73◆ 誰の宥恕か
俺の話は前後したり脇道に逸れたり、我ながら酷いものだったが、そこは聞き手の素養がものを言った。
話が逸れる度にコリウスとディセントラがそれを修正してくれて、かつ話が前後する度に、適当な質問を挟むことで話の筋道を明確化させてくれる。
行ったり来たりしながらも、俺は魔力と世界の話をして、〈洞〉の話をして、世双珠の話をして、母石とヘリアンサスの話をした。
俺が――というよりも、俺の家系が――番人を任させるものであり、俺がヘリアンサスの監視をお役目として与えられていたのだと話した。
最初の人生において、俺が魔法の廃絶を命じられてそれを果たせなかったこと、魔法を廃絶するべきだとしていたはずの諸島の古老衆の中でさえ意見が割れていたこと、果てにレヴナントが誕生したことを話した。
コリウスの国がお役目の邪魔になりかねない条約を結ぼうとしたがゆえに俺がコリウスの国を焼いたのだと話した。
ために俺が魔王であり、その後に全世界的な戦争が巻き起こり、事の前後は俺も把握し切れているわけではないが、その元凶がヘリアンサスであったことを話した。
それから俺たちが殆ど初めてまともに全員で顔を合わせる運びとなり、ヘリアンサス討伐に打って出ることになったことを説明した。
そして及ばず、ヘリアンサスに疑似的な魂を与えることで命を定義し、あいつを手の届くところに引き摺り下ろして魔王としたのだと、俺たちが救世主としてその首を落とすことだけを目的として、そのためだけに、この長い長い救世主としての人生を定めたのだと話した。
世双珠を封じ、絶対法を定めて魔法を縛り、世界を延命した上で、自分たちの記憶そのものを『対価』として捧げ、その大規模な法の改変を世界に認めさせたのだと話した。
――話し始めた最初こそ、「それって話す必要あるか?」だの、「そんなことよりイーディとアナベルは」だのと口が挟まれていたものの、俺がそれを強行突破するうちに、徐々にそうした言葉よりも、俺の話への質問が相次ぐようになったわけだ。
俺の話が前後する上に、三人それぞれから盛んに質問やら更問が入るために、話し終えたときには既に夜半を回ろうかという刻限になっていた。
丸一日以上は何も食べていないことになるわけだが、どういうわけか空腹感はなかった。
ただ喉の渇きが酷く、途中、俺が余りにも咳き込むからだろうが、ディセントラが席を立って、どこにいるか分からないヘリアンサスに怯えた風ではあったものの、厨房から水を持って来てくれたくらいである。
その際に俺が大いに狼狽し恐縮したために、ディセントラのみならずコリウスもカルディオスも怪訝そうだったが、俺からすればディセントラの、あの苛烈な女王の印象が抜け切らないのだから、当然といえる態度ではあった。
そうしてようやく話し終え、俺が口を閉じたところで、三人が同時に、大きく溜息を吐いた。
俺は玻璃の杯から、またごくごくと水を喉に流し込んだ。
ことん、と円卓に杯を置く。杯の底に一口分程度が残った水が、灯火の光を橙色に写し取っていた。
聞き手だった三人の姿勢は様々で、コリウスは若干身を乗り出して円卓に肘を突いており、口許を手で覆っている。
ディセントラは背筋を伸ばして座って両手を円卓の上で握り合わせ、盛んにその指を組み替えていた。
そしてカルディオスは、途中からは負傷の痛みを思い出したがゆえか顔を顰めており、椅子の背に体重を預けるような姿勢になっていた。
ふう、と大きく息を吐いて、コリウスが姿勢を動かし、椅子の背に凭れ掛かった。
こつこつ、と円卓を指先で叩いて、濃紫の目で品評するように俺を見て、一言。
「俄かには信じ難い」
俺は思わず唇を歪めた。
「おまえ、前もなかなか信じてくれなかった」
けど、と言葉を継いで、俺は周囲を見渡す。
「ムンドゥスがなんであんなに変なやつだったのか、今ので筋も通るだろ。――ムンドゥスは?」
尋ねた俺に、カルディオスが低い声で無愛想に。
「知らね。どっかそのへん」
「――――」
俺は思わず眉を寄せたが、すぐに小さく首を振って気を取り直した。
――ムンドゥスに何かあるならば、ヘリアンサスであっても彼女を守るはずだ。
ヘリアンサスはいつも、ムンドゥスに危害が及ぶことだけは許容してこなかった。
ただ、試しに、「ムンドゥス」と小さく呼ばわってみる。
――何事も起きなかった。
俺はもう、ムンドゥスが彼女自身のために特別に創った魔力の器ではない。
そのために、恐らく、ムンドゥスはもう俺の呼び掛けには応じない。
俺のその様子を眺めて、コリウスは殆ど無感動なまでの声で、続けた。
「――まず、本当に、おまえのその記憶が本物かどうかを確認する必要があるが」
俺は思わず反駁のために口を開いたが、俺よりも先にディセントラが、「それは要らない」と、きっぱりと告げた。
俺はディセントラを見た。
ディセントラは俺の方に顔を向けてこそいたものの、視線はやや下を向いていた。
赤金色の髪を耳に掛けながら、ディセントラは淡々と呟く。
「それは要らない……。コリウス、あんたが、どうしても他人を疑うというのは分かるけれど、」
俺は思わず息を詰めたが、ディセントラはそれには気付かなかったようだった。
端正な仕草で、ディセントラは右手の人差し指をすっと上げた。
「必要ないの。今のルドベキアの話が、ヘリアンサスが仕込んだ虚構だったとして、あいつに何の利点があるの?」
コリウスが言葉に詰まった。
ディセントラが目を上げて、コリウスを見て、彼の思考を先読みしていくかのようにして、言葉を並べていく。
「それこそあいつが魔王だから、救世主に虚構を吹き込んで何か悪いことを企んでいるかも知れないけれど、その“悪いこと”ってなに?
