75◆ 問題提起
「――アナベルがどこにいるか分かったのか?」
俺は思わず、ぼろっと零すようにしてそう尋ねていた。
今のヘリアンサスの台詞をそうと捉えたのは俺だけではなくて、カルディオスも若干身を乗り出している。
ヘリアンサスは瞬きして、微笑んだ。
そして、腕組みを解いてひらりと手を振る。
簡単な否定の仕草だった。
「いや、ちらっと見えただけ。言ったでしょ、今の僕では以前のように、僕のじゃない僕の目が見ているものは、そうはっきり見えるわけじゃないんだ」
「――に、してもだ」
俺も喰い下がった。
ともすれば声が震えそうなので、歯を食いしばる。
必然、声は潰れたものになった。
「周囲の様子とか、そういう――」
「見えないよ」
きっぱりとヘリアンサスは言った。
音を立てずに両掌を合わせて、しゃらん、と揺れる腕輪に一瞬だけ視線を落として、首を傾げる。
黄金の目を上げて、真っ直ぐに俺を見る。
「どういう道理かは僕も分からないけどね、僕のじゃない僕の目を通してもちゃんと見えるのは、きみたち人間だけだから」
「――――」
俺は言葉を呑み込んだ。
言い様のない苛立ちはあったが、俺の何倍もの苛立ちをヘリアンサスが抱えていることだけは分かった。
そのために、俺はこいつを刺激できなかった。
が、
「――大丈夫そうか?」
カルディオスが、彼が最初の記憶を『対価』に捧げてからこちら、俺が片手で数えられるほどの回数しか見た覚えがないことに、自分からヘリアンサスに声を掛けていた。
「…………」
ヘリアンサスが軽く目を見開いて、カルディオスの方を見た。
新雪の色の髪がさらりと揺れて、俺からは彼の横顔しか見えなくなる。
カルディオスはヘリアンサスを見ていて、警戒心と敵愾心こそ表情にあったものの、それを堪えて一歩譲るような、窺うような色もその表情にはあった。
そして、慎重な声音で彼は繰り返した。
「――イーディとアナベルは、大丈夫そうか?」
ヘリアンサスが瞬きした。
しばらく彼は無言でいて、それから呟いた。
珍しく、喉に絡んだような声だった。
「……あぁ」
ヘリアンサスがカルディオスから目を逸らして、もういちど俺の方に向き直った。
だが視線は下を向いていた。
「ああ、それは……特段、危ないものは周りにはなさそうだけれど」
カルディオスは何も言わなかったが、彼が大いに安堵したことは端から見ても明らかだった。
一方のコリウスとディセントラは、ヘリアンサスの言葉の真偽を疑う表情ではあったものの、どのみち確かめようのないことではあった。
ヘリアンサスは両手の指先をそれぞれ合わせて、そのうちの人差し指だけを互いにくるっと回した。
そうして何かを考えている風情だったが、一方の俺ははっとして、覚えず一歩、ヘリアンサスに詰め寄っていた。
「――ヘリアンサス、おまえ」
ヘリアンサスが目を上げて、俺を見て、首を傾げた。
そうして口を開いたが、口を開いてから声を出すまでに、かつて俺が好きだった、独特の一拍の間が空いた。
「……うん?」
「俺に魔王の権能を戻せるか」
ヘリアンサスが瞬きした。
そのまま是とも非とも応じない彼に、俺は重ねて。
「怪我人がいるんだよ。このままだと俺は、自分以外は治せないだろ」
短く息を吐く。
「――もういいだろ」
ヘリアンサスが微かに眉を寄せた。
だが彼が何を言うよりも早く、「おい」と制止の声が掛かる。
俺は振り返った。
カルディオスだった。
カルディオスが眉を寄せて、強張った顔で俺を見ている。
「おい、――なに言ってる、今さら」
翡翠の瞳が一瞬だけヘリアンサスに移って、それからカルディオスはまた俺を凝視した。
「今さらだろ。そんな奴に縋るほどのことか?」
俺は一瞬、息を止めた。
――そうだ、今さらだ。
あのとき、俺が今生で最も魔王の権能を必要としたとき、ヘリアンサスは俺に権能を返さなかった。
――頼む、お願いだ、何でも認める、俺のことを何とでも呼べ、おまえが言うならそれが正しい!! ……だから頼む、今だけでいいから、返してくれ!!
