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輪番制で救世主を担当してきたのに、今回の俺は魔王らしい  作者: 陶花ゆうの
6 おまえはとっくに忘れたんだろうけど
385/464

89◇ 千年の恋





1/2










 処刑場のどよめきは困惑の色を濃くしている。


 現れた救世主が、リリタリス卿の令嬢が、そのまま踵を返そうとしているのだからなおのこと。



 しかしそれでも、血塗れの正装を纏うご令嬢に、誰もが声を掛けられないままでいる。


 絞首台の上では衛兵たちが当惑して目を見交わしている。


 ルドベキアも動かない。

 顔を上げて、背中を向けつつあるご令嬢を、無言でじっと見詰めている。


 その眼差しの平坦さの意味を、この世でおれだけが知っている。



 女王が、堪りかねた様子で半歩前に出た。


「――イーディ」


 彼女が声を上げた。

 その声がどよめきに呑まれて消えていく。


 銀髪が、咄嗟のように女王の腕を掴んだが、それもすぐに離した。


「イーディ!」


 女王が悲鳴のような声を上げる。

 ざわめきがその声を呑んでいく。


 ご令嬢の姿は、もうおれから見ても、半ば以上が群衆の奥に隠れていた。


 蜂蜜色の髪が影に翻り、揺れる。


 カルディオスが前に出た。

 人にぶつかりながらも、ご令嬢を追い掛けようとしている。


 カルディオスにぶつかられた人間が舌打ちして罵声を漏らす。

 しかしおれは、そういう人間の息の根を止めている余裕すらない。


 ご令嬢の足を止めさせることは、その行為の難易でいえば、おれには容易いことであるのに――無理に彼女に足を止めさせても何の意味もないということが分かってしまう。


 ルドベキアがこの茶番の舞台から下りるには、ご令嬢が彼女自身の意思で足を止めることが必要であると分かってしまう。


 ――だから、だから……


「……ここに来て……」



 カルディオスもまた、自分に雑言を向ける人間を一瞥もせず、建物の中に消えようとするご令嬢の背中を見て、殆ど怒鳴るようにして叫んでいた。


「――待って!」



 おれはご令嬢の後ろ姿を、もう殆ど見えないほどに人波の影に隠れたその後ろ姿を見ている。


 おれの心臓に火が点いていた。

 おれが心臓を得てから、こんなことは初めてだった。



 おれの目の前で、妙に緩慢に光景が流れ――



 ――ご令嬢が、はっとしたように足を止めて、立ち竦んだ。



 カルディオスの声が聞こえたわけではないはずだ、カルディオスの声は群衆のどよめきに呑まれていた。


 カルディオスもまた、何かに躓いたように唐突に、足を止めた。



 何を見たのかは明らかだ。


 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()



 いや、違う。

 ()()だ。



 ――しずしずと、音の無い大波が壁として打ち寄せてくるかのように唐突に、白濁した霧が広場の方からこの中庭へ、光景を呑み込みながら迫りつつあった。



 それが霧と分かっていてさえ、おれは僅かながらに自分の感情が逆撫でされるのを感じた。



 ――見事だ。

 見事だ、本当に。


 ()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()