――私たちはこれまで数え切れないほどあいつに負けてきたけれど、そのせいで世界が悪い方向に傾いたことは一度もないのよ」
カルディオスが、「あ」と声を出した。
どうやら、その考えには一度も至ったことがない様子だった。
ディセントラはちらりとカルディオスを見てから、すぐにコリウスに視線を戻し、続ける。
「ルドベキアを孤立させるために嘘を吹き込んだのかも知れないけれど、その理由はなに? それにあいつ、わざわざルドベキアにこうやって、私たちへの説明の時間まで作らせているのよ。
それに、そもそも、」
小さく息を吐いて、ディセントラは呟く。
「――あいつの方が私たちを束にしたよりも数段強くて何でも出来るのよ。
これだけの手間を掛けて、それでまだ嘘を吹き込む理由がないわ」
コリウスが眉間に皺を寄せた。
ディセントラの言葉の理を認めつつ、まだ納得できないようだった。
こいつに理論的に問い詰められる場合、俺はたじたじになることが多い。
そのために俺は身構えたが、コリウスは腹立たしげに息を吐いて、小さく首を振って、言った。
「……確かに、そうだ。ではルドベキアの話が事実であると仮定して話を進めるが、多少の歪曲はあるだろう」
コリウスが俺を見た。
「――おまえ、本当に国ひとつ焼いたのか?」
俺は息を止めた。
――あの夜の光景を思い出した。
屋上庭園に腰掛けて、眼下から舞い上がってくるように照らす白い光の中で振り返って、俺を見たコリウスを。
震える息を吸い込んで、俺は頷いた。
頷いて数拍してから声が出るようになって、俺は呟いた。
「――ああ、そうだ」
「おまえ、伏せていることがあるだろう」
コリウスが断言した。
濃紫の目が、これまでの人生で見た中でも最も懐疑的な光を湛えて、射抜かんばかりに俺を見ていた。
「おまえはそんなことをしない。
損得があろうが何であろうが、無差別に虐殺を行える人間ではない。
――僕はおまえに何をしたんだ?」
俺は首を振った。
――俺が帝国を焼いた本当の理由は、呪いがある限りは口に出せない。
もしかしたら――辛うじて、俺が雲上船から見たあの光景、伯爵領ひとつが崩れ落ちていくあの光景については、話せるかも知れない。
だが俺は終生それを話す気はない。
そして仮に、呪いが及ばないはずのヘリアンサスがそれを話そうとすれば、俺はヘリアンサスと再度の断絶も覚悟して、どんな方法であってもそれを止めるだろう。
「話したことで全部だ。おまえ――おまえが、条約を結ぼうとしたから、」
目を上げて、コリウスと目を合わせて、俺は小声で。
「……俺、おまえの奥さんまで殺してる」
「――は?」
その瞬間、空気が凍った。
コリウスが目を見開き、それどころかカルディオスもディセントラも、驚愕の眼差しで俺を見た。
その驚愕が何に由来するものか分かるから、俺は黙っていた。
ややあってコリウスが、全く彼らしくない――ぽかんとした表情で、唖然とした声音で、いっそ戦慄したような小声で、呟いた。
「――僕が、妻帯していたのか?」
俺は曖昧に唸った。
「女性と、婚姻を?」
驚愕の様子で囁くコリウスから、俺は目を逸らした。
「おまえは大抵――俺が聞いた限りでは――その人のことは、最良の友人って呼んでたけど」
コリウスは息を吸い込み、口許に拳を当てた。ぼそっ、と、何か呟いた。「そんな度量の広い女性が……」と聞こえてきたが、実際のところは分からない。
そんなコリウスを、こちらもまた目を見開いてまじまじと見てから、ディセントラが俺に視線を戻した。
そして口調を改めた。
「あんたが、何があってもそこの――〈呪い荒原〉の顛末は話したくないということは分かったわ。
――他を訊くけれど、レヴナントは、」
俺がそのときどんな表情を浮かべたのかは、鏡がないから分からない。
だがその瞬間、俺がトゥイーディアに武器を向けてから初めて、ディセントラが俺に向ける眼差しに、見慣れた優しさや同情のようなものが混じった。
そのことから推すに、俺は相当に怯えた顔をしたのだろう。
「――レヴナントは、」
と、ディセントラは、幾許か柔らかくなった声で続けた。
「あんたがいた、諸島の人たちの?」
俺は小さく頷いた。
隣で悪罵の声がした。カルディオスだった。
「……なんでそのときに止めとかないんだよ、おまえは」
俺はちらっとカルディオスを見た。
カルディオスは俺を見ていなくて、円卓の、その表面を流れるように走る木目模様を目で追っている様子だった。
翡翠色の瞳に、ちらちらと灯火が映り込んでいる。
不貞腐れたような表情に見えたが、それが負傷の痛みゆえだと、長い付き合いだからこそ分かった。
俺は大きく息を吐いた。
――どのみち、これからもレヴナントには遭遇するだろう。
世の中にこれだけ世双珠が溢れ返っていれば、破損する世双珠も少なからず出てくるというもので――そうなれば、世双珠を、延いては魔法という文化を守りたいがために、世の条理をも踏み躙ったあのひとたちが、その場に顕現しないはずはない。
そして、もう、先日までとは違うのだ。
「――無理なんだよ」
俺は声を押し出すように呟いて、椅子の背に凭れた。
眉間の辺りをがりがりと掻いて、繰り返す。
「無理なんだよ。俺は――」
カルディオスが、ちらっとこっちを見た。
俺は口を開け、言葉が見付からずに口を閉じ、それからもういちど口を開けて、大きく息を吸い込んだ。
自分の中の意地とか自尊心とか、そういう全部が喉に詰まるような感じがしたが、俺はその間を縫って言葉と声を引っ張り出すようにして、呟いた。
「……俺は――無理なんだよ、あのひとたちは――」
カルディオスが、背凭れから身体を起こした。
その拍子に傷がいっそう傷んだのか顔を顰めつつも、「おい、大丈夫か」と尋ねてくれる。
トゥイーディアを傷つけた俺に心底からの軽蔑と怒りを覚えているだろうに、まだ俺を心配してくれるこいつも相当に度量が広い。
あるいはこいつも、トゥイーディアに対するものと俺に対するもの、二つの友情の間で板挟みになっているのかも知れない。
コリウスとディセントラが、じっと俺を見ていた。
ディセントラが微かに首を傾げたが、何かを言う様子はなかった。
ただ、俺が言葉を吐くのを待ってくれている。
俺は何度か声を出そうとして失敗して、それからようやっと、掠れた声で続けた。
「――……ここに居ない奴には、絶対、言ってほしくないんだけど――」
