82◆ 王都か領都か
「――イーディがフレイリーに向かった線は消えたとして、」
と、ディセントラが続けている。
「だとしたら向かったのはイルスかベイルかしら」
「あるとしたらイルスだろ」
カルディオスが断言した。
「仮にもあいつの伯父さんがいるとこだろ。匿ってもらえるし、アナベルもちゃんと休ませてやれる」
トゥイーディアの伯父――ヒルクリード公爵。
「そう思われるならベイルじゃないですか」
ケットが言って、「あ?」と訊き返したカルディオスに、若干怯んだように身体を引いた。
一方、身体の後ろで手を組んだヘリアンサスが、身体ごと傾けるようにして首を傾げて、ケットを見た。
にこ、と微笑んで。
「――ご令嬢、ベイルに居るの?」
ケットは、相当に複雑な顔でヘリアンサスを見返した。
少し口籠り、目を逸らし、小さく呟く。
「……じゃ、ないかと」
「ふうん」
相槌を打つようにそう言って、ヘリアンサスが視線を上げ、ディセントラを見る。
「ベイルだってさ」
「――……どうかしら」
ディセントラは、じり、と一歩下がり、ヘリアンサスから顔を逸らしながらも、懐疑的に呟いた。
「これだけで断定してしまうのはどうかと思うわ。
それにあの子、ベイルには行きたくもないでしょうし……」
――あんなことがあった場所だ。
再びあの都市に足を踏み入れたいと思うはずがない。
そんなことをすれば、傷というにも生々しい喪失が抉られるだけだ。
それに、ベイルには身寄りもないはずだ――
――いや……
俺は思わず眉を寄せた。
――いや、身寄りならあるかも知れない。
あのとき、処刑広場には、リリタリス卿の無実を叫ぶ群衆がいたのだ。
彼らならばむしろ、司法の手からも確実に、リリタリス卿の娘であるトゥイーディアを庇おうとしてくれるはずだ。
だが――本当にそうだろうか?
トゥイーディアの顔を知っている人が、あの場に何人いただろうか。
あるいはあの場に、リリタリス卿の娘として姿を見せたトゥイーディアの顔を覚えている人が。
ただトゥイーディアがリリタリス卿の娘を名乗っただけでは、リリタリス卿の擁護者にそれを鵜呑みにして信じてはもらえるまい。
何しろトゥイーディアは、当然のことだが、リリタリス卿とは欠片も姿が似てはいないのだ。
疑われる危険を冒してまで、トゥイーディアはベイルに活路を見出すだろうか。
一人ならばまだしも、意識のないアナベルを連れている今?
判断がつかない俺たちを、いっそ怪訝そうに見渡して、ヘリアンサスが眉を顰める。
「だから、ご令嬢のことをいちばんよく知ってるのは、こいつらでしょ?」
「――イルスとベイル、どっちにも行けないか?」
カルディオスが素早く言った。
だがそれに、ディセントラが迷うように目を泳がせる。
「それは――いえ、どうかしら……なにしろ時間がないわ。さすがに何日も経てば、イーディも気付いてしまうでしょうし――」
ケットたちは訝しそうにしたが、俺とカルディオスには分かった。
――アナベルの命が担保されていることに、トゥイーディアが気付いてしまうということだ。
さすがに何日も何十日も、アナベルが昏睡状態のままで命を繋げば、トゥイーディアもさすがに、何らかの手段でアナベルの命が保証されていることを察する。
今の彼女が、半ば強制的に俺たち――というか、治癒の権能を持つ俺――との合流を考える動機を持たざるを得ないとすれば、その動機は、トゥイーディアがアナベルの命の保証に気付くと同時に消えてしまうものなのだ。
そうなってしまえば、いよいよ本格的にトゥイーディアが姿を晦ましかねない。
「だから、どっちかに行ってからもう片方に行くんじゃなくて、二手に別れるとかで」
