08◆ 賭け
「――ヘリアンサス」
トゥイーディアがそう呼んで、立ち上がった。
ヘリアンサスは明らかに、泣き崩れたカルディオスを前に当惑していた。
どうすればいいのか分からない、といった顔で彼を見詰めていて、トゥイーディアに二度呼ばれてやっと顔を上げた。
トゥイーディアがヘリアンサスを手招きした。
カルディオスが泣くのは珍しい。
泣き虫のディセントラと違って、俺たちは、カルディオスが落涙するところなど数えるほどしか見たことがなかった。
そのために俺たち全員が少なからず動揺している中にあって、トゥイーディアがだけが冷静に見えた。
ヘリアンサスを手招きして、トゥイーディアがくい、と顎をしゃくる。
外へ出ろ、と示しているのは明らかで、彼女も同時に居間から出ようとしていた。
そうしながら、トゥイーディアが左の手指から黝い指輪を抜いて、こつ、と小さな音を鳴らして、それを円卓の上に置いた。
救世主の手を離れた指輪がたちまちのうちに黒く色を沈める。
アナベルとコリウスが、ぎょっとしたようにトゥイーディアを見た。
コリウスが口を開いた。
恐らく、トゥイーディアが武器を手放したことに言及するつもりだったのだろうが、トゥイーディアが素早くそれに気付いて、横目でコリウスを見て、首を振った。
コリウスは、不承不承といった様子で口を閉ざしたものの、なおも危ぶむようにトゥイーディアを見詰めていた。
ヘリアンサスが眉を寄せてカルディオスを見下ろした。
カルディオスは蹲って肩を震わせており、その彼を、ヘリアンサスが気に掛けていることが分かる眼差しだった。
しかしすぐに、ディセントラがカルディオスに歩み寄った。
このときばかりはヘリアンサスに対する恐怖も呑み込んだ様子で、足早にカルディオスに近付いて傍に膝を折り、声を掛ける。
それを見て、ヘリアンサスが素早くトゥイーディアの方へ足を踏み出した。
そうしながらも、やはり気になるようにカルディオスを見てはいたが、喪服の裾を翻して、すたすたとトゥイーディアに歩み寄る。
コリウスとアナベルが、案じる眼差しでトゥイーディアを見ていた。
それに対してトゥイーディアが軽く手を振って「大丈夫」と示し、咄嗟にだろうが彼女について行こうとした様子のアナベルに掌を見せて、彼女を留めた。
「――ちょっと待ってて」
そう言い置いて、トゥイーディアが傍まで来たヘリアンサスを平坦な眼差しで捉えて、小声で言った。
その言葉が微かに聞こえた。
「……賭けのことだけど」
ヘリアンサスが、少しだけ顔を顰めて頷いた。
それからもういちど、カルディオスを振り返った。
カルディオスは膝を突いて立ち上がろうとしつつ、気遣うディセントラに片手を上げてみせて、「大丈夫」と合図している。
もう片方の手で目許を覆っていて、泣き止もうと必死になっていることは分かった。
そのカルディオスを、しばらく――何と喩えればいいのだろう、とうの昔に焼失したと思っていた名画が無事だったことが分かれば、そしてその絵を実際に目の前にすれば、芸術家はこういう顔をするのかも知れないと思えるような――この上なく貴重なものに注ぐ眼差しでじっと見詰めてから、ヘリアンサスはトゥイーディアを振り返った。
そして頷いた。
トゥイーディアは素っ気ない態度でくるっと踵を返し、実際に居間を出て行く。
数歩分の距離を開けて、ヘリアンサスもそれに続いた。
「――これ、どういう状況?」
アナベルがぼそっと尋ねた。
誰にともなく発せられたその問いに、一種の義務感を覚えた様子でコリウスが応じた。
「さっき、ルドベキアから話があったように、カルディオスに記憶が戻った状況かな」
「馬鹿にしてるの? さすがにそれくらいは分かるわよ」
遠慮なくずけずけとそう言って、アナベルは大粒の瞳を瞬かせる。
無意識の仕草で薄青い髪の毛先を弄びながら、アナベルはあやふやな口調で。
「――ねえ、ちょっと。カルディオスとヘリアンサス、どういう関係だったのよ。聞いてないわよ」
真顔でじっと見詰められて、俺は顔を顰める。
「話せるわけないだろ、俺だって知らないんだから」
「そうなの?」
目を見開いてそう尋ねるアナベルに頷きだけで応じて、俺はそわそわと円卓の上で指を組んだ。
「――ていうか、トゥイーディアはヘリアンサスに何の用だ」
「あんた、ちょっとでもイーディを心配できないの?」
カルディオスの傍のディセントラが、相当に尖った声で俺に向かって言った。
淡紅色の目が怒っていた。
そして続けて口を開いた彼女の手を、刹那の逡巡を挟んだあとで、カルディオスが握った。
「……女王さま、やめてください」
ディセントラが半ば口を開いたまま、言葉を途中で呑み込むようにして、カルディオスの方を覗き込んだ。
ぱち、と瞬きして、彼女が訝しそうに首を傾げる。
「――私のこと? ――カルディオス? どうしたの、珍しい……」
そう、珍しい。
カルディオスはいつでも、俺のトゥイーディアへの態度を窘めて、説教をする側だった。
「――――」
俺は思わず息を呑もうとしてそれも出来ず、まじまじとカルディオスを見詰めた。
カルディオスは、涙を隠していた掌から顔を上げて、俺を見ていた。
目許と鼻の頭が赤くなっていたが、いつも通りに整った顔貌だった。
――俺の頭の中で、ばちッと勢いよく火花が散った。
カルディオスは、では、最後までちゃんと思い出したのだ。
そうでなければ、このトゥイーディア贔屓の男が、今のディセントラの言葉を窘めて止めるなどということは有り得ない。
