88◇ 軛の鍵
ベルフォード侯領、領都ベイルの絞首台は、領主館から通りをひとつ挟んだ北側にある方形の広場――壊れた断首台が設けられている広場だが――の傍、広場の更に北側にある。
白漆喰の壁が特徴的な、広い平屋建ての建物の――この建物が何のためにあるものかはおれも知らないが――、その、建物部分よりも広いのではないかと思われる、吹き抜けの中庭に設けられているものがそれだ。
白漆喰は、早朝であっても陽光を弾いて、眩しいばかりによく目立った。
領主館は、おれにはご令嬢の生家であるティシアハウスとも見分けがつかないが、都市の中にあるだけあって大きく、城といっても通るようなものだ。
その一部が崩れていて、おれは何があったのだろうと訝るが、数秒して、おれがあの人の処刑を早めるために、領主館を崩したのだと思い出す。
空は皮肉なまでに青く澄んでいた。
カルディオスに、頭上には水が張っているのだと言われれば、恐らくおれは信じるだろう。
そういう、透明感のある青さが頭上いっぱいに、贅沢に広がっている。
――なるほど、何が起ころうが空は青い。
ルドベキアは正しかったのだ。
おれはそれを知った。
未明から、処刑を予定している中庭には人間が詰め掛けた。
処刑の日の朝には喧伝屋が走り見物人を集めるものだとおれは知っているが、それすら走らなかった。
必要がなかった。
何しろ、人間の悲願ともいえる、魔王の絶命だ。
元々はおれを殺すために、ルドベキアが決めたことだった。
本来ならば救世主が成し遂げるべきことを、ここの領主が成し遂げようとしているわけだ。
魔王が捕らえられたと知って、魔王の名前に竦む連中はこの都市を出て行った。
あるいは何かの理由でこの都市を出られなかったとして、今は窓に鎧戸を下ろして閉じ籠もっている。
そうではない人間たちが、正しく歴史に残る瞬間を見届けようと、まだ暗いうちから絞首台の傍へ走った。
暗いうちから、カルディオスは繰り返し繰り返し、おれに、「イーディが見えるか」と訊いてきた。
どうやらご令嬢がルドベキアのために動くことを、今なお縋るようにして期待しているらしかった。
他の人間が同じことをすれば鬱陶しい限りだが、カルディオスはそうではない。
記憶のないカルディオスはカルディオスではないも同然だが、今もカルディオスの声は、季節そのもののような色をしている。
それに、カルディオスがおれに声を掛けるというのも珍しい。
おれは訊かれる度に、「見えない」と事実を答えざるを得なかったが、そう答える度にカルディオスがぎゅっと眉を寄せて、何かを堪えるような顔をするのには胸が痛んだ。
あんまりこういう思いをしたくないから、おれはカルディオスのことは、出来れば一撃で殺すようにしていたのだけれど――、あのときを除いて。
あのとき――あの青髪の子が、何を措いても帰りたいと願っていて、しかしそれを諦めていたがゆえに、予め彼女の最愛の人を切り捨てていたときだ。
ルドベキアたちがおれの、というか魔王の城に入った時点で、記憶を浚えばそれは知れる。
だからおれは、――自分たちで足を突っ込んだ、自分たちで選んだ、自分たちで書いた台本も同然の――魔王討伐を、何を悲運のように捉えているのだと――押し付けられた役割のように思っているのだと――そう思って腹が立って――わざと最初にあの子を殺したのだ。
その後のルドベキアたちの反応は、いっそ気持ちいいほどのものだったが――カルディオスまでが同じ反応をしたことは解せない。
愛だの恋だの、そんなのは全部嘘っぱちだ。
カルディオスがそう言っていたのに。
それから、ルドベキアの想い人だ。
『殺されても許さない』と叫んだ彼女の声は覚えている。
血を吐くような、というよりも実際に血を吐きながらの絶叫だったが、血よりも多くの激情が詰まった声だった。
とはいえおれに向けられた言葉ではなかった。
叫ぶ先として最適だったのがおれだったから、おれに向かって声を出しただけだ。
今であっても、昔に比べて耳が悪くなったといっても、その程度のことなら分かる。
