04◆ 夢物語の算段を
「――死ぬかと思った……っ!」
泥を跳ね除けて起き上がり、俺はぜぇぜぇと喘ぎながら述懐。
魔王じゃなければ危なかった。押し潰されてるところだった。
――と、呑気にそんなことを考えている場合ではない。
心臓をばくばくさせながら、俺は周囲を一瞥。
俺のすぐ隣から、ぷはっと息を継いで顔を出すディセントラ。
腕にしっかりとムンドゥスを抱えており、あの咄嗟の瞬間であっても、彼女がしっかりとムンドゥスを庇ったと見て取れる。
ムンドゥスは気絶しているかと思いきや、頭から泥を被った状態であってなお、ぱっちりと銀色の目を開けていた。
全身に走る罅割れが、土砂崩れの衝撃で広がったのではないかと、俺は思わず陶磁器を案じるような気持ちでムンドゥスを眺め遣ったが、どうやらその様子はない。
ディセントラに触れられただけで割れたこともある皮膚なのに、妙なことだ。
土砂崩れが俺たちを襲った瞬間、俺がしたことと言えば、とにかくディセントラに向かって走ることだった。
何が起こったかは明確には分からなかったものの、魔法を強制的に打ち消されたように見えた彼女が、すぐさま魔法で身を守れるとは考えられなかったからね。
もはや飛び付くようにしてディセントラ(と、ついでにムンドゥス)を庇いつつ、俺は迫る土砂崩れと自分たちの間の空気を硬化させ、傾斜を作って土砂をやり過ごした。
ディセントラもムンドゥスの腕を掴んでこっちに走ってくれていたから助かった。
頭のすぐ上で、硬化させた空気を土砂が叩いて流れ落ちていく音が聞こえて肝が冷えたね。
更に、硬化させた空気の下、足許から押し寄せる土砂の量にも絶句した。
多分上から流れてくる質量に押されて、周囲に土砂が溢れたせいだと思うけれど、お蔭で足を取られて転んで、腰まで埋まってしまった。身長の低いムンドゥスは完全に頭から土砂を被っていた。
――そんなに大規模な土砂崩れじゃなくて良かった……。
恐らくは、斜面のほんの一部が崩れ落ちた――その程度のものだったんだろうけれど、それにしても怖すぎる……。
流れる分だけの土砂が、俺の作った傾斜を流れ切り、質量からして流れ切らなかった分を、無理やりに〈動かし〉て、何とか頭上の土砂を薄くして空気の硬化を解除し、顔を出したのが、まさに今のタイミングだったというわけだが……。
動悸がする。
腰から下は土砂に埋まったまま、身を捻って背後を振り返る。
水滴の滴る髪を掻き上げると、手指に付着していた泥汚れが髪に付いたのが分かった。
空気を硬化させて盾と成し、傾斜を作って土砂崩れをやり過ごそうとしたのは、何も自分の頭上に限ったわけではない。
無我夢中ではあったものの、みんなの頭上を庇うように範囲を広げたつもりだ。
だが、しっかりとみんなの方を見て魔法を展開したわけではないから、取り零しがあってもおかしくはない。
肋骨の中で暴れる心臓と、血の気が引いていく感覚を如実に覚えながら、俺は声を張り上げた。
「おい、生きてるか?」
コリウスは大丈夫だろう。
あいつは自分で土砂を〈動かし〉て安全を確保できるだろうし、もっと言えば瞬間移動で難を逃れられるはずだ。
降り注ぐ雨の中に見えるのは、泥を引っ被ったカルディオス。誰かを抱きかかえて庇うようにしていた。
格好からして、押し寄せる土砂に足許を掬われる格好で転び掛けたところをカルディオスに支えられたのだろうそれは、目許に跳ねた泥を鬱陶しそうに拭うアナベルだった。
俺の声にカルディオスとアナベルがこっちを見た。
雨が頬を叩き、髪を伝い、土砂の飛沫を徐々に流していく。首筋を伝う雨粒が冷たい。
カルディオスの、大きく見開かれた翡翠色の目とばっちり目が合った。
二人とも同じことを考えているのがありありと分かった。
俺たちのどちらもが、思わず言葉を失っている中、アナベルがぼそりと呟いた。
「――あら、人数が足りないわね」
そんなにあっさり言うなよ!
