65◆◇――敗戦に終わり、
「怖かったら目ぇ瞑ってろよ。さっさと首を斬ってやる」
カルディオスの断言に、ヘリアンサスの顔が変わった。
武器の異様さへの驚きが拭い去られ、瞬きよりも短い間に、凄絶なまでの嚇怒へ。
「――お断りだ」
同時に、カルディオスが短剣を振り下ろしていた。
ヘリアンサスの言葉を聞く気がなかったのは明白で、そしてその手付きは、今のカルディオスとは違う――短剣というよりはむしろ、子供が遊んで拾って来るような木の棒を、力任せに振り下ろすような、そんな手付きだった。
がんっ! と硬質な音がして、黝い切先がヘリアンサスの喉元、ほんの一インチほどのところで止まった。
見えない盾がそこにあるようだった――短剣の切先が火花を散らし、何もない空間を噛んで押し留められている。
黝い刀身の平が、赤く光を弾いて鈍く光っている。
そうだ、周囲は火の海だった。
燃え盛る炎が辺り一帯を呑み、降る雪も、今や地面に達する前にその熱で溶け消えていた。
熱が地面の上に溜まり、いつの間にかこの場は、汗が滲むほどの気温に達している。
その炎の光を頬に受けるカルディオスが、全体重を掛けて短剣を押し込んでいる。
軋むような音がする。
繊細なまでに鋭い切先が破損するのではないかと俺は思った。
だがそうはならなかった。
軋むほどに痛めつけられているのはヘリアンサスの盾、ヘリアンサスの意思によって硬化し、その喉を守っている空気そのものだった。
短剣が火花を散らす。
いつしか俺は息を止めている。
もしかして――本当にもしかして、このままカルディオスがヘリアンサスの首を落とすのではないかと思った。
首を落とされることが果たしてヘリアンサスにとって消滅を意味するのかどうか、そこには甚だ疑問が残るが、だがあれはカルディオスが創った武器だ。
カルディオスが、ヘリアンサスを殺すものであると宣言したものだ。
俺が息を止めていたのは僅か数秒、そののちに、ヘリアンサスが動いた。
――息を吸い込む。
そして――傍目からは、まるでカルディオスに向かって頭突きをしたように見えた。
身体を跳ね上げて、カルディオスが持つ短剣に、自ら額を突き出したかのように見える――だが、違った。
甲高い音と共に、カルディオスが握っていた短剣が宙に飛んでいた。
鋭く光を弾きながら回転し、放物線を描いて飛んだ黝い短剣が、ぼと、と重い音を立てて落ちる。
何の偶然か、それは俺たちの傍――ちょうど皇太子の足許だった。
カルディオスの両手が赤黒く染まって見えた。
その手が一回りも大きくなったように見え――腫れている。腫れて、内出血を起こしている。
短剣を破壊できないと見たヘリアンサスが、その短剣を握るカルディオスの手を攻撃したのだ。
カルディオスが、咄嗟に手許から飛んだ短剣を目で追う。
そのカルディオスの赤黒く腫れた右手を、乱暴にヘリアンサスが掴んだ。
弾かれたようにヘリアンサスに視線を戻したカルディオスの顔が歪む。
痛みに叫ぶ寸前のように唇が開く。
ヘリアンサスが、掴んだ手を押し遣るようにして、強引にカルディオスを後ろに押し出した。
カルディオスが身体の均衡を失って、尻餅をつくようにして後ろに追い遣られる。
ヘリアンサスはカルディオスの下から這い出して、その場で膝立ちになり、――カルディオスの手を離していない。
敵意そのものといった力を手指に籠めて、ぎりぎりとカルディオスの腫れた手を握りながら、ヘリアンサスの黄金の目が、間近でカルディオスの翡翠の瞳を睨み据えていた。
「――おまえ、」
ヘリアンサスが呟く。
声が震えている。
黄金の双眸が、炎を吸い込んだように赤みを帯びて輝く。
「おまえ、やっぱり、サイジュをしに来たんだな?」
カルディオスが身を捩る。
ヘリアンサスの声など聞こえていないことは明白だった。
――痛いのだ。
ただでさえ痛めつけられた手をがっちりと握られて――痛くないはずがない。
指が、今にも折れんばかりに根元から曲げられている。
俺だって何度も経験している。分かる。
トゥイーディアが、魔法を撃つに撃ちかねて、しかしカルディオスを案じるが余りに震えている。
彼女は賢い。自分が前に出ても事態が好転しないことを、もうさっきの出来事から学んでいる。
――皇太子が、すっ、と膝を折って屈み込んだ。
片腕を失ったとは思えないほど端正な仕草だった。
「いつ気付いたんだ?」
ヘリアンサスが問い詰めている。
カルディオスは半ば立ち上がり、しかしその膝も震え、ヘリアンサスの手から自分の手を逃がそうと必死になっている。
脂汗が浮かんでいるのが見える。
「いつ気付いたんだ? いつからそういう風に見てたんだ?」
ヘリアンサスが詰問する。
空いている手も伸ばして、今度はカルディオスの腕を掴んだ。
さながら、漁網を手繰り寄せるような動きでそうしてカルディオスを引っ張り寄せて、ヘリアンサスが声を荒らげる。
「おまえ――おまえ――」
ヘリアンサスが言葉に詰まる。
しかしまだ何かを言おうとして、
――皇太子が立ち上がった。
片腕がないために、彼が僅かによろめいた。
だがその、残った右手にはあの黝い短剣が握られている。
カルディオスとは違う、彼の見様見真似の握り方とは明確に異なる、訓練を受けた人間特有の握り方で、皇太子が短剣を握っている。
――身分が身分だ、実戦に立つことは禁じられていたにせよ、一国の皇太子が武術の一つも身に着けていないことは逆に不自然だった。
だがそれでも、今の俺が見ていれば、彼がそう頻繁に剣に触れてはいなかったことを察していただろう。
それに多分、彼は短剣は扱い慣れていなかった――
皇太子が足を踏み出す。
血に汚れた、炎の紅蓮を映す銀色の長い髪が翻る。
最初の一歩で、やはり彼はよろめいた。
片腕がないことは――俺も死に際に経験したことがあるからこそ、今だから分かるが――、それだけで、信じられないほど身体のありとあらゆる感覚を狂わせる。
しかも彼は大量に出血した直後だ。
だが体勢を立て直し、一瞥で距離を測った皇太子が、彼が本来持つ優雅さの欠片を残した動きで走り出し――
皇太子の唇が動いた。
その横顔が見えた。
足りない、と、そう呟いた。
恐らく長さのことだった。
今の俺なら分かる、皇太子の身の振り方は、長剣の扱いに慣れたものだった。
大きく六歩で、皇太子がヘリアンサスに――延いてはカルディオスに肉薄した。
構えた短剣を振る。
大きく左上に掲げた短剣を、勢いをつけて振り下ろす――
――その刀身が伸びた。
俺も目を疑ったが、恐らく皇太子本人が最も驚いていた。
濃紫の目が見開かれる。
短剣は瞬きよりも短い間を得て、無骨な長剣へと変じている。
先ほど――この武器が短剣に変じる寸前、生成された直後に象っていた長剣とも、明らかに異なる形だ。
先ほどのあの長剣が、ほっそりとした優雅な輪郭を持っていたのに対して、皇太子の手の中に現れた長剣は無骨で、斬るというより断つことに特化した、重さを強みとするものだった。
その剣が振り下ろされている。
カルディオスに詰め寄っていたヘリアンサスが、ぎりぎりでそれに気付いた。
周りが見えないほどにはカルディオスの振る舞いに腹を立てていたらしいが、迫る刀身にはぎょっとした様子で、飛び退るようにそれを躱そうとした。
――が、躱し損ねた。
黝い刀身が、確かにヘリアンサスの左肩を捉え、そのまま袈裟懸けに、斜めに胸までを斬り進んだ。
「――っ、あああああ!」
ヘリアンサスが叫んだ。
身を捩り、自ら傷を押し広げながらも、それでもヘリアンサスが、がむしゃらな動きで後退り、己の身体を斬り進む刀身から逃れた。
皇太子が追撃しようとして、しかし大きくよろめいた。剣の重さに引き摺られるように、彼の身体が傾いた。
息が荒らいでいる。
