68◇◆人の気持ち
おれはルドベキアを待っている。
よくも飽きないものだと自分でも思うが、おれはずっとルドベキアを待っている。
――もう、全部を思い出したはずだ。
勘でしかないがそれは分かる。
――おれが腰掛けているのは、あの魔王の城よりもずっと明るい、喩えるならば教会のような離れの、玉座めいた椅子の上だった。
複雑に入り組んだ高い天蓋、長方形を成す広々とした石造りの広間。
夜を吸い込んだ石材がその暗さを吐き出して、いっそ青白いほどに映えている。
広間の両脇には、等間隔に細長い張り出し窓が端から端まで並んでいて、今はその片側から、眩しいばかりの朝陽が差し込んできていた。
差し込んだ朝陽は、広間に据え置かれた石造りの長机を照らし、影を落とし、その長机を囲む背凭れの高い格式張った椅子もまた、同じく影を落としている。
きらきらと埃が舞うのが見える。
どうやらこの離れは、ずっと長い間放置されてきたらしい。
閉じ込められていた空気に独特の、埃っぽいような匂いがある。
おれは広間の奥の、三段の階を昇った上にある、玉座めいた大きな椅子に座って、肘掛に頬杖を突き、長机の向こうの、荘厳な両開きの大きな扉をじっと見詰めている。
――ルドベキアはここに来るだろうか。
あいつがここに来ないと嫌だから、そしておれの目の届く場所に置いておかなければ、それこそ自害も有り得たから、おれはここに、ご令嬢とあの青髪の子も置いている。
おれがいくら、作り変えられてから弱くなったとはいえ、気を失った青髪の子を庇うご令嬢に言うことを聞かせるのは、そう難しい話ではない。
ご令嬢はおれから見て右側、朝陽が差し込んでくる方向の張り出し窓に腰掛けていて、張り詰めた視線はずっとおれに向いていたものの、狭いスペースに上手に寝かせたあの青髪の子の頭を膝に乗せていて、その髪を軽く撫でていた。
未だに血塗れの正装を身に纏うご令嬢は、この静謐な空間には不似合いに思えるほどに凄惨な恰好をしている。
朝陽がその輪郭を彩って、蜂蜜色の髪が金色を帯びて光って見える。
逆光でその表情はよく見えなかったものの、今のところは興味はなかった。
――逆光。
明るさに依存する視界。
眩しさに耐えられない瞳。
――そういう全部。
最初の頃はおれに無かった全て。
――あのときから、おれは随分と不便な思いをするようになったし、何より弱くなった。
とはいえ、その不便さは嫌いではない。
おれの表面に貼り付けられていた、生き物ではないという形而上の張り紙――それが薄れたようにすら感じたから。
ルドベキアたちがおれに定義づけた、破壊されるためだけにある魂は、おれとおれの半身との更なる相違点となり、ムンドゥスすらもおれのことを、少し縁遠いものであると判断するようになったらしい。
あれほどムンドゥスから許されてきたおれの無茶は、めっきりと許されなくなった。
この世界の外側のどこかから注がれる無尽蔵の魔力――それはあれど、それだけだ。
何が不便になったか――、ふと思い付いて、脳裏で数え上げてみる。
例えば、世双珠。
かつては時系列すら遡り、自由自在に世界中の世双珠をおれの耳目とすることが出来ていたのに、今のおれではほんの僅かの世双珠から、今現在の情報を拾うのが精一杯になっている。
例えば、肉体の欲求。
かつてのおれは、呼吸も飲食も睡眠も全く必要としなかった。そもそも息苦しさや空腹や渇き、眠気を感じることがなかったのだ。
だが今のおれは違う。
窒息も飢餓も渇きも不眠も、おれを殺すことは出来ないが、摂らねば苦痛と不快感がある。
――そうだ、呼吸の断絶や餓えや渇きでは、おれを殺すことは出来ない。
この仮初の命の終焉は予め決まっている。
救世主の一太刀。救世主による滑稽な断罪。
それ以外に、おれのこの仮初の命を奪えるものはない。
それから、あとはなんだろう――何もかもが変わったために列挙にも骨が折れる。
ああ、そうだ。負傷だ。
かつて、おれの涙は宝石だったが、今は違う。
今のおれは、斬られれば血が流れ打撃を受ければ打撲が出来、火で焼かれれば火傷をする――そういうものになっている。
それから、呪い。
――あの六人、今の救世主たちが互いに呪いを掛け合ったとき、おれにはまだ魂がなかった。
だからこそ、おれはあれらの呪いに、今であっても縛られていない。
――呪い。
おれの半身に刻み込まれた、あの六人それぞれの罪状。
おれがおれの半身との相違点を如何に多く持とうが、おれとおれの半身がふたつでひとつであることに変わりはない。
だからおれは、恐らくはこの世界の誰よりも深く、あの六人が互いに掛け合った呪いを理解できている。
あの南の島に閉じ込められている間に、呪いを反芻し、理解していく時間は十分にあった。
そして呆れるばかりだが、掛けられた呪いは不完全なものが多い。
だからこそおれは、あの青髪の子がカルディオスに掛けた呪いと、カルディオスがご令嬢に掛けた呪いを利用して、今生におけるルドベキアを、ようやく魔王に返り咲かせることが出来たのだ。
おれのその策が実ったのは、呪いが不完全だったからこそといって過言ではない。
おれが知る中で最も驚異的な能力と才能を授かっていたのは、間違いなくあの赤毛の女王だが、彼女が掛けた呪いでさえ、あの青髪の子のどういった言葉に対して作用するのか、少なからぬ無作為性を残しているほどなのだ。
唯一、これは完璧だと言える呪いがあるとすれば――皮肉にも――それは女伯爵が、つまりは今のご令嬢が、ルドベキアに掛けた呪いだ。
不完全な呪いが多い中で、ご令嬢の呪いだけは完璧に近い。
ルドベキアが他者へ抱く感情の絶対値を判断して対象を定め、ルドベキア本人どころか周囲の人間にさえも干渉して、徹底的にルドベキアの感情の発露を阻む呪い――
あの六人が、互いに呪いのことを打ち明け合っていないことも意外だ。
恐らくは何かの、呪いに近い作用が働いてのことなのだろうが、それもおれには干渉していない。
つまり、その作用――決まりごと――そういった何か――それが定められたのは、おれが魂を得る以前のことだったのだろう。
だが今は違う。
魂を獲得したがために、おれは救世主と魔王という、謂わばごっこ遊びの、ルドベキアたちの最後の足掻きのための舞台に囚われることになった。
