81◆ 弟のこと
「――一番ありそうなのは、つまり、一番イーディがいなさそうなのは、モールフォスのどっかでマジで匿われてるっていうのだけど……」
カルディオスが、小声で呟いた。
彼はヘリアンサスの足許の辺りを見ていた。
ヘリアンサスはぱっと視線を翻し、カルディオスを目に映して首を傾げる。
「……そう? モールフォスって、あそこの町だよね」
傍の町の名前ですら、意識して覚える気はなかったことを暗に示しつつ、ヘリアンサスが左手を顎に宛がう。
しゃら、とカライスの腕輪が揺れる。
「じゃあ、あそこの町をよくよく見てみようか」
俺は、少なくとも俺だけは、その言葉の意味が即ち、「モールフォスにある世双珠に集中してヘリアンサスの耳目とする」というものだと気付いたが、メリアさんたちからすれば意味の分からない言葉だったはずだ。
だが、そこに拘泥する人はなかった。
ただ、ソファに座り直したケットが、肩を震わせて啜り泣くメリアさんの手を握りながら、ぶっきらぼうに言った。
「――いや、それだけはないと思いますけど」
俺は思わず眉を寄せたが、同時にディセントラも頷いていた。
「まあ、そうね。私もその線は最初に捨てたし……」
「なんで? ありそうじゃん、灯台下暗し」
カルディオスがディセントラの方を向いた。
ヘリアンサスを視界に入れないようにしていることが分かるほどには不自然に、大袈裟にディセントラだけを目に映した。
「いいえ、ないわ。リスクがあり過ぎるもの――あの子が少し魔法を使うだけで、私たちに居所が知れる距離よ」
カルディオスがぎゅっと唇を結んで、眉を下げた。
「それはそうだけど……」とありありと目が言っている。
が、ケットが重ねて、カルディオスとディセントラの間に言葉を割り込ませるようにして、言った。
「ないです。それは絶対ない。
――この人たちが」
そう言いながらケットがちらっと見たのは、俺とヘリアンサスだった。
「僕たちの近くをうろついて、もしかしたらモールフォスを引っ繰り返すかも知れないわけでしょう。それだけは絶対ないです。
僕らも、本当にやばいと思ったら、お嬢さんが他所へ行ったってことは言っていいって言われてますし」
オーディーが顔を顰めて息を吐く一方で、ケットに握られていない方の片手で涙を拭いながら、メリアさんが頷いた。
――メリアさんもケットも、トゥイーディアの動向については口を割るなと、トゥイーディア本人から頼まれていたはずだ。
そして断じてそれに背くつもりはなかった。
だがそれでも、トゥイーディアすら予想していなかった、慮外の事態があると知らされて――それによってトゥイーディアがなおいっそうつらい目に遭うことだけは看過できないとして、トゥイーディアの頼みに背いている。
どうやら話が出来そうだと確信したらしきディセントラが、ケットを見た。
そして、「こちらへ」と手招く。
それが明らかに、ケットやメリアさん、オーディーを、ヘリアンサスから遠ざけようとしての仕草だと分かったので、俺はその場で、隣のケットを掌で促した。
斯くしてディセントラとカルディオスがソファの前から退き、俺とヘリアンサスから最も離れたソファの端に、メリアさんたち三人が腰掛ける。
移動の意味が分からなかったのだろう三人は――いや、メリアさんは泣きじゃくっていてその余裕もなさそうだったが――訝しそうにしていたが、こういうときのディセントラは相手に有無を言わせない。
ヘリアンサスも、若干呆れた風ではあったものの何も言わなかった。
ソファの端に改めて腰掛けたケットと、腰を屈めて目を合わせたディセントラが、軽く首を傾げた。
「――イーディと会ったのはいつで、どういう話をしました?」
ケットは苦い顔をしたものの、もう口を噤むことは諦めたようだった。