そして、ルドベキアの想い人が叫んだことは、多分そうだったのだろう、青髪の子はきっと、今でもルドベキアの想い人を許していない。
――辺りは既に明るい。
カルディオスたちは、というよりも女王と銀髪が、暗いうちからは動こうとしなかった。
理由は、何か言っていた――処刑を宣言されたからには、裏を返せば執行までのルドベキアの命は保証されている。
そして女王としても、ご令嬢が青髪の子とどこに居るのかは気に懸かるところであって、ルドベキアの策が当たるならばそれに賭けるべきだと。
そしてルドベキアとしても、ここまでの大博打に出たからには、下手に女王たちが助け出そうとしても、ルドベキア自身がそれを拒絶する可能性もあって――つまりは、飽くまでもご令嬢を誘い出そうとする可能性はあって――、もしもそうなれば、おれにはいまいちぴんとこないが、今の女王よりはルドベキアの方が魔力に優れることもあり、また魔王の権能も加味すれば、一筋縄ではいかない。
諸々を勘案するに、まずはルドベキアの思惑に乗って、その上でぎりぎりまで待つべきだと。
もっといえば、ご令嬢も、女王や他の連中がルドベキアを助け出すだろうと高を括っている可能性はある。
そのためにご令嬢が身を隠し続けることも有り得るから、だからこそ早くから処刑場に行くべきではない、と。
刑場までやって来たご令嬢が、そこに女王やカルディオスたちが居るのを見て、胸を撫で下ろして踵を返してしまっては全てが水の泡になる。
「――まあ、」
と、女王は苦虫を噛み潰したかのような顔で言っていた。
「イーディがルドベキアのところに来るとして、助けるためだとは限らないんだけど」
そうだ、おれもそれを案じている。
そして、ルドベキアはその可能性、ご令嬢が自分の前に現れるとして、その目的がルドベキアの救命ではない可能性こそを強く意識していた。
――魔王は絶対的な悪だから、ルドベキアがそう決めたから、このままではあの人の、ご令嬢のお父さんの名誉は地に堕ちる。
魔王の縁者がご令嬢のお父さんを救い出そうとしていたと、そのように判断が下ればそうなる。
おれとしてもそれは不本意だ。
それを防ぐことが出来るとすればそれは、魔王自らがそれを否定したとき。
リリタリス卿の罪の確定を、魔王自らが図ったと明言したときだ。
そうなれば陣営の見方は正反対のものへと変わる。
リリタリス卿は、魔王の策に嵌まった被害者となる。
――だが、恐らく魔王の言葉だけでは根拠は薄い。
魔王の言葉を万人が聞くわけではないのだからなおのこと。
だから――ルドベキアが考えていたのは――
――辺りがすっかり明るくなってから、女王はようやく動いた。
刑場には赴かず、ここでルドベキアの命運を待ったとしても、彼女には何らの不利益もないはずだ。
それでも動いた彼女の動機をおれは知らないが、彼女が動くならばおれが動くことに否やはあるまい。
とはいえ女王は、あの灰色の髪の人間が、自分に付いて来ようとすることには難色を示した。
街路の随所に衛兵や警吏が立ち、魔王の処刑とあってあらゆる事態を警戒しているこの状況、警吏に顔を知られている人間が動くことは得策ではないと言い聞かせる声が聞こえてきたが、それまでは従順だった灰色の髪の人間が、こればかりは頑として譲らなかった。
どういう遣り取りをしたものか、おれは碌に耳を傾けてはいなかったが、遂には女王が折れたらしい。
灰色の髪の人間は、外套の頭巾を深く下ろして、この建物の外に出ることを許された。
朝陽が燦々と降る中、人通りは多かった。
全ての人の流れが絞首台のある場所を目指していて、声高に何かを言い立てる人間はいなかったものの、ひそひそとした声が数を得て大きくなって、ざっざっと響く靴音に混じって、無数の羽虫が鳴いているようだった。
――本物の魔王なのか、もし本当に魔王が死ねば今日は歴史に残る日になるぞ、魔王が黙って首を括るのか――
おれは何となく、おれが初めて女王を見た日のことを思い出した。
あの日、大挙して王宮へ押し掛けた群衆の中にいたときは、耳を聾するような罵声の中におれはいた。
今はあの日に比べて随分と静かだ。