言葉に詰まる。
変に肩を竦めるような仕草をしてから、俺は辛うじて続けた。
「その……俺が生まれたときから――ほら、俺って、火を被っても平気だろ、そういうのが多分、あのひとたちのお気に召さなくて……」
俯いて、拳を握ったり開いたりする。
掌にじっとりと汗を感じる。
「生まれてすぐに殺されそうになったんだけど、ヘリアンサスが俺を助けて……」
言葉半ばで、その場の三人が気色ばむのは分かったものの、俺はそちらには注意を割けなかった。
――病的なまでに冷たい水、狭い石壁に仕切られた櫃の中を、俺は明瞭に思い出している。
どれだけ藻掻こうが懇願しようが泣き叫ぼうが、決して許されなかったあの懲罰を覚えている。
体勢の自由が利かない中、空気を求めてがむしゃらに櫃の壁を掻いたことを思い出してしまった。
指先が震えたのを自覚して、俺はぎゅっと拳を握った。
――空の向こうには光の宮殿があって、そこに住む人たちは、真珠と黄金を食べて……
ふとあの御伽噺を思い出し、しかしその続きを見失って、俺は唇を噛む。
「生まれて直ぐくらいからだったと思うんだけど、〝えらいひとたち〟が――あ、諸島の人たちが、その、なんていうのか……結構俺のことを殴ったり蹴ったりしてて、いや、それはいいんだけど、」
「は?」
カルディオスが低い声を出したが、俺はそれには気付かなかった。
記憶の浸食から逃げるようにして、俺は目の前に、適当な大きさの四角を指先で描いていた。
「どれくらいかな、これくらい――五フィート、二フィート、二フィートくらいかな、」長さと、幅と、高さを指で示しつつ、「ちょっと苦しいくらいのでかさの櫃に突っ込まれて水責めにされるっていうのがあって――これが一番きつかったんだけど……」
必死に冗談めかそうとして、俺は笑おうとしたが、顔が引き攣っただけに終わった。
「お蔭で全然、俺、今に比べてもちびのままだったし――あ、いや、それはいいんだ。
とにかく、なんか、それを思い出しちゃって……」
声が震える。
俺は唾を呑んで、それを抑えようとする。
笑おうとするが、唇が震える。
俺はさっき空中に四角を描いた指先を拳に仕舞って、ぎゅっと握る。
「――あのひとたちを見ると、……こ」
勝手に声が途切れたので、俺は両手で顔を押さえた。
心臓が狂ったように打っていた。
実際にあのひとたちが目の前にいるわけでもない――それなのに、これか。
情けなさと恥ずかしさに涙が出そうになる。
ここにトゥイーディアがいなくて良かった。
「――怖く、て……」
がた、と椅子が動く音がして、カルディオスが立ったのが分かった。
俺は顔を上げて笑ってみせようとしたが、どうにも上手く表情が動かなかった。
焦点が合わない。視界がぐらぐら揺れる。
「――笑えるだろ。もう千年くらい前のことなのに、未だに――」
「ルド」
カルディオスの声がして、くしゃっと俺の髪が撫でられた。
カルディオスが俺の顔を覗き込んだ。
俺の焦点がようやく、彼の顔の上で結ばれた。
カルディオスの表情には可笑しみの欠片もなかった。
目許が引き攣っている。
翡翠色の目を怒らせて、カルディオスは、一言一言を強調するように。
「――笑えない。可笑しくない。おまえ――おまえは一応、今でも、腐っても俺の親友だから、おまえが殴られたり蹴られたりするだけで論外だ。それに事欠いて、そんな――」
言葉を切って、カルディオスは眉を顰めた。
ここまで不快そうなカルディオスを、俺は今までに数えるほどしか見たことがなかった。
「――話させて悪かった。おまえがレヴナントの前に出られないっていうのは、よく分かった。大丈夫だから」
俺は奥歯を噛み締めた。
目の奥が熱くなって涙が出そうになったがそれは堪えた。
だが、声は少しばかり上擦った。
「……ごめん」
「なんで謝る」
俺は両手で顔を押さえた。
「ごめん。――口を……」
声が震える。
「口を利いたらいけないって、――お許しがないと、顔を上げるのも、身動きも駄目だって――」
コリウスが、俺が今まで聞いたことがないような言い回しで低く罵りの言葉を吐いた。
「――そう教えられたんだ」
息を吸い込む。
「それが、未だに、変に、残ってるんだ」
目を擦って、俺は首を振った。
「――けど、まだ、俺はマシだから……」
ゆっくりと息を吸って、俺は呟いた。
「……ヘリアンサスは、多分もっとだ」
「あいつがどんな目に遭っていようと興味もないけれど」
ディセントラがきっぱりと言った。
俺はそちらに顔を向けた。
ディセントラの形相が、嫌悪と軽蔑をありったけに詰め込んだようなものになっていた。
美貌ゆえに、それがいっそう恐ろしかった。
「むしろ私からすれば、だったらヘリアンサスをレヴナントの前に突き出してやりたいとも思うけれど、――ルドベキア、あんたにそういうことをしたのなら、もうレヴナントは災害以下よ。
あいつらに痛覚があることを願うばかりだわ」
吐き捨てるようにそう言ったディセントラに、俺は思わず懇願していた。
「トリー、気持ちは嬉しい。でも頼むから滅多なこと言わないでくれ。俺がヘリアンサスを見捨て続けた結果がこれなんだ。俺はあいつに誠意を尽くす義務がある」
ディセントラが眉を寄せた。
その表情の意味が分からずに俺はそれを見詰め返したが、一秒ほどでコリウスが、相当に懐疑的な声を出していた。
「おまえ――自分を責め過ぎていないか?」
俺はコリウスに顔を向けた。
それと同時にカルディオスが、すっと下がって元の椅子に腰掛け、俯く。
コリウスが一瞬、カルディオスの方へ目を向けた。
それから俺に目を戻して、もういちど言う。
「自分を責め過ぎているように見える、ルドベキア」
「は、いや、え?」
俺は思わず意味のないことを口走って、それから大きく息を吸った。
瞬間的な怒りが湧いてきた。
「過ぎるってことはないだろ――俺が何人殺したと――」
「そうではなく」
うるさそうに手を振って俺を遮って、淡々とコリウスは言った。
「おまえは頭が単純だから、全て纏めて一つの出来事として捉えているようだが、違うだろう」
俺は瞬きした。
その俺の顔つきが気に入らなかったのか、コリウスは不機嫌そうに鼻を鳴らして。
「おまえが本当にそんなことをしたとは思えないが、仮におまえが国ひとつを焼いていたとして、」
「それは」
