02◆ ようこそお帰り
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ベイルからイルスへ向かい、そして再びモールフォスへ戻ったのは、俺の処刑から通算して、十四日目の昼だった。
体力も底を突いた中、実に半月もの間、碌に休まずに動き続けたことになる。
まあ、俺のは自業自得だが、アナベルは全く自業自得ではない。
とはいえ外傷の有無を加えていえば、俺の方が酷い状態だった。
アナベルの衰弱は俺より激しかったものの、俺は牢獄の中で結構な数の傷を負っている。
ぶっちゃけいちいち防いでいられなかったのだ。
飲まず食わずの不眠の中で、自分の体力を維持することが最重要、軽傷程度には目を瞑ることが必要だった。
そんなわけで俺は自分の状態はあんまり気にしていなかったが、イルスからモールフォスへ引き返す間――途中のキルトンで汽車を替える必要があるわけだが――の汽車の中で、俺の無数の切傷や打ち身を発見したアナベルは、面白くなさそうな顔をしていた。
あくまで隠密の行動が必須、さもなくば俺が血祭に上げられかねないので騒ぐことはなく黙っていてくれたが、怒っていることはありありと伝わってきた。
――よく考えてみれば、アナベルは俺がどうして絞首台の上に立つことになったのか、全く分かっていないはずだ。
にも関わらず何も訊いてこないのは、それだけの余裕がないからだろう。
そもそも往路では、リリタリス卿の葬儀のことしか頭にない様子で、ずっと口を噤んであらぬ方向を見ていたわけだし。
そんな彼女が、ようやく傍にいる俺の様子を気に掛けてくれて、俺は少なからずほっとした。
汽車は混雑していた。
リリタリス卿の国葬の報が打たれ、少なくない人数がイルスに押し掛けたのだ。
その人数が、そっくりそのままとは言わないまでも、参列ついでに数日イルスに滞在する財力がある人はともかく、その余裕のない人たちが、俺たちと同じタイミングで汽車に乗ったのだ。
モールフォスのあるオールドレイ地方の方向へ帰る人も、もちろんのこと大勢いて、汽車の中は人と荷物がごっちゃに詰め込まれたような有様になっていた。
そんな中に立たせていては、アナベルがぶっ倒れて大騒ぎになるのは必定、というわけで俺はアナベルの席だけはどうにかこうにか確保して、通路側の座席にアナベルを座らせることには成功していた。
硬い座席だがないよりマシだ。
アナベルはアナベルで、今は俺から離れるのは拙いと認識して、俺の服の裾を掴んでいた。
同じことをトゥイーディアがしてくれれば感涙ものだが、相手がアナベルなので心配があるだけである。
俺が、他のみんなは今どの辺りにいるのかな、と考えているうちに、アナベルの正面に座っていた人が俺に席を譲ってくれた。
壮年の彼は木目模様の綺麗な大きなトランクを抱えていて、トランクの上には(トランクに入り切らなかったのだろう)替えの服と思しき布類がくるくる纏められて括り付けられていた。
決して身軽ではない様子の彼が席を勧めてくれたために俺は恐縮したが、「兄ちゃん、今にも倒れそうだよ」と心配そうに言われて、四の五の言わずに厚意に甘えることにした。
髪を隠すために被った帽子の陰で頭を下げて座席に座り込む俺に、大きな荷物を抱えた彼は、人混みの中で通路に立つにも苦労しつつ俺とアナベルを見比べて、「ご夫婦?」と。
訊かれたアナベルが不快そうに眉間に皺を寄せ、極度の疲労で頭が回っていなかった俺は、「いえ兄妹です」と言い切った。
似てないねぇ、と続けられた言葉には、「親が違うので」と。人生経験にものを言わせて、それ以上の追及をさせない訳ありの感を出すのは容易い。
大荷物の親切な彼は、キルトンが目的地だったらしい。