ルドベキアや女王が定めた絶対法を超えることが出来ないのも、このためだ。
あいつらとは違う。
あいつら――サイジュをする連中、今はレヴナントと呼ばれるあの連中。
あれらは、魔法を使うとなれば絶対法を超える。
理屈は単純明快で、あいつらがあの形になったのは絶対法が定められる前だった――その時点を以てあれらは人でなくなり、ルドベキアたちの定めに縛られなくなっているからだ。
一方おれはといえば、この世界の外から、直接に魔力を注ぎ込まれているものだ。
ゆえに、魔力に関しては大きな権限があると思っていい。
そのために他人の魔力に干渉しておれ自身がそれを使ってみたり――救世主が絶対法に開けた穴をおれ自身が使ったり――そういうことが出来るわけだが、それでも絶対法は超えられない。
――本当に不便になった。
ムンドゥスに許される無茶があの頃と変わらず大きければ、おれは何の労苦もなく、おれのための対価を獲得することが出来ていただろうに。
呼吸をする。
頬杖を突きながら呼吸を繰り返し、思い返していく――
◇◇◇
――初めてあの南の島に降り立ったとき。
あれは、おれが初めてルドベキアやカルディオスを殺した直後だ。
感情に任せて全員を叩き潰して、恐らくあのときおれは息を止めていたから、そして息をしなければならないという意識もまだ育っていなかったから、眩暈がしたことを覚えている。
そしてようやく息を吸い込み、顔を上げたところで、
視界が切り替わったのだ。
おれは鬱蒼たる針葉樹の森の中にいて、目の前には気の早い春の訪れに芽吹こうとする若葉があった。
燦々と木漏れ日が差し込んでおり、辺りにはむせ返るほどに濃く、春の匂いがしていた。
小動物が木の枝の上を走り抜ける微かな足音、突然出現したおれに驚いたらしい小鳥の、すぐ傍で慌てたように上がった羽搏きの音。
五感に伝わる情報の全部が唐突に書き換わり、唖然としたものだった。
低く枝葉を枝垂れさせる木々に囲まれて、慌てて振り返ってみたり伸びをしてみたり、動くおれの足許でさくさくと鳴っていた下草――聞こえてくる鳥の声――全て覚えている。
兎に角も森を出ようとしつつも、おれはどんどん理解していく。
――おれの存在が魔王として定義されたこと。
歩き続ければ息が上がること。喉が渇くこと。腹が空くこと。
声や言葉の裏にある意図を聞き取っていた、おれの特異な耳ですら機能しなくなっていた――かつては聞き取ることが出来た、鳥や小動物の鳴き声の裏にある意図や感情を、おれの耳は捉えることが出来なくなっていた。
これでは恐らく人が吐いた嘘ですらおれには見抜けるまい、とおれは考え、そしてそれは正しかったわけだが――
海辺に出ると、おれの身体はやんわりと押し返される。
物理的な壁があるというよりは、おれの存在そのもの、魔王としてのおれが、この島から出ることを禁じられている作用だった。
――それから、何があったのだったか……重要なことは少なかった。
まず、ムンドゥスが何を思ったかおれについて来たこと。
傷の多くが癒えた姿で現れて、おれに纏わりついては取り留めのないことを呟く、おれの姉。
いや、姉だろうか――おれがこうして仮初の魂を得てからというもの、あの子がおれのことを「おとうと」と呼ぶのは聞いたことがない。
それから、あの南の島にも人間がいたこと。
とはいえ土着の住民ではなく、大陸から脱出してきただけのようだった。
ルドベキアたちが大陸の人間に禁じた多くのこと――暦の使用や宗教の有無――は連中には及んでいなかったが、彼らにとってもおれは魔王だった。
続く百年を、おれは専ら島の中をふらふらと彷徨い歩くことで潰した。
そのうちに平地が均され、木が伐られ、小さな町がそこここに出来ていくのを眺めることが出来た。
並べられた丸太の上を、切り出された――枝葉もまだ付いたままの――大木が転がされて行く様は圧巻だ。
掛け声が交わされて、木材の形が整えられて、何度も何度も日が昇って落ちる間に建物が幾つも出来ていく。
同じように舟が作られ、小さな舟が沖合に出て、網を張って魚を獲る。
海辺にも幾つも建物が出来ていく。
夏の陽光の中で、日に焼けた笑顔が釣果を報告する。笑い声が上がる。
人間の数が増えていく。
昔ルシアナがそうしたように、人間には人間を増やす能力があるのだ。
おれは適当な建物の上で頬杖を突いて、それを遠目に眺めている。
おれに気付いた人間が、軽く頭を下げて足早に歩き去っていく。
嵐がきては建物が流され、人が死んで、そのうちに頑丈な建物が増えていく。
川の傍に堤が築かれていく。
集落が出来、集落が町になり、やがて幾つもそれが出来る。
どこかの山から金や銀が採れることが分かったと、人間たちが騒ぐ。
そういえばカルディオスが、そういうものには価値があると言っていたな、と思いながら、おれはそれを見下ろす。
そのうちに険悪な雰囲気が流れるようになって、あちこちで揉め事が起きる。
金やら銀やらが、人間はどうしても欲しいものであるらしい。
それはどうでもいいが、夜間であっても篝火を掲げて石を投げ合う、それはおれには不愉快だ。
やめてほしい。
そのうち誰かが火を落として、山がひとつ丸裸になるほどの火災が起こった。
どうにもそれが許せず、おれは大雨で完膚なきまでに火を消して、そうして今のおれにさえ、その程度の無茶が許されるのだ、と気付いたことが皮切りとなり、夜中に騒いでいた連中を、目に付いたところから皆殺しにしていく。
石を投げられようが槍を投げられようが、おれには物の数ではない。
そのうちにおれの方が絶対的に強いのだと悟ったのか、揉め事が下火になっていく。
騒いで互いに殺し合わない限りは、おれがその辺をうろうろしているだけで無害だと、人間の方にも分かったらしい。
今度は石が切り出され、大きな城が築かれる。
どうやらこの城はおれのものであるらしい。
棲み処を遣るから大人しくしていてくれと、どうやらそういうことらしい。
おれはそれが気に入って、時折城に顔を出すことにする。
そのうちに一度目の魔王討伐があって――いや、いい、そのことは忘れたい。
だが、まあ、それが契機になったことは確かだ。