カルディオスは、最初の人生の最後で、俺がはっきりとトゥイーディアに自分の気持ちを伝えた場面を見ていた。
それを思い出したのだ。
そして同時に、カルディオスはあの人生において、トゥイーディアに呪いを掛けている。
ヘリアンサスの言葉が正しければ、〈絶対に魔王と結ばれることはない〉という呪いを。
そしてカルディオスは、俺に掛けられた呪いを知らない。
だから、自分のせいだと思っているはずだ。
如何なカルディオスであっても、あの瞬間から俺の気持ちが変わっていないとは――いやむしろ、あの頃に輪を掛けて俺がトゥイーディアに惚れているとは思っていないだろうが、ともかくも、魔王である俺がトゥイーディアに冷たく当たるのは、カルディオスがトゥイーディアに掛けた呪いゆえの強制であると思っているはずだ。
「――カル、違う」
咄嗟に声が出た。
がた、と椅子から立ち上がって、俺は円卓越しに、カルディオスに向かって――直截的な言葉を吐けないもどかしさのゆえに掌に爪を立てながらも、言い募った。
「違う――おまえじゃない」
カルディオスが眉を寄せた。
俺が嘘をついているのだと疑っている目だったが、しかし彼は何も言わなかった。
呪いについては、俺たちの言動に制限が掛かる以上、問い詰めるだけ無駄なことだと思ったのかも知れない。
俺とカルディオスの遣り取りに怪訝な顔をしているディセントラに目を向けて、カルディオスは少しばかり顔を引き攣らせた。
「――女王さ……ディセントラ、ちょっと離れててくだ……離れてて。怖い」
「は?」
ディセントラが、若干茫然とした様子で目を丸くする。
それから意味もなく自分を見下ろして、軽く両手を上げた。
そして、やや憤然とした様子で呟く。
「なによ、何もしてないのに」
「離れてやれよ」
俺が、思わず他所から口を出した。
――当時、俺たちは全員があの大国の女王陛下に恐れを成していたが、カルディオスの怯懦はその中でも群を抜いていた。
当然だ。
恩師に対する仕打ちも友人からの裏切りも、「戯曲にせよ」と、手を叩いて笑われながら言われたのだ。
同じ顔の、というか全くの同一人物が傍にいて、頭の中では当時とはもうディセントラも変わったのだと分かってはいても、否応なく動く感情もあろう。
俺はこっそりと、ディセントラとカルディオスの仲を危ぶんだが、ディセントラが不満そうにしつつも、膝を突いたままで少し下がったことで、カルディオスはほっとしたようだった。
表情を緩めて息を吐き、若干足許が覚束ない様子ながらも立ち上がる。
そして、自分を追い掛ける俺たちの目に決まり悪そうに苦笑した。
それから、両手で顔を拭った。
「――あー、俺、かっこ悪いな」
俺たちが否定も肯定もしないうちに、カルディオスがぐるっと居間を見渡す。
そうして不安そうな顔をした。
「……イーディとあいつ、どこ行ったの?」
「さあな」
コリウスが低く応じて、ちらっとディセントラと目を合わせた。
ディセントラは、カルディオスに合わせるように立ち上がりながら、肩を竦めて呟く。
「イーディが言ってたでしょ――ああ、カルディオス、あんたは居なかったわね――、ヘリアンサスと、賭けをすることになってるって」
「賭け」
カルディオスが真顔でそれを復唱して、そわそわした様子で両手の指先をそれぞれ合わせ、そのうちの人差し指だけを、互いにくるっと回した。
じり、とディセントラから半歩離れるように動きつつ、翡翠の瞳が少し泳いだ。
「それ、どういう」
「そこまでは知らないけれど」
ディセントラが言って、その言葉の後を引き取るようにして、コリウスが続けた。
「トゥイーディアのことだから、おまえの記憶を戻すことを条件にして、その後でどんな賭けを提示しても乗るように、ヘリアンサスに言ってあったんだろうが」
「賭けってなんだよ、コイン投げか? で、どっちが勝ったら何が起きるんだよ」
カルディオスが噛み付くようにそう言い立てて、それからはっとした様子で頭を振った。
「――ごめん。ちょっと、なんだ、混乱してる」
コリウスは軽く頷いた。
口を開いて少し考えた。
「分かるよ」と言おうとして、彼らしい生真面目さで、経験していないことにその言い回しは不適切だと判断したようだった。
一拍置いて、コリウスは言った。
「――理解している」
カルディオスが、安心したような淡い微笑を浮かべた。
「ありがと」
ディセントラは、彼女自身には心当たりのないことで、カルディオスから怯えられたことには納得がいっていないようだった。
どことなくじとっとした眼差しでカルディオスを見つつも、短く息を吐いて呟く。
「――何を賭けるつもりかは知らないけれど、イーディが勝った場合のことは、大体想像がつくわね」
カルディオスは戸惑ったように瞬きし、ぐるっと俺たちを見渡して、そのまま両手で顔を押さえた。
カルディオスのその挙動を当然のように無視して、アナベルがディセントラを窺って、首を傾げる。
「と、いうと」
そう訊いておきながら、しかしすぐに自分で思い当たった様子で、アナベルは小さく息を引いた。
「――ああ、言ってたわね。あの子、救世主だから」
ディセントラがちょっと顔を顰めて頷く一方、コリウスが呻いた。
「意見が割れそうで頭が痛い」
そう言いながら、彼がちらりと俺を見たので、俺にもその意味が分かった。
――トゥイーディアは、救世主だ。
人一倍にその役目に責任を感じている人だ。
