13◆ 思い出話
ジョーが腕を(間違いなく、俺たちのためにではなくトゥイーディアのためにだが)揮ってくれたから、夕餐は非常に美味しかった。
正直にいえば俺は疲れていて、まあぶっちゃけ、一日眠った程度では回復しようがないくらい疲れていたから、まさに胃の腑に染みわたるような味だった。
トゥイーディアが目の前からいなくなった瞬間に、俺の疲れは倍になったし、見栄を張ってみせなきゃならない弟も、今頃はトゥイーディアと一緒に食堂で夕餐だ。
あいつが疲れ過ぎていて、食事の最中にうたた寝をして、頭をスープ皿に突っ込んでいないことを祈るばかりだ。不甲斐ないこの兄貴は残念ながら、レイモンドのように甲斐甲斐しくは世話をしてやれない。
俺としては、ヘリアンサスと食卓を共にするのは、この長い人生でも殆ど初めてのことだ。
俺は奴がものを食っているところすら、あんまり見たことがない。
俺はそのことに、疲れてはいても若干の居心地の悪さや警戒心を覚えていたが、一方カルディオスは元気だった。
メリアさんが渋々といった様子で運んで来てくれた夕餐を眺め渡しては、「なんか食い方わかんないやつとかある?」と、飄々とヘリアンサスに話し掛けている。
ヘリアンサスは苦笑していたが、決して嬉しくなさそうには見えなかった。
それを無表情に眺めているムンドゥスがあまりにも無機質で、俺からすれば違和感甚だしい光景ではあった。
――白状すると、俺としては、まともに食事が出来るかどうかを危ぶんでいた。
何しろ、トゥイーディア相手に脈があるかも知れないという一大事だ。
俺は出来れば、すぐにでもその辺を練り歩いて、これまでにトゥイーディアが会ったことがある人たち全員に、「どう思いますか」と訊いて回りたいくらいだ。
疲れてはいるが胸がいっぱいだ。
だが、まあ、そこも俺に掛けられた呪いは抜け目ない。
俺はさっさとカトラリーを手に取って、食事を開始していた。
さすが、トゥイーディアの呪いは、こんなときでも俺を断食から救ってくれる。
カルディオスはどうやら、これまでヘリアンサスに対する警戒心を詰め込んでいた場所に、戻ってきた記憶を詰め込み直したようだった。
何が言いたいかというとつまり、奴は綺麗にヘリアンサスへの警戒心を捨て去っている。
どろっとした豆のスープを掬いながら、暢気に思い出話をし始める始末だ。
俺としては、俺がするべきだったヘリアンサスに対するまともな対応をカルディオスがしてくれたということで、なんというかそわそわしてしまう。
「よく豆入れたスープ食ってたよな。味はめっちゃ薄かったけど」
「そうか。結構気に入ってたけど」
「そーなの? いっつも淡々と食べてたのに」
ヘリアンサスは、俺が戸惑うくらいには、滑らかな動作でそれこそ淡々と食事を口に運んでいたが、そのときふと動きを止めた。
ぱっ、と、有るか無きかの曖昧な白い光の鱗片が、その蟀谷の辺りで散った。
急に動きを止めたヘリアンサスを、カルディオスが訝しそうに見ている。
「――どうした?」
「ご令嬢が……」
ヘリアンサスが呟き、俺は思わず腰を抜かしそうになった。
なんだ、トゥイーディアに何があったんだ。
俺の、顔には出せない本音を汲み取ろうとするかのように、カルディオスがちらっと俺を見た。
それからヘリアンサスに目を戻して、尋ねた。
「イーディに何かあったのか?」
「いや」
ヘリアンサスが首を振って、曖昧な表情で肩を竦めた。
「何もないよ。ただちょっと――おれに恩着せがましくしているだけだ」