肩が激しく上下する。
ヘリアンサスが逃れた先で燃えていた炎が、さながらヘリアンサスに譲るかのように鎮静化し、消えていく。
大火は舞台を象るかのように、俺たちとヘリアンサスを囲んで燃え盛っている。
自ら刀身を逃れたヘリアンサスの身体から、ぼろぼろと世双珠が落ちる。
炎の明かりを反射して白く煌めく世双珠が幾つも幾つも落ちて、ヘリアンサスは更に幾つもの世双珠を吐いて、痛みに身体を折りながらも顔を上げた。
その顔面を、正面から射出された氷柱が殴りつけた。
何もないはずの空中から真っ直ぐに生えた氷柱が、恐ろしい速度と硬度で氷結の腕を伸ばしてヘリアンサスに迫り、その顔面の真ん中、まさに鼻っ柱を、文字通りにへし折った。
がっ、と、声にならない声がヘリアンサスの喉から漏れた。
彼が後ろに、吹き飛ばされるようにして倒れ込んだ。
しゃらしゃらと世双珠がその顔面から溢れている。
ヘリアンサスは顔を押さえ、世双珠に窒息しそうになりつつも再度顔を上げ、
――真っ白な光の鱗片が舞う。
真っ直ぐにヘリアンサスを指差すトゥイーディア、その指先から、幻想的な雪のように光が舞い落ちる。
「お、お、お――」
ヘリアンサスが苦悶の声を上げる。
肉眼では見えないが確実に、ヘリアンサスの内側のどこかには変調を来していたはずだ、そしてその変調は、世双珠を吐きながら再生できる類のものではない。
仰向けに倒れ込んだヘリアンサスが、藻掻くような動きで体勢を変えた。
右腕で胸を掻き毟り、左手で地面を探って前のめりになり、爛々と輝く眼差しでトゥイーディアを見て、
「――――っ!」
トゥイーディアの魔法が掻き消えた。
今度は棄却されたのではなかった。
如何なヘリアンサスも、今や魔力を以てトゥイーディアと魔法を競り合う――その余裕はなかったとみえる。
余裕を失ったヘリアンサスは、その余裕のなさゆえに、単純極まる意趣返しをした――トゥイーディアが、その場に頽れて両手で口許を覆う。
その指の間から真っ赤な血が滴る。
炎の赤い光を受けて、妙に色彩の鮮やかさを失って見える血液が、粘つきながら溢れ、指の間から溢れ、手背を伝って腕に流れる。
「トゥイーディ!!」
俺は思わず悲鳴を上げた。
だがぎりぎりで、状況判断が感情に勝った。
――女王が傍にいる。
女王にとってトゥイーディアは、斟酌の余地のない大罪人であるヘリアンサスを仕留めるに足る魔法を扱うことの出来る、替えの利かない兵卒だ。
ならば女王がトゥイーディアを助ける。
だから俺がトゥイーディアを守る。
心臓が痛むほどに鼓動の数を上げていた。
視線をトゥイーディアから引き剥がしヘリアンサスを見る、トゥイーディアが血を吐いてからの一秒未満。
同時に炎弾が、四方八方からヘリアンサスに向かって降る。
何もない空間がぱっと輝いては煌々と輝く炎弾を吐いていく。
まるで数百人の射手が、ありとあらゆる角度からヘリアンサスに向かって熱閃の矢を射ているかの如き光景。
空気を焦がす炎弾が、無数に降り注ぐ。
ヘリアンサスが両手で頭を庇い、何か叫んだ――声は聞こえなかったが分かった。
「おれのための手品だろう」と、そう叫んでいる。
「――もう違う」
俺は囁く。
それは無意識だった。
その声は俺にも聞こえない。
炎弾が地面を抉る爆音が立て続けに響いている。
耳を聾する大音響。
着弾の勢いに地面が揺れている。
ヘリアンサスの周辺があっと言う間に、陽炎の立つ高温に包まれていた。
地面が土塊を跳ね上げながら抉れていく。
それどころか、着弾に赤く熱されて光を放ちつつある。
カルディオスと皇太子が、堪らずその場から飛び退って距離を置いたのが見えた。
状況判断が勝ったとはいえ、俺が認識したことはトゥイーディアの安全を確保しなければならないというその一点だった。
皇太子のこともカルディオスのことも、まるで見えていなかった。
飛び退った拍子に、片腕のない皇太子が均衡を崩してその場に膝を突く。膝を突いたままじりじりと下がる。
ヘリアンサスが頭を庇って蹲り、熱閃に撃たれて絶えず世双珠を落としている。
そしてその世双珠も、熱閃に撃ち抜かれて砕けていく。
亡霊の声がしては、女王や女侯が、見もせずにそれを打ち払っていく。
だが俺は、亡霊の声に刹那の間魔法を止めていた――止めざるを得なかった。
許しなしには顔を上げることもならない、魔法を使うことなど論外だと、文字通り骨に刻むようにして教え込まれてきたがゆえに。
だがそれも一瞬だった。
亡霊の声はすぐに掻き消えている。
しかしその刹那を拾って、ヘリアンサスが立ち上がっていた。
立ち上がり、この期に及んでまだ左手首を庇いながら、降り注ぐ炎弾を縫うように俺を見て、叫んだ。
「――ルドベキア!!」
炎弾が全て掻き消えた。
圧倒的な魔力量の差で、正面から俺の魔法が叩き潰される。
しゅうしゅうと地面が煙を吐く。
魔法を潰された衝撃に俺の息が詰まる。
――いや違う、それだけではない。
ヘリアンサスが、右手を俺に向けていた。
距離がありながらも、その手指の形はまるで俺の首を絞めているかのようで――
「――っ、う」
実際に、俺の首が絞められていた。
距離を無視して、ヘリアンサスの力が働いている。
無意識に俺の手が自分の喉を掻き毟ったが、振り払うべき掌はそこにない。
ヘリアンサスの不可視の力が、容赦なく俺の首を絞め上げて、いや違う、それに留まらず喉を潰して――
「――あ、っが……」
視界が真っ赤に染まりながら明滅する。
呼吸が出来ない。
それどころか喉が潰れ、血管が破れ、大量の血液が地面を叩いたのが自分でも分かった。
痛みというよりも、氷が脳髄を刺し貫いたような感覚がある。
全ての神経が絶叫する。
だが俺はもう声が出ない。
膝から力が抜けていたが――もはや立っていられるはずもなかったが、膝を折ることも出来ずに喉笛を抉られ続ける。
重傷などというものですらない致命傷。
ものの数秒で、視界と意識が暗転し――
――はっと気付くと、目の前にトゥイーディアの切迫した顔があった。
視界がくらくらするが、その顔ははっきりと見える。
同時に、あぁ良かったと心から思った。
良かった、トゥイーディアは生きている――女王が何とかしてくれたんだな――
無意識に手を伸ばして、その頬に触ろうとする。
その俺の手を、トゥイーディアが血の跡の残る両手でぎゅうっと握った。
親愛の仕草ではなかった。
切迫した声で、トゥイーディアが怒鳴った。
「ルドベキア、立って!」
「――え?」
声が出た。
そのことに驚いて、俺ははっとして自分の首に触れる。
そのときに気付いたが、俺は地面の上に座り込んでいた。
身体の下の地面がぬかるんだようになっていて、それは俺の血液が、大量に流れたがゆえのことだった。
衣服の前半分も、戦慄するほどの血液に濡れて、べたついた気持ちの悪い感触を押し付けてくる。
だが、自分の喉を探った指先は、恐れたように俺自身の頸の骨に触れることもなく、皮膚にぶつかって、ぬめる血液越しに、ややざらついた感触を脳に伝えた。
――治っている。
失血に眩暈がするが、少なくとも傷は癒えている。
間違いなく女王の温情だった。
致命傷を癒すことの出来る魔術師が、女王の他にいるものか。
「どういう、」
混乱したままの俺の手を、立ち上がったトゥイーディアがぐいぐいと引いて、俺を引っ張り立たせる。
俺はよろめきながら立ち上がった。
そのときようやく、俺の耳がトゥイーディアの声以外のものを受け付けるようになった。
爆音と衝撃音が絶えず響いている。
視線を巡らせると、俺が意識を手放した数秒間に何があったのか――いや、数秒間か? 数分か? 俺には分からなかった――、ヘリアンサスは今、カルディオスと正面から向き合っていた。