どやどやと汽車から下りる人波に紛れてひらひら手を振ってくれて、古城を刳り貫いて造ったような駅の中を、快活な足取りで抜けて行っていた。
キルトンからモールフォスへ向かう汽車は、さすがにキルトンまでの道程よりも汽車の同乗者の少ないものとなったが、俺はずっと顔を伏せていた。
道中で小雨の日があったものの、モールフォスに到着した日は晴れていた。
正午頃にモールフォスへ到着した汽車からよろよろと下りて、俺は案外にもモールフォスで下車する人がいなかったことに顔を顰める。
ここの町は裕福ではないから、王都まで気軽に行ける人がいないということなのだろうが、それにしても。
リリタリス卿の国葬に最も参列したかったのはこの町の人々だろうに。
――そんなことを考えつつも、モールフォスの駅の中でアナベルと肩を寄せ合って座り込み、「トゥイーディアたちはもう戻って来ているか」、「戻って来ていないとすればどこで合流すべきか」、「戻って来ているとすればどこで落ち合えばいいのか」ということを話し合っているうちに、時刻は昼下がり。
いちど、ベイルの方面から来た汽車が駅に停まり、数人を下ろして去っていった。
俺は汽車から下りた人の目に留まらないよう、帽子の小さな鍔を摘まんで目深に引き下ろし、顔を伏せて小さくなった。
そして、そろそろさすがに動こうか、とアナベルと話し合う頃になって、汽笛が鳴り響き、キルトン方面からの汽車が駅に滑り込んできた。
もくもくと煙を吐く汽車の扉が開き、どやどやと人が降りてくる。
人が多い――と思った直後、俺は見付けた。
トゥイーディアがいる。
喪服を身に着けたままの――さすがに疲れた風情のあるトゥイーディアが、人に囲まれて降りてきた。
俺が心底ぎょっとしたことに、傍にヘリアンサスがいて、その二人を取り囲むように汽車から下りてきたのは、俺の知らない連中だった。
恐らくは、国王がトゥイーディアにつけた護衛だろう――護衛の要否は問題ではない、国王が誠意をみせたというだけの話だろう――、騎士服というほど立派な服装ではないが、それでも上等な光沢を見せる布地を仕立てた、かっちりした格好をしていた。
アナベルが、俺たちは駅舎の壁際に座り込んでいたわけだが、爪を立てるようにして俺の腕を掴んだ。
彼女が息を呑む気配があった。
彼女の緊張はよく分かる――痛いほど分かる。
何しろ、ヘリアンサスがすぐ近くにいるのだ。
俺も息を止めていた。
あのとき、ヘリアンサスの制止を振り切って俺はあいつから離れた。
だからこそ――それが不問に処されるはずがない。
トゥイーディアとその周囲の人間の後ろから、俺の見慣れた姿が続いた。
カルディオスと、コリウスと、ディセントラだ。
仲間の姿をみて、俺は自分に残った最後の気力が根こそぎになるのを感じた。
それほどほっとした。
ディセントラとコリウスは、トゥイーディアの後ろ姿を、警戒と心配のありったけを籠めて見詰めている。
カルディオスは対照的に、ぐるりと周囲を見渡した。
そして、駅舎の隅っこで蹲る俺とアナベルを見付けてくれた。
俺と目が合って、カルディオスがほっとしたように顔を綻ばせる。
しかし直後に顔を強張らせたのは、同じくアナベルと目が合ったからか。
――カルディオスとアナベルも、もう随分長く口を利いていない。
俺からすれば遥か昔にも思えるが、ガルシア砦で、カルディオスは確かにアナベルに向かって許されない言葉を吐いた。
アナベルがどれだけの気持ちでシオンさんと別れたのかを考えれば、その軽重を踏み違えたあの言葉は、最悪といっていい一言だった。
――この二人は元に戻るだろうか。
ちら、と俺がアナベルを見遣ると、彼女は冷たい目を素早くカルディオスから逸らし、トゥイーディアの方を熱心に見詰めていた。