「冗談言わないでよ」
ディセントラが声を荒らげた。
「二手に? この状況で? 意味が分かって言ってるの?」
軽く足を踏み慣らして、ディセントラは憤然と俺を指差した。
「いい、私たちは絶対に、アナベルとルドベキアを会わせなきゃならないの。それでそのあと、まず間違いなくイーディはルドベキアを殺そうとするわよ。それを止めなきゃいけないの。カルディオスあんた、一人でそれ出来る!?」
「悪かった、ごめん、出来ないってば」
カルディオスが両手をディセントラに向けて、たじたじと後退る。
一方俺は、胸を突かれて目を見開いていた。
――ディセントラが、トゥイーディアが俺を斬るのを止めねばならないと言った。
この期に及んでそう言ってくれた。
――それが、心臓が絞られるほどに嬉しかった。
そんな俺たちを、無関心な黄金の瞳でまじまじと眺め遣って眉を顰めたヘリアンサスが、小さく息を吐いてソファの肘掛部分に腰を下ろした。
そのまま微動だにしなくなったヘリアンサスに、俺は唐突にこいつが石になってしまったのではないかと馬鹿げたことを考える。
――だが、どうやら違った。
目を閉じて、ヘリアンサスは少し顔を顰めている。
もしかしたら、ベイルやイルスにある世双珠を当たって、こいつのものではないこいつの目を通して、トゥイーディアを捜しているのかも知れない。
だが昔と違って、今ではよくは見えないと言っていたか。
――俺たちがヘリアンサスに、仮初の命と魂を与えてから、こいつはどれだけ変わったのだろう――昔、地下神殿で俺と向かい合っていたときから。
「――イルスとベイルって、汽車で行くなら逆方向だろ。コリウスが戻ってきて、それっぽい目撃情報を掴んでれば、もう確定するんじゃねーの」
カルディオスが、いよいよ感情が臨界点を突破しようとしているディセントラから目を逸らしながらそう言って、しかし結局はちらちらとディセントラを窺って、「な? な?」と声を掛ける。
ディセントラが小さく鼻を啜って頷き、深呼吸した。
「そうね」と、くぐもった声で呟き、それからソファのケットたちを見て、幾分か落ち着いた声を出す。
「――無理にお連れして、失礼なことも申し上げました。もう結構です。
お帰りの道中に雨に降られてもなんですから――」
ひら、と白魚の手を動かして、ディセントラは生まれながらの権力者の顔をして。
「私からお勧めするのも変な話ですけれど、今日は元の通りこちらで過ごされてはいかが。場合によっては――」
ディセントラは恐らく、「場合によっては、私たちはすぐにここを発つかも知れませんから」と言おうとしたのだろうが、生憎とそう続けるよりも早く、重たげに玄関の扉が開いた。
俺たちは、弾かれたように一斉に、玄関扉を振り返った。
大きな広間を区切る柱の向こうの扉を見ようとして、ケットとメリアさんがソファの上から半ば立ち上がる。
オーディーも、座ったままで伸び上がるようにした。
カルディオスは実際に、柱の方へ寄って行ってその向こうを見た。
そして声を上げた。
「――コリウス!」
律儀にも絨毯を重たげに担いだコリウスが、ちょうど玄関扉を閉めて、こちらを振り返ったところだった。
彼がカルディオスに応えて軽く頭を傾けるような仕草をしてから屈み込み、玄関扉の脇に、丸めた絨毯をどさりと置く。
丸めてあった絨毯が少し転がって解けたのが、薄暗い中でも見て取れた。
そして改めてこちらを見たコリウスが、濃紫の目を見開いたのが分かった。
何も言わずに、つかつかとこちらに歩み寄ってきたコリウスが、信じられないものを見るようにヘリアンサスを見据えている。