だが、なんとなく、あの日に類似する何かをおれは感じ取っていた。
領主館の前を過ぎ、未だに血の痕が残る――壊れた断頭台が放置されたままの広場を通って、人波が絞首台へと向かっていく。
おれもその中にいる。
女王と銀髪、それからあの灰色の髪の人間はおれの視界の中にはいなかったが、カルディオスがおれの斜め後ろにいるようだった。
昔とは違う、緊張した目でおれを見ていた。
絞首台を擁する建物が見えてきた。
もう既に人垣が出来ていた。
三々五々に寄り集まった人間たちが、ここへきて集団を作っていた。
人数は数える気にもならない。
黒々とした人波が、中庭から建物の外へと続いている。
中には、白漆喰の壁を攀じ登ろうとする者まであった。
いちおう、建物の壁沿いには衛兵が配備されていて、そういう人間を窘めてはいたものの、形ばかりといった様子だった。
処刑を見ようとするが余りに前の人間を押し退ける人間がたくさんいるようで、そこここで小さな揉め事が起こっていた。
とはいえおれは、押し退けるまでもなく目の前の人間に道を開けさせることが出来る。
間もなくしておれは、白漆喰の壁の建物の中に入っていた。
建物の入口には数人の衛兵が立っていて、中に入ろうとする者の身を検めている。
検めているとはいっても、通常ならば隠し持たれた武器を取り上げるのが筋であろうところ、この衛兵は逆のことをしていた。
身を護る武器を持っているかどうかを尋ね、持っていないと答えた者に、魔王を前に何を無防備なことをしているのだ、と叱責する風の声を掛けては、傍の、分厚い布を掛けた籠の中から短刀なり棍棒なりを取り出して、それらをしっかりと鞘に収め、あるいは襤褸布に包んで、その人間に押し付けているのだ。
自衛のものだぞ、隣人に遣ってはならぬぞ、と、言い聞かせる口早な声が繰り返し繰り返し聞こえてくる。
――なるほど、カルディオスは正しかった。
女王も銀髪も正しかった。
ルドベキアは確かに、大勢を相手にすることは出来ないと、白状を装って連中に吹き込んだのだ。
そしてこの都市の連中は、民衆をこそ、魔王に対抗する大勢の捨て駒にするつもりでこの処刑を取り決めた。
ここで手渡された武器が、間もなくルドベキアのために振られる。
おれの頭の芯が鈍く痛んだ。
――知っている。
この考え方を知っている。
なぜならおれも同じことをしたことがあるから。
大国を統べた女王を引き摺り下ろすために、彼女が絶対に軍事力を以て制圧することはしないだろうと踏んだ、彼女自身の人民を利用したことがある。
――その心当たりが鈍く痛む。
おれは声を掛けてくる衛兵を無視して足を進め、建物の中に踏み込んだ。
足許は剥き出しの灰色の石、夜の冷たさを拾った建物の中の空気はしんと冷たい。
建物の中は朝陽が遮られて薄暗い。
建物の中にまで、今は立錐の余地なく人間が詰め掛けていた。
その多くが胸元の辺りを手で押さえているのは、手渡された武器をその辺りに持っているからか。
武器を庇うように、背中を丸めた姿勢になった人間が多い。
交わされるひそやかな声には興奮が混じる。
処刑の場とあって子供はいなかった。
建物はどうやら、中庭を囲む形で広がっている。
中庭に面する窓に人間たちが詰め掛けて、窓枠に身体を押し付けられて落ちそうになっている人間もあった。
壁際に置かれていたらしき台が倒れていて、その上に載せられていたのだろう花瓶が粉々になっているのが見える。
その花瓶の欠片を踏んで、叫び声を上げる人間もあった。
中庭にも既にたくさんの人間がいて、建物の中からでは中庭の様子が見えない。
目の前の人間に更に道を開けさせて、おれは中庭へと降りた。
中庭に通ずる出入口には扉がない。
浅い三段の階を下りれば、そこがもう中庭だった。
中庭には古びた石畳が敷かれていて、敷石の間から、短い雑草が顔を出そうとしていた。
見上げれば空はいっそう高く青い。
中庭はまだ薄い影の中にあった。
方形の中庭の前方にがっしりとした木組みの絞首台がある。
三フィート程度の高さに組まれた台で、その上に八フィート程度の柱が立てられている。
