74◆ そうであったなら
居間の時計が十時を打った。
低く重々しい音が時を告げ、それと同時に、ぐぅ、と間抜けな音が鳴った。
腹の虫が鳴いた音ではあったが、もはや誰のものとも咎める声すら上がらない。
全員が全員憔悴しているので、それもそのはずではあった。
「――何か食べよう」
絞り出すようにコリウスが言った。
「このままでは、今後の身の振り方以前に餓死する」
うん、みたいな曖昧な声が各々の喉から漏れて、コリウスが立ち上がった。
それから、自分一人で四人分の食事を確保するのが馬鹿馬鹿しくなったのか、俺を見た。
それを受けて俺も立ち上がったものの、少し迷って、結局はカルディオスを見た。
「――カル。もしヘリアンサスがここに来たら、俺は厨房って伝えてくれ」
カルディオスがあからさまに顔を顰めて、立ち上がろうとした。
その際に「いて」と声を漏らしたのは無意識だろうが、俺は思わずカルディオスに歩み寄って、肩を押さえて座り直させる。
カルディオスが素気なく俺の手を振り払って、座ったままで俺を睨み上げた。
顔が整っているだけに迫力がある。
「なんで俺に言う。事ある毎に俺ばっか名指しにしやがって、恨みでもあんの? だったら俺がコリウスに付いて行く」
カルディオスが進んでコリウスと行動を共にしようとしているとあって、俺はその瞬間に手を引いて下がり掛けたが、「カルディオス、やめておけ」と、コリウス自身から声が掛かった。
俺とカルディオスが、揃ってコリウスの方を見た。
コリウスは円卓を回り込んでこちらに近付きつつ、いつもの無表情で続けていた。
「手間を増やすな。――おまえもディセントラも料理は出来ないだろう」
――お説ご尤もで。
大抵のことは器用にこなすカルディオスが苦手とすることが、倹約と、目立たないでいることと、料理だ。
カルディオスはむすっと唇を引き結んだが、反論は思い浮かばなかったと見える。
ここで彼が、「じゃあ全員で行けば良くね」とでも言い出そうものならば、逆に俺一人がここに残らなければならないところだった。
ヘリアンサスが最後に俺を見た場所から、誰にも言伝を残すことなく、無断で立ち去っていいものか、俺には分かりかねたのだ。
だが幸いにも、ディセントラが取り成すように、「私もいるから」と言ったことで、カルディオスは反論を思い留まった様子だった。
彼が言い訳のように、「だって料理なんてする必要ねーもん」と呟いていたが、コリウスは手をひらひらさせてそれを聞き流した様子。
コリウスに促されて、俺は円卓の上の玻璃の杯を取り上げ、残っていた最後の一口分の水を喉に流し込んでから、その杯を持ってコリウスに続き、居間を出た。
廊下は暗く、がらんとして、晩夏の気配もなく冷えていた。
人の気配がないがために、いっそう物寂しい空気が流れている。
コリウスは、廊下に出た直後こそ、周囲を見回してヘリアンサスの気配を捜したようではあったがすぐに、この近くにはヘリアンサスは居るまいと結論したのか、いつものように背筋を伸ばして歩き始めた。
ヘリアンサスを警戒したのは俺も同様だったが、俺はなんとなく――ヘリアンサスは、こんな暗いところにはいないんじゃないかと思った。
俺は右手で杯を掴み、左手を軽く持ち上げて、その人差し指の上に灯火代わりに小さな火を点す。
俺以外の人間がやれば火傷待ったなしの所業であっても、俺であれば平気だ。
