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08◆ お人好しのはず

 プラットライナは、ブロンデルから運河を下ったところにあるらしい。


 船で行けば一日だとか。

 運河を行く旅客船は一日に二便――朝と夜――が出るらしく、俺たちは運よく夜の便を捉まえることが出来そうだった。


 船賃は乗り込むときに支払うらしいので、切符を買うような手間もない。


 俺たちは船が出るまでの間、船着き場の周辺をぶらぶらすることとする。

 別に町中で遊んでいても良かったのだが、税金から出た金しか持っていない現状、無駄遣いは厳に慎むべきである。


 カルディオスと二人並んで運河の(ほとり)で石を投げて遊ぶ。

 運河には柵が設けられているわけでもなく、流れの穏やかな川面が目の前に見えた。


 その辺から平べったい石を選んで探し、水面に向かって投げて跳ねさせる遊びだ。

 俺の投げた石が三回水面を跳ね、カルディオスの投げた石が四回跳ねた。ぱしゃんぱしゃん、と連続して水音が上がる。平和だ。


「あーあ、全然ちょっとした頼まれごとじゃねえじゃん。面倒なことになったじゃねえかあ」


 石を投げながらカルディオスが嘆き、俺は肩を竦めた。


「まあ、密輸団の話が出た段階で、助けに入らなきゃいけない予感はあったよな」


 石を投げる。ぼちゃん、と音がして、石は一度も跳ねずに河に沈んだ。

 それを見てカルディオスが鼻で笑い、俺はちょっとむかっとして次の石を拾い上げた。


「くそぉ、さくっと片付けてのんびりした旅になると思ったのにー!」


 カルディオスが叫びながら投げた石が、五、六回水面を跳ねた。すげぇ。


「あなたってほんと、救世主向きの性格じゃないわね」


 後ろからのんびりとアナベルの声が掛かり、カルディオスは勢いよくそっちを振り向いて指を突き付けた。


「おまえに言われたくねーよ! 歩く悲観主義め!」


「カル」


 アナベルの隣で長座していたトゥイーディアが、眉を寄せて窘めるように名前を呼んだ。

 カルディオスは肩を竦めて石を拾い上げる。


 俺とカルディオス以外の四人は、俺たちの後ろで座り込んでいた。

 コリウスはトランクを開け、路銀の入った革袋を覗いて何やら計算している。


 俺が投げた石が水面を三回跳ねたところで、顔を上げたコリウスが声を上げた。


「よし、全員集まれ」


 カルディオスが、手にしていた石をぽいっと投げ捨てて振り返る。

 俺も同時に振り返り、短い距離を大股でコリウスに近付いた。


「どうした?」


 尋ねると、コリウスは俺たちをぐるりと見回して、鹿爪らしく言った。



「食事の買い出しだ。二人程度で行って来てくれ。

 ――コイン投げで決めようか。表が勝ち、裏が負け」



 公正なるコイン投げの結果、俺とディセントラが買い出しに行くことと相成った。





 外食は非常に高くつくので、食事を買い出しで済ませることは節約の面からしても合理的である。

 とはいえ面倒くせぇと思わないわけでもない。


「今日の夜の分と明日の朝の分でしょ――何がいいかしらね」


「なに食いたい?」


 ブロンデル市街、食料品店が多く集まる一画にて、俺はディセントラと二人でうろうろしていた。


 トランクは居残り組の四人に任せ、路銀の一部が入れられた革袋はディセントラが持っている。

 これをどっちが持つかということもコイン投げで決めたのだが、万が一()られたときのことを考えると、責任を擦り付けられそうな立場にはなりたくないということで、買い出しに行く奴を決めるとき以上の真剣勝負だった。