柱は二本、その間に横木を組み渡して、そこから首を吊る輪の形になった縄が吊り下げられていた。
柱の傍には槓桿があって、それを操作することで台の床が抜けるのだと分かる。
絞首台に登るための階段は台の後ろにあって、その向こうを観察すると、すぐ後ろに建物から出て来る出入口があると分かった。
間違いなく、ルドベキアはあそこから引き出されて来るはずだ。
中庭の、中程までに人間が詰め掛けている。
それ以上先には、衛兵に制止されて進めないようだった。
それでも、中庭の広さがあって数百人は居るように見えた。
中庭の半ばに、線を引くように数十人の衛兵が立ち、槍を手にして詰め掛ける人間を抑えている。
それも居丈高に抑えるのではなくて、魔王という史上最悪の災害に等しい存在から、相手を守るために抑えている。
この人数がいるにしては、騒がしいというほどの物音はなかった。
各々何かを口走ってはいたが、全員が示し合わせたように声を抑えていて、何百対もの目が一心に絞首台に注がれている。
ふと、おれは振り返った。
カルディオスがおれに付いて来ているのかが気になった。あるいはこの人混みに怯えていないかどうかが気になった。
――カルディオスは変わらず、人垣の中でおれの斜め後ろ、数人を間に挟んだ位置に立っていた。
表情が硬く強張って、彼はじっと絞首台の上を見ていた。蒼褪めているようにも見えた。
そのカルディオスに、人混みを縫うようにして、女王が近寄って来るのが見えた。
半ば俯いてカルディオスのすぐ傍に立った女王が、吐き気を堪えるような顔をしているのが窺えて、おれは漠然とした違和感を覚える。
――かつてこの女王は、この何倍も混沌とした状況を、姿を見せるだけで収めてみせたことがあるのに。
視線を巡らせる。
銀髪が、頭巾をしっかりと被り込んだあの灰色の髪の人間と一緒に、中庭を囲む建物の壁の傍に立っているのが見えた。
灰色の髪の人間は前屈みになって震えていて、今にもその場に崩れ落ちそうに見える。
女王が、そちらに向かってカルディオスの腕を引いた。
女王の進行方向にいた人間が、不愉快そうに眉を寄せた。
だが女王が小声で何かを囁くと、渋々といった様子で半歩下がって道を開けている。
立錐の余地なく詰め掛ける人混みの中、抵抗せずに女王に促される方へ足を向けながら、カルディオスが一瞬だけ、おれを見た。
何かを危ぶむ顔をしていた。
その意味は分からなかったものの、カルディオスが不安になっているのかも知れないと思えた――町の中に入ることすら怖がるようなやつだった――から、意識せずに、おれは同じ方へ足を向けていた。
壁際に一塊になって立って、女王はもはや隠す様子もなく、嫌悪を顔に出していた。
「――なんて悪趣味なの」
囁く女王の声は小さかったが、本心からの軽蔑が籠もっていた。
周囲の興奮した声色で躱される言葉とは違う、憤慨した声音。
「どっちから見ても悪趣味だわ。ルドベキアが袋叩きで殺されるのも論外だけれど、何も知らない人たちに人殺しの片棒を担がせるのも論外よ。
それに、素人に武器を渡すなんて有り得ないわ。扱いに余って同士討ちになってしまう」
「形振り構ってられねーんだろ。魔王が目の前に出てきたんだぜ。冷静さが残るかよ」
カルディオスが平坦な声でそう言って、女王がなおも何かを言おうとするのを、彼女の腕を叩いて黙らせる。
「煽ったルドベキアが悪い」
銀髪がいっそうの小声でそう呟いて、今にも膝から地面に頽れそうな、脇に居る灰色の髪の人間をちらりと見た。
そして、ややはっきりとした語調で言った。
「――きみのせいではないから」
灰色の髪の人間は首を振ったが、もう声が出ない様子だった。唇が震えている。
「――だとしても、」
カルディオスが憂鬱そうに呟いた。
珍しいほどくぐもった声だった。
「おまえだって入口で見ただろ、ここにいる全員がなんだかんだで武器持ってんだぜ。この人数が殺到してみろよ、いくらルドでも殺されるよ」
「――そんなことになったら……」
灰色の髪の人間が、突発的に声を出した。
掠れた声だった。
「……僕はもう生きていられません――」
「ああ、それは、大丈夫」
