48◆ 人のいちばん幼いところ
またもコリウスが金(と身分)に物を言わせて、高級宿を貸切に近い形で確保してくれたので、俺たちは明後日の出発までのあいだ、そこで骨休めをすることとなった。
「――まあ、船長さんがほんとにルドベキアのことに気付いてないかは、ちょっと心配だけど……」
と、港から町へ続く道で、人混みの中で顔を顰めるトゥイーディア。
「船長さんが」と限定して話している辺り、他者への尊重の精神に富む彼女であっても、さすがに船員連中が馬鹿だということは認めているっぽい。
周囲の人混みの殆どは船乗りから成っており、中には不安そうな険しい表情を浮かべている人も相当数がいた。
船乗りの間だけでも、「世双珠に異変があるかも知れない」という噂話が広がっているならいいんだけど。
「そうね、海の上で騙まし討ちにされたら大変だものね」
と、真顔でアナベルが言う。
俺としては乾いた笑いを絞り出さざるを得ない。
「大丈夫だとは思うけれど――」
ディセントラがトゥイーディアの顔を見ながらそう言い差したのを、ヘリアンサスが遮って断言した。
「大丈夫だよ、問題ない」
俺はヘリアンサスの方を向いた。
同時にトゥイーディアも、勢いよくヘリアンサスを振り返っていた。
ヘリアンサスはトゥイーディアを見て、いつもの、あの訳知り顔の微笑を浮かべていた。
「――おまえは」
トゥイーディアが、じゃっかん声を尖らせた。
飴色の瞳が不機嫌に細められる。
「私の魔法で勝手なことをしたのね」
ヘリアンサスは肩を竦めた。
冷笑して、彼が静かに言った。
「よく言う、きみだって少しは考えただろうに」
「――――」
俺の処刑からこちら、初めてトゥイーディアがヘリアンサスに言い負かされた形で口を閉じた。
俺は内心で瞠目した。
――トゥイーディアは、彼女自身の固有の力を、蛇蝎の如く嫌っている。
人の内面という不可侵の領域に踏み込むことを、それこそ最大の禁忌としているはずだ。
それが、なんて?
今のヘリアンサスの口振りからして、船長の頭の中を点検して、俺のことに勘付いているかどうかを探ろうとしたって?
ヘリアンサスの言葉に反論しなかったってことは、そういうことだよな?
――マジか。
これはすごい。
俺、実はけっこうトゥイーディアに大事にしてもらっているのでは。
もう、これが単なる友情とか仲間意識とかでもいい。
全部が上手くいって呪いが解けたら、彼女の心が俺に傾くくらいに、俺が頑張って口説けばいい。
トゥイーディアの優しさとか人の好さに付け込むことも、俺は辞さない。
俺の、拳を握って勝利の喝采をしたいくらいの気持ちは、無論のこと顔に出ない。
そういう俺をなんだか憐れむような目でちらっと見てから、アナベルが言った。
「――これで、明後日に嵐が来て船が出なかったら笑えないわね」
嵐は来なかった。
俺たちが諸島に出発するその日、空は晴れ晴れと澄み渡っていた。
柔らかい花びらを重ねたような青空が頭上いっぱいに広がり、真っ白な丸屋根の数々が、朝陽に金色味を帯びて照らされている。
高級宿の大きな窓からそれを見たヘリアンサスは、臆面もなく感嘆の声を上げていた。
俺たちは、ちょうど広々とした談話室を貸し切って伸び伸びと朝食を摂っているところで、というのもこれからの算段について、おさらいがてらに簡単な打ち合わせをしておきたかったからだが、その俺たちを後目に、ヘリアンサスは実際に窓に寄って行き、窓を開け放ったうえで、はしゃいだ様子で眼下の町を見下ろしていた。
冬の朝の、冷たい風が吹き込んできて、俺は思わず、宿の人が出してくれた紅茶のカップを、両手で包み込むようにして暖を取っていた。
なお、宿の人は給仕もしてくれようとしたものの、それはコリウスがやんわりと断って下がってもらっていた。
暖炉にはあかあかと火が入って、ぱちぱちと暖かそうな音を立てているが、その暖かさも吹き込む風の冷たさに上書きされつつあった。
俺が寒さに震えるのはよくあることなので、みんなが俺の切実な無言の訴えを無視している。
唯一心配そうにしてくれているのはルインくらいだが、ルインはルインで寒さはつらそうだった。
カルディオスが、砂糖壺をアナベルの方に押し遣りながら、確認の口調で。
