83◆ ベイル再び
ヘリアンサスは嬉々としていた。
ここまで嬉しげな彼を見るのは、トゥイーディアに婚約解消を叩き付けた、あの瞬間以来かも知れない。
「――ベイル」
呟いた声は誰のものだったか、それを聞いてはっとして、俺は覚えず尋ねていた。
「――確かか」
「まあね」
ヘリアンサスが歌うように言って、マントルピースの傍から身を翻し、こつこつと靴音を響かせてこちらへ歩いて来る。
「ご令嬢がどこで汽車を下りたかまでは分からないんだけど、何しろ今のおれは、おれのじゃないおれの目が見ている今のことしか分からないから。――でも、」
にこ、と微笑んで、ゆったりと歩を進めながらヘリアンサスが両手を合わせる。
しゃら、と、カライスの腕輪が揺れる。
「――今現在、走ってる汽車にご令嬢を乗せているものはない。さすがに遠くのことまでは、もう分からないけれど……」
束の間、顔を顰めるようにして目を細めてから、ヘリアンサスはしかしすぐに、元のような笑顔を浮かべる。
「――少なくとも、汽車に使われているおれの子供に絞ればその程度のことは分かる。つまりご令嬢は、もう汽車を下りてる」
「時間的に、キルトンにもイルスにも着いてるはずがない」
俺は思わずそう呟いて、ディセントラを見た。
――キルトンまではここから三日、昨夜の時点で隣町だったのならば、キルトンに着いているはずがない。
その更に向こうのイルスには言うまでもなく。
対して、ベイルであれば昨夜から引き返したとしても到着していておかしくはない。
「――じゃあ、候補に挙がった中ではベイルだ。確かに」
ディセントラは、少し顔を顰めた。
「そうね。――決定的な証拠がないのが心配だけれど、可能性の大きさでいえば、確かにね」
「じゃあ、取り敢えず、ベイルに向かう?」
カルディオスが、気が急いていることが分かる口調でそう言った。
そわそわと身体を揺らして、ちらっとコリウスを見る。
「ベイルなら、おまえが借りた家もあるだろ」
ヘリアンサスが興味深そうにカルディオスを見て、その瞬間、有るか無きかの微かさで、白い光の鱗片が、彼の蟀谷の辺りでぱっと散った。
カルディオスはそれには気付かなかったらしい、興奮に上擦った声で続けている。
「ないとは思うけど、そこに居るかも知んねーし」
「あそこにいることはないだろうね」
コリウスがそう呟いて、しかしすぐに頷いた。
「――でも、ベイルに向かわない手はない」
それから小さく舌打ちして、殆ど独り言のように。
「――ずっと駅にいれば、どこかのタイミングでトゥイーディアを捉まえることは出来たんだな」
俺は思わず俯いたが、コリウスは別に、俺を咎めるつもりでそう言ったのではないようだった。
ディセントラが溜息を吐いたものの、俺を責める声は上がらなかった。
ヘリアンサスが、瞬きして俺たちを見回した。
もう彼は、俺たちのすぐ目の前にまで歩を進めていた。
隣にいるコリウスが、緊張に身を強張らせているのが肌で感じられる。
微笑んで、ヘリアンサスが俺を見た。
俺は総毛立ったが、ヘリアンサスがそれを感知した様子はなかった。
そしてヘリアンサスは、当然のように、俺に向かって左手を伸べた。
――しゃらん、と、カライスの腕輪が揺れる。
「――ルドベキア、先に行こうか」
ヘリアンサスがそう言った。
俺は背筋が粟立つのを自覚した。
俺がすぐに応じて自分の手を取らないことを、いっそ不思議そうに怪訝な顔をして、ヘリアンサスが首を傾げる。
「おれの方が、そこの銀髪よりも速くベイルまで行ける。おまえは先に連れてってやるよ」
俺は口を開けたが、声が出なかった。
呼吸が震えた。
――ヘリアンサスが怖かった。
これまでに何度も俺を殺してきたヘリアンサスが恐ろしかった。
最初の人生の記憶を取り戻したがゆえに、あのときのヘリアンサスの激情を知っているからこそ、なおいっそう恐ろしかった。