今、俺に見えているのは、ディセントラとムンドゥス、そしてカルディオスとアナベルだ。
コリウスとルイン、そして――一番大事な――トゥイーディアがいない。
コリウスは多分大丈夫だろう。
トゥイーディアも、多分。
一番生命が危ぶまれるのはルインだが、だが、この状況。
――フラッシュバックするかのように思い出されるのは、プラットライナでの一幕。
世双珠の密輸団の自爆に巻き込まれて、大怪我をしたトゥイーディアである。
二度とああいう光景は見たくないが、だからこそ恐怖が俺の中に刷り込まれている。
――大丈夫、きっと大丈夫。今回は大丈夫、多分その辺にいる。
今はちょっと泥に埋まってしまっているだけで、すぐ顔を出してくれるはず……。
怒濤のように自分自身に言い聞かせる内心とは裏腹に、俺はけろっとした顔だった。
何しろ、トゥイーディアを案じる色は一切顔に出せないもので。
降り注ぐ雨に顔を顰めつつ、俺は大声で呼ばわった。
「――コリウス!」
「ここだ」
即答で返事があって、俺のすぐ傍にどこからともなくコリウスが現れた。
やはりというべきかさすがというべきか、泥の飛沫ひとつ浴びていない。
しかも今も、微妙に土砂から浮いた位置に佇んでいる。
背丈でいえば俺の方がコリウスよりもあるはずだが、俺が腰まで土砂に埋まっている現状、今はコリウスを見上げるばかりである。
一人でさっさと逃げたことに関しては何も言うまい、こいつが薄情なのは昔から変わらない――って、ん? 一人?
銀色の髪から雨粒を滴らせるコリウスを見上げて、一秒。
俺は素っ頓狂な声を上げた。
「――え? 一人?」
「そうだが……」
コリウスが眉を顰めて俺たちを見て、濃紫の目を軽く瞠った。
口を開いた彼と俺の声が完璧に重なったが、声に出した名前は異なっていた。
「――トゥイーディアは?」
「――ルインは?」
言うまでもないが、トゥイーディアを案じたのはコリウスである。
俺の胸を拳で軽く殴って、ディセントラが険のある声を出した。
「ルドベキア、さすがに怒るわよ」
その様子を、ムンドゥスが無表情に黙り込んで見詰めている。
庇われたことに対する感謝もなければ、土砂崩れに驚いて泣き出す様子もない。
本当にこいつは人間か。人形かと思うような反応の薄さである。
ディセントラに掌を向けて宥めつつ、俺はコリウスに顔を向けたまま、
「おまえ、そこは一番自衛できなさそうな奴を抱えるなり何なりして逃げろよ」
物申す俺に、コリウスは眉間に皺を刻む。
「いや、おまえが庇うだろうと思って……」
「こっちはディセントラの方を見てたんだよ!」
力説した俺は、ふう、と息を吐いて額に手を当てる。
「埋まってたら厄介だな……」
と、呑気にそんなことを呟きながらも、俺は内心で大いに狼狽していた。
――トゥイーディアは、能力的には、周りの空気を緩衝材にするなり何なりして、この土砂を逃れられるだろう。
だが、俺たち六人に共通することだが、咄嗟に使いやすい魔法は得意分野のものだ。
トゥイーディアにしても、咄嗟に周囲の土砂を完膚なきまでに消滅させて自衛を図ろうとすることは十分に考えられる。
だが、周りに赤の他人がいれば別だ。
俺たちなら、トゥイーディアの行動も予測できるし、彼女に巻き添えで肉片にされないように退避することも出来るが、ルインにその機転はない。
だからもしも、あの土砂崩れの瞬間に、トゥイーディアのすぐ傍にルインがいた場合、トゥイーディアの自衛が一瞬遅れた可能性があるのだ。
ますます色濃くフラッシュバックする、プラットライナでのトゥイーディアの負傷。
尋常でない動悸を覚える俺と、みんな考えを同じくしたらしい。
真顔になったカルディオスとアナベルが額を突き合わせる。
二人ともまだ半身が土砂に埋まったままだが、その状況すら一時的に忘れ去ったらしい。
「イーディ、どこにいた?」
「さあ……あたしの後ろくらいにいたと思うけれど」
「あいつは? ルドの近くにいたよな?」
