表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
390/464

04◆ 斬れば血も出る

 ゆらゆらと湯気が揺れている。


 湯気の中を明かりが通って、不思議な陰影が描き出されていた。

 湯気が音を吸い込んでいるような静かさがあって、その静かさの奥に、どうどうと水が流れていく音が聞こえている。


 俺は肩まで湯舟に浸かって、揺れる湯気と、灯火を反射して照るように煌めく水面を、ぼんやり見ていた。


 湯舟の縁に頭を預けて全身から力を抜いていると、まだ鈍い頭痛はあったものの、本当に久しぶりに芯から身体が緩むような感覚がある。


 いや、実際のところは、俺がトゥイーディアから許されたわけでは断じてないので、このあと斬られることだって有り得るんだけど。

 とはいえ、彼女が俺を生かしてくれたという事実がある以上、斬られたって殺されることはないだろうし、好きな人が危ない橋を渡ってまで自分を助けてくれたわけで、安堵するなという方が無理だ。


 それにもう、俺だって緊張の限界だ。



 ――(ところ)は、ティシアハウスの、「大きい方」の湯殿である。


 花崗岩のタイルが敷き詰められた大きな湯殿の高い天井に、もうもうと湯気が立ち込めている。

 壁の高い位置に掛け燭があって、今は昼日中ではあるがここに窓はなく、ゆえにそこには既に灯が入れられていた。

 暖色の明かりに照らされて、黒い粒の浮かぶ淡灰色の花崗岩が、妙に薄桃色っぽく見えている。


 大きな円形の縁を持つ湯舟を囲む洗い場、四方には太い円柱。

 円柱からはやたらとごつい顔の、獅子か何かを模した石造りの像が首を突き出す形で彫り出されていて、かっと開かれたその像の口から、どぼどぼとお湯が溢れては床を叩いている。


 俺は先ほど、そうして溢れているお湯を使って身を清めたわけだが、正直閉口ものの汚れが落ちた。

 洗い流してみると身体が軽くなったようにさえ感じるくらいである。



 正直、俺がここを使っていいものかどうか、大いに疑問に思うところではある。


 が、昼近くになって目が覚めた俺に(ちなみに俺は、部屋を使う権利があるのかどうかも考える暇なく、広間(サルーン)のソファで眠り込んだ。そこで食事を摂った後は、もう起きていられなかったのである)、甲斐甲斐しくも食事を――時間としては朝食とも昼食ともいえないようなものではあったが――差し出してくれたルインが、「湯殿を使っていいそうですよ」と言ってくれたのだった。


 大きい方の湯殿の支度が出来ているようなので、と言われたので、本当に俺が遣っていいものかどうか訝りながらも、もし本当に湯を使わせてもらえるというならばこの上なく有り難く、結局のところ全力で甘えた。


 実際、湯殿(ここ)に入ってみると、直前に誰かが使ったように床が濡れていたので、恐らく俺の入浴はもののついでと目を瞑ってもらえるとみえる。



 ちなみに、食事は昨夜も今朝も変わらず、温かい野菜のスープと、蒸しパンだった。


 先日、俺がコリウスと一緒になってこの屋敷の厨房を覗いたときには、それほど食材は残っていなかったはずだから、もしかしたらモールフォスの人が俺の知らない間に食材を差し入れてくれたのか――あるいはジョーが買い出しに行っていたのかも知れない。


 ジョーの、トゥイーディアに何としても元気になってもらおうという気持ちが感じられる味だった。

 つまるところ、めちゃくちゃ美味しかった。


 俺がお相伴に与って申し訳ない限りだが、昨夜も今日も、遠慮できる状態ではなかった。

 俺が無言でひたすらスープを飲み、蒸しパンをかじり、またスープの底を浚うのを見て、昨夜のカルディオスは、「なんかおまえ、今なら、人肉でも美味い美味いって食いそうだな」と、笑えないことを真顔で言っていた。

