09◆ 愛だの恋だの
「――ご令嬢がきみを助けたいらしいよ、親愛なるおれの姉上」
俺は息を呑んだ。
――ムンドゥスを助けること。
ムンドゥスを害しているのは、魔法であり、世双珠であり、――ヘリアンサス。
トゥイーディアは救世主だから、為すべきことをきちんと為す強さのある人だから、彼女の意志がどちらを向くのかは予想が出来ていた。
――だが、それでも、まさか本当に、逆上したヘリアンサスに殺されかねない、二人きりになった状況でそれを伝えていたとは。
ヘリアンサスにとっては、自死の強要に等しく聞こえたはずだ。
あのとき――あの最初の人生における殺し合いの中で――あれほどトゥイーディアに殺されることに激昂して拒んだヘリアンサスが、よくぞ逆上しなかったものだ。
ムンドゥスは首を傾げた。
その様子にいっそう苦笑して、ヘリアンサスが続ける。
その表情の意味が、俺には汲み取れなかった。
ただ、声音は異様なまでに低く穏やかだった。
「賭けに負けたから、僕はご令嬢に協力しないといけない。きみにも話を聞く。
――ご令嬢も僕も、しばらく忙しいから、」
ヘリアンサスにはおよそ似合わないことを言って、彼はムンドゥスの頭を穏やかに撫でた。
「またきみを呼んで話を聞く。――いいね、ムンドゥス」
ムンドゥスは身動ぎもせずにしばらくヘリアンサスを見上げ、それから瞬きした。
水晶の笛のように澄んだ高い声が言った。
「――だいじょうぶ? ヘリアンサス」
ヘリアンサスが笑い出した。
声を上げて軋むように笑って、ヘリアンサスがムンドゥスの肩を押し遣って、彼女を自分から離した。
ムンドゥスが少しよろめいて、銀色の目をいっぱいに見開いてヘリアンサスを見詰める。
ヘリアンサスは彼女から目を逸らした。
声が一転して荒くなった。
「……大丈夫ではないだろうけど、賭けちゃったものは仕方がない」
「何を賭けたんだよ?」
カルディオスが、割り込むようにそう尋ねた。
ヘリアンサスへ向ける眼差しに、紛れもなく彼を案じる色が浮かんでいた。
ヘリアンサスはカルディオスの方へ視線を向けて、そしてその表情に不意を打たれたような顔をした。
しばらく無言で瞬きしてカルディオスを眺めたあとで、ヘリアンサスは呟くように応じた。
「――おまえ」
カルディオスは、滅多にないほど呆気に取られた顔をした。
「……は?」
「だから、」
ヘリアンサスが、カルディオスそっくりの仕草で彼を指差した。
しゃらん、と、その手首で腕輪が揺れる。
「おまえが、おれをどう思っているかを賭けたんだ」
ちら、とヘリアンサスの黄金の瞳がトゥイーディアの方へ動いた。
トゥイーディアはしらっとした顔で立っていた。
「おまえの記憶を戻す代わりに、どういう賭けでも乗るように言われてたから、乗った。
――おれはてっきり、」
ヘリアンサスは、円卓の上に無造作に置かれたままになっている黒い指輪の方を一瞥して。
「おまえが一度はおれを斬るか殴るかするものだと思ったけど、ご令嬢は違ったから。
――ご令嬢は、たぶんおまえはおれに手を上げないって言ったんだ。どう思ってるか言葉で説明があるはずだってね。
――ご令嬢が正しかったな」
カルディオスはヘリアンサスに倣うようにして、円卓の上の指輪を一瞥した。
それから片手で口許を覆って、ぼそっと尋ねた。
「……手ぇ上げた方が良かったか」
「やめてくれ、おまえにそういうことをされるのは好きじゃないんだ」
ヘリアンサスが俯いて、苦笑を絞り出すようにしながらそう言った。
それから顔を上げて、自分の中で何かを切り替えるようにして、微笑んだ。
「――これから、おれはご令嬢と少し話すから。おれが思ってたより、おれの知ってることをご令嬢が知らないみたいだから、――少し話す。