 疲れた風貌の婦人たちが買い物に勤しむ中、その邪魔にならぬよう路の端に寄りつつ、ディセントラは薄紅の瞳を瞬かせてしばし考え込み、言った。


「カルディオスは――食べられれば何でも喜ぶわね。アナベルもそんなにうるさくはないし。果物があればコリウスが喜ぶかも。あとトゥイーディアは――」


 ちょっと柔らかめのパンにチーズだ。こういう旅路でトゥイーディアが好きなのはそれだ。


 知ってるけど言えない。

 言えば、俺がトゥイーディアに並々ならぬ関心があることを、ディセントラに知られることになるからだ。代償が俺の口を閉ざしている。


 ちょっとしたことではあったが、俺はやきもきしてしまう。


 だが、少し考えたディセントラはさらりと言った。


「――パンとチーズかしらね。パンは固めなのは避けましょう」


 俺は内心でディセントラに拍手した。よく知っててくれた。

 これでトゥイーディアが喜ぶ。


「お肉もちょっと欲しいから燻製と……。ルドベキア、何か希望は?」


「食えればなんでも」


 俺は即答。ディセントラがふふっと笑ったので、俺はちょっと眉を寄せた。


「……なんだよ?」


「いえ、再会したとき涙ぐんで震えながら、いっぱい食べてたなって思い出して」


 ディセントラの笑い方が、揶揄というより微笑ましいといった感じだったので、俺も特段不快には思わず、肩を竦めた。


「腹減ってたんだよ」


「でしょうねえ」


 しみじみと呟いてから、ディセントラはちょっと目を上げて俺を見た。


「イーディから聞けた? ()()()()


 俺が魔王になった理由か。


 それを訊いた結果、トゥイーディアから心の距離を置かれ、「あなた」と呼び掛けられ、更には俺を「魔王だと思ってしまうかも知れない」なんてことを言われたのを思い出し、俺は思わず遠い目をしてしまった。

 だが、「トゥイーディアからますます嫌われたかも知れなくて、つらくてさ」なんてことをこの場でぶちまけられるようなら、そもそも俺はさっさとトゥイーディアに当たって砕けている。


 心情について何も言えない俺は、首を振って短く答えた。


「いや、梃子でも言わねぇつもりらしい」


「あんまり酷く問い詰めて、これ以上仲が悪くなるのは避けてね」


 ディセントラの忠告に、表情には出せないものの、俺は突き刺さるものを感じて内心で呻いた。


 その通りです……あのときあんなこと訊かなきゃ良かった……。


「ああ、うん」


 素っ気なくそんな返事をした俺は、「なんでそんなにイーディだけ嫌うのよ?」といった主旨のことをぶつぶつと問われつつ、パン屋に引っ張られていった。


 人数分のパンを購入し、パンの入った紙袋は俺が抱え、次に向かったのは肉屋である。

 ちょうどパン屋の斜向かいにあったので助かった。


 俺は店外で待ち、ディセントラが適当に燻製肉を買って出て来るのを待つ。


 そうしている間に、道行く人からすっげぇちらちら見られた。

 確かにガルシアの制服は、軍服であるだけに町中では目立つ。もしかしたら、「軍服を着ているのは救世主」という噂が早速流れているのかも知れない。


 ちりん、とドアベルの音が鳴った。


 ちらりと見ると、買い物を終えてディセントラが出て来たようだ。

 彼女から、紙に包まれその上から紐で縛られた燻製肉を、空いている手で受け取りつつ、俺は声を低めて言った。


「――さっきからすっげぇ見られてる。格好からバレてるのかも知れねえ」


 言葉足らずの説明ではあったが、それで全てを理解したらしきディセントラは柳眉を寄せた。


「もう噂になってるのだとしたら、かなり口の軽い人たちだったのね」


 俺は頷き、俺たちはそこから足早に乳類店へ向かった。


 店を探すのに少々手間取りそうだったが、ディセントラが少し大きめの声で、「チーズ買いたいんだけどなぁ」と呟いた瞬間、傍にいた男性が親切にも道を教えてくれたのである。

 ディセントラは自分の容姿の使いどころを心得ていると言わざるを得ないが、


「噂になっているかも知れないってときに、ますます目立つことしてどうすんだよ」


 小声で文句を垂れれば、赤金色の髪を揺らして俺を見上げてきた。


「変にうろうろし続けるより、早く船着き場まで戻った方がいいでしょ」


 どっちもどっちである。互いに一理を認めざるを得ない。


 辿り着いた乳類店、今度は二人一緒に店に入った。

 夕食の買い出しをする婦人が多く、少しばかり混雑している薄暗い店の中でしばし待ったあと、カウンターの奥の主人にディセントラが幾種類かの希望のチーズを伝え、ちゃりちゃりとコインを遣り取りして会計を済ませた。