 一方のルインは若干涙ぐんでいた。


 昨夜は、俺は出されたものを食べ切ると同時に倒れ込むように眠り込んでしまって、多分それが夕方頃だったと思うが、目が覚めると翌日の昼前だったというわけである。


 広間サルーンの大きな窓から差し込む陽光に愕然としたものだが、ルインはルインで俺が目を開けないのではないかと恐れていたらしい。

 俺が目を覚ますや否や食事を確保しにすっ飛んで行ってくれて、俺が寝惚けておろおろしている間に食事の支度をしてくれた。


 目が覚めたときにはもうカルディオスの姿はなかったので、あいつは俺が無事に眠り込んだのを確認して、ちゃんと割り当てられた部屋に引き揚げて休んでくれたらしい。

 ルインによれば、朝方にいちど俺のところに来て、俺が息をしているかどうかは確認していたとのことだった。


 ルインに、「おまえはちゃんと部屋で寝た?」と確認すると、はにかんだような微笑みを浮かべて誤魔化された。

 あれは絶対、俺に付き合って広間で寝た。

 兄貴失格すぎて、俺は自分にびっくりだ。


 食事を摂りながら、「アナベルが大丈夫そうか知ってる?」とルインに尋ねてみたところ、確信を持って、「大丈夫です」と言い切ってもらえた。

 あいつが俺に嘘を吐くのはちょっと想像できないので、もしかしたら朝にでもアナベルに会っていたのかも知れない。

 それに、さすがにアナベルに何かあれば、誰かが俺を叩き起こしに来ているはずだ。



 というわけで今、こうしてのんびりしているわけだが――めちゃくちゃ気持ちいいな。



 目を閉じる。

 お湯の温かさが身体に沁み込んで、顔に汗が浮いているのが分かった。


 床に落ちるお湯の音が低く心地よく、油断したらこのまま眠り込んでしまいそうだ。


 初めてガルシアに行ったときを思い出した。

 あのときは冬で、寒いし腹が減ったしで倒れそうだった。

 湯舟で身体が温まったときの安堵感は今でも覚えている。


 人生で初めて風呂を使ったときのことも思い出した。

 あれは雲上船の風呂で、レイモンドが入れてくれたんだった。

 十七になっているはずの俺が年齢不相応に身体が小さいこと、痩せ細っていたことに加えて、服を剥いてみれば痣や生傷もあったので、レイモンドをびっくりさせてしまったのだった。


 ばしゃっとお湯を掬って顔を洗う。目を開ける。

 湯舟が小さく波立って、水面に映る明かりもゆらゆらと揺れていた。


 自分の指先が熱を持って赤くなっているのを見て、俺は意味もなく両手を握ったり開いたり。


 ――それから、勢いをつけて立ち上がった。


 ばしゃっ、と、大きくお湯が波立つ。

 立ち眩みがして、俺は危うく湯舟の中に倒れ込み掛けた。


 頭の奥の鈍痛がいっそう激しくなって、ずきずきと蟀谷の辺りが痛む。

 それを堪え、しばらく頭を下げて目を瞑ってじっとしたあと、俺は改めて顔を上げて、昨日に比べれば随分としっかりした歩調で湯殿を出た。



 脱衣所に着替えの用意があった。


 湯殿に入るときに俺が着替えに頭を回していたかというと否で、これは間違いなくルインが調達してくれたものだろう。

 素っ裸でトゥイーディアの実家をうろつく羽目にならずに済んで(何しろ、着ていた服はもういちど改めて袖を通せるような状態ではない。何なら、脱いだはずの場所にもう無かった。着替えを置いたついでに、ルインが処分してくれたのかも知れない)、俺は大いにほっとした。