肩を竦めて、オーディーにちらりと、むしろ申し訳なさそうな目を向けてから、口を開いた。
「お会いしたのは昨日のお昼前です。お一方、アナベルさまでしたっけ、青い髪の方を連れてらっしゃって」
「アナベルは――イーディが連れてたそいつは、どんな様子だった?」
カルディオスが口を挟み、ケットは、む、と眉を寄せた。
だがそれでも記憶を手繰るような顔をして、応じる。
「どんなって――気を失ってらっしゃるのを、お嬢さんが支えてるような、そういう」
それを聞いて、カルディオスが両手で顔を覆った。
アナベルがやはり、あれから一度も目を覚ましていないのだということを、改めて突き付けられて絶望した様子だった。
そんなカルディオスを――事態の全容を知っているわけもないので、そういう表情になるのは無理もないことだったが――胡乱そうに見遣ってから、ケットがディセントラに目を戻して、続ける。
「――で、お嬢さんが、そこの、」
ちら、と、ケットの薄茶色の目が俺を一瞥して、すぐに逸らされた。
「あの方に、今回のことで、」
今回のこと、と言ったケットの手が震えた。
それにはっとした様子で、隣のメリアさんがケットの手を握る。
さっきのお返しみたいな仕草に、ケットの頬に苦笑が浮かぶ。
「とても大きな裏切りがあったから、お嬢さんに会ったこと含めて、何も話さないでほしいって仰られました。町のみんなにも同じことをお願いしてて、けど、あの方以外の皆さん、」
皆さん、と言いながら、ケットは掌でディセントラとカルディオスを示した。
「皆さんには、自分の行先も喋っていいよって仰ってて、けど全部、嘘八百並べてるから、町のみんながそれぞれでお嬢さんの行先について話題にしちゃったら、皆さんの尋問が入る前に、なんていうかこう――全部がおじゃんになるかも知れないから、さり気なくそれを止めてくれないかって、お願いされました」
だいぶ無茶ですよね、と苦笑して、ケットは目許を手首でごしごしと擦った。
「それで僕らには、どこに行くか伝えたらいつどこで皆さんに露見るかも分からないから見送らないでって、そう言って、行っちゃいました」
「ご一緒すると申し上げたのですけれど」
そっ、と、言葉を添えるようにして、メリアさんが言った。
「それも要らないと仰って。――お怪我なさっていました、お嬢さま」
カルディオスとディセントラが、俺を詰ろうとしてぐっと堪えたのが分かった。
俺は俯いたが、二人の意図も分かる――ここで、俺こそがトゥイーディアに負傷させた張本人だと言ってしまえば、せっかく得られそうなメリアさんたちの協力が吹き飛ぶのだ。
鼻を啜って、メリアさんが俯く。
「――当座の、応急手当はいたしましたけれど。お嬢さま……」
俯いたまま、俺は軽く目を瞑った。
ありありと想像できた――意識のないアナベルを、魔法の補助も使いながら肩で支えて、この人たちに会いに行ったトゥイーディア。
道中で出会う町の人々に、自分の行先を様々に告げながらメリアさんたちに会いに行って、傷の手当を受けながらも、多分ずっとアナベルを気にしていたはずだ。
それから気もそぞろに、俺の裏切りや一連のお願いを告げて、一向に目を覚まさないアナベルを案じつつ、しかしヘリアンサスが近くに居ることが確定しているモールフォスに残すことも出来ないと、再びアナベルと一緒に移動しようとするトゥイーディア。
彼女は、俺が彼女と戦ったあと、そのまま意識を失ったことを知らない。
カルディオスたちが、ティシアハウスから出るに出られない状況にあったことを知らない。
だから、使う魔法も最小限にして、頻りに背後を気にしていたことだろう――
「――お嬢さまのことですから」
メリアさんが、微かに震える声でそう言って、顔を上げた。
若草色の目が必死だった。