「よく覚えてないわ。――トゥイーディア? イーディ?」
アナベルが周囲を見渡しながら声を上げる。
本音を言えば、俺としては、今すぐあちこちを掘り返したい気持ちでいっぱいだったのだが、勿論のこと代償がある限りそれは不可能というもので。
しれっとした顔で土砂の中から脱出する俺に続きながらも、ディセントラが咎めるようにこっちを見てくる。
「あのねえルドベキア、ちょっとは心配しなさいよ……」
靴の中にまで土砂が入り込んだ感触に顔を顰めつつ、俺はコリウスが差し伸べてくれた手に掴まって立ち上がり、今度は自分がディセントラに手を伸べる。
ディセントラは、自分自身よりも先に、腕に抱えたムンドゥスを俺の掌を掴むよう誘導しつつ、周囲を見渡して叫んだ。
「イーディ? イーディ!」
ムンドゥスの小さな手が俺の掌に重なり、――正直に言えば、この不気味な少女には出来る限り接触はしたくなかったのだが――俺は彼女の手を掴んで引っ張り上げた。
その拍子に腕がぽっきり割れたり折れたりしないかとひやひやしたが、彼女は特段の痛みを訴えることもなく、俺に体重の殆どを預けた。
引っ張り上げてみると、白いドレスは想像以上に見るも無残な有様になっていた。が、当のムンドゥスは気にした風もなく、俺に手を引かれるままに土砂の上に膝を突いた。
今しがた危険な目に遭ったとは思えぬ無表情だったが、大きな鏡の色の目で俺を見上げると、何やらこくりと小さく頷く。
ムンドゥスを脇に放り出して、俺はディセントラに両手を伸ばした。
応じて両手を伸ばすディセントラと手を繋ぎ合って、「よいしょ」とばかりに彼女を土砂から救出する。
ふう、と彼女が小さく息を吐いたちょうどそのとき、俺の耳がカルディオスの声を捉えた。
「――イーディ! イーディ、そこにいたのか! 怪我は?」
この台詞の半分でも、俺に言えたらいいんだけど。
――でも、とにかく、無事だったのか。
――胸中の安堵を、顔にも態度にも出せず、俺はカルディオスの方へ目を向ける。
代償さえなければ、膝から崩れ落ちていただろうけれど。
カルディオスは少し離れた場所を嬉しそうに見てそちらへ進もうとしていて、自分が半ば土砂に埋まっていることをはたと思い出した様子だった。
アナベルと二人で俺たちの方を見てきて、「助けてー」とお道化た風情で頼んでくる。
「はいはい」
コリウスと二人でカルディオスたちの方へ向かいつつ――コリウスが超低空飛行を選び、すいすいと進んで行くのに比べて、俺は泥に足を取られながらのことだった――、俺はカルディオスの視線の先へ目を向けた。
この一動作ですら、周りは俺がトゥイーディアを案じて視線を向けたのではなく、むしろルインの方を見たと勘違いするんだろうな。
カルディオスとアナベルから、更に少し離れたところで、トゥイーディアとルインが土砂から上体を起こし、立ち上がろうともがいていた。
二人とも頭から土砂を被って、げほげほと咳き込んでいる。
ぱっと見たところ、大きな怪我をしている様子はない。良かった。
コリウスがアナベルを土砂から引っ張り上げ、カルディオスを放置してトゥイーディアたちの方へ向かった。女性優先の精神の発揮かと思われた。
無視されたカルディオスは「えっ」みたいな顔をしていたけれど。
俺は問答無用でトゥイーディアに駆け寄りたかったが、案の定そんなことは出来ず。
カルディオスの手を引っ張って彼を土砂から引っ張り出す。
「おまえ、重い」
「えー、ひでぇこと言うなよー」
そんな遣り取りをしながらも、カルディオスを泥の中から引っこ抜いて、俺は足許に苦労しながらもトゥイーディアの方へ――否、ルインの方へ。
コリウスに救出されたトゥイーディアが、今度は自らルインに手を伸ばし、彼が土砂から脱出しようとするのを助けていた。
当然ながら、二人とも手が泥まみれだ。
そうしながら、真面目な顔で彼女が言っているのが聞こえてきた。
「ほんとありがとう。助かったわ」
――礼を言うのは逆なのでは?