「――今日、船が出るだろ、諸島に着くのって――」
自分の紅茶に、とぽとぽと角砂糖を三つくらい沈めながら、アナベルがカルディオスを遮って尋ねた。
「シェルケから諸島までって、船でどのくらいなの?」
「潮の流れや風の具合にもよるだろうが、一日か、一日半程度だ。ルーラ港からなら半日程度だから」
コリウスの答えに、アナベルが紅茶から目を上げて、む、と薄紫の瞳を細める。
「途中でレヴナントが山ほど湧いてきたらどうするのよ」
「排除していくしかないでしょ。でも、その場合でも私とコリウスで対処するようにするから。他のみんなは魔力を温存する方向で。
特にイーディ、あんまり魔法は使っちゃ駄目よ。イーディの魔力が底を突いてたら、ぜんぶ水の泡になるんですからね」
ディセントラの念押しに、あからさまに不服そうにしつつも、ソファの一つに座ったトゥイーディアがこくんと頷く。
「……分かった」
彼女があんまりにも不満そうなので不安になったのか、カルディオスが慌てた様子で、わざとらしく確認した。
「言うまでもねーけど、最優先で世双珠の親玉のとこまで行ってもらわないと困るのは、イーディとアナベルだよな?」
「母石、な」
と、なんとなく小声で俺が訂正する。
それを綺麗に無視して、トゥイーディアがほっそりした指で俺を指差し、念押しの口調で。
「あと、ルドベキアね」
蜂蜜色の睫毛の奥から俺をちらりと見て、トゥイーディアが俺に向けていた指を曖昧に揺らす。
「ええっと、ナイカクよね、その対処はルドベキアにしか出来ないはずだから」
「だから、今の俺だと分かんねぇんだって」
俺が弱音を吐くと、アナベルとカルディオスが責めるように俺を見た。
「そんなこと言うなよ、不安になるだろ」
カルディオスが珍しくそんなことを言うので、俺はぐっと言葉を呑み込んで、「頑張るから……」と。
俺に、「頑張れ」とだけ言った兄ちゃんをちらっと窺うと、ヘリアンサスは相も変わらず窓に凭れ掛かり、開け放った窓の向こう側を一心に見詰めていた。
ヘリアンサスの視線の先で、シェルケの町の家々の煙突から、薄い煙がゆっくりと空にたなびいているのが見える。
ひとまず、これから諸島に向かい、到着したとして、まず最初にしなければならないことと言えば、
「――ルドベキアもそうだけど、まず、イーディ、あなたがその、ガイカクっていうものを突破できないことには、何も始まらないんだから」
半ば説教するような口調でそう言いながら、ディセントラがスコーンの皿をトゥイーディアの方へ押し遣った。
「たくさん食べておいてね」
トゥイーディアは、自分の今の満腹具合を測るような顔でおなかに手を当ててから、素直に大皿からスコーンを取った。
スコーンをひとくち齧ってもぐもぐと飲み込んでから、彼女がコリウスを見て首を傾げる。
「私がガイカクを突破できたら、コリウス、きみがナイカクの傍まで瞬間移動でも出来たら話が早いんだけど。
何しろ、正攻法でいったら、島を幾つか越えながら、あっちのヘリアンサスがある島まで移動しないといけないわけでしょ?」
「試してみてもいいが、僕だけが移動しても何にもならないだろう」
「私と一緒に瞬間移動してくれたこともあったでしょ」
「あれは――」
前後の状況を思い出したのか、憚るように口籠るコリウスに、「ごめんごめん」と手を振って、トゥイーディアが軽やかに言う。
「きみだけだったとしても、コリウス。その辺りにレヴナントがいない確証があれば、ヘリアンサスが全員まとめて運んでくれるわ。
腹が立つけれど、きみに瞬間移動が出来る場所ならヘリアンサスにも出来るでしょ」
「ああ――そうだな」
コリウスが認めて、一瞬だけ視線をヘリアンサスの方へ向けた。
ヘリアンサスは窓際に凭れたまま、動いていない。
「ただ、気に掛かるのは、世双珠の母石が――今のところは――一応、ヘリアンサスの半身だという点だが」
――「おまえ、自分の右目で左目を見られる?」
いつかのヘリアンサスの言葉を思い出して、俺は思わず渋面を作った。
トゥイーディアも同じことを思い出したのか、やっぱり渋い顔をする。
そんなトゥイーディアに肩を竦めて見せてから、コリウスは俺に視線を向けつつ、