吹き抜けを見下ろす廊下をコリウスと並んで歩き、折り返して階段を下りる。
絨毯が靴音を吸い込むので、いっそう館の中は静まり返ったままだった。
目の前に見える巨大な窓が、月光を微かに映して白く光っているのを見るともなしに見て、俺はふと、ぼそりと呟いた。殆ど独り言だった。
「――ディセントラがあっさり残ってくれて助かった」
コリウスが、瞬きして隣の俺を見た。
俺ははっとして、慌てて補足するように言い添える。
「あ、いや、ヘリアンサスがいつ戻って来るか分かんねぇだろ。言伝頼めねぇなら、俺があそこに残るしかなかったから。
――料理できない二人がおまえについて行くとこだった」
コリウスが、「ああ」と呟いた。
微笑のひとつもなく無表情に、彼が正面に視線を戻し、心なしか低い声で言った。
「……おまえに確認したいことがあったから、ディセントラも察してくれたんだろう」
「――確認?」
俺は階段の半ばで足を止めた。
俺の二段下で、コリウスも足を止めて振り返り、俺を見上げた。
彼の濃紫の目に、俺が指先に点す火の光が映り込んだ。銀色の髪がちらちらと白く光った。
明かりに目を眇めて、コリウスは肩を竦める。
「――カルディオスだろう?」
俺はぽかんとした。
本当に、何を訊かれたのかを理解できていなかった。
「……なにが?」
訝しげに尋ねた俺に、コリウスはふっと鼻から息を抜いて、ゆっくりとした小声で。
「もう一人だ。おまえの他のもう一人。ヘリアンサスが記憶を戻したがっている」
それを聞いて一転、がっと俺の頭に血が昇った。
無意識のうちに、ぎゅっと玻璃の杯を握り締める。
焦るが余りに思考が空転し、表情を取り繕うことも出来ない。
あからさまに焦燥が顔に出たことを絶望的に自覚しつつも、俺は辛うじて言っていた。
「――さあ。だから、俺は、知らないって」
「うん、まあ、確証はないんだろうな。
確証があれば、おまえはもっと――分かりやすく顔に出るだろう」
俺から視線を外し、俺を片手で促して再び階段を下りつつ、コリウスは小さく、疲れたような小声で呟いた。
「ある程度注意深くヘリアンサスを見ていれば気付く。いつもは殺されるばかりだったから気付きようもなかったが、今生はあいつがよく話すから」
言葉もなく、俺は口を開けたり閉めたりする。
思考がぐるぐると回った結果、俺は間抜け極まりないことを口走った。
「なんで?」
俺が自分に付いて来ないことに気付いたのか、コリウスがまた足を止めて、今度は五段下から俺を見上げた。
俺を見上げるコリウスの顔貌の半ばが、光源から離れたことを受けて影に落ちている。
「“なんで”? ――そうだな」
顎に手を当てて数秒考えて、コリウスは肩を竦める。
「ディセントラも気付いているだろう。おまえとカルディオスにとっては自然なことだから、特段の違和感はないのかな」
違和感? なんの?
――俺がカルディオスとヘリアンサスが一緒にいた時期があるのだと納得できたのは、最初に会った頃のカルディオスを知っているからだ。
それがなくてどうして、ヘリアンサスが記憶を取り戻そうとしているあと一人がカルディオスだと断言できるのだ。
――俺か? 俺がヘリアンサス絡みのことで、咄嗟にカルディオスを名指しすることが多かったからか?
だが、コリウスの見ている前で、カルディオスを殊更に名指しにしたことが何度あった?