事ある毎に口を挟もうとする俺をうるさそうに見て、コリウスはぱちんと指を鳴らした。
注目を集めたいときのこいつの癖だ。
「それと、おまえがヘリアンサスに抱えている罪悪感は、別だろう」
俺は思わず半口を開けたが、すぐに言った。
「違う、そんなことない。俺が約束通りに一年で戻っていれば――」
「だから、それとこれとは別だろう」
コリウスははっきりと言った。
頭から冷水をぶっ掛けられたようにも感じて、俺は瞬きする。
「……え?」
「おまえが本当に国ひとつを焼いたならば、理由があろうと擁護できない。罪が重過ぎる。
――だが、いいか、おまえが一年で戻るとヘリアンサスに言っていたとして、」
ヘリアンサスの名前を出すごとに顔を顰めながらも、コリウスの語調は淡々としていた。
「おまえは一年で諸島へ戻れと言われたのを、知恵を振り絞って、狡猾の限りを尽くして回避して、期限を延ばしたのか?」
俺は口を開け、その口を閉じ、首を振った。
「……いや、それは、違うけど」
「だったらそれが全てだ」
コリウスはあっさりと言った。
「おまえが戻らなかったことを責められたにせよ、それはおまえの自由になることではなかった。理由を聞かなかったヘリアンサスの落ち度だ。
ヘリアンサスの側に事情があれど、」
肩を竦める。
「その事情をおまえが知っていたところで、どうせおまえの自由になることではなかったのだろう。
おまえの話し振りを聞いていると、まるでおまえが全ての引き金を引いたように聞こえるが――確かに一部はそうであれ――全部ではないだろう。
直接の因果関係と、間接的な要因は分けて考えろ。間接的な要因を作ったことにまで責任を取ろうなんて思うな」
俺はまじまじとコリウスを見詰めた。
反駁のために口を開くと、その先手を打つようにして、小さく溜息を吐いたコリウスが呟いた。
「――と、言っても、おまえは頑固だから譲らないんだろうが。
どいつもこいつも頭が固い」
どいつもこいつも、と言いながら、コリウスがカルディオスに目を向けた。
カルディオスは俯いて、じっと動かず、コリウスが話し終わるのを待っている様子だった。
俺はぼんやりと、カルディオスとコリウスが気安く口を利いた最後のときはいつだっただろうと考える。
――カルディオスがコリウスの恋人を殺したのは、俺がコリウスに呪いを掛けたからだ。
コリウスが心から信じた彼の恋人が、コリウスを殺した。
だからカルディオスが復讐した。
その責任を、俺が負うべきその責任を、ずっとカルディオスが背負ってコリウスへの罪悪感を抱え続けている。
コリウスが息を吸い込んだ。
少し迷ったようだった。
彼がディセントラに目を向けて、軽く首を傾げた。
何かを言外に尋ねたようだった。
ディセントラが息を吸い込み、こくこくと小刻みに頷いて、促すような手振りをする。
それを見たコリウスがカルディオスに視線を戻し、少し躊躇って、だがすぐに、断固として呼ばわった。
「――カルディオス」
カルディオスが、びくっと肩を揺らして顔を上げた。
目を見開き、視線を泳がせ、不意を打たれて覚悟が決まっていないことが分かる上擦った声で、彼は応じた。
「――っ、な――なに」
コリウスはしばらくカルディオスを眺めていた。
俺は、急にコリウスがカルディオスを呼んだ理由が分からずに眉を寄せてしまったが、すぐにはっとして息を止めた。
――コリウスがディセントラに、言外に何かを尋ねたのは、あれは恐らく会話を本題から逸らすことへの伺いだ。
コリウスが、カルディオスと話をしようとしている。
あのとき――ガルシアでの『魔王討伐』直後に、コリウスから切り捨てた対話を、ここで再び切り出そうとしているのだ。
カルディオスを眺めたまま、コリウスが小さく息を吐いた。
それから、短く、きっぱりと言った。
主語も目的語もなかったが、意図は明白な言葉だった。
「――もういいから」
カルディオスの顔が引き攣った。
目を伏せて、カルディオスは低い声で。
「……一昨日だったかもそう言ってくれたな。ありがとう」
「あのときは悪い、嘘を吐いた」
コリウスはそう言って、少し言葉を考えるように口を噤み、首を傾げた。
銀色の髪が揺れた。
俺とディセントラは息を呑んで、コリウスとカルディオスを、まるで音を立てればどこかへ飛んで行ってしまう野鳥であるかのように見ていた。
カルディオスは黙って俯き、そのカルディオスを見遣って数秒、コリウスがぼそりと言った。
「――気にしていないと言ったな。あれは嘘だ」
カルディオスの全身が強張った。
俺も、腹の中で内臓の幾つかが落ち込むような感覚を覚えていた。
ディセントラが、若干身を乗り出したのが視界の端に見えた。
一方のコリウスはカルディオスを見て、考えつつといった様子で言葉を作っている。
「僕としてはてっきり――いや、魔王討伐前に、先に死んだことは申し訳ないと思いはしたが、あの後の人生でも、誰も何も言わなかっただろう。だからてっきり、あの後はいつものように、おまえたちは魔王に殺されたんだと思って、――アナベルには本当に悪いことをした。
――それで、あの人は、」
あの人、と言ったコリウスの声音のために、俺の呼吸はますます苦しくなった。
カルディオスはその比ではなかっただろう。
彼は完全に息を止めて、目を閉じていた。
この場から消えてなくなりたいと思っていることが、俺にも如実に伝わった。
「――ごく普通に天寿を全うしたと思い込んでいて……」
カルディオスが、苦労して息を吸い込んだのが分かった。絞り出すように、彼が言った。
「……悪かった、本当に」
「うん」
拍子抜けするほどあっさりとそう返して、コリウスは少しだけ視線を落とした。
だがすぐに目を上げて、言った。
「――いや、僕も悪かった。直後は僕も混乱していた。
おまえと話すべきだった。話さなかったから、こうなった。――随分気を遣わせた」
カルディオスが目を開けて、首を振った。
痙攣するような仕草だった。
僅かに椅子から腰を浮かせて、彼が何か言おうとしたが、言葉にならないらしかった。
そんなカルディオスを濃紫の瞳でじっと見て、コリウスはごく静かに。
「――あの人が、痛い思いや、苦しい思いをしたと考えると、僕は嫌だ」
カルディオスが息を止め、動きを止め、唇を噛んだ。
「おまえのことだから、あの人に何か酷いことを言ったりもしたんだろう、――あの人がそれで傷付いたと考えると、僕としてはおまえを恨む。