「きっと、皆さまがいちばん予想できない場所に向かおうとなさるはずです。でも、」
「町に留まってらっしゃることは絶対ないです」
言葉を引き取るようにしてケットがそう言って、「ですよね?」と言わんばかりにオーディーを見上げた。
オーディーが短く息を吐いて、ぼそりと呟く。
「――あぁ……まず一番に、儂らの身の安全を考える子だから」
「待って――あの子は今、どういう状況を想定してるの?」
ディセントラが、やや口早に言葉を挟んだ。
腕を組み、僅かに俯き、問い掛けというよりは独り言じみた口調で。
「あの子からすれば――ルドベキアはヘリアンサスの味方に見えてるはず、でもあのあと、ルドベキアが馬鹿なことを言ったと知らなければ、私たちはヘリアンサスから離れたと考えるはず……」
とんとん、と自分の二の腕を叩いて。
「でも、私たちにも本当の情報を教える気はなかった――それはそうよね、ヘリアンサスがいるもの……」
ディセントラやカルディオス、コリウスの頭の中から情報を掬われることを、トゥイーディアも恐れたはずだ。
「だからあの子は、ルドベキアのことは本気で撒きたいと考えていて――私たちとは、合流したくても出来ない……」
ディセントラが、指先を頤に宛がう。
言葉はもはやうわ言めいていた。
「……あの子が本気で安全を確保しようとしたのはアナベルだけのはず。私たちのことまでは、そこまで必死に守ろうとしない――アナベルをヘリアンサスから引き離すのを第一にしたはず……」
カルディオスが目を見開いて、ディセントラを覗き込んだ。
「トリー? イーディなら、たぶん――」
「違うのよ」
ディセントラは俯いたまま、おざなりに手を振った。
声は小さかったが、聞き違いでなければ、俺にはこう聞こえた。
「――今でも、イーディはルドベキアを信頼はしてるはず」
カルディオスが言葉を呑み込んだ。
彼が翡翠色の目で俺を見て、それから頷いた。
――俺は、呪いのために反応を示すことも出来ずその場に突っ立っていた。
だが、心臓は音を立てて打ち始めた。
指先が冷えるほどの、閃くような興奮と疑念に息も止まった。
――トゥイーディアが、まだ俺のことを信頼している?
どうしてそう言える。どうしてまだそんなことがあるなどと――
口を開けない。
俺はただ、顔を顰めてそこに立っていることしか出来ない。
ディセントラも、もはや俺の方は見ない。
彼女が顔を上げて、じっとケットの顔を見る。
稀代の美貌が自分を眺めていることに、ケットは心ならずもどきりとした様子だったが、ディセントラはむしろ、ケットの顔の向こう側に、何某かの文字が掛かれているかのような、それを集中して読もうとしているかのような表情をしていた。
「疲れてて……ショックで……あの子が、私たちにだけ分かるように居所の手掛かりを残すなんて器用な真似が出来たとは思えない――」
「うちのお嬢さんを悪く言わないでもらえますか」
ケットが思いっ切り不愉快そうにそう言ったが、ディセントラはそれに対しておざなりに手を振っただけだった。
視線を、壁に掛けられた風景画の一枚に固定して、やはりそこに何かの文字が書いてあるかのように見詰めながら、ぼそぼそと言葉を続ける。
「だから、私たち全員から隠れようとしたはず……そうね――」
「お嬢さんのことだから、近くの町にこっそり下りてるなんてこともないと思います」
ケットが躊躇いがちに言った。
オーディーが頷く。
「確かに――虱潰しに捜される所は避けようとなさるだろうな」
ディセントラが、オーディーに視線を戻した。
眉を寄せていて、それは多分ディセントラの、長年の付き合いのある自分を差し置いてオーディーたちが話していることへの、自覚すらなかっただろう不快感の表れだった。