俺が何を言えばいいのか分からず立ち竦んでいるうちに、コリウスは淡々と、独り言めいた述懐を漏らしていた。
「――カルディオスもつくづく因果だな。ああ見えて思い詰めやすい奴だ。せめて僕とのことくらいは解決しておいてやって良かった」
「――――」
俺は言葉が出なくなった。
立ち竦んだまま動けない俺を苛立たしげに振り返って見上げて、コリウスが銀の柳眉を顰めた。
「何をしている。早く来い。このままではトゥイーディアとアナベルを見付ける前に、僕たち全員が飢え死にするよ」
厨房には食材が残っていたために、簡単な食事程度ならば都合することが出来た。
ジョーが用意していた豪勢な食事の準備の名残をコリウスがどう受け止めたのかは分からないが、彼は何も言わなかった。
コリウスは厨房の掛け燭に灯を入れると、ざっと厨房を見て回った。
そして、広い調理台の隅で布巾を被せられたパンを確認し、厨房の入口で――罪悪感であるとか居心地の悪さであるとかのゆえに――二の足を踏む俺を無表情に手招きして、「切っておくように」と指示した。
とはいえ彼も、無断で屋敷の備蓄に手を着けることには罪悪感があったのか、ちょっと顔を顰めたあとに、言い訳のように呟いていた。
「――置いたままでも、駄目にしてしまうだけだからね」
お説ご尤もである。
このままにしていてはパンに黴が生えることになるのは必定。
俺は溜息を吐きつつ厨房に足を踏み入れて、コリウスに促されて甕の水で手を洗ってから、調理台に向かった。
どう見ても今の俺の格好は料理をする人間のものではないが――何しろ血塗れだ――それは許してほしい。
調理台の上の立派な包丁立てから、パン切り包丁を取り出す。
とはいえ、がっしりとした木で造られた包丁立てから飛び出しているのは柄のみで、俺は幾度か包丁を引っ張り出してはそのまま戻す作業を繰り返して、ようやく目当てのパン切り包丁に行き着いたわけだが。
木の俎板を出してきて、その上にパンを置いて、適当な分厚さにパンを切っていく。
ちなみにカルディオスやディセントラにこれをやらせると、なぜだかパンの断面ががたがたになる。
二人とも器用な手先に恵まれているはずなのだが、料理の機会に恵まれてこなかったゆえだと思われる。食材を前にすると、二人とも不思議とおっかなびっくりな手付きになるのだ。
何しろ二人とも、いつもいつも高貴な生まれを引き当てるから――
――みんなで旅をする最中に、野営になる度に公正なコイン投げなんかで料理当番を決めるのに、カルディオスやディセントラがそれに当たってしまうと、みんなではらはらしながら料理の行方を見守ったことを思い出した。
二人とも、単純に魚を焼いたりすることはさすがに出来ていたが、いざまともに食材を調理する段になると、腕はからきしだった。
普段から口に入れるものは一流だからだろうが、料理の完成形は把握しているというのに、「強火で一気に焼くことと弱火でじっくり焼くことの違いが分からない」だとか、「塩の加減が分からずに入れ過ぎる、あるいは量が全く足りない」だとか、そういうことに起因する事故を起こすことがままあって、結局はアナベルやコリウスが、文句を言いながらも当番を代わることが多かった。
俺はそれを、腹を抱えて笑いながら見ていることが多くて――
げらげら笑っていた過去の自分の声が聞こえてきた気がして、俺はぎゅっと唇を引き結んだ。
もう二度とあの頃には戻れないと思うと、うっかり泣きそうだった。
涙は堪えたものの、俺は鼻を啜った。
俺がそうしながら黙々とパンを切っている間に、コリウスは厨房の床の跳ね戸を開けて、床下の貯蔵庫の中を点検していた。
何も豪勢な食事を目論んだわけではないということはさすがに分かる。
コリウスとしては、長期間に亘って空き家になることが確定したこの屋敷の中に、放っておいて腐るようなものがないかどうかを確認したかったのだろう。
ジョーも慌ててここを出たのだ、備蓄にまで頭が回らなかったと見るべきだ。
俺のその推論を裏付けるが如く、間もなくしてコリウスは、貯蔵庫から生肉の塊と、ミルクの瓶を引っ張り出してきた。
どちらも世双珠で冷やされていたのか、ミルクの瓶は調理台の上に出されて間もなく、その表面に薄らと汗を掻き始めた。