長く一緒にいられないことは分かっていたから、それを覚悟で信じたから、あの人には、出来ればずっと笑顔で……」
コリウスが俯いた。
俺はカルディオスが、もしかしたらこのままこの館から出て行って二度と戻らないのではないかと危ぶんだが、カルディオスは動くことも出来ない様子だった。
数秒で、コリウスが顔を上げた。
カルディオスを見て、彼ははっきりと言った。
「どのみち、僕よりは遥かに短い人生しかない人だった。それは分かっていた――これは言っていたな、本心だ。
だが、気にしないわけがない――今でも好きなんだ」
カルディオスが、震える息を吸い込んだ。
そして口を開いたが、その機先を制するようにして、コリウスが、明瞭に言葉を形作った。
「――だが、もう、いいよ」
「そんなわけ、」
カルディオスが、咄嗟のように言葉を吐いた。
それを聞いて、コリウスが微かに目を細める。
「もういい」
繰り返してそう言って、コリウスは浅く息を吸い込んで、言った。
「僕が許したとして、おまえがおまえを許さないだろう。僕が気にするなと言ったところで、おまえが気に病むんだろう。――だから、もういい。
おまえがそういう奴だということは、もうよく知っている。長い付き合いなんだ。だろう?」
「――――」
カルディオスの、震える呼吸の音がする。
「おまえがおまえを許さないんだから、僕が意固地になる必要はどこにもない。
――それよりも、」
俺はカルディオスの顔を見られなかった。
こいつが、今の顔は誰にも見せたくないと思っていることはよく分かった。
俺はコリウスを見ていて、ディセントラもそうだった。
コリウスは一瞬顔を顰めて、しかしそれは不機嫌ゆえの表情ではなくて決まりの悪さゆえで、もうその些細な違いすら分かるほどに、俺たちは長い付き合いをしてきて。
「――以前のように自然にしていてくれ、カルディオス。
もう、僕とおまえで蟠りを持っている場合ではないんだ、分かるだろう。それに……」
いよいよ眉を顰めて、コリウスは小声で。
「僕は……いや、僕だけではなくてアナベルもだが。口数の多い方ではないし、僕たちの中で、余計なことまでぺらぺらと喋るのはおまえだけなんだ、カルディオス」
カルディオスは微動だにしない。
浅い呼吸を繰り返している。
「だから――おまえから話し掛けられないとなると、僕は結構、退屈だ。
存外に困っているんだ。――カルディオス、自然にしていてくれ」
そこまで言って、コリウスはカルディオスから顔を逸らした。
カルディオスはしばし、茫然とした様子でコリウスを見ていた。
そのままどれほど経ったのか、やがて小さく、カルディオスが呟くように応じた。
「……うん。――コリウス、本当に、」
コリウスが、ちらりとカルディオスを見た。
俺もようやくカルディオスを見た。
カルディオスは、泣くまいとしているようではあったが涙ぐんでいた。
目許が赤い。唇が震えている。
「――本当に後悔してるんだ。
やり直せるなら、あんなことはしない」
コリウスは素っ気なく頷いた。
それから大きく息を吸うと、再び視線を俺に向けた。
それを他所に、静かにディセントラが啜り泣き始める。
肩を震わせてしゃくり上げるディセントラに、カルディオスが珍しく、当惑した様子で視線を向ける。
「――ルドベキア、おまえの話に戻すが、」
俺は俺で、コリウスとカルディオスの会話に半ば以上意識を持って行かれていたが、コリウスにそう言われてはっと我に返った。
「え、あ――うん」
「一旦、おまえの話を全て事実であると仮定するが、――それでおまえは、ヘリアンサスに対する罪悪感のせいで、トゥイーディアにあんなことをしたわけだね」
俺は言葉が出なくなった。
その俺を見て、コリウスは冷ややか極まりなく。
「――父君を亡くしたトゥイーディアの目の前で、その仇を庇った挙句に、トゥイーディアに武器を向けたわけだ。お陰で今、トゥイーディアもアナベルもどこに居るか分からない」
「ヘリアンサスが、」
思わず俺も言っていた。
「あいつ、一回くらいは斬られてもいいって言い出したんだよ」
「斬らせろよ」
カルディオスが俺の隣で、絞り出すようにそう言った。
「何やってんだよおまえ、斬らせろよ。これまで俺たちがどんだけ長いことあいつを斬ろうとしてきたか、分かってんだろ?」
「だから、その大前提から狂ってるって話をしてんだよ」
俺も言い返した。
「俺があいつをもう一回見捨ててみろよ。下手したらもう一回、こっちの大陸の地形が引っ繰り返るぞ。あいつ、その気になったら大陸一つも引っ繰り返せるんだ――最初の人生でそれをやられて、ヴェルローが――ディセントラの国が滅んでる」
「――私の?」
ディセントラが弾かれたように顔を上げ、珍しくも頓狂な声を上げる一方、カルディオスは軽蔑の眼差しで俺を見た。
コリウスとの話の名残か、まだ目許は赤く目が潤んでいたものの、感情が両極端に降り切れているのはよく分かった。
「そのヘリアンサス本人が、斬られていいって言ったんだろーが。――おまえマジで、おまえは確かに友達だけどな、イーディとのことでは、俺がおまえをここで殺しても文句言わせねーぞ」
「真に受けて斬らせたら、トゥイーディアがあいつの首を落としてただろうが」
俺は思わず、右手の親指で自分の頸をなぞり、断首を示す身振りをした。
「トゥイーディアは救世主だ。他の、俺たちとは違う。あいつがヘリアンサスの首を落としたら、ヘリアンサスはそれまでなんだ」
「それのどこが悪い」
カルディオスが言い放ち、「ちょっと待て」とコリウスが制止に入る。
ぐっとカルディオスが言葉を呑み込んだのを確認してから、コリウスが俺に視線を向けた。
表情は先刻と打って変わって辛辣だった。
「ルドベキア、おまえの事情に同情はするが、トゥイーディアとは比べるべくもないよ。おまえが悪い。おまえ、仮にも仲間に、相手を殺しかねない真似をしたんだぞ」
俺は自分の心臓を抉り出したくなったが、それは顔には出なかった。
俺はぶっきらぼうに言っていた。
「――絶対に俺の方が重傷だった。骨も折れてたし」
「イーディが受けたショックに比べたら、そんなの無いも同然よ」
ディセントラが涙を拭いながらも低い声でそう言って、鼻を啜り、俺を見て薔薇色の双眸を細めた。
「三つくらい訊きたいんだけど、いいわね?