俺はどきりとしてヘリアンサスを窺ったが――何しろ俺には、何がヘリアンサスの逆鱗に触れることなのか分からないのだ――、ヘリアンサスはどうやら、コリウスの登場に気付いてすらいないようだった。
目を閉じたまま、それこそ石のようにじっとしている。
コリウスが、危険な毒蛇から目を逸らすようにして、視界の隅にはヘリアンサスを置いていることがありありと分かる目付きで、ディセントラを見た。
口を開いたが声が出ない様子だったが、しかし彼が何を言いたいのかを正確に察して、ディセントラが眉を寄せ、小さな声で呟いた。
「違うのよ……危ないから、傍に寄せようなんて私だって思わないわ」
俺にもそれが、ヘリアンサスの傍にメリアさんたちを――ヘリアンサスに対しては非力な俺たちに、なお輪を掛けて非力な彼らを――置いていることへの弁明だと分かった。
ヘリアンサスは、今までに数え切れないほど俺たちを殺してきた。
その恐怖は断じて拭えない。
そして俺は、今は――トゥイーディアの協力を、ヘリアンサスが諦めない限りは――俺以外の人たちは無事だろうと確信できているが、コリウスたちにはその確信もない。
「こいつが勝手に来たのよ。止められないでしょ」
なお小さな声でそう続けたディセントラに、コリウスが不承不承といった表情で頷く。
ヘリアンサスがここにいることには驚倒したものの、すぐに、とはいえ誰も死んでいないことにも気付いたらしい。
であればしばらくはここは大丈夫だろうと判断したのが、俺にもなんとなく分かった。
コリウスは息を吸い込むと、こいつらしい淡白さで見事にメリアさんたちを無視して、ディセントラに向かって言った。
「――キルトンに向かう汽車でトゥイーディアを見たという話は聞けた」
キルトンといえば、イルスに向かう汽車の乗り換え駅だ。
ディセントラが淡紅色の双眸を見開く。
「マジで!?」
カルディオスが叫ぶと同時に、ケットとメリアさんが、ばっ、とソファから立ち上がった。
オーディーも身を乗り出す。
そちらを一瞥はしたものの気には掛けずに、コリウスは淡々と続ける。
「僕がアナベルのことを伏せて話しても、あちらがアナベルについて言及したから、嘘ではないだろう。今のトゥイーディアでは嘘の証言は作れないし――」
ヘリアンサスが、ぱち、と目を開けて、黄金の双眸でカルディオスを一瞥してから、流れるようにコリウスを見た。
コリウスが戻って来たことに気付いていた素振りは無かったはずだが、だからといってコリウスがここに居ることに、驚く素振りも欠片もなかった。
興味深そうに注がれる視線に、それこそ針で刺されたように反応して、コリウスが口を噤んだ。
警戒というにも余りある敵愾心を湛えた濃紫の目がヘリアンサスを見返したが、ヘリアンサスがそこに浮かぶ感情に注意を払う様子はなかった。
ふ、と瞬きして、彼がオーディーたちの方へ首を巡らせた。
オーディーもケットもメリアさんも一様に、勢い込むというよりは懐疑的な表情を浮かべていた。
お互いに視線を合わせて、ついで興奮も露わなカルディオスを見てから、ケットが呟く。
「――お嬢さんなら、そこから折り返しそうですけど」
コリウスは、恐らくヘリアンサスの動向が気に掛かったがゆえに、それを聞き流しそうになったようだった。
彼の反応までに不自然な間が空いて、そしてその間にディセントラが、さすがに苛立った様子で口を開いていた。
「さすがに勘繰り過ぎではありません?」
「そうかも知れませんけど」
ケットが呟いて、目を逸らす。
それを見て、言葉を彼から引き取るようにして、メリアさんがそっと言った。
「お嬢さま、皆さまにも行く先を知らせないようにしておいででしたから。コリウスさまのなさることもお考えになって、敢えていったん、キルトンに向かう汽車に乗り込まれたことも有り得るかも知れないと――」
