懐かしいあいつらの夢の二択。
悪夢を見れば寝覚めは最悪だが、あいつらの夢もなかなかに切ない。
歯を食いしばり、延々と続く変化のない海面を絶望と共に見遣る寝覚めとなる。
何日経ったか覚えておかねば気が狂うと思い、筏の隅に日数分の刻みを付けた。
後から振り返るとじゅうぶん発狂寸前である。
――とにかく無事で大陸に辿り着きたいと、祈る心地でいる間に、月の形は一巡りし、それから更に半分巡った。
一箇月半の海上生活に、心が折れるとかではなくて無になり掛けた。
海の景色は変わらず、波の形すらも一定に見え、徐々に徐々に俺の心を追い詰める。
ある日に、でかい魚の群れが海上に背びれを帆のように立てて泳いで行くのを見て思わず泣きそうになり、俺は自分の精神状態のヤバさを思い知った。
――二箇月経つ頃には一周回って独り言が激減した。
なんだこれつらい。辛すぎる。誰か俺の代わりにこの時間を過ごしてくれ。
っていうか寒い! そりゃあ城を出てから三箇月以上、季節も進むのは分かるけどさ!
寒い! ずっと海風に吹かれてるの寒い!
外套に包まって震える日々の切なさが分かるか。
足先指先は常に凍りそうだよ、俺の得意分野が熱を扱うことじゃなかったら死んでたよ。
ずっとゆらゆら揺れる筏の上なのもつらい。地に足着けたい。
――そんな毎日にささやかな変化が訪れたのは、いよいよ冬に向けて気温が一直線に落下していっているある日のことだった。
変化といっても大したことはない。
船影を見たのだ。
その瞬間の俺の安堵を言葉に表すことはできない。
良かった、人がいた、こっちで合ってた、と、胸中を渦巻いた感情をどう表現できよう。
が、すぐにその安堵は怪訝に変わった。
船の形、おかしくね?
帆が無い――気がする。
帆柱にしては太すぎる柱が聳えているように見える。
あと、なんかでかくないか……?
見掛けたその船とそう接近したわけではなかったが、そのときに覚えた違和感に、俺は嫌な予感すらしていたものだ。
――そしてその違和感は、別の形でばっちり当たった。
やっと陸地が見えたと喜んでいた翌日――嵐が来たのである。
唸る風に叩きつける雨粒、昼間なのに夜のような暗さ、低く圧し掛かる雲の中で閃く雷光。
荒れ狂う海に翻弄されながら俺は泣きそうになっていた。
なんで、なんで。あとちょっとだったじゃん。陸見えてたじゃん。
やっと陸見えたって喜んだらこれって、なんなの? 俺、何かに呪われてるの?
濡れないように魔法で自分を庇っていたのも最初のうちだけで、そのうち濡れる云々の前に沈まないことに全力を注がねばならない状況になった。
なんでかって? 遂に筏がぶっ壊れたからだよ。
辛うじて丸太数本だけが繋がっているような状態で、その筏の残骸にしがみ付く俺は必死だ。
何しろ、海に落ちれば溺れるが、落ちなくても溺れるような雨の量。
もう手足の感覚は朧気で、海の水も雨も凍るように冷たい。
信じられない、なんだこれ。
風景は白く煙って見えて、命の危険をひしひしと感じる。
波が立ちすぎて、何度か頭から海水を被った。
もう自分が海の上にいるのか海の中にいるのか分からん。
息が出来ない。沈みそう。いや、もうこれ沈んでる?
もがいてもがいて、呼吸をするのも息継ぎレベルがやっと。
体力気力ともに万全ならばちょっとは対抗できたのかも知れないが、そもそも魔法を使っても大自然に逆らうのは難しい話で、飢餓状態で漂流を続けていた俺としては、魔力なんてもうみそっかす程度にしか残っていない訳で――
――あれ? あれ、俺、このままだと死ぬんでは……?
風と波と雨に翻弄されて、自分がどの辺にいるのかも分からない。
陸地からは離れちまっただろうな、やっと見えたのにな。
――っていうか俺、生きてる?
そんな状態で突如として固形物にぶつかったときの俺の安堵を察してくれ。
これは何だ、より先に、ああまだ俺生きてた、って思ったね。
土砂降りの雨の中で必死に目を開きながら見れば、俺がしがみ付く丸太ごとぶつかったのは、どうやら岩だった。
――岩。
――岩!?
陸地じゃん!
嵐の中で陸地から引き離されたと思ってたけど逆だった!
逆に辿り着いてた!
マジか!
今生で初めて運が向いてきた!
歓喜と焦りの中で、俺は丸太からえいやと手を離して岩の方へもがいた。
何しろ大荒れの海の中、この一瞬にも俺は流されて行ってしまうかも知れないからね。
ごつごつとした岩につかまり、しがみ付き、必死に足をばたつかせながら陸地に上がろうとする俺を、容赦なく雨が打ち波が叩く。
痛い。冷たいし痛い。
上半身が陸地に乗った。
やった、と微かに思った。
霞む視界の中にも、続いていく陸地が見える。
単なる海から突き出してる岩とかじゃない、本当に陸地だ。
暗い中にも雷光が閃き、岩場が続いているのが見える。
助かった――と気が早くも考えた直後、真後ろから砲弾のように押し寄せてきた波に殴られて、俺は前のめりに体勢を崩して頭を打った。
――意識暗転。
油断ってするもんじゃないね。