俺の失神を受けて魔法が絶え、しかしまだなおゆらゆらと熱気の立ち昇る空気の中、ぶすぶすと煙を上げて半ばが灰になったような地面を蹴って、カルディオスが再びヘリアンサスに迫っている。
のちの時代によく見る、勝算の有無はともかくとして戦略ありきのカルディオスの突進とは違う、本当に――子供じみていて切実な――憤恨ゆえの突進だった。
皇太子は俺たちの前にいて、これも俺が失神している間のことだったのだろうが、ヘリアンサスが何かしたのだろう――長剣が彼の手を離れて転がっている。
俺が意識を手放したがゆえに、燃え盛っていた大火は悉くが下火になっている。
僅かに残るその赤い光を受けて、黝い無骨な長剣が、灰に埋もれるようにして転がっている。
そして、疲労と失血のゆえに大きく肩を上下させる皇太子は、それでも真っ直ぐに立ち、長剣は一瞥もせず、右手を持ち上げ、糸を巻き取るかのような動きで、軽く握った拳をくるくると回していた。
それが魔法の行使のための仕草だと分かる。
なぜなら衝撃音を奏でながら、ヘリアンサスの足許の地面が動いている。
ヘリアンサスは、突進してくるカルディオスにも気を取られている様子だったがそれ以上に、変形していく自分の足許に混乱している様子だった。
衝突音が鳴り響き、がらがらと地面が崩れ、あるいは持ち上がり、さながら巨大な蛇が身を擡げるかの如くに、ヘリアンサスの足許に喰らい付いていた。
地面それそのものが意思を持ち、がっちりとヘリアンサスの脚に噛み付く。
そのまま螺旋状に巻き上がり、ヘリアンサスの腰までをも呑み込み――
ヘリアンサスが、その拘束具を蹴散らそうとしている。
だがそれが出来ていない。
明滅する雷光が、絶えずヘリアンサスの横顔を照らしている。
幾本も、角張った煌めきが地面に突き立つ。
女侯が変わらず、夥しい数の雷をその場に落としている。
上空にはなお、黒々と渦巻く雷雲が犇めいており、その分厚さゆえに陽光は遮られ、今の時刻すら定かではない。
――だがそれこそが、トゥイーディアが俺に立てと急き立てた理由だった。
当初に比べて明らかに、女侯の操る落雷の、その標的の精度が落ちている。
威力は遜色ないもの、自然界のものそのままの剄烈なものだったが、弾けるような轟音と爆音を立てて地面を揺らす稲妻は、ヘリアンサスに的を絞って――というよりは、やや広範囲に降るようになっている。
明らかに、魔力切れの前兆だった。
ここまで大規模な魔法を、魔力消費を度外視して大盤振る舞いしてきた、そのつけが回ってきたのだ。
荒れた天候を、女侯自身が操り切れていない。
だがそれでも、その落雷こそがヘリアンサスの反撃を封じている。
目が眩む。
破裂音と共に、目の前に雷光が突き立った。
よろめいて下がる俺の背中に手を当てて、トゥイーディアが俺を支える。
そして呟いた。
「――きみが死んでしまうのではないかと……」
その声が震え、語尾が掠れていたので、俺は息を吸い込んだ。
――大丈夫だ、と言おうとした。
だがそれより早く、カルディオスが最後の一歩を踏み込んでいた。
ヘリアンサスに突進し、肉薄するカルディオスが右手を伸ばす。
あたかも予定調和、地面に転がっていた黝い長剣が浮き上がり、宙を迸ってカルディオスの手に収まった。
その手の中で、再び長剣が形を変える。
今度は単純な形――棍棒のように見えた。
手の中に棍棒が収まるや否や、カルディオスがそれを振り上げる。
赤黒く腫れた両手に痛みがなかったはずがないが、痛みすらどこかに置き去ったような顔をしていた。
今やヘリアンサスは、皇太子の魔法で動いた地面に喰われ、さながら小さな山の上に埋め込まれたかのような恰好になっている。
ヘリアンサスを捉えるために盛り上がったその小さな山の上、斜面を蹴って、カルディオスが渾身の力で棍棒を振り下ろした。
――ヘリアンサスの黄金の瞳には、振り下ろされる棍棒が鮮やかに映り込んでいたはずだ。
ぱぁんっ! と、弾けるような音が響いた。
同瞬、カルディオスの手から棍棒が弾き飛ばされ、くるくると回転しながら放物線を描き、地面の上に落ちる。
落雷がその武器を叩いたように見えたが、黝い棍棒には傷ひとつなかった。
カルディオスが苛立ちそのもの、憤激そのものの叫びを上げた。
言葉になっていなかった。
徒手になった――内出血に腫れたままの両手で、カルディオスがヘリアンサスを殴りつけようとする。
だがヘリアンサスも無傷ではなかった。
その右手首が有り得ない方向に折れている。
赤く煌めく世双珠がぼろぼろと落ちて、その損傷がなかったこととなっていく――
――その世双珠が爆発した。
女王が躊躇いなく、生成された直後の世双珠を通して魔法を使ったのだ。
至近距離で起きた小規模な爆発に、カルディオスが目を見開き、咄嗟に顔を庇って身体の均衡を崩し、斜面を――半ば転落するように――よろめき後退る。
ヘリアンサスもまた、至近距離の爆発を喰らっていた。
なまじ距離が近過ぎたがために、その顔面の半ばがごっそりと欠けているのが見えた。
――半ばが欠けた異様な顔貌が女王を見る。
明滅する雷光がその異形の顔を照らす。
世双珠が溢れる――みるみるうちに顔の形が戻っていく――
「――使うな!!」
ヘリアンサスが叫んだ。
怨嗟というにも余りある、軋むほどの感情の籠もった声だった。
「使うな! 使うな! おれと同じ目に遭ってからにしろ!
それから使ってみせろ! それでも使えるか見せてみろ!」
ぼごっ、と鈍い音がして、遂に皇太子の魔法で築かれた拘束具が崩れ落ちた。
――もはや明らかだった。
魔力量が余りに違う。
皇太子にせよ女侯にせよ、大魔法の連発で魔力は恐らく尽き掛けている。
俺もそうだ。カロックで揮ったものと同等の魔法を既に使った。
如何に俺でももう魔力の底が見えている。
トゥイーディアにしても、魔力を温存せねばならない上に、もう何度も魔法を棄却され、余力は全く無いはずだ。
そして全員が全員、致命傷といって過言ではない傷を既に負った。
魔力は元より体力も血も、失い過ぎるほどに失った。
魔力量にて余力があるのは女王とカルディオスだけだろうが、この二人にせよ負った傷は深い。
もう戦力としてまともに数えられるのは、女王だけかも知れない。
その女王に向かって、ヘリアンサスがよろめきながら距離を詰めようとする。
――俺は無意識に動いた。
失血が祟って頭が働かない中であっても、女王がいなければトゥイーディアの身が危うくなること、もしもこのあと、再びトゥイーディアが致命の傷を負おうものならば、それを助けられるのは女王のみであることは分かっていた。
トゥイーディアが俺の名前を呼んだ気がしたが錯覚かも知れない。
それに少なくとも今は、ヘリアンサスはトゥイーディアへの警戒を怠っていない。
トゥイーディアが魔法を撃つとすれば今ではない。
前に飛び出す。
足許が妙に沈む気がしたのは、そこが誰かの血液を大量に吸い込んでぬかるんでいたからだ。
ヘリアンサスが俺を見た。
顔が歪んだ。
「おまえもどうせ――」
その先は聞こえなかった。
失血にふらつきつつも走りながら俺は右手を伸ばし、近くに転がっているはずの、あの黝い棍棒を手許に呼んでいた。
物体を動かす魔法は、そう難しいものではない。
宙を飛び、風を切って黝い棍棒が俺の手に収まる。
思っていたよりもずっしりと重いが手に馴染む。
だが違う――もっと、一撃でヘリアンサスを止められるような、そんな形をしていてほしい。
そう思うと同時に、掌に掛かる重みに変化があった。
ちらりと手許を見遣る。
棍棒が瞬きのうちに、片手剣の形へと変じていた。
もう驚かない。
つまりこれはそういうものなのだ。
持ち主の意思に応じて姿を変え――
――そして、それだけではない。
殆ど無意識に、俺は魔法を使っていた。