「――まあ、瞬間移動が可能だったとして、という話だが」
コリウスの視線を受けて、俺は顔を顰めた。
「いや、無理だと思うよ。古老長さまが、カロックの皇太子殿下の魔法を万に一つも見逃すもんか」
「何かの方法で瞬間移動を阻んでるにせよ、その機能がガイカクにしか存在しないってことはないかしら。
その老害の想定では、とてもじゃないけれどガイカクが突破されるはずはなかったんでしょ?」
ディセントラがそう言って、古老長さまが老害呼ばわりされたことに若干の頭痛を感じつつ、俺は――全く不本意にも――迷惑そうにトゥイーディアを指差していた。
「その可能性には賭けたいけど、生憎とそいつが、外殻なら突破可能な魔術師だったってことは古老長さまもご存知だから。最悪の場合は想定なさってたとは思うぜ」
トゥイーディアがむっとした様子で頬を膨らませた。
「きみ、ちょっとは私を励まして、頑張ろうって気にさせたらどう?」
俺は鼻で笑っていた。
我ながら、めちゃくちゃ憎々しい感じの嘲笑になった。
「俺の一言でおまえがやる気出すなら励ましてやるよ」
「きみの一言がいちばんいいんだけど」
言下に、真顔でトゥイーディアがそう言ったので、俺は一瞬それを空耳と思ってしまった。
俺は全くの無表情でトゥイーディアから視線を外し、綺麗に彼女を無視した形になった。
――そして直後、内心で、咽るほどの勢いでトゥイーディアの言葉を反芻することとなった。
えっ、待って、今なんて?
とはいえ、内心が大恐慌に陥ろうが、俺の表情は毛筋ほどにも動かないので、トゥイーディアはすぐに、自分の言葉をないものとして扱ってしまったようだった。
彼女が、ぷい、と俺から顔を背けたが、俺が視界の隅に全神経を集中させて見詰めていたところによれば、じゃっかん顔が赤くなっていた。
――マジか……。
俺が内心で色んな感情を噛み締めている一方、ディセントラはトゥイーディアを見て、額に手を当てていた。
だがすぐに、きっぱりと顔を上げると、真面目な調子で言った。
「――まあ、物は試しよ。コリウスに様子を見てもらってもいいと思うわ。イーディの言うとおり、正攻法だと移動距離があるし――ただ移動すればいいっていうものでもなくて、その移動中ずっと、レヴナントに対処していかなきゃならないことになるんだもの」
想像して、俺は暗澹たる気分に肩まで浸かってしまった。
トゥイーディアも憂鬱そうな顔になって、ちらりと窓際のヘリアンサスを見遣る。
そして、溜息を吐いて言った。
「そうね。そうなると、私はあいつに付きっ切りになるから、あんまり役には立てないかも知れないわ」
「それでいいのよ」
アナベルが、噛んで含めるようにしてそう言った。
「イーディ、あなたの役目はあたしたちの後ろにいて、世双珠の親玉を壊すだけの魔力を温存しておくことなのよ」
トゥイーディアが盛大に顔を顰めたので、その場の殆ど全員が溜息を零すこととなった。
「――聞き分けてね」
と、宥め賺すようにそう言ってから、ディセントラが話題を移らせる。
「ルインくんは船にいてもらうんでしょ?」
俺とルインが同時に頷いた。
「船を守ってほしいんだけど――」
言い差して、俺はくるっとルインに向き直って、真剣に言った。
「ちょっとでも危ないと思ったら、船なんか捨てて逃げていいからな。
いくらなんでも、船よりあの連中よりおまえが大事だ」
ルインが仔犬みたいな顔で俺を見てきたので、俺は動揺した。
ルインはふうっと息を吐くと、真顔で。
「――そう言っていただけただけで十分です」
カルディオスが声を上げて笑い始める一方、俺はじゃっかん冷や汗を掻きつつ。
「いや、十分じゃないからな? おい、ほんとに、危ないと思ったら逃げるんだぞ?」
必死にルインの説得に当たる俺を後目に、ディセントラは談話室の安楽椅子の一つの上でぼんやりしているムンドゥスを指差して、
「あの子はどうする? 危ないからここへ置いて行って、土壇場で来てもらうっていうのも、一つの手だとは思うけれど」
と、首を傾げている。
「ヘリアンサスに呼んでもらって?」
トゥイーディアが顔を顰めて確認し、首を振った。