俺は記憶を取り戻してからこちら、可能な限りヘリアンサスと二人になることは避けようとしてきたのだ。
ディセントラとカルディオスが、凝然と俺を見ているのが分かる。
二人も、そして隣のコリウスも、俺が彼らに言ったこと――ヘリアンサスが、俺だけは躊躇いなく殺しかねないこと、それは覚えているだろう。
だが信用まではしていないだろう。
ヘリアンサスが眉を寄せる。
苛立ったように、差し伸べた手を動かす。
「どうしたの。――先に行こう」
「こ――」
ようやく、声が出た。
喉に絡んで震える声をまともなものにしようとして咳払いして、それから俺は、抑えた声で呟くように応じる。
「――コリウスが、連れて行ってくれるから」
ヘリアンサスの黄金の目が細められた。
白い頬に、その睫毛が、影とも呼べないような些細な色彩を動かした。
「おれの方が速い」
「ヘリアンサス、後から行くから」
俺は口早にそう言っている。
ヘリアンサスと二人になることは耐え難かった。
俺は確かにヘリアンサスに対して許されない裏切りを働いたが、それを差し引いてもなお、何を考えているのか分からないこいつと、何度も何度も笑いながら俺たちを殺してきたこいつと、二人になって正気を保つ自信が俺にはなかった。
「どっちにしろ、俺とおまえだけじゃ、トゥイーディアを捜しても何も出来ないだろ――あいつが話を聞くとしたら、こいつらからだろ」
こいつら、と示したのは、言うまでもなく他の三人。
三人が三人とも、まじまじと俺とヘリアンサスを見比べている。
俺はその三人の顔色を窺うどころではなく、必死になって言い募っている。
「だから、どっちにしろ同じだって。俺は後から、みんなと行くから」
ヘリアンサスが、瞬きした。
「――“みんなと”」
呟いた彼の顔貌から、すうっと感情が溶けていった。
あのときと――俺が番人として、地下神殿にいたこいつに会っていたときと同じ、石のような無表情。
俺は息を止めた。
この瞬間に、ヘリアンサスの中で何かが切り替わったのが明確に分かった。
「ルドベキア」
ヘリアンサスがそう言って、俺との距離を一歩詰めた。
俺は後退ろうとして出来ず、身長差のあるヘリアンサスの黄金の双眸の中に、俺自身の強張った顔を見た。
「――あのとき言ったはずだ、ルドベキア」
ヘリアンサスが断固としてそう言って、左手の人差し指で、俺の胸の真ん中に触れた。
とん、と軽く響いたその衝撃が、俺の全身を貫くようだった。
「おれが愛せるおまえでいてくれ」
あのときと――トゥイーディアに危うく破壊されかけ、彼女の憐憫を以てそれを逃れ、そしてその憐憫も撥ね付けた直後と――全く同じ口調で、ヘリアンサスがそう言った。
いやむしろ、あのときよりも静かな口調だったかも知れない。
静謐に抑え付けられた、その声。
「他に心を割かないでくれ。おれが一番に考えるのはおまえなんだから、おまえもおれのために生きてくれ。それが出来ないなら死んでくれ。おれのためのおまえでいてくれ」
逡巡も憐憫もなく、淡々とそう言って、ヘリアンサスは身体の後ろで両手を組む。
「それが出来ないなら死んでくれ。――安心していい、おれはおまえのことを考えて、おまえを殺すから」
言い切って、ほんのりと口許に笑みを載せて、ヘリアンサスが首を傾げた。
「一緒に来ないの、ルドベキア?」
俺は手が震えるのを自覚した。
無言のまま、幼いあの頃に戻ったように頭のてっぺんから爪先まで震えて、俺はその場で軽く片足を引き、膝を屈めた。
頭を下げて、右手を額に当て、そしてその手をヘリアンサスの足許の方へ動かす。
――顔を上げる。
ヘリアンサスは無言だった。
無表情のまま、まじまじと俺を見ていた。
この仕草は当時の諸島において、謝罪の意味を持っていた。
だがこいつが謝罪の意味を解さなかったから、俺はこの仕草の意味を、「話はここまで」というものだと教えていた。
ヘリアンサスはしばらく俺を眺め、それから顔を背けた。
