86◆◇夜のいちばん明るいところ
「魔王の縁者の拘引である!」
轟いたその言葉の内容を、笑い飛ばせた者はいないはずだ。
――魔王は魔界、すなわち遥か南の島にいる。
誰に教わらずとも皆がそう知っている。
そして、魔界から出られない魔王の実在を疑うことがないよう、その存在を前提として救世主を敬うよう、俺たちがそう決めたのだ。
魔王は実在する。
その名の響きだけで嫌悪を催させるほどに。
魔王は大陸には存在しないが、だがその縁者であれば。
「――どういうことだ?」
出窓に身を寄せつつ、コリウスが眉を寄せて呟いた。
その声がさすがに緊迫している。
魔王、という言葉が聞こえた時点で、俺たちは全員が出窓に身を寄せていた。
カルディオスが片膝を出窓に乗せている一方、ディセントラは出窓に腰掛けて窓硝子に手を突き、声ばかりが聞こえて人の姿のない表の道を凝視している。
コリウスがディセントラの頭越しに窓硝子に掌を突いており、俺はといえば、咄嗟に表に走り出しそうになったのを、カルディオスに手首を掴まれて止められていた。
ヘリアンサスは相変わらず揺り椅子で寛いでおり、この異様な雰囲気すら察知しているものか定かではない。
「魔王といえば――」
「俺だろ」
コリウスが呟く言葉に、言下に俺が噛み付く。
ディセントラがぎゅうっと眉を寄せたが、それすら苛立たしく感じて俺は声を荒らげた。
「魔王は俺だろ。――いや、百歩譲って、前回まではあいつだったけど、」
あいつ、と、親指で自分の肩越しに後ろを、つまりはヘリアンサスを示して、俺はその自分の仕草へのヘリアンサスの反応の有無さえ確認する余裕を失って、言い募った。
――頭が熱い。
額の辺りに血が昇っているのを感じる。
頭蓋の中で脳がぐるりと引っ繰り返ったようにすら思った。
心臓がばくばくと肋骨を叩いている。
眩暈がする。
足許が冷える。
――俺のせいだ。
俺の頭の中で引っ繰り返った脳みそが、千年分の記憶を押し退けてあの日のことを俺に思い出させている。
――俺のせいだ。
「ヘリアンサスに縁者はいないだろ。
この世で魔王の縁者といえばルインだけなんだよ、あいつが捕まったんだよ!」
カルディオスに掴まれた手を引いて、なお俺の手首をがっちりと掴んで離さない彼に、「離せ」と声を荒らげるも、カルディオスは俺の方を見なかった。
窓の外をじっと見て、眉を寄せていた。
「……弟くんも、さすがに口は割らないだろ。なんでばれた?」
「そこなんだ。彼が捕縛されたとして――目的までが露見していれば、リリタリス卿の縁者だと疑われるならまだ理解できるが、なぜ魔王だと言われる? 飛躍し過ぎだ。有り得ない」
俺は息を吸い込んだ。
言葉が喉の奥で痞えた。
――俺のせいだ。
あの日、俺がルインに例の書状の奪取を頼んだとき、俺は何と言った?
書状のことを説明し――そこに国王御璽とトゥイーディアの血判が捺されていることを説明し――文面の説明をして――最後に。
――『御璽も、分かるな? あっちにあったのと変わらない。魔王のものと大差ない』。
俺はそう言った。
あのときは、謁見の間で人一人が惨殺された直後で、場は騒然としていた。
混乱の渦中にあって、だから俺も口を滑らせたのだ。
まさか誰かが聞いているとは思いもせず――いや聞いたところで、あの渦中にあっては誰もが聞き流すだろうと思い込んで――口を滑らせたことすら自覚せず――
だが、最悪だった。
頭の中で引っ繰り返った脳みそが、まざまざとあの日の光景を思い出している。
――騒然とする貴族と官吏たち、ごった返す衛兵。
俺とルインは花が飾られた台のすぐ傍の壁際にしゃがみ込んでいて――
俺が口を滑らせたまさにそのとき、俺たちの傍を宰相が通り過ぎていたはずだ。
老獪な宰相といえど、人が、さながら巨大な手に握り潰されるかのような異様な死に方をするのを目の当たりにして、足許も覚束ないほど狼狽していた。
だから俺は彼のことを然程気に掛けなかった。
実際、俺がルインに何を頼んだかまでは、彼も聞き取ってはおるまい。
――だが、あの言葉のみは違ったとすれば。
あれほど狼狽していてなお、宰相が俺の一言を耳に留めたのだとすれば。
為政の最前線に立つ彼が、人命を――延いては国益を損なうに足る脅威として、正しくその呼称を認識していたのだとすれば。
頭が熱い。
心臓が異様な速さで打っている。
目の奥で血管が膨らんだような気がして、眩暈がした。
――自分がしたことの重大さが、一気に心臓に圧し掛かってきた。
可能ならば肋骨の間から手を突っ込んで、心臓を引き摺り出したいと思うほどに、引き攣れたように心臓が痛んだ。
――脳が捩れたような鈍痛があった。
その捩れた脳が、状況を一から整理して思い出して把握しようとするかのように、脈打っている感覚すらあった。
そうだ、どうして気付かなかった。
あの後からだ。
目には見えていたのだ、何も結び付けて考えようとしなかっただけで。
――あの後から、俺はしばしば、恐らく同一人物だろう砂色の髪の男を複数回目にしている。
振り返れば記憶の隅にいる、その程度の認識だった。
その場で気付いていれば、何か手を打てたかも知れないのに。
あれが、あの男が、宰相が俺に付けた監視だったとすれば?
俺が口を滑らせたあのとき、宰相が――それほどの冷静さを、彼があの状況でなお残していたとは恐れ入るが――俺とルインの顔を見て、その二人を魔王の縁者であると判断して、それぞれに監視を付けていたとすれば?
俺にあの砂色の髪の男が付かず離れず纏わりついていたように、ルインにも同様の監視があったとすれば、俺がルインにした頼みは、俺が想定していたよりも遥かに困難なものとなったはずだ。
捕縛されるなと言う方が無理だ。
むしろ――コーディロイでの大捕り物が実際にルインであったとすれば――一度は王都を脱出した、その事実こそ驚嘆に値する。
――ディセントラが、振り返って俺を見た。
そして、俺の表情から大体のところを察したらしい――痛烈な舌打ちを漏らした。
淡紅色の目が、俺が初めて見るような苛立ちと激昂に煌めいて、俺はその瞬間に、彼女に殺されるのではないかとまで思い――
「――――」
――待てよ。
俺は息を止めた。
頭の中に、反射の速度で認識が積み上がっていった。
――ルインが捕まった。
もちろん助けねばならない。俺はそう約束している。
だが、待て、ルインは書状を奪取した上で捕縛されたのか?
