05◆ あいつの瞳
普通、誰も覗かないはずの魔王の寝所を覗いた上で、「魔王がいません!」なんて報告しようものなら、自分が暗殺者だって自白してるようなもんだろ!
そんな馬鹿いないだろって高を括ってた俺が馬鹿だったよ!
うっかりしてたよ!
俺に差し向けられる暗殺者には後ろ盾がいるもんな!
誰だか知らんけど!
内心で自分と状況に対する罵詈雑言を並べながら、足音を潜めながらも全速力で次なる城壁に向かって疾走する俺。
背後では次々に松明の灯りが増えていっている。
交代制で番に当たる兵たちのはずだが、非番の者まで叩き起こされて俺の捜索に当たってるんだろう。
あちこちで篝火も増え始めた。
捜索の指揮を執る声、それに応える声が、詳細は聞き取れないにせよ夜陰を唸らせて俺の耳にまで届く。
もうなりふり構っていられない。
ここで連れ戻されたらどんな監視をつけられるか分からない。
暗殺と監視の二重のストレスで、俺は今度こそ確実に死ぬ。
行く手からわらわらと兵士たちの足音が聞こえ、俺はびびり上がって傍のどこぞの貴族の邸宅の壁を攀じ登った。
危ない危ない。
巡回の兵士ももちろんこの非常事態に動くよな。
そのお宅の屋根を走り、地面に飛び降りてまた走る。
尋常じゃない汗が出てきた。
こういう状況、俺は生まれて初めてかも知れない。
何が初めてって、待っても助けが来ない状況が初めてかも知れない。
記憶にある限り昔から、ピンチのときにはあいつらが助けに来てくれることを信じられたから。
暗がりを選んで疾駆しているものの、そろそろ限界だ。
赤々と照らされる城の異変に、城下でまだ起きている人たちは肝を潰してるんじゃないだろうか。
夜空まで橙色に照らされて、俺はもう泣きそうだ。
誰か助けてくれ。俺は帰りたいだけなんだ。
四方八方から兵士の足音が聞こえてくる。
この城、こんなに兵士がいたんだな。訓練場にも顔出さないし、俺は知らなかった。
いらっしゃったか、こちらにはいらっしゃいません、お捜し申せ、一体どこへ、と、錯綜する声の詳細までが聞こえる距離にまで兵士がいる。
ただただ城壁を目指して走る俺。
多分今生で一番必死な顔。
曲がり角を駆け抜けようとしたところでつんのめって急停止。
揺らめく松明の灯りが見えたからだ。
すうっと息を吸い込んで、魔力の浪費になるとは分かっていても、目くらましの魔法をもう一度使う。
息を止め、足音を忍ばせて、祈る心地で曲がり角から一歩前へ。
十数人の兵士たちが松明を掲げ、険しい顔で歩いて来ていた。
「一体どこへ――」
「腐っても魔王だ、そう易々と連れ去られたりなどするものか」
腐ってて悪かったな。
「ならばご自身で? なぜ」
「知らぬ。あのうつけの考えることが私に分かるものか」
うつけで悪かったな。
「だが行く宛てなどないはずだ」
「出来心で城下に抜け出しただけではないのか」
「朝になれば戻るとは思うが……」
そろりそろりと、抜き足で俺は兵士たちの真横を通る。
ちりちりと俺の身体の輪郭が光る。
足音を立ててはいけない。影も隠し果せなくてはいけない。
黙って突っ立ってやり過ごすのが賢明だと分かっちゃいるけど、そんなことが出来る精神状態じゃない。
それと、頼むから俺が城下に行ったかも、なんて誰にも言わないでくれおっさん兵士。
城下にまで厳戒態勢が敷かれたら俺は泣くぞ。
息を潜めて最後尾の一人と擦れ違った俺は、安堵の溜息も押し殺し、そのまま足音を立てないよう細心の注意を払って速足で遠ざかる。
ちら、と振り返り、十分な距離が開いたことが分かるや否や、目くらましを解いて猛ダッシュ。
二番目の城壁まであと少し。
松明の灯りは増えるばかりで、俺の心も折れ掛けた。