コリウスが、ようようヘリアンサスから視線を剥がしてメリアさんを見て、眉を寄せた。
メリアさんは若干怯んだようだったが、俺たちには分かった――これは不機嫌な顔ではなくて、可能性を憂慮している顔だ。
そのまま、コリウスがディセントラに顔を向ける。
声はいつもよりいっそう無愛想だった。
「――それは考えた。あいつのことだから、用心に用心を重ねて、目くらましで姿を隠した上で汽車に乗っていたとしてもおかしくはない。わざわざ姿を見せているんだから、僕がこうしてあいつの行方を当たることを考え付いていたというのは、有り得る話だ。あいつは間違いなく――」
気付くか気付かないかの微かさで、コリウスの視線がヘリアンサスの方へ動いた。
「――僕たちを通じて居所を知られるのを恐れているから」
「そうかしら」
ディセントラが呟いて、頤に華奢な指を宛がった。
「あの子、私たちはとっくにここから離れたと考えてるんじゃない? まさか私たちが、ここから動くに動けない状況になってたとは、さすがに予測してないでしょう。だからむしろ、コリウスだけに分かるように手掛かりを残しているというのは、有り得ない話じゃないのよ。
それにあの子も――魔力はともかく体力にはもう余裕がないはずだわ。単純に、姿を隠せなかっただけかも知れない」
カルディオスが、ふと何かに思い当たったように瞬きして、口許に手を当てて俯き、何事かを考え始めた。
ヘリアンサスが首を傾げた。
その仕草は決して大きくなかったが、それでも俺たちが一斉に、ヘリアンサスを見て凍り付いた。
ソファの肘掛に腰を下ろしたままのヘリアンサスは、その大仰な反応に呆れたように肩を竦め、それから少し腰を捻って振り返るようにして、メリアさんたちを見た。
コリウスが、半歩前に出た。
そして、やや口早に言った。
「――ディセントラが無理にお連れしたこととは思いますが、もう結構。奥でお休みになっては」
気遣いの言葉のはずが、響きは相当に高圧的だった。
しかしそれもわざとではないと分かる。
――とにかく、何度も何度も俺たちを惨殺してきたヘリアンサスの傍に、非力な人たちがいるのが耐え難いのだ。
しかもその人たちが、トゥイーディアの大事な人なのだからなおいっそう。
三人が迷うような顔をしたために、コリウスがディセントラを振り返る。
「話は聞いたんだろう?」
ディセントラが頷き、言った。
「――ええ、もうお休みになっていただいて結構です」
三人は、特に若いケットは、主人でもない人間からなぜあれこれ指図されねばならないのか、相当に不快に思っていることを隠しもしない表情を浮かべた。
だが、ディセントラはこういうとき、相手に不満を言わせない。
にこ、と唇だけで微笑んで、視線は既にヘリアンサスに移っている。
俺は、もしもここでヘリアンサスが何かを言うようならば、さすがにそれを止めに入らねばなるまいと思って半ば身構えたが、ヘリアンサスは、いつもの――相手を小馬鹿にするような、呆れたような表情を浮かべて、何も言わなかった。
こいつはこいつで、もう聞きたいことは聞けたと思っているのかも知れなかった。
ディセントラとコリウスから再三急かされて、メリアさんたち三人が広間から出て、奥へ向かう。
もしかしたら、トゥイーディアに斬られた俺が運び込まれたあの使用人部屋に向かうのかも知れなくて、もしもそうであったなら、俺はあの部屋の寝台ひとつを盛大に汚してしまったことを、後で謝らねばならない。
俺たちの前から立ち去るとき、迷った様子ではあったものの、メリアさんはぺこりと俺たちに頭を下げた。