カルディオスは、無言でヘリアンサスを見詰めた。
俺と同じく、「なんで分かる?」という疑問を持っていることは明らかだったが、そのときヘリアンサスが、直前の遣り取りなど忘れ去ったかのような態度で、カルディオスを見詰めて遠慮がちに首を傾げた。
「――おまえ、一緒にいるとき、おれに何もさせなかったね」
カルディオスは眉を寄せて首を傾げた。
心当たりがないようだった。
「そーか? 金の使い方を教えただろ」
ヘリアンサスは薄らと笑った。
「荷物を持てとか、火を熾せとか」
カルディオスが噴き出しそうになり、それがちょうど、彼がスープを口に入れたタイミングだったものだから、カルディオスはしばらく、口を押さえて堪えていた。
それから苦労して口の中のものを飲み込むと、顔を上げて、神妙な口調で言った。
「そりゃあ、おまえ、あれだ。おまえがあんまりにも世間知らずだから」
ヘリアンサスが顔を顰めた。
「悪かったな」
「おまえのせいじゃねーじゃん。――それに、おまえ、めちゃくちゃひょろひょろしてて頼りなかったから、荷物も持たせらんなかったんだよ」
ヘリアンサスは疑り深い顔をした。
「おれは、今と何ら変わりなかった」
カルディオスはヘリアンサスを改めて上から下まで眺めて、にやっとした。
「そーかもな。俺の方が背が伸びたから、おまえがちびになった気分」
ヘリアンサスは面白くなさそうな顔をしたが、反論はしなかった。
ただカトラリーを離して、試すように自分の手を目の前に掲げていた。
ヘリアンサスのその動作を、ムンドゥスの無表情な瞳が追い掛けた。
それからふと、ヘリアンサスの瞳が翻って俺を見た。
そして、言葉を放り投げるようにして尋ねてきた。
「おまえ、おれのこと捜してたって言ってたけど、どの辺りを捜してたの」
俺は思わず咽た。
踏んではいけない話題にも程がある。
俺のあの、キルフィレーヴの皇宮での大失言のせいで、文字通り歴史が変わったのだ。
俺は唸って目を泳がせたが、どうやらヘリアンサスは怒っているのではないらしかった。
俺が自分でヘリアンサスを見てそう判断したというよりは、カルディオスが寛いだ様子でいるので、俺はそう判断した。
俺は曖昧に呻いたあと、「どこって――」と言葉を捻り出す。
「東の大陸の、南方は大体捜してたよ。俺たちの他にも、おまえを探してる人たちは山ほどいたけど」
ヘリアンサスはカトラリーを手に取り直して、かちゃっと音をさせた。
彼が首を傾げた。
「おまえは東に来たわけだ。――なんで?」
「なんとなくだよ。――けど、当てずっぽうで捜したにしちゃいい線いってた。一回は目撃情報もあった」
カルディオスが、興味を引かれた様子で俺を見た。
「へえ、どこで?」
「名前もないような小さい町だったけど。――閉めてるはずの店の中で子供が寝てて、しかも起き抜けにその子供に思いっ切り殴り飛ばされて、そのときに白い髪の子供も見たって証言。
――おまえがそんな乱暴者だったとは驚きだ」
言いながらも俺は、朧気ながら察しているが、恐らくカルディオスは起き抜けに他人の姿を見て、当時の彼からすれば心的外傷を抉るに等しいその状況に、恐らく恐慌に陥って相手を殴り付けたのだろう。
だがまあ、それに俺が言葉の上で同情したって何にもならない。
ヘリアンサスが顔を曇らせたが、対照的にカルディオスはぱあっと顔を輝かせた。
くるっとヘリアンサスの方を向いて、うきうきした調子で言う。
「おい、覚えてるか、俺たちが友達になった町だ。――あーいや、正確にはその町の外だったけど」