斯くして出来上がった夜食は豪勢とは言い難く、塩胡椒だけで味を付けた肉を焼いたものにパンを添え、各々にミルクを配ったものにはなったが、文句のひとつも出るはずもない。
出来上がった食事を運んで居間に戻り、俺はカルディオスとディセントラに、「ヘリアンサスは来た?」と尋ねたものの、二人はむっつりと黙って首を横に振った。
どんよりと沈んだ空気の中で押し黙って食事を終え、日付も変わった刻限に、カルディオスは行儀悪くも円卓の上に片足を乗せ、窓から夜空を見上げていた。
普段はこうしたカルディオスの振る舞いを姉の如くに注意するのはトゥイーディアだから、今は誰もカルディオスを咎めない。
カルディオスは窓越しの月を見上げて、ぼそりと呟くように独り言ちる。
「――イーディとアナベル、どこにいるのかなぁ」
その独り言を受けてのものか、ディセントラが円卓に肘を突いて両手で額を押さえ、呟いた。
「……まさかとは思うけれど、ヘリアンサスが先にイーディを見付けてしまって、一人でイーディに会いに行ってる――なんてことはないわよね?」
「ないだろ」
俺は考えるよりも先にそう応じたが、すぐに言葉を改めた。
「――いや、分かんねぇ。あいつが何考えてんのか、俺には分かったことがねぇし……」
だが、今のトゥイーディアが一人でふらりと現れたヘリアンサスを見れば、何をするかは目に見えているというもので。
「……けど、ないな。今のところは、ない」
俺が確信を持ってそう言ったために、懐疑の視線が俺に集中した。
俺は肩を竦めて腕を組み、
「今のトゥイーディアなら、絶対ヘリアンサスを叩き斬るだろ。で、あいつも訳の分かんねぇ考えでそれを避けたりしねぇだろうし――」
小さく息を吐いて、俺は声を低くする。
「――だったらヘリアンサスがその場で消滅するはずだ。ムンドゥスだって騒ぐだろうし、そもそもたぶん、世の中の世双珠全部に何かの異常が起きてるよ」
母石が消えれば世双珠は全て消え失せる。
今や完全に母石とふたつでひとつといえなくなったヘリアンサスであっても、その消滅は何かしら、半身である母石を通じてこの世の世双珠に響くはずだ。
ふうん、と無関心そうに呟いたコリウスが、疲れた様子で両手で顔を拭った。
「僕たちが捜しに行けるといいんだが」
「ここから出られねーもんな」
どことなく退屈そうにそう呟いたカルディオスが、俺が眉を寄せるのを目敏く見付けて、「見てろよ」と立ち上がろうとして、呻いてその場に座り直した。
俺は焦って腰を浮かせたが、考えなくともこいつは負傷者だった。
「座っててよ」
普段よりも細い声で頼み込むようにそう言って、ディセントラが代わりとばかりに席を立った。
そして、「見てて」と俺に合図すると、居間の大きな窓を開け放ち、その向こうに手を伸ばそうとする。
が、出来ない。
さながら、見えない分厚い油膜があるかのように、ディセントラの指先がやんわりと押し返されて、屋敷の壁で区切られた空間から外への侵出を防いでいる。
俺が目を丸くするのを、いっそ恨みがましそうに見て、そそくさと窓を閉め、掛け金を下ろしながら、ディセントラが言った。
「全部よ。どこの窓も、もちろん扉も、勝手口も、全部。私たちは外に出られないの。誰かさんが考えなしにも、ヘリアンサスに『全員、どこにも行かせるな』なんて言うから。お陰様でイーディとアナベルを捜しにも行けない」
俺は恥じ入って俯いたが、三秒ののちに顔を上げて、反論した。
「いやでも、そうでもしないと話聞いてくれなかっただろ」
「おまえが今、一番に事情を説明しないといけないのがトゥイーディアだろうが」
コリウスが断固としてそう言って、頷くべきなのに俺は頷けない。
カルディオスは憂鬱そうに窓の外を見上げたまま、「ちゃんとメシ食ったかな」と呟いている。
「今どうしてんだろーな」
「さあな。さすがにアナベルもそろそろ目を覚ましただろうから、トゥイーディアから事の次第を説明しているといったところかな」
「アナベルがイーディを説得して、ここに戻って来てくれたりしねーかな」
「現状、それが最も望ましいな」
ぼそぼそと言葉を遣り取りするカルディオスとコリウスの、自然な会話が久方ぶりだったためだろうが、ディセントラが若干涙ぐんだように見えた。
