72◆ 二度目の清算
カルディオスたちがどこにいるのかはすぐに分かった。
何しろ、全員の魔力が荒らいだ状態にある。
いくら俺が、最初の人生に比べて目が悪くなり鈍感になったからといって、これほどの魔力の気配を見落とすほどではない。
がらんとした廊下を歩く。
使用人の皆さんにも暇が与えられた今となっては、ティシアハウスは本当に空っぽになっていた。
俺が寝かせられていた使用人部屋は一階にあったらしく、この屋敷の構造を詳しくは知らない俺としては、みんなが居る方向は分かるが行き方が分からないといった事態に陥り、何度か曲がり角を間違えて、廊下を引き返すこととなった。
その途中、厨房を覗き込むことにもなった。
年季の入った、よく手入れされた調理器具が壁にぶら下がる広い厨房には、まだ食材の類も残っているようだった。
この厨房の主であるジョーがどれだけ慌ててここを出て行ったのかを物語るように、厨房は散らかったままになっている。
そしてその散らかりようが、豪勢な食事を準備している途中がゆえのものだったと気付いて、俺は喉の奥に鉛を入れられたように感じた。
――ジョーは、いや、ここにいた人たちはみんな、俺たちがリリタリス卿を救い出してくるに違いないと確信していたのだ。
だから、館の主人の帰還を祝う準備をしていた。
火の気配もなく、灯りも入れられていない暗い厨房から目を逸らして、俺は足早にその前を歩き去った。
――結局俺は、いちど広間まで戻る道を辿った。
その途中で、見覚えのある吹き抜けの広間に設けられた階段を昇り、みんなの魔力の気配のする居間まで歩くこととする。
ディセントラやカルディオス、コリウスであれば、これまでの人生経験からあっさり館の構造も理解しそうなものだが、俺が貴族として生まれた経験は少ない。
広間の、玄関と同じ側と思しき方向の壁は、細かく縦長に区切られた無数の窓が、床から高い天井にまで続いている荘厳なものだったが、夕闇が忍び寄っている刻限とあって、窓が拾う明かりは無いも同然だった。
高い天井からは多層構造の黄金のシャンデリアが吊るされているが、勿論のこと灯が入れられているなんてことはない。
足許から夜が這い上がってくるようにして、広間を暗がりが浸しつつあった。
絨毯の敷かれた階段を昇りつつ、ふと、どうして自分が広間ではなくて奥の使用人部屋に寝かされていたのかを考える。
――が、それはすぐに思い当たった。
カルディオスたちからすれば、ヘリアンサスに主館に入るよう迫られた上に逃げられない恐怖がある。
そして恐らく、ヘリアンサスは俺の傍から離れようとしなかったはずだ。
それこそ、俺が息絶えるとなれば、俺に与えられた傷のどれかが俺の命を奪うよりも早く、ヘリアンサス自身で俺を殺すことが出来るように。
――となれば、カルディオスたちにしてみれば、俺を出入口付近に置いておくのは避けたかったに違いない。
何しろ、万が一の奇跡が起こってここから脱出できるとなったときに、ヘリアンサスを突破しなければならなくなるからだ。
そして同時に、俺を上階に上げることも避けただろう。
上階は館の主人が使うべき空間で、その主人の娘と敵対した俺とヘリアンサスを通せるはずがない。
階段を昇り切り、折り返して吹き抜けを見下ろす廊下を進む。
居間の扉は開け放たれていて、さすがにそこには明かりが入り、暖色の光を廊下に伸ばしていた。
ヘリアンサスが瞬間移動もこなすと知っていれば確かに、扉を閉め切っての籠城という考えには至るまい。
むしろ密室に突然ヘリアンサスが現れることを想像する方が恐怖だ。
居間に近付いてみたが、どうやら中は静まり返っているようだった。
――いや、そりゃそうか。
今この状況で、コリウスやディセントラであっても、一体何を話し合うというのか。
俺がぶっ倒れていた間に、話せることは全部話しただろう。