それから言葉を切って、まじまじとヘリアンサスの顔を見て、
「なにシケた面してんだ」
と言い放った。
俺は思わず目を瞑ったが、言われたヘリアンサスは咄嗟のように、カトラリーを握ったままの手の甲で自分の顔を拭っていた。
カルディオスは拍子抜けしたような顔でそれを見たあと、俺の方を向いて、目をきらっとさせた。
「で、それから、どっちに行ったの?」
俺は顔を顰めた。
「どっちに行ったかなあ――ただ、あのときは小さい町を狙い撃ちにしてた気がする。雲上船に乗ってるみんながでかい町を回ってくれてて、俺とチャールズたちは小さい町を回ったんだ」
ふと気付いて、小声で付け加える。
「チャールズってのは、俺の二番目の兄貴だけど」
だが、カルディオスはどうやら俺の小声を聞き逃した。
声を上げて笑うと、ヘリアンサスの方をちらっと見てから、俺に目を戻した。
「運がないな! その近くにそこそこでかい町があっただろ。俺たち、そこで一騒動起こしてるんだ。や、巻き込まれたっていう方が近いかな。
とにかくもしそこに行ってたら、町の衛兵さんたちが、俺たちがどんな背格好でどういう騒ぎを起こしたか、身振り手振りで説明してくれたはずだ。ついでに俺たちの仲がどんなに麗しかったかも話して、おまえを安心させてくれたはずなのに」
俺は仏頂面をした。
「こっちは、起き抜けに人を殴り付けるような奴は貴族の放蕩息子に違いないって睨んで、ヘリアンサスがどこの誰と一緒にいるのか、めちゃくちゃ気を揉んでたのに」
「立場が違えば見方も変わるな」
カルディオスはにこやかにそう言って、ヘリアンサスの方を向いた。
「そこそこピンチもあったけど、まああの町は楽しかったな、アンス?」
ヘリアンサスは顔を顰めていた。そしてぼそりと呟いた。
「あそこでおまえが無事じゃなかったら、おれはもうおまえのことは諦めてたけどね。思い出させるわけにはいかない」
カルディオスはけろっとしていた。
一瞬、ほんの一瞬、何かを考えた様子で目を細めたが、すぐに何事もなかったかのように笑った。
「無事だったんだからいーじゃん」
俺は眉を顰めた。
「――騒動って、何に巻き込まれたんだよ。おまえ、大抵のことは切り抜けられたはずだろ」
俺のこの一言は、「曲がりなりにもトゥイーディアが、危険は少ないと判断して、一人旅を許したくらいなんだから」という意味だったが、それは伝わらなかったらしい。
カルディオスはちょっとむっとした顔をした。
「あんだけ魔力があってもね、びびり上がると使えねーんだよ。あのときの俺は繊細で、何を罷り間違ったか、自分に全く自信がなかったんだ。お陰で結構危なかったな。
――騒動ってのは窃盗騒ぎ。俺が師匠に貰った手形を盗まれて、取り返しに犯人のとこに乗り込んだんだよ」
カルディオスはあっけらかんとそう言って、無頓着に水を飲んだが、俺はその瞬間、怒りと苛立ちに喉が詰まるような感覚がしていた。
――このやろう……こいつ……、当時のトゥイーディアが、王宮内でどれだけ後ろ指差されていたことか。
少しでも粗を見付ければ、これ幸いと攻撃してくる貴族たちの中で(その「これ幸いと攻撃する貴族」の筆頭がアナベルだったことには疑いがないが)、どれだけ一挙手一投足に気を配っていたことか。
それをこのやろう――トゥイーディアが善意で拾ってやった身分の低い弟子が、他国でパルドーラ伯爵の手形を紛失したとなれば、下手すれば外交問題だった。
トゥイーディアがその全責任を被らねばならないことだった。
それをこのやろう……!