カルディオスが大きく息を吐いて、その拍子に傷が痛んだのか、「いて」と呟いて傷の辺りを手で押さえ、そして、項垂れながら小さく言った。
「――アナベル以外が説得したところで、イーディがルドと顔合わせてくれるかな」
コリウスが怪訝そうに眉を寄せた。
俺も全く同感だったが、ディセントラだけは、何かに思い当たったように息を吸い込んで、唇を噛んだ。
そのまましばらく動かなかったが、間もなくディセントラは、何か思い立った様子で席を立ち、手早く自分が使った食器を重ねて持ち上げ、居間を出て行った。
――こういうときに、ディセントラに他人の分の後片付けまでは期待してはいけない。
あいつはそもそも女王さま気質で、自分の始末を自分でするようになっただけでも、ここ百年くらいの進歩なのだ。
カルディオスは、ディセントラが出て行ったことにきょとんとした表情をしてから、その顔のままコリウスの方を向いて、「トリー、どこ行ったの?」と。
コリウスが大きく溜息を吐いた。
「――知るか。カルディオス、僕とディセントラは別に、一つの頭脳を共有しているわけではないんだ」
「あ、そーなの」
「どうして今初めて知ったかのような反応をする……」
コリウスが呆れたように頭を抱えたが、カルディオスは閃くような刹那の間、嬉しそうに目を細めた。
コリウスと軽口を叩けるようになって嬉しいのだと分かった。
そんな二人を、どことなく心情的な距離を置いて眺めつつ、俺はぼんやりとカルディオスの先ほどの発言の意図を考えていた。
――『アナベル以外が説得したところで、イーディがルドと顔合わせてくれるかな』。
逆じゃないのか、とふと思う。
アナベルがあの瞬間に気を失った、その要因の何割かはトゥイーディアへの罪悪感だ。
だからトゥイーディアとアナベルは今ごろ、もしかするとつい先刻までのコリウスとカルディオスのように気まずい空気の中にいるかも知れないわけで――
そこまで考えて、はっとする。
――違う、そもそもは、逆だ。
アナベルがシオンさんを選べなかったことを、彼女に夫を選ばせてやれなかったことを、ずっと悔いて罪悪感を抱えてきたのはトゥイーディアだ。
だからこそ、お父さんが危機的な状況にあると知ってなおしばらく、トゥイーディアはレイヴァスに戻ることを躊躇した。
アナベルに選ばせてやれなかった私情を、自分が選んでいいはずはないと考えて。
そのトゥイーディアが、罪悪感の軛を振り切って足を踏み出したのは――
――『トゥイーディア、あなたの恋が絶対に報われないもので、本当に良かった』
あの日のアナベルの声が脳裏に甦って、俺はどきりとする。
――もしも……もしも、カルディオスの先程の発言が。
アナベルがトゥイーディアに、親子の情は許したものの、恋慕の情は許していないがゆえのものだとしたら。
アナベルの説得なしに、トゥイーディアが俺と顔を合わせないというのは、その意図は、もしかしたら――
トゥイーディアの好きな人が俺であるがために、その恋情ゆえに激情を殺して俺の話を聞くことすら、アナベルからの許しがなくては、トゥイーディアが躊躇うかも知れない――と、そういう意味であったなら。
――そうだったらどんなにいいだろう、と、この期に及んで考えてしまう俺は、もう相当の大馬鹿者だ。
◆◆◆
半時間ほどでディセントラが居間に戻って来た。
その頃には、食器類を押し遣って円卓に突っ伏したカルディオスが、不自由そうな姿勢のまますぅすぅと寝息を立てていた。
ディセントラは両手に、使用人の誰かのものと見える衣服を抱えて戻ってきて、それをぽんと円卓の上に放り出すと、真っ直ぐに俺を見て、きっぱりと言い渡してきた。
「――着替えて」
「え?」
と、俺は瞬き。
俺の阿呆面が気に入らなかったのか、ディセントラは眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに鼻を鳴らすと、俺に細い指を突き付けて重ねて言った。
「着替えて。――そんなにぼろぼろで血塗れで、こっちが落ち着かないの。
本当なら――」
と、ぎゅっと唇を引き結んで、眉を寄せて。