――アナベルとカルディオスの心配をする前に、俺は自分とトゥイーディアの心配をするべきだろう。
考えたくはないが、このあとトゥイーディアが武器を抜いて俺に詰め寄って来たとして、何ら不思議はないわけで――
そう思いながら眺め遣る先で、トゥイーディアは複数人に取り囲まれて、俺からは満足に姿を見ることも出来ない。
切れ切れに見えた彼女の表情には、特段の感情を窺うことが出来なかった。
無表情に近い、静かな表情。
――俺が彼女につけた傷は、まだ癒えていないはずだ。
まだ痛むだろうか。大丈夫だろうか。
汽車から下りて立ち止まり、トゥイーディアは自分を取り囲む人たちに、何かを話したようだった。
恐らくは、ここまでで大丈夫だからもう引き返すように、と頼んでいたに違いない。
トゥイーディアがそうしている間、ヘリアンサスは無関心そうに空を見上げて、鳥の影を目で追っていた。
護衛の人々が、戻れと言われれば喰い下がる任務でもなかったこともあり、従順にトゥイーディアに頭を下げた。
護衛の人が下がるに至って、すぐにディセントラが前に進み出て、トゥイーディアの腕を取る。
同時にヘリアンサスを、警戒心というにも有り余る敵愾心を以て見据えて、ヘリアンサスはわざとらしく肩を竦めて両手を上げ、大きく一歩、トゥイーディアから距離を取った。
カルディオスが、傍のコリウスにひとこと言い置いて、こちらへ走って来た。
こいつも喪服のままだ。
喪服をどこで調達したのかは知らないが、もしかしたら自分で創り出したのかも知れない。
カルディオスは、駅舎の古びた板木の床の上でへたり込む俺を上から下まで眺めて、「ぼろぼろだな」と評した。
言い返す言葉もなく俺は頷いて、息を吸い込み、「ありがとな」と。
「ん?」
首を傾げるカルディオスに、俺は言い添えた。
「死ぬところだった。助かった」
ああ、と呟いて、カルディオスは翡翠色の目を瞬かせる。
そして、顔を顰めた。
「イーディに言えよ、まったくおまえは」
それから、頓着なく俺に手を伸べてくれる。
俺はその手を取って、よろめきながら立ち上がった。
アナベルも、そのまま俺にくっ付いて、縋るようにして立ち上がる。
ふらついていたが、カルディオスの方は一瞥もしなかった。
カルディオスがアナベルの方を見て、大きく息を吸い込んだ。
だが、咄嗟に言葉が出ない様子だった。
その数秒のうちに、「あ」と声を漏らして、アナベルが前に身を乗り出す。
そのまま倒れそうだったので、俺は慌ててアナベルを支えた。
そのまま俺もよろめいたので、カルディオスが手を伸ばして俺を支えた。
凭れ掛かってみると、細身であってもカルディオスは逞しい。
「ありがと――」
言いながら、俺はアナベルの視線を追い掛けた。
トゥイーディアたちが、駅舎から出る方へと動き始めていた。
駅から町までの、山を切り拓いた長い階段を下りる道程は苦行ではあったが、別に追われているわけではないので精神的には楽だった。
俺たちの介助をしてくれたカルディオスの方が、よほどはらはらしていたように見える。
彼は何度もアナベルに声を掛けようとしていたが、アナベルがそれをなきものとして扱っていた。
それが、彼女がカルディオスを許す気がないゆえか、あるいは単純に疲れているだけなのか、それは俺には分からなかった。
途中で、カルディオスだけでは俺たちの介助は手に余ると判断したのか、コリウスがこちらに来てくれた。
コリウスとカルディオスがごく普通に言葉を交わしているのを見て、アナベルが少し訝しそうに眉を寄せていた。
コリウスはアナベルに肩を貸して、アナベルの不思議そうな薄紫の瞳に気付いて、ほんの少し苦笑したようだった。