きみたちも、」
きみたち、と言いながら、ヘリアンサスは俺たちの方を見た。
冴え冴えとした黄金の瞳が、無関心に等しい冷たさでディセントラたちを一瞥した。
「関心があるなら聞けばいいし、ご令嬢と同じことがしたいならすればいい。
――少なくとも、」
ヘリアンサスの黄金の双眸が、唐突に俺を見た。
それからアナベルに移って、コリウスに移った。
「――世界を救うとなれば、おれは……もうひとつのおれも、無事では済まないだろうから、」
ひらひらと手を動かして、今はもうどこに在るのかも分からない母石を示すような手振りをしてから、ヘリアンサスは明瞭に言った。
――ヘリアンサスにとっては当然の摂理を明言しただけかも知れなかったが、それは、俺たちにとっては救済と言って有り余る言葉だった。
「きみたちの呪いはもうひとつのおれに紐づく。
――もうひとつのおれがなくなれば、まあ、当然――呪いは解けるはずだ」
「――――」
息を呑んだのは全員同時、俺は声が出なかった――俺が呪いを疎む理由は即ち、トゥイーディアに気持ちを伝えられないがゆえのことだから、俺は声が出なかった。
だが、一呼吸すら挟まずに、つんのめるようにして、アナベルが言っていた。
「やりましょう」
言って、アナベルが傍の椅子にすとんと腰を下ろす。
話し合いの場への参加を、言外に表明するみたいにして。
「ああ、やろう」
コリウスが断言した。
声が僅かに上擦った。
万感の思いが籠もった声だった。
彼がアナベルの隣に、すっ、と端正な仕草で腰掛けて、しかし両手で顔を拭ったコリウスの手指が細かく震えていた。
「――もうたくさんだ」
俺は覚えず、両手で顔を覆った。
――コリウスに、重過ぎる呪いを掛けたのは俺だ。
俺が、俺の意思でしたことだ。
ディセントラが深呼吸を繰り返していた。
普段よりも一際ゆっくりとした仕草で、彼女が少しの距離を歩いて、コリウスの反対側の、アナベルの隣の椅子に腰を下ろした。
ヘリアンサスの言葉を、そのまま真に受けた様子はなかったが、それでも賭けるに足るものであると認識したようだった。
――なぜならば、トゥイーディアが先頭に立っているからだ。
それが何にも勝るヘリアンサスの言葉の傍証となっている。
トゥイーディアは無言で、円卓の椅子の一つの背を握って佇み、ヘリアンサスを見ていた。
ヘリアンサスは瞬きして俺たちを見渡し、最後にトゥイーディアを見て、皮肉に唇を曲げた。
軽く首を傾げて、揶揄するように言った。
「――きみももしかしたら、本心からこの子を助けたいと思っているよりは、」
この子、と示されたのはムンドゥスで、ムンドゥスはどことなくぼんやりとした、夢見るような眼差しでヘリアンサスの仕草を追い掛けている。
全身にびっしりと走った罅が痛々しかったが、表情が無いに等しいことがやはり恐ろしかった。
「自分に掛けられた呪いを何とかしようっていう算段があるのかも知れないけど、きみの考えは大筋で間違ってると思うよ」
トゥイーディアの表情が、初めて崩れた。
驚きであるとか動揺であるとか、そういう風な感情が映ったのではなかった――ただ、さっと翳った。
彼女の目が、どうしてだか一瞬、俺を見た。
それからすぐに彼女はヘリアンサスに視線を戻して、素気ない声で呟いていた。
「――別に、それは、構わないわ」
ヘリアンサスは瞬きした。
肩を竦めて、両掌を静かに合わせた。
「……きみへの呪いは、きみが考えているようには働いてないと思うよ」
「アンス、俺に気ぃ遣ってる?」
カルディオスが、遠慮がちに横から言葉を差し挟むようにして、そう言った。
ヘリアンサスがカルディオスを振り返って、首を傾げた。