 タオルで身体を拭いて、濡れた髪をぐしゃぐしゃとタオルで掻き回しながら、俺は畳んで置かれた着替えを捲って矯めつ眇めつ。


 ――罷り間違って、リリタリス卿の着替えが宛がわれているならば大変だと思ったが、違った。

 大丈夫だ、これは――多分、寸法からしてジョーかオーディーか、どっちかのもの。


 ルインのことだから、本人に着替えを拝借する了承は取っているだろうと判断して、俺は若干寸法のちぐはぐなズボンとシャツを身に着けた。

 俺が、他人に比べて上背に恵まれていることから、丈はぴったりだが横幅に余りがある。

 簡単な腰紐も置いてくれていたので、ズボンはそれで腰に括り付けるような格好になった。


 だぼつくシャツの釦を留めつつ、ようやく人心地がつき、俺はふう、と大きく一息。


 丸一日近くぐっすり休んで、身体の方は回復しつつあったものの、絶対法を超える治癒の権能を使い続けた影響か、魔力の方はすっからかんだった。

 お陰で頭の奥に慢性的な鈍痛がある。

 が、牢獄で一人きりだったときのことを思えば、この程度は物の数ではない。


 さすがに靴の替えはなかった。

 俺は自分が履いていた靴に再度足を突っ込んで、タオルを首に引っ掛けたまま、ふらふらと脱衣所の外に向かう。


 あれだけ眠ったというのに、なおもしつこく欠伸が出てきた。

 ふあ、と欠伸を漏らし、半ばでそれを噛み殺すようにしながら、俺はぱたぱたと廊下に出て、



 ――悲鳴が聞こえた。



 俺はその場に凍り付いた。

 ――聞き違えるはずがないが、聞き違えられるようならば苦労はないが、今のはトゥイーディアの声だ。


 きゃあああ、みたいなあざとい悲鳴ではなくて、うわあああ!? みたいな、困惑をいっぱいに詰め込んだ驚倒の悲鳴だった。



 その瞬間、呪いさえなければ、俺は魔力枯渇に伴う体調不良も忘れ去り、悲鳴が聞こえた方向にすっ飛んで行っていただろう。


 もうこのうえ、トゥイーディアには傷のひとつもついてほしくない。


 もしも、神とかいうものが本当に今でもいて、トゥイーディアはどうしても傷付かねばならないのだ、と託宣を降すとすれば、もういっそのこと俺がトゥイーディアを傷つけたい。

 俺なら、傷つけるにしたって、その瞬間でさえトゥイーディアに愛情を掛けるから。


 だからもう本当に、他の連中は一切トゥイーディアに手を出さないでほしい。



 ――だが、実際のところ、俺には呪いが掛けられている。


 俺は至極ゆっくりした動作で廊下を歩き、ゆっくりと吹き抜けの階段を昇り、吹き抜けを見下ろす回廊を歩いた。


 その動作が強要されたことで分かったが、まず第一にトゥイーディアは無事で意識がある。

 俺が傍まですっ飛んで行けば、トゥイーディアが俺の気持ちを察してしまうらしい。


 そしてあるいは、トゥイーディアの傍に誰かが居る。

 俺がトゥイーディアを案じて飛び込んで行けば、そいつに俺の恋慕が知られ、そいつからトゥイーディアに俺の気持ちが伝わることになるらしい。


 ――トゥイーディアが掛けた呪いは、本当に完璧だった。


 内心で発狂寸前に陥りながら、俺は回廊を歩き、ちょうど広間(サルーン)の真上に位置する居間(パーラー)を覗き込んだ。


 ――悲鳴はこの辺りから聞こえたんだけど。


 表情は平静極まるものだったに違いない。

 だがその実、俺の心臓は肋骨を叩き割ろうとしていた。



 居間には燦々と昼の陽光が差し込んでいる。


 据え置かれた大きな円卓の向こうに、姿勢を崩して円卓に肘を突くアナベルが座っていた。

 円卓の上には、食後を物語る食器がそのままになっている。どうやらつい先程まで食事を摂っていたらしい。

 アナベルの隣にディセントラが、こちらは椅子から身を乗り出してアナベルを気遣っていた様子。

 そして、ディセントラから幾つか席を空けたところにコリウスがいて、今はその三人が一並びに、居間の入口で茫然と立ち尽くしているトゥイーディアを見ていた。


 みんな着替えていて――ディセントラとアナベルは、恐らくトゥイーディアのものだろうワンピースを着ていて、コリウスは俺と似たような格好をしている。


 場合が場合でなかったら、俺は思わず噴き出していたかも知れない。

 三人揃ってきょとんとトゥイーディアを眺めている様子は、笑いさえ誘う間抜けさがあった。


 俺の記憶では、コリウスも、アナベルに対して一種の気まずさ、罪悪感を覚えていたはずだ――アナベルがシオンさんを選べなかった要因の一つとして、コリウスの魔王討伐以前の落伍が、それゆえの、五人でヘリアンサスに挑むことの無謀さが浮き彫りになったことが挙げられてから。