 さすがに俺も手が塞がってきたので、ここで買ったチーズの包みはディセントラが持つ。



 そろそろ本格的に日が傾いてきた。

 今日は曇り空だからか、実際の時間の割に暗く感じる。早くも軒先に灯を入れ始めた店もある。


 俺たちが乗る船は日が沈んでからの出航だから、時間には余裕があるけれど、帰宅を急ぐ人々の雰囲気に押されて、俺たちもますます速足になった。

 とはいえ、俺はディセントラに合わせた歩調だったが。



 果物屋を探してしばらくうろうろし、発見した露店でオレンジを人数分購入。


 紙袋に詰められたそれを、なぜか俺が受け取る羽目になった。

 もう両手いっぱいなんですけど。別にいいけどさ。


 目当てのものは購入したので、さあ戻ろうかとなった瞬間だった。


「あの――」


 声を掛けられて、ディセントラと俺が同時に振り返った。

 そこに、俺たちとちょっと距離を置き、こちらを見詰める青年がいた。彼の灰緑色の目が輝いているのを見て、俺とディセントラはほぼ同時に呻いた。


 果せるかな青年は言った。


「もしかして、救世主の――」


 ぴたっと足を止める周囲の人々。

 果物屋の親父さんが、「えっ、やっぱり?」と素っ頓狂な声を上げた。


 刺さる周囲の目、広がるざわめきに期待の色。


 俺はげんなりした。



 面倒くせぇ……。


 白を切るか?