「――あら。では逆に、近くの町にいるのではない? いちばん予想されない場所にいるんでしょう」
「や、お嬢さん、こういうときは変に頭を使いますね」
ケットが遠慮会釈なくそう言って、不意に何かを思い出したように微笑んで、メリアさんと目を合わせた。
「ハンスさまとかくれんぼなさったときのこと、覚えてる?」
メリアさんが苦笑した。
泣き濡れた瞳が細められた。
「ええ――近くの使用人部屋にもお部屋の衣装箪笥にも隠れようとなさらないで、結局はジョーに頼み込んで厨房に」
「あれ、僕らも子供だったから普通に見てたけど、火があったから危なかったよね。――まあ、ジョーならお嬢さんを庇ってくれるから、盾にしたかったんだろうけど」
「しかもあのとき、ナンシーに頼んで、全然違う方向に行ったっていう嘘の証言まで用意してたんですよ、実は」
ケットの顔がくしゃっと歪んだ。
「それは知らなかった」
「ハンスさまは怒髪天でしたね。他人を味方にするのは卑怯だって言って、そのあとお嬢さまに騎士道に関する本が届いて」
「あれ、ハンスさまは根に持ってらっしゃったけど、お嬢さまはすっかりかくれんぼの一件は忘れてらっしゃって、自慢してたっけ。こんな本が贈られてきたって――旦那さまに――」
ケットの唇が震えた。
俺は思わず、ヘリアンサスを窺い見た。
彼が、ケットの口調から何か感じていることがあるのではないかと思った。
が、ヘリアンサスはただ、興味深そうにケットたちの話を聞いているだけに見えた。
ケットは、ごしごしと腕で顔を拭って、顔を上げた。
「だからお嬢さんなら、全く当てがないところより、多少でも地理が分かって知り合いがいる、そういう所に向かわれると思うんですけど」
「地理が分かって知り合いがいて、なおかつあいつが向かわなさそうなとこか、絞られて助かるよ」
カルディオスが、皮肉か本音か分からないような口調でそう言って、腕を組んだ。
「お嬢さまが地理が分かるっていうなら、この辺か、フレイリーか、領都か王都か」
オーディーがしわがれた声でそう言って、咳払いして、ちら、とディセントラを見上げた。
「――か、アーヴァンフェルンの方か」
「現実的に考えて、アナベルを連れて海を越えることは難しいでしょうね」
ディセントラは無表情にそう言って、「港まで行っていることはあるかしら」と独り言ちる。
しかしそれを、遠慮がちながらもきっぱりと、メリアさんが否定した。
「いえ、港町といえばリドフールかオールエッジですが、どちらもお嬢さまが町を知悉していらっしゃるとは言えません」
ディセントラが瞬きして、メリアさんを見下ろした。
一、二秒、そうした後で視線を外す。
「――そう」
「この辺はないんだろ。――フレイリーは?」
カルディオスが急かすように言って、記憶を辿るように顔を顰めた。
「イーディ、確かフレイリー戦役で名を上げたとか何とか、そういう感じだっただろ。フレイリーの今の領主はイーディに恩があるはずだ。匿うくらいはするんじゃねーの?」
ディセントラが眉を寄せて、隣に立つカルディオスを見上げた。
「フレイリー戦役?」
「この辺の穀倉地帯。領主の後継ぎが揉めたときにイーディが活躍したって、今の俺の親父が」
カルディオスが面倒そうに応じて、俺ははたと、今のこいつがアーヴァンフェルンの将軍の息子であるということを思い出した。
軍事に係ることだから、他国のこととはいえ、フレイリー戦役――トゥイーディアが、活躍したはいいものの、その先走り度合いからお父さんにこっぴどく叱られたという、あれだ――のことは知っていたのだろう。
「フレイリー……」
ケットは真面目に思案する顔になったが、オーディーが、「ない」と呟いた。
両手を組んで、項垂れる。
「――ない。……旦那さまがああなっちまったんだ――お嬢さまとしても……あちらの領主さまは頼られねぇだろう……」