「駄目よ。――その子、私たちが呼んでも来てくれないわけでしょ? そうなると、どうしてもヘリアンサスに呼んでもらうことになるけれど、駄目よ。あいつがどういう状況になっているかも分からないのに」
トゥイーディアの主張に、衒いなく頷くディセントラ。
「じゃ、あの子は連れて行くことにして、――船から下ろして、私たちと一緒に来てもらう?」
「それが、結局のところいちばん安全なんじゃない?」
アナベルが言って、俺を指差した。
「そこで、危なくなったら船を見捨てるように、必死に言い聞かせてる人もいるんだもの。
船と一緒にムンドゥスが見捨てられたら堪ったものじゃないわ」
「ルインがそんなことするわけねぇだろ」
俺は思わずアナベルに噛み付いたが、はいはいと手を振っていなされた。
「それに、ずっと船に乗せておくっていうのも心配だろ、世双珠もあるわけだし」
カルディオスが取り成すようにそう言って、ディセントラとコリウスが深々と溜息を吐いた。
「――あの子がきちんと、世双珠を毒だと認識していれば、こんな面倒なことにはなっていないものを……」
「世双珠じゃなくなっても、ヘリアンサスの後を付いて回るくらいだものね……」
全く以てその通り。
俺は思わず、ヘリアンサスの後ろ姿を眺めた。
――こちらの話を聞いているのかいないのか、ヘリアンサスは飽きもせずに窓の外の、鮮やかな青空を見詰めている。
コリウスが女中さんを呼んで、朝食の片付けを頼み、談話室から食事の痕跡が運び出されても、まだヘリアンサスは窓の外を眺めており、心配になるくらいに動かなかった。
それでとうとう、カルディオスがヘリアンサスに歩み寄って、並んで窓の外を見るようにしながら、苦笑ぎみに話し掛けた。
「――アンス、そんなに見張ってなくても、しばらく雨は降らないと思うぜ」
ヘリアンサスは窓際に頭を凭せ掛けるようにして立ったまま、右の指先で、しゃらしゃらと左手首のカライスの腕輪を弄んでいた。
黄金の瞳が、愛おしそうなあこがれを籠めて、窓の外の空を映している。
「……雨、降らない?」
呟くようにそう尋ねて、それからヘリアンサスは、どことなくぼんやりした口調で。
「それは良かった。
――雨も好きだけど、おれは青空が……」
小声で、殆ど独り言のように、ヘリアンサスが呟く。
「空は青い方が好きだ。
――晴れるならその方がいい……おれにとっては最後だから」
「――――」
俺は言葉が出なかった。
ヘリアンサスが軽く息を吸い込んで、手を伸ばして窓を閉めた。
かしゃん、と軽い音を立てて掛け金を下ろして、部屋の中を振り返ったヘリアンサスが、いつもの、あの訳知り顔の微笑を浮かべて肩を竦める。
彼が俺を見て、俺の表情を見て、いっそう深く微笑んだ。
「ルドベキア、そんな顔をすることはない。結局はおれが決めたことだ。
――でも、それはそれとして、最後に見る空は青い方が素敵だからね」
ひらひらと手を動かして、ヘリアンサスは軽い語調で続けた。
「何しろ、おれにはおまえたちと違って、次の人生もない。
本当の意味で、ここで見納めだ。
何しろおれは人間じゃない」
「おまえが――」
カルディオスが言い差した。
たぶん、何度も言っていたように、「おまえが人間じゃなくても、俺は気にしないよ」と言おうとしたのだと思う。
俺も、当然――誰よりも、実感として――ヘリアンサスが人外のものであることは分かっていて、しかも彼の魂が、俺たちがそれを壊すためだけに定義したものだから、俺たちと違って転生も有り得ないことを知っているからこそ――何も言えなかった。
だが、そのとき、トゥイーディアが――葛藤すら滲ませながら――躊躇いがちに、いっそ訝しげに、呼ばわった。
「――ヘリアンサス」
談話室の、少しの距離を挟んで立つヘリアンサスを見て、何かに悩むように唇を噛んで、彼女がそこで言葉を止めた。
みんなが、少し息を呑んだのが気配で分かった。
ヘリアンサスの黄金の瞳が、トゥイーディアを向いた。
彼が微笑んだ。
皮肉っぽい、いつもの笑顔だった。
「なんだろう、ご令嬢――心配しなくとも、きみには分かると思うけれど、僕は考えを変えたりしないよ」
「ええ、そうでしょうね」
トゥイーディアも認めた。