 それもいいが、救世主としてこの町の会社の納税問題に取り組んでいる以上、騒ぎになるのが嫌で身分を詐称するなどと、褒められないことはするべきではないだろう。



 ちら、とディセントラを見下ろすと、ディセントラも同じ考えに至ったのか、諦めの窺える頷きを返してきた。

 そして青年を見ると、唇に指を当てた。


「あの、できれば内密に――」


「わ――っ、すごい、本物ですかっ!」


 ディセントラの囁きを掻き消す大声を上げ、青年が近寄って来た。


 その声を聞き付け、周囲の人々も一斉に俺たちに群がってきた。

 なんでだ、家路を急ぐ時間じゃないのか。帰れよ。


「救世主さまっ!?」


「すごい、本当に来てたんだっ」


「あの会社のことは悪くしないでおくれねぇ」


「娘があの会社で働いてるんだよ、頼むよ?」


「兄ちゃんこれ一つ追加で持って行きな!」


 混沌。

 あっと言う間に周囲を囲まれ、俺は辛うじて笑顔を浮かべた。


 果物屋の主人が店から走り出て来て、俺の抱える紙袋にオレンジを追加で一つ投入してくれる。

 大丈夫か、商売として。


 というか、ダフレン貿易はこの町の経済の要か。

 俺たちがここに来た用件を、ここを歩いていたほぼ全員が知っていたってことは、あの社長は案外従業者に対して情報を包み隠さないタイプなのか。

 それにしては今日、俺たちが訪ねたときに皆さん落ち着いていたが……。


「私たちがなぜここに来たか、皆さんご存知なんですか?」


 取り囲まれながらも、ディセントラも俺と同じことを疑問に思ったらしく、周囲に向かって声を張り上げて訊いていた。


 それに答えたのは、最初に大声を上げたあの青年だった。

 くしゃくしゃになっている金褐色の短髪の下で、周囲が薄暗くなり始めていても分かる、輝くような笑顔。

 ディセントラの空いている手をぎゅっと握ってぶんぶんと振り、


「さっき、あの会社の社長が、働いてる人たちみんなに言ったらしいんですよ! 救世主が密輸団を叩くから、溜まってる税金のことはもう心配ないって!」



 ディセントラが、何とも言えない顔で俺を見上げてきた。

 俺はちょっと切れそうになった。


 この顔、ディセントラ――このやろう。



 青年の言葉に、周囲はそうだそうだの大合唱。

 さすが救世主、もう大丈夫だ、との大喝采に、通常なら笑顔で応えてやりたいところだが、もうそんな気分じゃない。


 俺たちとの握手を求めて、どっと人が押し寄せてきた。

 俺は両手が塞がっているから、皆さんがディセントラに集中する。



 その人波に押されて、青年はもみくちゃになって姿を消した。



 仲間を待たせてるから行かないと、と連呼して、俺とディセントラがその人波を脱出するのに五、六分を要した。


 そしてそのときには、俺たちの荷物はなんだかんだで注ぎ足されていた。

 買った覚えのない瓶詰の蜂蜜が、燻製肉の包みの上に乗っけられているし、ディセントラはディセントラで、なぜか新たなパンの紙袋を抱えているし。


 なんかすごく、賄賂の臭いのする贈り物たちである。

 これを遣るから会社をなんとかしろという。

 まあ、あれだけの数の人を雇っている会社だからね。経営に万が一のことがあれば、数百人単位で路頭に迷うんだろうから、仕方のない話ではある。



 なおも背後で溜まり続ける人混みに、俺たちは作り笑顔で会釈。それから、結構な速足で歩き始めた。


「ディセントラ! あいつ、あのやろう、どっちに行った!?」


 小声で怒鳴る俺。ディセントラは緊張の面持ちで、


「そんなに遠くへは行けないと思うわ。取り敢えず咄嗟に、革袋に魔法掛けたし……」


「距離じゃなくて方向は? 見てなかったのか?」


 ディセントラはしばらく考え、建物に挟まれた細い路地目掛けて突き進んだ。


「こっち――のような気がする」


 まあ、逃げる方向としては妥当だな。


 そう判断した俺は、無言でディセントラに続いた。


 表通りから逸れた細い路地は、空の酒樽が乱雑に積み上げられて障害物となっている。


 そこを進むのはディセントラより俺の方が手慣れていた。

 何しろ王侯貴族の生まれを引き当て続けたディセントラとは違う。こっちは貴族も経験しているが孤児も剣奴も経験済みだ。

 こういう道は幾度も通った。こういうところは、時代は変わっても雰囲気は変わんねえな。


 もう随分暗くなってきたので、高い建物に挟まれた路地は完全に夜の暗さ。

 俺が目の前に灯火程度の炎を浮かべ、ディセントラを先導する形で速足で歩いた。

 俺の速足に合わせるため、ディセントラは小走りになっていた。振り返って大丈夫か確認すると、「大丈夫だから早く早く」との仰せ。


 少し進んだところで、ディセントラが「あら?」と声を上げた。


「どうした?」


 振り返ると、ディセントラが首を捻っていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()克明に分かるようになったのだろう。


「いえ、妙だなと……。確かに魔法は掛けたけど、もう少し進めるはずなのよね――あ、左」


 ディセントラの声に従って、俺は建物の切れ目で分岐した路地を左に進んだ。

 そして、思わずにやっとした。



 十ヤードほど向こうに、路地のど真ん中で立ち往生している()()を発見したのだ。



 立ち往生している理由は明白。

 ()()()()()が、摩訶不思議にも空中に固定され、ぴくりとも動かなくなったからだ。


 それくらいは見なくても分かる。

 進んでいる最中に懐に仕舞い込んだブツが〈止め〉られて、さぞかし焦ったことだろう。



 盗人は、靴音を殺す気もない俺たちの接近に気付き、慌てた様子で盗んだものから手を離し、走り出そう――としたところでつんのめった。


 ディセントラだ。

 多分、奴の足の動きを的に得意分野の魔法を使ったんだろう。


 だが、余りに長く拘束すると、冗談抜きに相手の足が壊死することになる――血流まで止めることになるから。


 それを分かっているからこそ、すぐさまディセントラは魔法を中断した。


 唐突に動けるようになり、勢い余ってその場で転んだ盗人は、俺たちから離れる方向に動こうとすると拘束されると思ったのか、跳ねるような動きで立ち上がると、くるりとこっちに向き直り、突進してきた。