ルインは王都付近で捕縛された――通常ならばそのままイルスに連行され、魔王の縁者というならば死罪でも軽いという判断の下、イルスの刑場で処刑されたはずだ。
だが今、こうして、ルインはベイルへ連行されている。
――どうして?
国王がいる場所に、とてもではないが魔王の縁者を近付けることは出来ない――それも理由の一つだろう。
十分に理解できる。
大陸の人々にとって魔王は、それほどの忌避の対象だ。
だが、どうして、わざわざ五日の旅路を経て、ベイルへ連れて来られている?
――もしも厭な予感というものが実体を得ることがあるのなら、俺はその瞬間に窒息していた。
そう思えるほど、喉元までせり上がる厭な予感に吐きそうになった。
ベイルは、リリタリス卿の縁の場所だ。
罪人を連行するに、まともな幽閉施設もないモールフォスは選ばれない。
リリタリス卿に縁があり、かつ罪人を連行できる場所はここ、領都ベイルのみ。
そのベイルへ、わざわざ罪人を連行して来るということは、可能性として最も考えられることは、魔王の縁者――すなわちルインとリリタリス卿との間に、何かの関係が見出されてしまったということ。
もし仮に、ルインが、例の書状を確保した上で捕縛されたのであれば。
ならばそれを為政者はどう見る。
特に権力闘争に貪欲なあの宰相は、それをどう見る。
――リリタリス卿には、救世主を私物化したという反逆の疑いが持たれていた。
そしてその冤罪を雪ぐことが出来ないままに彼は落命している。
そしてそこに――魔王の縁者が、彼の無実を証明するに足る書状の奪取を目論んだのだという事実が示されれば?
もはやその反逆が、リリタリス卿が魔王に加担したがゆえのものだと断定されかねない。
書状は本物だ。
だから書状の存在を認めればリリタリス卿の冤罪は雪がれる。
だがそれも、魔王の名が――俺たちが決めた、不可抗力といってよいだろう嫌悪と忌避が前面に立ってしまえば。
――それは駄目だ。
それだけは駄目だ。
トゥイーディアのお父さんだ。
彼女にあれほど膨大な愛情を注ぎ、大切に育ててくれた人だ。
トゥイーディアが無二の愛情を向ける人だ。
――もうこれ以上、あの人の名誉を傷つけることが許されるはずがない。
だから――
「――拙いな、彼が魔王の縁者と知られたなら、下手をすればリリタリス卿が死後なお余罪を着せられるぞ」
コリウスが低く呟いている。
ディセントラが低い声でそれに応じているが、耳鳴りのせいで聞き取れない。
カルディオスが、いっそう力を籠めて俺の手首を握っている。
痛いほどだ。
――俺は弟を信じている。
たとえ書状を確保した状態で捕縛されたのだとしても、あいつが何一つとして口を割っていないのだと信じられる。
ルインが書状を奪取し公開しようとしたのか、あるいは書状を破棄しようとしていたのか、それは確定していないはずだ。
書状の公開にせよ破棄にせよ、ルインが首謀者でないならば、まずは書状を首謀者に見せ、なるほどこれが目的の書状に相違ないと、そう確認を取ることが必要になるから。
ルインはどちらとも言っておるまい。
自身がリリタリス卿陣営に属するのかあるいはその敵か、一切口を割ってはおるまい。
ならば、まだ、手は打てる。
――トゥイーディアのことを考えた。
俺にとっての、朝のいちばん眩しいところ。
あの飴色の瞳を、呼吸を忘れるほどに鮮やかに思い描いた。
今どこに居るだろう――本当にベイルにいるだろうか。
ベイルにいるとすれば、何を考えているだろう――この事態を、彼女も察知しているだろうか。
同じ考えに至っているだろうか。
俺は彼女が好きで好きで、本当に大好きで、髪が好きで、瞳が好きで、仕草が好きで、笑顔が好きで、怒った顔すら好きで、声が好きで、――本当に全部が。
彼女のためなら何でも出来ると思えるほどに、実際にそれを行動に移せるほどに。
――リリタリス卿の汚名を雪ぐ手段を、トゥイーディアも考え付いているだろうか。
俺には分かる。
明々白々に、彼の汚名を雪ぐ手段が見えている。
俺より遥かに頭のいいトゥイーディアに、その手段が見えないはずはない。
――もしもトゥイーディアにその手段が見えていないとすれば、それはその手段を頭の中から除外して、見ないようにしているときだけだ。
トゥイーディアがそういう風に――彼女のお父さんの汚名を雪ぐに足る手段を見ないようにするとすれば――、それは多分――
――思考が千々に乱れている。
トゥイーディアが、俺がこうして思い付いた手段を採る可能性と、その手段に踏み切ることはしない可能性、それぞれを両腕に載せた天秤がぐらぐらと動いているような。
天秤の片方に、トゥイーディアが彼女のお父さんに向ける全ての感情を載せるとすれば、もう片方には俺たちがよく知る救世主のトゥイーディア、彼女の千年続いてきた人格が載る。
――トゥイーディアの千年。
彼女の好きな人は誰だろう。
もしかして俺かも知れないと思っていたが、本当にそんな奇跡があるだろうか。
いや、さすがにないか。
だが、どちらにせよ、トゥイーディアは――
本当に優しい人だ。
情に脆く、感情の振れ幅が大きく、だからこそ俯瞰的に物事を見ようとする。
どんなときであっても、どれほど蟠りを抱えていても、俺が危ない局面になれば、真っ先に助けに飛んで来てくれたトゥイーディア。
いつ如何なるときも仲間の一人も見捨てたことはないトゥイーディア。
俺のことも、一度も見捨てたことはない。
彼女はいつでも俺を助けに来てくれた。
俺が剣奴として生まれつき、来る日も来る日も喝采と罵倒と砂塵の中で闘っていたときも、地下に閉じ込められた上に大量の亡霊に取り囲まれていたときも。
――一昨日、考えた。
もうこうなった以上、こちらで人質を取ることでもしなければ、トゥイーディアは二度と俺たちの前に姿を見せてくれはしないのではないかと。
――俺はその人質になれるだろうか。
――俺が捕縛されて予後幾許もないとなれば、それは、トゥイーディアの心を動かすに足ることだろうか。