トゥイーディアが慌てたようにカルディオスに向かって手を振った――「黙って」と合図したようだったが、カルディオスはそれを無視した。
彼はヘリアンサスを見詰めていた。
「――うん?」
訊き返すようにそう呟いたヘリアンサスに、カルディオスはいっそ気まずそうに眦を下げて。
「俺が師匠にとんでもないことしたのは本当だから、おまえは別に、俺に気を遣わなくていいんだよ」
ヘリアンサスはいっそう首を傾げた。
同時に俺は、がっと頭に血が昇る感覚を覚えていた。
――ヘリアンサスは、トゥイーディアが俺に掛けた呪いのことを、トゥイーディアに話していない。
ならばトゥイーディアが把握している、自分が関係する呪いは、〈救世主を経験した直後に記憶を失う〉というものと、〈絶対に魔王と結ばれるものはない〉というものであるはずだ。
俺が破れかぶれで掛けた呪いが、トゥイーディアにそう大きな負担になっているとは思えない。
確かに今回、ヘリアンサスに『対価』の選択肢を与えたのは、間接的には俺が彼女に掛けた呪いが原因となっていた。
だが、トゥイーディアは――“どうせ失うならば愛さなければ良かった”などと、そんなことを思う人ではない。
愛情は愛情として、別離は別離として呑み込むことの出来る人だ。
ならばトゥイーディアが解きたいと考えている呪い――とある働き方をしていると考えている呪い――それは、カルディオスがトゥイーディアに掛けた、〈絶対に魔王と結ばれることはない〉という呪いであることになる。
トゥイーディアはもしかして、その呪いのために、俺がずっとトゥイーディアに冷たい態度を取っていると思っているのではないか。
ならばその呪いを解きたいと思う動機は――いやもちろん、彼女は優しいから、せっかく長い間一緒にいた仲間なのだから仲良くしてみたいとか、そういう無邪気なものであることも考えられるが、――もしかして――
――トゥイーディア、少なからず、俺のことが好きなのでは。
場違いに過ぎる期待に内心で震える俺はしかし、直後に正気に戻った。
カルディオスが続けて言ったのだ。
「おまえもう、イーディに俺への魔法を頼んでくれた時点で、十分俺に気ぃ遣ってくれてるし――」
ヘリアンサスの顔がさっと強張り、それで俺は正気に戻った。
――どうやらカルディオスは、ヘリアンサスにとって計算違いも甚だしいことを口走ったらしい。
「――は?」
カルディオスはむしろ、きょとんとした様子だった。
「――無理にイーディに頼んでくれたの、俺のためだろ? 違うの? ――イーディ、こいつから言われてない?」
カルディオスがトゥイーディアの方を見て、トゥイーディアは、位置としてはアナベルの反対側のコリウスの隣にある椅子の背を握ったままで、戸惑った様子で瞬きしていた。
「いえ……」
曖昧な語調で呟いて、トゥイーディアはヘリアンサスとカルディオスを見比べるようにする。
「……確かに、きみへの――何というか、気遣いめいたものは感じたけれど、別に、特に理由までは知らないわ」
「あ、そーなの」
あっけらかんとカルディオスはそう言って、そして、あっさりと告げた。
「俺、男娼だったみたいなんだよね。それでこいつが――」
カルディオスが言葉を切った。
その表情が、さっと凍り付いた。
――原因は明らかだった。
その瞬間の、ヘリアンサスの表情だ。雰囲気だ。
――一瞬にして殺気立ち、俺たちを震え上がらせるに足るだけの。
魔王だったときと変わらない――刹那にしてその場の空気を塗り替えて、俺たちに息すら憚らせるほどの。
震える息を吸い込んで、ヘリアンサスが身体の向きを変えた。
俺の恐怖の底が抜けた。
腹の中が一気に冷えて、そして頭の芯に火が点くような。