「馬鹿が」


 吐き捨てて、俺は突進して来るそいつからディセントラを庇って一歩下がって躱し、そのまま右足で相手の足を引っ掛けた。

 何しろ両手が塞がっているので、使えるのは足しかなかったのだ。


 ふぎゃっ! と声を上げ、盗人は見事に顔から転んだ。


「動くなよ」


 そいつに向かって厳しく言ってから、俺はディセントラを振り返った。


「ディセントラ、回収して中身確認!」


 こく、と頷き、ディセントラが小走りで路地の半ば――盗人が立ち往生していたまさにその場所まで進み出た。


 そこには、奇怪にも空中に留まる革袋が。



 俺たちの路銀の一部が入った革袋である。



 そう、掏られていたのである、こいつに。



 俺は軽蔑の眼差しで、足許に転がるそいつに目を向けた。


「てめえ、救世主の路銀に手ぇつけるとはいい度胸じゃねえか」


「は――はは……生活苦で……」


 乾いた笑い声を上げ、くしゃくしゃの金褐色の髪の青年はごろりと仰向いた。


 そしてそこで、浮かべた灯火に照らされる俺の割とガチな怒りの目を見て、一気に真顔になった。


「――これ、俺、死刑になったりする?」


「俺の心情的にはな」


 溜息混じりにそう呟いて、俺はディセントラを見た。


 革袋の中身を確認し、減っていないことを確かめたディセントラは、眉を寄せて俺に視線を返し、首を振っていた。



 ――言いたいことは色々ある。



 そもそもこいつが俺たちに声を掛けたのは掏りのため、人混みに紛れて近付きやすくするためだったんだろう。

 なぜそうまでして救世主の財布を掏ることに拘ったのかは謎だが。


 そして、そこでまんまと革袋を掏られたかに見えるディセントラだが、彼女とてそこまで間抜けではない。

 掏られた瞬間には気付いてただろう。


 だからこそ、こいつに手を握られていたときに、微妙な顔で俺を見てきたのだ。掏られた、とあの表情は言っていた。


 あの場で俺が切れなかったのは――そして、ディセントラが敢えて革袋を()()()()理由は一つだ。

 ディセントラならそもそも、革袋をあの場で固定して、安全に守り抜くことも出来たのだ。


 ディセントラがそうしなかった理由は、あの場で騒ぎを起こしたくなかったからだ。


 正確にいえば、「救世主の財布を掏ろうとした犯罪者」というレッテルを、大衆の面前でこいつに貼ってしまうことを恐れたのだ。

 革袋を魔法で死守すれば、下手すればこいつが「上手く掏れない」という動揺を態度に出して、周りの人たちがこいつがしようとしたことに気付く可能性があった。


 そうなればあの雰囲気の中で、こいつが周りから物理的にも社会的にも袋叩きに遭うことは必至だっただろう。


 そうならないよう、時限性で革袋に魔法を掛けて、ある程度の時間が経てば革袋の移動を止めることで、路銀とこの青年の名誉、両方をディセントラは守ろうとしたのだ。


 俺はそれに合わせたに過ぎない。



 優し過ぎるだろ、とか、むしろもうこれは“優しい”を通り越して“甘い”だろ、とか、もっと上手いやりようあっただろ、とか言いたいことは色々あるが。


 そういう奴なのだ、ディセントラというやつは。



 そう考えると、ディセントラが買い出しに当たったのは、こいつにとって運が良かったことなのかも知れない。


 コリウスとかアナベルならまず間違いなく現行犯で取り押さえていただろうし、カルディオスなら敢えて一度掏らせて既遂犯とした上で、完膚なきまで殴るだろうし。

 トゥイーディアなら多分、ディセントラと似た対応をしただろうけど、多分犯行前に「気付いてるよ」とアピールして思い留まらせるだろう。それで思い留まらなければ、容赦なく現行犯で取り押さえるだろうな。

 俺? 俺が財布持ってたなら、多分普通にこいつを殴って退けてただろうね。



 片手にパンの入った紙袋を抱え、もう片方の手に革袋を握り、つかつかとこっちに歩み寄って来たディセントラは、地面に転がる青年を見下ろし、端的に言った。

 如何に優しいとはいえ、さすがに声は厳しい。


「起きなさい」


「――はい」


 殊勝に返答し、青年は「よいしょっ」と掛け声と共に身を起こした。


 こいつ、ちょっと呑気すぎないか。俺がこいつの立場なら失神するほど怖がるけどな?