だが、まあ、俺の怒りは表情にも声にも出なかった。
俺はただ、「ふうん」と無関心に呟いて、かりっと揚げられたじゃがいもにフォークを突き立てた。
カルディオスは、当時はそういう政治的な機微に疎かったせいだろうが、トゥイーディアがどれだけ危うい均衡を保って大貴族の地位に君臨していたのかは察していないらしい。
悪びれない様子で、分厚く切られたハムに、ざくっとフォークを突き刺した。
そしてくすくす笑う。
「――にしても、貴族の放蕩息子ね……。真逆だっての。俺の人生唯一の恵まれない生まれだったっての」
ヘリアンサスが、ぴくっと反応して目を見開いた。
「そうなの?」
カルディオスは眉を顰めた。
「知ってるだろ。俺、もう自分じゃ覚えてねーけど、おまえに、『俺は親に売られた』って喋った覚えがあるぞ」
ヘリアンサスが片手を振った。
それだけで意図を察したらしく、カルディオスが目を瞠る。
「あ、そっか、おまえは知らないんだ。――俺、二回目以降はとにかくめちゃくちゃ恵まれた生まれしか引いてねーよ。まあ、昔のことだから、ほんと言うと二回目も三回目も覚えちゃいねーけどな」
そこで少し声を低めて。
「おまえが気を遣ってくれたの?」
ヘリアンサスは戸惑った様子で瞬きした。
首を傾げて、咄嗟のようにムンドゥスを見遣る。
無表情の銀の双眸を見ても何ら感情を動かされた様子はなく、ヘリアンサスは呟くように。
「いや、――いや、おれにそこまでのことは出来ない。この子がおれの気持ちを汲んだ可能性はあるけれど……」
カルディオスはにやっと笑った。
高貴な生まれを連続して引き当てているくせに行儀悪く、大きく口を開けて、切り分けてもいないハムに齧り付く。
それをもごもごと噛みながら、彼は言った。
「まあ、おまえが気を回したんじゃないってことにしといた方が平和だ。いい生まれしか引き当ててないのなんて、俺と、トリーと、コリウスくらいだし――」
カルディオスが俺に向かって片目を瞑った。
腹が立つほど様になっている仕草だ。
「そこのルドはとにかく恵まれない。貴族に生まれた回数よりも奴隷に生まれた回数の方が多い」
「自業自得だ、この不孝者」
ヘリアンサスが淡々と呟いたが、俺は思わず反論していた。
「違う、平民生まれが一番多い。奴隷もまあ――何回かあったけど――」
「平民でもおまえ、極貧生まれが多いじゃん。口減らしで家から放り出されるのが、おまえの大体の人生の筋書きだろ」
元気よくそう言われて、反論できない俺は口を噤んだ。
――とはいえ、「この不孝者」と言われては、話題はそっと逸らすのが賢明だろう。
俺は少し前から気に掛かっていることを口に出したが、口に出して一秒で、そういえばこれも踏んではいけない話題だったと思い出して青くなった。
「――そういや、魔王の死体ってどうなったの?」
ヘリアンサスが不愉快そうに俺を見て、俺は思わず目を閉じた。
「三度目はない。いいな」と俺に言い渡した彼の声を思い出した。
だが結局、少しばかりの沈黙を挟んだあとに、ヘリアンサスが低い声で応じた。
「――首を晒す考えもあったけど、ご令嬢がそれを止めて、荒地に埋めさせた」
「良かったな」
カルディオスが真顔で言った。
「首を晒されてたらおまえ、二度と顔上げて外歩けなくなるとこだったぞ」
俺は顔を顰めた。カルディオスはふと眉を寄せて、
「や、でも、俺が創った幻影だろう? そんなに保つか?」
ヘリアンサスが首を振った。
「途中でおれが引き取ってる。ご令嬢が、おまえの魔力が心配だっていうから。
ただ、おれはおまえほど上手くないからね。実際に首が晒されてたら、たぶん誰かが偽物だって気付いたんじゃないかな」
「ははあ」
カルディオスが顎を撫でて感慨深げな声を出し、ちらっとヘリアンサスを見た。
「――おまえ、ほんとにイーディとちゃんと喋ったんだな」
ヘリアンサスはぴくりとも表情を動かさず、きっぱりと言った。
「おれの記憶にある限り、理性的な話し合いが彼女との間で成立したのは初めてだ」
その、「理性的な話し合い」の成果なのかは知らないが、翌朝俺は、初めてヘリアンサスがトゥイーディアの助けになっているところを見た。
その朝の俺は、また一晩ぐっすり眠ってようやく回復し始めた魔力を使って、ルインの怪我を治していた。
何しろ手首にまだくっきりと、内出血の痕が残っている。
ルインはルインで俺のことが心配なのか、「治り掛けですから大丈夫ですよ」ともごもご言っていたが、そこは有無を言わせず治療した。
本当ならばトゥイーディアの、治っていない傷こそを治療するべきだったが、トゥイーディアは起き抜けに俺を見るや真っ赤になってしまい、朝食のときも、居間で俺と一番離れたところにちょこんと座っていた(なお、朝食のときにはヘリアンサスはいなかった。カルディオスが彼の行方を気にしているようだったが、俺たちの中では言い出せないようだった)。
朝食は、俺たち六人とルインが一緒になって摂ったが、トゥイーディアは朝食に殆ど手を着けず、出て来た温かい紅茶をぼんやりと啜っているだけだった。
トゥイーディアの分の朝食はカルディオスと俺とルインに分配されたが、俺としては気が気ではない。
パン一切れと紅茶だけで、トゥイーディアの朝食が十分なはずがない。
みんなそれが分からないはずはないのに、なにを生温い笑顔でトゥイーディアを見守ってるんだ。
俺はやきもきしたものの、それを口に出せるわけもなかった。
朝食を終えるや俺はルインを捉まえて、傷を出せと迫ったわけである。
そこでコリウスが思い出したように、「トゥイーディアの治療も――」と言い差して、俺は「きた!」とばかりに内心で拳を握り締めたが、コリウスはトゥイーディアの方を向いて、声を小さくしながら、「トゥイーディアは後の方がいいかな」と締め括ってしまった。
なんでだよ!