リリタリス卿の汚名を雪ぐ手段、そしてトゥイーディアという千年続いてきた人格、その両方を思って俺は、それらが真逆の結果を招くことになるかも知れないにせよ、トゥイーディアが動いてくれることを期待できる。
それぞれを両腕に載せた天秤はぐらぐらと揺れていて、招く結果は真逆にせよ、その過程で達成される、一つの共通の出来事があるはずだ。
――即ち、トゥイーディアが、もういちど俺の前に姿を現すという出来事が。
そして俺は、ここにいる仲間を信じている。
◆◆◆
カルディオスが、ふと俺を覗き込んだ。
眉を寄せて、翡翠の目を細めて、訝しそうに彼が俺を呼ぶ。
「――ルド? どうした」
俺は息を吸い込む。
――ここからは賭けだ。
俺がここで動くことを、ここにいる人間がどう捉えるか。
俺が動くこと、その動機に、僅かでも俺のトゥイーディアに対する好意を結び付けて考える者があれば、もう俺はその瞬間から動けまい。
だが、俺には、この千年がある。
この千年、揺らがず動かず、トゥイーディアに対して徹底的に冷淡に接し続けてきた過去がある。
――今さら誰も、微塵も、俺がトゥイーディアをこれほど大切に思っているなどとは思うまい。
だがそれでも、その瞬間、俺は声が出なかった。
コリウスが俺を振り返った。
濃紫の目が、黙り込んだ俺をまじまじと見て、
――かつての俺なら、一番最初の人生を辿っていた俺なら、かちり、と、運命が切り替わる音を聞き取っていたに違いない。
思わず笑いそうになる。
あるいは泣きそうになる。
こいつは――他人への関心も薄い冷血漢のくせに、こいつは。
結局誰よりも身内に甘いのはこいつだ。
俺がこいつに課した、過酷極まる呪いですら、こいつのこの生来の善性を打ち消すには足りなかったのだ。
――ありがとう、コリウス。この瞬間に俺を信じてくれて。
コリウスはまさか、俺がこれほどの暴挙に出るとは思わなかったのだろう。
俺が心底嫌っているように見えるトゥイーディアが絡むことで、俺が博打じみた行動に出るなどと、そんな馬鹿げたことはしないと、そう信じてくれたに違いない。
だからこそ。
あの夜、俺がこいつに掛けた呪いは、〈心から信じた人に裏切られる〉こと。
「――俺が、」
声が出た。
ディセントラも俺を振り返った。
俺を振り返って、そして大きく目を見開いた。
慌てたように彼女が出窓から立ち上がり、勢い余って前のめりによろめく。
それを無視して、俺は狂ったように打つ心臓を宥めながら、声を押し殺して続けている。
「俺のせいでルインのことがばれてる。――行って、助けて来るから、」
「ルドベキア」
コリウスが声を荒らげる。
俺の後ろで、がたん、と音がしたが、俺は振り返ることが出来なかった。
コリウスもそちらは見ていなかった。
滅多にないほど厳しい表情で、彼が語調を強めている。
「この馬鹿が。――いいか、トゥイーディアがベイルに居るというのは、あくまで可能性の話なんだ。
そんなことをして、無駄にならないとも限らない――」
「ルドベキア」
後ろから名前を呼ばれて、俺は振り返った。
コリウスが弾かれたように口を噤む。
カルディオスが、咄嗟にだろうが俺の手を離していた。俺の手首には赤く痕が残っている。
真っ白な礼装を着たままのヘリアンサスが、俺のすぐ後ろに立っていた。
コリウスが声を荒らげたから、それで今の事態が尋常ではないと気付いたのかも知れない。
あるいは単純に、俺の頭の中を覗き見たのかも知れない。
ヘリアンサスが、黄金の双眸で瞬きもせずに俺を見て、透き通るほどの無表情で、確認するように、俺の名前を呼んでいた。
「――ルドベキア」
「ヘリアンサス、待ってて」
今度こそ、抑えようもなく、心臓が早鐘を打ち始めた。
背中にじっとりと汗を掻いていることを自覚する。
ヘリアンサスの黄金の瞳の奥を見て、俺は、強いて落ち着いた声で。
「ルインが――俺がこっちに連れて来たやつが――、今、捕まっててやばいんだよ。
俺が行って、助けて来るから、」
「ルドベキア、駄目だ」
ヘリアンサスが、はっきりと言った。
表情は一塵も動かなかった。
ただ左手を伸ばして、俺が贈ったカライスの腕輪を揺らしながら、彼は俺の右手を掴んだ。
俺は一瞬、そのまま腕を折られるのではないかと思った。
――だがそうはならなかった。
ヘリアンサスはただ、尋常の力で俺の手首を掴んでいた。
「駄目だ」
「トゥイーディアに用があるんだろ」
そう、俺は言っている。
俺に課された代償が、決して俺の行為の本音を、どんな手段を使ってでもトゥイーディアに会いたいのだということを、口に出させない。態度に出させない。
「上手くすれば、あいつ、出て来るよ」
「駄目だ」
ヘリアンサスが、断固として繰り返した。
俺の手首を握る手指に、ぎりぎりと力が籠もり始めた。
――俺は顔を歪めたが、その意味がヘリアンサスに分かるのかどうか。
「――ヘリアンサス、離してくれ。痛い」
「ルドベキア」
ヘリアンサスが静かに俺の名前を呼んで、俺は息を止める。
ディセントラが両手で唇を覆って、無いも同然の僅かの距離を後退り、出窓にぶつかってよろめくのが視界の端に見えた。
カルディオスもコリウスも、ヘリアンサスが激昂し始めたことを感じ取って、彼を見据えて微動だにしない――出来ない。
ヘリアンサスが、淡々と、いっそ穏やかななまでの口調で、言っている。
「ルドベキア、駄目だ。――言ったはずだ。おまえはおれに殺されてくれ。おまえの命の有無を決める大きな権利を、他の何にも持たせないでくれ」
俺は僅かながらに手を引いたが、ヘリアンサスの手を振り払うことは出来なかった。
――息が詰まる。
「ヘリアンサス、大丈夫だから」
「駄目だ」
もはや頑是ないまでの口調で、ヘリアンサスが断言した。
いっそう強く手首を握られて、俺は低く呻く。
「ルドベキア」
ヘリアンサスが俺の顔を覗き込む。
石のような無表情で、しかし黄金の目が――もうあの、地下神殿にいたときの目ではなかった。
熱の灯ったその双眸で、ヘリアンサスが俺の目を真っ直ぐに見据えていた。
「駄目だ。――おまえは弱いし脆い。すぐに死ぬ。