 が、今の居間パーラーの雰囲気にそういったものはなかった。

 むしろ和気藹々とした空気が瞬時に凍ったような、そんな感じがある。



 トゥイーディアは、居間を入ってすぐのところに立ち竦んでいた。


 動揺露わではあったが怪我をしている様子はない。

 俺はそのことに、まずは何よりほっとした。


 トゥイーディアは、当たり前だが服喪の礼装を脱いでいた。

 そして、恐らく俺と同様、風呂を使った直後と思われる。

 もしかしたら、俺はトゥイーディアの直後にあの湯殿を使っていたのかも知れない。


 トゥイーディアは髪を解いていて、丁寧に櫛が入れられた上に洗い清められた髪が、それこそ朝の陽射しみたいに艶々と背中に流れていた。

 髪はまだ少し濡れているようだった。


 白いふわふわしたドレスの上に濃紺のガウンを羽織っていて、ごくごく身内としか顔を合わせることを想定していない恰好。

 じゃっかん目の毒なので、俺は礼儀正しく目を逸らそうとしたが、出来なかった。


 びっくりした様子で胸元に手を引いて固まっていて、その指先まで今は温かそうに血の気を帯びている。


 唖然と凍った頬も、表情は凍り付いていても血の気が通っていて薔薇色で、俺は大いに安堵したが、同時にむくりと胸の中で懸念が頭を擡げた。


 ――トゥイーディア、仕方のないことではあるけれど、やっぱり少し痩せている。



 トゥイーディアは床の一点を凝視して固まっていたが、俺が居間に顔を出して十数秒、はっとしたように動き始めた。


「何これ、何これ、何これ!」


 壊れたようにそう口走って、トゥイーディアが床を指差し、ぐるっ、とコリウスとディセントラの方を見た。


 そこは俺を見てくれても、と俺は寂しく思ったが、トゥイーディアはどうやら俺に気付いていなかった。


「何これ、何の痕、ねえこれ血じゃないっ!? 誰か怪我したの!?」


 あわあわとそう口走るトゥイーディアに、ようやく全てに合点がいったとばかりに、しかしながら慌てた様子で、がたりとコリウスとディセントラが立ち上がる。


「イーディ、落ち着いて!」


「誰も負傷はしていないから!」


 アナベルが薄紫の目を大きく見開き、瞬きして、「え、あたしは何も気付かなかったけど」と。

 それに対して条件反射のように、ディセントラが言った。


「駄目じゃない、病み上がりなんだから、ちゃんと足許に気を付けて歩いてよ」


「問題はそこじゃないんじゃない?」


 真面目な顔でアナベルが返して、そこでようやく、入口に突っ立っている俺に気付いたらしい。

 あ、と声を漏らして、立ち上がろうとしてよろめいた。


 それを慌てた様子でディセントラが椅子の上に留め、アナベルの視線を追うようにして目を上げて、俺に気付いた。

 淡紅色の瞳に棘が浮かんだ。


 それはそうだろう、俺が最後にトゥイーディアとまともに顔を合わせたのは、あのとき――あの殺し合いのときだった。


 とはいえトゥイーディアは、まだ俺に気付いていないらしい。

 困惑しきった様子で、「どういうこと?」と、ディセントラとコリウスを見比べる。


 ディセントラは柳眉を寄せて俺を睨んでおり、コリウスはそんなディセントラを見てからトゥイーディアを見て、答えようと口を開きこそしたものの、何から話せばいいのか、と迷った様子で視線を泳がせた。

 俺には気付いているようだったが、特段何の反応も示さなかった。


「――あー、トゥイーディア、それは……」


 言い淀むコリウス。


 まあそれはそうだ、そもそもトゥイーディアは何も知らない。

 俺が最初の一回目の人生のことをみんなに話したのは、トゥイーディアがここから姿を晦ませたあとだった。


 ここでいきなり、「それはヘリアンサスが腕を斬り落としたからで」などと言っても、更なる混乱と困惑の坩堝にトゥイーディアを叩き込むだけであろう。


 ――と、そう判断して話の順序を考えあぐねたのは、コリウスがトゥイーディアを気遣ったからこそである。


 呪いに縛られる俺に、その気遣いが許される余地はなかった。


「――ぎゃあぎゃあうるせえな。

 それ、その血の痕、ヘリアンサスのだから」


 俺はそう言った。


 コリウスが、「少しは気遣え」と言わんばかりに顔を顰めた。

 ディセントラがいっそう表情を険しくする一方で、アナベルが「話が見えない」と首を傾げる。


 薄青い髪に窓を透った朝陽が降り注いで、アナベルの髪色が白に近く見えていた。


 そして、俺が声を出したことで初めて、俺がそこに立っていることに気付いたらしい――トゥイーディアが、目を見開いて俺を振り返った。



 ――久し振りに、本当に久し振りに、目が合った。



 その一瞬、時間が停まったのではないかと思われた。


 俺は泣きたくなった。


 あの飴色の目だ。

 俺を何度も何度も恋に落とした、あの飴色の目が俺を見ている。


 驚きが先に立ったのか、過剰な敵意もない――本当に、以前までのような色で、トゥイーディアの双眸が俺を映していた。



 トゥイーディアが瞬きする。

 身長差があるから、彼女は少し俺を見上げる格好になっていた。


 は、と小さく息を吐いた様子で、その仕草ひとつひとつが俺にとっては愛おしかった。


 初めて会ったときから変わらない――繊細な仕草。



 近い距離にこうして立って、朝陽の逆光に仄かに白く際立つようなその輪郭を見て、あぁ好きだな、と改めて思った。


 多分俺は――トゥイーディアの繊細な指先の仕草とか、目の細め方とか、声の出し方とか、そういうものを通して仄見えている、彼女のもっともっと奥の方にある、彼女の人生そのもの、彼女を形作る全部が好きなのだ。