そんなコリウスを見ながら、アナベル相手にはとんと言葉が見付からなかったらしいカルディオスが、呟くように尋ねた。
「――あっちは大丈夫?」
コリウスが、ちらりと前方の、俺たちに先んじて歩を進めるトゥイーディアたちを見遣った。
そして、頷いた。
「ああ、大丈夫だ」
護衛がいなくなり、俺たちの前を歩いているのは、トゥイーディアと、ヘリアンサスと、ディセントラだけだった。
――思えば、ずっと転生を繰り返してきた救世主六人が、近い距離に集まるのは久し振りのことだった。
俺は覚えず感慨に耽りそうになったが、それはそれとして、いつトゥイーディアがヘリアンサスを斬りに掛かるか、それを考えると心臓が喉元の辺りまでせり上がってくるようにも感じる。
とはいえ、トゥイーディアとヘリアンサスは距離を置いて、物静かに歩いていた。
トゥイーディアの足取りは、本当に常と変わりないもののように思われた。
少し疲れていることが分かるが――それだけだ。
ディセントラがトゥイーディアの傍にいて、二人が何か言葉を交わしている様子もあったが、声が小さくて聞き取れない。
「何のつもりで――」
カルディオスが小声で言った。
俺ではなくて、コリウスに向けての言葉だった。
「――イーディがあいつまで連れて戻って来たか、知ってる?」
あいつ、と示されたのがヘリアンサスであることは、言われずともよく分かる。
――俺はヘリアンサスの後ろ姿を眺める。
俺を見ても、あいつが何かする様子はなかったが、どうなんだろう。
俺があいつの気持ちや考えを分かっていた例はないのだ。
新雪の色の髪が、弱い風にそよそよと靡くのを眺めて、俺は恐怖心と罪悪感を一緒に、喉の奥に押し込んだ。
「いや、分からない」
コリウスは、どうやら素直に、そう応じた。
それからしばらく黙って、言い足した。
「――僕たちとはあまり顔を合わせていなかっただろう。むしろヘリアンサスと一緒にいた――立場からしても。
――何を考えているのか、よく分からない」
「おまえに分かんねーなら、俺には分かんねーな」
カルディオスが真顔で言って、コリウスが薄く笑った。
そうかもね、と小声で彼が呟くのが、俺の耳にも届いた。
ぴぃ――、と、長く引っ張るような鳥の声が聞こえる。
そのまま無言で長い階段を下って、俺たちはモールフォスへと辿り着いた。
――そして、驚倒した。
「お嬢さまがお帰りになったよ!」とどこかで声が上がり、それを合図に舞い散る紙吹雪。
晴れ空を埋め尽くさんばかりに紙吹雪があちこちの家の窓から投げられて、複雑な形に陽光を切り取る。
さすがに唖然とした様子で立ち尽くすトゥイーディアに、割れんばかりの歓声が降る。
「――おかえりなさい! おかえりなさい!」
通りに走り出てくる大勢の人たち。
俺もその場で棒立ちになったが、すかさずカルディオスに腕を引かれて、ひとあし先に町の中へ入るよう促される。
――下りてきたここは広場になっていて、身を隠すものは何もない。
だから、モールフォスの人々が俺に気付く前に、さっさと町中に紛れてしまおうという判断だろう。
俺は腕を引かれるままによろめき、俺とアナベルを引き離すわけにはいかないと考えたのか、コリウスも同じように続く。
――だが、どうやらモールフォスの人々は、俺たちのことは見ていなかった。
彼らが見たのは、歓迎したのは、リリタリスの令嬢であるトゥイーディアただ一人だった。
通りに走り出てきた大勢のうち、先陣を切った幾人かが、勢いよくトゥイーディアに抱き着いた。
ヘリアンサスが、若干鬱陶しそうに距離を置いたのが分かる。
棒立ちになり、されるがままに抱き締められながら、トゥイーディアが呆気にとられて飴色の瞳を瞬かせるのを、振り返った俺は形成されつつある人混み越しに見た。