なんでこんな目に遭わなきゃいけない。
もう放っておいてくれ。誰か助けてくれ。
誰か――
――鮮やかに、脳裏にあいつの顔が浮かんだ。
飴色の瞳を、俺じゃない誰かに向けて微笑むあいつ。
決して目を惹く美人ではないし、顔立ちだって整ってはいると思うが平凡で、ディセントラの美貌を冗談交じりに羨ましがることもあったっけ。
――でも俺は、あいつの笑顔が好きだった。
あいつが俺に向かって屈託のない笑顔を見せてくれることは滅多になかったけど、でも、笑うあいつの顔は、そのときの眼差しの柔らかさは、何にも勝って綺麗だとずっと思ってきた。
俺がどんな態度を取っていても、俺が危機的状況に陥れば、日頃の蟠りなんか放り投げて助けに走って来てくれるあいつ。
ここで生まれてからこちら、数えるのも馬鹿馬鹿しいだけの瞬間に俺の瞼の裏に蘇ってきた、あいつの飴色の目。
橙色の濃淡の揺蕩う、透き通った褐色の――
――こんなところで折れて堪るか。
ぐっと拳を握って、麻袋を抱え直して、俺は真っ直ぐに走った。
城壁が見える。
もう目の前だ。
さすがに警備が厚くなっている。
松明を掲げた歩哨が、険しい顔で城壁の上を行き交っている。
俺がコリウスだったら、こんなのは楽勝で脱出できただろうに。
銀髪紫眼の昔馴染みを思い浮かべながら、俺は深呼吸。
まだまだ魔力は大丈夫。俺は準救世主で、不本意ながら今回の魔王。
本日三回目の目くらまし。
城壁の手前で発動し、そのまま一枚目の城壁を越えたときと同じように、空気を踏んで空中へ。
行き交う歩哨を眼下に見つつ、放物線を描いて走る。
城壁を越えたと認識するや、後ろも見ずに全力疾走。
途中で目くらましを解き、走り通しで上がりに上がった息を抑えて、無我夢中で最後の城壁を目掛けて走る。
二枚目の城壁と三枚目の城壁に挟まれた区画には、役場やら役人と兵士の宿舎やら、城のすぐ傍の訓練場よりも広くて造りが簡単な訓練場やらが配置されている。
今は兵士が松明を掲げ、魔王を捜して巡回している危険地帯だが、ここを抜ければ脱出だ。
もはや道を走るより、屋根伝いに走った方が安全だろうと判断して、宿舎の一つの屋根に攀じ登り、軒を連ねる他の宿舎の屋根に飛び移って距離を稼いだ。
建物と建物の間が多少空いていようが問題ない。まだ魔力は余裕。空中を踏むことなんざ造作もない。
問題は体力の方だ。
今生、ずっと引き籠って生活してきたことが祟って、正直もうふらふらです。脚とかもうパンパン。魔王城、無駄にでかいんだよ。
ぜぇぜぇ言いながら、俺は役場の屋根の上で最後の城壁を振り仰いだ。
相変わらず巡回している歩哨はいるが、二枚目の城壁に比べて警備は薄い。
俺がここまで到達しているとは、よもや誰も思わんのだろうな。
勝った。
ここまで来た。
もう脱出秒読みだ。
――なんて、油断したのが良くなかった。
「――魔王様!」
城壁に向かって一直線に飛び出そうとしたところで突然大声で叫ばれて、俺は心臓が口から飛び出すかと思った。
走り通しでただでさえばくばくいっていた俺の心臓が、きゅんっと縮まって止まり掛けた。
え、うそ。え、うそ。え――
油の切れたからくり人形の如き動きで役所の屋根から眼下を見遣れば、松明を掲げてこっちを見上げて、驚愕の顔をしている兵士が一人。
ばっちり目が合った。
「待っ――」
「いらっしゃったぞ!」
聞き入れられるはずもない制止を叫ぼうとした俺の唇は凍り、兵士が大音声で叫ぶ声が騒然としていた中でなお響いた。
直後に錯綜する足音。四方八方から兵士たちが集まる集まる。
「どこだ!?」
「どちらにいらっしゃる!?」
「曲者かっ、曲者に拐かされておいでか!」
「ご無事であろうな!?」
「早くお戻りいただけ!」