それなのに、何も考えずに死ぬようなことをするんだろう。駄目だ」
「――ヘリアンサス」
俺は懸命に、痛みに歪もうとする表情を取り繕って、ヘリアンサスの手を掴んだ。
半ば以上が、俺の手首を握り潰さんばかりのヘリアンサスの手を離させるためだった。
「大丈夫だから。ヘリアンサス、ちゃんと戻って来るから。約束する」
「……――は?」
ヘリアンサスの表情が歪んだ。
笑おうとして、しかし笑えなかったように。
――こいつのそんな表情を、俺は初めて目の当たりにした。
「――約束?」
ヘリアンサスが、微かに震える声でそう言った。
――俺は呼吸を忘れた。
目を見開いた俺自身の表情が、ヘリアンサスの、歪んだ鏡面のような黄金の瞳に映っていた。
「おまえは――約束を守ったりしないだろう」
囁く声音でヘリアンサスが言った。
彼の眉が歪んだ。泣き出す寸前のように。
「おまえは戻って来ないだろう」
「――――」
息を吸い込み、今度は引き離すためではなくて――純粋に手を握るためにヘリアンサスの手の甲に掌を重ねて、俺は答えた。
「――戻っただろ。千年掛かったけど」
ヘリアンサスが口を開いた。
それから彼が声を出すまでの一拍の間を捉えて、俺は言い募っている。
「もうおまえのこと忘れたりしないよ。ちゃんと戻って来る、大丈夫だ」
「――駄目だ」
ヘリアンサスが首を振った。
頑として俺の手を離さなかった。
「駄目だ。ルドベキア。許さない」
窓の外から、また声が聞こえた――「魔王の縁者である! 身を庇え!」。
俺は息を吸い込む。
ちらりと出窓を振り返る。
表の道に衛兵はいない。
ここではない別の大通りを通るのか。
ルインはどこだ。
「――おまえはおれの番人だろう」
ヘリアンサスが囁くようにそう言って、俺はヘリアンサスに目を戻す。
瞬きもしない黄金の目を見据えて、俺は唇を噛んで、
「ちゃんと戻るよ。――頼むよ」
ヘリアンサスの手を握って、彼の顔を覗き込んで、俺は懇願していた。
もうずっと長い間、意識せずとも呼ばなくなっていた呼称が、俺の口から発作的に転がり落ちた。
「頼むよ、兄ちゃん。
弟みたいなものなんだ――弟なんだよ」
「――――」
ヘリアンサスが目を見開いた。
彼の両手から力が抜けた。
素早くヘリアンサスの手の中から自分の手を引き抜き、俺は、少し迷ってから――茫然としたように俺の動作を目で追うヘリアンサスの首許に手を伸ばした。
ヘリアンサスの首に掛かる金鎖を軽く引き、留め金を外して瑠璃の首飾りを取り上げる。
それを自分の首許に着け直しながら、俺は言っていた。
「これ、預かっとく。――言っただろ」
ヘリアンサスの左手首を示す。
「それは、俺と一緒だから。おまえと俺は一緒にいるんだよ。
――で、これは、」
首飾りの金鎖を軽く持ち上げて。
「おまえと一緒だから。
おまえは俺と一緒だ。大丈夫だ」
ヘリアンサスは答えない。
茫然と俺を見ている。
俺は軽く微笑んだ。
「ちょっと預かるけど、これ、絶対に返すから。大丈夫だから、待っててくれ。
――いつもと同じだ。番人ルドベキアは、守人ヘリアンサスのところに会いに来る」
「――――」
ヘリアンサスは何も言わない。
無言で、凝然と、微かに唇を開いたまま、呼吸も止めて俺を見ていた。
首の後ろで金鎖の留め金をかちりと合わせて、俺は振り返りながら、立て続けに言った。
「カル、いつも悪い――おまえに恨みがあるわけじゃないんだけど、ヘリアンサスを頼んだ。
あと、ルインを頼む。本当に頼む。あいつ、疲れてるはずだから」
「いや、おい」
カルディオスが、唐突に息を吹き返したようにそう言って、半歩詰め寄ってきて、俺の肩を掴んだ。
「馬鹿、コリウスの言う通りだろ。イーディだっておまえのことは怒ってんだ、おまえがどうこうなったところで出て来てくれねーぞ。
弟くんのことが心配なのは分かるけど、それなら俺たちが一緒に行く。一緒に行って、適当に連中を蹴散らして、弟くんを助けてここから逃げればいいだろ」
「救世主が物騒なこと言うなよ」
嘯いて、俺は軽く手を上げて、カルディオスの手を振り払った。
「ここで逃がせば、トゥイーディアは捉まらないだろ。――ヘリアンサスの用が済まない」
「……は?」
ディセントラが、耳を疑うといった様子で俺を見て、呟いた。
淡紅色の瞳に衝撃が、衝撃以上の軽侮が浮かんだ。
「ここまできて、まだ言うの? イーディよりそいつなの?」
俺は肩を竦めている。
「ルインを助けて、あいつが釣れるなら安いもんだろ。――俺は魔王だから、どうせ大したことにはならない」
後半は、むしろヘリアンサスに聞かせるために口に出したようなものだった。
――ヘリアンサスは何も言わない。
微動だにしない。
「トゥイーディアが来なかったらどうするつもりだ。おまえが、例えば処刑台に登るまでトゥイーディアが現れなかったら? 大人しく首を斬られるつもりか」
コリウスが、言い聞かせるような早口でそう言った。
俺に思い留まらせようとしている。
そう分かる。
「断頭台はこないだ壊れたままだろ」
意識せずにそう切り返したあとで、俺は半ば本気で言った。
「――それに、魔王の処刑が新聞に載らなきゃ詐欺だろ。
あいつ、見物には来るんじゃないか? そこをおまえらで捕まえてくれよ」
「自分が何言ってるか、おまえ分かってる?」
カルディオスが、茫然とした余りに力の抜けた声で呟いた。
俺は首を傾げる。
――俺は本当に嫌な奴だ。
トゥイーディアが絡むといつもこうだ。
「大丈夫。上手くすればトゥイーディアに恩を売れる。
そうすりゃあいつだって、ヘリアンサスの言うことに聞く耳の一つくらいは持つだろ」
「おまえ――」
コリウスが、初めて見るような強張った顔で俺を見て、俺を指差した。
その指先が微かに震えていた。
「――この期に及んで、何を言っている。
おまえこそ、良心の一つも持て」
「良心?」
一歩下がって玄関の方へ身を翻し、俺は心底からの実感を籠めて。
「とっくの昔に壊れたな」
◆◇◆
扉が閉じて、ルドベキアが出て行った。