 だから例えば、考えたくもないけれど、彼女が声を失えば俺はその分も彼女の瞳が好きになるだろうし、彼女が手足を失えば、俺はその分も彼女の首の傾げ方が好きになるだろう。

 彼女の目が開かなくなったとしても、俺は声で伝えられる限りの情景を彼女に言葉で伝えて、その結果に返ってくるだろう、彼女の感想や反応を愛するだろう。


 呪いがあるから、なんとかしてトゥイーディアへの感情を目減りさせようとしたこともあったけれど、無理だ。

 ある日突然、彼女が俺に対して悪口雑言しか浴びせなくなったとしても、俺はトゥイーディアのことが好きなままだろう。


 この世界のどこに、これ以上に完璧な〈トゥイーディア〉が他にいるというのか。


 俺が心底愛している――今も昔もただ一人のひと。



 そのトゥイーディアは、状況を把握しかねるというような、ぽかんとした表情で俺を見上げて固まっていた。


 だがそれも数秒で、すぐに大きく息を吸い込んで、上目遣いに俺を睨むようにする。


「――()()()が元気そうで安心したわ。

 親切心が欠片でも残っていれば教えていただきたいんですけど、どこのどなたがあいつをばっさり斬ってくれたわけ?」


 む、と顔を顰めて、眉間に皺を寄せて。


「……私が斬ろうとしたときは、わざわざ私と殺し合ってまで止めたのに、あなた、あいつが斬られるのを黙って見てたの?」



 ――端から見て分かった奴はいないだろうが、俺はそのとき、息を止めていた。


 ()()()と呼ばれた。


 ――トゥイーディアには、癖がある。

 俺以外に、その癖に気付いているやつがいるのかは知らないし、トゥイーディア自身に自覚があるかどうかも知らない。


 二人称の癖だ。


 親しい人に「きみ」と呼び掛け、敵愾心を持っている相手には「おまえ」と呼び掛け、そして、距離を置きたいと思っている人に対して「あなた」と呼び掛ける――その癖。


 出会ってからずっと、俺のことを「きみ」と呼んでくれていたトゥイーディアに、初めて「あなた」と呼び掛けられたときのことを思い出した。

 トゥイーディアが俺に呪いを掛けたときだ。


 だが同時に、つい先日、それこそ殺し合ったときには、「おまえ」と呼び掛けられたことも、俺は覚えている。


 ――トゥイーディアからすれば、俺は彼女を裏切り、救世主としての役目を裏切り、自ら魔王と名乗ってヘリアンサスを庇った(かたき)だ。

 俺がどういう経緯で絞首台に上がったのかも、彼女は知るまい。


 だから本当なら、ここで死なない程度に斬られたところで不思議はないのだ。


 それを、トゥイーディアが一歩下がって俺に接している――それが良きにせよ悪きにせよ。

 彼女が何を考えているにしろ。



「――――」


 俺が黙っていたのは僅かに数秒、すぐに俺は、トゥイーディアに対してはいつもそうであるように、無関心なぶっきらぼうさで告げていた。


「違ぇよ、あいつが自分で、腕一本斬ったんだ。――おまえ、なんでアナベルが無事か考えなかったわけ?」


 ディセントラが、怒鳴る寸前といった顔で半ば唇を開き、円卓の上に僅かに身を乗り出した。額に青筋が浮いている。

 コリウスが額に手の甲を当て、アナベルがなおいっそうきょとんとした様子で、傍のディセントラの顔を見上げた。


 俺は、当然ながら、トゥイーディアの表情にも怪訝が浮かぶものと予想していた。


 だから、俺の言葉を聞いた途端に、謎が解けたと言わんばかりにぱっと表情を切り替えたトゥイーディアに、少なからず驚いた。


「――あぁ、なるほどね」


 トゥイーディアが手を打って、そのまま両手を握り合わせた。


「早い話が、あいつが自分の腕一本でアナベルの命を買ったわけね」


 俺は瞬きした。


 その俺の間抜け顔を見上げて、トゥイーディアが苦笑する。

 飴色の瞳が細められて、俺は内心で息を呑む心地を味わう。


「もう、なんでそう不親切なの。分かるわけがないと思う説明なら、もう少し噛み砕いて話してくれていいのに。

 ――でも、へえ、()()()のことは知らなかったわ。拾えていることと拾えていないことがあるのかな。それともあいつが……」


 後半はぼそぼそとした独り言、飴色の視線が俺から逸らされて、足許に斜めに落とされる。


 俺に呪いが掛けられていなければ、俺は思わず彼女の手を取って、「俺を見て」と言ってしまっていたかも知れない。


 ディセントラが、直前の怒りを紛失したような顔になって、「イーディ?」と素っ頓狂な声を上げた。


「イーディ? どういう――?」


「あの、それ、あたしの台詞なんだけど」


 アナベルが慎ましげにそう言って、ぎゅうっと眉を寄せた。


「ねえ、ほんとに、何がどうなってるの? コリウスとカルディオスは普通に喋ってるし、ルドベキアはあんなところにいたし、イーディは一人でいたし、何なの?

 それに、」


 アナベルが急に俺を指差したので、俺はたじろいだ。


「な――なに」


 アナベルが口を開き、それから思い直したように口を噤んで、ふとコリウスの方を見た。


 コリウスがその視線に気付いた様子で、トゥイーディアに向けていた視線をアナベルの方へ翻した。

 銀色の髪がさらりと揺れて、朝陽を吸い込んで仄かに金色掛かって見えている。


 アナベルに向ける濃紫の目は影の中にあったが、対してアナベルがコリウスに向ける瞳は光に晒されて、いつもよりいっそう淡い色合いに見えた。


 アナベルがゆっくりと瞬きして、もういちど俺の方へ視線を戻した。

 息を吸い込んだ。一拍の間があった。


 ――それから、低い声ではっきりと、アナベルが言った。


「……ルドベキア、ごめんなさい」


「――――?」


 本心からその意味が分からず、俺は眉を寄せた。


 咄嗟にコリウスを見たが、コリウスはアナベルの方を見ていて、俺の方には視線をくれなかった。

 ディセントラもアナベルの方を勢いよく振り返っていて、アナベルの言葉を止めるべきかどうか、迷うようにうろうろと白魚の手を動かしている。


 トゥイーディアも、目を見開いてアナベルを凝視していた。

 俺が内心で、そんなに目を見開いたら、瞳が落っこちてしまうのではないかと思ったくらいに。


 その場の全員の視線を一身に集めることになって、アナベルは顔を顰めた。

 しかしすぐに、ふうっと息を吐いて表情を緩めて、真っ直ぐに俺を見て、続けた。


「――コリウスには、()のこと……さっき謝ったのよ。あたしが、」


 言葉を切って息を吸い、アナベルは声を押し出すようにして。


「あたしが、カルディオスに、――」アナベルが言葉に詰まる。声に出すことを許されていないことを声に出そうとしたがゆえだと分かった、「――、してしまったから、だから、そのせいで、」