「――あんたには、このお屋敷のものに触る資格もないんでしょうけど。この状況だと、カルディオスにまた創ってもらうわけにもいかないし」
名前を呼ばれたことはうたた寝していても分かったのか、カルディオスがびくっと反応した。
とはいえ起き上がることはなく、そのまままた、ゆっくりとした寝息を立て始める。
カルディオスが起き出さないことを見守ってから、ディセントラが再び、大きな淡紅色の目を俺に向けた。
それから無言で、着替えるよう再三促してくる。
異議を唱える理由もないので、俺は血塗れの上に裂けたシャツを脱いで、ディセントラが持って来てくれた衣服に着替えた。
寸法からして、これは恐らく上背のあるジョーの衣服だと思われた。
俺も背丈には恵まれているから、丈はぴったりだ。
だが、俺が背丈の割には体格に恵まれていないことが如実に出て、なんというかだぼっとした着心地になった。
生成りのシャツに黒いズボンを履いて、俺は図らずも人心地がついた。
俺が豪快に服を脱いでいる間、ディセントラは礼儀正しく後ろを向き、コリウスは目を瞑っていた。
カルディオスは――意識していなかったにせよ、コリウスとの蟠りが解けた安堵が相当大きかったのだろう――すやすやと眠っていたが、俺とコリウスとディセントラは、まんじりともせずに一晩中、そこに座っていた。
ようやく眠気が訪れて、俺が円卓に頬杖を突いて舟を漕ぎ出したのは、窓の外が薄らと白む時刻になってからだった。
だが、浅いうたた寝も長くは続かなかった。
長年身に沁みついた条件反射とは恐ろしいもので、靴音が聞こえると同時に俺は跳ね起きていた。
それはコリウスとディセントラも同じことで、カルディオスだけは、コリウスに肩を揺らされて、はっとして目を覚ましていたようだった。
俺は椅子の上で腰を浮かせて、刻々と明るくなっていく居間の入口を振り返っていた。
ディセントラがじりじりと円卓の縁をなぞるように後退っていたが、俺は下がるわけにはいかなかった。
心臓が激しく脈打つのを感じたが、それが恐怖のゆえか緊張のゆえか、その判別は不可能だった。
そして、数十秒。
こつこつ、と、軽い靴音を響かせて、気配ひとつで俺たちを震え上がらせたかつての魔王、真っ白な礼服に身を包んだままのヘリアンサスが、いつもと同じ訳知り顔の微笑で、当然のように廊下から居間に足を踏み入れた。
明るさを増す朝に眩しげに目を細めて、ヘリアンサスが首を傾げて俺を見て、それからカルディオスを見て、また俺に視線を戻した。
そして、首を傾げた。
「――ずいぶん早いね、ルドベキア」
俺は微笑もうとしたが、顔が強張ってしまって、唇が奇妙にひん曲がっただけに終わった。
その俺の表情を、ヘリアンサスはまじまじと見ていた。
「――つい今し方まで寝てたんだけどな、ヘリアンサス」
ふうん、と頷いて、ヘリアンサスが軽い足取りで円卓に歩み寄ってきた。
俺は堪え切れずにその場からじりじりと下がったが、それには頓着せずに円卓に凭れ掛かって、ヘリアンサスはまじまじと俺を覗き込んだ。
朝の明るさに黄金の瞳が冴え冴えと輝いていて、俺は暗闇の中で見ていたこいつとの差異を思う。
ヘリアンサスは退屈そうにくすりと笑って、円卓に体重を預けたままで、何かを軽く空中に放る仕草をした――いや、実際に空中に投げていた。
いつの間にか、ヘリアンサスの手の中には、小振りな赤い林檎の実があった。
――何の前触れもなく、望んだものをこの世に実在させる――カルディオスの魔法だ。
ぽーん、と空中に軽く放った林檎を、ぱし、と両手で受け止めて、ヘリアンサスが肩を竦めた。
そして、がり、と無頓着に林檎をひとくち齧って、余りにも人間らしい仕草でそれを飲み込む。
それから彼は、ぽい、と林檎を自分の背後に放った。
常識的に考えれば、そのまま円卓の上なり床なりに落下するはずの林檎は、しかしヘリアンサスの手を離れた直後、ぱっと影も残さず掻き消えていた。
「……人間はつくづく大変だな。食べなきゃいけない、眠らなきゃいけない」
言葉とは裏腹に、同情の欠片もない声でそう言って、ヘリアンサスは腕を組んだ。
カライスの腕輪が、しゃら、と小さく音を立てる。
「――あの青髪の子もまだ眠ってるみたいだよ。
さて、これからどうしようかな、ルドベキア」




