31* 断章
「ね、トゥイーディア――」
アナベルに声を掛けられ、私は彼女の方を向く。
魔王の城から出て庭園を突破し、訓練場の傍を歩いているときのことだった。
時間帯のせいなのか、人通りはなく周囲は静かで、あの城から脱出できた直後ということもあって、私の気分は上向いていた。
それに、ルドベキアに対する、魔界からの要らぬ手出しはもうなくなる。
これから機織り塔で、兵器の作り手とやらを始末できれば、私たちに下された勅命は完遂できたこととなる。
あとは、ヘリアンサスを殺すことが出来れば。
――そう考えながら、私は首を傾げてアナベルの言葉を待った。
そよ風に薄青い髪を揺らしながら歩くアナベルは、しばし逡巡するように薄紫の目を伏せていたが、やがてふっとその目を上げて、いっそう声を抑えて囁いた。
「――心当たりがないなら、いいんだけど……」
その切り出し方に、ふと嫌な予感がして私は歩調を鈍らせた。
アナベルもそれに合わせつつ、探るように私の目を見てくる。
「もしかしたらと思っていて……、偶然かも知れないと思っていたんだけど、あなた――」
話題を逸らそうとして口を開いた。
だが、思考が空転して言葉が出てこない。
間抜けな顔を晒す私をじっと見て、アナベルは、そよ風にすら浚われそうなほど小さな声で、囁いた。
「――あなたは知ってるの? あたしが……」
続く言葉はなかった。
当然だ。
アナベルは――いや、私たち全員が、贖罪について口には出せない。
私は目を逸らして、辛うじて言った。
私は――私自身がとてもよく分かっている短所として、感情の振れ幅が人より大きい。
そして振り切った感情を元に戻すのが苦手で、お陰でカルディオスやディセントラには、頑固だなんだと言われることが多いけれど。
でも私の数少ない特技の一つが、感情をぐっと堪えて表さず、取るべき行動を採ることが出来るというものなのに。
動揺を抑えて目を見開いてみせろ。首を傾げてみせろ。
「なに言ってるの?」と笑ってみせろ。
――そう自分自身に指示を出すのに、表情が思うようにならない。
言葉は喉に絡んだ。
「……なんのこと?」
「ディセントラのことを知ってたんでしょう」
断固とした口調の囁きが耳に入り、私は覚えず臍を噛んだ。
隠しようもないその一瞬の感情が顔に出た。
――やってしまった。
ディセントラの贖罪は、直截的に私たちの命に関わる。
だからこそ、ディセントラはこれまでも、魔王の城に入れば単独行動を取りたがることが多かったのだ。
でも私は、そうであっても彼女を守りたい。
だから、口に出せるぎりぎりの範囲で彼女に伝えた。
今回は大丈夫だと、何があっても私が守ると。
――同じ、贖罪を負っている身ならば勿論、あの意味は分かっただろう。
「あたしのことも知ってるの?」
アナベルが、透き通るような眼差しで私をじっと見ている。
――どう答えればいいだろう。
どう答えれば、アナベルは傷つかずに済むだろう。
考えあぐねる私をじっと見詰めるアナベルの唇が震えた。
「……知ってるのね、あたしが――あの人を見捨てたって?」
「違う」
思わず、即答するようにそう言葉を返していた。
言葉を口に出す前に思考を介すよう、自分に癖づけているはずなのに。
はっとしたが、遅い。
――アナベルの、ただでさえ白い頬から一切の血の気が失せていた。
「……違う、きみは――きみは……」
言葉にならない。
ディセントラがこちらを振り返ろうとするのを視界の隅に収めつつ、私は思わず目を閉じた。
――アナベルには、ただ一人の最愛の人がいる。
その人のことは、彼女の深い傷になっていて、私たち全員の傷でもある。
――けれどその傷は、アナベルが一人で抱えてきたものは、私たちが思っていたよりもずっと重くて、深い。
どうすれば贖えるだろう。
――あの人生で、きみに全てを諦めさせてしまったのは、私だ。
***
「これ、本当にチーズなの? 匂いからして違うんだけど……」
「最近新しく作られたんですよ。生クリームとミルクを混ぜてあれこれして……。酸味があって美味しいんです。はい、混ぜてください」
「どのくらい混ぜれば……」
「滑らかになるまでです。まだ市井に行き渡っているものではないですからね、物珍しくて喜んでいただけるんじゃないでしょうか」
器に入れられた白いチーズの塊を、木べらで懸命に混ぜるアナベルの後ろ姿を見つつ、私はこっそりと笑いを噛み殺した。