俺が最も得意とする魔法――ヘリアンサスが俺を守ったがゆえに得手とするようになったと言っても過言ではない、熱に関する魔法――
黝い刀身が炎に覆われる。
ごうごうと燃え盛る炎の熱が剣を通じて掌に伝わる。
だが俺は熱によって害されない。
そしてこの剣は――この武器は、手にした者の魔力を底上げする。
それがカルディオスが故意にこの武器に付与した効果であるのか、あるいはカルディオスの潤沢な魔力の恩恵を、こうして享けることになっただけであるのか、それは分からない。
だがともかくもこの武器は、ヘリアンサスを殺すもの――その名に恥じぬ一振りであるらしい。
光を集めるように輝く片手剣を握った俺を見て、ヘリアンサスは立ち竦んだ。
茫然とその炎を見て、それから俺を見て、炎を映す黄金の目を見開いて、もう既に何度も確認したはずのことを――
「――おまえ、おれを殺す気なの?」
ぱちぱちと火の粉が散る。
ヘリアンサスまではあと三歩。
「なんでそんなことが出来るんだ?」
あと二歩。
「酷いと思わないのか」
剣を振り被る――一歩。
このときの俺は、剣なんて触ったこともなかった。
だからたぶん、不格好だっただろうとは思う。
だがそれでも振り下ろした剣は、咄嗟のように――顔を庇うように――掲げられたヘリアンサスの掌を両断し、顔を反らせたヘリアンサスの、その左肩をざっくりと斬り裂いた。
斬り裂かれたその傷が爆音と共に炎上する。
ヘリアンサスが顔を歪めて苦悶に叫ぶ。
「――なんで――なんで――」
力を籠める。
胸の辺りで止まった刀身を、なお斬り下ろそうと体重を掛ける。
熱波が翻る。
髪が靡く。
だが俺は熱によって害されない――そのように、俺が熱さを知ることがないように、他ならぬヘリアンサスが俺を守ってきた。
「なんでこんな酷い――」
ヘリアンサスが叫ぶ。
俺は歯を食いしばる。
食いしばった歯の間から押し出した声は、ずっとずっと、意識すらせずに押し込めてきた本音だった。
「――俺だって酷い目に遭ってきた……!」
命綱一本を括りつけられて海に放り込まれたり、食べ物も満足に貰えなかったり、機嫌ひとつで殴りつけられたり、顔を足蹴にされたり――
――何より、櫃。
あの石櫃。
思い出すだけで震えるほどの恐怖。
繰り返し――幼い頃から繰り返し――
「自分が……自分だけ――」
ヘリアンサスが藻掻き、遮二無二両手を俺に向かって押し出して、身体を斬り進む剣から逃れようとする。
手首でなおもカライスの腕輪が揺れる。
世双珠が幾つも幾つも零れている。
血は出ない。一滴も出ない。
こいつは生き物ではないから。
対する俺は、自分が流した血に塗れてヘリアンサスを斬ろうとしている。
「――自分だけ酷い目に遭ってきたみたいな顔で、大勢殺す権利なんかおまえにないだろう!」
「――――」
怒鳴った俺を、すうっと瞳孔の縮まる黄金の瞳で見て、ヘリアンサスはその瞬間、苦悶すら表情から剥がして、
「――おまえも?」
いっそ静かな声でそう言って、
「おまえ、何年?」
遮二無二動かしていた手を、打って変わって穏やかに動かして、右手で俺の頬に触った。
俺ははっとして、覚えずその顔を見上げた。
ごうごうと燃える炎が、ヘリアンサスの白い頬を赤金色に照らしている。
黄金の瞳にもちらちらと影が動いて、感情が読み取れない。
ヘリアンサスはその瞬間、象牙で出来た精緻な人形のように俺を見て、
「十年? 二十年? そのくらいでしょ」
そして表情が一変する。
憎悪。憤恨。軽蔑。嫉妬。羨望。
――致死量の感情全て。
「――おれは五百年だ」
そして、ヘリアンサスの左手が、俺の右頬を殴り飛ばした。
視界が冗談みたいに回転する。
首が千切れんばかりに痛んだ。
頬が針で刺され続けているように痛い。
吹っ飛んで地面に落ちる――剣からは手を離してしまったらしい。
重々しい籠もった音を立てて、剣は俺から少し離れた場所に落ちた。
「――っ」
ごろ、と転がって、何とか両手を地面に突いて起き上がろうとする。
眩暈が酷い。
自分が回転しているのか世界が回転しているのか、上下左右の概念が曖昧になるような。
無意識に地面を掻く。
熱の籠もった土が、爪の間に入り込む。
咳き込むと、喉から血が出てきた。
ついでに歯も数本、そこに落ちた。
どこの歯が折れたのかは考えないことにする。
口の中に血が溢れて、苦い味に吐き気がする。
思わず顔を顰め、繰り返し繰り返し血を吐く。
粘ついた赤黒い液体が、唇から地面に向かって糸を引いた。
手で口許を拭おうとしたが、痺れたように手が動かない。
片手のみで、ものの十数フィートも俺を吹き飛ばしたヘリアンサスは、激怒そのものの表情で俺を見下ろしていた。
そして何かを言おうとして、
「――ルドベキア、伏せていて!」
響いたトゥイーディアの声に、ぱっとそちらを振り返った。
俺は振り返ることもせず、トゥイーディアの声と言葉に条件反射じみて従って、立ち上がろうと足掻くのをやめてその場に伏せる。
そして、爆発が起こった。
轟音が鳴り響き、地面が揺れる。
耳を聾する大音響に、俺の聴覚が一時的に死ぬ。
閃光が溢れ、視界が真っ白になるほどの明るさに、一瞬をおいて俺の視界が消え失せた。
揺れる地面にしがみ付くようにして顔を伏せ、頭を庇い、巻き上がる熱と黒煙に、俺は息も止めて自分が生きているのかを危ぶむ。
――何が起こったのか。
世双珠だ。
この場には、ヘリアンサスから生成された大量の世双珠が転がっていた。
それが一斉に爆発したのだ。
誰の指示かは知らないが、手を下したのはトゥイーディアだろう。
世双珠全てに自壊を指示する魔法を掛けて、そして自壊していく世双珠が、各々盛大に火を噴いて爆発した。
爆発が拡がり、次々に世双珠が壊れていく。
――どォォし
亡霊の声が聞こえ、俺の背筋がぞっと震えるが、その声もすぐに掻き消える。
世双珠は壊れるとき、火を噴いて壊れる。
そして世双珠は燃える。
――今の俺が、忘れもしないプラットライナで学んだそのことを、しかしこのときの俺は知らなかった。
世双珠については誰よりも詳しかったくせに、世双珠が自壊するときの現象は知らなかった。
だが思えばこれは、世双珠が壊れるときに火を噴いて壊れるこの現象は、もしかしたら獲得されたばかりの性質ではなかったか。
ヘリアンサスは俺の手品を気に入っていたから、それを反映して、世双珠が末期にヘリアンサスに手品を見せるようになったのではないか。
――今の俺ならば、恐らくそう考えた。
だがこのときの俺はひたすらに混乱していた。
しかし一方で、同時に、これが好機とも分かっていた。
――顔を上げる。
目が眩む閃光が断続的に続いている。
周囲は熱の海。
頭上の雷雲ですら吹き飛ばすほどの熱波が充満しているが、しかしトゥイーディアは大丈夫だ。
あの女王が、重要な兵卒であるトゥイーディアをこのような危険に晒すものか。
恐らく、いや確実に、俺がヘリアンサスに斬り掛かったそのときには、他の五人は女王の傍に呼び返されていたに違いない。
――そうでなければ、魔力の光がああも一箇所に集まるものか。
俺の目が、諸島においては気味悪がられ、そしてトゥイーディアを感心させた、魔力を捉える俺の目が、他の五人の無事を俺に教えた。
白熱した光を撒き散らし、この丘陵地帯――もはや見る影もなく大地の形が変わった丘陵地帯の、周囲一帯で世双珠が燃え盛っている。
その只中に立つヘリアンサスの姿が見える。
光に塗り潰されたように、明るさの余りに輪郭でさえも定かではないが、混乱して周囲を見渡し、そしてトゥイーディアを――この大破壊の引き金を引いたトゥイーディアを、真っ直ぐに睨み据えたヘリアンサスの姿が分かる。
――もう考えている場合ではなかった。これしか思いつかなかった。