俺が儀礼的に、ちらっとトゥイーディアを見ると、トゥイーディアは胸の前でティーカップを両手に持ってぶんぶんと首を振っていた。
顔が真っ赤で、なんなら湯気が出そうだった。
可愛いが、眩しいくらいに可愛いが、俺としてはティーカップから目が離せない。
中身がどれだけ残っているのかは見えないが、万が一中身が零れてトゥイーディアが火傷をしたら大変だ。
「大丈夫! 大丈夫! 痛くないから! もう治ってるから!」
叫ぶような語調ながらも蚊の鳴くような声でそう言うトゥイーディアに、俺は内心で若干の苛立ちを覚える。
――そんなに警戒しなくても、呪いがあるから襲ったりしないのに。
だが直後、天啓のような閃きに打たれて、内心で大きく息を呑んだ。
――もしやトゥイーディア、俺から治療を受けるということで、なんやかんやで距離が近くなるし、いや別に他意はないんだけれども治療のために肌を見せることになるので、そういうことに照れているのでは。
もしそうならなんて素晴らしい話だ。
とはいえ治療は受けてもらわなきゃならないけど。
アナベルが額に手を当てて、うんざりしたような声を出した。
「イーディ、そんなに不安ならあたしが一緒についててあげましょうか。ガルシアのときみたいに」
トゥイーディアは真っ赤な顔をティーカップで隠し(俺はますます、中身が零れたときのことを思ってはらはらした)、小刻みに首を振っている。
緩い三つ編みにされた蜂蜜色の髪の後れ毛がふわふわと動いた。
小動物みたいで可愛い。
実際にディセントラは、生まれたての子猫を慈しむような目でトゥイーディアを眺めていた。
が、ちょっと待て。
不安! 不安!?
トゥイーディアが何を不安に思うんだ。
俺の魔法の腕前か?
それとも身の安全か?