断じてヘリアンサスの方は見なかったが――当然である、メリアさんからすればヘリアンサスは、裏切り者のロベリアの子息だ――、一応の敬意を俺たちに払ってくれたのだ。
とはいえそれも、一時期は俺たちと一緒に行動していたがためだろう。
オーディーとケットは会釈もなかった。
俺たちも、別に敬意の有無には興味がないので、むしろちょっと頭を下げるようにして彼らを送り出す。
三人の靴音が、階段がある方へばらばらと遠ざかってから、カルディオスが顔を上げた。
そして指を一本立てて、コリウスに向かって。
「――コリウス、おまえさ、イーディを見たって人はいつ頃、どの辺で見たって言ってたの」
「昨夜、隣町の駅で」
隣町、というのを、俺は頭の中で、ここから南西に向かう隣町であると把握した。
何しろ北東の隣駅は領都ベイルだ。
「昨夜か」
カルディオスはそう呟いて、顎を掌で撫でるようにして、俺を見た。
目が合って、俺はやや驚いたものの、カルディオスの方も気まずそうだった。
「キルトンまでは、ここから汽車でも三日掛かるだろ」
カルディオスはそう言って、指を三本立てた。
「だから、イーディがマジでイルスを目指してて、キルトンに汽車で向かってるとしたら、まだ着いてないんだ。コリウスなら先回りして捕まえられる」
逆に、と言葉を継いで、カルディオスは立てた指を拳に折り畳んだ。
「ベイルに向かうなら一日掛かんないだろ。いったんキルトンの方に向かう汽車に乗ったとしても、隣町か、その隣で乗り換えて、――あ、いや、都合よくその時間に反対側の汽車が来るかは知らねーけどさ、とにかくそうやって、折り返してベイルに向かってたとしたら、下手したらもうベイルには着いてる」
ちら、とディセントラとコリウスを見て。
「――アナベルを連れたまま、イーディがキルトンまで三日、で、そこから……イルスまで二日だっけ? そんな長旅するか?」
「キレてるあの子ならやりかねないわよ」
ディセントラがぼそっと言い、「まあ、そりゃそーだけど」と認めたカルディオスが、また俺に視線を戻した。
気まずそうに顔を顰めて、僅かに頭を傾けて、俺の傍のソファの肘掛に腰を下ろしたままのヘリアンサスを示すような仕草をする。
「だからだ、その、そいつ――」
「おれ?」
俺ではなくてヘリアンサスが、衒いなく応じた。
首を傾げてカルディオスを見て、ヘリアンサスがいつもの、訳知り顔の微笑を浮かべる。
「なんだろう」
カルディオスは、怯んだように顔を顰めた。
素早く視線を伏せて、しかしぼそぼそと言葉を続ける。
「そいつ、」
「おれが」
「世双珠なんだろ」
ヘリアンサスが瞬きして、口を閉じた。
珍しく――本当に珍しく、不意打ちを喰らったような顔をしていた。
視線を伏せているカルディオスはそれには気付かなかった様子で、小さく続ける。
「他の世双珠を通して状況が分かるんなら、汽車の世双珠を当たれないのか。
コリウスが、一旦はイーディがキルトン方面の汽車に乗ったってとこまでは突き止めてくれたんだから、イーディがどこで汽車を降りたか分かれば、行先なんて確定するだろ」
俺はヘリアンサスを窺った。
ヘリアンサスは軽く目を見開いて、きょとんとした様子でカルディオスを見ている。
カルディオスが、じり、と半歩下がったのを視界の端に捉えて、俺は慌てて言った。
「――出来るのか?」
ヘリアンサスの黄金の両眼が動いて、俺を見た。
歪んだ鏡面のような双眸に自分が映っているのを、俺は認めた。
ヘリアンサスは数秒、そのまま黙りこくっていたが、やがて小さく息を吐いて、頷いた。
「――出来ないことはないんじゃないかな。僕にもよく分からないけれど」
そう言って、ヘリアンサスが立ち上がった。