ヘリアンサスとカルディオスが、どういう関係だったのかは知らない。
親しかったのだろうと思う。
裏切られて逆上する程度には、信頼を寄せていたのだろうと思う。
だが、俺とヘリアンサスの間には、他の誰にも分からない関係がある。
他の誰も到底踏み込めない、名前のつかない、余人からは分からないほどに深い関係が。
その関係の温度は変われど、今もある。
ずっとある。
口を開いた。
熱気が喉を灼いたはずだが、俺が感じたのは僅かな不快感のみ。
濛々と立ち込める土埃に咳き込み、また血を吐いて、しかし俺は――
――ヘリアンサスがトゥイーディアから視線を逸らすとすれば、トゥイーディアのことを束の間ではあれ忘れるとすれば、もうこれしかないだろうと――
叫んだ。
「――父さん!!」
ヘリアンサスが、俺を振り返った。
黄金の双眸が見開かれていた。
悪意も敵意も、憤恨すらもがその表情から剥がれた。
ぽかんとした、いっそあどけないほどの表情――あの地下神殿にいたときそのままの、いやあのときよりも、遥かに情動溢れる穏やかな表情で俺を見て、ヘリアンサスが目を細めた。
僅かに、だが確かに微笑んで首を傾げ、ヘリアンサスが俺に――
「なに? ルドベキア」
そして、トゥイーディアの余儀を許さぬ破壊の魔法が、ヘリアンサスを捉えた。
◇◆◇
これほどの悪意のある裏切りを、おれは知らない。
――ルシアナの息子なのに。おれの息子なのに。
あのとき、生まれたばかりの、小さな掌でおれの指を掴んだ、――あのルドベキアなのに。
あの穴ぐら――おれがずっと閉じ込められていた穴ぐら、あの暗さを、夜というにも余りにも冷たく残酷だったあの暗がりを、それでも辛うじて夜であったというならば、おれにとっての夜のいちばん明るいところ――そう呼ぶに足る、確かな明るさと温かさを齎してくれた、あのルドベキアなのに。
◇◆◇
ヘリアンサスがその場に、殆ど崩れ落ちるようにして膝を突いた。
ぼろぼろとその身体が崩れていく。
不自然なことに――醜怪なことに――身体の末端から崩れていくというわけではなかった。
右肩が崩れ、かと思うと鳩尾の辺りに罅が入り、ぼろぼろと崩れ、穴が開き、間もなくして全身に、ぼこぼこと穴が穿たれたようになっていく。
陶器の人形に穴が開くかの如くに、身体に穴が開いて向こう側が見えるのだ。
その不自然さ、醜怪さが俺の背筋を凍らせたが、同時に目が離せない。
女王が魔法を使っている気配はないが、その損傷が世双珠を生んで回復する様子もない。
――爆発はいつしか絶えていた。
上空の雲も幾許か薄くなり、晴れようとしている。
真っ黒な雲が割れて、鮮やかに深い青い空が、窓ひとつを切り取ったかのように覗いている。
辺りの明るさから推して、今は日が傾きつつある刻限らしい。
雪はいつの間にか止んでいた。
辺りが急に静かになって、耳鳴りがする。
消滅していこうとするヘリアンサスから視線を引き剥がし、目を泳がせる。
少し離れた場所に、トゥイーディアを先頭にして、他の五人がいた――トゥイーディアと女王は立っているが、他の三人は力尽きた様子で座り込んでいる。
トゥイーディアは魔法の行使に、今まさにヘリアンサスを壊していこうとする大規模な魔法、彼女に残る全ての魔力を要求するであろう魔法に集中し、懸命に眉を寄せ、唇を噛んでその魔法を成就させようとしている。
彼女の周囲で、彼女の姿を隠さんばかりに大量に、白い光の鱗片が散っている。
女王が眉を寄せてヘリアンサスを見ており、カルディオスは明らかに度を失っていたが、女侯と皇太子は、半ば以上が決着を確信した表情になっていた。
土埃や血で、全員が汚れている。
爆発が収まってみれば、辺りの様相は酷いものだった。
あちこちに、大きな擂鉢状の爆発の痕跡が残っている。
それ以前に、皇太子の魔法が周囲の地形を一変させていた。
地面のあちこちに亀裂が走り、不自然に盛り上がっている。
トゥイーディアの周囲には、無数の花が散るように白い光の鱗片が舞っている。
解れた蜂蜜色の髪が風に靡く。
舞い落ちる光の鱗片の間から覗く飴色の瞳は一心に、膝を突いて消滅していこうとするヘリアンサスを見据えており――
ヘリアンサスが顔を上げた。
その頬に当たる位置にも、今や罅が走って穴が開いている。
視線はトゥイーディアを向いていた。
この期に及んでの魔法の棄却を恐れて、俺はその場で立ち上がろうと地面を押す。
だがふらついて、手が滑って、思うように動けない。
「――……」
ヘリアンサスが、何か呟いた。
その次の瞬間、俺は目を疑って硬直した。
真っ白な光の鱗片が、ヘリアンサスの周囲で舞ったのだ。
――トゥイーディアが凍り付いた。
トゥイーディアではなかった。
彼女の魔法が、ヘリアンサスの周囲に顕現したのではなかった。
そしてこの場の人間に、彼女のこの独特の魔法が使える者は一人もいない。
この瞬間、ヘリアンサスが――消滅まで幾許もないほどに追い詰められたヘリアンサスが、それでもなお――俺があれだけ教えられ、諭されても、一向に覚えることが出来なかったトゥイーディアの魔法を、完璧に模倣してみせたのだ。
――どうして。何のために。
混乱の余りに俺は息を忘れる。
模倣したその魔法で、ヘリアンサスは何を――
トゥイーディアの唇が震えた。
飴色の双眸が揺れた。
指先が戦慄くように震え、信じられないものを見るかのようにヘリアンサスを見て、トゥイーディアは――
彼女の周囲で舞っていた光の鱗片が、明滅しながら消えていく。
女王が低い叱責の声を漏らしたが、それすら彼女に聞こえていたのか。
トゥイーディアの魔法が終わる。
それは決して棄却ではなく、トゥイーディア自身が、もはや魔法を保てないほどに――
「……可哀想に」
トゥイーディアが呟いた。
声が震えていた。
俺は戦慄した。
――ヘリアンサスは、では、この最後の最後、消滅寸前の瞬間において、あいつ自身の記憶と感情を、全てトゥイーディアに見せたのか。
トゥイーディアが、盲目の友人であるフィロメナさんにしていたように――いや、その更に上位互換。
記憶も、感情も、思考も、全てを共有する魔法。
それを以て、あいつ自身の全部をトゥイーディアに開示したのか。
ヘリアンサスはこのとき、この最後の瞬間に、その全生涯を使ってトゥイーディアを止めたのだ。
それはどれほどだっただろう。
言葉で共有するよりも遥かに深く、まるで自分自身が追体験するようにして、ヘリアンサスのこの数百年の歴史を頭の中に送り込まれるのは――特に、あれほど優しいトゥイーディアにとっては、どれほどのことだっただろう。
「――だまれ」
ヘリアンサスの声が聞こえた。
トゥイーディアの精神が、魔法を保つことが出来ないほどに揺れた結果として、彼女が行使していた魔法が終わる。
ヘリアンサスを自壊させようとする力が失せて、ヘリアンサスの全身が、今度こそ世双珠を生みながら再生しようとしている。
ぼろぼろと世双珠を落とし、欠損した全身を再び獲得しながら、ヘリアンサスが立ち上がった。
震えながら立ち上がり、憎悪に燃える金眼でトゥイーディアを睨み据えて、ヘリアンサスが絶叫した。
「おまえに憐れまれる覚えはひとつもない!!」
しゃくり上げるように息を吸い込んで、ヘリアンサスが叫ぶ。
「そんなことをされて堪るか! 違う、おれは、おれは――」
新雪の色の髪に手を突っ込み、正気を失くしたヘリアンサスが声を限りに絶叫する。
「――おまえを苦しめてやりたい! 分かっただろう、おれがどんな――どれだけ――」
ヘリアンサスが吼えるように言葉を吐き出す。
「おまえたちを同じ目に遭わせてやりたい!」
風が吹く。
ヘリアンサスの髪が巻き上がる。