トゥイーディアの唇が動いた。「なんで?」と彼女が呟いたのが、俺には分かった。
「いつお帰りになるのかと――!」
トゥイーディアに抱き着いた人が、ふっくりとした輪郭の優しそうな女性だったが、トゥイーディアから両腕分の距離をとってそう言って、にっこりと微笑んだ。
女性の両目に涙が浮かんでいた。
「ずっと準備して、お待ちしてたんですよ」
「準備――」
ぽかん、とそう繰り返して、トゥイーディアが睫毛を瞬かせる。
首を傾げる。
それから、混乱のあまりか、ふと気付いたように女性の手を握って、唐突に言った。
「――いつも菫の砂糖漬けをありがとうございました」
「何をおっしゃる。――お嬢さま、疲れてらっしゃるのね」
女性がそう言って、笑窪を浮かべた。
涙がぽろっと零れた。
「よくお帰りになられました」
それから、彼女が一歩下がる。
トゥイーディアが瞬きを繰り返して、戸惑ったように視線を彷徨わせる。
トゥイーディアに握られていた手をそっと取り返して、女性がその場で深々と頭を下げた。
そのときばかりは一瞬、歓声に穴が開いたように辺りが静まり返った。
「――リリタリス閣下、万歳」
女性が、震える声でそう言った。
トゥイーディアが大きく目を瞠った。
直後に同じ言葉が連呼される。
続々と集まる町の人々が、口々に同じ言葉を叫んでいる。
どの顔も泣き笑っている。
「リリタリス閣下万歳! 万歳!」
空を揺らさんばかりに歓声が響き渡る。
誰かがどこかの家の窓から新聞を投げたらしい、ばさりと広がる紙面がちらりと俺の目に映った――『救世主、魔王ヲ狩ル』、『魔王ノ偽計明ラカト為ル』。
紙吹雪が舞っている。
カルディオスに腕を引かれて町中に入った俺の頭に肩に、ひらひらと舞った紙吹雪が乗る。
――遂に汚名を雪いだリリタリス卿の凱旋を、モールフォスの人々が声を限りに祝っている。
「――リリタリス閣下の凱帰、心より――お慶び申し上げます!」
◆◆◆
それからは目が回るような騒ぎになったが、俺は早々にその場を離れた。
何しろ見付かれば話がややこしくなる。
いきおい、傍にいたカルディオスとコリウス、それからアナベルも俺と一緒にその場を離れることになるが、そこにディセントラも加わった。
「トゥイーディアとヘリアンサスを二人にしたのか?」
と、責めるように言ったのはコリウスだったが、ディセントラに若干の逆上の気さえある語調で、
「先に戻ってって言われたのよ。私に、あれを引っ張って来いって言うの?」
と言い返されて、即座に黙り込んでいた。
その遣り取りは、店主一家がトゥイーディア帰還の報を聞いて飛び出したからだろうが、無人になったミドーの親父さんの貸馬車屋でのことだった。
ここからティシアハウスまでは馬車で半時間。
これから俺たちがどうなるにせよ、せめて少しは話し合うことが必要だろうが、落ち着いて話し合うことが出来るとすれば、それはもうトゥイーディアの生家しか心当たりはない。
ルインが飛び出して来ないところを見るに、あいつもあの屋敷へ戻ったとみるのが妥当だ。
――が、ディセントラやカルディオス、コリウスはともかくとして、俺とアナベルはとてもではないがティシアハウスまでは歩けない。
コリウスに魔法で運んでもらう手もあるが、コリウスが俺たちを乗っけるに足る、妥当な道具も見当たらない。
――と、いうわけで、馬車を拝借することにした。
コリウスがさらっと紙幣数枚を店内に置き、カルディオスと二人して、さっさと馬を出して馬車の支度をしてくれる。
カルディオスが小声で、「いつもの親父さんじゃなくてびっくりすると思うけど、頼むな」と馬に声を掛けているのが、こいつらしくて微笑ましい。