だから、ヘリアンサスとの間で何を賭けるのかは分からないが、少なくともトゥイーディアが勝ったそのときには、世界を救うことをヘリアンサスに呑ませるはずだ。
千年前に俺が為すべきはずだったこと。
俺の失敗の後始末。
――ヘリアンサスにとっては自死に等しいこと。
自死――
……いや――
ディセントラが、コリウスに同意するように首肯して、陰鬱な顔で俺を見た。
そのとき、カルディオスが声を上げた。
「――出て来た」
俺たち全員が、ぱっとカルディオスを振り返った。
カルディオスは、居間の大きな窓の向こうのバルコニーの、更にその向こうを見ていた。
慌ただしく彼が動いて窓に駆け寄り、掛け金を外して重々しい窓を押し開ける。
ふわっ、と、秋に傾く季節の風が居間に滑り込んできた。
夕方を迎えた空気は少し冷えている。
森の、柔らかく雑多な匂いが風と一緒に居間に滑り込んできて、それと擦れ違うようにして、カルディオスが押し開いた窓の隙間からバルコニーに走り出た。
ディセントラが一瞬の躊躇ののちにそれに従い、いきおい円卓の傍にいた俺たちも、全員が揃ってバルコニーに向かう。
――どうやら俺の行動はみんなからすれば、ヘリアンサスを案ずるゆえのものと映るらしい。
素直に俺がトゥイーディアを心配していると受け取られるとすれば、俺は恐らく一歩も動けなかった。
――って、待てよ?
これから大丈夫か。
何しろカルディオスは、もう俺がトゥイーディアをどう思っているのか、かなり正確なところまで勘付いているはずだ。
え、これはもしかして、カルディオスの前では俺は、今後一切トゥイーディアのために動けない?
顔には出せない中で、その考えに内心で俺の血の気が引くが、そこに拘泥もしていられなかった。
そしてどのみち、たとえ俺の行動がこれまでにも増して制限されるとして、もうどうしようもない。
なんとか考えよう。
考える余地があるとして。
いっそ誰かに思いっ切り頭を殴ってもらって、トゥイーディアのことを忘れるしかないかも知れないが。
バルコニーは広い。
欄干には丁寧な彫刻が施され、凝った梟と鷲の像が、欄干の上から眼下を睥睨するように彫り出されている。
俺たちは各々、適当な間隔を開けてバルコニーの欄干に肘を突き、あるいはそれを握り締め、期せずして一列に並ぶようにして、眼下を喰い入るように見守った。
俺の左にはアナベルが、右側にはカルディオスがいる。
カルディオスの向こうでは、コリウスとディセントラが同様に、じっと眼下を見詰めていた。
――バルコニーからは、ティシアハウスの主館の正面を流れる川が一望できる。
中洲を備えた川に架かる黒い石の橋は、ここからだと正面に見えた。
そこから少し離れたところ、灌木と巨岩で、ちょうどその陰が見えなくなっている場所に、トゥイーディアとヘリアンサスがいた。
屋敷を抜けて、わざわざそこまで移動したのは、どうしてだろう。
万が一にもメリアさんたちと鉢合わせて面倒なことになるのを避けたかったのか。
あるいは、声は聞こえないながらも俺たちから見える場所にいることで、俺たちを安心させてくれようとしたためか。
トゥイーディアは灌木のすぐ傍に立っていて、俺たちからはその足許ばかりが見える。
肩より上が、灌木の枝のせいで見えない。
一方のヘリアンサスは巨岩に凭れ掛かっているようで、こちらもやはり、低く繁る灌木の枝が翳って、顔は僅かしか見えなかった。
暗くなるにはまだ早い時刻ではあり、トゥイーディアたちが立つその場所は、斜陽が赤く照らし出している箇所だったために、陰影が妙にくっきりと目に映って印象に残った。
ティシアハウスが斜陽に落とす影が、きっぱりと線を引くように鮮やかだった。
二人が何か話している。
俺は半ば本気で、何かの喰い違いからトゥイーディアが剣を抜く羽目になるのではないかと案じていたが、トゥイーディアは今、唯一の武器を手放した状態にある。
二人が静かに何かを話している。
「――大丈夫かな」
カルディオスが呟いた。
俺がちらりと右を見ると、彼は欄干に彫り出された梟の像に腕を突いて、そこに顎を埋めるようにして眼下を見守っていた。
泣いた名残でまだ目許が赤かった。
俺が一瞥したその視線に気付いたのか、カルディオスが俺の方に目を向けた。
そして、ぼそっと呟いた。
「……あいつ、どーいう気持ちで俺のこと殺してきたんだと思う?」
「…………」
ちょっと言葉に詰まってから、俺は応じた。
「――俺も同じことが気になってるよ」
カルディオスが、小さく含み笑った。
彼がまた眼下に視線を戻した。
「――だよな」
少し鼻を啜って、カルディオスはいっそう小さな声で。
「……けど、よっぽど腹に据えかねてたんだな。俺たちが全部きれいさっぱり忘れたの」
俺は思わず顔を顰めた。
「まあ、俺たちを見る度にむかついてただろうな」
コリウスが眼下から視線を引き剥がして、隣のカルディオスの方へ濃紫の目を向けた。
訝しそうな顔をしていた。
「――気になるんだが、カルディオス」
カルディオスが、瞬きしてコリウスの方を見た。
違和感甚だしいという表情をしていて、それが、彼がつい先程まで想起していただろう最初の時代のコリウスと、今のコリウスの差異のゆえだと俺には分かる。
「え? はい――あ、なに?」
とっ散らかった返事をしたカルディオスに、コリウスはますます怪訝そうに眉を寄せつつ。
「――ヘリアンサスは、どうしてわざわざおまえのことはトゥイーディアに頼んだ?
