22◆ 旧懐の円卓
夢を夢だと自覚していることは、俺の場合は珍しくないが、この夜も俺はそういう夢を見ていた。
――多分、いよいよトゥイーディアが世界を救うこと、延いては魔法を殺すことについて、ヘリアンサスと話そうとしているから、こんな夢を見たのだ。
夢の中で俺は、最初の人生においては飽きるほど訪れていた、レンリティス王国の王都リーティ、その王宮の中枢の、何度もあの国の王に召喚されていた、例の会議室にいた。
ところがあの国の人は、それこそトゥイーディアもアナベルもそこにはいなくて、円卓を囲んでいるのは使節団の若手のみんなだった。
俺はいつものように、いちばん扉に近い側の席にいたが、いつも国王が座っていたはずの、円卓を挟んで俺の正面に当たる席に座っているのは、俺の一番目の兄貴のレイモンドだった。
彼は木製の小槌を手にして、ちょっと楽しそうに周りでわいわいと騒ぐ使節団のみんなを見回している。
俺はレイモンドが目の前にいるのが嬉しくなって身を乗り出し、声を掛けようとしたが、どうにも声が出なかった。
まあ、夢の中ではよくあることだ。
声を出すことは諦めて、俺は夢中になってレイモンドを観察する。
懐かしいなあ、と思った。
懐かしい金髪、懐かしい面差し、懐かしい緑の目。
いつも着ていた、使節団特有の、あの緑の衣裳を着ている。
帯にはしゃんしゃんと鳴る金属の輪っか。
俺が穴が開くほどレイモンドを見ているうちに、彼が、かんかん! と音を立てて、木製の小槌を打撃板に打ち付けた。
『――みんな、ルドベキアが退屈してるから』
「退屈してないよ」
と、俺は笑いながら言ったが、どうやらレイモンドには聞こえなかったらしい。
俺の隣に座っていた、俺の二番目の兄貴のチャールズが、笑って俺の肩を押してきた。
『大使さま、いつまで経っても手が掛かるなあ』
「うん、みんなが居てくれればいいんだけど」
と、俺は応じた。
だがそれも、どうやらチャールズには聞こえなかったらしい。
チャールズは笑いながらレイモンドの方を向いている。
『レイモンド、なんかいい考えある?』
何の話をしていたんだっけ、とぼんやりと考えながら、俺も追従するように言っていた。
「レイ、なんかいい考えある?」
『あったら苦労しないんですけどね』
と、彼らしい穏やかさでレイモンドは言った。
『このままだと、あなたは過激派一直線ですよ、ルドベキア。ただでさえ素顔のままで外を歩きづらくなっているんでしょうに』
お、どうやらレイモンドは、俺の状況を理解してくれているらしい。
そう思って、俺は元気が出てきた。
「そうなんだよ、それに何より、ヘリアンサスを殺すことになりかねないだろ」
『そうなるんでしょうか』
レイモンドが穏やかに言って、首を傾げた。
その顔を見ていると、なんか何もかもが上手くいきそうな気がしてきた。
これは夢だが、夢でしかないが、今だけはそう思えた。
『ルドベキア、あなたが一番、守人のことには詳しいと思いますが』
俺は苦笑する。
「そうかな、カルの方が詳しいかも。カルはほんとに、ヘリアンサスに色んなことをしてやったんだ。俺がやるべきだったのに――」
レイモンドが首を傾げる。
俺は思わず指を鳴らす。
夢の中らしく、俺が指を鳴らした音は聞こえなかった。
「あ、いや、違うか。カルは、“守人”のことは知らないんだ。“ヘリアンサス”には詳しい――っていうか、仲がいいけど」
レイモンドが微笑んで、頷く。
俺が初めて文字を読んだときと同じ表情で。
俺は得意になって、背筋を伸ばした。
『そうですよね。――ヘリアンサスは、今でも守人ですか?』
レイモンドがヘリアンサスの名前を口に出すのには違和感があったが、まあ、これは夢だからね。
俺はその違和感にはさほど頓着せず、首を捻った。
「どうなんだろうな。まあ、ぶっちゃけ、あいつ今はもう地下神殿には居ねぇし」
レイモンドが両手を組んで、その指の背に顎を乗っけた。
楽しそうな顔をしていた。
『ヘリアンサスは、今でも母石とふたつでひとつですか?』
俺は瞬きした。
夢の中というだけあって、頭の働きが鈍い。