ディセントラも同様で、隣の料理人にあれこれ指図をされているアナベルの様子が、珍しくてならない様子だった。
「はい、お砂糖入れましょうね」
「待って、それ全部? そんなに入れて大丈夫なの?」
「美味しくなりますから」
「健康的な問題を気にしてるんだけど!?」
「さっきバターを入れるときも同じこと言ってましたねえ」
わあわあと騒ぎながらも、計量された砂糖をチーズに摺り混ぜるアナベルの顔は真剣だ。
――ここは、カルラット王国の王城――その厨房。
今生において救世主として世間に大々的に露見してしまった私は、露見前から一緒にいたカルディオスとディセントラと共にこの城に招かれた。
噂を聞き付けてやって来てくれた、ルドベキアとコリウスとアナベル――いつもの如く、「なんでこの人は来てくれるんだろう」ということを不思議に思うレベルで不機嫌そうかつ冷ややかな表情と態度のルドベキアだったが、やっぱり無事な顔を見られるのは嬉しい。彼はコリウスと一緒にここまで来てくれた。
そしてアナベルが合流したのは、ルドベキアよりも更に後で、つい二日前。
――彼女には同行者がいた。
今日は彼女が厨房を使いたいと希望したため、救世主の威光を振り翳してこうして厨房を借り切っているわけだった。
ついでに料理人の方も貸していただいた。恰幅のいい優しそうな中年の料理人さんは、アナベルの隣に付きっ切りであれこれと教えている。
「はい、卵です」
「えっ、さっきも卵使わなかった……?」
「あれは土台の部分ですよ。これはまた別」
「なるほど……混ぜるのね?」
「はい、頑張ってください」
ぺちゃぺちゃと音をさせながら材料を混ぜるアナベル。
彼女の、長く伸ばされた薄青い髪は、耳より上の位置で一つに纏められていた。
――私の記憶にある限り昔から、耳より上の位置で全ての髪を結い上げるのは既婚者の髪型だ。
「続いて生クリームです」
「このチーズってそれ由来じゃないの?」
「乳製品同士の併用を認めない気ですか。はい、へらをこちらに。泡立て器に持ち替えましょうね、“スクローザの若奥様”」
アナベルの髪を結い上げる結い紐は、随所に藍玉が通された組紐。
そして髷に添えられて光る、銀細工の髪飾り。
――この長い人生で初めての、アナベルが結婚していたという衝撃の事実に、私たちが残らず腰を抜かしたということは言うまでもない。
彼女の夫はシオン・スクローザ。
この人生において、アナベルは十九歳、彼女の夫は二十一歳だった。
朴訥とした好青年で、赤い髪に雀斑の散った顔、優しそうな灰色の目をしていた。
目の色は光の加減によって薄紫を帯びて見えることもあって、アナベルを見るときの、溢れんばかりの愛情に満ちた瞳は、見ているこっちが照れてしまうほどだった。
馴れ初めを訊いてみたが、アナベルは照れて教えてくれなかった。
シオンさんの方に訊いてみたところ、照れながらも少しだけ話してくれた。
曰く、彼は軍人をしていて、非番の日に趣味の風景画を描きに出掛けていた先で出会ったそう。
偶然に絵を見られて、アナベルがその絵を気に入ったことがきっかけになったそうだ。
「あんなに可愛らしく笑う人は見たことがありません」
と、ほのぼのと語ってくれたが、話を聞いていた私もカルディオスも大いに驚いた。
無表情が基本のアナベルは、そんなに笑わない。
たまにちらっと笑うけれど、他人に対しては滅多に笑わない。
その笑顔を惜しみなく向けられているとは一体。夫婦ってすごい。
今回は、シオンさんが一時的に休隊してアナベルに付き添ってくれているということだった。
軍隊はそうそう休んだりできるものではないはずだが、アナベルがどうしても付いて来てほしいと頼んだらしい――という顛末を聞いている最中に、すっ飛んで来たアナベルにシオンさんが連行されて行ったものだ。
「あんまり喋らないでって言ったでしょう、からかわれるでしょ」
「いや、きみのことになるとつい喋ってしまって」
そんな遣り取りが聞こえてきて、微笑ましさの余りに私もカルディオスも言葉を失っていた。
――今日は、アナベルがシオンさんに何かお菓子を作りたいと言ったのだ。
珍しいくらいに大騒ぎしている彼女の様子から、気合の入れようも分かるというもの。
私とディセントラは後ろで眺めているだけだったが、奮闘するアナベルからは、微笑ましさを通り越して切なさまで感じてしまう。
「……イーディ、話した?」
ディセントラがそっと私に話し掛けてきて、私は小さく頷く。