ルドベキアと同じようにしていれば、あいつからすれば、随分と面倒を省けたはずだが」
カルディオスは首を傾げ、それから唐突に俺を振り返った。
翡翠色の目に、俺が初めてこいつに会ったときのような対人恐怖が見えないことに、俺は心底ほっとした。
「大使さま――じゃねーや、ルド。
おまえ、いつからのこと思い出したよ?」
「いつからって」
懐かしい呼ばれ方に思わずふっと笑ったものの、俺は瞬きして記憶を反芻し、首を捻る。
「……覚えてる限りだよ。さすがに、ほんとにガキだった頃のことは覚えてない」
カルディオスは頷いた。
な、る、ほ、ど――と、妙に一音一音を区切って呟き、もういちどコリウスの方を見る。
「それだな。多分、あいつが最後の、つまり、なんだ、師匠の魔法を使うと、人生全部思い出すんだ。で、俺は、師匠に会ってからのことしかはっきりとは思い出してない」
少し黙ったあと、カルディオスはひとつ頷いて。
「――うん。人生最初の記憶が師匠の顔だな。
イーディが魔法を使ったからだ。そのためだな」
カルディオスが、また腕に顎を埋めるようにして、眼下を見下ろした。
その視線の先で、トゥイーディアとヘリアンサスが静かに何かを話し込んでいる。
そちらへぼんやりと視線を向けながら、カルディオスは小さく鼻を啜る。
「……あいつ、何考えてんのかな。全然分かんねーや。
――でも、多分、俺に気ぃ遣ったんだろーな」
「は?」
コリウスの、疑問の籠もった一言に小さく笑って、カルディオスがぼろっと言った。
「俺ねー、たぶん、男娼だったんだと思う」
「――――」
俺は絶句した。
コリウスもディセントラも、このときばかりはカルディオスを凝視して棒立ちになった。
アナベルも、目を見開いてカルディオスの方を見る。
軒並み言葉を失った俺たちの中で、しかしコリウスがすぐに、何かを言おうと口を開いた。恐らく、「話さなくていい」というようなことを告げようとしたのだろうが、如何せん、さすがのコリウスも咄嗟には言葉が見付からなかったとみえる。
彼が言葉に窮している間に、カルディオスは眼下にぼんやりと視線を向けたまま、いっそのんびりした口調で続けていた。
「俺がはっきり思い出したのは、師匠――イーディに助けられてからのことだけど、まー間違いないだろーね。俺、たぶん、麻薬中毒でもあったんじゃないかなあ。助けてもらってからしばらくは正気じゃなくて、めちゃくちゃ迷惑掛けた記憶はあるわ。結構切れ切れだけど」
俺たちは言葉もない。
俺も絶句していた。
――あのときのカルディオスの、異様な対人恐怖の原因が分かった。
しかし当のカルディオスは、淡々と言葉を続けている。
まるで、過去に読んだことのある戯曲の内容をなぞるかの如き、どことなく他人事の色のある口調だった。
「けど俺、めっちゃ可哀想だったんだぜ。何しろ師匠に助けられたときで、やっと十三かそこらだったから。――師匠には自分が何させられてたか、死んでも黙ってたみたいだけど、今から思うと、あれは気付かれてたな」
「――カルディオス」
コリウスが、やっとのことでそう呼んだ。
その声音に気遣いを聞き取って、カルディオスが小さく笑う。
「だいじょーぶ大丈夫、そこの、やべーとこを思い出したわけじゃねーって。
――で、あいつは、」
あいつ、と言いつつ、眼下のヘリアンサスの方をじっと見詰めて。
「あの世間知らずが、俺がどーいう目に遭ってたか、正確に知ってるわけはねーけど。
――けど、まあ、思い出したくないってことは分かってただろーな」
俺たちは思わず、全く同時に、カルディオスから眼下のヘリアンサスの方へ視線を動かしていた。
それから各々、またカルディオスの方を見る。
ディセントラが、ぽかんとした声を出した。
「……どういう関係?」
「どういう関係だったんだろ」
カルディオスが、噴き出すように小さく笑いながらそう言った。
肩が震えているのは笑みの所為ばかりではなかった。
「俺は……俺は、すっげぇ仲良いつもりだったんだよね。けど考えてみたら、あいつ――」
鼻を啜って、ぎゅっといちど唇を噛んでから、カルディオスは呟いた。
「――他人から、俺と仲がいいねって言われたときでも、一回も頷いたことなかったな」
カルディオスの声が若干震えた。
俺は遣る瀬無くなってきて、呟くように言う。
「――友達だったんだろ、少なくともおまえ、めちゃくちゃあいつのこと庇ってたし」
「結構、あいつのこと好きだったからね」
カルディオスは控えめにそう言った。
腕に顎を埋めたまま、少し笑ったようだったが、口角が震えていた。
「俺ね、自分のことが世界で一番汚いと思ってたみたいなんだけど」
静かにそう言って、カルディオスはヘリアンサスを遠目にじっと見詰める。
ヘリアンサスはトゥイーディアと何かを話していて、ここからではその表情ですら見えない。
「ほら俺、この見た目じゃん? そういう使われ方したら、そりゃもう高値が付くじゃん?