身の安全には本当に気を付けてほしいけれども、悲しいかな今のところ、俺はトゥイーディアの前では子羊よりも無害な男だ。
そして他の人間相手に欲情しようがないので、今のところそういう意味では、世界のどこでも通じる無害な男だ。
そして魔法の腕前ならば、これまでの実績を勘案して、ちょっとは信用してほしい。
俺がむっつりしながらも、恐縮しまくるルインを宥め賺して傍に膝を突き、治療を施している間に、ルインも俺たちの間の雰囲気が、どうやら変わっているらしいということに気付いたようだ。
「あの、」
と、きょどきょどしながら言い差した。
「何かあったんですか……?」
俺は呻いた。
「説明してやりたいんだが、俺から話すと虫食いの手紙みたいなことになるんだ。後でカルに訊いてくれ」
困惑した様子ではあったものの、ルインは頷いた。
「はあ……」
目に付く傷を治し終え、俺は立ち上がって腰を伸ばした。
「よし、他に痛いところは?」
「ありません」
即答する弟に、俺はちょっと疑いの目を向ける。
「ほんとか?」
ルインは、心外ですと言わんばかりに柘榴色の目を瞠った。
「本当です」
それでもなお俺は、ルインが俺に要らん気を遣って傷を隠しているのではないかと、椅子に座ったままの彼の周りを歩き、肩とか背中とか腹とかを押してみたりして、嘘を炙り出そうとした。
ルインはくすぐったそうにしたがそれだけだった。
そのうち俺も、ルインは健康体に戻ったと認めた。
ずるずると隣の椅子を引き摺ってルインの椅子の近いところに置き、俺はそこにどっかりと腰を下ろす。
内心で、誰か早く俺にトゥイーディアの治療をせっついてくれないか、と念じながら。
「ほんとに悪かった。取り返しのつかないことになるところだった」
ルインは首を振った。
「いいえ。兄さんのためでしたら何なりと」
俺は顔を顰めた。
「普通逆だろう。――おまえ、なんかあったら絶対に俺に言えよ。
兄ちゃんが何とかしてやるからな」
言い包めるようにそう告げつつ、俺はじゃっかん、鼻の穴が膨らむような心地である。
ルインがびっくりした様子で少しばかり仰け反った。
俺はちょっとだけむっとした。
「おまえ、俺の弟だろう。兄貴は弟のために何でもするもんなんだ。俺の兄貴なんて――」
「兄さん、お兄さまがいらっしゃったんですか」
びっくりしたようにルインが目を見開いたので、俺は胸を張った。
「最初の人生だけだけどな。二人いた。そりゃもう優しい兄貴で……」
考え無しにそこまで喋って、それから俺は言葉に詰まった。
――レイ。
最後に彼を見たあとに、もう彼が現れなかった理由、それからチャールズたちが俺に隠し事をしている様子だった理由が、今なら痛いほどによく分かる。
そもそもレイモンドなら、万難を排して俺の傍にいてくれたはずなのだ。
俺が言葉に詰まったことに気付いただろうに、ルインは中身なんか残っちゃいないティーカップを覗き込んだりして、それには気付かない振りをしてくれた。
そのときふと視線を感じて、俺は特に意識せずに顔を上げた。
――トゥイーディアが俺を、ティーカップの縁越しに見ていた。
飴色の目が少し瞠られていて、眼差しはどことなくぼんやりしていた。
目が合って、俺はどきっとしたが、トゥイーディアはまだ少し赤い顔のままで、ふわふわした眼差しで俺を見ていた。
どこか変かな、と思いつつも、俺は無情にもトゥイーディアから目を背けざるを得なかった。
と、急に、かちん、と音を鳴らしてティーカップをソーサーの上に置き、トゥイーディアが立ち上がった。
そのまま、一言もなく居間の外に出て行く。
彼女のガウンの裾がぱっと翻って、俺たちはぽかんとしてそれを見送った。
「――イーディ?」
トゥイーディアが出て行って数秒してから、ぽつん、とカルディオスが呟き、ちょうどそのとき、トゥイーディアと入れ違いになるようにして、ヘリアンサスが居間に入って来た。
今は濃紺の衣裳を身に着けている。
まるでトゥイーディアが、ヘリアンサスがどこにいるかを正確に把握していて、彼が近付いて来たから慌てて席を外したかのようだった。
ヘリアンサスは当然のように、さっきまでトゥイーディアが座っていた椅子に腰掛けた。
ちらっと円卓の上に残されたティーカップを見たあと、どことなく茫然とする俺たちを見回して、頬杖を突く。
「――やあ」
これまでだったらこの一言で、この居間は阿鼻叫喚に包まれていたことだろう。