ずきん、と胸が痛んだ。
「うん、昨日」
「何て言ってた?」
私は息を吸い込む。
――喚き散らしたい。泣き叫びたい。
どうか一緒にアナベルを説得してくれと、ディセントラに縋りたい。
――でも、それはしてはいけない。
アナベルの説得に当たらせるということは、ディセントラに自ら生還の可能性を下げてくれと頼むようなものだから。
だから、この件でアナベルと話すのは私だけでいい。
正当な救世主である私だけでいい。
そう分かっているから、私は声が震えないよう抑えることが出来た。
「――アナベルも、魔王討伐には参加するって」
ディセントラが小さく溜息を吐いた。
それは、失望のゆえか安堵のゆえか。
――昨夜、私はアナベルに、今回だけは魔王討伐から身を引くように勧めた。
何しろ、これまで惨殺された覚えしかない魔王の許へ向かうのである。
アナベルはまだ結婚して半年しか経っていない。アナベル・スクローザを名乗った数が、まだ余りにも少ない。
だからこそ、今回だけは魔王討伐から外れて、穏やかに過ごすのはどうかと打診した。
――返答は“否”だった。
前回の人生においては、私たちは五人で魔王討伐に向かわざるを得なかった。
コリウスが恋人に後ろから刺されるという、許し難い卑劣な行為でこの世を去ったから。
そして戦力を一人欠いた状態の私たちは、いつも以上に呆気なく魔王に殺された。
――その経験があるからかも知れない。
だからアナベルは、あんな風な、決心し切った眼差しではっきりと答えたのかも知れない。
アナベルの瞳は小動もせず、少しも潤まなかった。
そして、私がなお重ねて彼女の説得をしないのは、アナベルの判断が正しいと分かっているからだ。
心情的には、私の中ではアナベルとシオンさんの幸福が全世界に優先する。
だがそれは私の主観であって、客観的に見れば、シオンさん一人が悲しみに暮れることと魔王討伐――この二つは比べようもなく、魔王討伐の方に大義があることを理解しているから。
ふう、と息を吐いたアナベルが、振り返って厨房の出口の辺りを見た。
そこで、カルディオスとルドベキアが壁に凭れて何かを楽しそうに喋っている。
コリウスは、今シオンさんと一緒にいるはずだ。
壁に凭れて、時折手振りを交えながら笑顔で話すルドベキアを見て、私はもう何度目か分からない、鈍い胸の痛みを感じる。
なぜかは分からないが――もう覚えていない昔に、盛大な仲違いでもしたのかも知れない――ルドベキアは、私にだけは徹底的に冷ややかに接する。あんな風に気安く笑ってくれたことはない。
長身を壁に凭せ掛け、端正な横顔をこちらに見せるルドベキア。
私が見る彼の顔は横顔が多いから、思い出すのも大抵、私ではない誰かに向かって笑っているルドベキアだった。
「ルドベキア!」
アナベルが呼んだ。
ルドベキアはカルディオスとの会話を打ち切って、しかし表情は親しげで楽しげなまま、アナベルの方へ視線を向けた。
この人生での歳は二十三、精悍に灼けた顔に笑顔が浮かぶ。
「おう、どうした」
「火の出番よ。あなたなら火力もちゃんと調整できるでしょう」
呼び付けるアナベルに従って、こちらへ向かって歩を進めつつ、ルドベキアはわざとらしく目を丸くした。
明るい厨房の中では、秋の蒼穹の色に映える瞳。
「菓子作りの火は担当したことねぇけど?」
「失敗したら許さないから」
「理不尽だな!」
はは、と笑いを漏らしたルドベキアが、直後に私の視線に気付いたようですっと表情を醒めさせた。
徹底的に平淡な、無関心で冷ややかな眼差しが私を掠めて、しかし一瞬後にはアナベルに視線を返して楽しそうな表情に戻っている。
なんだかんだ言いながらも、ルドベキアは非常に丁寧に火を扱ったようだった。
「これなら毎日厨房にいてほしいですなあ」と料理人さんに言われた彼は苦笑していたが、恙なくアナベルのケーキは完成した。
シオンさんに絶賛されたアナベルは嬉しそうで、ああまで緩んだ彼女の表情を、私たちは見たことがなかった。
――本当に幸せそうだった。
出立まであと二日。
事によると、アナベルとシオンさんの生活はあと二日で終わってしまう。
今生の正当な救世主は私だから、あちこちの貴族や王族に呼び立てられ、挨拶に回るのも殆どは私一人がやっていた。
アナベルたちは飽くまでも付き添いの域を出ない。
あれこれとお偉いさんたちに頭を下げて回るのは、まさしく救世主の地位に当たることを、私たちが内々で「貧乏くじを引く」と言っていることの所以といっても過言ではない。