息を吸い込み、居間を覗き込む。
「――ルドベキア」
真っ先に俺に気付いたのはコリウスで、彼は居間の大きな円卓の、入口とは差し向かいとなる位置――居間の窓を背にする位置に腰掛けていた。
窓には帳も引かれておらず、暗い外を反映して、室内の様子が鮮明に映り込んでいる。
だから俺から見れば、コリウスが二人同時に立ち上がったかの如くに、鏡映しの様子が見えた。
がたん、と音を立てて立ち上がったコリウスが、目を見開いて俺を見て、直後に愁眉を開く。
心底ほっとした様子で胸を押さえて大きく息を吐き、彼は円卓に片手を突いた。
――その様子に、俺は胸を突かれた。目の奥が熱くなった。
あれほどの振る舞いを見せてなお、コリウスは俺を――重傷を負ってヘリアンサスと二人で残された俺を、心配してくれていたのだ。
俺は口を開こうとしたが、そのときにはもうカルディオスが立ち上がっていた。
入口に背を向ける手前側に腰掛けていたカルディオスが、振り返りながら立ち上がり、その拍子に椅子に躓くようにして体勢を崩し、円卓に手を突く。
この状況で入口に背を向けていたというのは恐らく、窓の方を見張らねばならないという義務感と、コリウスの傍には近付けなかったがゆえだろう。
「ルド、おまえ――」
カルディオスが俺を見て、喉に絡んだような声を出した。
翡翠色の目が血走っている。
俺を見て、詰め寄ろうとしたのを堪えたのが分かった。
こいつ自身も怪我をしているはずだが、それが意識に昇った様子はなく、俺の格好が相も変わらず血塗れだったから、俺が自分の治療をしたのかどうか、それを危ぶんだのだ。
俺は思わず、「大丈夫だ」と仕草で示した。
直後に、あぁこれは殴られるかもな、と思ったものの、カルディオスは動かなかった。
カルディオスはその場に立ち竦んで、俺を、正気を疑うような目で見ていた。瞬きもしなかった。
カルディオスの視線に耐えかねて、俺はディセントラを捜して視線を泳がせ、それから彼女を見付けて小さく息を吐いた。
――ディセントラは暖炉を背にする位置に腰掛けて、円卓に突っ伏して泣いていたらしい。
がば、と顔を上げていた彼女が、俺を見て言葉もない様子で唇を噛む。
目が真っ赤に充血しているし、目許全体が薄らと赤い。
壁の掛け燭で灯が揺らぎ、俺は思わず目を細めた。
居間の隅には、真珠色の長剣が薄墨に色を沈めた状態で放り出されている。
明かりを受けた状態で見れば、思っていたよりも酷く罅が入っていることが分かった。
――いざこうしてみると何を言うべきか分からず、俺は居間の入口で立ち竦んだ。
まずは何から説明するべきか、頭が真っ白になったのだ。
俺が立ち竦んだ数秒ののちに、かた、と小さな音を立てて、ディセントラが立ち上がった。
彼女も俺やカルディオスと同じ、カルディオスが創り出したガルシアの制服もどきを着ているままで、黒い外套に包まれた姿は、顔色の白さが際立っていっそ折れそうに見える。
外套の袖で口許を隠して立ち上がったディセントラが、小さくしゃくり上げるように息を吸った。
それから手を下ろして、淡紅色の目で俺をじっと見て、呟くように言った。
「ルドベキア、体調は?」
俺は息を吸い込んだ。
ディセントラの声は普段より低く、掠れていた。
「……大丈夫」
「そう」
ディセントラは呟いて、瞬きして、俺の後ろを見て目を細めた。
「――ヘリアンサスは?」
俺は思わず振り返り、自分の後ろにヘリアンサスがいないことを確認した。
俺の後ろの暗い廊下には、ヘリアンサスの姿はない。
とはいえあいつがその気になれば、この一瞬後にも俺の背後に現れることは可能だろう。
そう思いつつもディセントラに視線を戻して、俺は曖昧に首を傾げた。
「……さあ。俺が寝かせてもらってたところに、まだいるかも知れねぇけど」