 白濁した巨大な霧が、それこそ巨大な獣が大きくあぎとを開いているかの如くの像を象って、滑るようにこの建物に迫っている。




 陽光を呑み、薄闇を押し延べて、濃霧が白漆喰の建物を呑み込もうとしている。


 ――さながら巨大な怪物が口を開けて、供物を呑み込もうとするかのように。


 この時代の人間が、これを見て何を想起するかなど目に見えている。

 ――レヴナントだ。


 すぐにそうではないと気付くだろうが、その一瞬未満の人間の恐怖――目の前に()()がいれば、なおのこと。



 ――弾けるような悲鳴が上がった。



 魔王だ、と声が上がる。

 魔王が何かした、と、甲高い悲鳴が上がって、潮が引くように人波が動く。


 今度は外へ――中庭の外、建物の外へ、人が殺到していく。

 後ろから押された人間が、あちこちで何人も転び、背中を踏まれて断末魔の声を上げている。


 数百人が一斉に走って地面が揺れる。



 巨大な獣の如き霧に怯えたのならば、霧に突っ込むよりも反対側へ逃げるはずだ。

 しかし、そうはならないということから――明らかだった。


 彼らはこの異常を、絞首台の魔王の所以のものだと判断したのだ。


 ()()()、度を失うほどに怯えたのだ。



 おれの背中にも何人もの人間がぶつかる。

 石榑いしくれが足にぶつかる程にも気にならない。

 おれはご令嬢から目を逸らせない。


 ご令嬢もまた、外へ外へと殺到する人波のためによろめき、ふらつき、しかし茫然とした様子でその場で立ち尽くしている。

 彼らを落ち着かせようとするかのように、何か言おうとしているのは見えた――だが、それすら言葉に迷った様子だった。


 絞首台の上で、仰々しい格好の老人が逃げ出そうと慌てふためき、そして衣裳の裾を踏んで転んだのが見えた。

 どす、と絞首台が揺れ、この事態に、さすがに度肝を抜かれた様子であったルドベキアが首を竦めている。


 一方で、なおこの場に留まる人間もいる。

 あるいは転んで立ち上がれず、喚くような悲鳴を上げる人間もいる。


 水を溜めた容器の栓を抜いたかのように、中庭から一気に人間が減りつつあった。


 今や、中庭の中に留まる人間は百人を数えるか否かと言ったところ。

 地面に点々と、脱げた靴や帽子、肩から外れたストールが落ちている。踏まれたそれらが悉く薄汚れ、ひしゃげている。

 逃げ出すべきか留まるべきか、迷うようにうろうろと動き回る人間もいる。


 罵声と怒声が飛び交う。

 耳が痛む。



 衛兵が上擦った声を上げる。

 彼らからしてみれば、ここに居た人間はそれら一人一人が死刑の執行人であったはずだった。


 その大半が減ずる事態に動揺し、慌てたように、「止めろ!」と指示する声が上がる。


 応じて、建物の入口で衛兵が立ちはだかったらしい――逃げ遅れ、建物の中に閉じ込められたも同然の人間たちが、口々に恐怖に喚き始めた。


 衛兵が斜交いに構える槍の隙間から、無理やりに身体を捻じ込んで、外へ脱出しようとする者まで見られる。


 あるいは窓へ殺到する人間たち。

 窓へ鈴生りになったかと思えばその外へ落ち、悲鳴を上げている。



 ご令嬢が、動揺も露わにその場で蹈鞴を踏む。

 何かを言おうとして呑み込み、どうすればいいのか分からないといった様子で立ち竦んでいる。


 だがそれは、カルディオスたちも同様だった――



「――嘘でしょ……」


 女王が呟く。

 表情が目まぐるしく変わる。期待、困惑、歓喜、疑念。


 絞首台の上のルドベキアですら、このときばかりは驚きを顔に出していた。


 ――そうだ、分かるはずだ、()()()()()()()()()()()



「……アナベル」












 建物の外へ殺到しようとする人波を、必死に押し留める衛兵。

 中には窓から、転がり落ちるようにして脱出していく人間もいたものの、大半の人間は視野狭窄を起こして建物の出入口に殺到している。


 その衛兵の後ろから、彼らが構える槍の間に無理やりに身体を捻じ込んで、――ぎょっとするように彼女を見下ろす衛兵には気付きもしない様子で――悲鳴と共に殺到する人間たちを掻き分けて、恐らく途中で数度転んで、ふらつきながらも足を止めず、あの青髪の子が――スクローザ夫人が、浅い呼吸を激しく繰り返しながら、この建物の中へと駆け込んで来ていた。


 髪が乱れていて、彼女はまるで、暴風の中を必死に泳いできたようにも見えた。



 おれが思っていたよりも、彼女はこの近くに居たらしい。

 そうでなければ、目が覚めてからこうも素早く、ここまで駆け付けて来ることは出来ないだろう。



 青髪の子は素足だった。

 眠っていたのだから、当然そのはずだ。

 その素足が傷だらけになって血を流している。


 紫丁香花(ライラック)色のワンピースを着ていて、それは随分と皺くちゃになっていた。

 途中で転んだからか、膝の辺りに黒い汚れが付いている。


 転んだ拍子に手を突いたのか、掌にも傷があるようだった。


 走っては転び、ふらつきながら立ち上がり、また前へ進んでは足に力が入らない様子で転ぶ、――救世主の一人。



 出入口に殺到していく人間はそれどころではなかったようだが、中庭に留まっていた人間は、あるいは衛兵は、駆け込んできた彼女を、驚きに留まらない猜疑の眼差しで見ていた。


 中庭で、本来ならば人間たちが不用意に絞首台に近寄り過ぎないよう制止する役割を持っていたはずの衛兵が、大声を上げて、群衆の頭越しに彼女を指差した。

 誰何している。


 中庭に残っていた百数十人もまた、魔王の縁者が現れたのではないかと疑うように、建物の中に駆け込んだ彼女を振り返っていた。


 全員が浮足立っている。



 ご令嬢が、よろめくように後退った。

 青髪の子が唐突に目の前に現れて、何が起こったのかが分からなくなったようだった。


 茫然と後退り、(まろ)ぶように中庭まで下りて、なお後退る。


 その様子に、中庭に残っている群衆が口々に何かを叫ぶ。

 責める声――叱咤する声――しかしそれら全部が、ご令嬢の耳にはまるで届いていない。


 ご令嬢はひたすらに青髪の子を凝視したまま、怯み、追い詰められたように表情を強張らせている。


 両手が半端に上げられていた。

 何かを呟いていたようだが聞き取れない。



「――殺せ!」


 声が上がった。


 その声に反応を示したのは銀髪と、あの灰色の髪の人間だけだった。


 誰かが、耳障りな声で絶叫している。


「殺せ! 魔王の縁者が来たんだ!

