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21◆ 救世主さまの仰せとあらば

 そして戻って来たブロンデルである。


 プラットライナを出発してからちょうど一日、曇り空の向こうで太陽が傾く時刻に到着した。

 曇天のせいか既に光景は薄暗い。ちらちら見られながら船上で過ごした一日は割と精神にきた。



 そそくさと船を下り、各々トランクを手に、街灯の点る道を急ぎダフレン貿易へ。


「この時間でも通してくれるかなあ」


 トゥイーディアがぼそっと呟いたが、アナベルが極めて冷静に、


「まず、社長がちゃんと会社にいるかどうかが問題じゃないかしら」


 とはいえ、突撃してみないと何とも分からないので、取り敢えず正面から訪ねていくこととした。


 門に立つ番兵は先日の二人組とは別の人たちだったが、俺たちを見るとすぐに素性と用件を察して、一人が奥に連れて行ってくれた。


 助かる。

 さすがに前触れが無さすぎて、下手したら一晩待たなきゃいけないかと思ってた。


 建物の中に入ると、大体は先日と同じような光景が広がっている。

 違うのは、従業員の皆さんが俺たちを見るや、「あ、救世主さまだ」と声を上げたことか。


 彼らに対する愛想笑いは主にディセントラに任せ、俺たちは先導について先日と同じ応接室へ。

 無人の応接室に俺たちを案内した番兵さんが、ローテーブル上の小さな燭台に灯を入れてくれたうえ、


(あるじ)を呼んで参ります」


 と応接室を出て行こうとした寸前、はたと気付いたように振り返って、


「お掛けになってお待ちください」


 と言い添えた。

 緊張していたのだろうと思うと微笑ましい。見ればまだ若い少年である。



 先日と同じように、手前の三人掛けのソファにはダフレン側の人間が座ることが想定されるので、奥側のソファにディセントラとカルディオス、そしてコリウスが座った。

 先日とは違って丸椅子が運び込まれていないので、俺とトゥイーディアとアナベルは立ちっ放しである。


 カルディオスが、「座る?」というように自分の側にある肘掛をとんとんと叩いたので、俺は遠慮なくそこに腰を下ろした。

 トランクは床にまとめて重ねて置き、あとはダフレン側の人間を待つのみである。



 待つこと数十分。

 結構待たされた方ではあるが、約束なしに突然訪れた俺たちに落ち度があるので不満はない。


 部屋の外から足音が近付いてきたかと思うと、ばーんっと扉が開け放たれた。


 俺はそっと肘掛から立ち上がり、長椅子の後ろに回った。


 入って来たのはダフレンの社長と、ひょろりとした初老の男性――ファーストン氏。


「待ちかねたぞ! 首尾はどうだ!?」


 社長が威勢よく言った。

「救世主さまに向かってはお言葉を慎まれませ!」とファーストン氏が慌てた。

 俺たちは別に言葉遣いは気にしないが、揃いも揃って顔を顰めた。


 俺たちの表情の所以が、無礼を咎めるものではないことを正確に理解して、ダフレン社長がはたと動きを止め、訝しげな顔をした。


「……どうした?」


 素早く立ち上がりながら、ディセントラが答えた。


「密輸団は壊滅しました。ただ一人、取り零しがおります。

 ――ネイランさんはどちらです?」


 一瞬ぽかんとした表情を晒した社長が、しかしすぐに意味を悟って顔面を赤黒く染めた。


「うちの者に根拠のない汚名を着せるというなら――」


「根拠ならあります」


 大変きっぱりとディセントラが言い放つ。



 そうだ、こっちには状況証拠と証言がある。

 物証はないけど。



 カルディオスとコリウスも立ち上がった。


 余りにも断固とした声をディセントラが出したので、社長がぐっと言葉に詰まった。

 黒い目が爛々と光るのを、怖気の欠片もなく見返して、ディセントラが繰り返す。


「ネイランさんはどちらです」


 今にも唸り声を上げそうな顔になった社長に溜息を零して、彼女は突き付けるように。


「よろしいですか、社長。()()()()()()()()()()()()()()()――あるいは、()()()()()()()()()()()()()。捕えなくてはなりません」


 社長の表情が少し変わった。

 思慮を映して黒い瞳が細められる。

 ディセントラが理由もなくこんなことを言っているのではないと判断したのだ。


「――根拠は?」


 低く尋ねたその声に、得たりと頷くディセントラ。


「先日、ここにお邪魔させていただいた後すぐ、密輸団の使い走りの接触を受けまして――まあ、当人は隠しているつもりのようでしたが」


 細かいことを全部すっ飛ばして簡単に話を進めようとしてるな、ディセントラ。


「まず第一に、わたくしたちがここを出てから、密輸団の手の者が接触を図るまでの時間が余りにも短すぎました。わたくしたちが御社のため、密輸団を壊滅せしめようと動き出したことを知っている方はごく僅かでしたが――その中の誰かの指示がなければ、有り得ない早さでした」