思わず、おれは口を挟んでいた。
カルディオスがおれを見た。
翡翠色の目に映る自分の表情をおれは把握した――おれは人間ではないから、この期に及んでなお、特段の表情のない顔をしていた。
「ルドベキアに何かあってごらん。
少なくとも、この場にいる人間は皆殺しだ」
カルディオスが息を吸い込む。
女王も銀髪も、息を止めたのが肌で分かった。
灰色の髪の人間が、いっそぽかんとした様子でおれを眺める。
柘榴色の目が大きく見開かれており、おれはそこに自分の、平然とした真顔を見る。
――絞首台の上に、仰々しい衣裳を身に纏った老人と、二人の衛兵が登った。
ひそひそと続いていた周囲の声が、潮騒のように徐々に大きくなり始めた。
その、喧騒の一歩手前のようなざわめきを前にして、仰々しい衣裳を身に着け、重たげな仕草で絞首台の上に立った老人が、その衣裳の袖口から、筒状に丸められた羊皮紙を取り出した。
三フィートの高さを得て、その様子は中庭のどこに居ても目にすることが出来ただろう。
羊皮紙を広げ、眉を顰めて、その羊皮紙に記されている文言を朗々と読み上げていく老人。
――ここへ連れられるのは悪逆非道の魔王である、領主さまの御威光を以て捕えられたものである、これは人の悲願である――
「――領主は? ベルフォード侯は見えるか?」
銀髪が、押し殺した声で呟いた。
応じたのはカルディオスだった。
「いや、居ねーな……さすがに怖くて奥に閉じ籠もってるか」
「居るはずがないのよ」
女王の声も低い。
それでもその声を、おれの耳はざわめきの中ですらはっきりとした輪郭で捉えていた。
「普通なら罪状の読み上げは罪人が連れられてからだもの――怖くて、魔王をなかなかここまで出してこられないのね。それに、」
言葉を切って息を吸い込み、女王は淡紅色の目を細める。
「扇動してルドベキアを袋叩きにするつもりでしょ――傍にいるあの人たちも無事でいられるはずがないのよ。知らされてはいないのでしょうけれど、あの人たち、領主さまには見放されてるのね」
老人の声は続いている。
――罪状は数えるまでもなく、存在そのものが罪である――
群衆は前のめりになっていた。
気が逸ったのか、懐から既に武器を取り出している者もあった。
どの顔にも、どの双眸にも、凶悪なまでの熱気が浮かんでいた。
おれは魔王というものについてよく知っているし、その成り立ちを誰よりよく把握しているが、それでも、ルドベキアたちが取り決めた魔王という存在が、これほどの悪意を以て形成されているものだとは思っていなかった。
老人が口を閉じ、羊皮紙を再び丸めて袖の中に仕舞い込んだ。
彼が言葉の途中でそうしたとしても、誰一人違和感を覚えなかったに違いない。
そう思えるほどに、その場の空気は異様に熱されていた。
ぴんと糸を張ったような緊張感がその場にあった。
どこかで銅鑼が鳴らされた。
空気が低く震える。
青く澄んだ空に、余韻を響かせながら低い音が溶けていく。
それが二度、三度。
四度目の銅鑼の音とともに動きがあった。
群衆が息を呑んだのが、さながら一つの大きな生き物が息を呑んだかのように、空気を揺らすようにして伝わってきた。
処刑台の後ろの、建物の中に通ずる出入口。
そこから十数人の衛兵が現れた。
群衆が背伸びをした。
水を打ったように辺りが静まり返り、この中庭に入ることが出来ていない連中にも、恐らく何が起こったのかは分かっただろうと思われた。
十数人の衛兵が、中心に捕えた一人を、乱暴な手付きで誘導して、あるいは槍の穂先で突くようにしながら、絞首台の上に押し上げている。
なぜ誘導が必要だったかは明らかだ。
絞首台の上に引き出されたその人間は、頭から麻袋を被せられていた。
彼は絞首台の上で少しよろめいた。
後ろ手に拘束されているようだった。
じゃらじゃらと鎖が鳴る音が、辺りが静まり返っているがためにここまで聞こえてきた。
女王が両手で口許を覆い、息を止めていた。
カルディオスも銀髪も、絞首台の上を凝視して、身動ぎひとつしなかった。
灰色の髪の人間が、とうとうその場に膝を突いた。
衛兵の一人が、乱暴な手付きで麻袋を取り去った。