――ヘリアンサスには無尽蔵の魔力がある、それは分かったわ、あいつが世双珠なら仕方がない。でも、ねえ、どうして、あいつに魂を定義したときにそこも変えておかなかったの? しかも、どうしてあいつの首を落として意味があるのを救世主一人に限定したのよ」
「――――」
俺は黙り込んだ。
それをいっそ不思議そうに見て、ディセントラが言葉を続ける。
「今、ヘリアンサスは何がしたいの? ――あいつが、一度なら斬られていいだなんて、何があってそこまでの譲歩をする気になったの?
あと、」
首を傾げて、ディセントラがほっそりとした指を俺に向ける。
「あんたは何がしたいの?」
コリウスも、カルディオスも、黙って俺を見た。
俺は息を吸い込んだ。
「――ヘリアンサスの……つまり、俺たちが決めた『魔王』の首を落としてあいつを殺せるのは救世主だけだって、そう決まったのは――半分くらいは不可抗力だ。ムンドゥスに、六人全員を救世主にしてくれって最初は言ったんだけど、あの子が、」
肩を竦める。
「――ヘリアンサスが可哀想だから、それは出来ないって。で、正当な救世主は一人になった。
――で、なんでヘリアンサスをちゃんともっと弱く定義しなかったのか、だけど……」
俺は思わず、先に相手を制止するかの如くに掌を三人に向けつつ、白状した。
「――正直に言う。全く頭になかった」
「は?」
コリウスがぼろっと声を零したが、俺はそれを無視して、強引に言葉を続ける。
「――あのときは、いいか、俺たち全員死に掛けてたんだ。ディセントラが居たからなんとか保ってたけど、そうじゃなきゃみんな、二、三回は死んでた。
もう負けが確定したってときになって、次の一回に賭けたんだ」
「一回?」
コリウスが、俺の正気を疑うという声を出した。
「一、二回、挑んだところで勝てる相手ではないだろう。一度負けたならなおのこと、きちんとヘリアンサスの弱体化については詰めて交渉するべきだっただろう。
本当にその場に僕とディセントラもいたのか?」
俺は言葉もなく項垂れたが、カルディオスがぼそっと言っていた。
「――その、自分とトリー以外は頭が回らねーに違いねぇって断言するとこ、清々しくていいと思うぜ」
「…………!」
コリウスが、目を見開いてカルディオスを見た。
俺もディセントラも同様だった。
カルディオスがコリウスに、こうした言葉を掛けるのを聞くのは随分久し振りだった。
ディセントラが堪え損ねてぼろっと涙を零すのが見えた――相も変わらず涙脆い。あの苛烈な女王陛下と同一人物とは、俄かには信じ難い。
カルディオスはコリウスではなく、円卓の木目の一点を凝視し、全身を緊張させていた。
コリウスは一瞬、言葉を見失った様子で口を開き、また閉じていたが、ややあって、いつものようにぶっきらぼうに応じた。
「――日頃の言動を顧みるんだな」
カルディオスが、ふっと全身の緊張を解いて、おずおずと目を上げた。
コリウスと目を合わせて、カルディオスは小さく、
「……そーだな」
と。
コリウスが目を細め、しかしすぐに俺に向かって視線を翻した。
俺は俺で、カルディオスとコリウスの遣り取りに、こんな場合ではあっても目頭が熱くなってはいたものの、ここで弁論せねば袋叩きに遭うことは十分に予想できたため、慌てて口を開いた。
「――あのな、あのときは、ヘリアンサスはマジで死ねなかったんだ。ってか、傷もつけられなかったんだ」
「今もそうだろう」
「違う、根本的に違う。その――あいつに、負傷って概念がなかったんだよ」
コリウスが眉を寄せる。
俺は視線を逸らし、言葉を選びつつ。
「結構いいところまではいったんだ。信じられないだろうけど、追い詰めることは追い詰めた。でも駄目なんだよ、あいつ、あのときは――怪我って概念がなくて、傷がそのまま世双珠になって治っていく感じで――」
ディセントラとコリウスが、全く想像が出来ないといった風に首を傾げた。
カルディオスが眉を寄せ、怪訝そうにしている。
「こっちの本命はトゥイーディアで――あいつの魔法なら、分かるだろ、相手が世双珠でも壊せる。ディセントラもいたし」
「なんで、私?」
ディセントラが首を傾げて自分を指差し、俺は思わず苦笑した。
「――おまえが一番強かった」
きょとん、と目を丸くするディセントラからコリウスに視線を戻して、俺は小声で。
「だから、あいつがそもそも死ねないから、負けたんだと思い込んでたんだよ。追い詰めることには追い詰めたから、次は上手くいくだろうって――」
コリウスは、灯火の明かりでもよく分かるほどに明確な、呆れ果てた表情を浮かべていた。
「そのあと、自分たちの魔法も縛りを受けるというのに? 話を聞くに、当時の僕たちの魔力は今の僕たちとは比べ物にならないものだったんだろう。自分たちが弱くなるというのに、ヘリアンサスの側の力量について、ムンドゥスとの交渉を漏らしたのか?