それもあって、俺、自分の見た目がすっげー嫌いで……――今から思えば勿体ないことにね。で、」
神妙に最後の一言を付け加えたあと、カルディオスは腕の上で首を傾げて、呟く。
「――あいつだけはさ、俺のことが綺麗だって言ってくれて――それが、俺の顔とかじゃなくて、」
カルディオスが僅かに声を詰まらせ、鼻を啜って、小さな声で続ける。
「俺が話して、教えてやってからの方が世界が綺麗に見えるから、俺を通して物事を見た方がいいように見えるから、だから俺は綺麗なんだって言ってくれて」
カルディオスが苦笑する。
彼の翡翠色の目に涙が溜まっている。
俺はそっと目を逸らした。
「――俺、めっちゃちょろかった。
そう言われて、一発であいつのこと好きになった」
「……それは、仕方ないんじゃないか」
コリウスが低い声でそう言って、カルディオスがにこっと笑った。
素早く目許を拭って、欄干から身を起こす。
「あはは、そー思う?
――まあ、あれまで嘘だったって言われたら、俺も相当へこむけど……」
息を吸い込んで、カルディオスは小さな声で。
「……さっき、他に嘘はついてないって言ってたしな。あれは本音だったんだろうな」
――本音でなければ、ヘリアンサスがここまでのことをするはずがない。
俺はそう思ったものの、そして恐らくは全員がそう考えたものの、口には出さなかった。
――ここで、カルディオスの、トゥイーディアと彼女のお父さんに対する罪悪感を煽る意味などない。
軽く息を吸い込んで、俺は別の言葉を探した。
そして、突発的に口に出していた。
「おまえ、いつからあいつと一緒にいたんだ?」
俺が尋ねて、カルディオスが少し視線を上に向け、指折り数えるような仕草をする。
ふわ、と吹いた緩い風が、その暗褐色の短い髪を揺らした。
「え、いつからだろ……春だったから――」
「――あいつが地下神殿から出てすぐか」
俺は呟いた。
カルディオスが俺の方を見て訝しげな顔をしたので、俺は付け加えるように。
「――あいつがいつ諸島から出たのか、それは分かってたんだ」
カルディオスはしばらく俺を見て、それから唐突に指を上げて俺に突き付けた。
「……会ったよな? そのちょっと前に。師匠の舞踏会で。なんか、おまえも居た気がするぞ。ってか大使さまなら招待されてねーわけないよな、今なら分かる」
少し記憶を辿ったあと、思わずあっと声を上げて、俺は頷いた。
――トゥイーディアが主催した舞踏会で、確かに俺はこいつを初めて見たのだ。
確かにあれは、内殻消滅以前の出来事だった。
トゥイーディアがカルディオスにばかり構うので、俺は大人げなくもめちゃくちゃへそを曲げたのだ。
思い出した。
「会った、っていうか見た。そうだ。――おまえあのとき、なんでわざわざあそこに入って来たんだよ」
「あのときの俺が舞踏会とかいう高尚なものを知ってたわけねーだろ」
「それでのこのこ踏み込んで来て、キルディアス閣下にびびり上がってたわけか」
“キルディアス閣下”、と聞いて、カルディオスは棒を呑んだような顔をした。
彼の視線が、ひゅっと動いて俺の肩越しにアナベルを見た。
――だが、当然ながら、当のアナベルは当時の自分の家名を知らない。
カルディオスもそれに気付いたのか、少しの間を置いてから、語調を落ち着かせて言葉を続けた。
「――あー、まあ、あれのすぐ後だよ。雲上船でちょっと南の方まで行って――何て言ったっけ、ヴァフェルだっけ、そのへん。で、偶然あいつに会ったの」
ちょっと唇を歪めるように笑って、カルディオスはがしがしと頭を掻いた。
「俺、あいつのこと踏み付けそうになったんだよね。――で、まあ、あいつがとんでもない環境にいたことは分かったし、――ってか世間知らず過ぎて、記憶喪失を疑ってたくらいだし。教会に放り込もうとしたら失敗して」
とんでもない環境? と、思わずといったように尋ね返したのはディセントラだった。
カルディオスは肩を竦めて、少しだけ俺を責めるように見て、それからヘリアンサスの方に視線を移した。
彼は端的に呟いた。
「――あいつ、日が昇ることを知らなかった」
俺は俯いた。
他のみんなの顔を見られなかった。
「夜になったら、『違う場所なら空が青いのか』とか言い出して、本気でびびった」
俺は少し顔を上げた。
カルディオスは俺を、何とも言えない色の目で見ていたが、他のみんなに、恐れていたような俺を責める表情は見られなかった。
「――あのね、カルディオス」
ディセントラが呟くようにそう言って、緩やかに吹いた風に巻き上げられた赤金色の髪の一筋を押さえた。