ディセントラが瞬きして、灯りの映り込む淡紅色の瞳で、距離を跨いでまじまじと俺を覗き込むようにした。
俺は思わず喉を鳴らす。
――今ここにいるのは、ずっと一緒にいたディセントラだ。
そうだと分かっていてもなお、俺は半歩下がっていた。
あの苛烈な女王、秋霜烈日の侵略者の印象が拭えない。
横暴を横暴であると意識すらさせずに振る舞っていた、西の大陸の絶対君主の印象が。
ディセントラは俺を見て、それからコリウスを見て、また俺に視線を戻した。
そして、眉を寄せた。
小さく咳払いをしてから、彼女は呟いた。
「――あんた、何されたの?」
「――――」
俺は口を開いたが、俺が何を答えるよりも早く、矢継ぎ早になってディセントラが言葉を並べていた。
「あんたがずっと――イーディを、嫌ってたのは知ってる。知ってるけど、でも、今まであんなことしたことないでしょ?」
言葉を並べながら、ディセントラが涙ぐむ。
「いくらあんたでも、イーディが今どんなにつらいかは分かるでしょ?」
殆どよろめくような足取りで、ディセントラが円卓の縁を回って、俺の方へ近付いて来ようとした。
俺とディセントラの間に立つような格好になったカルディオスが、ディセントラがよろめいて転ばないかを、咄嗟に案じるように振り返った。
「イーディのこと、全部あいつのせいだって分かってるでしょ?」
ディセントラが実際に、自分の足に躓くようにしてよろめいたために、カルディオスが手を伸ばして、彼女を支えてその腕を取った。
俺はカルディオスの負傷を思ったが、カルディオス本人も、ディセントラも、そのことは意識に昇らない様子だった。
「なのに、なんで?」
カルディオスの腕にしがみ付くようにして立って、ディセントラが俺を、初めて見る人間を見るような目で見て、ぼろっと唇から言葉を零すようにして、尋ねた。
「なんで――あんな――」
ディセントラの声が震え、彼女は大きく息を吸った。
「――選りによってあいつを……守る必要もないのに、あんなこと――。
それになんで、今になって――」
ディセントラの声が昂り、コリウスが小さく、だが断固として、「ディセントラ」と呼んで彼女を留めた。
ディセントラが言葉を呑み込み、それを確認したコリウスが、俺を見ていくらか冷静に言葉を続ける。
「――今になって、おまえが自分のことを魔王だと言い出したことも疑問だが、」
「俺が」
「それよりも、おまえがヘリアンサスに迎合したことの方が気に懸かる」
俺の言葉を遮ってそう言い切り、コリウスは濃紫の目を細めて俺を見据えた。
「――おまえが魔王だと、あいつはずっと言っていたが、――ルドベキア、おまえ、何をされた?」
俺はコリウスを見て、初めて会ったときよりも随分と歳若い彼の顔貌をぼんやりと見詰めて、呟いた。
「……俺がおまえの国を焼いたから……」
コリウスが眉間に皺を寄せた。
俺は俯いた。
「――だから、俺が魔王だよ」
「――――」
大きく息を吸い込んで何かを言おうとして、しかし吸い込んだ息をそのまま返すようにして吐き出して、眉間を指でぐっと押さえて、コリウスが呟いた。
小声だったが、はっきりと聞こえた。
「――僕が否定したことを肯定するんだな、おまえは」
俺は言葉が出なくなったが、コリウスにとってどうやらそれは独り言だったらしい。
今度は小さく息を吸って顔を上げ、コリウスは平生変わらぬ落ち着いた声で、可能性を一つ一つ論じるようにして、言った。
「幾つか可能性は考えた。だが、ここにはトゥイーディアが居ないからな。裏付けの取りようもない」
俺は顔を上げて、コリウスを見た。
コリウスは無表情になっていた。
「記憶の抹消は出来ても改竄は出来ない。
トゥイーディアならそうだ。そう言っていた。
だが、ヘリアンサスとなれば話が変わる」
コリウスが指を持ち上げて、俺を示した。