――あいつらが忘れてしまったことを、どうにかして思い出させてやりたい。
ルドベキアを魔王に返り咲かせてやりたい。
方法ならば心当たりがある。
それこそ、ルドベキアがおれに対してしたことを、そのまま返してやればいいのだ。
――『対価』だ。価値あるもの。
それを捧げて魔力の丈を補って、存在しない魔法を創り出してしまえばいい。
『対価』を取り返す、そういう魔法を。
そのためには、長い時間が掛かる。
だから、時間の流れを担保するムンドゥスに不慮の事故が起こってはいけない。
第一、おれは世双珠であって、この子にとっては毒だ。ずっと一緒にいるのも具合が悪かろう。
そう思ったおれは、すっかり臣下になった人間たちに命じて、この子のために塔を建てさせる。
閉じ込めるのは可哀想だと思ったから、大きな天窓を造らせた。
「この中にいて、出て来てはいけない」と伝えると、ムンドゥスは大きな目でおれを見あげて首を傾げて、「どうして?」と。
「きみを守るためだけど」
ムンドゥスはいっそう首を傾げる。
「あなたがわたしをまもるの?」
「まあ、そうだね」
「あいにきてくれないの?」
おれは思わず笑ってしまう。
いや、この頃にはおれは既に、笑っていることの方が多くなっていたけれど。
「会いに来てほしいの? 構わないよ。じゃあ、天気のいい日にでも、窓越しで良ければ少し話そうか」
ムンドゥスはそれで満足したようだった。
だが、とはいえ、いざ塔の上に腰掛けて、天窓越しに中を見下ろしたとき、その様相が一変していれば驚きもするだろう。
おれは、人間であれば腰を抜かすような高所に腰掛けながら足をぶらぶらさせて、天窓から中を覗き込んで、「わあ」と声を出す。
「ムンドゥス、どうしたの。僕が知らない間に、大した模様替えだ」
ムンドゥスが顔を上げる。
おれを天窓越しに見上げて、無表情ながらも少しばかり嬉しそうに首を傾げる。
嵌め殺しの玻璃の向こうに、よく声が届くものだと思うが、ムンドゥスもきっと特異な耳を持っている。――そして声も。
世界そのものの声は、どこに居ようとも容易く耳に届く。
「そうね、ヘリアンサス。あなたはしらなかったわ」
ぎぃ――ばたん、と、ムンドゥスが機を織る。
どこからともなく伸びた糸を、丁寧に丁寧に織り合わせて、黒い布を織り上げていく。
造らせた覚えのない階段が塔をぐるぐると巡っていて、造らせた覚えのない機で、ムンドゥスは一生懸命に身体を動かしている。
風が吹いて、おれは目を細める。
「それ、どうなってるの」
思わず笑いながらそう尋ねると、ムンドゥスは少しの間手を止めて、考え込むような様子を見せた。
しかしすぐにまた手を動かし始めて、歌うように。
「これはわたしなの。せっかくつくったとくべつな肉の器がなくなってしまったから――でももうあれはつくれないから――ほかのことをしているの。これはわたしなの。
縒って、あわせて、解けないようにしているの」
「――なるほど」
と、おれは呟く。
なるほどこれは、世界の自浄作用の一つであって、特別に拵えた魔力の器を失ったムンドゥスの、苦し紛れの次善の策なのだ。
それが機織りという形で具現化したのは、なぜだろう――機を織るという行為に対する人間の印象、連綿と続く行為の象徴性のゆえか。
「なら、いいんじゃない。そこから落っこちないように気を付けてね」
おれがそう言うと、ムンドゥスはまたおれを見上げて、首を傾げた。
「糸が切れたら、ヘリアンサスにあいにいくわ」
おれは曖昧に笑って首を傾げた。
「へえ。なんで?」
ムンドゥスは瞬きもしない銀色の瞳で熱心におれを見て、陶然と呟く。
「――あなたはわたしのためのものなのよ、ヘリアンサス」
おれは苦笑して、ムンドゥスから視線を外す。
「――そうかな。逆だと思うけど」
おれはよくよくムンドゥスのところに顔を出し、呪いを逆手に取ってルドベキアを魔王に返り咲かせようと、ムンドゥスにあれこれと言い聞かせてみる。
首を傾げるばかりだったムンドゥスがそのうちに、「そうね、そうかもしれない」と言うようになったために、おれはルドベキアを魔王にするための、他の幾つかの――つまらない――根回しもしておく。
何しろ、ずっと変わらない姿で延々と玉座に座り続けたおれと違って、ルドベキアは人の腹から生まれるのだ。
何の説明もない、というわけにはいくまい。
「次の魔王はさ、たぶん、普通に、腹から生まれてくるから。だから、見逃さないようによろしくね」
と、おれがふらふらと外を出歩いて何十年という時間を潰している間、城を預かっているらしい役職の者に言い置いておく。
そいつは怪訝そうな顔をしたが、おれに問い返すような真似はしなかった。
とはいえこれだけでお終いにするのも不安なので、おれは少し考えてから、言い添える。
「次の魔王はね、男の子だから。きみたちとは段違いの魔力を持って生まれてくるから、見逃さないわけがないと思うけど、気を付けてね。僕と違って真っ黒な髪で、青い目で――暗いところで見るとそうでもないと思うけど、明るいところで見れば空色だよ、あの目は――生まれて来てくれると思うから、よろしくね。
――で、」
おれはにっこりと微笑んでみせる。
「これまでの魔王がどういう風に過ごしてきたとか、そういうの、全部言わなくていいから。適当に、なんか魔王は代々それっぽく選ばれるんだ、みたいに言い聞かせておいてよ」
何しろ今のルドベキアは滑稽にも、おれまでもが繰り返し繰り返し生まれ直していると思い込んでいる。
救世主に首を斬られる以外におれが死ぬ方法はないというのに、おれにも寿命があると思い込んでいる。
それを否定されると、ルドベキアはびっくりしてしまうだろうし――
――別にいいのだ。
おれがこういうものだと知られず、ごく普通に生きて死んで、それを繰り返している普通のものだと、人間と少なからぬ類似性のあるそういう存在だと、そう思っているならば、それで。
「僕がどういうものだったか知られると、ちょっとややこしくなるからさ。
――それから、これがいちばん大事なんだけど、」
机の上で手を組んで、首を傾げて、おれは身を乗り出す。
――あの青髪の子が掛けた呪いを利用するために。