「そうは言うけれど、あいつが昔、どんな場所にいたとしても、」
少し首を傾げて、ディセントラは昔に比べれば途轍もなく柔らかい声音で、しかし厳格に。
「それで動くような同情が、今さらあるわけないでしょう」
カルディオスがディセントラを振り返って、瞬きした。
しばらくじっと彼女を見詰めたあと、「そっか」と呟く。
「そっか。――そうだよな」
翡翠色の瞳をもういちど眼下に向けて、カルディオスはぼんやりと。
「俺のこともどう思ってるのか、もう分かんねーしなあ……。何回も情け容赦なくぶっ殺してきたくらいだし」
カルディオスは少しだけ視線を上げて、正面に見える晴れた空を観察したようだった。
――空には夕暮れが溶け込んで、黄金が透ける群青色に煌めいている。
たなびく雲が淡く金色を帯びた真珠色に光っていた。
しばらくそうした後で、カルディオスはふと、何かに気付いた様子でコリウスとディセントラの方へ視線を巡らせた。
やはり、アナベルの方はまだ直視できないようだった。
「――あ、雲上船とか教会とか、分かんないんだっけ」
「分からないな」
コリウスが静かに応じて、カルディオスは唇を曲げた。
そして小さく、「作った張本人なのに」と囁いたが、その意味が分かったのは俺だけだった。
カルディオスはちらっと眼下に視線を投げて、それから言った。
「まあいいや。俺とルドで、おいおい説明できるよ。
――あっちの話が終わったみたい」
俺たちが、一斉に視線を眼下に向けた。
ちょうど、トゥイーディアとヘリアンサスが灌木の陰から歩み出して、主館に戻って来ようとしているところだった。
俺たちがバルコニーに雁首揃えていることには気付いていたのか、トゥイーディアがこちらを見上げて、西日に眩しそうに目を細めながら、俺たちを安心させるように軽く片手を上げるのが見えた。
その姿がくっきりと地面に影を落としている。
ヘリアンサスは数歩分の距離を開けてトゥイーディアの後ろを歩いていて、彼は顔を上げなかった。
こちらを見上げることもなく、彼はただ静かに淡々と歩いていた。
二人がバルコニーの真下、玄関に入った。
カルディオスが身を翻して居間の中に戻った。
俺たちもそれに続き、最後に窓の境を越えたアナベルが、丁寧な仕草で窓を閉めて、かちゃん、と掛け金を下ろす。
居間の中には日暮れ時の薄暗さが忍び寄りつつあった。
透明な青い陰影が、徐々に部屋の中を満たしつつある。
俺たちはなんとなく腰を下ろすことも控えて、円卓の傍に立ったまま、トゥイーディアとヘリアンサスが戻るのを待った。
食堂の柱時計が、重々しく時を打つ六度の音が、遠くに聞こえた。
◆◆◆
自分を顧みれば、俺は、記憶を取り戻した直後でさえヘリアンサスのことが怖かった。
何十回と殺され続けた記憶が余りにも鮮やかで、それをなかったことに出来なかったのだ。
ヘリアンサスに近付くことも恐ろしく、二人きりになることは極限まで避けていた。
――だが、カルディオスはどうやら違った。
トゥイーディアとヘリアンサスが居間に戻った。
トゥイーディアはすぐに俺たちの方へ――というよりも、心配を顔いっぱいに湛えたディセントラの方へ足を向けて、「大丈夫だから」と言い聞かせるように囁きながら、ディセントラの両手をぎゅっと握り締めた。
一方のヘリアンサスは、居間に入ってすぐに足を止め、所在なさそうにしている。
両手を身体の後ろで組んで、距離を置いて俺たちを眺め渡すような態度だった。
カルディオスが、少し迷う風情を見せ、――それから意を決したように、円卓を回り込んでヘリアンサスに歩み寄った。
トゥイーディアが半ば振り返るようにしてそれを目で追う。
ディセントラは恐らく息を止めていた。
アナベルでさえ、不安そうにトゥイーディアに寄り添った。
ヘリアンサスは、すたすたと距離を詰めてくるカルディオスをじっと見詰めて、それからその視線をふっと逸らした。
円卓の上の、トゥイーディアが無造作に置いたままになっている、救世主の変幻自在の武器の方を見た。
確かに見た。
カルディオスが、もう全く躊躇なくヘリアンサスの前に立った。
ヘリアンサスは黄金の瞳でカルディオスを見上げて、首を傾げる。
居間の薄暗がりにあって、その瞳が光を吸い込んだように煌めいていた。
無表情だったが、頬が微かに強張っていた。
ぐっ、と、彼が奥歯を噛み締めたのが分かった。
いざヘリアンサスの前に立って、カルディオスは少し逡巡したようだった。
それから拳を握った。