アナベルはディセントラに凭れ掛かってその様子を見ていた。
ディセントラは、アナベルの薄青い髪に絡まっていた紙吹雪の欠片を取ってやりつつ、「無事で良かった」と頻りに呟いている。
俺は立っているのもしんどくなってきて、地面の上に座り込んでおり、いざ馬車の支度が出来たときも、カルディオスに手を貸してもらってようやく立ち上がれたほどだった。
よろよろと馬車に乗り込んだところで、「しばらくあたしのことは放っておいて、寝てれば?」と、他ならぬアナベルから提案された程である。
ディセントラも心配そうに俺の顔を覗き込んできてくれて、眩暈のために視界も定かではなかった俺は、ずっとアナベルに掛け続けていた治癒の魔法を一時打ち切って、お言葉に甘えて脱力することにした。
――そして、体感ではその直後、身体を揺らされて俺は目を覚ました。
というか、正確には、目を覚まそうとして唸った。
「……もう着いたけど」
と、控えめなディセントラの声が聞こえる。
嘘だろ、自分がいつ眠り込んだかの記憶もなければ、時間の経過の感覚もない。
目が開かない。
瞼が膠で引っ付いたみたいだ。
泥沼じみた眠りの方に、俺の意識が傾いたところで思い出した。
――アナベル。
「アナベルはっ!?」
思わず叫んで、がばっと身を起こす。
その拍子に座席から転がり落ちそうになった俺の頭の上から、びっくりした様子のアナベル本人の声。
「――あたしは大丈夫だけど……」
混乱しながら頭を振って、起き抜けに眩む視界の中でアナベルを認め、俺は思いっ切り安堵の溜息を吐いた。
良かった――ここで、俺が眠り込んでいたせいでアナベルの体調がおかしいなんてことになったら、俺はトゥイーディアに顔向けが出来ない。
御者を務めてくれていたのはカルディオスらしく、彼はそのまま、ティシアハウスの正面に馬車を停めて馬を繋いだ。
俺が馬車から下りて、足許も覚束なくふらふらしている間に、コリウスがティシアハウスの正面玄関のノッカーを叩く。
「……閉め出されたらどうしましょうね」
ディセントラがそう呟いたところで、勢いよく扉が開いた。
「――お嬢さん! おかえりなさ……」
扉を開けたのはケットだった。
相変わらず青いつなぎを着ていて、喜色満面に飛び出してきて、そしてそこでがくっと脱力する。
扉を叩いたコリウスは真顔のままで、「トゥイーディアでなくて申し訳ない」と。
そこで少々身構える風情をみせたのは、ケットの俺たちに対する心象のゆえに、このまま叩き出されることも有り得ると考えたからか。
が、大方の予想に反して、ケットはがっかりした様子でこそあったものの、すぐに――気乗りしない様子ではあったが――、コリウスをはじめ、俺たちを中に招き入れる素振りを見せた。
そのことにむしろ虚を突かれた様子で、コリウスが濃紫の目を細める。
「――押し掛けておいてなんですが、――よろしいんですか」
「ああ、まあ、はい」
と、ケットは顔を顰めながら応じた。
扉を押さえて、さっさと入れとばかりの表情だが、さすがにそれを口には出さない。
「大体の話は聞きましたし、――まあ、お嬢さんのお沙汰に任せるということで、お嬢さんを待ちます」
「話を聞いた?」
コリウスが眉を寄せる。
「誰から――」
俺は我慢ならなくなって足を踏み出し、若干よろめきながらも、半ばコリウスを押し退けるようにして、ティシアハウスの中を覗き込んだ。
外の陽光の中にいたあとだから、建物の中は薄暗く見える。
この扉があるのと同じ壁に開かれた窓から燦々と陽光が差し込んではいるが、その他は全く影の中だ。
二重になった玄関扉の向こうには広間があり、今しもその広間の手前側、クロスの掛かった円卓の椅子から、がたっと音を立てて立ち上がった人影があった。