 早く――魔王を――殺してしまえ!!」


 その罵声を皮切りに、中庭に残った百余人が、口々に叫び声を上げ始めた。

 ――殺してしまえ。救世主は何をしている。魔王を早く。殺せ。絞首だ。殺せ、殺せ、殺せ――



 まるで、その罵声に横面を叩かれたかのように、絞首台の上の衛兵たちがあたふたと槍を構え直す――



 おれの胸が潰れたように、変に息が詰まった。



 濃霧が晴れていく。


 徐々に薄くなる霧は、青髪の子が昏睡のために、魔法を維持する体力すらも尽かそうとしていることを示していた。


 霧に呑み込まれていた陽光が戻る。


 陽光の一片が、今は中庭にも差し込んでいた。

 衛兵の持つ槍の穂先が陽光を捉え、白く眩しく煌めいている。



「……アナベル――?」


 ご令嬢は度を失っている。


 いっそ、ここにいる青髪の子を幻影か何かだと疑っている風情すらあった。

 そんな強張った表情で、周囲で飛び交う怒声など耳に入っていない様子で、愕然と青髪の子の様子を飴色の瞳に映している。



 青髪の子は、ふらつきながら、今にも転びそうな歩調で、それでも真っ直ぐにご令嬢を目指して進んでいた。

 彼女が進むその傍にいた人間たちが、飛び退るように距離を置いた。

 凝然と目を見開いて自分の姿を目で追う人間たちのことを、青髪の子は気付いてもいない様子で無視していた。

 少し足を引き摺っている。


 ご令嬢は、そしてカルディオスたちも、その様子を息を呑んで見詰めている――



 おれは呼吸を止めている。

 視界が震えるが、それが何のためなのか分からない。



 青髪の子が、殆ど倒れ込むようにして、ご令嬢の傍に辿り着いた。


 ご令嬢は、咄嗟の動きでそれを支えた。

 二人はぎこちなく抱き合っているように見えた。


「怪我……」


 ご令嬢が、微かな声でそう呟いた。

 それ以上の言葉が見当たらないようだった。



 周囲では怒声が渦を巻いている。

 何人かは武器を振り翳していた。

 ――殺せ。魔王の縁者だ。魔王を先に。殺してしまえ。殺してしまえ――



 おれはルドベキアを振り仰ぐ。

 妙に目が滑ったが、人垣の頭越しにその様子が見える。


 絞首台の上の衛兵たちが、盛んに何かを言い交わしている。

 救世主であるご令嬢が目の前にいる以上、このまま死刑を執行していいものか迷っている――そしてそのうえ、死刑の執行人となるはずだった群衆の、六割近くが外へ出ようとして阿鼻叫喚の様相となっているのだ。