 そうそう。フィルが来たのが早すぎたんだよな。

 裏を返せば、フィルが動いたのが早すぎたから、俺たちも初っ端からあいつが密輸団の関係者だと疑うことをしなかったわけだけど――トゥイーディアを除いては。


「また昨日、密輸団壊滅の折にその者が口を割りましたの。ネイランという人物の指示で動いたと」


 社長が呻いた。


 嘘をついてまでディセントラがネイラン氏を陥れようとする利がないので、ディセントラが事実をありのままに話しているのだと気付いてしまったのだろう。


 眩暈を覚えた様子でふらりとよろけた社長を、すかさず支えるファーストン氏も唖然としている。


 参謀といわれていたくらいだし、ネイラン氏が社長から獲得していた信頼の厚さは想像の及ぶところだ。

 どれほどのショックが社長を襲ったのか、俺は少しばかり案じて彼の顔を見たが、徐々に立ち現れてその表情を占拠した感情は絶望や哀切ではなかった。

 憤怒だった。


「――あの馬鹿者め!」


 怒鳴り、社長が踵を返した。

 ファーストン氏が慌ててそれに続き、俺たちも応接室から駆け出す。


「社長? あの、お心当たりがあるならば、わたくしどもにお任せいただければ」


 ディセントラがさすがに焦った様子で声を掛けたが、社長は怒りの余り肩で風を切って歩いて行く。


「いいや、わし自ら引導を渡してやる!」


「引導って……」


 トゥイーディアがドン引きしたように呟いた。

 左の小指から指輪を抜き取り、右手に握り締めているが、これは多分ネイラン氏が暴れ出すことを予期したためではなくて、社長がネイラン氏をぶっ殺そうとしたときのためだろう。


 それに気付いたアナベルが、真顔でこくりと頷いていた。

 今の社長にはマジの気迫があったからな。


 ずかずかと階下に降りていく社長とファーストン氏(と、それに続く俺たち)。

 何事かと振り返る従業者の皆さん。もうとっぷりと日も暮れた時刻だというのに帰る気配のない皆さんに、ディセントラが辛うじて愛想笑いを振り撒く。



 一階にまで足音荒く突き進み、従業者の方々を肩で押し退けるように廊下を歩き、ダフレン社長はとある部屋の扉をばんっと開いた。


 勢いよく押し開かれた扉が、勢い余って壁に激突して返ってきた。


 その扉を、主人のためにそっと押さえるファーストン氏。

 こちらは早くも愁嘆場に相応しい面相になっている。


 部屋の中は雑然としていた。

 でかいテーブルが一脚、部屋の中をほぼ占領するように置かれていて、その上には地図やらピンで留められた注文書やらが散乱している。

 恐らく、世双珠の運輸経路を相談するための部屋なのだろう。

 扉と反対側の壁には大きな窓があって、今は分厚いカーテンが引かれている。


 ネイラン氏はテーブルの向こうで、もう一人の若い男性と一緒に地図の上に身を乗り出していた。

 何かを話していた様子だが、尋常でない勢いで突撃してきた社長とファーストン氏、そして俺たちを見て、言葉を失った様子だ。


 若い男性がただただぽかんとしているのに比べ、ネイラン氏の反応は顕著だった。

 社長とファーストン氏を見てきょとんとし、それから背後の俺たちに気付いて、一気に血の気を失ったのだ。


 その反応を見て、ますます確信を深めてしまったのだろう、社長が鼻から息を吐く。蒸気機関並みの勢いの鼻息だった。


 ぎり、と歯を食いしばり、社長がまず、若い男性に声を掛ける。


「――ショーン。しばらく出ていろ。わしはネイランと話がある」


 ショーンと呼ばれた男性は、「何か経営上の大事な話があるのかな」と言わんばかりの、何ら妙に思ったところのない顔で、ぺこりと頭を下げてテーブルを回り込み、社長とファーストン氏、そして俺たちにぺこぺこと頭を下げながら退出していった。