群衆の中から小さく声が上がる――歓声か悲鳴か判然としない、その声。
――麻袋を取り払われ、露わになる漆黒の髪。
麻袋を取り去られた拍子に乱れて、夜より暗い色の髪が彼の顔に掛かる。
鬱陶しそうに彼が首を振った。
両手を使えないことをもどかしく思っていることが伝わってきた。
首を振って、顔を上げ、陽光に眩しげに目を細め、顔を顰める――おれの息子。
ルドベキアは、おれの前から去って行ったときのままの服装をしていた。
リリタリス卿のように、囚人服を着てはいない。
だが衣服のあちこちが裂けて破けているのは見て取ることが出来た。
おれの目の錯覚でなければ血の染みが点々と付いている。
首許で金鎖が微かに煌めくのが見えた。
魔王の治癒の権能を、自分自身に対して使っていたに違いない――そうでなければさすがに、ここまで平気な顔は出来ないはずだ。
だがそれでも、目の下に隈が出来ていることは否応なく目についた。
陽光はまだ低く、中庭は十分に明るいが、陽光そのものはまだおれたちの頭上を掠めているのみだった。
黒髪の下から、眩しげにルドベキアが眼下の中庭を一望する。
青い目が――おれにとっての空そのものの色の目が、中庭を一巡りして瞬いたのが見えた。
彼の表情には出ない――出せるわけがない――だがそれでもおれには、この世で唯一その呪いに言動を左右されないおれには、ルドベキアが誰を捜して視線を巡らせたのかが明確に分かった。
――この期に及んでルドベキアは、一点の曇りもなく、ご令嬢がここに来るときを待っている。
衛兵が、二人掛かりでルドベキアの肩を押し、その場に跪かせた。
輪縄に向かって頭を下げるような格好で、絞首台の中央で、ルドベキアが両膝を突く。
まるで無抵抗だった。
臆している様子はひとつもなかった。
平然として見えた。
その首の上に槍の柄が交差させられる。
ルドベキアは顔を上げられなくなった。
おれからも、ルドベキアの顔が見えなくなる。
仰々しい格好の老人が、後退ってルドベキアをまじまじと見ていた。
その一瞬、空気が妙に弛緩した――本当にこの若者が魔王か、と、誰もがそう思ったのだと分かる。
はっとしたように、老人が息を吸い込んだ。
そして宣言した。
「――魔王である!!」
群衆の中に張っていた、緊張の糸が切れた。
どよめきが、嫌悪と恐怖のどよめきが、どこからか生まれて、それが忽ち大きくなる。
その音が耳の奥に入り込んで、頭の中を揺らすような感覚があった。
カルディオスが唇を噛んでいる。
彼はルドベキアを真っ直ぐに見ている。
前のめりになっていて、今にもルドベキアのところへ走って行きそうだった。
銀髪は対照的に、振り返って人混みの中へ視線を走らせていた。
唇が薄く開いている。今にもご令嬢の名前を叫びそうだった。
彼女が現れれば、ルドベキアが自らこの窮地を脱するに違いないと、そう確信しているがゆえの焦燥の表情だった。
女王はもはや目をきつく瞑って、祈るように両手を組み合わせている。
群衆が、じりじりと前に出始めた。
建物の中から、中庭へ向かって飛び出そうとする人間も相当数があった。
その全員が、仕組まれた凶器を手に握り締めている。
ルドベキアもそれは分かっていたはずだ、感じていたはずだ。
そもそもルドベキア自身が定めた嫌悪と恐怖だ。
それでもなお身動きもせず、平然と頭を下げている、〈呪い荒原〉を生んだ魔王――
衛兵が、何かを叫ぼうとした。
女王の、そして銀髪の考えが正しいのだから、このとき彼らは群衆を扇動し、彼らに最後の一線を越えさせるための言葉を吐くはずだったのだろう。
――だが、その言葉が出なかった。
あるいは出たとして、聞こえなかった。
別種のどよめきが、中庭の外――更にここを囲う建物、その外――から起こって、聞こえ始めていた。
なんだ、どうした、と、衛兵が慌ただしく言葉を交わす声が聞こえてくる。
応じる声も心許ない。
絞首台の上に、不明瞭な困惑が漂った。
ルドベキアの頸の上に交差させられていた槍の柄が、その拍子に不安げに少し持ち上げられた。
ルドベキアが顔を上げた。