そう思ったのは俺だけではないようで、コリウスが訝しげに眉を上げる。
「トゥイーディア?」
ルインの手を握り、「よいしょっ」と彼を引っ張り上げつつ、トゥイーディアが照れたように笑う。
彼女のそんな表情に、俺は思わずルインに向かって、「おまえ何した!?」と詰め寄りたい衝動に駆られた。
救世主仲間たちならば気心も知れているからいざ知らず、他の男とトゥイーディアが仲良さそうな気配を察すると、俺はいつでもこんな風になる。
今後絶対に俺とトゥイーディアに進展があるはずないと分かってはいても、他の奴が横から手を出してくるのは思いっ切り警戒してしまう、俺はそういう器の小さい男なのだと自認している。
トゥイーディアに婚約者候補がいると知ったときも、俺は全力でそいつのご逝去をお祈り申し上げたからね。
なお、その気持ちは今も変わらず。
――まあ、それも表には出せないんですけどね。
「思わず、降って来る土砂を消滅させようとしたんだけど、そういえばみんなもこの子もいるなって思い出して、ちょっと焦ったのよ。そしたら彼が上手いこと庇ってくれて」
手を握ったまま、ルインに向かって表情を綻ばせるトゥイーディア。泥が頬にくっ付いていても可愛い。
――てか、いや、ルインに庇われるも何も、ルインがいなけりゃトゥイーディアは十分に自衛できたんじゃねぇか。
まあ、破壊一辺倒な俺たちの中でも、群を抜いて防御に脆いのがトゥイーディアだけれど。
戦闘中ならば、防御などは端から考えず、攻撃は最大の防御という格言を地でいくことの出来る彼女だが、自然災害相手だとか敵側に人質がいる場合だとかは、極端なまでに動きを封じられることになるから。
ルインがちょっと照れたように「いえ……」とか口走っている。俺はいらっとした。
思わずこの場にルインを放り出して行きたくなったが、それが俺の妬心ゆえ、妬心がトゥイーディアへの慕情ゆえのものであるために、俺は絶対にそれを提案できない。
複雑な心境ながらも、表情は平生どおりで、泥上で歩を進める俺に、ルインがぱあっと顔を輝かせた。
いつまで手ぇ握ってんだよ離せよ。
「兄さんっ! 兄さんご無事で」
トゥイーディアが俺の方を見た。
泥に汚れた顔の中、飴色の目をぱちりと瞬かせて、彼女は得心したかのように俺に声を掛けた。
「きみがこの子のこと優秀って言ってたの、納得したわ。別に魔力潤沢ってわけではないけれど、魔法の構築が早いのねぇ」
褒められて、ルインがいっそう嬉しそうに俺を窺った。
尻尾があったらぶんぶん振っていただろうというような表情に、俺は思わず呻く。
トゥイーディアがルインの手を離し、こっちに向かって歩いてきた。
彼女が足許に苦労しているのを見て取って、俺の後ろでアナベルがぱちんと指を鳴らす。
途端に足許の土砂は乾き切り、固まって、段違いに歩きやすくなった。おぉ、さすがアナベル。
「ありがと!」
トゥイーディアが朗らかにそう言って、小走りで俺の方へ――というか、俺たちの方へ寄ってきた。
雨に濡れた蜂蜜色の髪を鬱陶しそうに掻き上げつつ、少し振り返って、コリウスにも自分に続くよう合図する。
訝しそうにしながらも、コリウスも大股に俺たちに寄って来た。
ルインが少しばかり不安そうな顔になったが、俺の顔をちらりと見て、その場に踏み留まった。
とはいえ、先程の輝くばかりの表情はどこへやら、一気にしゅんとしてしまっている。
六人が頭を寄せ合ったところで、トゥイーディアが小声で、探るように言った。
「――ねぇ、もう、ルインくん連れて行っても良くない?」
俺たち絶句。
代表して、カルディオスが呆気にとられた声を出す。
「――おまえはまた……突拍子もないこと言い出すな?」
そもそも俺たちがこんなところにいるのも、元を質せばトゥイーディアが、魔界遠征の勅命を勝ち取ってきたからである。
今生の俺たちはトゥイーディアに振り回され過ぎている。
「いやだって……」
言い淀むトゥイーディアに、アナベルが真顔で言い渡した。