真っ白な礼装の裾が、すとん、と落ちた。
そのまま彼が、すたすたと広間を横切るように歩き始めたので、俺は――そして恐らく他のみんなも――ヘリアンサスが、メリアさんたちと同じ方向に行くのではないかと肝を冷やした。
だが、それは杞憂だった。
ヘリアンサスは広間の柱の間を抜け、玄関扉に近い方の広間の、マントルピースの傍に置かれたソファに腰掛けた。
そのまま彼が身動ぎひとつしなくなったことを、背凭れ越しに見える新雪の色の髪がそよとも揺れなくなったことから見て取って、俺たちは覚えず、一様に、深々と息を吐き出していた。
――ヘリアンサスの、彼のものではない彼の目が情報を拾うに足るものにせよ、そうでないにせよ、一旦はここで話し合いは中断だ。
「――生きた心地がしなかった」
腹の底から吐き出すようにそう言って、よろよろとディセントラがソファの隅っこに座り込む。
緊張が切れたのか、彼女が若干涙ぐんだ。
「もういやだ……」
カルディオスが手を伸ばして、ぽんぽん、とディセントラの頭を撫でる。
それから、長い脚で彼女の膝を跨ぐようにして、ディセントラの隣にどっかりと腰を下ろす。
それを見て、コリウスも、いつまでも立っているのが馬鹿らしくなったのか、ディセントラとは反対側の――つまり俺が立っている傍の――端からソファの方へ入って、深く腰を下ろした。
彼がソファの端ではなくて、俺一人が座れる程度の隙間を空けた位置に腰掛けてくれたので、少しばかりの逡巡ののち、俺もソファの隅に腰を下ろした。
ソファに身体が沈んで初めて、あぁ自分は疲れているんだな、と自覚する。
広間が静まり返った。
時計が置かれていないから、針が進む音すらしない。
どこか遠くの方から、くぐもった風の音めいた何かの音が聞こえてくるが、それだけだ。
ここまで気心の知れている仲だから、今さら沈黙が気詰まりなんてことはない。
いや、今は別の意味で、俺は気が詰まって死にそうなわけだけれども。
俺は玄関扉の方を見て、今にもあの扉が開いて、ルインが無事に顔を見せてくれはしないかと妄想する。
念じる思いに物事を動かす力があれば、ルインは今ごろこの屋敷の真ん前に立っているはずだと思えるくらいに。
数十分がそうして流れて、カルディオスがぼそっと、「腹減った」と呟いた。
ディセントラがちらっと横目で彼を見て、小さく皮肉る。
「――あら、あんたのことだから、話を聞くついでにどこかでご馳走になってたのかと思ったけれど」
「そんなわけねーだろ」
即答して、カルディオスが両手で顔を拭う。
この状況でそれは、と、ぼそぼそと彼が続けるのが微かに聞こえたが、本当に小声だったので定かではない。
「何か食べるか?」
コリウスが、もはや社交辞令ではないかと思えるほど無感動な声を出した。
カルディオスは苦笑して、「この状況で、」と。
「この状況で、ここの厨房借りられるとは思えねーな」
「そうだね」
コリウスが、さながらカルディオスがきちんと問題に正答したかのような表情でそう言って、「何なら、モールフォスでの調達すら憚られるな」と、さらりと言った。
だよな、と、コリウスの言葉に頷いたカルディオスが、唐突に立ち上がった。
それを見上げて、ディセントラが眉を寄せる。
「……どうしたの?」
「ああ、――ムンドゥスを捜そうかと思って」
カルディオスはそう言って、ちょっと顔を顰めた。
「そろそろ雨になると思うんだよ」
そう、と頷いたディセントラが、その数秒、葛藤の顔を見せた。
ヘリアンサスと離れるためにも、カルディオスに付いて行こうとしたのだと俺にも分かった。
だが結局は、諦めてソファの背凭れに身を預けるようにする。
コリウスも全く同じだった。