「――おい」


 思わず、俺は声を出した。

 アナベルを遮ろうとした。


 ――別に、アナベルのせいではなかった。

 ただヘリアンサスが利用できる立ち位置に、アナベルがいただけのことだ。


「――カルディオスがコリウスの……あの人を、あんな風にしてしまったわけだし、あれはあたしたち全員がやったようなことだけど、――それに、」


 珍しいくらいに支離滅裂にアナベルがそう言って、恐らく彼女は円卓の下で、ぎゅっと手を握り合わせているようだった。

 肩に、変な風に力が入っていた。


「ルドベキア、あなたが今回、――魔王の生まれになったのは」


 アナベルが目を細めて、一瞬、唇を噛んだ。


「……詳しいことは分からないけれど、」


 その一瞬に、俺は思い出した――確かにそうだ、アナベルが気を失ったのは、ヘリアンサスが俺を魔王として返り咲かせた種明かしの、その直前だった。


 だから、気付かなくて良かったのに。


 それなのにアナベルは、低い、明瞭な声で、はっきりと続けてしまっている。


「あのタイミングでヘリアンサスがあたしの――あたしが、カルディオスにしたことを(あげつら)ったなら、あなたの生まれのことは、あたしのせいだったんでしょう。

 ――ごめんなさい」


「おまえのせいじゃないよ」


 殆ど打ち返すようにして、俺は応じた。

 語調が荒いことを自覚したが、どうしようもなかった。


「おまえのせいじゃない。――俺が魔王だった。

 これは本当に、最初から」


 俺の視界の隅で、トゥイーディアがはっきりと顔を顰めた。


 俺は俯いたが、同時にアナベルも俯いていたようだった。

 一瞬、空気が浮くような沈黙が流れた。


 その沈黙を、無理やり割り砕くようにして、顔を上げたアナベルが声を出した。

 普段より早口ではあったが、それはそれとて、気になっていることではあるようだった。


「――ルドベキア、ヘリアンサスとどういう関係なの?」


 きっぱりと訊かれて、俺は面喰らった。


 ――アナベルは、ずっと意識がなかった。

 それこそ、俺が昏倒して最初の一回目の人生を辿り始める直前から。


 だから、ヘリアンサスが俺に対して何かの特別な感情を持っていることも、到底知りようがないはずだ――


 言葉を探して俺が言い淀む間に、アナベルはいっそう眉を寄せて。


「――それに、……ねえ、あたしってどのくらい気絶してたの?