おれは崩れるようにその場に膝を突いて、その瞬間にカルディオスたちが驚いたようにざわめくのが聞こえたが、もうそちらに注意を払うどころではなかった。
ルドベキア。
この馬鹿息子。
おれの、おれにとっての、夜のいちばん明るいところ。
いつもいつも、おれの前から消えてしまう番人め。
――おれはもはや無意識に、両手を握り合わせてそれを額に当てている。
目を閉じて、おれのものではないおれの目を通して、切れ切れに見える――滲んだ水彩画のように輪郭を取らない、色をぶちまけたように見える景色の中を進んで行くのが見える、ルドベキアの姿を追う。
あの馬鹿息子。
あいつが考えていることを、おれが分からないと思ったのだろうか。
あいつがどういうつもりで、どこまでを覚悟の上で、ああして出て行ったのか、この世でおれだけが全部を理解できているのに。
おれには要らないはずの心臓の鼓動が、あの日に押し付けられた鼓動が、狂ったように打っている。
ルドベキアはどうやら、どこかの屋根の上に昇っている。
そこから四方を見渡して、目的の方向を見定めている。風が吹いて、あいつの漆黒の髪が揺れる様子すら、曖昧で定まらない視界の中でさえ見て取ることが出来た。
――そして、ひとつ頷いて走り出す。
走って、どこかへ飛び移って、また走る。
ルドベキアの姿が視界から消えたり現れたりする。
それは取りも直さず、今この世にある世双珠が、かつて――千年か、二千年か、あるいはそれ以上前か――に比べて、まだ少ないことを示している。
かつてのおれならば、世界中のどこであっても、何不自由なく覗くことが出来ていたのに。
「――魔王の縁者の拘引である!」
また、窓の外から声がする。
この声が示す人間をおれは知らない。興味もない。
だがそのためにルドベキアは出て行った。
――ルドベキアの頭の中にあったのは、まずはこの声が示す人間を、あいつが弟だと言った人間を、何が何でも救い出さねばならないという、断固たる決意だった。
次にご令嬢のことだった。
ご令嬢が姿を現す可能性を考えて――その目的を考えて――
「――どーする? マジで、ルドを行かせたままでいいの?」
カルディオスが、切羽詰まった声でそう尋ねている。
出窓に張り付かんばかりで、窓の外を熱心に覗き込んでいる。
「いい――それはいいわ。分かるでしょ、力量だけでいえば、ただの兵士が何人掛かりでもルドベキアには敵わないわ。ルインくんを助けて、余裕で逃げられるでしょうけど――」
「あいつにその気がないだろうな」
女王が抑えた語調で口早に応じて、銀髪もそれに続けて呟いて、カルディオスと並んで窓の外にじっと視線を注ぐ。
「わざと捕まるってか? イーディが来るかどうかに賭けて?」
「多分そうするつもりなんでしょうね。随分と――ヘリアンサスの目的を達成することにご執心のようだったから」
やや皮肉っぽく女王がそう言って、カルディオスが息を吸い込む。
「イーディが来てくれるなら、そりゃもうこっちとしては万歳だけど――」
「馬鹿ね、イーディが来てくれるとして、何のために来ると思ってるのよ」
女王が舌打ちしてそう言って、カルディオスが二の句を失った様子で絶句する。
銀髪が窓の外から女王へ視線を移して、暗い声で呟いた。
「――ルドベキアも、トゥイーディアに恩を売れると言っていたな。
ある程度のところまでは考えているんだろうが――」
「本当に馬鹿ね」
女王が腹立たしげに言って、その場で足を踏み鳴らした。
「もういいんじゃない? イーディがルドベキアの首を斬るなりなんなりしても」
「いや、さすがに――」
カルディオスが言い淀む一方、銀髪が懇々と言い聞かせるような口調で。
「ディセントラ、馬鹿を言うな。そんなことになったら、次から――」
「次?」
女王が高飛車に訊き返して、銀髪が口を噤んだ。
女王が苛烈な語調で言葉を重ねる。
「次なんてあるの? もうここまで滅茶苦茶になったのよ、次があったとしてあんたたち、またお互いにお互いを捜して会おうなんて思える?
――それに、」
息を吸って、女王が声を大きくする。
「救世主が魔王を斃すための転生なんでしょう? イーディが本当にルドベキアの首を斬れば、それって達成されるんじゃないの?
だったら私たちが次に生まれなくても不思議はないし――」
カルディオスが呆気に取られたように女王を見ている。
女王の声が上擦る。
「それにそもそも、世界はもう限界って話だったでしょ。
私たちが次に生まれるまでには、あの子、もう壊れちゃってるんじゃない」
「トリー――」
カルディオスが呟くように呼んで、少し言い淀み、それから遠慮がちに言った。
「ごめん、泣くな、ちょっと落ち着け」
おれは顔を上げられない。
あの女王が――姿を見せるだけで万に及ぶ群衆を跪かせた女王が――本当にその目から人の気持ちを零すことがあるのかどうか、それを確かめることすら今は億劫だった。
――ルドベキアが走っている。
繰り返し、どこかへ飛び移っては走り、また跳んでは走って――これは屋根の上を渡り歩くように走っているのかも知れない。
切れ切れに見えるその姿が、軽く息を上げながら遂に足を止めた。
足許のその更に向こうを見下ろして、ルドベキアが口を開いて、
「――ルドのところに助太刀に行くか?」
カルディオスが、さかんに踵を上下させながら尋ねた。
声が上擦ろうとしているのを、必死に抑えた、といった風な声だった。
銀髪が応じる。
口早に、言葉の数歩先で物事を考えているみたいに。
「いや、駄目だ。あいつの考えでは、自分が魔王だと名乗りを上げるつもりだろう。しかもそのまま捕まるつもりだ。下手に行っても、あいつが僕たちのことは知らないと白を切るぞ。特にディセントラは駄目だ」
「なんでトリー?」
「王宮で救世主だと名乗りを上げただろうが。救世主が魔王を助けに行ってどうする。僕とおまえに関しても、レイヴァスの国王からアーヴァンフェルンの皇帝に確認が入れば身元は割れる――救世主として扱われていることはすぐに知られる」
カルディオスが息を吸い込む。
「――今そんなこと言ってる場合か!?」