実際私も、前回の人生においては、忙しく立ち回るカルディオスを横目にのんびりと過ごした覚えがある。
けれどその日、挨拶回りにアナベルが同行を申し出てくれた。
私は大いに驚き、かつ、思わず言ってしまった。そんなことよりシオンさんといたら、と。
「そうね」と言いつつも、結局アナベルは私に付いて国王の前まで挨拶に来た。
魂が飛んでいきそうになるほど退屈な挨拶を終えたところで、私は重臣の皆さんとの挨拶に移った。
てっきり付いてくるものかと思っていたアナベルは、しかしなぜか国王の前に留まり続けた。
妙だとは思ったが、アナベルも人生経験は伊達ではない。
何か考えがあってのことだろうし、礼を失することもあるまい。
そう思って、重臣の皆さんとの愛想笑いの時間に突入した私だったが、漏れ聞こえてきたアナベルの声に、思わず言葉も表情も止まってしまった。
「――どうかこののちの、シオン・スクローザの人生について保証願いたいのです」
ぴたりと動きの止まった私に、重臣の皆さんの表情も訝しげなものになり、アナベルの方へ顔を向ける方が続出した。
「今は軍籍と申したな?」
「はい。わたくしが無理を申しまして、休隊をお願いしております」
怪訝そうな国王に、アナベルは凛と頭を上げて応じている。
「ならばそのまま、復隊すれば生活には困るまい?」
「陛下」
アナベルの声は、その声音は、付き合いの長い私であっても初めて聞くものだった。
心底から愛おしげな、案じるような、その声色。
「――あの人には――夫には、出来れば、もう軍籍には戻ってほしくないのです」
「ほう」
「そもそもが兄弟の数が多いため、家計の助けのために入った軍ですもの。
あの人には、人を殺す剣よりも、絵筆の方がよほど似合う。
本当に可愛らしい――油絵具が頬に付いていても、気付かずに絵を描き続けるような人で――あたしが完成を楽しみにしてたというだけで、出来上がった絵を持って、わざわざあたしの家に来てくれるような人で――青い絵の具のために海を渡りたいなんて夢を持っていて――」
言葉が途切れた。
個人的なことを話し過ぎたと思ったがために声を止めたというよりは、せり上がるものがあって声が途切れた様子だった。
――ゆっくりと深呼吸し、深々と頭を下げて、アナベルは、これ以上はないというほどに誠実な声を出した。
「我侭を申し上げていることは百も承知にございます。わたくしは救世主ではない。――ですが、」
最上の礼儀を尽くす姿勢のまま、アナベルは言い切った。
「この身を賭してでも救世主さまをお守りします。御命を果たすため全て捧げます。
ですから、どうか、たとえわたくしが戻らなかったときであっても、我が夫の今後の生涯をお守り願いたいのです」
そのとき、自分がどんな顔をしていたのか、私はどうしても思い出すことが出来ない。
国王が吐いた返答が「是」のものであったということは覚えているけれど、細かい言い回しが思い出せない。
国王に応えたアナベルの感謝の言葉があったはずだけれど、それも思い出せない。
思い出せるのは、何を思っていたかということだ。
――アナベルの、この無償の愛を。
一途な彼女が、今後の人生においてもただ一人シオンさんだけに捧げるであろうこの愛情を、絶対に行き場のないものにしてはいけないということ。
アナベルの愛情は、シオンさんをその生涯に亘って守るだろう――彼女が傍にいるにせよいないにせよ。
だが、駄目だ。
長い長い人生で、アナベルがようやく見つけた大切な人、ただ一人の最愛の人、唯一無二の人――その人と添い遂げられなかった後悔を、絶対にアナベルに与えてはならない。
――魔王討伐に大義があるならば、その大義を果たしてなお、アナベルをシオンさんの隣に戻せばいいのだ。
救世主の出立のための宴には、私たち全員に加えてシオンさんも参加が許された。
立食形式の宴において、アナベルはずっとシオンさんと二人でそぞろ歩いていた。
何事かを囁き合って笑い合う、仲睦まじげなその様子には、貴族たちでさえ微笑ましそうな視線を注いでいた。
アナベルが魔界から戻れば、国主催で改めて結婚式を挙げましょうと言ってくれている人もいた。
アナベルはそれ全てを、微笑んで聞いているだけだったが、私がその全てに頷いておいた。
絶対にお願いしますと力を籠めて言い切る私を、「お友達よりも乗り気でいらっしゃる」と誰かが笑っていたが、――勿論そうですとも。