「――次の魔王は贋者だから、あらゆる手を使って殺しておいてね」
いざあの島から外に出たあとにしたこと――これも沢山ある。
だが重要なことは少ない。
おれは島を出て、海を渡って、大陸を見て回った。
とはいえ、おれが島を出ると同時に、再び世双珠が世界中に溢れるようになっていたのは誤算だった。
――サイジュはもう行われようがないが、それでもあの記憶は厭になるほど鮮明で、おれはおれの犠牲の上に成り立つ世界を受け容れられない。
だが、まあ、おれがあの小さな島の穴ぐらに戻ろうとでもしない限り、おれの半身は姿を隠したまま、二度とあそこには現れないだろう。
しかしそれでも、世双珠があの諸島で採れるらしいのは、おれとおれの半身が、余りにも強い地縁をあそこに持っているがゆえか。
――いや、それはいい。
おれの記憶には忘れたいことが多過ぎるが、おれは忘れることが苦手だ。
おれはそうやって、再び世双珠を得て発展していく世界を見ていた。
汽車が出来るのを見て、軌道が敷かれ、黒煙を上げてその上を走る汽車を眺め、いつ船が空を飛ぶのだろうと考える。
いや、あの銀髪がいないから、さすがに人が空に手を伸ばすことは有り得ないか。
そして、まあ、これも当然だが――世双珠が再び現れたということは、連中も出て来る。
あの連中、サイジュをする連中だ。
世双珠がなければあいつらも大人しくしていたものを、世双珠が壊れたとなれば現れる。
おれは連中が現れればそっとそこから逃げ出して、おれの忘れたい、忘れ難い記憶を頭のずっと奥の方へ追い遣ろうとして深呼吸する。
――思い返してみれば、最初にルドベキアたちを殺してからというもの、おれはこの千年の妄執のためだけに過ごしてきた。
そしてその妄執のための『対価』は――
――おれが、価値を理解できるもの。
――あのときおれからルドベキアを盗んだ、ルドベキアの想い人に纏わるもの。
そんなものは一つしかない。
世界はおれに味方した。
前回、正当な救世主として最後までおれの前に立っていたのはルドベキアの想い人だった。
最初のルドベキアの、末期の――呪いともいえない不完全な呪い。
それをおれは理解している。
〈救世主を経験した直後に記憶を失う〉という呪い。
その呪いを受けたルドベキアの想い人は、間違いなく、今生の両親を実の両親と思って過ごすはずだ。
おれが価値を理解できるものは少ない。
分かっている、おれの価値観の殆どは、たった二人の人間に依存して成り立っている。
だが、そのおれにも理解できるものがあるのだ。
――ルシアナの愛情だ。
ルシアナがルドベキアに向けた愛情。
まるく膨らんだおなかを撫でていたときの手付き、眼差し、口調――それら全部に溢れていた愛情。
血塗れになりながらも、おれのところに助けを求めて走ってきた、その原動力になった愛情。
些細なことで泣き喚くルドベキアを抱きかかえながら、「いいお母さんになります」と語っていた、あの愛情――
それと同種のものであるならば。
血を分け合った親と子の間に、あれと同種の愛情があるというのならば。
ならばその相手の命には価値があるはずだ。
ルシアナはルドベキアの命を守った。
愛する相手の命には価値があるのだ。その証左だ。
ならばそれを失って、ルドベキアの想い人が覚える痛み、それこそ魔力と同じ味。
そのはずだ。
気になるのは、愛情の方向性だった。
――ルシアナは親だから、ルドベキアに愛情を注いだのか?
ならばその逆は、子から親への愛情は、当然にあると言えるのか?
――おれは結論した。
“ある”。
ルドベキアはおれに愛情を返さなかったが、ルシアナには違うはずだ。
ルシアナがいなくなったから――可哀想に、ルドベキアがちゃんとルシアナのことを知る前にいなくなってしまったから――だから、愛情を返す先を失っただけだ。そのはずだ。
そうでなければならない。
あれほどの愛情をルドベキアに注いだルシアナが、報われないなんてことがあっていいはずがない。
これ以上、ルシアナが可哀想な目に遭っていいはずがない。
だから、おれはルドベキアの想い人を探したのだ。
探すのはそう難しくはない――おれにとって、魔力は何より身近なものだ。
これまで、曲がりなりにも長い間、おれに挑んでは負け続けてきたルドベキアの想い人の魔力ならば分かる。
そう思って、大陸をふらふらと渡り歩いて――
――ある日、『リリタリス家ニ待望ノ令嬢御生誕』という新聞の見出しを以て、ルドベキアの想い人の名前を見付けた。
調べてみると、色々と好都合だった。
ルドベキアの想い人、今生におけるリリタリス家のご令嬢のお父さんはたいそう高名な人のようで、もうそれだけでその命には『対価』としての価値がある。
さすがに、おれがさっくりとご令嬢のお父さんを殺すだけでは、ムンドゥスはそれを『対価』としては認めないだろうと分かった――何しろ簡単すぎる。
どんな高名な剣士でも、魔術師でも、まずおれの相手にはならない。
実際に、おれが今まで殺し続けたルドベキアたち――転生が約束されているとはいえ、ひとつの死には違いなく、また目の前で誰かが殺される度に、残った連中の表情が歪むのを見ていれば、その死に一種の価値があるということは分かっていたが、それでも――、その命が『対価』としての役割を果たしたことはなかった。
つまるところ、おれにとって、ルドベキアたちを殺めることは簡単に過ぎたのだ。
それが原因だった。
そこで注意深く見守っていると、なおも好都合なことが分かる。
――ご令嬢のお父さんには敵がいる。
見ていて気の毒に思うくらいには、相手にもされていなかったけれど、本人はご令嬢のお父さんの敵でいるつもりのようだった。
――ニードルフィア伯爵と呼ばれていた男だ。
こいつに、ご令嬢のお父さんを殺してもらおう。
そう考える。
だが、どうやらそれは簡単ではないらしかった。
ご令嬢のお父さんは、仕掛けられる暗殺や謀殺の全てを、妻や娘に知られないままに防いでいる。
彼を手の届くところに引き摺り下ろすのは簡単ではない――
――でも、やってやれないことはない。
ご令嬢だ。
ご令嬢を使えばいい。
彼女のお父さんは、ルシアナがルドベキアを守ったように、無条件にご令嬢を守るはずだ。