 なんかこう、内外問わず状況が変わったことは分かるんだけれど。

 それに、――そうよ、ヘリアンサスの腕一本って、どういうこと」


 コリウスと俺のことは気になっていたのか、アナベルは直前まで、それら全部を頭の外に放り出していたようだった。

 今さらになって気になり始めたといった風情で、次々に言葉を並べていく。


 とはいえ、並べている言葉の割には落ち着いた風情で言い立てるアナベルを覗き込んで、ディセントラがぼそりと。


「……けっこう長いことよ。その割には落ち着いてるみたいだから、ついつい体調ばっかり気にしちゃってるわけだけれど」


「そりゃあ、一回死んでから生まれ直すときよりはよっぽど落ち着いていられるわよ」


 にべもなくそう言って、アナベルが両手を軽く上げた。


「あたしが片付けたいことは片付いたから、そろそろ誰か、ちゃんと教えて。

 ――それに、ヘリアンサスが腕一本であたしの命を買ったってどういうこと? どんな義理でそんなことしたのよ。そもそもあたしの命って、あいつの腕一本程度ってこと?」


 無口なアナベルにしては珍しいくらいに質問が続いている。


 無理もないが、俺は、何からどう話せばいいものか分からずおろおろしてしまった。


 が、そのとき、「待って」とトゥイーディアが不意に言った。


 彼女がぴょこんと顔を上げ、誰にともなく尋ねる。


「――ヘリアンサスが、腕一本、斬り落としたってこと?」


 視線が交わされたものの、誰も頷かないので、結局は俺が頷いた。


「……まあ、そうだな」


 そして、それを聞いた途端のトゥイーディアの表情の変化に、内心で戦慄した。



 ――満面の笑みだった。


 嬉しそうに、この上ない朗報を聞いたように、トゥイーディアが相好を崩していた。


 それから両手を胸の前で合わせて、うっとりと言った。



「――それは、さぞかし痛かったでしょうね」



「――――」


 俺は黙り込んだ。


 トゥイーディアが、他人が傷ついたことで嬉しそうにするところなど見たこともなかった。

 ――それゆえに、トゥイーディアの恨みの深さに慄く。


 しかし、トゥイーディアはすぐに、ぱっと表情を切り替えた。


 無言の俺をちょっと覗き込むようにして、顔を顰める。


「あなたね、私に説明するときも、アナベルにどう説明しようか考えるのと同じくらい、ちょっとは言葉を選んでくれていいのよ。

 ――それから、」


 彼女は視線をちょっと下げて、


「――釦はちゃんと、上まで留めてね」


「は?」


 裏表なく怪訝の声を漏らして、俺は思わずシャツの釦を下からなぞるように手で探る。

 上から三番目からの釦が開いたままになっていたが、――それがどうした。


 眉を寄せて、トゥイーディアを無視した格好になりつつ、俺はコリウスの方を見た。


「――ルインは?」


「休ませてやれ」


 即答でコリウスがそう返してきて、俺はうっと言葉に詰まる。

 コリウスはそんな俺を呆れたように眺め遣りつつ、嘆息した。


「おまえに着替えを調達したところで、トゥイーディアの侍女が、」


「メリアね」


 トゥイーディアが、そっ、と注釈を挟むように口を挟む。


「そう、彼女が、さすがに見かねて部屋に連れて行ったんだ」


 俺はその場で足踏みした。


「ルインが貸してもらってる部屋ってどこ?」


 前のめりになって言った俺に、コリウスはいっそう大きく息を吐く。


「だからそっとしておいてやれと――。おまえが行けば、あの子がまたあれこれ気を回すだろうが」


「――――」


 大部分でコリウスの言葉に理があることを認めつつも、俺はむっとした。


 ――俺は、レイモンドやチャールズが傍にいれば落ち着いて休むことが出来る。

 あの二人との兄貴としての出来の違いが、なんだか面白くないような気がした。


 むっとして黙り込んだ俺を冷ややかに一瞥してから、ディセントラがトゥイーディアに声を掛けた。

 眼差しは打って変わって優しかった。