「――絶対に、アナベルだけは無事に帰しましょうね」
煌びやかな会場をそぞろ歩くアナベルとシオンさんを見詰めながら、私は他の四人に告げた。
私の言ったことだったのに、ルドベキアからも反論の声は上がらなかった。
「何があっても、今回だけは、誰よりアナベルを守るのよ」
――結局、その誓いは果されなかった。
魔王の城で、私たちは約束通りに、アナベルを最優先で守って動いた。
決して彼女を先頭に立たせず、救世主としての人生で初めて、退路を確保しながら城を進んだ。
そうして見えた魔王は、本当に嬉しそうな顔で、なぜか真っ先にアナベルを狙った。
庇ったルドベキアは片脚が飛んだし、私は両腕を失った。
ディセントラは腹部に穴を開けられて、カルディオスは片目と右手を潰された。
コリウスは背中を引き裂かれたが、魔王はなぜか、いつものように一撃で私たちを殺してはいかなかった。
まだ全員、息があった。
その目の前で、魔王はアナベルを殺した。
殺される瞬間のアナベルは、奇妙なほどに動揺がなかった。
平淡な薄紫の目で魔王を見て、殺される自分の状態を呑み込んでいた。
――私は何かを叫んだが、何と叫んだのかは全く覚えていない。
ただ、思っていたのはただ一つ、「私が救世主でなければ良かった」という、ただそれだけ。
他の誰かが救世主であれば、アナベルをもっとちゃんと守ることが出来たのに。
――自分が何と叫んだのかは覚えていなくても、ヘリアンサスが何と言ったのかは覚えている。
あいつはにこにこ笑いながら、もはや戦える状態ではない私たちを見渡して、愛想よくさえある口調で言い放ったのだ。
「おつかれさま、気分はどう?」
直後に記憶が途絶えたから、恐らく私はそのとき死んだ。
死んで良かったと心から思う。
もしあの瞬間に殺されなければ、私は膨れ上がり過ぎた自分の感情に殺されていた。
――今でも鮮明に覚えている。
煌びやかな宴の会場。天井から下がるシャンデリア。
その下で、シオンさんがアナベルに掛けた言葉。
「――ずっと待ってる。必ず無事に帰って来てくれ。
いや、無事でなくても、帰って来てくれさえすれば、僕がずっときみの傍で支えるから」
その言葉を、不意打ちのように聞いて目を瞠るアナベルの表情。
驚いた表情から、じわじわと微笑へ。
頬を染め、唇を噛み、心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべる彼女の、目の端に光った涙。
アナベルが泣いているところを、私たちは、この一度を除いて見たことがない。
そして、アナベルは答えたのだ。
「――待っていて。必ず無事に帰って来る」
と。
その言葉を伝えたことが、どれだけ彼女を苦しめていたのか、私は知らなかった。
このとき既に、アナベルが全てを諦めていたということ――これまでの、敗北し続けてきた歴史を見て、冷静に、自分が生きて帰って来られる可能性は限りなく低いと見積もっていたこと。
そして、その万が一の可能性に賭けるよりは、その可能性を潰してでも、シオンさんの一時の心の安寧を図りたかったのだということ。
純粋で、切ないまでに尊い、彼女の愛情。
その愛情が彼女を、今に至るまで苦しめ続けている。
――アナベルに課せられた贖罪は、〈自分の言葉に裏切られる〉というもの。
想いを籠めた言葉であればあるほど、その言葉の主たるアナベルに、真逆の結果をもたらす運命にあるということ。
アナベルはあのとき、無事を約束する言葉を伝えることで、夫の一時の心の安寧と引き換えに、私たちが無事に戻って来られたかも知れない、万に一つの可能性を潰すことを選んだ。
シオンさんと共に生きていけたかも知れない未来を、全て諦めて切り捨てていたのだ。
だからあれ程に平淡な眼差しで、殺される自分の状態を見ていたのだ。
***
「違う、きみは――きみはあの人の心を守った」
必死に絞り出したその言葉にも、アナベルは首を振った。
「ほら、あたしたちの用はあっちでしょう。振り返ってばっかりいないで、前を向きなさい」
そう言ったアナベルの言葉が、どうしても私には自嘲にしか聞こえなかった。
――アナベルは今でも、徐々に徐々に遠くなっていくあの人生を振り返って、夜毎にシオンさんの声を、言葉を、掌の感触を、そして笑顔を思い出している。
何ひとつとして忘れないように、丁寧に。
絶対に思い出せなくなることのないように、呪いのように。