だから――そのためには――
――本当に、たくさんたくさん、考えたのだ。
例えば、ご令嬢が東の大陸に渡ることが決まって、ならばそれを論って、彼女のお父さんにありもしない罪を着せることは出来ないか、と考えた。
罪が成就しご令嬢のお父さんが死罪となれば、罪を作り上げたおれの労苦が価値と認められ、ご令嬢のお父さんの命は『対価』として成立するだろう。
そしてご令嬢がそれを良しとせず、おれを止めるために飛び込んできたならばそのときは、さながら盤上遊戯だ。
おれは指し手であり女王の駒であるご令嬢を下す。
ご令嬢が危機に立てば、彼女のお父さんに手が届く。
ご令嬢を危機に立たせる布石は、出来る限りたくさん打っておかなければならない。
だからあの夜、ご令嬢の婚約者候補と決まったロベリアの令息を殺しに、おれはその部屋を訪れた。
こいつを殺して成り代わる。
婚約者に裏切られたとなれば、ご令嬢の足許は崩れに崩れるだろう。
堅い約束は、破られた側にこそ不利に働く。そういうものだ。
おれがこいつと成り代わって違和感を覚える連中は問題ではない。
おれにはご令嬢の魔法がある。誤魔化しようは幾らでもある。
ただ、実の親をそうやって騙すのは、ルシアナのことを考えると胸が痛い。
だから単純に、力で脅して従ってもらう。
ご令嬢の足許を崩すために、そのうちこいつの親にも死んでもらう。
そう考えて、おれはロベリアの令息の部屋を訪れた。
夜を選んだのは単純に、令息が自室にいると分かり切っている時間帯がそこだったからだ。
――覚えている。
揺れる蝋燭の明かりに朧気に照らされた広い室内。
重厚な造りの机に向かっていた令息が、窓が開く音に驚いたように振り返る。
そうだ、おれは入口を通るのが面倒で、夜陰を踏んで窓からあの部屋に踏み込んだのだ。
鍵はおれにはないも同然。
開け放った窓から夜風が吹き込んで、帳を巻き上げて数秒間、おれの視界を覆い隠す。
がたん、と音がして、令息が立ち上がる。
ペンが床に落ちて転がる硬質な音。
机の上には紙が広げられていて、その他に何枚も、書き損じた紙がくしゃっと丸められて机の上に散らばっていた。
後から覗き込んで分かったが、あの紙はロベリアの令息が認めていた、リリタリスのご令嬢への恋文だった。
〝まだ会ったことはないけれどお話は伺っている、不束者だがどうかよろしく、きっと貴女とは上手く支え合っていけると思う、どうか政略と思わずに自分の人柄を見てほしい、貴女に寄り添うために、私の及ばないところを鍛えましょう、私の出過ぎたところを控えましょう、父君に愛される貴女を、私も一番に大切にしていきたい〟――という。
興味がないので破いてしまって、軽く流し読みした程度だけれど。
夜風が弱まって、翻った帳が落ちる。
令息がおれを見ていた。
よく覚えている。
――その瞳はおれがあこがれた、かつて穴ぐらに閉じ込められていたおれに与えられなかった夏の空そのものの、鮮やかな青い色だった。
◇◇◇
ぎぃ、と扉が軋む音がして、おれは我に返った。
瞬きをする。
ご令嬢がはっと息を呑んだのが分かったが、おれはそちらに注意を割くことが出来なかった。
大きな両開きの扉が、ゆっくりと開く。
そして、ルドベキアが、あの馬鹿息子が、この離れに足を踏み入れた。
ルドベキアは入口でしばし、戸惑ったように足を止めた。
おれから見れば右側、ルドベキアからすれば左側から差し込む朝陽に、眩しそうに目を細める。
――その目。
おれがあこがれた空そのものの色に映える瞳。
その目が少し動いて、窓際で青髪の子を守るように抱き締めて息を呑む、ご令嬢を一瞥した。
それから視線がおれに戻った。
ルドベキアが、疲弊を感じさせる足取りで、ゆっくりと、長机を回り込むようにして、おれに歩み寄り始めた。
――この馬鹿が。
おれは知っている。
ルドベキアに掛けられた呪いを、恐らくはルドベキア以上に理解している。
そしてルドベキアも、自身に掛けられた呪いの顕著な特徴は、理解しているはずだ。
◇◆◇
俺の代償の話をしよう。
俺に課せられた呪いの話をしよう。
俺に掛けられた呪いは、〈最も大切な人に想いを伝えることが出来ない〉というもの。
この場合の、〈最も大切な人〉というのは、呪いの上では、俺が〈最も大きな感情を注ぐ人〉と同義だ。
つまり、感情の種類は好悪を問わない。
恋情であれ、友情であれ、親愛であれ、罪悪感であれ、憎悪であれ――その人に俺が向ける感情、その総和の絶対値が最も大きな人をこそ、俺に掛けられた呪いは俺の〈最も大切な人〉と判断し、俺がその人に向ける感情の発露を防ぐのだ。
――だから、このとき。もしも、仮に。
俺がヘリアンサスに割く罪悪感、余人の立ち入ることの出来ない、俺たちの関係のために動かす、この名前のつけられない感情の全て――それら全部が、俺がトゥイーディアに注ぐ愛情と尊敬を上回れば、俺の〈最も大切な人〉は、トゥイーディアからヘリアンサスに切り替わる。
礼拝堂めいた荘厳な離れの隅、張り出し窓で意識のないアナベルを抱き締めて、息すら止めた様子で俺を見詰めているトゥイーディア。
血塗れの正装のままで――蜂蜜色の髪はすっかり解れて、痛々しい。
目を見開いて俺を見詰めるトゥイーディアが、この瞬間、俺が彼女を――あるいはアナベルを、助けに来たのだと確信していることは明らかだった。
何しろ、それ以外には考えようがない。
何度も何度も、彼女は俺に、“俺は救世主なのだ、魔王ではないのだ”――そう言ってくれていた。
だから今、救世主ルドベキアがここへ来て、魔王ヘリアンサスに相対する理由――それは、仲間を助けに来た、それ以外には有り得ないはずだった。
そうだ。
俺がヘリアンサスに向ける感情が、トゥイーディアに向ける感情を上回れば、そうだ。
俺はトゥイーディアを堂々と守ることが出来る代わりに、ヘリアンサスに対する一切の罪悪感、かつての関係を思わせる言動――そういったもの全てを阻まれる。そうなるはずだ。
だから――ああ。
本当に賭けだったのに。
扉を開けたこの瞬間に、俺がヘリアンサスに向かって致命の魔法を撃ってしまう――そういう可能性もあったのに。
ヘリアンサスの千年の妄執を知ってなお。