俺は眉を寄せる。
「えーっと……そりゃあ……」
呟く。
「……もう違うかも知れない――もともとあいつと母石の違いは、精神の有無で……」
世双珠の母石のうち、精神を獲得し情緒を獲得していたものが、ヘリアンサスだ。
「――今のあいつには、魂があって……」
夢の中の俺が、勝手に呟く。
「……命が――ある……」
レイモンドが頷いた。
俺がやっとのことで食前の祈りを暗唱できたときと同じ表情をしていた。
俺は嬉しくなって微笑んだが、直前に自分が呟いたことは頭の中から抜け落ちてしまった。
レイモンドが、組んでいた指を解いて身を乗り出した。
『女伯とはどうなっています?』
俺の隣で、チャールズがひゅうっと口笛を吹いた。
パトリシアやブライアンや他のみんなも、拍手をしたり口笛を吹いたりして冷やかしてくる。
俺は顔が赤くなったのを自覚した。
「――ど、どうもなってない」
『おかしいな』
レイモンドが顎に手を宛がって、椅子の背凭れに体重を預けた。
『私の見立てでは、女伯もあなたに気があるはずなんですが』
さすが、俺の夢。
俺に都合のいいことに力を入れてくれる。
この夢が現実と繋がればいいのに、と思いながら、俺はしょげた小声で呟いた。
「この国にいる間は、もしかしたらそうだったのかも知れないけど、もうどうとも思われてないのかも」
少なくとも、最初の人生における最期の瞬間、俺はトゥイーディアに気持ちを伝えているが、それに対して、「私もですよ」といった返答はなかった。
今でも覚えている――トゥイーディアの掠れた声、「ばかもの」と言った、あの口調。
『そんなことあります? あなたといるとき、明らかに不自然に緊張してるじゃないですか。意識してるせいですよ、きっと』
さすが俺の夢の中の俺の兄貴。
現実にいたときだって俺にとって都合のいいことを連発してくれていたのだから、夢の中に入ってきたとなればもう、俺にとって都合のいいことを、現実の七割増しで言ってくれる。
「怖がられてるだけかも……」
俺はすっかりへこんでそう言ったが、すぐに思い直して顔を上げた。
「――まあ、別にそれでもいいんだ」
『諦めがつきました?』
レイモンドが含みを持たせてそう尋ねてくるので、俺は苦笑した。
背凭れに体重を預けた。
「――つくわけないよ。本当に好きなんだ」
また、周りで口笛と拍手が起こった。
冷やかしだったが、途轍もなく温かく感じた。
「あんなに――あんなに可愛くて、強くて、綺麗で、たまに抜けてて、努力家で、……あんなに完璧なトゥイーディアが他にいるもんか」
レイモンドがにこにこして頷いている。
夢の中なのに俺は泣きそうになった。
「どんどん好きになるばっかりなんだ。レイ、一緒にいた最初の人生で、俺もう、絶対これ以上はないってくらい、あいつのこと好きだったんだよ。あいつと話してるだけで幸せで――たまに手を握ってくれたりしたんだけど、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。あいつがにこにこしてくれてるだけで、俺、めっちゃぼーってして――かなり、変なやつだと思われてたかも知れない」
『しっかりしろよー』
チャールズが横から言ってきて、俺は苦笑する。
「でも今は、あのとき以上に好きなんだ。あいつが息をすればするだけ、俺、あいつのことが好きになるんだ。
――あいつが、」
レイモンドが微笑んでいる。
なぜだか目が霞んで、その顔がよく見えなくなった。
「あいつが、俺のこと好きだったら、どれだけいいか――」
レイモンドの輪郭が首を傾げる。
「ちょっとでいいんだ。他のやつより俺の方がちょっとだけ好きとか、他のやつより俺の方が、ちょっとだけ格好よく見えるとか。そういう――それだけで。
――でも、」
いつの間にか周りが静かになっている。
「俺、もう二度とヘリアンサスのことを見捨てられない。
あいつがどうなるのか分からないけど、あいつ、だいぶ俺のことには色々と目くじら立てるからさ。俺のことだけは、もうあいつの好きなようにさせてやるんだ。