銀髪の声は、いっそ辛抱強くさえあった。
「こんなことを言っている場合なんだ。ルドベキアがあそこまでの暴挙に出たんだ、こちらで事態を収拾させずに誰がする。
何をするにせよ、馬鹿正直に姿を見せるよりは影にいる方が賢い。特に、僕たちが出て行ったところでルドベキア自身がどうする気もない今は」
カルディオスが押し黙る。
――この都市のどこかの屋根の上に立つルドベキアが、風に髪と衣服をはためかせながら、断固として声を上げた。その声が見えた。
『魔王ならここに居るぞ!』
そして、飛び降りる。
刹那、ルドベキアの姿が視界から消える。
次の瞬間には、誰かが持つおれの子供を通した視界に、ルドベキアがいっぱいに映っている。
視界が揺れる。
上手く俯瞰できない。
だが状況は分かる。
ルドベキアが、恐らく、群がっていた人間の中に突っ込んだのだ。
瞬く間に数人を殴り倒して、わっと警戒と猜疑の声が上がるのが見える。
ルドベキアが更に数人を、もはや魔法も使わずに殴り倒して蹴り飛ばしながら、人間たちの間に目を走らせる。
おれのものではないおれの目を通しては、人間以外のものは輪郭も取らない雑多な色彩にしか見えない。
だからよくは分からないが、そこには人間の他にも、複数の馬車もある様子だった。
ルドベキアがその一つに走り寄って、無造作に扉を開け放つ。
途端に上がる悲鳴、馬車の中にいた誰かがルドベキアに向かって魔法を撃つ。
ルドベキアが面倒そうに微かに首を傾げて紙一重でそれを避けて、ぱっとあいつの漆黒の髪が散るように靡く。
ルドベキアが馬車の中を一瞥して舌打ちし、乱暴に馬車の扉を閉める、仕草をした。
それから少し顔を顰めたのは恐らく、中から繰り返し撃たれる魔法で、馬車の扉が音を立てて変形したがゆえか。
ルドベキアの後ろから魔法が飛んだ。
この時代、殆ど全ての魔法は、おれの子供――おれの苦痛の産物を通して使われる。
おれは咄嗟に、本当に反射的に、この距離であっても、視界を頼りにルドベキアの周り中の人間の息の根を止めようと、
『――駄目だぞ』
ルドベキアが、小さく呟くのが見えた。
おれに向かって言っていた。
おれが今まさに、ルドベキアを見ていることを確信して、おれの息子は呟いていた。
『大丈夫だからな、手ぇ出すなよ』
ルドベキアの後ろから飛んだ魔法が、ぴた、と止まった。
空気が硬化して、つまりはあるべき形から変容して、ルドベキアを守っている。
今度こそ、絶叫じみた悲鳴が上がった。
おれの視界を埋めるほどの騒音だった。
いや、実際に、ここにいてなお、耳で微かにその声が聞こえたかも知れない。
『――魔王だ!』
『魔王だ! ここに――どうして!』
悲鳴が上がる。
ルドベキアたちが決めた絶対法を超えることが出来るのは救世主、あるいは魔王のみ――その事実、誰もが知るようルドベキアたちが流布を決めたその事実が、今、人間たちを心底震え上がらせている。
ルドベキアが、にやっと笑った、ように見えた。
ぱちんと指を鳴らして、途端にあいつの目の前で硬化していた空気が甲高い音を立てて砕け散る。
ルドベキアを囲む人間は及び腰で、逃げ出そうとするのを必死に思い留まっているかのような有様。
その中を走って、ルドベキアがまた、先ほどとは別の馬車の扉を乱暴に開く。
そして、顔色を変えて馬車の中に身を乗り出した。
何か叫んだ。
名前のようだったがよく見えない。
『――殺せ!!』
声が上がったのが見えた。
恐慌に上擦った声が、きんきんと空気を伝わる様が見える。
『殺せ、魔王――魔王だ!! 殺せ!
救世主はどこにいるんだ!!』
ルドベキアが、馬車から誰かを引き摺り出した。
乱暴に一人を馬車の外に放り出して、更に馬車の中で幾発か魔法を撃った。
ルドベキアに馬車の外に放り出された人間が、苦しげにばたばたと動いた。
ルドベキアを取り囲む人間たちのうちの誰かが、その人間に手を伸べて、引っ張り上げるように助け起こそうとして出来ず、ずるずると彼の身体を引き摺って後ろへ下がろうとする。
ルドベキアはそれから、打って変わって丁寧な手付きで、誰かを馬車の中から引っ張り出した――よく見えない。
それはその人間の頭から、恐らくは麻袋か何かだろうが、そういったものが被せられているからだ。
おれからは不具にしか見えないその人間が、歩くことすら儘ならない様子でふらつく。
ルドベキアが、全身を使ってそれを支えている。
魔法が飛ぶ。
その全てを、苦も無くルドベキアが受け止めている。
『救世主は――』
誰かが、ぞっとしたように呟く。
声が激しく震えている。
しゃくり上げるように、その声が叫ぶ。
『救世主は、我々を助けない! 処刑場で――聞いたでしょう!!』
『殺せ!! 魔王だ――殺せ! 殺せ!!』
幾つもの声が上がる。
おれは息が詰まる。
ルドベキアは周囲を見もせずに、支えた人間の頭に被せられた麻袋を引き剥がした。
露わになる顔、灰色の髪が乱れて、猿轡を噛まされているのだろう人間が、柘榴色の目を大きく見開いてルドベキアを見上げる。
顔貌は蒼白で脂汗が浮き、髪が額に張り付いている。
全身が、おれから見て分かるほどに傷だらけだった。
ルドベキアが眉を寄せ、はっとしたように呟く――『脚を折られたのか』。
ルドベキアが軽く手を振る。
おれが魔王に許した治癒の権能が働くのが見えた。
同時に、別の魔法も使った。
灰色の髪の例の人間の四肢は縛められているようだったから、それをどうにかしたのかも知れない。
手を上げて、ルドベキアがその人間の口許から猿轡を取り払って、
「――随分派手にやっているな」
銀髪が、低く呟いている。
彼は再び、出窓の外をじっと見詰めている。
「どこだ? ――ここからでも音が聞こえるんだ、そう遠くはないだろうが……」
「……イーディにも聞こえているかしら」
女王が呟き、その声は微かに震えている。
『――悪かった』
ルドベキアが囁く。
猿轡を足許に放り投げて、踏み付けた。
それから、自分が支えるその人間の髪を撫でて、そしていっそう小さな声で。
『……少しなら走れるか』