 俺たちは部屋の外の廊下にいる格好になっていたから、ショーンは幾度か振り返りつつ廊下を歩いて去って行った。


 ショーンが去ると同時、社長が後ろ手に扉を閉めようとする。

 慌ててそこに割り込み、部屋の中に滑り込む俺たち。


 いや、別に話が終わるまで外で待ってても良かったんだけど、室内で殺人が起こるとまずいからね……。


 斯くして扉が閉められ、部屋の奥に追い詰められたかの如きネイラン氏。

 蟀谷から大量の冷や汗を流し、見ていて気の毒になるほどである。

 ちょっと後退り、引き攣った笑顔を浮かべている。


「ど、ど、――どうなさいました、社長?」


 白を切ろうとして既に失敗している。

 こんなことなら密輸団に内通なんてしなけりゃ良かったのに。


「――“どうなさいました”、だと?」


 応える社長の雷鳴の如き声に、ファーストン氏が悲しそうに言葉を添えた。


「ネイラン、ネイラン。密輸団が無事に壊滅したそうだ。救世主さまたちがそれを知らせにいらしてくださったんだよ」


 ネイラン氏の目が泳ぐ。笑顔はますます強張る。


「そ、それは――めでたい。これで一安心ですな、ええ……」


「ネイラン」


 ファーストン氏はあくまで悲しそうだった。

 その隣でぶるぶる震えている社長から伝わる雰囲気が、悉く怒気一色であることと比べると、彼の性格の穏やかさが透けて見える。


「救世主さまたちの仰るには、おまえが、――おまえが、密輸団に内通していたということなんだが。

 嘘だろうね、え? 勘違いなんだろうね?」


 ファーストン氏とは視線を合わせず、きょろきょろと目を泳がせながら、ネイラン氏は手を揉み絞った。


「な、なにを馬鹿な、なにを根拠に、そんなことがあるはず――」


「ネイラン!」


 轟くような声を出した社長に、ネイラン氏は飛び上がった。だが目は合わせない。


 ネイラン氏の目が、扉と窓を忙しなく往復するのを見て、音もなくトゥイーディアが動いた。

 素早く窓の方へ回り込んだのだ。


 さすが騎士、と言いたくなる身ごなしだった。

 これまでもトゥイーディアは、魔法の分野においては戦闘力に抜きん出ていたが、今生は騎士というだけあって体術にも優れていると見える。


 だが、さすがにトゥイーディア一人に窓を押さえさせるのは気が引けたのか、カルディオスもそちらに動く。


 自分の近くで、あからさまに窓からの退路を断つように構えるトゥイーディアとカルディオスに、ネイラン氏は蟀谷の冷や汗を拭った。


「な、何か勘違いをなさっていらっしゃる……そんなことがあるはずない……何を根拠に……」


「――密輸団の一員が口を割ったそうだ」


 憤怒の形相でテーブル越しにネイラン氏を睨み据える社長。

 握った拳が激情に震えている。


 ネイラン氏は痙攣するような動きで首を振った。


「そんなの嘘に決まっているでしょう!」


 声が裏返った。

 アナベルが顔を顰めるのが、俺の視界の隅に映った。


「そんな、明らかじゃないですか! 陥れられようとしているんです……私と、我が社の評判が……そうに決まっています、ねえ?」


 ネイラン氏が、初めて社長と目を合わせた。

 そして、社長の目に浮かぶ激怒に軽く息を呑んだ。


 堪りかねた様子で、トゥイーディアとカルディオスから距離を取るように横歩きで動く。


 部屋中の視線がその動きを追った


 テーブルの角を回り込んだところで、ネイラン氏は動きを止めた。

 そして、またきょろきょろと部屋を見回す。


「嘘に決まっている……騙されているんです……」


 社長が言葉に詰まった。怒りの余りのことのようだった。