これだけの罪悪感と、こいつのための俺で在れればと――その後悔があって、なお。
俺はヘリアンサスを一番に出来ない。
――俺の、〈最も大切な人〉は、ここまできてもトゥイーディアから動かないらしい。
◇◆◇
ルドベキアが、おれに向かって歩み寄って来る。
表情は読めなかった。
おれは人の表情を読むのがあまり上手くない。
辛うじて読めるとすれば、それは長い間一緒にいたカルディオスの表情くらいだ。
長机の、おれから見れば左側、ご令嬢とは反対側を通って、ルドベキアがゆっくりと歩を進めてくる。
片手を持ち上げて、どうしてか、首許の辺りを探った。
唇を開けたり閉じたりして、何かを言おうとして躊躇っている風情もあった。
――それが、その様子が。
思い出したくもない、最初の魔王討伐の記憶と重なる。
――あのときも、こんな風だった。
あの六人はおれのところへ来て――何も分かっていない顔で――躊躇いがちに、玉座で待っていたおれの方に、歩みを進めて来たのだ。
◇◇◇
――分かっていたのだ。
南の島――温暖で、美しい、あの島に飛ばされて、百年も経てば、気付くというものだ。
おれは毎日山を歩いて、川を覗いて、海辺を散策して――頭を冷やす時間は十分にあった。
だから、徐々に、分かるようになったのだ。
ルドベキア――あいつは確かにおれを助けに来なかったが、たぶん、純粋におれを資源と思っていたのではない。
もしもおれを資源としか思っていなかったのならば、おれに手品を見せる必要がない。
もしもあいつが――おれが物事を考えたり、感じたり――そういうことを出来るのだと知らなかったのだとすれば――おれが、自分で、それを教えてやれば良かったのだ。
痛いから、苦しいから、助けてくれ、助けてほしいと、自分で訴えれば良かったのだ。
あいつがそれを聞いてどうしたかは予想がつかないが、少なくとも、何か――おれを慰めるような何事かが、それで起こったかも知れなかったのに。
カルディオス――本当に悪かった。
あれほどおれにたくさんのものを与えてくれたのに、この世界に彩りを与えてくれたのに、空気の温度の名前を、花の名前を、全部教えてくれたのに――この上なく価値のある善意こそがあいつにそれをさせたのに、おれはそれを全部踏み躙った。
おれとカルディオスの間にあった価値を、あいつが何度も嬉しそうに反芻してくれていた言葉全部を、おれの生涯最大の嘘で穢した。
少し考えれば――本当に、一秒でも考えていれば、分かったはずだったのに。
あの最初の一撃は、カルディオスのものではなかった。
あいつがそんなことをしたはずがなかった。
あいつはおれのところに来てくれたのに、おれは誤解の挙句にあいつを傷つけた。
山を歩いて花を見付けても、飛ぶ鳥の羽の色が綺麗だと思っても、川面を跳ねる魚の鱗の煌めきに目を留めたとしても、海を眺めていても――カルディオスがいないから、あいつがその名前をおれに教えてくれないから、おれの世界には色が戻らないままなのだ。
おれの世界の輝きは、全てカルディオスを通して与えられるものだった。
だからおれはまだ、訪れる寒い季節の名前を、雲から落ちる白くて冷たいものの名前を、知らないことにしているままなのだ。
――だから、だから――おれを殺しに来るのだとしても、魔王を討伐しに来るのだとしても、まずは謝ろうと思っていた。
おれのことを説明しなくて悪かった。
おまえが全部分かってくれていると思って悪かった。
でも助けてほしかったのだ。
それを言うべきだった――ごめん。
おまえを裏切って悪かった。
おまえがあんなことをしたはずがないのに、最も否定してはならないものを否定した。
本当に悪かった。
出来ればもう一度、おれに空気の温度の名前を教えてくれないだろうか。
本当に――本当にごめん。
ルドベキアも、カルディオスも、記憶を対価に捧げると言っていた。
だがまさか、それほど何もかもを奪われるわけがないだろう。
少し忘れている程度だろう。
忘れているなら思い出してもらえばいい。
おれの顔を見ればきっと思い出す。
ルドベキアには腕輪を見せよう、まだ大事にしているのだ、おまえがくれた空だから。
カルディオスには、あいつから聞いた話を、今度はおれから伝えよう。
そうすればきっと思い出す。
だから――
そしてあの日、世界で初めて、救世主が魔王の前に現れた日。
おれは玉座の前に立っていた。
今か今かと待っていた。
そして大広間の扉が開いて、六人の姿が見えて、名前を呼ぼうと口を開いて――
――茫然とした。
ルドベキアも、カルディオスも、まるで訳が分かっていないようだった。
訳も分からず、ただ役目を果たしに来たと言わんばかりの無機質さで、しかしながら役目の意味も分からないといった、戸惑った様子で――、お互いのことも、幾らか警戒しているといった風情で――
おれを見ても、何の記憶も動かされた様子はなく――
嘘だろ。
――対価とは、斯くも跡形なく、全部を奪っていくものなのか。
「……は、はは……」
声が漏れた。
感情の底が抜けた。
――そうやって、おまえたちは最初から、おれの最後の機会も奪っていたのか。
思わず顔を押さえて後退る。
踵が玉座にぶつかった。その軽い衝撃によろめく。
何が起こったのか、起こっていたのか、咄嗟には呑み込めない。
事実を呑み込んで、これを現実にしてはならないとまで思った。
だが、声が聞こえた。
戸惑ったような――それでも戦意のある、尖った声が。
「……おまえが、魔王?」
おれは顔を上げる。
大広間に集まっておれを見据える、六人の救世主たちを見詰め返す。
おれを殺そうと身構えている、大陸から来た英雄たちを。
全部を、おれにとって価値のあった全部を、跡形もなく葬り去ってここに立つ二人を。
息を吸い込む。
背筋を伸ばす。
髪を掻き上げる。
しゃらん、と左の手首で腕輪が鳴る。
――そうやって、おまえたちが全部を放り捨てて忘れてしまったのなら、
もう一度、息を吸い込む。
――おれが全部拾い上げて、もう一度おまえたちに思い出してもらう。
いつか聞いた声が脳裏に甦る。
――笑ってりゃなんとかなることだってあるんだ。
カルディオスがそう言っていた。
だからきっと、これは間違いではない。