――リリタリス卿の冤罪は雪がれていない。
俺は覚えず奥歯を食いしばったが、ケットとメリアさんの、嫌悪と哀切の入り混じった表情は俺たちの比ではなかった。
「イーディが偶然にも途中でルインくんと合流して、あの書状を手に入れてでもない限り、フレイリーはないってことね」
ディセントラが若干の棘のある口調で言って、それを聞いて初めて、今まで黙っていたヘリアンサスが口を開いた。
「――書状?」
ディセントラが、はっとしたようにヘリアンサスを見た。
そして、逡巡は一瞬、ぱっと手を振る。
キン、と、音ともいえないようなあえかな響きがあって、一時的に、メリアさんたち三人と俺たちの間で、空気が――延いては音の伝播が遮られたのが分かった。
俺たちにこそそれは分かれど、メリアさんたちからすれば、急に辺りが無音になったように感じられたことだろう。
ケットが訝しそうに、自分の耳の辺りを押さえている。
ヘリアンサスは――恐ろしいことに――ディセントラの意図すら分からなかったようだった。
今ここで、ヘリアンサスが書状について口に出すこと――延いてはヘリアンサスこそが、リリタリス卿の冤罪を作り上げたのだということ――それがメリアさんたちに知られることが、どれだけ拙いことなのか分かっていない。
それは取りも直さず、ヘリアンサスの、情動への無理解と無関心を示している。
訝しそうにディセントラを見たあとで、ヘリアンサスは心底から疑わしげに。
「書状って、あの書状のこと? 国王がご令嬢に――」
「そうだよ、あれさえ見付かれば、リリタリス卿を助けられたんだ」
語調を荒らげて俺が言い、その語尾を捉えるように首を傾げたあとで、ヘリアンサスはさらりと尋ねた。
「あの書状、まだあるの?」
俺の血が凍った。
音を立てて自分の顔から血の気が引くのが分かった。
――待て、待て……あれがもうないとすれば、あれを今まさに探しているはずのルインは、俺の弟は。
「……――処分したのか?」
喉に絡んだ声で尋ねる。
そんな俺を、不思議そうに見詰めたヘリアンサスが眉を顰めた。
「いや、僕は処分し損ねた。でも、頼んだんだけどな」
俺は口を開け、しかし言葉が見付からずに、そのまま視線をディセントラとカルディオスに向けた。
ディセントラは、凍るような眼差しでヘリアンサスを見ていた。
息を吸い込み、俺はヘリアンサスに目を戻す。声が震えた。
「……どういうことだ?」
「どうもこうも」
ヘリアンサスは瞬きし、軽く両手を広げてみせた。
しゃら、と鳴るカライスの腕輪。
「あのときの僕は、ご令嬢との対局の最中だったでしょ。勝つにはあれがあると拙いじゃないか。でも処分しちゃうと後々困るかも知れないからね、王宮に入ったらすぐにあれを手許に持って来るつもりだったんだけど――」
カルディオスが大きく息を吸い込む。
彼が必死に自分を宥めているのは容易に分かった。
ヘリアンサスは、そのカルディオスの様子には気付かなかったらしい。
ちら、と苦笑して、視線を流すようにしてディセントラを見た。
そして、静かに言った。
「誤算だったんだ。そこの女王がご令嬢と一緒になって国王と会っているとは思わなかった。
――不安になっちゃったから、すぐにあそこに向かったんだよ」
言われずともそれが、ヘリアンサスがトゥイーディアに婚約解消を叩き付けた、あの日の出来事だと分かる。
そこで言葉を切り、ヘリアンサスが、はっとしたようにカルディオスを見た。
そして、妙に無表情になって、珍しくも口早に、はっきりと言った。
「――別に、あそこでのことは思い出さなくていいよ」
「は?」
カルディオスが低い声で呟いたが、ヘリアンサスは素早く俺に視線を戻した。
そして、殊更にゆっくりと。