集まる足音、喧々囂々たる声に、俺は茫然と立ち竦んだ。
マジで。マジで。
ここまで来てこんなのってあり? こんなのって――
「――ナシだ」
拳を握って呟いて、俺はきっと城壁を見据えた。
止まるな、止まるな、ここまで来て。
俺は絶対に帰るんだ。
もはや故郷がどこなのか忘れた。
特定の地に思い入れもない。
友人なんて言葉で飾る、薄っぺらな人間関係で作られた知り合いの輪は、どの人生でも広がることなく終わっていった。
両親でさえ、浮かぶ顔は数十あって、そのどれもがぼやけている。
――でも、俺の心の拠り所、帰る場所を形作るのが誰なのか、どういった関係なのか、そんなことは意識するまでもなく分かっている。
あいつらのところに帰るんだ。
役場の屋根に足を踏ん張る。
見つかったのなら仕方ねえ、逃げ切るまでのこと。
息を吸って、世界の法を書き換える。
――俺の足は、その一歩は、俺の身を宙に打ち上げるだけの力を持つと。
「魔王様!」
叫ぶように呼ばれると同時、俺の足が役場の屋根を、石造りのその屋根を陥没させる勢いで蹴っていた。
矢のように打ち上がる俺の身体、下へ離れる兵士たちの驚愕の顔。
斜めに空中へ吹っ飛んだ俺の身体は、ちょうど城壁の真上で放物線の頂点を迎え、後は落ちて行く。
重さのある頭部が下になろうとしたタイミングで、自分自身に働く重力を非常に弱く弱く書き換えながら、俺は目の前の空気を薙ぐように手を振った。
途端、城全体が闇に落ちた。
何かの合図で一斉に灯が落とされたかのように。
赤々と燃えていた灯は一つ残らず消え去り、橙色に照らされていた夜空が漆黒の色を取り戻す。
控えめな星の輝きが、その夜空の上で瞬く。
城内騒然となる気配を感じながら、俺は短く息を吐いた。
俺の得意分野、俺の固有の力は熱を司る。
だからこそ絶対に俺は火傷をしないわけだが、応用すればこんなことも出来る。
炎から熱を奪って消してしまうなんて、俺にとっては朝飯前。
どうせ逃亡がバレたのなら、こそこそする意味はもうないもんね。せいぜい混乱していてくれ。
弱めに弱めた重力が、俺をゆっくりと地面へ運ぶ。
とさ、と軽い音と共に、背中で城壁からやや離れた地面に落下した俺は、はああああ、と深過ぎる息を吐いて夜空を仰いだ。
やった。脱出した。
これで第一歩。今生初の城の外。
城壁の内側からわんわんと響く混乱の声を聞きながら、俺はよいしょと身体を起こした。
走り過ぎて運動不足の脚が痛い。
だがしかし、だがしかし泣き言なんて言うもんか。
あいつらのところに帰るんだ。
城内があれだけの大騒ぎになっていたというのに――そしてその騒ぎは間違いなく城下に届いていただろうに――、城下はしんと静まり返っていた。
軒先の灯さえも消して、寝静まった夜の静寂そのもの。
なんでだろう、俺なら顔出してみたりするけど。
何か危ないことが起こってると思って息を潜めてるのか?
それとも本当に寝静まっているのか?
だとしたらこの辺の人たちは豪胆だな。
でもまあ、理由が何であれ、誰もいないのは好都合。
逃亡した魔王はここです、とか通報されたら目も当てられない。
ただでさえ、魔力はまだまだ余裕があるが体力が早くも底を突き、早速の筋肉痛に顔を顰めながら歩いている現状では。
もっと運動しとくんだったな……。
麻袋を担いで嘆息。
まあ、後悔は先に立たない。
民家の間の路地に入り込んで、取り敢えず城門から殺到するであろう追手の兵士から姿を隠そうとしながら歩く。
だが、様子がおかしい。
すぐさま城から出て来るだろうと思った追手がなかなか出てこない。
いや別に、追って来てほしいわけじゃないからいいんだけど。
真っ暗になった程度でそこまで混乱するわけもないし、何してるんだ?