灰色の髪のその人間が、口を開いた。
唇が切れているのが見えた。血が滲んでいる。
口を開き、息を吐き、何かを言おうとしている。
柘榴色の目が激しく揺れている。
ルドベキアが、小さく微笑んで、――しかし一転、顔を上げた。
目を細め、もはや動作を介して集中するまでもなく、立て続けに魔法を撃っていく。
おれから見れば、手加減をしているどころか、子供の手遊びに付き合ってやっているような魔法だと分かる――だがそれを受けて、ばたばたと人間たちが倒れていく。
倒れた人間が、しかしおれの視界から消えない。
つまりは存在をやめていない――死んでいない。
ルドベキアを取り囲む人間は、どれほどの人数だろう、もう数える気も起きない。
角笛が吹き鳴らされ、その音はおれ自身の耳にも聞こえ、都市のあちこちを練り歩き、住民に外出を禁ずる旨を声高に叫んでいた警吏や衛兵までもが、わらわらと四方から駆け寄って来ている。
『殺せ! 魔王だ! 殺せ!!』
魔王、と聞いて、新たにその場に駆け付けた者たちの顔が歪む。
疑念と驚愕に、「本当か」と言い交わす声が見えたが、先んじてその場にいた者が、絶叫するようにそれに応じる――「絶対法を超えたんだぞ!」。
ルドベキアの取り囲む人間の表情には恐怖が、混乱が、そして恐慌が、そして我を失ったような色がある。
最前線に立つ者に至っては足が震えており、それでも必死に、懸命に、武器を構える仕草をしていて、
「魔王に怯えて、兵士が潰走でもしてくれれば話は早いんだが――」
銀髪が押し殺した声でそう呟いて、しかしそうはなっていないことをおれは見て取っている。
『――――』
ルドベキアが、灰色の髪の人間の耳許で何かを囁いた。
声が余りにも小さくて、それはおれにも見えなかった。
ただ灰色の髪の人間が大きく目を見開いて、首を振ったのは見て取れた。
痙攣するように激しく首を振り、灰色の髪の人間が縋るようにルドベキアを見上げている。
彼の手が動いた。
どうやらルドベキアの衣服にでも縋ろうとしたようだった。
だが、どうにも上手く手が動かないのか、だらん、と彼の腕が垂れた。
その手を、逆にルドベキアが取って――
魔法が働いたのが見えた。
おれの視界からは、灰色の髪の人間の姿は消えていない。
だが他の人間の視界からは消えたのだ、そう分かる。
目くらましのための魔法だ。
ルドベキアを囲む人間たちがどよめく。
ルドベキアが、灰色の髪の人間から手を離した。
よろめいたその人間が、馬車の方へ後退る。
ルドベキアはもはやそれを一瞥もせずに前へ進み、それは多分、灰色の髪の人間の方から、他の人間たちを引き離すためだった。
灰色の髪の人間が口を開け、何かを言おうとして、だがそれを呑み込んで棒立ちになっている。
足が震えている。
ルドベキアが複数人を相手取って、馬車から離れる方へ動く。
目まぐるしく視界が動き、おれはいっそう、現実にあるおれの両目を固く瞑る。
組んだ両手は痛いほどで、額に両手を押し当て膝を突くおれを、カルディオスがどういう気持ちで見ているのかすら気にならない。
灰色の髪の人間が、ゆっくりと、強張った動きで足を引いた。
馬車を回り込んで、静かに静かにその場を離れようとしている。
だがその目は、ルドベキアの方へ釘付けになっており、彼は数度、倒れそうなほどによろめいた。
――だがそれはどうでもいい。
おれはこの人間に興味がない――いや、それは嘘になるか。
ルドベキアがもしも、おれ以外の何かの手に掛かって死ぬようなことになれば、おれは絶対にこの灰色の髪の人間を許さない。
ルドベキアが助けに行った、一時的にとはいえおれに優先するものとして判断した、この人間を断じて許さない。
十重二十重に取り囲まれて、しかしルドベキアは些かも怯んでいなかった。
むしろ注意深いような表情で――耳を澄ませて何かの前兆を捉えようとしているようで――
――頼む、と、このとき初めておれは思った。
おれを助けなかった、おれを助けずにあの盲目の女のことは助けていた、それを知ってからずっと、恨み以外の感情を抱いたことがないルドベキアの想い人に、全身全霊で縋るほどに強く思った。
――頼む、ルドベキアはもう誰の言葉も聞かないが、けれど想い人だけは別だ。
今ここに彼女が現れさえすれば、ルドベキアはすぐにでもここに戻って来てくれるのだ。
あいつの脆い命を、危ない橋の上に載せていることをやめてくれるのだ。
だから頼む。
兄ちゃん、と、あいつがおれを呼んだ。
もう千年も聞いていない呼び方だった。
昔はそう呼んでくれていた。
あいつにそう呼ばれてしまうと、もうおれに出来ることは殆どないのだ。
昔からそうだった。
どんな状況に自分が置かれているのか、十分にそれが分かっていてなお、おれは――あのとき――父さん、と呼ばれて振り返って、そして危うく壊され掛けたのだ。
だから――
ルドベキアが、ちら、と後ろを振り返った。
直後に後ろから肩を撃たれて、ルドベキアが前のめりによろめき、その場に膝を突く。
――気付いていたくせに、撃たれることは分かっていたくせに、避けなかったのだ。
この馬鹿息子が。
膝を突いたルドベキアに、ここぞとばかりに人間が群がった。
殺到する人間と、その数に比例する暴力に、さすがにルドベキアが顔を顰める。
雨霰と魔法が降って、あるいは打突の衝撃があって、ルドベキアが顔を歪めている。
誰かが――おれのものではないおれの目を通すおれの視界に器物は見えないから、確とは分からないが――槍の柄のようなもので、ルドベキアの頭を思い切り突いた。
そのまま、人間の一人が力任せにルドベキアの髪を掴んでその場に引き倒した。
ふうふうと人間の息が荒らいでいる。
歯を食いしばり、顔を真っ赤にして、その人間がそのまま、ルドベキアの頸を斬ろうと――
おれは息を止めた。
だが、どうやら刃はルドベキアの頸の寸前で止まったようだった。
人間たちがどよめき、恐慌に叫ぶ。
ルドベキアは、まだこの場では殺されるつもりはない。
――だが、何かがあってあいつの意識がなければ?