――俺、これまでずっと、あいつには不義理をしてきたから」
レイモンドが俺を見ている。
「だから、そのことで――トゥイーディアが俺のことで、ちょっとでも悲しんだりするくらいなら、別にあいつに怖がられてようが嫌われてようが、もういいんだ。トゥイーディアが笑顔でいてくれることの方が、ずっと大事だ。
――よしんば、あいつが……俺のこと、好きだったとしてさ」
どんどん視界が狭くなる。
おかしいな、と思いはするがこれは夢だ。
それにレイモンドがいることに変わりはない。
「俺はちょっと――なんていうか、もう病気だなって思えるくらいあいつのこと好きだけど、あいつはそこまでじゃないんだ。
俺はこれまでずっと、あいつのこと考えて、あいつならどうするかなって考えて、どうすればあいつが喜ぶか考えて、振る舞ってきたけど、そうやって『救世主』をやってきたけど、トゥイーディアは違う。
あいつはちゃんとした人間だから、ちゃんと自分で考えて生きてるし、そういう人間だから、救世主らしいあいつなんだ。
あいつには色々考えることがあるし――今の人生なら、家族も、家族同然の人たちも、沢山いる――他のみんなもいる――俺一人があいつの人生から欠けたところで、多分、どうってことない。
俺の人生にあいつが居なくなることと、あいつの人生に俺が居なくなることは、比べるのもおかしいくらいに、全然違うことなんだ」
レイモンドがいっそう首を傾げる。
何か言ってくれた気がするが聞き取れない。
「一緒に生きていきたいけど、無理なんだ。
俺は、言い訳のしようもないくらい悪いことをしたから、その報いっていうのは絶対にある。ヘリアンサスに償いもしなきゃいけない。
――けど、まあ……何かの機会にさ――ちょっとだけでいいから、一言でいいから、俺のこと好きって言ってくれたら、もう俺、それでずっと幸せでいられると思う。――ってか最近、トゥイーディアの滅多にないくらいの可愛い顔は見られたから、俺、もうそれで満足すべきなのかも。あいつが近くにいると、俺は馬鹿になるから、もっともっとって欲しくなるけど、そういうのは良くないよな」
ぱあっと視界が明るくなって、夢の中の俺は目を細める。
「――だから、俺は、もういいんだ」
――そこで目が覚めた。
俺はごろんと横になっていて、大きな窓から差し込む曙光に、開いたばかりの目を細めた。
◆◆◆
居間で朝食を摂ったものの、その場にヘリアンサスはいなかった。
俺のみならずディセントラもコリウスも、アナベルまでもが、「おまえが隠した?」と言わんばかりにカルディオスを見詰めてしまったが、カルディオスは視線に気付くとぶんぶんと首を振っていた。
アナベルとコリウスは疑わしそうにしていて、若干、カルディオスに詰め寄りそうですらあった。
――まあ無理もない。
魔法を殺すとなれば、恐らく世双珠の母石も無事では済まないが、世双珠の母石が無事では済まないということは即ち、呪いが消えるということ。
特に大きな制約を呪いから受けているこの二人からすれば、一刻も早く母石を叩き壊したくて仕方がないだろうから。
俺は俺で、呪いによる制約はかなり大きいが、呪いゆえに、呪いを解きたい気持ちは顔に出ない。
それに呪いを解けたとして、多分、俺は俺が望む人生は歩めない。
――まあ、それも、仕方のないことだ。
ルインは俺の隣で嬉しそうにしていた。
昨日の夕餐のときも、俺が無事に戻って来たというので嬉しそうにしてくれていたが、今も嬉しそうにしてくれていて、俺としては可愛い弟に心身が癒されるような気分である。
朝食の給仕に当たってくれたのはメリアさんとナンシーさんだったが、トゥイーディアは食器を二人が下げてくれる段になると、「ちゃんとあれこれ物色して、荷纏めしないと駄目よ」と二人を促した。
「私はここで大事な話があるから」
やんわりとトゥイーディアがそう言ったために、二人とも正しく、「しばらく居間には寄るな」という意味を察したらしい。
「みんなにもそう言っておきますね」
とナンシーさんが明るく言って、メリアさんも苦笑しながら、