処刑場で叫んだ自分の声が耳許に甦った気がして、俺はぎゅっと目を瞑った。
だがすぐに目を開けて、無言のヘリアンサスを覗き込む。
――カルディオスも、怪我人が自分でなければこうは言うまい。
「ヘリアンサス?」
ヘリアンサスは冴えた黄金の双眸で、視線を投げるようにしてカルディオスを一瞥した。
それから溜息を吐いて、億劫そうに右手を持ち上げる。
そして、ちらりと皮肉に笑った。
「――確かに。もういいね」
ヘリアンサスが定めた魔王の権能は、土壇場でリリタリス卿の命を救う可能性があった。
だからヘリアンサスはそれを封じた。
そして『対価』が成就した今となっては、もはや魔王の権能を縛る意味はない。
「おれがおまえに遣った権能だ」
ぱちん、と、ヘリアンサスが指を鳴らした。
――魔王としての魔法を封じられたときと同じく、明確に分かる変調はなかった。
眩暈もなければ痛みもなく、解放感も特にはない。
だが、魔王に許された権能のうち、封じられていた――他者に対する守護と治癒の――魔法が、俺に戻されたのだということは明瞭に分かった。
俺はいきおい、そのままカルディオスに詰め寄りそうになったが、彼の表情を見て動けなくなった。
――嫌悪と警戒のありったけに、カルディオスの顔が強張っている。
よしんば俺がカルディオスに詰め寄ったとて、奴が素直に治療を受けないことはよくよく分かった。
ヘリアンサスは、俺がすぐに動かないことを怪訝に思った様子で眉を寄せたが、特段それを口に出すことはなかった。
代わりにふと振り返って、扉の傍の壁に立て掛けられている、罅割れた白い剣を振り返った。
長剣は今、薄墨に色を沈めて、ぽつねんと部屋の隅に放り出されている。
俺がカルディオスの顔色を見て立ち竦んだ数秒で、ヘリアンサスは気紛れを起こしたような身振りですっと手を伸ばしていた。
その仕草に応じて、ひゅん、と白い長剣が宙を飛び、ヘリアンサスの手の中に収まった。
薄墨に色を沈めていたはずの長剣が、ぱっと明るい象牙色に煌めいた。
俺は覚えず瞠目したし、コリウスもそれは同様だった。
ディセントラがぱっと口許に手を当てたのは驚きの声を堪えるためだっただろう。
それもそのはず、この長剣を扱えるのは――剣から形を変え、固有の力の底上げという最も大きな恩恵を受けられるのは――、俺とトゥイーディアだけのはずだった。
象牙色の煌めきは、そのときこの剣を握っている者が、十全にこれを扱うことが出来るという証左だ。
が、一方のこの武器の生みの親であるカルディオスは、苦虫を噛み潰したような顔をしたものの、驚いた様子はなかった。
それを見て俺も刹那に思い当たった――この武器を扱うことが出来る条件は、魔力量、それに尽きるのだ。
そうだとすれば、無尽蔵の魔力を与えられているヘリアンサスに扱えない道理はない。
――扱えない道理はない。
そう納得するに至って一秒、俺は自分の足許が、氷水に浸されたように冷たくなって、そこから恐怖が這い上がってくるような感覚に襲われた。
自分の間近で刃物が宙を飛んだことには今さらびびらないが、他ならぬヘリアンサスが武器を手にしたのだ。
遅ればせながらも突き付けられたその事態に、俺は自分がその場で凍り付いたことを自覚した。
それは他の三人も同じことで、全員が全員、動くに動けずその場に根が生えたように立ち竦む――いや、ディセントラだけは別だった。
そろそろと、窺うような動きで、彼女が他の俺たちから距離を取る方へ動いた。
――呪いの発動を恐れているのだ。
この場でディセントラだけは、長年彼女を苦しめた呪いのゆえに、この場でヘリアンサスが唐突に俺たちを殺しに掛かったとして、最初に倒れるのは自分ではないと確信できていることだろう。