おれは後ろを、中庭の出入口を振り返った。
今やどよめきは驚愕と困惑の色を帯び、この傍にまで達していた。
魔王を前にした人間たちから、病的なまでの熱気が僅かに剥がれたようにも見えた。
白漆喰の壁の建物の中に詰め掛けていた人間たちが、身体を引くようにして、押し合い圧し合いしながらも道を開けている。
そうして道を開ける人間たちは茫然とした顔をしていた。
茫然とした、非難――あるいは恐怖――そして少数の者の顔に、僅かばかりの敬意があった。
女王が目を開けて、おれと同じ方向を振り返った。
銀髪はとうにそちらを見ていた。
女王に遅れること数秒、おれたちの視線の先を見たというよりはルドベキアの視線の先を追うようにして、カルディオスも振り返った。
灰色の髪の人間だけが、今も食い入るようにルドベキアばかりを見詰めている。
銀髪は息を止めていた。
女王が目を見開き、カルディオスが片手で口許を覆う。
くぐもった声がその掌の中から漏れた――名前を呼ぶ声が。
彼女の名前を呼ぶ声が。
同じ声がそこここから漏れていた。
――この場に、彼女の名前が分からない者はいない。
立錐の余地なく詰め掛けた人間が開けた道を通って現れ、何百もの視線に晒されながら、中庭の入口に――今生の救世主、トゥイーディア・シンシア・リリタリス嬢が立っていた。
◇◇◇
ご令嬢は、あの日と全く同じ格好をしていた。
深緑のサーコートを着た正装姿。
サーコートにもその中の白いブラウスにも、べっとりと血痕が付いたままになっている。
血痕はどす黒く変色し、罅割れてさえいて、周囲に色を伸ばして病的な印象を与えた。
徒手に見えるがそうではない、彼女の左手指に、かつてのカルディオスが創った、あの黝い武器が指輪の形として嵌められているのが見えた。
蜂蜜色の髪は解かれて、背中に流れて緩い癖にうねっている。
顔貌は蒼白で、彼女の飴色の双眸は、絞首台の上のルドベキアを、世界の全部がそこにあるかのように見詰めていた。
だがそれ以外には、喰い入るようにルドベキアを見詰める双眸以外には、表情といえる表情は浮かんでいなかった。
真っ白な頬は強張って、蝋のような印象を受ける。
絞首台の上のルドベキアも、ご令嬢を見ていた。
表情は特段動いていなかった。
眼差しですら平坦だった。
――その事実こそが、ルドベキアがご令嬢に向ける感情の重さの証左だった。
周囲の人間がどよめいている。
ご令嬢をご令嬢と見分けた上で、困惑している。
「――反逆者の娘だ……」
「でも救世主さまなんでしょう――」
「聞いていなかったのか、あの反逆者が死んだときに、俺たちのことは助けないと叫んでいただろう……」
「――救世主だ……」
「リリタリス卿のご令嬢だ――ご無事だった……」
「父親の仇を取りに来たんじゃないだろうな――俺たち殺されるんじゃ……」
「馬鹿言え、仮にも救世主だぞ」
「ご令嬢だ……お労しい――」
衛兵も困惑していた。
恐らくこの状況は想定されていなかったに違いない。
――救世主は魔王を斃すもの。
その認識が、ルドベキアが作り上げたその認識が、衛兵の行動を鈍らせていた。
救世主として世に知られたご令嬢を目の当たりにして、己の領分をどう弁えればいいものか、咄嗟には分かりかねたのだ。
ご令嬢が瞬きした。
引き剥がすようにして、視線をルドベキアから逸らした。
そして群衆を見渡した――カルディオスたちを捜したのだと分かる。
無表情に振る舞う彼女に、周囲の人間が及び腰になっていく。
ゆっくりと視線を巡らせた彼女が、す、とその視線を止めた。
カルディオスが喉の奥で呻いた。
目を見開いて、大きく息を吸い込む。
――目が合ったのだと分かる。
ご令嬢の視線が、この人垣を縫ってなお、カルディオスを見付けたのだと。
――ならば、傍にいるおれのことも見付けたはずだ。
この世に存在して初めて、全身が総毛立つような感覚があった。
ご令嬢の眼差しが鋼鉄のように冷えていく。
人垣を縫って見える彼女の表情が、最後の一滴まで失せたのが分かった。
おれにはご令嬢の感情が分からない。
彼女の気持ちを追うことが出来ない。