 ファーストン氏は悲しげに目を瞬かせ、唇を引き結んでいる。

 ディセントラたちは軽蔑の眼差しだった。まさかここまで見苦しく言い逃れをしようとするとは思っていなかったんだろう。

 俺も、あっさり口を割ってくれるものと思っていた。何しろ救世主が告発してるんだから。


 部屋の中が静まり返った。

 しん、とした中に、ネイラン氏が服の裾をこねくり回す、微かな音だけが聞こえる。


 ――各々の感情のために、全員が口を噤んだ瞬間だった。


 その状況に溜息を吐いて、俺は口を開いた。


「――そもそも、あんたさぁ」


 びっくぅ、と、可哀想になるくらい大袈裟に肩を揺らしてこっちを見るネイラン氏。

 恰幅のよい身体を縮めて、気の毒なほどだが――いや、別に気の毒でも可哀想でもねぇな。自業自得だな。


「あんた、こないだ俺たちに言ったよな? “あんたたちのために俺たちの身に何かあったら”――とかって」


 あのとき、応じて口を開いたトゥイーディアは言った――「()()()()()()()()()()()吉報を待っていてくだされば良いのです」と。

 多分、覚えた違和感は俺と同じだったのだ。


「普通、ああいう場面では『お願いします』しか出てこねぇの、切羽詰まった人間は。

 ――今まで大抵そうだった」


 俺たちが救世主として人を助けてきた回数は、俺たち以外の人間には想像できない数だろう。


「稀に、達観してる人だとそういう――こっちを気遣う台詞も出てくるんだけど、あんたそれほど人間できてないだろ」


 ネイラン氏が口を開いた。

 だが、何も言わずにまた閉じる。目が泳ぐ。


「あのときあんた、()()()()()()()()()()()()()()()って、そう考えてたんだろ」


 断言した俺に、身を震わせたネイラン氏が、


「――違うっ!!」


 叫んだ。目が血走っている。


「何の根拠で! 何の証拠があって!

 そんな犯罪者如きの言うことを真に受けて、なんてことをっ!!」


 どんどんディセントラの顔が不機嫌になっていく。


 ネイラン氏は大きく見開いた目で社長を、縋るように見た。


「社長っ! お分かりですよね、私がそんなことをするはずがない!!

 ずっと一緒にやってきたじゃないですかっ!!」


 ダフレン社長が、()()と目を見開いた。


 ネイラン氏は逆鱗に触れるどころか、龍の目を突くに等しいことをやらかしたようだ。


「――だからこそだ!!」


 吼える社長の声に、ネイラン氏が二の句が継げぬ様子で絶句する。


「ずっと一緒にやってきたとも! そのわしが! おまえのその下手な誤魔化しが分からんとでも思うのか!」


 アナベルが、そろりと一歩前に出た。

 社長がネイラン氏を殺めるのではないかと本気で案じている顔だ。


「今までどうして気付かなかったのか、わしの不徳の致すところよ!

 よくもまあ――このわしの! 矜持と誠意を踏み躙ってくれたな!!

 このわしの命よりも大切な、従業者どもの生活と、世双珠を不届き者には渡さぬ理念と! 双方ともに――見事なまでに! よくも裏切ってくれよったな!

 ()()()()()()()()()()()のに、よくも――よくも!!」


 ネイラン氏が後退り、その背中が壁に当たった。

 ダフレン社長は逆に踏み出し、テーブルにその歩みを遮られる。


 テーブルの縁を握り、ぎりぎりと音がするほどに力を籠め、社長は、ともすればテーブルを引っ繰り返すのではないかと思うような形相で叫んだ。


「何が足りなかった!? え!? 言ってみろ!

 給与は弾んでやっただろう! 貴様が欲しがった仕事をくれてやっただろう!