そしてその確信を恐れていることだろう。
だが、ヘリアンサスは、戦慄する俺たちの様子には無関心だった。
右手に柄を握った長剣を重そうに持ち上げて、左手を刃に添えて刀身を支えて、ヘリアンサスは興味深そうにまじまじと、象牙色の刀身に走った罅割れを観察している。
彼はしばらくそうしていて、それから顔を上げて、俺を見た。
呆れたように目を細めて、ヘリアンサスが呟く。
「――おまえが、力任せに扱うから……」
俺は答えられなかったが、ヘリアンサスは頓着しなかった。
刀身を支えていた左手をひらりと翻して、その弾みにしゃらんと清かな腕輪の音を鳴らして、ヘリアンサスが左の手指を、象牙色の長剣に走った罅割れをなぞるように動かした。
ぱきぱき、と微かな音が聞こえて、俺は、すわヘリアンサスが完膚なきまでにこの長剣をへし折りに掛かったのかと思って動揺したが、実際は逆だった。
――刀身に走っていた罅割れが修復されている。
僅かの痕もなく罅割れが失せた刀身を眺めて一秒、ヘリアンサスが軽く剣を振る。
意外というべきか、その仕草は案外ぎこちなかった。
だが、動作のぎこちなさとは裏腹に、素早く滑らかに、長剣はその姿を改めた。
ヘリアンサスの手に握られているのは、今は象牙色に煌めく小刀だった。
ヘリアンサスはそのまま、気軽な散歩に出るかのような足取りでふらっと俺の方へ近付いて、堪らず一歩下がった俺を見て微かに眉を寄せたあと、俺に向かって小刀を差し出した。
手許でくるっと小刀を回して、柄を俺の方へ向けるようにして、ヘリアンサスは俺がそれを手に取るのを待った。
俺は逡巡したものの、どのみちここで逃げ出せば、その行為を是とはしないヘリアンサスに即座に殺されるだろうと考えるだけの頭はあった。
――大きく息を吸い込んで、俺は右手を伸ばして、象牙色の小刀を受け取った。
俺の手に亘っても、象牙色の小刀はその柔らかな色合いを保ち、微かに煌めているままだ。
その様子を一瞥してから、ヘリアンサスは微笑んだ。
いつもの、俺たちが見慣れた、訳知り顔の微笑だった。
だが同時に、少しばかり感傷的でもあった。
「――おれは、カルディオスほど上手くないからね」
穏やかにそう言って、ヘリアンサスが軽く肩を竦めた。
「後で、ちゃんと見てもらいな」
「――――」
どう応じればいいものか分からず、俺は無言で頷いた。
一方のカルディオスは、名指しされたがゆえの反射だろうが、じりじりとその場から下がっている。
俺は手許で小刀を首飾りの形に変え、鎖に首をくぐらせて胸元にそれを下げた。
俺のその動作を見るともなしに眺めながら、ヘリアンサスは自身の首許の金鎖を指先で弄りつつ。
「……――それで、そう。どうしたものかな。ご令嬢はどこだろう」
回答はおろか何の提案も持ち合わせていない俺は言葉に詰まったが、ここに至って堪えられなくなったのか、ディセントラが口を開いた。
とはいえヘリアンサスにものを言う度胸は彼女であっても無かったか、あるいはヘリアンサスとは口も利きたくないと考えたがゆえか、彼女の淡紅色の眼差しは俺を向いていた。
「――ごく普通に考えると、イーディがここから消えたあと、何をどうあってもモールフォスの町に下りたとは思うけれど」
カルディオスが眉を寄せた。
コリウスはそれに輪を掛けて深い皺を眉間に刻んだ。
「あの森の中を、アナベルを連れて、イーディが一人でか?」
カルディオスの懐疑的な言葉に、ディセントラが腕を組んだ。
解れた赤金色の髪が揺れて、朝陽を吸い込んだように煌めいた。