トゥイーディアの、動揺と悔恨に満ちた声が、言葉にもならない、自分のために千載一遇の好機を逃したことを悟ったがゆえの絶望すら感じさせる声が聞こえた。
それを責める声もあったかも知れないが、聞こえなかった――ヘリアンサスの、痛切な声が俺の耳をいっぱいにしていたがために。
「おれは――狂っていない世界がほしい!」
嘔吐するように言葉を吐き出して、ヘリアンサスが悲鳴を上げる。
「どいつもこいつも、どうしておれを苦しめる!」
そしてヘリアンサスが俺を見た。
正気の欠片もない瞳が俺を見た。
俺は咄嗟に身を起こして後退ろうとしたが――出来ない。
身体が動かない。
ヘリアンサスの作為ではなく、もう身体が動かないほどに痛いのだ。
息が震える。
動けないまま呼吸ばかりを荒らげる俺に向かって、ヘリアンサスがよろめくように足を踏み出した。
一歩、二歩、よろめいた歩調が定まる。
真っ直ぐに、迷いなく、この世で最も正しい動作であるかのように俺に歩み寄って――
ヘリアンサスが膝を突いて、俺と視線を合わせた。
あの地下神殿でよく目を合わせていた、その高さで再び目を合わせたヘリアンサスの黄金の瞳に、俺の強張った顔が映っている。
そしてヘリアンサスは手を伸ばし、指先で俺の頬に触れ、まるで懇願するように。
「――おまえは違うだろう?」
首を傾げて、炎が炎のままで凍り付くことがあるとすれば、きっとこんな温度なのだと思える声で。
「ルドベキア、おまえは違うと言ってくれ。そうじゃないといけない。そうじゃないとおかしい」
繊細なまでの仕草で俺の頬を撫でて、ヘリアンサスが懇願していた。
「ルドベキア、おまえがこの世にいようがいるまいが、それは関係ないんだ。おれがおまえを愛せるのであればどうでもいい。
――だから、おれが愛せるおまえでいてくれ」
俺が想像したこともない程に重く、深い感情が、俺が存在も知らなかった感情が、ヘリアンサスの声を震わせている。
「約束を破らないでくれ。破るくらいならそこで死んでくれ。死んで約束を守れなくなったのなら、その約束は果たされなくても生き続けるだろ? その方がよっぽど愛するに足る」
俺が約束を破ったことが、どれだけ重い罪だったのか。
「他に心を割かないでくれ。おれが一番に考えるのはおまえなんだから、おまえもおれのために生きてくれ。それが無理なら死んでくれ。おまえがもう何者のためにも生きられなくなったなら、おれはおまえを殺したことで満足できる」
ヘリアンサスの指が俺の頬を滑って、肩を掴んだ。
「他の何かに殺されるくらいならおれに殺されてくれ。おまえの命の有無を決める、その大きな権利を他の何にも持たせないでくれ」
膝を突いて、俺の肩を掴んで、ヘリアンサスが懇願する。
もう目は合っていなかった。
ヘリアンサスが、いっそ項垂れるかのように深く、頭を下げていたからだ。
敬意の表れでもなく、謝罪でもなく、もう目を合わせていることさえ苦しいのだと言わんばかりの――
「――おれのためのおまえでいてくれ」
ヘリアンサスの声が震えている。
俺の息は荒らいでいる。
それは罪悪感のゆえか恐怖のゆえか、あるいはそのどちらもが理由だったのか。
俺はもう自分で自分の感情を追い掛けることすら出来ない。
「おれを殺そうとするのはいい。でも他の奴のためにそんなことをするのはやめてくれ。他の奴に唆されておれを殺そうとするのはやめてくれ。おれのことを考えて、おまえのために、おれを憎んで殺してくれ。――それが出来ないなら死んでくれ。おれに殺されてくれ」
ヘリアンサスが顔を上げて、目が合った。
金の瞳は本当に、今までに見たことがないほどに苦しげだった。
「おれは、おまえのことを考えておまえを殺すから」
そう言って、その声は呟くように小さく、しかし輪郭のはっきりした声で――ヘリアンサスは、今度は両手で俺の頬を撫でて、退廃的なまでに美しく顔を歪めて――
「――ちゃんと殺してやるから」
俺は動けなかった。
頭の奥が麻痺したようだった。
ただ、本当に俺を殺すことでヘリアンサスが腹を収めるのなら、それでトゥイーディアがヘリアンサスを壊すことが出来るようになるならば、もう殺されてもいいかと半ば以上考えていた。
ヘリアンサスが手を動かして、ぽんぽん、と、撫でるように俺の頭を叩いて――
ぱんぱんっ! と、連続した破裂音が轟いた。
同時に弾けるような熱を感じて俺ははっとする。
誰の魔法かは分からなかったが、誰かが、俺とヘリアンサスの間で小さな爆発を起こしたらしい。
光と熱に、ヘリアンサスが驚いた様子でぱっと立ち上がり、弾かれたように後ろに下がった。
そして、五人の魔術師がいる方向を見る。表情が激烈に動く。
そちらに向かってヘリアンサスが手を振り上げようとする。
――雷鳴が轟く。
女侯が、底の尽きつつある魔力を振り絞って、再び天候を動かしているのだ。
細い雷光がぱりぱりと落ちる。
五人分の魔力の気配がその場を席巻する。
魔力の尽きつつある大魔術師たちが、決着の未了を見て取って、再びヘリアンサスを壊そうとし始めたのだ。
それが分かっていながら、俺は手を伸ばした。
ヘリアンサスを追い掛けるように手を伸ばし、痛みに息を詰めながら立ち上がる。
そして、もはや倒れ掛かるようにして、ヘリアンサスの腕を、他の五人に向かって伸ばされた腕を、両手で掴んだ。
ヘリアンサスが俺を見た。
何か言おうとした――その言葉を待たず、俺が告げた。
「――いいよ、おまえのための俺でいてやる」
ヘリアンサスが、呆気に取られた顔をする。
その表情を見て、俺は砂を噛むような虚しさを感じながら――
「だから、これから島に帰ろう」
ヘリアンサスが瞬きする。
俺は、言葉でヘリアンサスを殴るようにして、続ける。
息が荒らぎ、声は切れ切れになる。
それでも伝わるよう、懸命に――一世一代の皮肉を籠めて、続ける。
「俺がずっと一緒にいてやるよ。だから地下神殿に戻ってくれ。あそこで、ずっと、二人でいよう。俺が死ぬまで一緒にいてやる。おまえのために生きて死んでやる。だから、今から、あそこに戻ろう。――俺に、戻って来てほしかったんだろ?」
言い切った俺を、尋ねるように語尾を上げながらも返答を確信している俺を、慄然とした黄金の瞳で凝視して、ヘリアンサスは――
「――違う!!」
叫んだ。
悲鳴だった。
「違う、そうじゃない――」
苦労して、俺は表情を動かした。
笑ってみせた。
それが笑顔に見えたかは知らないが、それでも精一杯の皮肉を籠めて、笑ってみせた。
「――どこが違う。ずっと一緒にいてやる、おまえのための俺でいてやる」
「違う!」
叫んで、ヘリアンサスは俺の腕を振り払い、よろめく俺を、まるで得体の知れないものであるかのように見て、
「――もうあんな風に閉じ込められるのは嫌なんだ」
絞り出すようにそう言った。
――その声。
あこがれと、羨望に、熱を帯びたその声。
「太陽は毎日昇るものだって、朝は眩しいものだって、昼間の世界は明るいものだってやっと知ったんだ」
奪われ続けたものを数え上げ、その全部へ、痛いほどのあこがれと愛しさを籠めて。
「雨が降ることも――遊んでいてもいい雨もあって、逃げなきゃいない雨もあるってことも、今はもう知ってるんだ。空の色が変わることも、風は気持ちがいいものだってことも、地面はいくらでも歩ける広さがあるんだってことも――おれは初めて知ったんだ!」
ヘリアンサスが叫んでいた。
今までで、最も切実で悲痛な声音だった。
――その頭上に空がある。
窓一枚を切り取ったように覗く、残酷なまでに青い空が光っている。
「寒さの後には春がくるんだって、春の後には夏になるんだって、夏の後には秋がくるんだって教えてもらった! 花のひとつにすら名前がある、森の中ですら木の名前が違う、――空気の温度にすら、空の色にすら名前がある!