――信じ難い。僕がその場にいたはずがない」
「いたんだって。おまえもディセントラも。全員揃い踏み。全世界びっくりの大魔術師の大集合だった」
力説する俺に、コリウスは疑わしげな表情。
「――そんな成功の疑わしい計画に全世界を巻き込むことに、僕たち全員が本当に同意したのか? いや……僕は頷いただろうが、ディセントラも、トゥイーディアも?」
俺たちの中では博愛精神に富む二人の名前を挙げるコリウスに、俺は思わず乾いた笑いを漏らした。
「ディセントラが率先してたよ。――それに、予想してなかったんだ」
「何を?」
カルディオスの言葉に、俺は指先で、周囲をぐるっと指差すような仕草で応じる。
「これ。こういうの、全部。
――ぶっちゃけ、また国が出来て、人が普通に生活するようになるとは思ってなかった」
水を打ったように居間が静まり返った。
じじ、と、灯火が燃える音が聞こえる。
あのとき、どれだけの人が死んで国が滅んだのか、その絶望的な崩壊を、ようやく三人が理解してくれたのだと分かった。
息を吸って、俺は両手を軽く挙げる。
「救世主としての人生がこれだけ続くことになるっていうのは、本当に誤算だったんだよ」
言葉を切り、ディセントラの質問を反芻し、俺は続ける。
「――ヘリアンサスが、何をしたいのかだけど……」
咄嗟にカルディオスの方へ視線を向けそうになり、俺は全身全霊でそれを堪えた。
目を伏せて、深呼吸して、言葉を継ぐ。
「……正直に言うと、分からない。
たぶん、俺たちの中であと一人、俺みたいに最初の人生を思い出させたい奴がいるんだろうけど――」
目の端に、カルディオスの嫌悪の表情が映る。
ディセントラも、ぞっとした様子で口許を覆った。
――当然だ、そうなるだろう。
ヘリアンサスは、そのために、『対価』として捧げられた記憶を取り戻すために、トゥイーディアのお父さんを殺したのだ。
自分が、仲間の肉親の命を奪うことになった動機の一部となっているなどと、そんな事実を知らされることが何よりも恐怖だろう。
「――誰なのかは、分からない」
明確に嘘を吐く。
「俺と離れてから、ヘリアンサスが誰とどこで何をしてたのか、俺は知らないんだ。
――で、」
ゆっくりと息を吸う。
「ヘリアンサスの、この魔法は二段構えだ。
ヘリアンサスが『対価』を捧げて、ムンドゥスからもう記憶を取り戻してる。でも、その記憶が古過ぎる。だから、トゥイーディアの魔法で、その記憶をちゃんと呼び戻してやらないと駄目らしい。
――俺とは違って、その、誰だか分かんねぇもう一人には、トゥイーディアからその魔法を掛けさせたいらしい」
額を掻いて、言葉を円卓の上に放り投げるようにして。
「だから、一度ならトゥイーディアに斬られてもいいって言い出したんだ。それであいつの溜飲が下がるなら、やりやすくなると思ったんだろうな」
「あいつが人間じゃねーっていうのがよく分かるな」
カルディオスがぼそりと言った。
俺は小さく、「そうだな」と応じてから、軽く両手を広げる。
「だからあいつ、今、トゥイーディアを捜してる。――もうそんなにはっきりとは見えないって言ってたけど、あいつ、世双珠を通して離れたところも見えるらしいから」
コリウスが、はっきりと顔を顰めた。
ディセントラとカルディオスがぐるりと居間を見回して、ぞっとした様子で身震いする。
こつこつ、と円卓を叩いて、コリウスがやや投げ遣りな様子で言った。
「――ヘリアンサスから離れられないか? おまえが倒れている間に、僕たちも一通り試したが、ここから出られなかった」
俺はぐっと言葉に詰まる。
それを見遣って、コリウスが若干身を乗り出した。
「おまえとヘリアンサスの関係は、こちらからはよく分からないが、悪いものではないんだろう? ――おまえから言って、ヘリアンサスから離れられないか?」
俺はコリウスの瞳を見詰め返して、カルディオスを見て、ディセントラを見た。
ヘリアンサス――俺たちを何度も何度も殺してきた宿敵と近い距離にいるこの状況が、どれだけみんなの精神を削ることなのかは、さすがに、俺にも分かる。
俺は大きく息を吐き出して、円卓に両肘を突き、両手で顔を覆った。
「ヘリアンサスの近くに居る方がいい。俺たちが自分で捜し回るより、あいつの方が早くアナベルを――アナベルとトゥイーディアを見付けられるだろうし、」
「捜すべきか?」
カルディオスがそう言った。
耳を疑って、俺は掌から顔を上げた。
ディセントラとコリウスも、唖然としてカルディオスを見ている。
カルディオスは俺ではなくてディセントラと目を合わせて、何かを訴えるような身振りをして、それから俺に視線を戻した。
苦り切った表情だった。
「俺たち、イーディを捜すべきか?
――あのさ、俺たちは、」
俺たち、と言いつつカルディオスは、この場の四人をそれぞれ示した。
「ヘリアンサスのやろうをぶっ殺そうとして失敗して、今度はイーディのお父さんを助けようとして、それも駄目だったわけだろ。――もうなんか、この人生でやるべきこと、あるか? ないだろ。イーディの気持ち考えろよ。今、ぼろぼろになってるぞ。
それにイーディは――今のイーディは――この近くでなら、幸せにやっていけるんだろ。この辺の人なら、喜んでイーディを匿ってくれるはずだ。イーディは死ぬまで幸せにやっていける。で、次に生まれて、俺たちに会わなきゃ、イーディは一生、全部忘れたままでやっていけるわけだろ。ここまで不幸なこの人生を、綺麗さっぱり忘れ去れるわけだ。
――俺たちは、少なくともルドは、二度とイーディに会わない方がいいんじゃないか?」
俺の心臓が止まった。
全身から血の気が引く感覚があった。
――俺の存在はトゥイーディアにとっての不幸そのものかも知れないが、だが、それならばまず俺を殺してほしい。
俺が生きていて、それでなおトゥイーディアに会えないとは、顔も見ることが出来ないとは、声を聞くことも出来ないとは、――それは耐え難い。
コリウスが、恐ろしいことに、口許に手を当てて眉を寄せ、真剣にカルディオスの提案を吟味する顔をした。
俺は――表情には出せないものの――ぎょっとしたが、そのとききっぱりと、奇妙なまでに確信を籠めて、ディセントラが言い切った。
「――いいえ、だめ」
カルディオスが眉尻を下げた。
「トリー、でも」
「だめ。――確かに、もう一回でも顔を合わせたら、そのときこそイーディがルドベキアを殺しちゃうかも知れないけれど、それでも駄目よ。