「じゃあ、なに? イーディは今もどこかその辺りの森の中にいるっていうの? そんなの、その距離だったら、あの子が魔法を使っていれば私たちにだってあの子の居場所が分かるわよ。
それにイーディだって、コリウスほどではないけれど〈動かす〉魔法も使えるでしょ。それにあの子が移動している途中でアナベルが目を覚ました可能性だって――」
「ディセントラ」
コリウスが、ディセントラの言葉を遮った。
ディセントラが口を噤み、コリウスの方へ花貌を向ける。
コリウスはディセントラを見て、それからカルディオスを見て、ディセントラに視線を戻すと、小さく呟いた。
「――そもそも、アナベルは目を覚ましているのか?」
ディセントラが瞬きした。
俺は脳天を叩かれたような気分になった。
――仮に、万が一――そんなことは予想もしていなかったが――アナベルが、気を失ったままだとして。
一度も目を覚ましていないのだとすれば。
もしもそうであれば、一緒にいるトゥイーディアが何をしても彼女が目を覚まさないのであれば――最悪の場合、近いうちに、アナベルが衰弱死することすら有り得てしまう。
もう、最初の人生を辿った俺たちとは違うのだ。
世界のために創られた特別な器であり、衰弱死が許されなかったあのときの俺たちとは、もう違うのだ。
コリウスは、糖蜜の中に浸かった視線を非常な努力を以て振り向かせているようにゆっくりと、ヘリアンサスの方へ目を向けた。
とはいえ目を合わせる度胸はなかったとみえ、彼はヘリアンサスの、胸の辺りに視線を当てた。
そして、日頃の彼からすれば信じられないほどに歯切れ悪く、呟くように尋ねた。
「……先程のあれは――アナベルがまだ眠っているというのは――一度目を覚まして、それからまた眠ったという意味なのか……、それとも、あれから一度も、アナベルが目を覚ましていないという意味か――どちらだ」
ヘリアンサスは、きょとんとした様子で瞬きした。
俺がぞっとしたことに、彼は本気で、コリウスの質問の真意が分かっていないようだった。
だが俺を見て、続いてカルディオスを見て、二人揃って尋常でない表情をしていることを察したらしい。静かに首を傾げた。
「――さあ。僕だって、ちらっと見えただけだからね。四六時中青髪の子を観察していたわけでもないし、それも出来ないから、あの子が目を覚ましたときがあったかなんて、僕は知らないけど――」
そこで口を閉じ、黄金の瞳でしばし中空を見据えて何事かを考えてから、ヘリアンサスが溜息を吐いた。
そして、当然のように呼ばわった。
「――ムンドゥス。ムンドゥス、どこ」
俺たちは声どころか物音ひとつ立てられずに沈黙した。
ちっちっ、と小さく、時計の針の音が空気を震わせる数秒。
片付けられないままの食器が、円卓の上にくっきりと影を落としている。
窓の外で鳥が鳴く。
「――――」
何事も起きないことに、はあ、ともういちど息を吐いて、ヘリアンサスがうんざりした様子で呼ばわった。
「ムンドゥス。怒らないからおいで。どこにいるの」
「――そばによるなといったり、おいでといったりするのね」
水晶の笛を鳴らすような美しい声がして、朝焼けの中に朝靄が立ち込めるかのように自然に、ヘリアンサスのすぐ傍にムンドゥスが現れた。
長すぎるほどに伸びた漆黒の髪を、幾重にも結わえて膝下の長さに垂らしている。
黒檀を彫り抜いて造り上げたかのような、完璧に整った姿形――しかしその美しい黒い肌を、夥しい数の罅割れが覆っている。
鏡のような銀の双眸でヘリアンサスを見上げて、一片の感情も浮かばぬ無表情を彼に向けて、ムンドゥスが静かに立っている。
コリウスとディセントラが、ぎょっとしたように飛び上がり、後退った。
カルディオスが瞬きして、まじまじとムンドゥスを眺め遣る。