 何が不満だ!? え!?」


「――社長」


 ディセントラが割って入った。

 す、と掌を社長の前腕に添えて、下がるように促す。


 社長が彼女を振り払おうとするかの如くに力を籠めるも、今度ばかりはディセントラも譲らなかった。


「社長、もう結構――何も尋ねる必要はありません。

 それは警吏と、判事の役割です」


 ディセントラの淡紅色の目が、聡明な光を湛えて社長を見据えた。


 ――彼女は知っている。

 たとえ決定的な裏切りがあろうと、これまで二人が培ってきた繋がりが消えるはずはないと。

 今ここでネイラン氏が言うであろうことは――恨み言であろうと悔恨の言葉であろうと、ダフレン社長の一生について回ることになる。


 だからこそ、聞かせる前に遮ったのだ。


「しかし!」


 食い下がる社長に、ディセントラは決然と告げた。


「社長ご自身が、ネイランさんの態度を誤魔化しと仰いました。

 これでわたくしどもは堂々と、あの方を警吏に引き渡すことが出来ます。

 公正な裁きとなるよう、わたくしどもも尽力いたします――情状には酌量を、卑劣には秋霜烈日の罰を」


 眼差しを翻して壁際のネイラン氏を見据え、ディセントラは冷ややかに続けた。


「おまえに(とが)があると言うのは、()()()()()ではない」


 先程の彼の言葉を否定するかの如くに言って、ディセントラは傲然と目を細めた。かつて王女だったときと同じ眼差しで。


「この社を一代にして立ち上げ、世双珠流通に尽力した、誉れ高いダフレン貿易の社長と、――私たち救世主が、おまえの科を警吏に告発する」


 ネイラン氏が細かく震えているのを、俺は見た。


 自分がやってきたことが何を意味するのかをようやく悟ったのか、その顔色が蒼白を通り越して灰色に変じつつある。



「おまえが捨てた信頼と至誠は大きい。

 ――これから思い知ることになるわよ」





◆◆◆





「――面目ない」


 ダフレン社長が項垂れてそう言ったのは、ネイラン氏を警吏に引き渡し、会社に戻ったときだった。



 夕闇の迫る時間帯に、俺たちと社長で警吏の詰め所を訪ねてネイラン氏を引き渡し、泣き喚く彼を遮りつつ事情を説明し、戻ってきたのはもう夜になってからだった。

 ファーストン氏は眩暈がひどい様子だったので、社長が厳命して帰らせたという経緯である。

 俺たちとしては、社長にもご同行いただくつもりはなかったのだが、そこだけは彼も譲ってくれなかった。


 さすがに従業者の皆さんは殆どが帰路に就き、あれだけ賑やかだった社内はがらんとして静まり返っている。


 夕方に空を覆っていた雲は去り、月明かりが覗いていた。


 その淡く白い光が照らす中、社長は力尽きたように入り口の階段に座り込んでいた。

 『ダフレン貿易』と記された真鍮のプレートのすぐ下で、頭を抱えるその姿に俺は大いに同情した。



「あれだけ大口を叩き、生意気にも納税を渋ってご足労いただいた挙句に――これだ」


「まあ、結果的に良かったんじゃない」


 カルディオスが、気遣わしげな表情ながらも軽い口調で言って、社長のすぐ隣に腰を下ろしてぽんぽんとその肩を叩いた。


「納税渋ってさ。お蔭で俺たちがこうして来たわけで、来なかったら最悪、何も気づかないまんまだったよ」


「カルディオス」


 コリウスがちょっと顔を顰めた。

 空気を読め、と濃紫の目がカルディオスを窘める。


「いや――ああ」


 社長は呻き、顔を上げて俺たちを見渡した。


 そして最後にディセントラに目を留めると、今までにない、敬意を籠めた眼差しで微笑んだ――疲れたような微笑みではあったが。


「……それにしても、度胸のある、弁の立つお嬢さんだ。――それが救世主の所以なのかも知れないが」


 ディセントラが遠慮がちに微笑んだ。

「何回も生まれ直して、実年齢はもう覚えていないほどなので……」とはとても言えないので、それをそっと胸の内に仕舞った結果の、極めて神秘的な笑顔だった。



 ふと思い立ったように、社長が立ち上がった。

 立ち上がる際に少しよろめいたので、傍にいたカルディオスが座ったまま、気軽にそれを支えた。


「おっと――どうもどうも」


 よろめいた自分に少し驚いたような顔をしつつも、しっかりと立った社長が俺たちを見渡し、――深々と頭を下げた。


 俺はびっくりした。

 何しろこの社長、今まで救世主相手にも遠慮がなかったもので。


 カルディオスも驚いた様子で、慌てて立ち上がって後退っている。


 少しばかり気を呑まれる俺たちに囲まれ、社長は頭を下げたまま、朗々とした声で言っていた。


「――この度は、多大なるお手数をお掛けした……申し訳ない」


 いえ……と呟く俺たちの声が小さく重なる。


「ついては約束の通り、滞っている税については恙なく、至急、お納めする所存」


 思わず、俺はほっと息を吐いた。やっとこれでダフレン貿易絡みの厄介ごとが片付く。

 コリウスとアナベルも、大体俺と同じ表情で息を吐いていた。

 一方でディセントラとトゥイーディアは気遣わしげな顔。

 カルディオスは、些かきょとんとしていた。


 社長はまだ頭を上げず、言葉を続ける。声が少し、低く潰れた。


「またこの度は――身内の恥までお見せしてしまい――わしの不徳の後始末までしていただき――お礼の言葉もない」


「……社長」


 ディセントラが気遣いの透ける声で呼び掛けた。

 しかしまだ頭を下げたまま、社長は再び声を張る。



「ついては今後、このわしに出来ることがあれば何なりとお申し付けを。

 ――救世主さまの仰せとあらば、どこにいようと、何をしていようと、可能な限りで力になりましょう。尤も、」



 顔を上げ、社長が小さく笑う。


「救世主さまのお役に、わし如きが立てるかは分かりませんがな。

 それにまあ、そのときには、わしが墓の下にいる頃かも知れませんがなぁ」


 言い切って、豪快に笑いだす社長。俺たちはきょとん。


 だが、一拍の間を置いて、ディセントラが笑い出した。

 釣られて俺たち全員が笑ってしまい、一頻りそうして月光の中笑ったのち、滲んだ涙を指先で拭いつつ、ディセントラが頷いた。



「――ええ、ダフレンさま。頼りにしておりますわ」













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