俺たちは間違いなく逃げ出すか抗戦の構えを見せるかで、平和で普通の朝の時間が続くことなど有り得ない。
実際、ディセントラとコリウスは、昨日のあれは夢だったのではないかと半ば疑うような顔つきで、椅子から少し腰を浮かせた。
だが、他の誰が何を言うよりも早く、カルディオスが穏やかに言っていた。
「おはよ、アンス。おまえがどこにいるか分かんなかったんで、ノックのしようがなかったんだ」
ヘリアンサスが苦笑した。
「夜通し散歩してたんだ。ここだとおまえに教えてもらったのと、見える星が少し違う」
カルディオスは少し考えるように黙り込んだあと、指を立てた。
「まあ俺も、西の大陸に生まれたことはあんまりないから詳しくないけど、今度教えてやるよ」
ヘリアンサスが微笑んだ。
「ありがとう」
満足した様子で、ヘリアンサスは椅子の背に凭れ掛かって脚を組み、その膝の上に組んだ両手を置いた。
黄金の瞳がのんびりと細められたが、カルディオスはともかく他の俺たちにとっては、一気に緊張が重くなっていた。
カルディオスもそれに気付いたのか、軽く咳払いして立ち上がった。
「――なんなら、今から散歩の続きする?」
ヘリアンサスが瞬きして、立ち上がったカルディオスを見上げた。
カルディオスは窓の側にいたから、彼からすればカルディオスの姿は逆光になって見えていたことだろう。
ヘリアンサスは背凭れから身体を起こし、組んでいた脚を解いて、立ち上がろうとした。
ごく自然にカルディオスの誘いに応じようとした。
が、直後、はたと気付いたように周囲を見渡した。
そして、今度こそ立ち上がった。
「――ご令嬢?」
ヘリアンサスが呟いた。
眉を顰めている。
ぱっ、と、小さく、まるで雪が一片だけ降ったかのように、その眉間の辺りで白い光が閃いた。
「ご令嬢?」
カルディオスが、戸惑った様子で身体を揺らした。
「ご令嬢はどこ?」と尋ねられるならばまだ分かるが、唐突に、ここにはいない人物に話し掛けられても困る、と言わんばかりだった。
俺も同感だ。
みんなが呆気に取られた数秒後、ヘリアンサスは眉根の強張りを解いた。
そして、中空の曖昧な位置を見たまま、呟くように言った。
「――ご令嬢、着替えて。駅に仰々しい人間がいるから、多分きみへのお客さまじゃないかな」
俺たちはぽかんとしていたが、実際にヘリアンサスがそう呟いてすぐ、ぱたぱたと軽い足音を立てて、トゥイーディアが居間の前を通って行った。
メリアさんを呼ぶ声が聞こえてきて、確かに彼女は、来客を迎えるに相応しい服装へ着替えるつもりのようだった。
俺は思わず、まじまじとヘリアンサスを見遣った。
カルディオスも同様だった。
ヘリアンサスは肩を竦めて、曖昧にカルディオスから目を逸らし、俺の方を見た。
「――駅の、おれのじゃないおれの目に見えたから……」
ヘリアンサスはそう言ったが、俺が訊きたいのはそこではない。
――確かにトゥイーディアの魔法があれば、そしてその魔法を使うことが出来る者が複数人いれば、距離を跨いで会話することも出来るだろうが、それをトゥイーディアが許したということが意外に過ぎるのだ。
俺が何も言えないでいるうちに、ヘリアンサスは首を傾げてカルディオスを振り返った。
「おれは今、ご令嬢が部屋着で来客を迎える無様から彼女を救ったところだけれど、カルディオス。教えてほしいことがあるんだ」
カルディオスは瞬きした。
「お、おう?」
ヘリアンサスは、着ている衣裳の襟元を撫でた。
「おれはどういう服を着るべきなのかな? 人間の常識が分からない」
カルディオスは一瞬、凍り付いたような表情をした。
まさかこの期に及んで、ヘリアンサスがトゥイーディアの身内ぶって振る舞うとは思わなかったらしい。
この点も俺も同感で、俺は思わず、ヘリアンサスに制止の声を掛けそうになったくらいだった。
だが、一拍置いて、カルディオスは何か大きなものを呑み込むような顔をして、頷いた。
制止が入るとすればそれはトゥイーディアから入るべきで、彼女がここへ来て、何らの制止も掛けていないということを、どうやら重く受け止めたらしかった。
ヘリアンサスは微笑んで、信じ切った眼差しで、カルディオスの応答を待っている。
カルディオスは息を吸い込んで、手を叩いた。
「――任せろ。俺は慣れてる」
まあ実際に、カルディオスが知らない礼儀作法はさほど無い。