 地面に座り込む格好になった青年を見下ろし、ディセントラは片足に体重を掛けた。


「名前は?」


「――フィル」


 一瞬の躊躇を挟んで答えた青年――フィルを矯めつ眇めつし、ディセントラは更に尋ねた。


「フィルね。――ねえフィル。多分、もう少しの距離は逃げられたと思うんだけれど、どうしてこんなところで愚図愚図してたの?」


 フィルのふてぶてしい表情が一瞬凍ったのを、俺もディセントラも見た。


「えっ? え――お姉さん、俺のこと足が速いと思ってるでしょー?」


 ディセントラは溜息を零し、フィルと視線を合わせるために屈み込んだ。


「さっき、生活苦って言ってたわね? 私たちの路銀を掏ったのはそれが理由?」


「ええっと、まあ、そうだね」


 視線を泳がせて答えたフィルに、ディセントラはもう一度溜息を零した。


 あからさまに何かを隠している態度に、問い詰め続けるよりは一旦引いた方がいいと判断したらしい――ディセントラはすっと立ち上がった。


「そう。――なら、咎め立てることはしないわ。真っ当な職に就けることを祈ってる。頑張りなさい」


 そのまま歩み去ろうとするディセントラを、愕然とした顔で見上げたフィルは、


「――待って待って待って!」


 叫んだ。


 ――そうなるだろうな。

 こいつ、面倒事の気配しかしねぇもん。だからむしろ、俺はもう立ち去りたいんだけど。


「待って!? もうちょっと普通、何かあるでしょ!? マジなの!? マジのお咎めなし!?」


 ディセントラが軽く振り返る。最初から振り返る気だったのが分かる振り返り方だ。

 俺は荷物を抱え直し、ディセントラに声を掛けた。


「行くぞ、ディセントラ。みんなを待たせてる」


「いや待って!?」


 再度叫んだフィルに、ディセントラは小首を傾げた。


「お咎めが欲しいなら警吏のところへ連れて行くけれど?」


「違う! そうじゃない! もうちょっと事情訊いてよ! 救世主でしょ!? 助けて!」


 いよいよ色濃くなる面倒事の予感に、俺は思わず呻いた。

 おいおい、今はただでさえ、一つ頼まれごとを背負ってる身だぞ。


 でもまあ、そもそも、単なる生活苦なら救世主の財布を狙い撃ちにしたりしないよな……。

 逃げられたはずの距離を逃げていなかった――つまり、敢えてゆっくり逃げていたのも、結局のところ俺たちに捕まるのが目的だったんだろう。


「――おまえさあ」


 両手に荷物を抱えたまま、俺は軽く足を踏み鳴らした。


「財布掏っといて“助けてくれ”はないんじゃね? それなら直接言えば良かっただろ?」


「生活苦はマジだよ!」


 フィル絶叫。

 俺は溜息を吐いた。


「だからって俺たちの財布掏ってどうすんだよ。ディセントラが優しかったから良かったようなものの、俺が財布持ってたらおまえ、今頃大怪我してるぞ」


 ぐ、と一瞬言葉に詰まった風情のフィルは、しかしすぐに、開き直ったように言った。


「いいや、嘘だね。そんな短気な人たちなら、力づくでダフレンに納税を迫ってたはずだ。わざわざ密輸団を壊滅させに行くんだから、相当なお人好しのはずだろ!?」


 言い切った後に俺の顔を見て、フィルは急速に自信を失った表情になり、


「え、……そのはず……だろ?」


 と。


 俺はディセントラを見た。


 残念ながら、俺を見返すディセントラの目に迷いはなかった。


 ――こいつはいつも、俺たちの中でも人助けに積極的な方だ。

 俺たち全員が、それなりに誰にでも手を差し伸べて生きてきたけれど、こいつの場合は面倒事に自ら突っ込んで行く勢いだから。

 助けてくれと縋られたこいつが頷かなかったのを、俺は見たことがない。


 ディセントラの淡紅色の目が、俺の意見を訊いていた。

 さすがに俺が断固として反対すれば、こいつはそれなりに上手く一人で立ち回るつもりなんだろう。


 正直に言えば、面倒だ。

 今は一つ頼まれごとを抱えている中だし。


 例えばこいつが、物理的に命の危険に晒されているなら問答無用で助けに入るけど――こういう、事情がありそうなのは誰を助けても角が立ちがちだし。



 でもなあ。



 脳裏に浮かぶのは、やっぱりトゥイーディアだった。

 トゥイーディアの、迷いのない、ひたむきな飴色の瞳。


 ディセントラと同様、トゥイーディアも助けを乞われれば絶対に応じる。

 ディセントラのように無条件に肩入れはしないが――物事を俯瞰的に見て、非の在処を客観的に判断するから、助けを求めてきた人を最終的に責め立てる結果になっているのを何回か見たが――、それでも、始めの一歩を踏み出すことを躊躇わない。



 ここにトゥイーディアがいれば、頷くだろう。


 ――それを確信できてしまうくらいに、俺はずっと何百年も彼女を見てきた。



 俺は本日何度目かの溜息を吐いて、言った。


「――ディセントラ、みんなのところに戻るぞ。そいつも連れて来い」
















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