眉を寄せてヘリアンサスを眺める彼女の飴色の瞳が、迷うように少し揺れた。
それからトゥイーディアは、珍しいほど躊躇いがちに、言葉を続けた。
「……おまえが、何のつもりで何度もそう言うのかは、少しは分かるけれど――」
軽く息を吸い込んで、ヘリアンサスを真っ直ぐに見据えて、トゥイーディアが断言した。
「――ヘリアンサス、おまえは、人間だ」
俺も、カルディオスも、意表を突かれてトゥイーディアを凝視した。
ヘリアンサスが瞬きした。
それから眉を寄せ、殆ど反射的に冷笑を浮かべて、張り詰めた口調で呟く。
「――冗談なら笑えないな」
「ヘリアンサス」
トゥイーディアが、軽蔑も揶揄も欠片もなくヘリアンサスを見詰めて、理解に苦しむといった表情で、なおも続けた。
周囲のみんなが一気に緊張したのは分かっただろうに、そちらに注意を払う様子はなかった。
「どうしておまえが、違うように振る舞うのか分からない。
――おまえは人間だもの、そうでないなら――」
俺は瞬きする。
――そういえばトゥイーディアは、これまでも、ヘリアンサスが自身を人外のものだと言う度に、何かを言いたげにしていることがあった――
「――そうでないなら、おまえが、お父さまを『対価』に選んだはずがない。
お父さまに対する愛情を理解したはずがない」
トゥイーディアは顔を顰めた。
ヘリアンサスに対する嫌悪と、何かの葛藤が入り混じったかのような表情だった。
「私には分かる。
私は――おまえがそうさせたから――おまえのことを知っているから」
ヘリアンサスは瞬きもしなかった。
表情の全部が彼の顔貌から抜け落ちていた。
「おまえが人間でないなら――」
トゥイーディアが言葉を続けている。
彼女には珍しいほどに不明瞭に、言葉を選んで悩みながらといった調子で。
「私が、おまえを守るはずがないでしょう。
何度も言ったでしょう、私は、人を守る救世主なの」
ヘリアンサスが瞬きした。
雪が落ちるよりも静かなその仕草のほかには、微動だにしなかった。
彼の黄金の瞳が、ソファに腰掛けたトゥイーディアを凝然と見詰めていた。
「私だって……」
トゥイーディアが、ヘリアンサスから視線を逸らして、呟くように言う。
「人間以外のものに人の倫理を求めたりしない。人でないものを恨んだりしない。
人の決めた罪は人のものだから、おまえが人でないなら、おまえを責めたりはしないわ。
――ヘリアンサス、おまえは、人だから――」
目を上げてヘリアンサスに視線を戻して、トゥイーディアは幾分か口調を強くする。
「ヘリアンサス、おまえには、魂がある。壊されるためだけのものではなくて、おまえの魂がある。
だから、おまえは、死んだ後にも存在が残るのよ」
息を吸い込んで、トゥイーディアが口調を荒らげる。
「私がおまえを許すと思う? ――絶対に許さないわ。
過去の私がおまえに何をしたのであれ、おまえがこれまでしてきたことを水に流すわけがない。
――おまえには、未来永劫苦しむ義務があるのよ。その未来があるの。
私たちを魔王にして魔法が死ぬのを見届ける、その役目が終わっておまえが死んだとしても、その後に、おまえにはその先の一生がある」
首を傾げて、少し口調を落ち着かせて、トゥイーディアは、ヘリアンサスがぴくりとも反応を返さないことを訝るようにしながら。
「――おまえはもう、物ではなくて……資源ではなくて、未来永劫苦しむ責任のある人間なの。
どうしてそれが分からないのかも、少しは知っているわ、おまえは……」
曖昧な仕草でヘリアンサスを指差して、トゥイーディアは言葉を選ぶように。
「――おまえは、……人のいちばん幼いところを集めたような人間だから」
指を下ろして、トゥイーディアは、これは殆ど独り言のように呟いた。
「……人間というのは、ヘリアンサス、心臓の有無によるものでも、魂の有無によるものでも――本来は――ないのよ。精神の在り様によるものなのよ」
「――――」
ヘリアンサスが、もういちど瞬きした。
トゥイーディアはヘリアンサスから目を逸らして、ディセントラの方を窺うようにする。
ディセントラは、ヘリアンサスが予想外の反応を示すことを恐れるように彼の方を見ていて、そんなディセントラの気を引こうとするようにして、トゥイーディアが小さく咳払いした。