――メリアさんたちが屋敷にいる以上、ヘリアンサスから目を離してはならないという、それは救世主としての意地に他ならなかった。
そして俺は、それだけではなく、俺がここを出ることをヘリアンサスが許すか否か計りかねたということも大きかった。
カルディオスは、俺たちの誰一人として自分に同行しないことを、妙に思った様子もなかった。
じゃ、とひらりと手を振って、大股に広間を出て行く。
アーチで繋がれた柱の間をくぐるときにはさすがにヘリアンサスを警戒した様子で、彼からは離れるようにして、大回りに広間を動いた。
その動きを目で追って、俺はようやく、初めてここに来たときと、微妙に家具の位置が違っていることに気付いた。
配置は同じだが位置がずれている。
それは多分、町の人たちにリリタリス卿との仲違いを演じてもらうときに、一時的にそれらがバリケードとして使われたからだ。
靴音も忍ばせて、素早くカルディオスが玄関を出て行く。
重たげに開いた扉が、がちゃり、と閉じる。
それでまた、広間は全くの無音になった。
俺はソファの上で、背凭れからずり下がるような行儀の悪い姿勢になっていた。
隣のコリウスの姿勢は端正なものだが、育ちが違うのだから仕方がない。
そんな姿勢で、俺はぐるぐるとこれまでのことを考えていた。
トゥイーディアのこと、ヘリアンサスのこと、ルインのこと、兄貴たちのこと。
レイモンドのことを考えて、今の俺を彼が見たら、「ちゃんと座ってくださいね」と言いそうだな、と思った。
それでチャールズが、「たまにはいいだろ」とか、そういうことを横から言ってくれるに違いない。
覚えず、唇が歪んだ。
笑いになり損ねたそれが歪んで、目の奥が熱くなる。
俺は歯を食いしばった。
――身寄りがない、と、これほど強く感じたのは初めてだった。
俺はこれまで、みんながいないときには、自分は救世主であるという自負があってやってきた。
みんながいれば、そこが俺の居場所だった。
魔王討伐という共通の目的を持った、多生を共にしてきた得難い仲間だ。
そして何より俺は、トゥイーディアのことを考えて、彼女への恋心ゆえに、境遇がつらかろうがそれを撥ね退けてきたということがある。
それが今や、自業自得ではあるが、俺は仲間から縁を切られそうになっている。
トゥイーディアを完膚なきまでに傷つけて、俺はとてもではないが彼女への恋心をどこかへ埋めておけそうにはないが、彼女と一緒にいることを望めない程のことをした。
そもそも俺は救世主ではなくて魔王だった。
――兄貴に会いたかった。
無条件に俺の味方でいてくれた――歳の割に貧弱で精神的に幼かった俺を庇護し、俺の無知を笑わずに俺に世界のことを教えてくれた――もしも俺に手を上げる人がいれば、そいつを殴り返してやれとまで言ってくれた――俺の兄貴に会いたかった。
俺はなまじ大人になってしまって、傍にいる連中も同じようなもので、だからこそ今であってさえ、仲間たちは俺の裏切りを責めて質し、許せないと判断すれば俺と縁を切るだろう。
だが、今は切実に、兄貴が必要だった。
自分よりも大人である兄貴に上から叱られたかった。
兄貴が俺を許さなかったことは一度もないが、それでも仮に、俺のことを許せない局面になったとしても――絶対に情は消えないだろうと断言できる、兄貴にどうしても傍に居てほしかった。
――“攫って逃げてしまいなさい”。
かつて何度も聞いた、駆け落ちを勧める兄貴の声が脳裏に甦った。
俺は無意識のうちに苦笑する。
――レイ。攫って逃げたのはトゥイーディアだった。
俺たちの仲間を一人、攫って逃げちゃったんだよ。
駄目じゃないですか、と真顔で絶句するレイモンドを、もはや想像する必要すらなく思い描きながら、俺はトゥイーディアがどこにいるのかを考える。