――全部、どうして奪われなくちゃならない!」
ヘリアンサスが絶叫する。
この世の理不尽に悲鳴を上げている。
「おれがあんな狭いあなぐらに押し込められて、おれの犠牲の上でおまえたちが幸せになっていく世界で、――それでも空が青いだなんておかしいだろう!」
両腕を広げ、世界の広さに異議を唱えるかのように天を仰ぎ、ヘリアンサスが怒鳴る。
「贅沢だ! 全部、この世界は――全部こんなに贅沢で、どうしておれにはその恩恵がない!」
奪われ続けたものへの渇望を、喉が裂けんばかりに叫ぶ。
「全部おれに押し付けて! のうのうと幸せになろうとしたのはおまえたちだろう!」
泣き崩れる方が余程よかった。
慟哭よりもなお生々しい、折れたあこがれが焦げついた怨嗟の声を上げ、ヘリアンサスが怒号を上げる。
「おれの犠牲の上に成り立った豊かさなら、おれにはそれを奪う権利があるはずだ!!」
――俺は息を吸い込んだ。
「なんで……」
なんで気付かない。
――あんな風に言いながら、おまえが一番に考えてるのは俺のことなんかじゃない。
この世界で生きていきたいんだろう、おまえ。
――おまえはもう、おまえのことを一番に考えるようになってる。
だから俺のことも、もう解放してくれ。
自由にさせてくれ。
それが我侭だということも、罪深いということももう十分過ぎるほどに分かった。
だがそれでも、俺にも奪われてきたものがあるのだ。
望むものがあるのだ。
――生きていきたい、他の場所が俺にはあるんだ。
吸い込んだ息を吐き出して、俺はかつての俺の父、あるいは俺の兄に向かって――もはや天と地ほどに離れた無理解の断絶を挟む守人に向かって、全身の痛みも呑み込んで叫んでいた。
「――おまえが不幸だろうと、俺たちが幸せだろうと、――それでも空は青いだろ!!」
「狂ってる!!」
ヘリアンサスが叫んだ。
次の瞬間、ヘリアンサスの足許で地面が割れた。
◆◆◆
半ば以上制御を失った雷光が踊り狂う。
ヘリアンサスを呑み込む位置に、大地の裂ける大音響と共に口を開けた奈落はしかし、ヘリアンサスを落とし損ねた。
何もない空中を踏んでその場に留まったヘリアンサスの足許から、半透明に透ける巨大な蛇が躍り上がり、小柄な彼を一呑みにしようと口を開ける。
だがその蛇が一秒を置いて、まるで巨大な質量を身体の中に流し込まれたかのように、透ける肉片を弾けさせながら爆散する。
ヘリアンサスが転ぶような足取りで、見えざる床を踏んで奈落のこちら側へ足を乗せる――
――その目の前に女王が立った。
ヘリアンサスが女王を睨み据え、手を振り上げる。
その動作を合図に、女王の右腕が地面に落ちる。
重い音を立てて腕が地面に落ち、その腕を覆うかのように夥しい量の血が地面を叩き、僅かな窪みに溜まって池となり、女王の足許を汚す。
だがそれでもやはり、顔色ひとつ変えずに、女王は。
「――与えられなかったのならば天を恨め。
天運あっての世の権利じゃ。
――天運の無きに抗おうとするならば、悲運を今さら嘆くでない。見苦しゅう騒ぐでない」
女王が遂に、己の治癒を後に回した。
止血のみを施して血の奔流を止め、淡紅色の冷徹な眼差しでヘリアンサスを侮蔑も露わに見据え、女王が左手の指を端麗に上げる。
「――目障りじゃ」
――俺の目には見えた。
ヘリアンサスと女王の、真っ向からの魔力勝負。
己の治癒さえ後に回し、人の身に享ける上限の魔力の、その全てを振り絞って、女王がヘリアンサスの無尽蔵の魔力を、この一瞬のみにおいて上回ろうとする。
その意義は明らかだった。
キルディアス侯が、負傷の後遺症と疲労にふらつきながらも、薄紫の瞳を眇めてヘリアンサスを見て、右手を振り上げている。
煌めくばかりの魔力の集中――彼女の魔法の、まさに粋。
荒れ狂う雷光全てを目晦ましとして、そのうちの一筋だけが、精緻な魔法の制御を受けて、真っ直ぐにヘリアンサスに向かって降り注ぐ。
その一筋を、ヘリアンサスは逃れられない。
ヘリアンサスの動きの全部を、曲がりなりにも世界の双子であるヘリアンサスの動きを、このとき女王が封じていた。
彼女の潤沢な、尽きることを知らない魔力の、その底でさえも浚う勢いで魔力が消費され、それでも足りぬ僅かの丈を、彼女の稀代の魔法の才のみで埋め合わせ、ヘリアンサスが足掻く動きを封殺している。
だがそれでも、ヘリアンサスには魔法がある。
世界に愛されるがゆえの、熾烈極まる魔法が反撃の手段として残される。
ヘリアンサスは天を仰ぎ、降る雷光を認め、その一秒にも満たぬ間、彼が何よりも嫌う痛みを齎すその一筋の雷光に注意の全てを集中させ――
――直前の遣り取りがヘリアンサスの動揺を誘っていたのか、彼は明らかに視野狭窄を引き起こしており――
何の合図もなかったが、だが、犬猿の仲とはいえ、何年も互いに功を競い相手を何よりも意識してきた、その長年の経験こそが、トゥイーディアに最後の合図を送った。
キルディアス侯と完璧なまでに息を合わせ、トゥイーディアが動いていた。
トゥイーディアが、右手を振り上げた。
二度としくじるまいと誓ったかのように、ぎゅっと結ばれた唇。決然とした瞳。
いちどは憐憫を催したヘリアンサスを、今度こそ壊し切るために、トゥイーディアが白い光の鱗片を従える指先を、微塵の迷いも自分に許さずヘリアンサスに向ける――
だが土壇場で、最後の最後に、ヘリアンサスがトゥイーディアの魔法に気付いた。
絶望の呻きは皇太子の喉から上がったが、だが女王が絶望を許さなかった。
俺の目にも、女王の光り輝くばかりの魔力が薄れ、尽きつつあるのは見えていた。
しかしそれでもなお、女王がヘリアンサスの魔力を――トゥイーディアの魔法を相殺し、棄却するに足るだけの魔力を、技量とは懸け離れた力任せの荒業で、抑え込んだ。
瞬きの十分の一ほどの間を置いて、全く同じくカルディオスも動いていた。
カルディオスの膨大な魔力が女王を助け、ヘリアンサスはこのとき、トゥイーディアの魔法を棄却する手段を、一秒にも満たぬ短い時間のみではあれ、失った。
万回試して一度訪れるか否かといった、奇跡じみた瞬間だった。
ヘリアンサスは積念の激情のゆえに冷静さを失い、そしてここまで追い詰められた。
女王とカルディオスがヘリアンサスの反撃を抑え込み、ヘリアンサスの頭上からは、眩く輝く雷光が降り注ごうとしている。
そしてその雷光が繋いだ隙に、トゥイーディアの魔法が、真っ直ぐにヘリアンサスに向かって迸っている。
――そう、本当に――このときだけだったのだ。
これが、最初で最後の機会だったのだ。
ヘリアンサスはトゥイーディアの魔法を見ており――表情を動かすほどの短い時間すらも経過しないその刹那――
女王ですら見逃した――いや、女王が禁ずる必要すら感じていなかっただろう、その方法で魔力を動かした。
――魔力が見える、魔法が見える、その俺だからこそ分かった。
分かって、背筋が粟立った。
ヘリアンサスがトゥイーディアを傍に転移させようとしている。
魔法が躱せないのならば、傍に置いて盾にしようとしたのか――あるいは他にもっと何か、直情的な動機があったのか――
皇太子の魔法そのものの魔法を以て、ヘリアンサスがトゥイーディアを傍に呼び、盾にしようとしている。
それが成就すればトゥイーディアは、自分自身の魔法に撃たれて消滅する。
だが同時に、トゥイーディアは頑として魔法を解除しなかっただろう――彼女の魔法はそもそもが、皇太子の魔法から派生した亜種だ。
同種の魔法には、彼女の感覚も鋭敏に働いたはずだ。
だからこそ、恐らくこのときトゥイーディアは、自分に対してどういう魔法が働こうとしているのかを、瞬きの間もなくとも感じ取っていた。
そして、魔法を揮うその意識を、僅かも揺らがせてはいなかった。
――ゆえに、ヘリアンサスの魔法が成就したとして、トゥイーディアと同時にヘリアンサスも、さすがに万策尽きて消滅したはずだ。
魔法を使うトゥイーディア自身が消滅するとすれば、もしかするとトゥイーディアの魔法はヘリアンサスを壊すには足りずに中断されることになったかも知れないが、だが少なくとも、十分すぎる可能性がこのときにはあった――ヘリアンサスを壊し切る、その可能性が。
だが、それはすなわち――
――駄目だった。
看過できなかった。
許容できなかった。