俺はその瞬間、直前に彼がヘリアンサスに向けた激昂の度合いを思い出し、カルディオスがヘリアンサスを殴り付けるのではないかと思って、一歩前に出た。
――だが、違った。
カルディオスは、躊躇いがちに、試すように、握った右の拳をヘリアンサスの方へ向けた。
先刻に二人の間にあった六フィートの距離を埋めるように。
ヘリアンサスが大きく目を見開いて、その右拳を見下ろした。
それからもういちど目を上げて、探るようにカルディオスを見る。
カルディオスがそのまま動かないでいると、ヘリアンサスは――非常な躊躇を乗り越えるような風情で――彼自身も右手で拳を作って、その小拳を、こつん、と、カルディオスの拳に当てた。
カルディオスが、ぱっと笑った。
俺たちに見せるのと全く同じ笑顔だった。
それから当然のように拳を開いて、息を合わせてそれに倣ったヘリアンサスの手を、下から掬うように握って揺らす。
ヘリアンサスはされるがままに手を揺らされながら、少し俯いた。
純白の額髪がその顔を半ば隠して、夕暮れの残滓の明かりにちらちらと光って見えた。
「――あのな、」
カルディオスがヘリアンサスの手を握ったまま、少し膝を折って、ヘリアンサスの顔を覗き込むようにした。
そして、慎重な発音で呼び掛けた。
「あのな、アンス」
ヘリアンサスが顔を上げた。
黄金の瞳が揺れる。
薄く唇が開いていた。
明らかに驚いている。
――その表情に苦笑してから、カルディオスは真面目な表情になった。
そして、ゆっくりと言った。
「これだけは言っとくべきだと思うから、言うんだけど、」
ヘリアンサスが無言で頷く。
カルディオスは眦を下げて、穏やかに告げた。
「――あの最初の一撃、俺じゃなかったよ。
誤解させて悪かったな」
「――――」
ヘリアンサスが息を呑んだ。
そして、初めて自ら手指に力を籠めて、カルディオスの手を握り直した。
口を開いて声を出したが、その声が震えていた。
俺は、またヘリアンサスが泣くのではないかと思った――それほど切羽詰まった声だった。
「――分かってる」
ヘリアンサスが、囁くようにそう言った。
「――分かってたんだ。少し考えれば分かることだった。――疑って悪かった、カルディオス。
おまえがあんなことしたはずないのに。おまえがおれにくれた物まで壊した」
カルディオスが瞬きして、それから嬉しそうににっこり笑った。
「なんだ、分かってたんだ」
ヘリアンサスの手を離して、しかし彼の顔を覗き込んだまま、カルディオスは言い聞かせるように。
「――アンス、さすがに、おまえは俺を殺し過ぎだ。
すぐに、じゃあ仲直りしようか、とはならない」
ヘリアンサスが眉を寄せた。
何を言われているのかが、よく分からない様子だった。
その様子に苦笑して、カルディオスが続ける。
語調が根気強くて、物慣れた感すらあった。
何度も何度も、彼がヘリアンサスにものを教えてきたのだと分かる――そういう語調。
「そういうものなんだ。おまえは、俺以外に友達がいないから分からないだろうけど」
ヘリアンサスは素直に頷いた。
じっとカルディオスを見ていて、彼の表情や目付きから、言外の意図を懸命に汲み取ろうとしているようだった。
カルディオスは辛抱強く続ける。
「おまえは、俺にとって人生最初の友達だから。
――俺、おまえのことは好きだけど、おまえがやってきたことは全然好きじゃないよ。
だから、ちょっとずつ話し合おう」
意図を噛み砕いて言葉にするようにして、カルディオスが伝えている。
「それで、ちょっとずつ仲直りしよう。
――俺は、おまえに怒ってるから、」
ヘリアンサスが瞬きする。
頑是ないほどに真っ直ぐな眼差しでカルディオスを見て、言葉を聞いて、頷いている。
「――おまえは、俺が何に怒ってるのか分かったら、ちゃんとその都度謝らないと駄目だ。
俺も、おまえに悪いことしてたなって思ったら謝るから」
「おまえは悪くないよ」
ヘリアンサスが、そこだけは打てば響くように返した。
カルディオスが俯いて、苦笑して、また顔を上げた。
「じゃあ、ちゃんとおまえが謝るんだ。――そのうち仲直り出来るよ。
俺たちは友達で、」
言外に言葉の正誤を尋ねるようにしながら、カルディオスがそう言う。
ヘリアンサスは頷いている。
カルディオスは微笑んだ。
「俺、おまえのしたことはほんとに嫌いだけど、許せないけど、――おまえは……おまえは分かってないんだろうけど、おまえは俺の恩人で、俺――おまえのことは好きだから」
ヘリアンサスはまっしろな睫毛を上下させて、それから頷いた。
そして、生真面目に言った。