「情が湧いたとか言わないでよ。引っ叩くわよ」
トゥイーディアは一歩後退ったものの、コリウスの陰に隠れるようにしながらも言葉を続けた。
「いや、あんまり健気で可哀想になったっていうのもあるんだけど……」
「馬鹿なの?」
と、これは俺。
間髪入れない罵倒の響きに、誰よりも俺が消えたくなった。
「喧嘩しないでね」
ディセントラが差し込むように口早に言い、淡紅色の目でトゥイーディアを見詰めた。
「『可哀想になったっていうのもあるんだけど』、なに? 続きは?」
トゥイーディは俺をじとりとした目で一瞥してから、ディセントラの背後にぼけっと突っ立っているムンドゥスに視線を移し、小声で囁いた。
「よく考えると――あの子をヘリアンサスに対する人質にするにしても」
うん、と頷くみんな。
ちなみに俺は、望むと望まざるとに拘わらず、仏頂面で腕組みの姿勢。
「ガルシアに戻ってすぐにってわけにはいかないじゃない?
――あ、いや、みんながガルシアに戻ってすぐ、あいつを殺したいと思ってるなら悪いんだけど」
慌てたように言い添えて、トゥイーディアは、ぎゅ、と泥に汚れた両手を握り合わせた。
「お父さまの――リリタリスのことを考えると、あいつを殺すのは、あいつが正式に私の婚約者になってからでないとまずいの」
「…………?」
俺は、トゥイーディアの言葉を聞き間違えたかと思った。
思わず真顔で彼女の顔を凝視した。なに言ってんだこいつ。
「――イーディ、おまえ、正気?」
カルディオスが大きく目を見開き、愕然と言った。代弁ありがとう。
「いや、おまえがおまえの、今の実家のことを気に掛けるのは分かるよ。けど、“正式に婚約者になってから”?
もっと自分を大事にしろ!」
魂を振り絞ったかの如き忠告も、トゥイーディアに響いた様子はなく。
「してるってば」
トゥイーディアはけろっとしていた。
俺は頭痛を覚え始めた。
他のみんなの顔を見てみると、みんな同じ、愕然とした顔をしていた。
ディセントラに至っては顔を覆ってしまっている。
「別に、婚約者になるくらい。何がどうこうされるわけでもないし」
コリウスとアナベルが揃って額を押さえ、カルディオスが頭を抱えた。
それを他所に、トゥイーディアはきっぱりと。
「ガルシアに、私の正式な婚約者が留学していたって事実が要るの。
婚約者候補のままのあいつに死なれたんじゃ、お父さまの面目が潰れてしまう」
「あのなあ!」
カルディオスがトゥイーディアの肩を掴んで揺さぶった。
「俺たちは今まで一回だってあいつに、傷ひとつ付けられたことはねーんだぞ! それを、――捕らぬ狸の皮算用にも程があるだろ!」
「捕らぬ狸であろうと、掘り当ててもいない鉱脈だろうと、夢物語だろうと、」
カルディオスの手を振り解きつつ、トゥイーディアは頑なな声音で言った。
「あいつが私の婚約者になってくれない限り、事を起こすことが出来ないの。――多分、私たちがガルシアに帰りさえすればすぐ、婚約は決まると思う。元々、留学が始まればすぐに、婚約が決定する手筈だったし」
ディセントラがその場にしゃがみ込む。
それを、むしろびっくりしたように眺めてから、トゥイーディアは改めて俺たち全員に真摯な視線を配った。
「だから、私の都合になって本当に悪いんだけど、ヘリアンサスを殺しに掛かるのはガルシアに戻ってすぐっていうわけにはいかないの。少し時間が要るのよ」
「――まあ、いいんじゃない」
アナベルがぼそりと呟いた。
雨に濡れて額に張り付く薄青い髪を除けて、滴の伝う指先をぴっと振る。
「あたしたちが仕掛けるときが遅ければ遅いほど、あたしたちは長生き出来るってことでしょう? どうせ結果は見えてるようなものだし」
歯に衣着せぬ言いように、俺はもはや感嘆を覚えた。
まあ確かに、今まであいつと面と向かって戦って、生き残れたことはないんだけれども。
むかっとしたように、カルディオスがアナベルの方を向いた。