「……そこの女王が王宮にいる間は、下手に動いて書状が見付かったら大変だと思って、手を出さなかったんだよ。で、そうしてるうちに、もう処分してもいいかなと思って――、あの――ええっと……」
眉を寄せ、立てた指を振り、しばらく考えて。
「――そう、ニードルフィア元伯爵。
あれにも、まだ一応使える人手はあったようだから。だからあれに頼んで、さっさと処分するように言ったんだけど」
その瞬間、まざまざと、あのときのことが脳裏に甦った。
――記憶というには生々し過ぎるあの瞬間、リリタリス卿が致命の傷を負ったあのとき。
手を下したニードルフィアの元伯爵に向かって、ヘリアンサスは確かに言っていた――『もう片方のお願いも、ちゃんと聞いてくれただろうね?』と。
書状のことだったのか。
「――ルイン」
全く無意識に、俺はそう言っていた。
ヘリアンサスが目を細めて、首を傾げる。
「うん?」
俺は思わず手を持ち上げた。
傍に立つヘリアンサスの襟首を掴んでいた。
俺に引っ張られて、ヘリアンサスが軽くよろめいた。
彼が瞬きする。
「どうしたの?」
「ルインがあれを探してる」
荒らぎそうになる呼吸を必死に抑えて、俺は低い声で呟いていた。
「あの書状がもう無くて――そのせいであいつに何かあったら――もう、」
歯を食いしばる。
「もう、おまえとは何の話も出来ない」
ヘリアンサスは、きょとんとした表情で瞬きした。
そして、にこっと笑った。
丁寧に俺の手を掴んで自分の襟首を離させて、手を伸ばして、ぽんぽん、と俺の頭を撫でる。
「それは困るな。――でも、そんなことは出来ないよ。
おまえはおれの番人だから」
「――っ」
「ルドベキア!」
俺がなおも口を開く、それを制するように、ディセントラが俺を呼んだ。
声音が明らかに苛立っていた。
「ルインくんが心配なのは分かるけれど、今どうこう言って解決する問題じゃないでしょ。黙ってて――話が進まないわ」
がっと俺の頭に血が昇った。
――分かるわけがない、ディセントラにも、カルディオスにも絶対に分からない。
こいつらには兄弟がいない。
だが、さすがに俺も、この場でのディセントラの正しさくらいは分かる。
――ルインのことは、確かに、この場で議論しようがしまいが解決しない。
というか解決のしようがない。
イルスまであいつを迎えに行くことが出来ればいいが、あいつが今もイルスに居るのかどうかが分からないのだ。
あいつのことだから――見た目よりずっと優秀なあいつのことだから――早々に書状が処分されたことを嗅ぎ付けて、既にこっちに向かっているかも知れない。
そして仮に、今もあいつがイルスに居たとして、俺たちが妙な動きを見せたせいであいつが捕まれば元も子もない。
一方でトゥイーディアの行方は、早急に割り出さねばならないことだ。
――俺は大きく息を吸い込んで、いちどぎゅっと目を瞑ってから、ディセントラに掌を向けた。
「……悪かった」
「けっこう」
素気なくそう言って、ディセントラが指を鳴らす。
無音で魔法が解除される。
この数分、俺たちの声が全く聞こえなかったことに訝しそうにするメリアさんたちに、「身内の話でしたので」と、素早く謝罪を済ませてしまう。
――何よりも命と無事を優先するように、と、俺はあのときルインに言った。
ディセントラが、さすがに不快そうにするケットに更に幾つか謝罪の言葉を並べるのを、聞くともなしに聞きながら、俺は思い返している。
――だから大丈夫、大丈夫であるはずだ。
今なら俺は、俺を案じて気が狂いそうな顔をしていたレイモンドの気持ちがよく分かる。
――ルインは大丈夫、大丈夫だ。
そう必死になって自分に言い聞かせる俺の脳裏に、あのときのルインの声が囁く。
――『いざとなったら、弟を助けに来てくださいね、兄さん』