 この場の判断が衛兵の手に余り、指示を仰ごうとしていることが分かった。



 ――だが、駄目なのだ。

 それでは駄目だ。


 ルドベキアは本当に弱い――誰かが、何かの間違いで槍を動かすだけで死んでしまう。



 青髪の子へ目を戻す。

 彼女がご令嬢を許し、それからご令嬢がルドベキアのために動いてくれなくては、ルドベキアがこの茶番の舞台から下りてくれない。


 はたしてそれまで、ルドベキアがちゃんと自分の命を抱えていられるのかが分からなくて、おれの心臓がおれを急かすように脈打っている。


 視界が震えて定まらないので、強く瞬きをする。


 青髪の子は浅い呼吸を繰り返して喘いでいる。

 蒼白な顔面に脂汗が浮いていた。


 ご令嬢はそれを支え、困惑と当惑のありったけを、そして僅かばかりの恐怖すらある表情で青髪の子の顔を覗き込んでおり――



 二人には、周囲の怒声は聞こえていないようだった。



 青髪の子が、喘ぎながら顔を上げた。


 薄紫の双眸と、ご令嬢の飴色の双眸がかちりと噛み合った。


 ご令嬢の瞳は震えていた。



 青髪の子が口を開いた。

 唇が震えていて、彼女は軽く咳き込んだ。


 そして息を吸って、



 おれの心臓がその瞬間に、拍動と拍動の間を奇妙に空けて――その鼓動の空いた隙間に滑り込むようにして、青髪の子が――



「――もう、いい」



 掠れた声で、そう言った。



 彼女の薄紫の双眸が、ご令嬢の肩越しに――絞首台の上で膝を突き槍を突き付けられている――ルドベキアを捉えた。


 ルドベキアも、目を瞠って彼女を見ていた。


 青髪の子の瞳が揺れる。

 その目がご令嬢に戻って、彼女は低く、掠れた声で、ゆっくりと――


「もう、いいから」


 呟いて、その仕草にすら相当の苦労を要していることが分かる、つらそうな動きで片手を上げて、指先でご令嬢の頬を撫でた。

 あるいは叩こうとしたのかも知れない。



 彼女の表情が変な風に歪んだ。



「もう――」


 咳き込み、息を吐き、また息を吸い込んで、青髪の子は言った。

 低い、掠れた声だった。


 おれには意味が分からない言葉だった――だが非常に苦労してその言葉を吐いたようで、それゆえにその言葉が重かった。

 価値のある言葉なのだと分かった。



「――あなたの足許を千年支えてきた気持ちを、あたしのために落とさなくていい」



「――――」


 ご令嬢が、大きく目を見開いた。

 一瞬、彼女はそのまま凍り付いたように見えた。


 だが徐々に、溶けるように唇が震え――ご令嬢の顔が歪んだ。



 そして、おれが初めて見る出来事が起こった。



 ――ご令嬢の双眸から、()()()()()が溢れていた。



 今の青髪の子の言葉が許しだったのか弾劾だったのか、それすらおれには分からない。

 だがご令嬢には分かったのだ。


 分かったからこそ、感情が動いたのだ。



 彼女が泣き崩れた。


 立っていられない様子でその場に座り込み、青髪の子の両手を握って、悲鳴のような嗚咽を漏らした。


 今まで、誰が死のうと涙のひとつぶも見せたことがないはずのご令嬢が、今や大粒の涙を零して泣き叫んでいた。


「――ごめんなさい……」


 ご令嬢が、絞り出すようにそう言っていた。


 青髪の子も、もう立っていられないようだった――ご令嬢に引き摺られるようにその場に座り込み、自分の手を握るご令嬢の手背に頬擦りして、何度も何度も頷いた。


「ごめんなさい、本当に――」


 ご令嬢が絶叫している。


 周囲の人間のことも、おれのことも、このときばかりは見えていないことは明らかだった。


 ぼろぼろと頬を滑る大粒の涙が、次々に地面に落ちていく。

 落ちる涙が石畳に染みを作る。



「――きみを帰せなかった。

 きみに全部を諦めさせて、――きみを家に帰せなかった。

 本当に……本当に――」



「もういい」


 青髪の子が繰り返した。

 淡々とした口調だったが唇が震えていた。



「もういいの。

 ――あなたがそう思ってることは、もうじゅうぶんに分かったから」



 しゃくり上げるご令嬢の両手の中からそっと自分の手を引き抜いて、青髪の子が躊躇いがちにご令嬢を抱き締めた。


 それから目を上げて、おれを見た。



 初めて見る相手のように、訝しげにおれを見た。



 ――おれが彼女の目を覚まそうとして押し付けた情報の、どれほどを彼女が拾ったのかは分からない。

 多くは拾わなかったのではないかと思った。

 そういう眼差しだった。

 無理解と疑念ばかりが募った、怪訝の目だった。



 おれは息を吸い込んで、一歩前に出た。


 それを引き留めるように誰かが手を伸ばしたが、それには頓着しなかった。


 声を掛けようと思った。

 ご令嬢が泣いているばかりでは、ルドベキアを載せたこの舞台が、おれが許せないような方向へ舵を切ってしまうこともあると思ったから。


 ご令嬢が両手で顔を覆って泣いている――おれが一歩踏み出したことを見て取って、青髪の子が、咄嗟のようにご令嬢を庇う仕草をする。

 その仕草ですら覚束ないほどに弱っているのに。


 とはいえ、青髪の子の仕草にはっとしたように顔を上げて、()()()()()()()()()