「おまえの頭の中にあいつが手を出したと考えるのが、最も妥当性がある」
「…………」
俺は瞬きした。
口を開けて、その口を閉じ、首を振って、きっぱりと言った。
「――それは、ない」
「どうしてそう――」
「絶対にない」
更問しようとするコリウスを遮って断言して、俺は俯いた。
「あいつの……」
トゥイーディアを思い出した。
今のトゥイーディアではなくて、あの庭園で会っていたトゥイーディアだ。
夜陰に映える木香薔薇を背にして、舞踏会のままのドレスで微笑んでいた、あの――
それからレイモンドを思い出した。
俺を抱き締めてくれたときの温度とか、腕の感触、肩の硬さ、褒めてくれるときの眼差し。
――こういう感情をヘリアンサスが知っていたならば、あれほど大勢を殺したはずがない。
「……あいつの知らないことが多過ぎる――」
「ルドベキア」
コリウスが俺を呼んだ。
俺がその可能性を検討から外していることを責めるような声だったが、俺は断固として、もういちど首を振った。
「絶対に有り得ない」
「じゃあおまえ、何されたの」
カルディオスが低く言った。
翡翠の目が、満点の警戒心を以て俺を見ていた。
いっそディセントラを俺から庇う風もあった。
「何されて、何の恨みがあって、あそこまでイーディに酷いことしたの」
俺はまたトゥイーディアを思い描いた。
つい先刻の、燃えるような敵愾心を以て俺を睨み据えていたトゥイーディアを。
それでも、その恋慕は俺の顔には出ない。
俺はただうるさそうに頭を振って、それから言っていた。
「何されたって、――俺たちが、なんでこの人生が始まったか綺麗さっぱり忘れてて、そもそも何のために魔王討伐しようとしてたのか、ちょっと考えて疑問に思わないか?」
「今そんなこと話してるか?」
カルディオスが、噛み付くようにして言った。
今にも俺を殺しそうな顔付きだった。
「そんなことだよ」
俺も、覚えず若干声を荒らげた。
「頼むから話くらい聞いてくれよ。
――あいつが、俺にしたのは、」
言葉の区切りを強く発音して、俺は言っていた。
「俺たちが忘れた最初の人生を、そっくりそのまま思い出させることだ」
「――――」
カルディオスたちは、むしろ怪訝そうだった。
そりゃそうだろう、最初の人生といったって、これまでの人生と何ら変わりないと考えてしまうに決まっている――救世主として生きて魔王に殺されたのだと、そう思うに決まっている――
俺たちは今まで、どうしてこの人生が始まったのかを、気にしたことすら一度もなかった。
だから俺は、いっそう声を荒らげた。
「最初の人生ってのは、いいか、」
コリウスを指差す。
喉から血を吐くようにして、言う。
「俺がコリウスの国を焼いた人生だ。何千万人も殺した人生だ」
コリウスは動かなかったが、ディセントラが震える息を大きく吸った。
彼女が何か言おうとするのを遮って、俺は彼女を指差す。
「おまえは西の大陸の女王だったし、」
カルディオスに指を向ける。
「おまえはトゥイーディアの弟子だった。
――俺たちの誰も、」
息を吸って、言い切る。
「救世主じゃなかった」
その瞬間に、三人が三人とも、そっくり同じ当惑に眉を寄せた。
――俺たちはずっと救世主だったから、そうではない自分たちが想像できない。
だがその当惑を一旦は呑み下したらしく、カルディオスがすぐに、語調を荒らげて言っていた。
「それとこれと何の関係があるんだよ。なんで今さら、」
「俺は魔王だったし、」
カルディオスを遮って、俺は声を大きくした。
「ヘリアンサスは――あいつは――」
言葉が見付からなくなった。
声が出なくなった。
地下神殿の暗がりで、俺を振り返るあいつを鮮明に思い出した。
石のような無表情、雪のように白い頬に明かりを受けて、俺の拙い話をただひたすらに聞いていた――
「あいつは俺の……」
ヘリアンサスは俺の、何だ?