一方の俺は身を乗り出していた。
――俺たちは、もうムンドゥスが創り出した特別な魔力の器ではない。
だが一方で、ムンドゥスは世界そのものだ。
もしかすると――尋ねさえすれば――トゥイーディアの居場所を教えてくれるかも知れない。
――トゥイーディアのことが心配だった。
もう俺には彼女を案じる資格など欠片もないが、それでもどうしても、彼女のことが心配で仕方がなかった。
ヘリアンサスは、周囲の様子には無関心だった。
ただ、無表情で切り捨てるように言っていた。
「ああ、そうだね。そして、きみはそういう僕が未だに大好きなわけだ」
ムンドゥスが首を傾げて、結われた漆黒の髪が重たげに揺れた。
数秒の間を取って、ムンドゥスは肯った。
「――そうね」
「ムンドゥス、教えて」
ヘリアンサスは、ムンドゥスの返答には反応を返さずに、きっぱりと言い渡した。
「――ご令嬢は……“トゥイーディア”は、今どこにいるの」
――ヘリアンサスがその名前を呼ぶことの違和感を、僅かに俺は覚えていた。
思えば俺は、ヘリアンサスがトゥイーディアの名前を口に上せるところを、殆ど見たことがなかった。
ムンドゥスは首を傾げた。
しばらく待って、なお何も答えないムンドゥスに、ヘリアンサスが言葉を重ねる。
「昔は、きみが創った特別な器だっただろう。どこにいるか分からないの」
「――――」
無言のまま静謐な銀の瞳を瞬かせて、それからムンドゥスが口を開き、きっぱりと言った。
彼女の罅割れに覆われた両手が、しっかりと彼女自身の胸の上で重ねられていた。
「――ここにいるわ」
「――っ」
かっと頭に血が昇った。
俺は思わず、激昂して声を荒らげそうになった。
とはいえそれは、他の三人も同様だった。
実際、カルディオスは手さえ届けばムンドゥスの頭を張り倒していたのではないかというような、相手の正気を疑う顔をしている。
――が、そこで、俺は思い出した。
俺がレンリティス王国から諸島に戻されて、そのあと再び雲上船に乗せられたとき――その間隙の僅かな時間に、俺はムンドゥスに会っている。
そこで俺はヘリアンサスの居場所を尋ね、今と同じ答えを返されたのだ。
即ち、「ここにいる」と。
ムンドゥスは世界そのもの。
だからこそ彼女にとっては、この世のどこにトゥイーディアが居ようが、それは自分の中ということ。
ヘリアンサスが息を吐いて、気怠そうに円卓に片手を突き、そちらに体重を掛けた。
「――そういうことじゃないよ。僕の目で見て、彼女がどこにいるか訊いているんだけど」
ムンドゥスが瞬きした。
束の間、彼女が戸惑ったかのようにも見えた――だがそれも錯覚だったかも知れない。
ムンドゥスは変わらず、氷のような無表情のままだった。
しばしののち、だらん、と両手を垂らして、彼女は戦慄するほどに美しい声で、歌うように。
「――しらないわ、わからないわ」
ヘリアンサスが舌打ちした。
そのことに、俺は覚えずびくっとしたが、ヘリアンサスはどうやらそれには気付かなかったらしい。続けて尋ねた。
「――じゃあ、あの青髪の子は……“アナベル”は、」
ヘリアンサスが左手の人差し指を立てる。
しゃら、と腕輪が揺れる。
朝の光をくっきりと切り取る一本指。
カライスが白く朝陽を弾く。
「僕の前から離れてから、目を覚ましたことがある?」
ムンドゥスが首を傾げる。
ヘリアンサスが苦笑した。
「――目を覚ますっていうのは、ムンドゥス。
きみのための肉の器が、あの子の随意に動くってことだよ」
ムンドゥスが瞬きした。
それから柘榴色の唇を開き、きっぱりと言った。
「――いいえ、いちども」
――一拍を置いて、俺たちが騒然とした。