 泣き濡れた飴色の双眸が、火の点ったようなその双眸が、灼けつくような激烈さでおれを見た。



 彼女のお父さんの(かたき)である、おれを真っ直ぐに見据えた。



 その瞬間の彼女の眼差しを、何と言おう――嫌悪を煮詰めたようなその瞳。

 憎悪と憤恨の限りを尽くすようなその視線。


 感情に従って視線が質量を得るならば、どれだけ鋭く重い刃になっただろうかと思えるほどの。

 これほどの熱のある瞳にあって、どうして涙が乾き切ってしまわないのかを、心底不思議に思うほどの――



 おれは足を止めた。


 ご令嬢と目を合わせて、どうしてあのとき、ルドベキアがああも必死になっておれをご令嬢から庇ったのかを、ようやく理解した。



 ご令嬢はおれを殺すだろう。

 完膚なきまでに壊し、消し去るだろう。


 そうでもしない限り、彼女が今より先に心を向けることはないだろう。


 ――一度や二度、斬られてやった程度では、到底おれを許せまい。

 言葉の上でも許せまい。


 青髪の子の許しを得てルドベキアを助けるために動いてくれるとしても、ご令嬢は、その前にまずはおれを斬るだろう。


 おれがルドベキアの無事を喜ぶならば、おれが喜ぶ前におれを消滅させるだろう。



 絶対に――如何なる正の感情もおれには許すまい。



 ――そう分かった。


 ルドベキアには一目でそれが分かっていたのだ。

 だからおれをご令嬢から庇ったのだ。



 おれは息を吸い込んだ。

 なお一歩進んだ。


 ご令嬢が青髪の子の腕を半ば振り払い、左の手指に嵌めた指輪に手を掛けた――



 このとき、絞首台の上にいたルドベキアがどんな顔をしたのかを、おれは知らない。


 ご令嬢を案ずることが出来ないゆえに、おれを精一杯に案じただろう息子の顔を、おれは知らない。



 ご令嬢が半ば立ち上がった。


 その熾烈な飴色の双眸の中に、おれはおれ自身の、平然とした真顔を見た。

 ――おれは人間ではないから、こんなときですら表情に乏しい――


「――ご令嬢」


 おれは呟いた。

 だがご令嬢には聞こえなかったのではないかと思う。


 ご令嬢は、己の血潮の音しか聞こえていないような顔をしていた。

 指輪は既に彼女の左手指の半ばまで抜かれていた――



「……きみたちは、おれから空を奪って栄えたけれど、」



 呟く。

 述懐というより感想だった。

 声は奇妙に空虚に響いた。



「おれは多分、おれがされたのと同じ程度のことを、きみにはしたんだな」



 ――それこそ、彼女の頭上から空を奪うほどのことを。



 周囲の人間はまだ怒声を上げている。


 おれは左手を持ち上げた。

 しゃらん、と、耳に馴染んだ音がする。


 これはルドベキアがおれにくれた空が鳴る音だ。



 そして、その手を振り下ろした。





 ――がちん、と、時間に錠を下ろす、音のない轟音が響き渡った。





 周囲が浅縹の色合いに染まる。


 全ての音が無に還る。

 水を打ったようなといってもまだ甘い――万物一切が息を止めたような静寂。


 周辺一帯の時間が停まる。


 これはルドベキアの魔法だ。

 ルドベキアが絶対法に開けた穴を、おれが使っている。


 この魔法の外に残したのは、ご令嬢と、青髪の子と、カルディオスと――あとはおれの傍にいた救世主の二人も含めたか。

 それは定かではない。そして重要ではない。


 おれはルドベキアほどにはこの魔法のことを知らないから、ご令嬢が今、どういう視界を見ているのかは分からない。

 だが、然したる動揺はその瞳に浮かばなかった。



 歯を食いしばり――ご令嬢は今や、完全に青髪の子の手を振り払って立ち上がっていた。



 青髪の子は支えを失って、座り込んでいるにも関わらずその場でよろめいた。

 彼女が反射的に地面に手を突き、その拍子に傷が痛んだのか顔を顰める。

 おれの後ろから女王が走り出て――と、いうことは、おれは女王のことはルドベキアの魔法の範囲の外に置いていたのだ――、青髪の子の傍に跪き、彼女を抱き締めるようにして支えた。

 青髪の子の手や足の傷を見て、女王が顔を歪めた。


 そして青髪の子を庇う動きでいっそう強く抱き締めて、おれに向かって足を踏み出そうとするご令嬢を見上げる。



 この魔法の中にあっては、術者があらゆる裁量を握ることは彼女も知っているはずだ。



 だがそれも全部、頭の中から事実という事実を放り出したような表情だった。


 ひたむきなまでの、熱心なまでの、そして突き抜けて冷静にさえ見える――復讐心が彼女の全身に満ちていた。

 彼女が認めた事実は一つ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 おれには分かる。

 よく分かる。


 おれだって、目の前に人間が現れる度に同じ気持ちになるのだ。


 おれから空を奪い、花を奪い、風を奪い、季節を奪い、おれに苦痛と孤独の辛酸の限りを舐めさせて栄えた、あの連中を見る度に。



 ――おれには分かる。理解できる。


 では、逆は。



 ――ご令嬢もまた、おれのことを理解できていいはずだ。



 頷き、息を吸い込み、おれは二度目に手を振った。



 おれの頭のすぐ傍で、夥しい量の、真っ白な光の鱗片が舞い散った。


 これはご令嬢の魔法で――初めてこの魔法を使ったときと全く同じ目的で、おれは自分に注がれる魔力を動かした。



 ――おれの、記憶と、感情と、思考の、全てを共有する魔法。



 千年前のあのとき、おれはおれの全生涯を使って、ご令嬢がおれを破壊することを止めた。


 そして今、おれは、おれの全生涯を使って、彼女の()()を求めている。



 ――おれが、今この瞬間の彼女と同程度の仕打ちを、五百余年に亘って受けていたこと。


 それでなお、唯一おれが心の全部を許せる人間がいるということ。

 おれがどれだけその人間にした仕打ちを悔いているかということ。

 その人間に会うためにご令嬢が必要であるということ。


 おれがこの世界の美しさ全部を取り上げられている間に、ルドベキアがおれに会いに来ていたということ――あいつの目の色こそが、おれにとっての空そのものだということ。


 ルドベキアが白刃の下にいるのは、もうおれには耐えられそうもないのだということ。


 そのために、今、どれだけ彼女の助力が必要か。

 今、おれが彼女に何をしてほしいと思っているのか。


 その動機。全部。


 すべて。



 ご令嬢があれほど()()()()()を零したならば、きっと青髪の子はご令嬢を許している。

 けれど、ルドベキアに掛けられた呪いがある限り、ご令嬢がおれを許さなければ――未来永劫、ルドベキアはこの茶番の舞台から下りて来てはくれない。


 あいつはおれを庇うから。


 おれがご令嬢のことを必要としていることを知っているから。


 だからこそ、自分をああして賭けに使って、何度でもご令嬢に振り向いてもらおうとするはずだ。



「――――」


 おれに向かって足を踏み出していたご令嬢が、眉を寄せて瞬きした。

 涙の痕の残る頬が、ほんの僅かに強張った。


 彼女の動きがぴたりと止まったが、おれの抱える膨大な感情が、一息のうちにその脳裏に流れ込んだにしては、淡白に過ぎる反応だった。



 おれが伝えた多くを、彼女が取り零してしまったのではないかとおれは疑うが、

 ――ご令嬢の表情が変わった。


 激情が引いた。

 だが翻って理解や――あるいは憐憫、あるいは同情が浮かぶ様子はなかった。



 氷のような冷ややかさ。

 無関心に近い、絶壁のような境界線を示す表情。



 おれは言葉を失うが、ご令嬢はゆっくりと息を引いていた。


 息を引き、踏み出していた分の距離を後ろに下がって、彼女が目を瞑る。

 強く目を閉じて、瞼に浮かぶ青緑色の血管ですらも透けて見えるようだった。


 彼女が何か呟いた。

 おれは耳を澄ませていたが、上手く聞き取ることが出来なかった。



 おれは首を傾げる。

 ご令嬢を眺める。


 やがてゆっくりと目を開けたご令嬢が、おれと視線を合わせた。



 その表情に、筆舌に尽くし難いほどの軽蔑が載っていた。



「――おまえは許していないくせに」


 おれは瞬きする。


 カルディオスと銀髪が、おれの後ろで緊張したような呼吸を繰り返している息遣いが聞こえる。


 おれは左手を持ち上げた。

 しゃらん、と、腕輪が鳴った。


 その左手でおれを、そして次にご令嬢を示して、おれは言った。


「――おれと、きみとの、間だけのことだ」



 どうしておれが他の人間を許していないことが、この問題に響くのだ。



 ご令嬢が瞬きする。

 その表情が動く。


 唇がゆっくりと動いて、冷笑を象って静かに歪む。


 ――そして、言った。


「――おまえのしたことは、絶対に許されないでしょうね」


 おれは瞬きする。


 口を開いて、一秒、考えた。


 ――ご令嬢の許しの有無ではなく、他の人間の許しの有無を言っているのだと分かったが、だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 許されるも何も、おれにはその必要がないはずだ。