イーディがずっと忘れたままなんて、それほど不幸なことはないわ」
俺は覚えず、呪いさえなければ、その場に膝を突いてディセントラに額づきそうになったが、それは出来なかった。
ただ、言い添えるようにして言っていた。
「――それに、ヘリアンサスと一緒にいても、おまえらは大丈夫だから」
「は?」
コリウスが不機嫌そうに呟いたが、ディセントラは得たりと指を鳴らしていた。
「――そうね。いくらあれでも、私たちの中の誰かを殺してしまえば、未来永劫イーディの協力なんて得られないことは分かるでしょう。イーディを見付けるまでは、私たちの無事は保証されるわね」
「……俺以外はな」
胃の腑が誰かに握り潰されそうになっているようにも感じつつ、俺はぼそっと呟いた。
いっそう不機嫌そうに眉間の皺を深めつつ、コリウスが低い声で言う。
「ヘリアンサスのあの口振りからは、そうは思えないが」
「それがな、違うんだよ」
俺は大きく息を吐いて、首を振った。
「あいつ、俺のことだけは躊躇いなく殺すよ。そう言われてる。
あいつからすれば、俺が気に入らないことをするくらいなら、殺しちまう方が納得できるらしい」
三人の反応は見事に鈍かった。
幸いにも、三人ともが真っ当な感覚の持ち主であるがゆえに、ヘリアンサスのあの苛烈な感情を理解できなかったらしかった。
俺は覚えず、懇願の口調で言い募る。
ここでこの三人がどこかへ行ってしまえば、俺はヘリアンサスと二人だ。
それはさすがに耐えられない。
「頼むよ、一緒にいてくれ」
「忘れているようなら言っておくけれど」
ディセントラが、かつての彼女を思わせる冷ややかさでそう言って、すっと薔薇色の双眸を細めた。
「ルドベキア、あんたはイーディを殺そうとまでしてるのよ。
長年の誼で話を聞いてあげたけれど、まずあんたは、私たちから殺されないかどうかを心配しなさい」
細い指を俺に向けて、ディセントラは明瞭に言った。
「あんたの頼みを聞く義理は、こっちにはもう欠片もないのよ」
「――――」
俺は覚えず、まじまじとディセントラを見詰めた。
見慣れた美貌に視線を当てて、数回、黙って呼吸をする。
――もちろん、そうだろう。
俺が犯した背信は、その罪の大きさは、量ることが出来るものではないだろう。
だがそれを分かっていてなお俺が言葉を失ったのは、この千年もの間、俺が唯一心を許せる拠り所としてきた場所が完膚なきまでに壊れたことを、俄かには受け容れ難かったがゆえだ。
――いや、壊れたというのは正しくない。
カルディオスやコリウスから見れば、そこはつい先刻に修復されたばかりであるわけで、正しくは俺が、その輪の外に置かれてしまったということか。
俺が茫然としたのは数秒だった。
その数秒で、自分でも驚くほどにすんなりと、俺は現実を受け容れていた。
――そうだった。
俺はみんなとの関係を、心の拠り所にしていた。
自分の帰るべき場所はみんなとの関係それそのものであると思ってきたし、それはいつでも変わらなかった。
――だが本当に俺を支えてきたのは、俺がみんなとの関係すら投げ出して、いつまでも終わらない魔王討伐――殺され続ける現実、そういう全部に嫌気が差して、生きていることさえ疎みそうになったとき、必ず瞼の奥に浮かんできて俺を引き留めてくれたのは、間違いなくトゥイーディアだった。
彼女、ただ一人だけだった。
――蜂蜜色の髪を風に遊ばせて、俺ではない誰かと楽しそうに話しているトゥイーディア。
意図せずして二人旅となったときに、別行動のために残されていた置手紙。
合流のために雑踏を歩いていたとき、俺を見付けてぶんぶんと手を振ってくれたトゥイーディア。
二人で、互いにそっぽを向きながらも湖岸で並んで釣り糸を垂れたこと。
吹雪のために逃げ込んだ山小屋で、「どうしてここにアナベルがいないんだ」と文句を垂れながらも、疲れていたのかすぐに寝入ってしまったトゥイーディア。
灯器の光に照り映えていた頬。頬に落ちた睫毛の影。全て覚えている。
そのとき俺はじっとトゥイーディアを見詰めて、彼女の頬に血色が戻るのを、祈るような気持ちで待っていたこと。
声。言葉の選び方。
ふとした瞬間に見せてくれる笑顔。
拗ねたような膨れっ面。
顔を顰めて俺に指を突き付けるときの仕草。
嬉しいときに目を細めて笑う、俺の心を千年励まし続けた表情――
そのトゥイーディアにもういちど会うために受け容れなければならない現実であれば、俺は幾らでも呑み込める。
――ゆっくりと大きく息を吸い込んで、俺は言った。
「俺が――俺が、したいことだけど、」
ディセントラが何か言おうとするのを、片手を上げて制して。
「――出来れば、ムンドゥスを助けたいんだ。あの子……前ほどじゃないけど、もうぼろぼろになってる……俺が最初に、魔法を殺し損ねたせいだ。
俺にはちゃんと、あのお役目を全うする義務がある」
そのためには、と言葉を継いで、ディセントラからカルディオス、カルディオスからコリウスへ視線を移しながら。
「ヘリアンサスの協力は絶対に必要だ。あいつは世双珠で――魔法とは表裏一体だ。
あいつが俺に、お役目を許さないなら、俺にはどうしようもないから。
だからあいつが出来るだけ満足して、ちゃんと俺の話を聞いてくれるようにするために、俺はあいつの希望に副わなきゃいけない。
それにあいつ、可哀想なやつだから……最初の人生で、ちゃんと一緒にいてやれなかったから、今度は一緒にいてやらないといけないんだよ。
――それで、」
三人を順に指差す。
「おまえらは救世主だろう。だったらちょっとは協力してくれ。
ヘリアンサスがいた方が、確実に早くトゥイーディアは見付かるんだ。
だからそれまでくらいは、俺と一緒にいてくれよ」
力を籠めて言い切る。
「――あの日に、おまえたちの誰も、救世主になりたくないとは言わなかったんだ」
ヘリアンサスに対する恨みのみから始まった救世主の歴史ではあれど、俺たちはずっと、救世主らしく、人助けを是として生きてきたのだ。
それを否定は出来まい。
三人は数秒、虚を突かれた様子で言葉を失っていた。
だがややあって、カルディオスが呟いた。
「――魔王に言われたくねーんだけど」
コリウスとディセントラが息を吸い込んで、咎めるような目でカルディオスを見た。
だが、俺は覚えず、出来損ないの苦笑を浮かべていた。
そして応じた。
「たまにはいいだろ。
――史上初の、魔王による救世の企みだぜ。途中までは付き合ってもらうからな」