言葉に詰まり、息を止めた俺を見ていたディセントラが、そのときはっとしたように後ろへ飛び退った。
カルディオスの顔も急激に強張る。
コリウスが凍り付いたのが分かった。
俺は振り返った。
そしてそこに、いつの間にか立っていたヘリアンサスを認めて、大きく息を吸い込んだ。
反射的に一歩を下がり掛け、堪えてその場に留まる。
ヘリアンサスはその黄金の目で俺を見て、それからカルディオスを、ディセントラを、コリウスまでを順番に眺めた。
身体の後ろで手を組んで、まるで散歩の途中だと言わんばかりの態度で、ヘリアンサスは俺に視線を戻し、首を傾げて、微笑んだ。
「……ヘリアンサス」
喉に絡んだ声で呼んで、俺は片手で顔を拭う。
「――どうした」
ヘリアンサスは無邪気に――あるいは皮肉に――微笑んだその表情を崩さなかった。
「きみが僕のことをどう説明するのか気になって、来てみたんだけど」
にっこりと笑って、ヘリアンサスは事も無げに。
「まさか、まだ何も話してないなんて驚きだ。
――良ければここの連中の舌でも抜いてあげようか。話しやすくなるんじゃない?」
カルディオスとディセントラが更に後退り、コリウスが身構える。
俺も束の間、気色ばんだ。
「おまえ――」
「冗談だよ」
穏やかなまでの表情で微笑んで、ヘリアンサスがさっと左手を振った。
しゃらん、と揺れるカライスの腕輪。
――俺がこいつにあげた空。
「少なくとも一人は、話せなくなるととても困るやつがいるんだ。――怒った?」
軽やかな仕草で一歩前に出て、ヘリアンサスは俺の顔を覗き込んだ。
黄金の目に自分の顔が映り込んだのが見えて、俺は思わず、仰け反るようにして距離を置いたが、ヘリアンサスはそれには頓着しなかった。
ただ微笑んで、すたすたと軽い足取りで居間に入り、堂々とその円卓の上に腰掛けた。
浅く円卓に腰掛けて俺を見て、ヘリアンサスが俺を指差す。
左手の親指と人差し指をぴんと立てて、その人差し指で俺を示す。
――その仕草が、不意に像を結ぶようにして、俺のよく知るカルディオスの仕草に重なった。
――そうだ。
どうして気付かなかったんだろう――無意識に、そんなことはあるはずがないと否定していたのかも知れない――これは、この独特な仕草は、カルディオスが見せるものと全く同じだ。
仕草が真似るくらいの親しい時期が、確かに二人にはあったのだ。
――俺がその事実に、今さらではあってもやや茫然としている間に、ヘリアンサスはあっさりと言葉を並べていた。
「ルドベキア、怒った? ――別に構わないよ、おれのことを考えておれに怒るなら」
にっこりと、退廃的なまでに美しく微笑んで、ヘリアンサスは脚を組んだ。
「おれの振る舞いに腹を立てるのはいいけれど、他の連中の身を気に掛けておれに怒るのは駄目だ。
――おまえがおれの振る舞いに腹を立てたなら、いいよ、あのとき言ったね、ルドベキア。おれが一番に考えるのはおまえだ。なんでもしてあげよう」
あっさりと並べられる言葉に、許しよりも禁則を強く感じて、そしてその禁を破ったときの罰の重さを思って、俺は腹の底が冷えるような恐怖を覚えた。
恐怖は顔に出たはずだ。
だがそれを、ヘリアンサスは察知しなかった。
あるいは、無視した。
彼は平然と言葉を続けた。
「構わないよ、なんでも遣ろう。何が欲しいか言ってごらん」