ヘリアンサスが、ムンドゥスに向き直っていた。
ムンドゥスは何を感知した様子もなく、相変わらずぼんやりとヘリアンサスを見上げている。
――その彼女に向かって、ヘリアンサスが怒鳴り声を上げた。
ここまで直情的なこいつの声を、俺は千年ぶりに聞いたことになる。
「――話が違う!! ムンドゥス!」
カルディオスが凍り付いている。
トゥイーディアですら、思考が停まったかのように目を見開いていた。
ヘリアンサスは、俺たちがそこに居ることなど忘れ果てたかのようだった。
「思い出さないと言っただろうが!!」
激昂に声を荒らげて、ヘリアンサスが、
「待っ――」
俺が思わず、転ぶように一歩前に出た。
全身が震えているのを自覚していたが、黙っていられなかった。
――ヘリアンサスが、ムンドゥスに手を上げていた。
間違いなく打擲のための動作だった。
ヘリアンサスがムンドゥスに手を上げるところなど見たことがなかった――今まで一度たりともあったはずはない、こいつはムンドゥスの無事には注意を払ってきたはずだ。
ヘリアンサスが、あらゆる思慮を足許に落としたような顔で、ぼんやりと佇むムンドゥスに向かって手を振り下ろそうとして、
「――っ、待て、待てってば!」
カルディオスが、半ば飛び付くようにしてその手を止めた。
後ろから腕を掴まれて動きを阻まれ、ヘリアンサスが――それこそ人間のような動作でもがく。
後ろから自分を押さえ込んだのが誰なのか、それも意識の埒外にあるようだった。
「このっ――、」
言葉すら出ない様子で、ヘリアンサスがなおもムンドゥスを足蹴にしようとした。
ぎょっとしたのは俺ばかりではなく、その瞬間、トゥイーディアがさすがに堪りかねた様子で前に出た。
アナベルもディセントラもコリウスも、驚愕が抜けたのか腰を浮かせる。
だが、それには及ばなかった。
およそ今までならば考えられないことに、カルディオスが、ヘリアンサスを引き摺るようにして、強引にムンドゥスから引き離した。
「何する――」
声を荒らげて、そこでヘリアンサスがはっとしたように黙り込んだ。
自分を後ろに引き戻したのがカルディオスだと気付いたようだった。
口を噤んで視線を落としたヘリアンサスを、動きは止まったと判断して放してから、カルディオスは大きく息を吐いた。
肩を下げて、片手で顔を拭って、心底からの語調で呟く。
「び――びびった……」
ムンドゥスは、事態を理解した様子もなく、なおもぼんやりと佇んでいる。
そうして、カルディオスは適当な椅子を引いた。
トゥイーディアからも幾つか離れた、居間の入口にいちばん近いところの椅子だった。
その椅子に、半ば強引にヘリアンサスの肩を押して座らせて、カルディオス自身はその目の前の床に膝を突いた。
「――落ち着けよ。大丈夫だよ。なに怒ってんの」
ヘリアンサスは目を上げなかった。
いよいよ暗くなろうとする居間の中であっても、彼の新雪の色の頭が項垂れていることははっきりと見えていた。
不明瞭な声で、ヘリアンサスが呟いた。
「……こんなはずじゃなかったんだけど」
「何がだよ」
少し声を大きくしてそう言ってから、カルディオスは大きく息を吐いた。
そしてその直後、大きく息を呑んだ。
カルディオスの瞳に、戦慄に近い恐怖が走った。
しばらくそうして息を止めて、それからカルディオスは唇を噛んだ。
ゆっくりと息を吸い込んで、カルディオスが小さく呟いた。
「……おまえ、――」
カルディオスが表情を歪めた。
一瞬、泣き出しそうな顔に見えた。
歯を食いしばり、目を閉じて、またもういちど大きく息を吸い込んで、カルディオスは。
「おまえ、まさかずっとか? ずっと気にしてたのか? ――嘘だろ」
両手で顔を覆って、カルディオスが呟いた。