俺はぞっとしながらその仕草の全部を見ていた。
踵を返し、ヘリアンサスは素っ気ない――無感動というのとも違う、明瞭に怒りを抑えていることが分かる声で――言った。
「――夜までには来て」
俺は慌てて頷いた。
頷いてから、しかし背を向けているヘリアンサスにはそれが見えないと気付いて、声を出した。
声は喉に引っ掛かった。
「――分かっ……た」
応じる言葉も仕草もなく、出し抜けに、ヘリアンサスがその場から姿を消した。
――同時に俺は、殆ど頽れるように、ソファの上に座り込んでいた。
膝に肘を置いて俯き、大きく呼吸する俺をさすがに見かねたか、コリウスが傍に屈み込み、俺の手の甲を軽く叩いてくれる。
「――大丈夫か」
「……殺されるかと思った」
絞り出すように声を出しながら顔を上げれば、コリウスは顔を顰めていた。
端正な顔に、銀髪が一筋流れている。
何とも言い様がないその表情のまま、幾分か小さな声で彼が言う。
「僕も若干、そう思った。――おまえの言っていたことが分かった。あれは怖い」
視線を巡らせる。
ディセントラも、およそコリウスと似たような表情をしていた。
対してカルディオスは、何かが喉に痞えたような顔をしている。
だが、もうその表情の機微に注意を払う余裕もなく、俺は顔を押さえて呻いた。
「――夜までにベイルに着かないと、俺、本当に殺される」
◆◆◆
時刻はまだ三時頃ではあったが、命が懸かっている俺からすれば、一刻も早くベイルに向かって出発したいというものだった。
急かす俺を宥めてソファに座らせたままで、ディセントラが、「ムンドゥスは置いて行くわよね?」と確認。
確認しつつももはやそれは決定事項に近いため、「ほんとは不要なんでしょうけれど」と言いつつも、ディセントラは広間で立ち尽くすムンドゥスをちらっと見て、
「――いちおう、ここの方たちにお願いしていきましょうか」
そうだな、とコリウスが頷いて、自分の人当たりの良さに絶対的な自信を、それも根拠のある自信を持つカルディオスが、「じゃあ俺からお願いしてくる」と言って、素早く身を翻す。
俺はそわそわして立ち上がったが、すぐにコリウスに、
「カルディオスが戻って来るまでは出発しないが」
と言われて唇を噛んだ。
カルディオスはムンドゥスに歩み寄って、しゃがんで彼女と視線を合わせ、何かを言っている。
それから立ち上がり、首を傾げるムンドゥスの手を取って、それこそ子供の手を引くようにして、奥へ向かっていく。
それを目で追う俺の顔つきを見たのか、コリウスがそっと言い足した。
「――絶対に夜までには連れて行ってやるから。心配するな」
「ベイルのどこにあいつが居ると思う?」
俺は歯を食いしばったまま、若干潰れた声でそう尋ねた。
コリウスが絶句するのが分かった。
「あいつが上手いこと俺たちの記憶を読んでてさ、おまえが借りた家に居てくれればいいけど、」
俺は顔を覆った。
「そうじゃなかったら、俺があいつを捜し当てるまでの制限時間が夜なんだけど」
呻いた俺からそっと視線を逸らせて、コリウスがディセントラと目を合わせた。
ちらりと顔を上げると、ディセントラもさすがに危機感のある顔をしていた。
「そういうことなら――」
コリウスがそう言って、ディセントラが吐息混じりに言葉を続ける。
「――急いだ方がいいかもね」
俺は相当に、ヘリアンサスを捜すに当たって時間を要することを案じたが、幸いにも彼は、コリウスが借りた家の位置を――恐らくは俺たちのうち誰かの記憶を探って――把握していたらしく、そこにいた。
ティシアハウスを出るまでに、俺たちは一応の食事を済ませていた。
メリアさんが、俺たちが疲弊していることを見て取ってくれたのか、簡単に拵えて持って来てくれたのだ。
が、彼女自身が、どことなくこそこそと軽食を持って来てくれたのは――他の二人に見付からないようにしていると、その態度から分かってしまったがゆえに――、むしろいっそう切なかった。