 この世界はおれの犠牲の上に栄えたものだ。


 ならば全てがおれに資するためにある。



 だが、――()()()()()()()()()



 おれの記憶を全て見て、おれの思考を全て読んで、その上でまだその言葉が出るならば、もしかしたらご令嬢とおれとの間に、知識の有無に限らない、認識そのものの齟齬があるのかも知れない。


 どちらが正しいかは分からないが、だが――


「――そうかも知れないね」


 おれは応じた。


 ご令嬢の飴色の目を見て――あのときおれが心底嫌悪した、憐憫を浮かべておれを見詰めたのと全く同じ形と色の双眸を覗き込んで――、言った。



「――だったら、せめて、きみが許して」



 ご令嬢がおれを見据えた。


 表情の奥で激烈な色が動いた。


 涙の膜が半ば残る飴色の瞳が、息を呑むほど鮮やかな感情の閃きに渦巻いた。



 口を開け、息を吸い込み、――憐憫は欠片もない、同情もない、理解の努力すら放棄して、だが何かの、おれには窺い知ることの出来ない何かの反骨を以て、踏み越えようとした最後の一線を、越えるに容易いその一線を、しかし何かの意地で以て一歩退くようにして、


 その様子はいつか見た、銀髪の皇太子に相対し、一国を焼き滅ぼすほどの魔法を一度は収めた、あのときのルドベキアに似ているようでさえあって、



「――私は、おまえとは違う」



 戦慄わななくような声で、ご令嬢がそう言った。



 ――彼女の意図が分からない。



 眉を寄せるおれから視線を逸らして、もはや否とも応とも答えず、彼女はルドベキアがいるはずの方向を見た。



 それから、断固とした声で告げた。


「――ヘリアンサス、この魔法を解いて」


 おれは瞬きし、意味もなくいったん女王を見下ろして、


「…………」



 そして、右手の指を鳴らした。





 ――がちん、と、世界の秒針が進む、余りにも重々しい音がして――





 喧騒が戻る。

 怒声が戻る。


 周囲は阿鼻叫喚、この場から逃げ出そうとする者と、魔王を殺せと叫ぶ者。


 空気がうねるようなどよめきに、女王がいっそう固く青髪の子を抱き締める。



 おれは後退って、カルディオスの傍に立った。



 あの灰色の髪の人間が前に走り出そうとしたのを、銀髪が腕を伸ばして止める。



 ご令嬢が、おれの傍にいるカルディオスを一瞥した。


 それから大きく息を吸い、背筋を伸ばした――騎士の手本のような姿勢で。



 彼女が左手指から、黝く煌めく指輪を抜き取った。



 途端にその指輪は黝い大剣に変じ、淡い朝陽の中でなお、黒々とした陰影を切り取る殺戮の造形を露わにした。



 ご令嬢が、足許を踏みしめるようにして、一歩、前に出た。


 一歩。二歩。

 更に一歩。



 狂気のどよめきがやがて驚きのものに変わる。


 うねるように質を変えるどよめきと悲鳴に、脱出のために足掻いていた人間たちまでもがこの中庭を振り返った。



 霧は完全に晴れている。



 陽光が燦々と絞首台の上に降り注いでいる。

 ルドベキアに突き付けられる槍の穂先が白く輝く。


 衛兵たちは当惑し、歩みを進める救世主を茫然と眺めている。



 大剣を下げ、ご令嬢が絞首台へ歩み寄って行く。



 中庭にひしめく百余人が、今や救世主に道を譲っていた。


 どよめきさえもがやがて下火となった。

 皆が皆、目を見開いて、血塗れの救世主の一挙手一投足を見守っている。



 ご令嬢が、絞首台へ足を掛けた。


 空気を足場としたのか、目には見えない(きざはし)を踏んで、迷いの無い足取りで、ルドベキアの傍へと歩を進めた。


 絞首台が微かに軋む。


 黝い大剣が陽光に煌めく。


 救世主の全身を、中庭に降り注ぐ朝陽が照らし出している。

 彼女の足許に、くっきりと影が落ちている。



 ――おれは息が出来ない。



 この瞬間、初めて、おれはご令嬢の気持ちを理解した。

 あのとき、断頭台に立った彼女のお父さんを目指して走ったとき、きっと彼女はこんな気持ちだったのだ。

 ――それが分かった。


 他者の愛情への理解というものが痛みを伴うのだということも、おれはこのとき初めて知った。



 ルドベキアは、なおも平然として見えた。


 あいつは、時間が停まっていた間のことを知らないはずだ――だが、不思議と全部を呑み込んでいるような顔をしていた。


 ご令嬢が傍に来てなお、微塵も表情を動かさない。

 安堵も、喜びも、悲哀も、諦念も、怯えもない。



 絞首台の上の衛兵たちは軒並み後退って、絞首台へ足を掛けた救世主に全ての沙汰を委ねていた。



 こちらに背中を向けるご令嬢が、まじまじとルドベキアを見下ろしていた。