絞り出すような声だった。
「――俺のせいかよ……」
ヘリアンサスは、俯いたままではあったが、ちらりとカルディオスの方を窺ったようだった。
いっそ訝しそうですらあった。
カルディオスがそれに気付いた様子で、ゆっくりと、深く息を吐いた。
そして、ごく自然な仕草でヘリアンサスの手を取って、カルディオスは懇々と、言い聞かせるように。
「――大丈夫だって。おまえ、俺のことどんだけ馬鹿だと思ってんだよ。師匠に会ってからも、自分がどういう目に遭ってきたか思い出すことはあったんだから、そりゃ自分が何やってたかは分かるって。
――でも、」
ちょっと顔を顰めて、カルディオスはゆっくりと。
「――守ってくれてありがと。大丈夫だから、やべーとこは思い出してねぇから。
さすがにそこまで思い出してたら、俺、しばらくここから失踪してたかも知れないけど」
ヘリアンサスが顔を上げて、カルディオスを見た。
カルディオスは真っ直ぐにその目を見て、少しだけ笑った。
慈しむようなその表情を、俺は今まで知らなかった。
「大丈夫だよ、アンス。
嫌なこともつらいことも、全部あの一生に置いて来たから。
守ってくれてありがとう、でも、もう大丈夫なんだ。――俺を見てよ」
にこ、と、強張った表情でなお悪戯っぽく笑って、カルディオスは首を傾げる。
「これだけかっこ良くて頭も切れて、ご存知のとおり性格もめちゃくちゃいい。――欠点がないことが欠点ってくらいのこの俺が、一体この世の何を悲観すりゃいいのさ。
もう大丈夫だよ」
そこで、カルディオスの表情が、堪えかねた様子で歪んだ。
唇を噛んで、しばらく黙り込んで、それから彼は、震える声で。
「――おまえは、それが分からないんだな」
ヘリアンサスが瞬きする。
まっしろな睫毛が上下する。
透き通るような薄群青の影の中で、ヘリアンサスの瞳が光を吸い込んで、人外の感情でカルディオスを見詰めている。
「今までずっと、おまえ、俺のこと、守ってたんだな」
俯いて、大きく息を吸って、カルディオスが顔を上げた。
翡翠の目に薄く涙の膜が張っていた。
ヘリアンサスが大きく目を見開いて、少し身を乗り出した。
「――カルディオス?」
「俺のせいだな」
カルディオスが断言した。
彼の唇が震えていた。
「あの――イーディに変な絡み方した貴族も、おまえ、あいつが俺のこと論ったから、殺したんだな」
ヘリアンサスが首を傾げる。
カルディオスは目を閉じた。
「ガルシア戦役のときも、もしかして俺のせいか? 俺が――昔は――知らない人のいるところだと怖がってたから、だからおまえ、俺があんな状態だったから、近くの人を皆殺しにしたのか?」
俺は息を止めていた。
恐怖が喉を塞いでいた。
全員が絶句している中で、しかしヘリアンサスはカルディオスにのみ注意を払って、ゆっくりと瞬きした。
そして、呟くように応じた。
「――何のこと?」
「――――」
純朴な、頑是ない、嘘のない声音だった。
「――っ」
俺ですら、腹の底が灼けるような怒りを感じた。
――あれだけ人を殺しておいて、もう記憶にも残っていないのか。
こいつが人外だろうが何だろうが、やったことの価値は誰の行いであれ同等だ。
俺ですらそう感じたのだから、トゥイーディアや他のみんなはどうだっただろう――俺はそちらを見ていなかったから、みんなのこのときの表情を知らない。
だがそれでも、空気が殺気立つのは肌に感じていた。
カルディオスが唇を噛んだ。
目を開けて、ヘリアンサスを覗き込んで、カルディオスが言った。
「――あれが俺のせいなら、アンス。俺はこの場で死にたくなる」
「なんで?」
ヘリアンサスが、純粋に疑問に思った様子でそう呟いた。