だが瞬きして、全ての興味が失せたような顔をして踵を返す彼女を、引き留めなければならないことは痛切に分かるのだ。
――振り返る。
絞首台の上。
衛兵が槍を持つ手に力を籠め直そうとしている。
ルドベキアは無反応だ。
ご令嬢が自分から目を逸らし、昔馴染みを見付けて――おれを見付けて、この場を立ち去ろうとしていることは見えているはずだ。
それでもなお、ルドベキアの表情が動かない――それほど大きな感情が動いているがゆえに。
弱くて脆い、あいつの命は槍の一振りで消えてしまう。
――凄まじいばかりの感情の揺れに、実際におれの足許が揺れたのではないかと思った。
おれにはお飾りのものであるはずの心臓、その中に氷水が張ったかのような感覚。
ルドベキアがこの賭けを、脆いばかりの自分の命を危険に晒すこの行為を終えてくれるとすれば、それはご令嬢があいつのところに戻るときだけだ。
あれこれ言い訳を並べて、あいつに掛けられた呪いを掻い潜ってはいたが、結局はそうなのだ。
あいつが、ご令嬢に会いたいだけだ。
ご令嬢と一緒にいたいだけだ。
ご令嬢に許してほしい――いや、許されないとしても、ご令嬢の感情を自分に向けたいだけなのだ。
そしてご令嬢がルドベキアの望みにそぐうとすれば、ルドベキアがしたことを――おれには価値すらよく分からない、ルドベキアの裏切りを――水に流すとすれば、許すとすれば、それは――
――再度振り返る。
ご令嬢は踵を返そうとしている。
蜂蜜色の髪が風にそよぐ。
何百もの目がその姿を追い掛けている――
ご令嬢は救世主としての役割に背いてまで、彼女のお父さんのために動いた。
青髪の子がそれを責めたはずだ。
おれはそれを聞いていた。
おれのものではないおれの目を通して、あの様子を見ていた。
――『あなたの恋が絶対に報われないもので、本当に良かった』
あの真意がおれには分からない。
おれは人ではないから、生き物ではないから、人の感情の機微は分からない。
だが、もしもあれが、青髪の子が親子の情のみをご令嬢に許し、恋慕の情は許さないという意味であったなら。
ご令嬢が過去の罪過の軛ゆえに、忠実にその許しの範囲でのみ動いているとすれば。
今この瞬間、ご令嬢がルドベキアのために動くとすれば、ご令嬢がルドベキアに向ける感情、それを動機とする以外には有り得ない。
そして今のこのとき、あの青髪の子の許しなく、ルドベキアの想い人が彼女の恋慕のために動くことは有り得ない。
――目の奥が熱くなった。
「……起きて……」
おれは呟いている。
意識せずともそうしている。
「きみしかいない――頼む、起きてくれ……」
視界の隅に、もう目に馴染んだ、白い光の鱗片が散っている。
カルディオスが、ぎょっとした様子でおれを見た。
けれど、それすらもうおれの意識の外にあった。
――無茶だ、無理だ、そんなことは分かる。
かつてのおれとはもう違う、世界から許され続けた無理と無謀の数々を、今のおれは失っているのだ。
だがそれでも、万が一にでも、この魔法が――かつてのルドベキアの想い人がその友人のために創り出した魔法が――あの青髪の子の意識を掠めれば。
目の前にもいないあの青髪の子の意識に、どれだけの干渉が許されるのかは分からない。
だが分かることがある――
――『イーディ、大好きよ』
あのとき彼女はそう言った。
おれはそれを見ていた。
かつてと違っておれは、もう人の嘘を嘘であると見て取ることが出来る、あの人外の瞳を失っている。
だが、あの言葉の響きをおれは知っているのだ。
かつて、あの暗い暗い穴ぐらで、ルシアナがルドベキアに掛けた言葉の響きと同じだと知っているのだ。
もう千年も前に、ある川の畔でカルディオスがおれに掛けてくれた言葉の響きと同じだと知っているのだ。
だから、聞こえさえすれば目を開けてくれるはずなのだ。
「――起きて……」
どこに居るかも分からない、あの青髪の子に呼び掛ける。
ありとあらゆる情報を載せて、状況を伝える声を伸ばしていく。
「起きて……起きてくれ――スクローザ夫人」
そのとき、――形而上の――あの薄紫の瞳と目が合った。