首を傾げて、何でもないことであるかのように。
「腕なり脚なりくれてやろう。おまえのためなら首級でも」
俺たちがどれだけ足掻こうが手の届かなかったものをあっさりと示して、ヘリアンサスは自分の首筋を、あるいはそこに掛かる華奢な金鎖を、指先でなぞるようにして触れた。
「尤も、首を遣ったところでおれは死ねないけれどね、分かってるでしょ――ここにご令嬢はいないから」
肩を竦めてそう言って、ヘリアンサスは事も無げに。
「それでもおまえが望むなら、大抵どこでもくれてやろう。目と耳を残せばそれで許すよ。舌でも心臓でも持って行っていいよ。慣れてるんだ」
俺は思わず震えたが、ヘリアンサスはなおも微笑んでいた。
「おれのことを考えてのことならね、おまえはこんなに簡単におれの首を落とせたんだけど」
苦笑じみた表情を浮かべて、ヘリアンサスは円卓から軽やかな仕草で床に降りた。
それから短い距離を俺に歩み寄って、手を伸ばして俺の頭の上に掌を置いて、ぽんぽん、と、その掌を穏やかに動かして、
「――最初からそう言ってたんだ。おれを忘れたおまえじゃ意味がない。――本当におれのことを殺したいなら、おまえは記憶を持ったままでこうして生まれてくるべきだったね。
まったく、この、」
ヘリアンサスの黄金の目が俺を見て、苦笑の温度で細められたその双眸に俺が映った。
戦慄するばかりの俺に肩を竦めて、ヘリアンサスは微笑んで、
「――馬鹿息子め」
空気が罅割れたのではないかと思うほどの衝撃が、他の三人を襲ったのは分かったが、だが俺はそちらを見ることが出来なかった。
ヘリアンサスから目を逸らせなかった。
ヘリアンサスがすっと視線を伏せて、俺から手を離して、そのまま居間から出て行こうとする。
白い礼服を靡かせたその後ろ姿に、俺は思わず声を掛けた。
「おい、――どこ行くの」
ヘリアンサスはひらりと手を振った。振り返ることはなかった。
「その辺りにいるよ」
それ以上は、俺も声を掛けられなかった。
軽い靴音を無人の廊下に響かせてヘリアンサスがいなくなって、そうして初めて呪縛が解けたかのように息を吸い込んで、カルディオスが茫然とした――呆気に取られた、そんな声を出した。
「……――息子?」
コリウスとディセントラも、想像を遥かに超えた一言に息を止めている。
三人の、驚愕という言葉では温いくらいの視線が、刺さるように俺に注がれている。
俺は大きく息を吸って、両手で顔を拭った。
そして、吐く息に載せて、呟くように。
「――血は繋がってない」
隙間風に灯火が揺れる。
影が踊る。窓硝子に陰影が揺蕩う。
「そもそもあいつは、人間じゃないし――生き物でもない」
この屋敷を抜けて、夜風に吹かれているだろうヘリアンサス。
外界への憧憬を絶叫したヘリアンサス。
「あいつは、世双珠だ」
こいつらにこれを説明するのは二度目だな、と、ぼんやりとそんなことを思いつつ、俺は顔を上げて、三人を見回した。
そして三人が三人とも、理解に苦しむというような表情を浮かべているのを見て、苦笑した。
「本当なんだ、聞いてくれ。
――あいつは世双珠で、世双珠の大元の母石の……つまり原石の、その片割れで、」
小さく息を吐く。
――あの地下神殿の冷たさを覚えている。
「俺はあいつの番人だったんだよ」
そして、長い長いこの世界に纏わる話をする。