そして、控えめに微笑んで首を傾げた。
「――カルディオス、おまえは何もしてないのに?」
「アンス」
カルディオスが、強い語調で名前を呼んだ。
ヘリアンサスは軽く目を瞠る。
その様子を具に見守って、カルディオスはヘリアンサスの手を握ったまま、深く項垂れた。
「――俺が悪かった」
呟いて、顔を上げて、カルディオスはゆっくりと、一言一言を区切って。
「アンス、あのな。ああいうことは、しちゃいけないんだ」
ヘリアンサスは首を傾げたままだった。
表情に憫笑が混じった。
「――多分おれが、人間に存在をやめさせたか何かのことなんだろうけど、カルディオス。
どのみち、おれの犠牲の上でのこの世だ」
「それでも駄目だ」
カルディオスが断固として言い切った。
「おまえが、ああいうことをするなら、俺はおまえのことが嫌いになる。――だから駄目だ」
ヘリアンサスが瞬きする。
困惑が眉間の辺りに漂っていた。
「……なんで――」
「アンス、おまえがしてきたのは、悪いことだ」
言下に断言して、カルディオスが唇を噛む。
いっそ痛ましいほどに目を細めて、カルディオスが呟く。
「――酷い目に遭ってきたんだな。我慢できないこともいっぱいあるよな。
でもごめんな、駄目なんだ」
ヘリアンサスの手を握り直して、カルディオスは真剣に言葉を重ねていた。
言葉を重ねながら、同時に何かを呑み込んでいるようでもあった。
「俺が死んで、もう生まれてこないのは嫌だろ? 他の人だって同じなんだ。
だから、食べるためならまだしもだ、殺したりしたら駄目だ」
ヘリアンサスは眉を寄せた。
「分からない――」
反対側に首を傾げて。
「――おまえが生まれてこないのは嫌だけど、カルディオス。おまえはおまえだけだ。他にはいない」
揶揄も傲慢も欠片もない語調で、真剣に言った。
「前も言ったと思うけど、カルディオス。おまえは特別だ。他の連中のことは知らない」
「――――」
カルディオスは、しばらく言葉を失った様子でヘリアンサスを見詰めていた。
ヘリアンサスは、いっそそのことに戸惑ったようですらあった。
「違うか?」と、重ねて尋ねた。
「やられたことは、やり返す権利がある。
そうでしょ?」
カルディオスが、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、言った。
「――違うんだよ」
ヘリアンサスの手から片手を離して、カルディオスはヘリアンサスの肩に触れた。
まさに友人同士でするように、その肩を軽く小突いて、カルディオスは唇を噛む。
「……俺、おまえに、数え切れないくらい間違ったことを教えてきたんだ」
ヘリアンサスは眉を顰めた。
「そんなことないよ」
「あるんだよ。――聞いてくれ」
カルディオスが言下にそう告げて、ヘリアンサスの手を強く握った。
「何か普段と違うことをするときは、俺に訊いてくれ。
おまえ、何でもかんでも訊いてくるの、得意だろ。あんな風に訊いてきてくれよ。もう面倒がったりしないよ。俺だって大人になったから、あのときよりちゃんと色々分かってるから、――教えてやるから。
おまえが悪いことしそうになったら止めるから、だから俺に訊いてくれ」
それで、と言葉を継いで、カルディオスの声が震えた。
視線が初めて、ヘリアンサスから逸れた。
彼が刹那、茫然と自分とヘリアンサスを見守るアナベルの方を見た。
いちど目を閉じて、ヘリアンサスに視線を戻して、カルディオスは懇願するように。
「――俺の言うことを聴いてくれ。
間違ったことも数え切れないくらい教えたけど、直していくから。
一つずつでいいから、訂正させてくれ」
ヘリアンサスは、困惑した様子でカルディオスの言葉を聞いている。