「――イーディ、ごはんは?」


 トゥイーディアがディセントラの方を見て、答えようとしたのか口を開いた。


 ――だがすぐに、すっとその唇を閉じて、俺の方を振り返った。

 俺はどきっとしたが、直後に気付く。


 ――違う、俺の方ではない。


 俺の後ろ、居間の外の廊下の方を、彼女は振り返ったのだ。


 怪訝に思って、俺も振り返る。

 廊下は無人で、俺は眉を寄せてトゥイーディアの方をもういちど見た。


 彼女は身動きもせず、無表情に近い顔つきで、淡々と廊下を見詰めていた。


「――イーディ?」


 ディセントラが呟くように呼び掛ける。


 俺は眉を寄せたまま、もういちど廊下を振り返った。


 ――そして、今度は、ディセントラやコリウスと同時に息を呑んだ。



 降って湧いたような唐突さで、そこにヘリアンサスがいた。



 まるで散歩の途中とでも言わんばかりの足取りで廊下を進んで、こつこつと靴音を立てながら、当然のように居間へと歩み寄って来る。


 彼はまだ喪装のままだった。

 昨日、あれからヘリアンサスがどうしていたのかは分からないが、どうやら彼であっても、悠々とティシアハウスで寛ぐことはしていなかったようだった。

 近付いてきたヘリアンサスの首許に金鎖が見える。



 はっとして、俺はトゥイーディアを振り返った。

 彼女が、今にもヘリアンサスに斬り掛かるのではないかと思った。


 だが彼女は、予想に反して、冷静といっていい表情でヘリアンサスを見据えている。



 ヘリアンサスが、俺の傍、居間の入口に立ち止まった。



 ディセントラとコリウスが立ち上がる。

 アナベルが、驚いた様子でヘリアンサスを見ている。


 ヘリアンサスは、感情の窺えない黄金の瞳で俺を見て、それからその同じ瞳で居間の中をざっと見渡した。


 そうして最後にトゥイーディアを見て、ヘリアンサスが微かに眉を顰めた。

 口を開いた。声は低かった。


「――先刻(さっき)、何かあったの」


 トゥイーディアが、無言で床の血痕を指差した。


 ヘリアンサスがそちらに視線を落とし、そしてつまらなさそうに呟いた。


「……ああ、それ」


 トゥイーディアが口を開き、息を吸い込んだ。

 そして、同じく呟くようにして、言った。


「おまえ、腕を落としたの?」


 ヘリアンサスがトゥイーディアに目を戻し、首を傾げた。

 無表情だった。


「――ああ、そうだね」


「そう」


 特段の感情を感じさせない声でそう応じてから、トゥイーディアはしかし、すぐに堪えかねた様子で唇を曲げた。

 笑ったようだった。


「――痛かったでしょうね」


 ヘリアンサスは、しばらくじっとトゥイーディアを見詰めていた。


 意味の取れない抽象画の意味を、なんとかして汲み取ろうとしているような目だった。


 二人はしばらく目を合わせていた。



 それから、ヘリアンサスが不明瞭な声で呟いた。


「そうだね。

 ――血も出たわけだから」


 トゥイーディアが、もういちど床の血痕に視線を落とした。


 それから目を上げて、ヘリアンサスを見た。

 表情が苦り切ったようなものになったが、それでも彼女は息を吐いて、短く言った。



「ええ、そのようね。

 ――()()()()でしょう。責任は取る」






















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 「ルドベキアがトゥイーディアへの愛を胸中でぶちまけるも素気なくしてしまう」という、序盤で大いに私の心を狂わせた常が少しずつ戻ってきていて、実家のような安心感とときめきがあります。序盤と違う…
[良い点] ルドベキアのトゥイーディア語りに毎度テンションが爆上がりします。 結ばれてくれ~~~
[良い点] 更新ありがとうございます。 いつも楽しく読ませて頂いています。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