 群衆が息を呑み、今や(しわぶき)ひとつ起こらぬ中で――全ての目がご令嬢を凝視している。

 視線に光が伴うならば、もうご令嬢の姿は光に潰れて見えなくなっているだろうと思うほどに――強く、濃く。



 ルドベキアが、初めて表情を動かした。

 ちら、と、彼の口許が笑った――そう見えた。



 そのことにすら、おれの心臓は縮む。

 何かしたいと思うが身体が動かない。


 おれは目を見開いて、茫然とルドベキアを見ている。



 ご令嬢がルドベキアの傍に立った。


 彼女の影が、ルドベキアの上に落ちた。



 後ろ手に拘束され、両膝を突いたルドベキアが、静かにその場で頭を下げた。



 ご令嬢が、重たげに、手にした大剣を振り上げた。





◇◇◇





 おれは息も出来ず、世界の全てがこの瞬間、その場所に、つまりはご令嬢の振り上げた大剣の切先に収斂していくような、そんな奇妙な感覚を覚えている。



 青髪の子が、女王に抱き締められながらも、その薄紫の瞳で、じっと人垣の向こうのご令嬢を見ていた――不思議に凪いだ瞳だった。


 いつかを懐かしむような瞳でもあった。


 おれには、彼女が辿っているだろう思い出が分かる。




 ――おれには、青髪の子の記憶が見えているから。




 青髪の子の目を覚まさせたのはおれだから、その魔法がまだ少し残っていて、おれは青髪の子の記憶を、まるで目の前の光景に被せるように、掠めるように見ていた。



 記憶の中で、ルドベキアの想い人が微笑んでいる。


 お茶会か何かしていたみたいで、彼女の前には茶器が置かれている。

 恐らく最近の記憶だろう――ルドベキアの想い人は、今と変わらぬ背格好をしていて、薄紅色の絹のドレスを着ている。


 どこかのテラスに居るのかも知れない――ルドベキアの想い人の肩越しに見える、眼下の道を行く人たちは、寒い季節なのか外套をしっかりと着込んでいた。


 ルドベキアの想い人は、何かを尋ねられたのだろう――彼女は少しだけ頬を染めて、組んだ指先で口許を隠して、この世で最も繊細な秘密を話すときのように声を潜めていた。



 ――好きなひと? 実はいるの。今までずっと秘密にしてきたんだけど、ずっとずっと好きなひとがいるの。絶対に報われないんだけどね。



 微笑むルドベキアの想い人を、青髪の子がじっと見詰めている。


 その目を通して今、おれは彼女を見ている。

 声を聞いている。


 おれの現実の目は、ルドベキアの頸に向かって大剣を振り上げるご令嬢を見ているというのに、おれの形而上の目が、過日の彼女の微笑を追っている。



 ――ルドベキアが好きなの。



 視界が揺れる。

 青髪の子が、驚きのあまりに飛び上がったみたいに。


 そんな青髪の子を見て、ルドベキアの想い人が微笑む。

 微笑のはずなのに、いっそ泣き顔に近いほどの――その表情。



 ――そんなにびっくりしないでよ。……何回も諦めようとしたんだけど、だめなの。どうしても好きなの。



 青髪の子が何か喋った。

 その感覚が記憶としてあった。


 多分、どこがいいの、なんていうことを尋ねたんだろう。


 ルドベキアの想い人は一瞬、場を茶化すかどうかを迷うように視線を遊ばせたあと、居住まいを正してから身を乗り出し、組んだ指先を(おとがい)に宛がった。


 飴色の目を伏せて、指先の向こうに視線を落として、彼女はまるで小声で歌うように。



 ――あの人の声が好き。

 低くてよく通る、笑うときにちょっと掠れた感じになる、あの声が好き。叫ぶときも好き。小さく話すときも好き。息をしてくれているだけで好き。



 はにかむように笑窪を浮かべて。



 ――あの人の仕草が好き。

 立ってるときも座ってるときも、歩いてるときも、振り返ってるときも、屈んでるときも、伸びをしてるときも、頭のてっぺんからつま先まで好き。

 いつもかっこいいところが好き。たまに可愛いところが好き。

 指先まで好き。鼻の頭のてっぺんまで好き。肌があったかいだけで好き。



 青髪の子が目を見開いている。


 ルドベキアの想い人の頬が赤く染まる。

 しかしそれを強いてなかったことにしようとするかのように、表情だけは澄ましたもので、彼女が次から次へと言葉を並べる。

 まるで、宝石箱を自慢げに開く少女のように。



 ――あの人の目が好き。

 暗いところでは夜明け前の空の色で、明るいところでは青空の色の、あの目が好き。

 怒ってるときにちょっと目を細める癖が好き。笑ってるときにも、それとはぜんぜん違う感じで細められるあの目が好き。何を考えてるのか分からないときも好き。きみたちみたいな、仲のいい人と話してるときの、寛ぎ切ったあの目が好き。目尻まで好き。