「朝からアーバスさまが精力的にお屋敷を回っていらっしゃいますよ。さすがと言いますか、旦那さまと奥さまの思い出の品には一切お手を触れていらっしゃいませんが」
「オーディーとケットが引っ張り回されてます。楽しそうなんで、私もそっちに行こうかと」
ナンシーさんが言い添え、トゥイーディアは声を立てて笑った。
その笑い声が、俺には物理的に明るく目に映った。
トゥイーディアは黒いワンピースに薄い色合いのガウンを羽織っていて、俺は何度も、綺麗だなあ、可愛いなあ、と思ってそれを眺めていた。
トゥイーディアと俺の間には、ルインとカルディオスがいて、トゥイーディアは俺から見て左側――ちょうど、大きな窓を背にする位置に腰掛けている。
窓の外の朝の空は、見事なまでに晴れ渡っていた。
トゥイーディアの、簡単な形に半ばを結い上げた蜂蜜色の髪が、朝の陽光が差し込む中にあっていっそう艶やかだった。
アナベルもディセントラも、トゥイーディアの普段着を借りたのだろう格好。
アナベルは白いワンピースに黒いガウン、ディセントラは薄紅のお茶会用のドレス。
対して俺たち男共は、軍服の外套とウエストコートを脱いだのみの格好である。
ワゴンに食器を乗せてがらがらと引き揚げながら、メリアさんが軽く頭を下げた。
「――では、お嬢さま。ご用向きがございましたらお呼び付けくださいませ」
トゥイーディアがひらひらと手を振った。
なんか、あれだ、妖精みたいだった。
「うん、ありがと」
静かに居間の扉が閉められてから、トゥイーディアはぐるりと周りを見渡した。
なんとなく、壁のその向こうを見ているような眼差しだった。
ぱっ、と、トゥイーディアの額の辺りで白い光の鱗片が散った。
「――ヘリアンサス?」
みんなが、腰を下ろしたままではあったものの、それでも身構えたのが分かった。
俺はルインの方を向いた。
ルインはトゥイーディアの挙動に不思議そうな顔こそしていたものの、何も尋ねる様子はない。
こいつはちょっと控えめ過ぎるところもあるが、自分の領分を過たず弁えているところは、間違いなくこいつの美点のうち一つだ。
「ルイン、悪いんだけど」
俺が声を掛けたので、ルインも俺の方を向いた。
「はい、兄さん」
「ちょっと外でこの辺をうろうろして、ないとは思うけど、誰か入って来そうだったら止めてくれないか?」
ルインがにこっと笑った。
遠回しに、俺がルインに席を外してもらおうとしていることを察してくれたらしい。
「はい、喜んで」
ルインが静かに立ち上がって、ぱたぱたと扉に向かった。
律儀にもこっちに頭を下げてから、そっと扉を開けて外に滑り出て、静かに扉を閉める。
かちゃり、と軽い音がして、扉が完全に閉じた瞬間だった。
「――呼ぶならもうちょっと後でも良かったのに」
聞き慣れた中性的な声がして、深青色のガウンを身に纏ったヘリアンサスが、当然のように俺の隣に立っていた。
音も無かった。
朝霞の中から立ち現れるように唐突だった。
俺はぎょっとして、椅子の上でやや身を引いた。
ヘリアンサスが俺の方を一瞥もせず、すっと俺に向かって手を伸ばしたので、一瞬とはいえ俺は、このまま自分が殺されるのではないかと覚悟を決めたくらいだった。
だが、違った。
ヘリアンサスは、俺の体感でいえば、何もせずにそのまま手を下ろした。
俺は混乱して、思わず反対隣に当たる位置にいるコリウスを振り返る。
コリウスは濃紫の目で、警戒しつつヘリアンサスを見詰めていたが、俺の視線に気付いてちらりと眼差しを俺に配った。
そして無言のまま、彼自身の銀色の髪に触れて合図する。
それでようやく俺にも、ヘリアンサスがたった今、俺の髪色を元に戻したのだということが分かった。
俺は無意識のうちに、自分の髪に触れる。
ヘリアンサスは、彼自身の魔法の解除の結果を目で見届けることもなかった。
俺の方はちらりとも見ずに、先ほどまでルインが座っていた椅子に乱暴に腰を下ろす。
そうして、カルディオス越しにトゥイーディアを見て、嘲るように鼻を鳴らした。
「僕を殺す算段の話だろ。
――きみたちは本当に、僕を殺す以外には能がないらしいね」