俺も有り難く食事は摂ったが、味は一切感じなかった。
俺が相当に思い詰めた顔をしていたからか、食事のあと、後片付けも放り出して、コリウスが出発を宣言してくれた。
カルディオスもディセントラも、早くトゥイーディアとアナベルを見付けたい気持ちは切実だろう。
再度、絨毯に乗っけた俺たちをコリウスが運んでくれることが決定して、俺たちはぞろぞろと屋敷の外へ。
細く糸を引くような雨が降っていた。
カルディオスの言っていたとおり、決して激しくはない雨だったが、しとしとと辛抱強く降り続いている。
ティシアハウスの玄関先から続く煉瓦の道が雨に濡れて、色を濃くしていた。
下草が濡れて艶めき、目を転ずれば森も、霧を呼ぶほどではない雨の中にあって緑を濃くしている。
レイヴァスの短い夏は盛りを過ぎているが、まだ葉が落ちるには早い。
俺たちは玄関先で、コリウスが絨毯を広げるのを待ち、町に向かったときと同じようにして、ティシアハウスを後にした。
メリアさんたちには碌な挨拶もしなかったことになるが、俺たちが顔を見せるよりも、さっさと撤収した方が彼らとしても気分は良かろう。
移動の速度で雨は散らされたものの、それでもぱらぱらと頬に雨粒が当たった。
ベルフォード侯領の領都ベイルは、相変わらず少し歪な円形に広がっている。
駅は市街の北東の外れに、後付けされたことがありありと分かる様子で造られていた。
何しろ殆ど町の外にある。
石造りの駅舎から、今しも煙を吐き甲高い騒音を奏でながら、黒光りする汽車が滑り出してきたところだった。
ベイルは二つの市壁を備える都市だ。
一つめの、老朽化が見られる市壁が市街を形作り、二つめの、高く堅牢な市壁が市街を分断して、内側と外側を区切っている。
一つめの市壁と二つめの市壁に挟まれた街区には、背の低い建物が雑然と建ち並び、狭い道がうねうねと走っている。
それに対して二つめの市壁の内側の市街は背の高い建物が整然と建ち並び、市街の中央――つまりは侯の居城の前――から放射状に伸びる大通りと、市街の間を縫う脇道が上空からでもはっきりと分かる整備のされ振りだ。
二つめの市壁の東西南北の市門の傍に埋め込まれるようにして、牢獄としても使える塔が聳え立っている。
五つめの塔はベルフォード侯の館のすぐ傍にあり、それは俺たちにとっては余りにも苦い記憶がある場所だ。
侯の館の一画が崩れたままになっているのが見て取れ――そうだ、その騒動が決め手となって、リリタリス卿の処刑が早まったのだ――、また、その傍の広場、つまりは館から通りを挟んだ位置にある処刑広場にも、崩れたままの断頭台が放置されているのも見て取ることが出来た。
処刑広場のすぐ傍の建物数棟が倒壊しており、それは間違いなくヘリアンサスの、リリタリス卿の全神経をトゥイーディアに集中させるためだけの一撃の名残だった。
また広場の傍には、白い壁が特徴的な、広い吹き抜けの中庭を持つ平屋の建物もあって――その中庭には絞首台が据え置かれている。
雨とあって市街の人出は少ない。
上空からコリウスが絨毯を下ろす間に、頭からストールを被った、どこかの家の使用人と思しき少女が、足早に路地を進んでいるのが見えた。
布を被せて雨から守っている籠を抱えていたところから推すに、何かのお遣いの帰りだろう。
「――トゥイーディアがベイルにいるとして、もちろん下の、」
下の、と言いながら、コリウスは二つめの市壁の外を示す身振りをする。
「街区にいる可能性もあるが、取り敢えず僕が借りている家に向かう。
そこにヘリアンサスがいなかったら、ルドベキア。心当たりを捜すように」
「心当たりがあったら苦労しねえ……」
俺は思わず呻いた。
その声が、下降を始めた絨毯に置き去りにされて上空に残る。
「あのね、最悪なのはね、」