「アニー、そういう言い方――」
「カル」
カルディオスが眉を顰めて言い差すのを、トゥイーディアが窘めた。
そしてそれを、なぜか更に窘めるように、アナベルがトゥイーディアを見た。
「トゥイーディア、いいから」
なぜかは分からなかったが、トゥイーディアがびくりと肩を揺らした。
何か言おうとして、しかし小さく頭を振る。
そして、仕切り直すように俺たちをもう一度、順番に見遣った。
「――ね、そういうことだから、あいつを殺すのは少し後になって構わないかしら?」
ちょっとずつ躊躇ってから、俺たちは頷く。
ディセントラも立ち上がり、疲れた様子ながらも頷いた。
ヘリアンサスのことは“絶対に殺さなければならない”が、それが多少後ろ倒しになったところで構うまい。
俺たち全員が同意を示すのを見守って、トゥイーディアは軽く頭を下げた。
「ありがとう。
――と、いうことで」
頭を上げ、首を傾げるトゥイーディア。
「あの子を、人質としてヘリアンサスの前に出すタイミングね。
――私たちが戻った当初から、あの子がいることを気取られるのはまずいでしょう?
どうせなら、私たちと戦う直前か――あるいはそれこそ、戦ってる最中にあの子を見るのが、一番衝撃が大きくなると思うの」
真顔で言い切る彼女に、俺は思わず息を吸い込んだ。
――トゥイーディアは、アナベルとは違って、本気で、今生においてヘリアンサスを殺そうとしている。
それが分かる、凛とした声音だった。
「だからそれまで、あの子のことを隠しておかなきゃいけない。
私たちがあの子を見張るのにも限界があるわ。何しろ私たちは、あいつと同じガルシアの隊員だから。
あの子にずっと付いていることは出来ないし、付いていなければ最悪、あの子がふらふらヘリアンサスに顔を見せに行ってしまうかも知れない」
ディセントラがちらりとムンドゥスを見て、雨に打たれながらもぼーっと立ち尽くす彼女の姿に、深く頷く。
「……ありそうね」
トゥイーディアは肩を竦め、指を立てた。
「でしょ? ――そこでルインくんよ」
話が見えてきた。俺は思わず額を押さえる。
「……おまえ、ルインにあいつを見張らせるつもりか」
「だって、適任でしょ?」
首を傾げ、トゥイーディアは指を折りながら。
「ひとつ、あの子は多分ルドベキアを裏切らない。指示は完遂してくれそう。
ふたつ、大陸に行けばあの子の身寄りはルドベキアしかない。立場からして裏切れない。
みっつ、魔術師だから大抵の事態には対処できそう。さっき彼が魔法を使うのを見て思ったけれど、結構優秀みたいだし――」
「あのな、問題点をすっ飛ばすな」
トゥイーディアを遮って、俺は低い声で言った。
「どうやってあいつを大陸まで連れて行く? 魔界から二人も連れ出すのを、船の連中が黙って受け容れると思うか」
眩しいほどの笑顔で、トゥイーディアが俺を見た。
俺は内心でぐらっときた。
こんな顔をされたら、何を言われても二つ返事で頷いてやりたくなる。――出来ないけど。
「――船の人たちも、ルドベキアの言うことなら聞いてくれないかな」
ぽん、と手を打ったのはディセントラだった。
「ああ、確かに」
「でしょ?」
カルディオス越しに手を取り合うトゥイーディアとディセントラは微笑ましいが、――そうじゃなくて。
「俺頼みかよ!」
地団駄を踏む俺に、トゥイーディアがむっとしたような顔を向ける。雨に細められる飴色の目。
「いいじゃない。あの子を人質に出来れば、私たちにも勝算が出てくるかも知れないのよ。何を渋るのよ」
むすっと顔を背ける俺に溜息を吐いて、トゥイーディアは俺以外の四人を見る。
「ね、どう思う?」
俺を他の四人に説得させようとしてやがる。
「――まあ、確かに適任だ。ムンドゥスをここまで連れてきた以上、面倒を見ることは必須になるだろうしね……」
顎に手を宛がったコリウスが呟くように応じ、カルディオスが肩を竦める。
「コリウスがそう言うならそーなんじゃね?