あいつはいつも、おれに色んなことを教えてくれていた。
――おれはにっこりと笑う。
唇を吊り上げて、愛想よく、上っ面で。
そして、言う。
――あぁそういえばカルディオスは、他人と話すときに一人称を変えることがあったな、と思い出して――
「――ああ、そうだよ。
ようこそ救世主諸君。僕が魔王、魔王ヘリアンサスだ」
このときから、おれはずっと笑っている。
笑わないでいる方法を、もう忘れてしまったくらいに。
◇◇◇
今、ルドベキアはおれの目の前、階の下に立って、おれを見上げている。
窓際でご令嬢が、今にもこちらに飛び出して来るのではないかと思うほどに身を乗り出していたが、そちらを一瞥もしていない。
――この馬鹿者。この馬鹿息子。
ご令嬢がそんなに大事か。
おれにこれまで何十回と殺されていても、おまえの大事な想い人の父親を殺しても――それでもその恐怖、憎悪を合わせたよりもまだ、おまえはご令嬢のことが好きなのか。
おれは頬杖を突いて、いつもと同じように微笑んで、ルドベキアを見下ろした。
そして、口を開いた。
「――やあ、ルドベキア。具合はどう?」
ルドベキアが、少し首を傾げた。
いつもの――救世主を名乗るようになってからの、喧嘩腰の態度ではなかった。
「あんまり良くない。まだ混乱してる」
ルドベキアはそう応じた。
おれはいっそう微笑んで、頬杖に深く顎を預ける。
「そう。まあ、そんなものかも知れないね。――ああ、そういえば、大丈夫だった? 外に、かなりたくさん、連中が来ていたと思うけど」
サイジュをする連中が、この付近をうろついている。
おれとルドベキアが長いこと一緒にいたから、集まって来てしまったのかも知れない。
ルドベキアの表情が、目に見えて強張った。
さっと顔に影が差したが、彼はすぐに顔を上げた。
「ああ――まあ――うん。でも、これは俺のお役目だから」
そう言って、ルドベキアは両手を持ち上げて、首の後ろで何かを弄った。
おれは眉を寄せる。
――そういえば、今生のカルディオスが創ったらしいあの白い武器は、首飾りに擬態する仕様ではなかったか。
だが、見方を変えれば、ここでルドベキアがおれに武器を突き付けてくるようならば、それは間違いなく、今ここでご令嬢の安全をおれに優先するものとして行動したということ――即ちこいつに掛けられた呪いの特性を鑑みれば、おれに割く感情が、ご令嬢に割く感情に勝ったということに他ならない。
――おれのことを考えて、おれを憎んで、おれを殺そうとするということに他ならない。
それなら、別に、いいか。
そう考えて、おれは頬杖を突いたままでいる。
ご令嬢が、当惑したように全身の動きを止めていた。
ルドベキアを見るその眼差しに懐疑が、懐疑以上に当惑が、当惑以上に恐怖が溢れている。
声も出ないらしい。
ルドベキアは首許から何かを外して、それを器用な手付きで右手で握った。
そして、首を傾げて、苦笑を唇の端に引っ掛けるようにした。
「なあ、ヘリアンサス。おまえは覚えてないかも知れないけど、おまじないがあっただろ。それだよ。それが、今でもちゃんと効いた」
おれの微笑が、一瞬だけ消え失せそうになった。
それを自覚した。
――覚えてないかも知れない? おれが?
綺麗に全部忘れてしまったのはおまえの方だろう。
おれが忘れるはずがないだろう。
おまえのことだ。ルシアナの息子のことだ。
あのとき、生まれたての掌でおれの指を握ったおまえのことを――おれが忘れるはずないだろう。
軽く息を吸い込んで、おれは呟く。
「――まあ、忘れては、いないかな」
「だと思った」
ルドベキアはそう言って、少し俯いた。
そうして大きく息を吸って、もう一度おれを見上げた。
そして、言った。
「ヘリアンサス、悪かった」
おれは頬杖を外して、脚を組んで背凭れに体重を掛け、首を傾げる。
――素直に意外だった。
てっきり、恨み言のひとつも口に出すかと思ったのに。
「へえ? 何が?」
「置いて行って悪かった。一人にして悪かった。
――約束通りに帰らなくて、本当にごめん」
ルドベキアがそう言って、おれは瞬きを忘れる。
相槌を忘れる。
「一年のはずが二年になった。それが、千年になったな。
話してやるって言ってたことも、結局全然話せてないな。
――遅くなってごめん。
今だ。今、戻って来た」
ルドベキアがそう言う。
断固として言う。
おれは徐々に微笑を保つのが難しくなって、唇の端が震えるのを感じる。
「本当に悪かった。
おまえには、俺しかいなかったのに――」
ルドベキアが俯いて言葉を切り、おれはいよいよ、呼吸すら詰まるほどの感情の渦に唇を震わせる。
――あのとき抜けた感情の底が、今戻ってきた。
そして、ルドベキアが顔を上げた。
口を開いた。
「――助けてやれなくてごめん」
「――――」
声が出なくなった。
――本当に些細な一言だった。
だが、おれが何よりも望んでいた、そしてついぞ聞かれなかった、その言葉だった。
唇が震える。
視界がおかしい。目許が熱い。
――なんだ、これは。
「これだけは言わせてくれ――知らなかった。
島にいた間、俺は採珠がどういうものか、知らなかった。これは本当だ」
声が出ない。息が苦しい。
「でも、ちゃんと聞くべきだった。なんでおまえが採珠を嫌がってるのか、ちゃんと聞くべきだった。――聞かなくて、放っておいて、ごめん。おまえがずっと――悪い、本当に、俺には想像も出来ないんだろうけど、ずっと――拷問よりも酷い目に遭ってたのに、気付かなくて、悪かった」
ルドベキアが、おずおずと、階の最初の一段に足を乗せた。
「キルフィレーヴで――悪かった。最初に、戻るのが遅くなってごめんって、そう言うべきだったよな。
それなのに――選りによって――外に出たら駄目だなんて言って、おまえにとっては許せなかったよな」
もう訳が分からない。
なんだこれは。
視界が歪む。
異常に目許が熱い。
――片手で顔を覆う。
それで分かった。
おれは泣いている。
これまで、一度も、カルディオスに裏切られたと思ったときでさえも、泣いたことのない、涙の流し方を知らなかった、このおれが。
――人の気持ちが、おれの両目から溢れている。
ルドベキアも驚いているのかも知れない。