あいつは弱いから、何が起こるか分からない――
地面に引き倒されたルドベキアの肩を誰かが掴んで、引き起こした。
地面に擦れたルドベキアの頬に切傷が出来て血が滲んでいる。
顔を顰めるルドベキアの顔面、正しくは恐らく目の辺りに向かって、刃物が振り被られたようだった。
だがそれも、ルドベキアがぴたりと止める。
ルドベキアはいっそ面倒そうな顔をしている。
人間がどよめき、声高に何かが言い交わされて、間もなくして何かが――恐らくは、先ほどまではあの灰色の髪の人間の頭に被せられていた麻袋が――ルドベキアの頭に被せられた。
後ろ手に拘束されて、頭に布を被せられているのだから当然に視界が働かないだろうルドベキアが、乱暴に引き立たせられてよろめく。
弾けるような音がして、この音は実際のおれの耳に聞こえたわけだが、ルドベキアが苦しそうに身体を折った。
そのまま、乱暴な手付きでルドベキアが馬車の方へ追い立てられていく。
喝采が上がった。
これもまた、おれの実際の耳に聞こえた。
割れんばかりの歓声と喝采が上がり、堪えかねた様子で窓から顔を出す人間たちもいる。
「――ルドベキアか」
銀髪がそう言って、とうとう彼も出窓の掛け金を外し、窓を少しだけ開けて、外へ身を乗り出した。
「捕縛されたか」
「そのつもりだったんでしょうけど――イーディは?」
女王が切迫した声でそう言っている。
声が微かに上擦り、震えている。
「イーディがすぐに出て行ってくれれば――もういっそ、殺し合いの続きをするにしてもよ。ルドベキアが自力で逃げ出して、戻って来てくれるはずなんだけど」
「イーディがほんとにベイルに居ればの話だろ」
カルディオスがそう言って、顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
「――イーディはどこだよ」
カルディオスの声がつらそうだったので、おれの胸が痛んだ。
答えてやりたいな、と思って――
――そのとき、唐突に、視界の端に飛び込んでくるようにして――、見えた。
掠めるように、だが確かに、おれの、おれのものではないおれの目が、ご令嬢の姿を捉えた。
――おれは呼吸を忘れる。
この千年の間にすっかり習慣づいたはずの、呼吸のための動作を忘れる。
ご令嬢は――ルドベキアの想い人は、どこかに座っている。
詳しい位置は分からないが、近い。
それは分かる。
この光景は、おれが今いる領都ベイルのどこかの、それも近い距離にある光景だ。
滲んだ水彩画のように雑多な色を敷き詰めて見える空間の中に、ルドベキアの想い人は静かに座っている。
蜂蜜色の髪は解かれていて、片側に纏められて胸の方へ流されていた。
傍にはあの青髪の子もいて、あの子は横になっていて、相も変わらず昏々と眠り込んでいるようだった。
ルドベキアの想い人は時折、その髪を撫でたり、あるいは彼女の顔から髪を払ったりしながら、定期的に青髪の子の呼吸を確認している。
切なげに、思い詰めたように青髪の子の顔を覗き込んで、彼女の手を握っている――
それから彼女は、顔を上げた。
瞬きし、蜂蜜色の髪を耳に掛けながら、右側を振り仰ぐような仕草をした。
そちらに窓があるのかも知れない。
窓を通じて、喝采と歓声が聞こえてきたのだろうと分かる。
窓を開けているのだろう――魔王、魔王と連呼する声に、ルドベキアの想い人が微かに飴色の瞳を見開く。
気付いたのだ。
ルドベキアのことだと気付いたのだ。
ご令嬢は、少し首を傾げて何かを考えた。
ルドベキアの身に起きたことについて、推察するような顔をしていた。
それから、自分が固く手を握る青髪の子をじっと見下ろして――その手を離して、立ち上がった。
そして、窓までの短い距離を歩いて、少しも考えずに、きっぱりと――窓を閉めた。
掛け金を下ろした。
それから、また青髪の子の傍に腰掛けて、彼女の頬を撫でて手を握り直す。
唇をきゅっと結んで、蒼褪めた瞼を下ろす。
「――――」
おれは息を呑んでいた。
いつの間にか立ち上がっていたが、いつ自分がそうして立ち上がったのかすら自覚になかった。
――ご令嬢が、ルドベキアを見捨てた。
おれは知っている。
六人の救世主がおれのところへ来る度に、深いところまでは――特にカルディオスに関わることは――見なかったにせよ、誰かの頭の中を覗いて、大体の情報を把握するようにしていたから、知っている。
――今まで、ルドベキアの想い人は、ただの一度もルドベキアを見放したことはない。
その彼女が、今、明確にルドベキアを見捨てる挙動を取った。
「……ご令嬢は来ない」
おれは呟いた。
弾かれたように、三人がおれの方を見た。
カルディオスが立ち上がって、口を開けて、しばらく言葉を探すように視線を彷徨わせてから、茫然と呟くように尋ねてきた。
「――イーディがどこにいるか分かったのか?」
おれは瞬きする。
おれのものではないおれの目が齎す視界の中から、ご令嬢の姿が掻き消える。
「――どこに居るかまでは分からないけど、この近くだね」
強いて静かにそう応じて、おれはカルディオスが翡翠の瞳を見開くのを見守る。
カルディオスはばっと他の二人を振り返って、「近くに居るなら、」と声を上擦らせる。
「イーディを捜して、それで、」
「それで何て言うの? 『ルドベキアが、イーディが来ることを期待して捕まっちゃったから助けに行ってくれない?』って、そう言うつもり? 今のイーディに?」
「でもイーディがこっちに居さえすれば、ルドだってもう捕まってる理由はないわけだろ。自力で戻って来てくれる――」
「トゥイーディアがこちらに戻ったことを、どうやってあいつに教えるんだ」
三人が言い交わすのを聞きながら、おれは目を閉じる。
呼吸の仕方を思い出しながら息を吸い込んで――
――『あの、』
と、声が見える。
見ようと思って見たものではなかった。
視界に勝手に入ってきた。
それもまたここではないどこか、離れたところ――いや、ここは――
『あの、』
と、疲れ切った様子の、旅装に身を包み背を丸めた壮年の男が、誰かに言っている。
彼は懐に半ば手を入れていて、そこに抱えた何かを庇うような姿勢を取っていた。
疲労にふらつく彼に、数人の人間が寄って行っては、むしろ訝しそうに、「どうした」と尋ねている。
そんな彼らをぐるりと見渡して、壮年の男はその場に尻餅を突くように座り込んだ。
目が回った様子だった。
わ、と周囲で声が上がる。
水を、と誰かが叫んで、ばたばたとその場を離れて走って行く者がある。
『――モールフォスにこれを届けてほしいと言われて……』
旅装の男が、声というよりも呼気であるといった方が正しいほどに微かな声でそう言って、気力が尽きた様子でその場に仰向けに倒れ込んだ。
騒然とするその場所から目を逸らすようにして両目を開けて、おれはしばらく考え込んだ。
――今のは、なんだろう。
蓋然性を考えるならば、もしかすると。
顔を上げて、おれは呟いた。
「――そこの、銀髪」
三人が、ぴたりと押し黙っておれの方を見た。
呼吸すら揃っているようで、おれは本当にそれを腹立たしく思う。
銀髪が一歩下がって、逆に女王が一歩前に出た。
そんな挙動に興味はないので、おれは端的に銀髪に指を向けて、言い渡す。
「――きみ、ちょっとモールフォスまで戻ってよ。届け物があるみたいだから」