時間の感覚が失せる。
全身の痛覚も置き去りにして前に飛び出す。
手を伸ばす。
音も聞こえなくなるほどのその一瞬。
俺はトゥイーディアを――俺の〈最も大切な人〉、朝のいちばん眩しいところを――ヘリアンサスの魔法から、延いては彼女自身の魔法から庇うために、渾身の力を籠めて抱き寄せ、抱き締め、俺自身の魔力で叩き折るようにして、彼女の魔法を打ち切らせていた。
――俺の耳に音が戻る。
時間の感覚が戻る。
落雷の光。
ヘリアンサスが雷光に撃たれる。
だがそれも無駄になった――すぐにまた、世双珠を零しながら再生していくことはもう分かっている。
トゥイーディアの魔法が消える。
解れた蜂蜜色の髪が、俺の頬に当たっている。
激しい心臓の鼓動が、お互いのどちらのものなのかも分からない至近距離で、だが確かに命を刻んでいる。
刻んでいるのは多分、命の残り時間の秒読みだと思った。
「――なっ……」
トゥイーディアが、喉に詰まった声を上げた。
同時に周囲で、全ての人間が俺に向かって怒号を上げていた。
だがその中でも、トゥイーディアの声が鮮烈だった。
「なんてことを!!」
トゥイーディアの飴色の目が、間近で俺を見上げて憤激に燃えている。
声が震える。
汗ばんだ額――汚れのついた頬――怒鳴る唇。
どうしようもなく好きな人。
「どうしてこんな――」
「おまえがいない人生は俺が嫌だ!!」
声を荒らげるトゥイーディアを遮って、俺も怒鳴った。
もう滅茶苦茶だった。
自分が全てを台無しにしたことは分かっていたが、それでも怒鳴らずにはいられなかった。
俺がヘリアンサスを壊そうとしたのは、あいつがトゥイーディアを傷つけたからで――俺の良心は壊れてしまっていて、その残骸の真ん中にはトゥイーディアがいて――トゥイーディアがいないならば、いなくなるならば、もう何もかもに意味がなかった。
そう思っていても、それでもどうしても、声は震えて目頭は熱くなった。
「俺がすぐに死ぬにしても、おまえがいない人生は一瞬だって嫌だ!!」
「だったらおまえを先に殺しておくべきだったな!」
皇太子が怒鳴った。
もはや、殺意に近い激情がその声にも眼差しにも籠もっていた。
トゥイーディアはびくりと震え、信じ難いものを見るような目で俺を見上げて息を呑み、そして、幾許か小さな声で。
「――きみには明日があります――」
「要らない!」
俺は言下に叫んだ。
トゥイーディアを抱き締める腕に力を籠めた。
華奢な身体が俺の腕の中で震えていた。
その所以を俺は知らないし、知りたくなかった。
「おまえがいないなら要らない。明日があるなら――」
みっともなく鼻を啜って、俺は呟く。
「――明日があるなら、それはおまえに会うための日がいい」
荒れ狂っていた雷光が、ちらつきながら消えていく。
雷鳴の轟きは間遠になり、雲が急速に吹き散らされて晴れていく。
陽光が――傾き、西に落ちつつある陽光が、雲の間から斜めに差し込み、橙色の光で世界を彩る。
斜陽に影が長く伸びた。
周囲の風景は絵画じみた鮮やかさで息づき、その瞬間は息を呑むほどに美しかったが、だが――
「……要らないならば、それは、――良かった」
トゥイーディアが小さな声で呟いた。
その声に、堪えられない哀惜が滲んでいた。
「――もうここまでのようです」
口を開いた奈落の手前で、ヘリアンサスが、最後の落雷が与えた損傷すらも全て無かったこととして、傷ひとつない姿で立ち上がっていた。
トゥイーディアは震えていた。
大量の血が落ちた地面に、半ば横たわるようにして俺に抱き締められている彼女が、唇を噛み、ヘリアンサスを振り仰ぐ。
その表情に、鮮烈な後悔と憤激が閃いている。
天候の変化はそのまま、キルディアス侯の魔力枯渇を示していた。
皇太子にしても、俺にしても、トゥイーディアにしても――もう限界だ。
カルディオスが最後の抵抗じみた動きで、俺が取り落としたあの黝い片手剣を持ち上げたが、その重さに負けたように膝を突いた。
女王でさえも片腕を失い、最後のヘリアンサスとの真っ向勝負のために魔力の殆どを失って、俺たちにもう勝ち筋はない。
それが分かる。
キルディアス侯の薄紫の双眸が、再度の呪いを生むほどの怨嗟を以てヘリアンサスを睨め付けていた。
皇太子の、残った片手の拳が震えている。
彼が何事か一言を呟いて、それが彼の妻の名前だと教えられずとも俺は察した。
カルディオスは片手に黝い剣を握ったまま、歯を食いしばり、隠すこともなくぼろぼろと涙を零している。
何度か立ち上がろうとして、力が入らない様子で転びそうになり、唇を噛んで嗚咽を堪える。
女王もまた、俺を見て、トゥイーディアを見て、そして振り返り、激烈な眼差しを日差しに細めるヘリアンサスを見て、
「――朕に敗戦があろうか」
度し難い何かを畏れるように、そう呟いた。
――日が傾く。
冷えた風が吹く。
この場に溜まる熱気が風に押されて動く。
炎は全て絶えた。
初春の空気が、しんしんと冷えて夕暮れに向かって滑り落ちようとしている。
俺は息を吸い込み、その息を止め、ヘリアンサスの姿を凝視していた。
――狂ってる、と、そう思った。
ヘリアンサスは世界をこそ狂っているのだと言ったが、絶対に違う。
狂っているのはヘリアンサスだ。
この世の理不尽を呪う気持ちは分かるが、だが、過ぎた罰を是正として求めたヘリアンサスの方こそ狂っている。
幾つも国を攻め落とし滅ぼした、あいつの所業は狂気の沙汰だ。
俺があいつのところに戻ってやらなかったから――それは分かっている。
だがヘリアンサスはどのみち、俺がいようがいるまいが、もうあの地下神殿に戻るつもりはないのだ。
俺には、あいつが愛せる俺でいることを求めておいて、一方であいつは俺に譲る気がない。
あいつが突き出した矛を収める気はもうないのだ。
そのためにトゥイーディアがこれほど傷付くことになった。
そして今、トゥイーディアはとうとう死のうとしている。
――許せなかった。
このまま死んで終わりにすることが、俺にはどうしても受け容れられなかった。
――絶対に間違っている。
トゥイーディアが負けて終わることは間違っている。
俺が最後にトゥイーディアを負けさせたようなものだ――だから俺は、その責任を取らなければならない。
心臓が痛いほどに脈打ち、それ以前に全身が耐え難いほどの激痛に侵されていたが、だが俺はそれを忘れた。
「……まだだ」
呟く。
額の辺りが痛むほどの、感情が思考を促す熱。
俺たちではヘリアンサスに手が届かない。
あいつが世双珠だから。
世界の双子だから。
世界そのものに手厚く守られ、無尽蔵の魔力を与えられているから。
だったら、
「――手の届くところに……」
引き摺り下ろせばいい。
呟きは無意識。
――思った通りにいかなかったり、何か困ったことが起こったりしたときは、全部、俺たちに押し付けるんだ。
頭の中でチャールズの声がする。
俺の兄貴の、あの真剣な声。
――そういうときはこっちに逃げて来るなりなんなりして、……この兄貴を頼るんだぞ。
止めていた息を吐く。
「まだだ」
呟いて、しかし俺はすぐに、叩き付けるようにして宣言していた。
「――まだだ――もう一回だ!」
トゥイーディアが俺を見上げて、目を瞠る。
もう誰も立てない、もう一回も何もない――そう訴えようとしていることが分かる。
だけどそれは俺も分かっている。
だからこそ、俺は叫んだ。
「ムンドゥス!!」
ヘリアンサスが、ぎょっとしたように目を見開いた。
――「よべばいく」、あの子はそう言った。
今朝も――あのときも。
古老長さまが、〝えらいひとたち〟が、あの薄墨色の化け物に姿を変えたあのときも、あの子はそう言った。
そして古老長さまは、あのとき――
「――ムンドゥス! 『対価』だ!」
――『対価』を以て、我々の魔力の丈を補うことも出来よう?
あのとき、古老長さまはそう言った。
俺は覚えている。
そして、
「……なあに、ルドベキア」
雪より静謐な声がして、長い黒髪を足許に流す、罅割れに覆われた姿の少女が――世界そのものが、どこからともなく、その場の地面を踏んで現れた。
もう一回だ。
俺は決着に待ったを掛ける。
盤上を引っ繰り返すに足る一手を、ここで世界に要求する。
――ヘリアンサスを、俺の手が届くところまで引き摺り下ろす。