と、胸の前で手を握り合わせ、切実な顔をしたディセントラが呟く。
「あのおうちにイーディがいて、今頃ヘリアンサスと殺し合ってるってことじゃないかしら」
コリウスとカルディオスが棒を呑んだような顔をして、俺もひやりとしたものの、すぐにコリウスが言った。
「――いや、さすがに、そうなれば町も無事ではないから」
そうね、と呟いたものの、ディセントラはなおも祈るように胸の前で手を握り合わせていた。
彼女の赤金色の髪に雨粒が絡んで、小さな宝石のように煌めいている。
コリウスが人目につかない路地裏に絨毯を下ろし、丸めた絨毯をカルディオスが担ぐ。
雨に冷え込む路地裏の空気に、ディセントラがふるりと身を震わせる。
そして直後、足許を濃い灰色の鼠が走り抜けていくのを見て、全く別の意味でまた身を震わせた。
俺たちは足早に路地を抜けた。
足を運んだことのある場所だから、上空から見た現在地を勘案すれば、どちらに向かえばいいのかなんてことくらいは分かる。
敷石の隙間を雨水がささやかに埋めていく。
水溜まりが出来るほどではないが、根気強く降る雨が敷石を濡らして艶めかせていた。
俺は気が焦る余りにかなり速足になっていて、コリウスは義理なのか何なのか、俺に歩調を合わせてくれたものの、ディセントラは急ぐ義理もないと至極当然の考えに至ったらしく、歩調を変えなかった。
カルディオスもディセントラに歩調を合わせたので、俺たちの間には少しの距離が開いたが、カルディオスがぼそっと、「あのとき、あのジジイを殺しとけば良かったんだな」と呟いたのは耳に入った。
先日ベイルに来たときに、俺たちは偶然にもニードルフィアの元伯爵に遭遇している。
それを思い出して、出会い頭に彼を叩き斬っておけば良かったのだと悔いているのだと俺にも分かった。
何しろ俺も全く同感だ。
馬車通りに出る。
黒塗りの馬車が一台、がらがらと目の前を通って行った。
それが通り過ぎるのを待って路地から出て、俺たちは右手へ。
市の近くの馬車通りとなって、雨であっても人通りはある。
買ったものが入っているのだろう紙袋を大事そうに外套の中に入れ、俯いて速足で歩いて行く若者。
街灯の傍で傘を差し、誰かを待っている風情の紳士。
ストールで雨を躱しながら、きゃあきゃあと何かを言い合っている若い女性が二人――
リリタリス卿の落命から、たった数日しか経っていない。
にも関わらず、こうして日常を送っている町の風景に、俺は少ならからぬ衝撃を受けた。
だが、それに拘泥してはいられない。
それに辺りを見渡せば、腕や首に、黒い喪章を着けている人は少なからず認められた。
ただ、リリタリス卿の冤罪は雪がれていない。
そのために、喪章を着けている人々には、人目を忍ぶような雰囲気があった。
目指す先はこの馬車通りを渡った先だ。
俺たちがさっさと通りに踏み出して横断を始めたところで、石畳を打つ蹄の音とがらがらと回る車輪の音。
一頭立ての小さな馬車が走って来て、ちょうど俺たちが通りを渡り切ったタイミングで通り過ぎていく――と思いきや、馬車の中からレースの付いた気取った帽子を被った女の子が顔を出して、「停めて」と御者に告げた。
手綱を絞られた馬が不機嫌そうに足を止める。
窓から、掌で雨を遮りつつ顔を出した女の子が、「ちょっと!」と声を上げ、カルディオスが振り返った。
ぱち、と瞬きするカルディオスに、女の子が、「よろしければご一緒しない? 乗せて差し上げるけれど」と。
カルディオスは絨毯を抱え直しながらそれを聞き、そしてにっこり笑って、ばっさりと言い放った。
「――悪いけど、俺、もうちょっと貞淑な子が好みかな」
女の子の顔が怒りにさあっと紅潮したが、そのときにはもう、カルディオスはさっさと踵を返していた。
俺も、カルディオスがいつもの如くにナンパされているのを見守るほどの精神的な余裕はなく、さっさと足を進めている。