「分かった。――カルディオス、」
「ん?」
カルディオスが首を傾げる。
俺たちからすれば、はらはらするほど無防備に見えた。
そんなカルディオスを眩しそうに、手が届かないことが分かり切っている綺麗な空を眺めるような顔で見て、ヘリアンサスは呟くように言った。
「――何回も殺して悪かった」
カルディオスが噴き出した。
俺たちからすれば信じられないような反応だったが、存外にカルディオスは真面目だった。
すぐに表情を正して、頷いた。
「ほんとにな。――でも、最初の一回目は俺もおまえを酷い目に遭わせたからね。
俺に関してだけは、そこは手打ちにしてやるよ」
ヘリアンサスは頷いて、そのまま俯いた。
いっそ項垂れているようにも見えた。
カルディオスが少し怪訝な顔をする。
ヘリアンサスが、ゆっくりを足を引いて、カルディオスから離れた。
カルディオスが不安そうな表情を見せる。
彼がヘリアンサスを引き留めようとして、しかし同瞬、ディセントラから離れたトゥイーディアが、ヘリアンサスに向き直るように動くのを見た。
カルディオスが口を噤んだ。
俺たちはヘリアンサスとトゥイーディアを見ていた。
ヘリアンサスは、ゆっくりと、非常にゆっくりと、トゥイーディアに歩み寄った。
彼が軽く右手を振って、忽然とその手の中に花が現れていた。
桃色の小さな花が、一つの茎に幾つかついている。
野草を摘んできたように見えるがそんなはずはない、これはカルディオスが得意とする魔法だ。
トゥイーディアとヘリアンサスが向き合った。
ヘリアンサスが、すっ、と右手を持ち上げて、そこに握った花をトゥイーディアに差し出した。
――二角草だ。
そして、顔を上げて、低い声で言った。
「――今回の賭けはきみの勝ちだ、ご令嬢」
トゥイーディアが、冷淡な表情でヘリアンサスから花を受け取った。
そして、そのまま躊躇なくそれを床に落とし、踏みつけた。
「でしょうね」
花の末路に目を遣って肩を竦めるヘリアンサスを眺めて、トゥイーディアは恬淡と。
「――私の方が、カルをよく知っているもの」
カルディオスが、困惑した眼差しでトゥイーディアとヘリアンサスを見比べる。
ヘリアンサスが目を上げて、しばらくじっとトゥイーディアを見た。
そうして、一歩下がって頷いた。
「……そうみたいだね」
認めて、それからヘリアンサスが中空に視線を遊ばせて、唐突に、小さく呼ばわった。
「――ムンドゥス」
「なあに」
当然のような応答があって、忽然とその場にムンドゥスが現れた。
これには、さすがにトゥイーディアも驚いたようで、咄嗟にコリウスを振り返っていた。
――瞬間移動を可能とする魔術師はただ一人コリウスのみ。
そのために、反射的にコリウスを窺ってしまったものと思われる。
コリウスは彼女の視線に気付くと、微かに眉を寄せて首を振った。
アナベルも、ぽかんと口を開けている。
一方で、俺とカルディオスはもちろん、一度はこの現象を見たことのあるディセントラとコリウスも、特段の驚きは顔に出さなかった。
――ただ、ディセントラとコリウスは、一気に警戒の色の濃い表情になっていた。
なぜヘリアンサスがムンドゥスを呼んだのか、その理由を気に掛けているようだった。
――ムンドゥスは、もう俺の呼び掛けには応じない。
彼女が特別に創った魔力の器ではなくなった俺たちでは、もうムンドゥスに呼び掛けることは出来ない。
それでも、ヘリアンサスの声ならばムンドゥスは応じる。
「なあに、ヘリアンサス」
ムンドゥスが、とたとた、と短い距離を小走りに移動して、ヘリアンサスの腰の辺りに抱き着いた。
俺はぎょっとしたし、それは他の連中も同じだっただろうが、ヘリアンサスは頓着しなかった。
むしろ、ムンドゥスの艶やかな黒髪を撫でて、傷の走った彼女の手の甲を軽くなぞるような仕草で彼女を迎えた。
そして、静かに言った。
「ご令嬢が賭けに勝っちゃったみたいだから、話を通しておきたいんだけど」
ムンドゥスは、ヘリアンサスの言葉を理解していない様子で彼を見上げた。
仕草は幼子そのものの無垢なものだったが、表情は超然とした無表情だった。
鏡のような銀色の目でヘリアンサスを見上げて、ムンドゥスが熱に浮かされたような、陶然とした口調で呟く。
「――あなたがすきよ、ヘリアンサス」
ヘリアンサスが苦笑した。
ムンドゥスの頭を撫でて、ヘリアンサスは低く呟いた。
「おれも、きみのことが好きだよ。
――ご令嬢がきみを助けたいらしいよ、親愛なるおれの姉上」
ディアスシアの花言葉を踏まえると面白いかも知れません。