ベイルだ、と、メリアさんたちは言っていたけれど、コリウスがキルトン行きの汽車で彼女を見たという証言を得てきている。
彼女のことだから、キルトンでしばらく滞在して、俺たちが追ってくるかを窺う――ということも有り得そうだ。
だが最終的に、彼女がヒルクリード公を頼るかと問われれば、俺もそれには違和感を覚える。
ヒルクリード公は、あの権力闘争において、最後まで実弟の――つまりはリリタリス卿の――味方でいることをしなかった。
権力者としては、そして国王の臣下としては、それが当然の判断だ。
理性ではトゥイーディアもそれを分かっているだろう。
だが、どちらかといえば感情に拠って物事を判断するのがトゥイーディアだ。
本人もそれを短所と弁えていて、だからこそいつもは、大きく振れようとする自分の感情を抑えて、俯瞰的に物事を見ようとするのだ。
だが今ばかりはそうもいくまい。
トゥイーディアにとって伯父は今や、裏切り者に近い認識であるはずだ。
――トゥイーディアはどこにいるんだ。
なんだか情けなくなってきた。
これほど長く彼女に片想いしておいて、確信を持って彼女の居場所を言い当てることも出来ないとは。
――俺がそういう、非生産的かつ内向的な自己嫌悪に身を浸している間に、重い音を立てて玄関扉が開いた。
俺がはっとして顔を上げると、ちょうどカルディオスが扉を押し開けて入ってきたところだった。
ムンドゥスを連れている。
小柄なムンドゥスが、カルディオスに促されて、半ば押し遣られるようにして、広間に足を踏み入れてきた。
そのままとたとたと広間の中程まで進んで、改めてぐるりを見渡すムンドゥス。
彼女に引き続いて広間に足を踏み入れたカルディオスは髪を掻き上げ、薄暗い中であっても分かるほどに顔を顰めていた。
すたすたとこちらに歩み寄って来ながら、カルディオスが簡単な魔法を使ったのが気配で分かった。
「――雨?」
傍まで来たカルディオスに、ディセントラが首を傾げて尋ねる。
カルディオスは鬱陶しそうにシャツの襟元を寛げながら頷いた。
先ほど使った魔法は、濡れた髪や衣類を乾かすものだったのだろうが、その効果を確かめるように、髪や襟元に触れている。
「ん。降ってきた。小雨だけどね。そんなにひどくはならないと思うし」
そう、と頷くディセントラを後目に、カルディオスは広間の中央で佇んだままのムンドゥスを振り返り、誰にともなく呟いた。
「――あれ、魔法で乾かしたら拙いんだろうなあ」
俺は思わず深々と頷く。
拙いなんてものではない、世界にとって魔法は猛毒だ。
思えば、世双珠を使った移動手段において、あの子が常に失神していたのもさもありなん、俺たちは自覚せずに、ムンドゥスに多大な負担を掛けていたということなのだ。
――そのとき、ヘリアンサスが立ち上がった。
弾かれたように、俺たちも立ち上がって身構えた。
ヘリアンサスがこちらを振り返った。
俺たちが身構えていることにも、何らの感想も抱かなかったようだった。
加えていえば、ムンドゥスがヘリアンサスに向かって何か言ったようだったが、それも耳に入っていない様子だった。
振り返ったヘリアンサスは、満面に笑みを浮かべている。
嬉しげに、甘い香りの毒花のように、莞爾と浮かぶ笑みは輝くばかりだった。
にっこりと目を細めて真っ直ぐに俺を見て、ヘリアンサスが断言した。
「――ベイルだ」
「――――」
その刹那、俺は思考ともいえない意識の表層で、「ああ、使用人さんたちも、案外トゥイーディアのことを分かっていたんだな」と、馬鹿みたいに考えていた。
私事ですが、本日は作者の誕生日です。