市の近くのこの馬車道に面し、すぐ傍には、金持ちが道楽で始めて結果として放置した――といった風情の、小さな果樹園の残骸じみた緑溢れる狭い広場のある立地に、通りに向かった出窓を備えた瀟洒な佇まいの、コリウス名義の借家がある。
そこまで辿り着いたときには、俺は緊張か恐怖かよく分からない感情のために動悸がしていたが、まずはそうっと薄く扉を開け、中に人の気配があるのを察して、深々と息を吐いた。
ここを空けたときの状況が状況なので、元より施錠はしていなかった。
だが、曲がりなりにも領主のお膝元、そうそう治安は乱れておるまい。
何より中に、荒らされた形跡が一つもなかった。
つまり、中にいるのは見知らぬ誰かではなくて、ヘリアンサスである可能性が最も高い。
いったん扉を閉めた俺は、雨に濡れたままで玄関扉までの階の下に立ち尽くす三人を振り返った。
声を潜めて、自覚できる程度には懇願の響きのある声で頼み込む。
「――本当にヘリアンサスの機嫌が直らなくてやばそうだったら、頼むから助けてくれよ」
「私たちがあんたを助けられるかどうか、過去にあいつに殺された回数を数えながら考えてくれる?」
ディセントラが若干嫌味っぽくそう言ったが、直後に罪悪感を覚えたらしい、目を逸らしながら言い添えてくれた。
「――まあ、見殺しにはしないわ」
「恩に着る」
そう言って息を吸い込み、俺は今度こそ扉を開け放った。
玄関を入ってすぐ、上階へ通じる階段がある。
階段は真っ直ぐに続いたあと、左に折れて二階へ通じているようだった。
玄関から見て左手に、アーチ型に刳り貫かれた居間への入口があり、その先は手狭ながらも整えられた空間だ。
突き当りの壁には煙突付きの立ち竈があり、その前に二脚の揺り椅子が置かれ、それよりも手前には談笑用の大きな円卓が置かれている。
居間の奥――入口から見れば右手側――に、食堂に通じる出入口があった。
雨がひとあし早く夕闇を連れてきたように、室内は薄暗い。
だが、俺にとっては暗闇の中でこそ見慣れた相手だった。
退屈そうに揺り椅子に腰掛けたヘリアンサスが、視線の動きだけで俺を振り返った。
新雪の色の髪にも礼装にも、濡れた跡など欠片もない。
俺は大きく息を吐いて居間へ足を踏み入れ、円卓を回り込んで、おずおずとヘリアンサスに近付いた。
ヘリアンサスは黄金の目でそれを見ていた。
カルディオスたちが、扉をくぐりはしたものの、居間の前で竦んだように立ち止まっている。
それを、見るというよりも気配で察しつつ、俺は揺り椅子に腰かけて頬杖を突くヘリアンサスの傍に、音を立てないようにしながら膝を突いた。
衣服が濡れていて、皮膚に張り付く感覚がある。
だが思えば俺は、こいつに会いに行くときは、全身がずぶ濡れであることも多かった。
濡れた髪を掻き上げて、俺は、感情の窺えない双眸で俺を見据えるヘリアンサスを見詰め返した。
表情からも視線からも、彼の感情の機微は俺には分からなかったが、だが少なくとも、ヘリアンサスが腹を立てているだろうことだけは分かっていた。
俺は息を吸い込み、首を傾げて、両手を半端に持ち上げる。
それから、窺うように尋ねた。
「ごめん、悪かった。
――手品、見る?」
「…………」
ヘリアンサスが頬杖を外し、座り直した。
そして口を開いた。
口を開いてから声を出すまでに、かつて俺が好きだった、独特の一拍の間があった。
「――見る」
俺はほっとして息を漏らし、指を鳴らして、俺が最も得意とする魔法を使う。
俺の両手から煌めく火の粉が舞い上がって、ヘリアンサスの瞳に橙色に映り込んだ。
様々な形を象って輝く火の粉が、消えては閃き、宙から噴き出して、出窓の硝子に反射するほどに拡がり、部屋を埋め尽くす。
部屋を燃やさないよう、俺としては細心の注意を払ったが、舞い散る火花を眺めるヘリアンサスは嬉しそうだった。
――千年ぶりとなる俺の手品に、ヘリアンサスが穏やかに目を細めている。