不思議に思いながらも、海にまで出れば俺の勝利が確定するので、この隙に距離を稼ごうと、筋肉痛を堪えて足を速める。
城下には、普通の民家が立ち並ぶ普通の光景が広がっている。
周囲が明るければもっと見えたんだろうが、生憎と今は夜の闇。
市民の階層で言えば、城の近くに居を構えているくらいなんだから、ここに住む人たちは上位の人たちなんだろう。
家もなんだかんだ広くて大きいのが多いし。
闇の中、視界が利きづらい中でも、なんかこの辺に見覚えがあるなあと思うのは、多分前回殴り込みに来たときにもこの近くを通っているから。
頭の中で、目に焼き付くほどに眺めてきたこの島の地図を開く。
東西に長く伸びる形の島。
ここは城。島の中央やや南。
ここから城下町を抜け、湖を迂回し、更に街を二つ通り、川を渡り、山を一つ二つ超え、また川を渡り、更に街を三つ通り、またちょっとした山脈と小さな湖を越えた先に森があり、その更に先が北の海岸だ。
――遠い。
大陸に比べて小さいから島と呼ばれているだけで、大陸の手前にあるド田舎諸島とは比べ物にならん大きさだ。
そこを徒歩でてくてく歩いて行くのだから、下手しなくても年単位での移動になってしまう。
みんなでここに攻め込んで来たときには、コリウスがいたからなあ。
そんなことをぼんやりと思いながら、俺は足を止めた。
休憩するためじゃない。そこまで呑気じゃない。
城を抜けるに当たって、どうして俺が、この魔力潤沢な俺が、魔力の節約に気を遣ったかってことだ。
俺なら正直、ずっと目くらましの魔法を使いながら真昼間に城を歩いて抜けるくらいのことは出来るんだ。
それをなんでわざわざ夜中に、筋肉痛になってまで魔力を節約したのか?
――答えは簡単だ。これからどんどん魔力を使う予定だからだ。
誰がチンタラ徒歩で島を抜けるもんか。
俺は十八年耐えたんだぞ。
ここから更に、移動如きのために一年も二年も耐えられるかよ。
一分一秒でも早く、俺はあいつらに会いたいんだ。
俺の作戦は、取り敢えずこの潤沢な魔力に任せて島を抜け、森で筏か何かを作って海に出て、更に魔法も使いながら海を越えて大陸に行き着こうというもの。
そのために、初手の初手、城を抜ける段階では魔力を極力使いたくなかったのだ。
肝心な道筋についてはあやふやだから不安しかないが、まあ何とかする――何とかしなきゃならない。
俺は帰るんだ。
足許に麻袋を下ろす。
眉を顰め、集中して、目の前の麻袋に対して働く世界の法を書き換える。
――曰く、この麻袋は頑丈である。
曰く、この麻袋には自ずと進む力がある。
曰く、この麻袋は重力の縛りから逃れ得る。
ふわり、と、麻袋が浮いた。
なかなかにシュールな光景だが、誰に見せるでもないので良しとする。
麻袋が浮いた高さは俺の膝の高さ。よしよし。
俺は躊躇うことなく麻袋の上に座り込んだ。
それでも麻袋は落ちもしない。揺らがない。
――このためにでかい麻袋を選んだんだ。
麻袋の上に胡坐を掻き、俺は右手の人差し指で、ぴっと目の前を指し示した。
その指示を受け、麻袋は滑らかな動きで飛ぶように――いや、実際飛んでるんだけど――、前に向かって進み始める。
麻袋の上に胡坐を掻いて宙を飛ぶ光景、余りにもシュール。
だが良し。
これが一番合理的。
ふう、と息を吐いて、俺は麻袋の隅っこをぎゅっと握った。
ご感想などございましたらお恵みください……