声音が躊躇いがちなものになった。
――変わっていない。あのままだ。
朴訥な、言葉を選びながら話すような癖のある――おれの息子の、あの声だ。
「本当にごめん」
ルドベキアが、呟くように繰り返した。
「悪かった。俺は、おまえに、悪かったと思ってる」
顔を上げる。
ルドベキアはもう、おれと同じ高さの、目の前にまで来ていた。
ちょっと屈んで、ルドベキアはおれと視線を合わせた。
――あの青い目だった。
おれにとっての空そのものの。
「――俺は、おまえに、気持ちを伝えることが出来る。――本当にごめんな」
ルドベキアはそう言って、右手に握っていたものを、そうっとおれに見せた。
あの穴ぐらで、おれに絵具を持って来たときと同じように。
おれは視線を下げて、ルドベキアの掌の上を見る。
――親指の爪ほどの大きさの雫型に整えられた、深い青色の宝石を象嵌した首飾りが、そこに載っている。
目を上げて、ルドベキアの顔を見て、首を傾げる。
おれの目のどこかが壊れてしまったのか、後から後から涙が溢れて視界が定まらない。
声も奇妙に震える。
「――なに、これ」
「瑠璃だよ」
ルドベキアがそう言った。
――おれは息を止めた。
「あのとき教えただろ。――海を超える青だ。この宝石から青い絵具を作るんだ。あの日はおまえのところに持って行けなかったけど……」
困ったように微笑んで、ルドベキアはいっそうの小声で。
「――絵具は買ったんだ。兄貴を引っ張って行って。青い絵具は、さすがに手が届かなかったけど、画布とかと一緒にさ。おまえが気に入るかと思って。でも、それも渡せなかったな」
おれの唇はいよいよ震えて、声が変に引っ繰り返ろうとする。
「――へえ? 僕のこと、覚えてたわけだ?」
「覚えてたよ」
ルドベキアはごく静かにそう言って、掌の上の瑠璃の首飾りを揺らす。
しゃらしゃら、と、金鎖が清かな音を立てる。
「これ、おまえにやるよ。買ったのは俺じゃねえけどな」
「…………」
声が出ない。
ルドベキアは一瞬、困った様子を見せたものの、しゃら、と軽い音を立てて首飾りを持ち直すと、その留め金を外した。
それから大きく息を吸い込んで、覚悟を決めた様子で――今にもおれがその腕に噛み付くんじゃないかと警戒するかのような手付きで――、おれの首に手を回して、その留め金をおれの首の後ろで手早く着けた。
軽い、違和感ていどの重さが、おれの首に掛かった。
そして、ルドベキアはぱっとおれから手を離して、呟くように。
「――腕輪も。……ずっと大事にしてくれてたんだな。ありがとう」
ルドベキアが息を吸い込む。
そして、押し殺した声で囁く。
「……おまえがやったことは、悪いことだ」
おれは首を傾げる。
条件反射の反駁が唇に昇りそうになった。
だがその機先を制して、ルドベキアが呟いていた。
「おまえは、ずっと、子供だったんだな」
「――――」
おれは言葉を失う。
呆気に取られて、何を言っているのだ、と困惑する。
――こんな、これほど永くこの世にいて、そんなわけがない。
だが、ルドベキアの声音には冗談の気配はなく――おれを見て、ふと本音が零れたというような、そんな語調で――
「俺たちは、色んな人と出会ったり、みんなで馬鹿やったりして、大人になってこられたけど、」
おれと目を合わせて、ルドベキアは――いっそ痛ましそうに目を細めて。
「おまえは、ずっと一人でいて、――子供のままだったんだな」
おれはますますぽかんとしてしまう。
微笑はとうに剥がれていた。
「――おれが?」
思わず呟く。
ルドベキアは頷いて、それから一歩下がって、階を一段降りた。
そして、当惑するおれの視線を捉えて、首を傾げた。
平然としているように見えて、少し怯えているようでもあった。
だが――いや、おれには分からない。
おれは、人の表情を読むことが上手くない。
「――ヘリアンサス、おまえがどういうつもりで、ここまでしたのかは知らないけど」
軽く両手を広げる。
徒手を強調するように。
「ちゃんと話そう。最初にそうするべきだったんだ。
ちゃんと話して、出来れば――」
ルドベキアは、おれのための番人は、躊躇うように言葉を切って息を吸い、小さく続ける。
「――出来れば、俺は、ムンドゥスを助けたい」
おれは瞬きする。
――ムンドゥスを助けるということは、それは、おれを消滅させるということだ。
こいつが当初に与えられ、おれから取り上げられた原因となった任の内容、そのものだ。
そうだと分かって言っているのか。
――そう言おうとして口を開く。
だがそれを遮って、ルドベキアが言っていた――いや、ルドベキアは、おれが口を開いたことにすら気が付かなかったのかも知れない。
そう思えるほどに必死な声音で、決死の表情で、語調は捲し立てるかの如きものだった。
「――ヘリアンサス、俺が言いたいことは言った。
おまえがどういうつもりなのかは知らない。でも、答えろよ。
俺が言ったことに、何か言いたいことがあれば言ってこいよ。
――ちゃんと聞いてやる。今度はちゃんと聞いてやる。
もう、」
言葉を切って、唇を噛んで。
「――俺のせいにして押し付けるな、とか――そんなことは言わない。……俺のせいだった――悪かった」
「――っ」
おれは、もう一度、右手で顔を覆った。
もう顔を上げていられなかった。
感情の底が戻ってきたせいで、後から後から人の気持ちが溢れて止まらないのだ。
組んでいた脚を戻す。
右の肘を自分の膝に突いて、右手で顔を覆ったまま、おれは必死に泣き止もうとする。
――だが、出来なかった。
泣いたことがなかったのだから、泣き止み方を知っているはずもない。
それでも必死に息を吸い込み、おれは言葉を押し出した。
「――おれは……」
声が震える。
顔を上げて、揺らぐ視界で、ルドベキアを真っ直ぐに見据えようとする。
人の気持ちが朝陽を反射して、妙に辺りが眩しく見える。
眩しい――眩し過ぎて、これでは目を開けていられない。
唇が震えて、上手く言葉が出てこない。
――何度も言葉を呑み込み、震える呼吸を繰り返してから、おれは呟く。
ずっと昔に、何度も二人で遣り取りしたように。
「……守人ヘリアンサスは、――番人ルドベキアを許す」