 一度でいいからそんな風にこっちを見てくれないかって、ずっと夢に見るくらいに好き。



 澄ました表情を忘れ去って、ルドベキアの想い人が身を乗り出す。

 横からすっと手を伸ばして、彼女が引っ繰り返しそうになった茶器を下げたのは赤毛の女王か。



 ――あの人の真面目なところが好き。

 いつもちゃんと周りのことを見ていて、嫌そうな顔をしてても、結局は人助けをしちゃうあの人が好き。

 頼られると弱い、あの人の困った顔も好き。

 自分のことはぜんぜん気にしないのに、他の人に無理をさせるときに嫌そうな顔をする、あの人の優しいところが好き。

 誰かに嬉しいことがあると、自分まで嬉しそうに笑うときの、くしゃっとした感じの笑顔が好き。



 ルドベキアの想い人が両手を握り合わせて、懸命に言葉を絞るようにしながら、それでもまだどんどん言葉が溢れてくるのだと言わんばかりに、きらきらと言葉を並べている。



 ――どんなにひどい目に遭っても、それでもちゃんと自分の側の非も認められる、あの人のぎりぎりで冷静なところも好き。……ぎりぎり、そう、ぎりぎりよ。笑わないでよ。

 だって、見たでしょ。魔王の城でも、あのおじいさんを殺しそうな顔してたのに、ちゃんとぎりぎりで踏み留まってたじゃない。ね?



 小さく噴き出したみたいな青髪の子と赤毛の女王を、冗談めかした顰め面で見てから、彼女はちょっとだけ唇を綻ばせる。


 憧憬を堪える顔だった。

 同じ気持ちを持ったことがあるから分かった。


 おれが青空や一輪の花、この全世界に向けたのと同じだけの重さの気持ちを籠めて、ルドベキアの想い人が呟く。



 ――それに、あの人の、……自分が殺されそうになっても、巻き込んだ人に心底申し訳なく思う、損なまでに誠実なところが好き。



 目を細める、ルドベキアの想い人のその眼差し。

 いっそ痛みを堪えるような――努めて胸の中に鍵を掛けるような――



 ――本当に好き。何があっても好き。あの人が特別に笑ってあげるのが他の誰であっても、あの人が幸せだったらそれでいいって諦められるくらいに好き。

 あの人が愛情を掛けるものなら好きになれる。あの人が私を殺そうとしても好きなままだと思う。



 誰かが何か言う。

 優しく茶化すように。


 たぶん、あの赤毛の女王の声。


 その声を聞いて、ルドベキアの想い人はいっそう微笑む。



 ――そうね、特に今回は、私とあの人は何がどうなるか分からない立場になっちゃってるものね。私、いつもあの人に嫌われてるし、余計にね。……でも、そうねぇ。



 視線を流して少し考えてから、彼女は確信を籠めて。



 ――あの人が、私には絶対に認められないことをしようとしても好きだと思う。私があの人のすることを認められなくても、止めなきゃならなくなっても、――もちろんその逆でも。無いとは思うけど、っていうか思いたいけど――殺し合うことになっても、絶対に好きなまま。あの人の行動は否定できても、あの人が生まれてきてくれたことを、私は絶対に感謝し続ける。

 あの人の行動に是非をつけることはあっても、あの人の存在そのものが、私にとっては千載一遇の幸運なの。



 頬に手を当てて、表情を崩すように笑って、



 ――あの人が存在してくれたっていう事実が嬉しいの。

 生きてなくても、命の有無に関係ないくらいに、あの人そのものが大好き。



 どこまでも真摯にときめくように、



 ――私が、極端なことを言うとね、たとえばあの人を殺すことになったとしても、殺すその瞬間ですらあの人に愛情を掛けられると思う。

 私が殺されることになったとしても、死ぬその瞬間も、その後も、あの人のことが好きなままでしょうね。

 何が起こっても、あの人がいなくなっても、私の恋心はあの人に向けられるためだけにある。丸ごと全部、もうあの人にあげてしまってるの。

 ……要らないって言われるのが怖いから、絶対にあの人に伝えたりしないけどね。拒否されるまでは、私がこうしてあの人を好きでいるのは自由だもの。



 肩を竦めて、冗談めかそうとしてし切れない、深いばかりの思慕の念を滲ませて。



 ――この千年の間……、色々、本当に色々あったけれど。



 彼女の声が掠れる。

 飴色の目が伏せられる。


 組んだ指は敬虔に、いっそ祈るほどの真剣さで。



 ――死ぬのは毎回痛いし苦しいし、嫌なこともいっぱいあったけれど。

 生まれたときから死に方なんて決まってるようなもので、もう何もかも投げ出したくなったこともあるけれど、……でも、その度に、



 目を上げて、照れたように微笑んで、ルドベキアの想い人は断言する。



 ――この千年の間、私が生きてることすら疎みそうになったとき、必ず瞼の裏に浮かんできて、私のことを繋ぎ留めてくれたあの人が好き。





◇◇◇





 おれの傍で、カルディオスが、崩れるようにその場に倒れ込んだ。



 ご令嬢が大剣を振り下ろした。




 ――籠もった音を立てて大量の血が噴き出す。


 重い音とともに、ルドベキアの首が絞首台の上に落ちた。



























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― 新着の感想 ―
[良い点] トゥイーディアののろけ!最高ですね!これを語っているトゥイーディアを想像すると可愛すぎます! こんなに思われているルドベキアは幸せ者ですね!でもトゥイーディアだってルドベキアから同じくらい…
[一言] ずっと読み進めてきて一番キラキラしてせつないパートだったです。
[一言] ルドベキアが…どうなってしまうんだ一体
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