――イーディの事情から、俺たちがあいつを殺しに掛かるのはガルシアに戻ってすぐじゃない、ムンドゥスをそれまであいつの目に入らないように見張っとかなきゃいけねー、見張り番としてはルドの弟くんが適任――ってことだよな?」
「弟じゃねえ」
俺が歯軋りする一方で、トゥイーディアはうんうんと頷き、カルディオスの方へ一歩踏み出して背伸びし、彼の頭をよしよしと撫でる。
「そうそう。ほんと、私の都合で悪いんだけど。――いいでしょ?」
「いーけど……」
カルディオスが俺を見る。
アナベルも同様に、首を傾げて俺を一瞥した。
「まあ、万事ルドベキア次第ね……」
船の人たちを誤魔化すのも、ルインに指示するのも――と続けるアナベルに、全員がこくりと頷く。
特に大きく頷いたトゥイーディアが、俺から離れる方向に一歩下がって、両手を顎の下で組み合わせた。
「――私から頼むと逆効果だから、みんなでルドベキアを説得してくれない?」
すかさずカルディオスが、がしっと俺と肩を組んできた。
「ルド、どうだ?」
はあっと大きく溜息を吐いて、俺はカルディオスの腕を振り払った。
「あーもう、分かったよ」
トゥイーディアがぼそりと、「なんで私以外からのお願いはすんなり聞くんだろ」と呟くのを耳に入れつつ、俺はがしがしと濡れた髪を掻く。
「ルインにムンドゥスを見張っとくよう指示して、船の連中も誤魔化せばいいんだろ。――分かったよ」
ぼやく口調の承諾にはなったが、視界の隅でトゥイーディアがぱっと笑顔になったのを見て、俺はちょっとだけ気分を上げた。
が、さすがに申し訳ないと思ったのか、トゥイーディアがそっと俺に向かって言ってきた。
「――あの、船の人たちに関しては、どうしても……ほんとにどうしても駄目だったら、私が何とかするから!」
俺はトゥイーディアを見た。
確かにトゥイーディアの固有の力なら、船の連中を騙し切ることも不可能ではないだろう――彼女はその手段を厭うだろうけれど。
無理を押して嫌なことをしなくてもいいと伝えたかったのだが、眼差しは自覚できる範囲でも冷ややかで、口調はそれに輪を掛けて冷たいものになった。言葉尻には皮肉すら籠もった。
「おまえの出し惜しみはいつものことだろ」
「ルドベキア」
ディセントラが俺を窘めるのを、はいはいとばかりに聞き流して、俺は踵を返してルインの方を向いた。
内心は悔恨に埋まっていたが、顔にも態度にも出せるわけがない。
ルインは俺たちの方を不安そうに見ていた。
自分が話題になっているのは、何となく雰囲気で把握していたらしい。
なぜか地面に膝を突いていて、覚悟を決めた顔をしていた。
もしかしたら、ここで捨てて行かれると思っているのかも知れなかった。
そんな彼の方に歩を進めて、俺はルインと視線を合わせるためにしゃがみ込む。
膝に肘を突いて、首を傾げて、俺は吐き出す息に載せて打診した。
「――今更だけど、おまえさ。……俺たちと大陸まで一緒に来るか?
頼みたいことがあるんだけど」
ぱあっと音が鳴りそうなくらいの勢いで、ルインの顔が輝いた。
柘榴色の目が潤んで、伸ばされた彼の手が俺の手をぎゅうっと握る。
俺はちょっと仰け反ったが、それに気付いた様子はない。
そして、ルインは大きく何度も頷いた。
「はいっ!! 何なりと――何なりとお申し付けください!」