だが、頭ごなしにそれを否定することもなかった。
――彼が小さく頷いた。
カルディオスが微笑んだ。
閃くように微笑んで、きっぱりと言った。
「ありがとう。
――最初に一つ、訂正させてくれ」
ヘリアンサスの手を離して、カルディオスが立ち上がる。
「愛だの恋だの、ちゃんとあったよ」
そして、カルディオスが踵を返した。
円卓の縁を回るようにして、円卓の真反対の側にいたアナベルに歩み寄った。
自分の後ろを通り過ぎるカルディオスを、ディセントラが振り仰いで、茫然とした様子で見送った。
アナベルも驚いたようだった。
真っ直ぐに自分に歩み寄ってきたカルディオスと目を合わせて――本当に久し振りにちゃんとその目を見て、ぽかんとした様子で口を開いた。
カルディオスが、アナベルの傍で膝を突いた。
その場の全員が、ヘリアンサスでさえも、カルディオスを見詰めていた。
床に膝を突き、半端にカルディオスを振り返ろうとして動きを止めたアナベルの手を取り、その手背を押し戴いて、カルディオスが深々と頭を下げた。
――騎士が姫君に対してするように。
彼の手は小さく震えていたが、声音はしっかりとしていた。
「――スクローザの賢女、心からのお詫びを申し上げる。
決して許されないことを――貴女の誠意に報いるに、最低のことを申し上げた。
撤回させていただきたい。
もしまだその余地があるならば、――どうかご寛恕頂きたい」
アナベルが、大きく目を見開いた。
唖然とした風情でカルディオスを見て、それから彼に持ち上げられた自分の小さな手を見て、そして短く息を吸った。
何か言おうとして言葉に詰まり、目を細め、しかしすぐに、小声で囁くように応じた。
「――もう怒ってないわ」
カルディオスが、いっそうアナベルの手背を深く押し戴いた。
それから慎重にその手を離して、膝で少し下がってから立ち上がった。
俯いていて、彼の表情が見えなかった。
くるりと踵を返して、カルディオスが再び円卓を回り込み、そしてそのまま、居間から外に出た。
ヘリアンサスが咄嗟のように腰を浮かせて、しかしすぐに、困惑をいっぱいに湛えた表情で俺を見る。
俺は覚えず、殆ど反射的に、ヘリアンサスの視線に応じて答えていた。
「……気まずいんだよ。しばらくしたら戻って来るから、そっとしておいてやってくれ」
ヘリアンサスが、数秒、じっと俺の目を見てから、納得した様子で頷いた。
ディセントラが両手で口許を覆って、目を見開いている。
声を出せば、たった今の出来事がなかったことになるのではないかと恐れるような、そんな顔をしていた。
トゥイーディアもコリウスも、互いに目を合わせて、長過ぎたカルディオスとアナベルの行き違いが終わったことを、俄かには信じ難いといった様子で息を詰めていた。
じわじわとトゥイーディアの表情が明るくなるのが見えて、俺は心底からそれを喜ばしく思う。
当のアナベルが、俺を見た。
困惑したように、花びらを思わせる薄紫の瞳が微かに泳いでいた。
「……“賢女”って、なに? あなた知ってる?」
俺は息を吸い込んだ。
声が喉に絡みそうになって、小さく咳払いする。
それから答えた。
「――古い言い方だけど、――緊張して出ちゃったんだな、」
アナベルを見て、慎重に彼女の反応を計りながら、伝える。
「……身分の高い人に呼び掛けるときの、『夫人』って意味の敬称だ」
アナベルが大きく目を見開いた。
そして頷いて、微笑んだ。
懐かしそうに目を細めて、独り言ちるように呟いた。
俺が恐れたような、あの人のことを思い出したがゆえに傷つく色は、その瞳には浮かばなかった。
「――あの人は画家で、身分は高くなかったけどね」
愛おしそうにそう呟くアナベルに、俺はただ、頷く。