「――兄さんっ!!」
ルインだ。
俺は泣きそうになったが、根性で堪えた。
少なくとも、レイモンドやチャールズは俺の前でみっともなく泣いたことなんかない。
こちらに向かってすっ飛んでくるルインを迎えるべく、俺も広間へ足を踏み入れる。
勢いよく抱き着かれたら、さすがに後ろに引っ繰り返るかも知れないな、と思ったが、駆け寄ってきたルインはちゃんと、俺の手前三フィート辺りで減速して、むしろ俺を支えるような感じてぎゅうっと抱き締めてくれた。
兄さん、と、もういちど呼ばれたが、そのあとが言葉になっていない。
しゃくり上げるルインの肩をぽんぽんと叩いて、俺は広間を見渡した。
メリアさんやオーディー、あとジョーも、この広間にいるみたいだった。
広間の奥か、あるいはマントルピースの傍のソファに座っている。
その殆ど全員が、唐突なルインの号泣に度肝を抜かれた様子ではあったが、もうなんかどうもでも良かった。
ルインはちゃんと温かい。
生きていてくれて本当に良かった。
こいつに何かあったら――本当に取り返しがつかなかった。
――前以て、俺たちがここへ戻ってくることをケットたちに伝えていてくれたとすれば、併せて事のあらましも伝えていてくれたとすれば、それはルインしか有り得なかった。
「ルイン、大丈夫か」
やっとのことでそう尋ねて、俺はルインの肩を掴んで顔を上げるように促す。
「怪我とか――具合は」
「に――兄さんが、」
ルインがようやく応じてくれて顔を上げたが、俺ですらちょっと笑いそうになるくらいに、顔が涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「兄さんが、」
「落ち着け」
言って、俺はレイモンドがよくしてくれていたように、ルインの灰色の頭をぽんぽんと叩いた。
ついでに、袖口でルインの顔を拭ってやる。
「俺は大丈夫だよ。――おまえ、具合は? あと、おまえに乱暴したやつの顔覚えてる?」
「なに物騒なこと言ってるのよ」
広間に入って来ながら、ディセントラが呆れた様子でそう言った。
俺は若干むっとする。
「弟がやられてんだから、俺が殴り返したっていいだろ」
「駄目だってば」
背後で、大きな玄関扉が閉じる音が聞こえた。
ケットが俺たちの傍を擦り抜けるように広間の中に戻りつつ、ドン引きした様子でルインを見遣って、俺は結構腹が立った。
このやろう俺の弟を。
――だが、いや待てケットはトゥイーディアの大事な人間。
泣き止まないルインの手を掴んで、まじまじと見る。
手首に内出血がある。
考えるまでもなく、手枷の名残だ。
治さねば、と思ったところで、するっとルインの手が俺の手の中から抜かれた。
「あっ、おい」
「兄さん、いま、治そうとなさいました?」
ルインが目を見開いて俺を凝視している。
柘榴色の目に、涙がいっぱいに溜まっている。
俺は瞬きした。
「そりゃ、おまえが痛いから」
そして、答えた途端にまたもどばっと溢れるルインの涙に、少なからずたじろいだ。
「え、おい、ルイン?」
「駄目です……」
ぼたぼたと涙を零し、それを自分の袖口で拭いながら、ルインが鼻声で言った。
「そんな、――そんなお疲れになっていて、兄さん、何を考えていらっしゃるんですか……」
返す言葉もなく俺は絶句したが、すぐに気を取り直して息を吸い込んだ。
「――分かった。じゃあ、後でな」
「兄さんが良くなってからです……」
涙声でそう言われ、俺は曖昧に喉の奥で言葉を潰してから、今度は俺の方からルインを抱き締めた。
「――無茶な頼み事して、本当に悪かった」
ルインが、びっくりしたように肩を揺らした。
「ほんとに、よくやってくれた。――ありがとう」