「――ディセントラ、そろそろ――」
そのとき、ヘリアンサスが、こつ、と一歩を踏み出した。
俺はどきりとした。
カルディオスでさえ、一瞬、ヘリアンサスをその場に止めようとする様子を見せた。
トゥイーディアの言葉を、ヘリアンサスがどう受け取ったものか、俺には判断がつかなかった。
カルディオスが彼を止めるより早く、ヘリアンサスが、足早にトゥイーディアに近付いた。
その場の全員が、息を呑んでその動きを見守った。
トゥイーディアが訝しげに、胡乱げにヘリアンサスを見上げた――その直後、ヘリアンサスがトゥイーディアの前に膝を突いた。
かつてリリタリス卿に頭を下げたときのように、敬意を以て片膝を突いた。
トゥイーディアが瞬きする。
一瞬、何が起こったのか理解できないようだった。
その彼女の手を取って、ヘリアンサスが頭を下げた。
俺の知る限りで初めて、ヘリアンサスがトゥイーディアに対して、害意も悪意もなく接していた。
「――は?」
ぽかん、とトゥイーディアが呟く。
ヘリアンサスの掌の上に載った自分の手を見て、嫌悪の余りに彼女の顔が強張った。
一瞬、トゥイーディアは、ヘリアンサスの手を払い除けようとしたように見えた。
だが、それより早く、ヘリアンサスが大きく息を吸い込んだ。
そして、はっきりと言っていた。
「――トゥイーディア・シンシア・リリタリス嬢、このおれが約束しよう」
顔を上げたヘリアンサスが、間近でトゥイーディアの顔を見上げた。
二人の目が合った。
――そのときの、ヘリアンサスの、その表情。
自分は一端の演者なのだと思い込んでいたところに、拍手喝采と共に“おまえは良い道化だ”という誉め言葉を貰い、こちらの本意とあちらの善意の喰い違いに途方に暮れているところに肩を叩かれ、“おまえは見事な演者だ”と、誰かから太鼓判を貰ったかのような――
隣を歩く誰かの足許に影が落ちていて、自分の足許に影はなく、その隣の誰かの影をひたすらに羨んでいたところを、自分の背後に影が落ちていることに気付いたかのような、不意打ちで自分の人生の全てを肯定するに足る発見をしたかのような――
隅々まで輝き渡るほどの、その喜色。
「このおれが、身命を賭して、呪いが明けたのちのきみの明日を約束しよう」
トゥイーディアの手を握ったまま、ヘリアンサスが、震えるほどの声で断言していた。
「呪いが明けるまでに限り、きみがおれより先に死ぬことはない」
「――――」
トゥイーディアが目を見開いている。
その表情に微笑して、ヘリアンサスが立ち上がった。
ヘリアンサスがトゥイーディアの手を離し、咄嗟のように、トゥイーディアがその手をもう片方の手で押さえた。
――これほど。
ヘリアンサスが、千年前から変わらず、ひたすらに忌み嫌い、蔑み、唾棄すべき存在としてきたトゥイーディアに膝を突くほど。
俺はヘリアンサスのあこがれと嫉妬を、この綺麗な外界に対するものだとずっと思ってきたけれど――
――俺は何度、それを否定しただろう。
カルディオスさえそうだった。
どれだけ親しくとも、あるいは歪な親子のような関係を築こうと、カルディオスも俺も、断じて理解できなかったその一線があったのだ。
「――おまえ……」
俺は覚えず呟いて、そしてこちらを見たヘリアンサスの瞳の中に、狂喜に近い煌めきを見て、茫然と囁いていた。
「……ずっと、人間になりたかったのか」
ヘリアンサスが笑った。
驚くほどカルディオスに似た、荒っぽい、幼いほどにあけすけな笑顔だった。
「――さあね。
でも、羨んでいたのは確かだ」
◆◆◆
晴天に汽笛が鳴り響く。
白地に海燕を染め抜いた旗が海風に翻り、勢いよく回転する外輪が、冷たい海水を押し出して船を沖合へと進める。
舫い綱から解き放たれた大きな船体が、ゆっくりと船着き場を離れ、舳先に小さく波頭を弾けさせた。
海は空を吸い込んで青々と深い。
忙しく立ち働く船員たちを船尾楼甲板の上から睥睨して、船長が高らかに宣言する。
「――よぉし、救世主さま御一行の出航だ!!
野郎ども、きりきり働け!」
朝に活動報告も書きます。
よろしければそちらもご覧ください。