息を吸い込んで、俺は目を閉じる。
「――おまえが無事で、本当に良かった」
「――――」
一瞬の沈黙のあとで、ぎゅう、と、ルインの方から抱き締め返してくれる感触があった。
「兄さんが……」
また涙声だ。
大丈夫かこいつ、涙のせいで乾涸びたりしないか、などと半ば真面目に考えつつも、この忠犬っぷりも懐かしい。
「兄さんが、死んでしまうんじゃないかと――」
「なに言ってる、俺は大丈夫だよ」
衒いなくそう言って、俺は微笑んだ。
ヘリアンサスのことが頭を過ったが、自然とそう言っていた。
――かつてのレイモンドの気持ちがよく分かった。
「大丈夫だって、ルイン。俺はおまえの兄貴だぞ」
兄さんはせめて座っていてください、と言われて、俺は円卓の傍の椅子に座り込んだ。
座ると同時に体重が三倍にもなったように感じる。
眩暈がしたが、弟の手前、俺は強がって顔を上げていた。
広間にいる人たちからの視線が痛いのは、俺に「魔王である」という疑惑があるからだろう。
さすがに、魔王の風貌の細かい点は新聞にも載らなかったはずだが、最大の特徴である「漆黒の髪」に、俺はこれ以上なく当て嵌まる。
黒髪というならばそれこそ、リリタリス卿の髪も黒かったが、俺の黒髪はあの人の比ではなく色が深い。
一方のアナベルは、問答無用で「きちんと食べて、休んで」ということで、上階に連れられていった。
同時にジョーが厨房に向かった様子だったから、ようやくアナベルがまともな休養と療養食にありつけることになる。
ひとまず、俺はそれにほっとした。
カルディオスとディセントラとコリウスは、玄関のすぐ傍に立ったまま、何かを話し合っているようだった。
恐らくは、借りて来た馬車を誰が町まで戻すかということだろう。
カルディオスが軽く手を挙げて、それをコリウスが手を振って却下している。
確かに、カルディオスが馬車を持ち主に返還したとて、そこからこちらへ戻るのに足が要るわけで、そうなると適任なのはコリウスだ。
コリウスがそれを、懇々とカルディオスに言い聞かせているような様子がある。
そのとき、ドアノッカーが鳴らされた。
俺はびくっとしたが、ルインが不安そうな顔をしたので、すぐに表情を取り繕った――とはいえ完璧だった自信はない。
玄関傍の三人が、同時にぎょっとした様子で足を引く。
取りも直さず、それは咄嗟に、扉の外にヘリアンサスがいることを考えたためだろうが――
「――お嬢さま」
メリアさんがソファから立ち上がり、そのときにはもうケットが、突進の勢いで玄関に向かっていた。
三人の救世主の間に突っ込むようにして、玄関扉を勢いよく引き開ける。
「お嬢さん、おかえりなさいっ!」
そして、その直後に全身を強張らせた。
扉の外には確かに、喪服姿のトゥイーディアが佇んでいた。
半ば結い上げた蜂蜜色の髪が、喪服の肩に掛かって緩く波打っている。
飴色の双眸を細めて、眩しそうにケットを迎えていて、その表情にはほっとした安堵の色もあったがそれ以上に疲労が窺えた。
そしてその肩越しに、彼女がここまで戻って来るのに頼んだのだろう――ミドーの親父さんの姿と、馬車が見える。
そして、同時に、トゥイーディアの半歩後ろに立つ、白髪金眼のヘリアンサスも。
愕然とした様子で言葉を失ったケットを見詰めて、それから彼の肩越しに広間の俺たちへ視線を移して、トゥイーディアが微笑んだ。
淡い表情だったが確かに微笑だった。
不自然なまでに、傍にいるヘリアンサスのことを気にした様子がなかった。
だが同時に、薄氷を踏むような危うげな雰囲気もあった。
そして、トゥイーディアが呟いた。
いつもよりも低く、掠れた声だったが、俺の好きな、彼女の独特の柔らかさのある口調だった。
「――ただいま」




