64◆ ――敗戦に武器
俺たちはこのあと千年に亘って、死に際にはヘリアンサスから甚振られることになるわけだが、このときが、ヘリアンサスが俺に暴力を振るったその最初のときだった。
もはや雪原は見る影もない。
ヘリアンサスの足許から死に物狂いで逃げ出した俺が起こした大爆発が、辺り一帯の雪を溶かしたからだ。
下草も爆発の勢いで根こそぎになり、黒々とした土が抉れて、爆発で吹っ飛んで焦げた下草と斑模様を描いている。
そこに雪が降る。
斜めに激しく降る雪が、地面に触れてはそこに残る熱に溶ける。
俺が形振り構わず周囲一帯を爆発させてヘリアンサスの足許から逃れたこともあり、他の五人は後退ってヘリアンサスから距離を置いている。
辺りは昼日中とは思えない薄暗がり。
どこから湧いたものなのか、黒く分厚く積み重なった雲が、激しく雪を降らせながら雷光を煌めかせている。
耳を劈く大音響と共に、繰り返し繰り返し稲妻が至近距離に落ち、その衝撃は地面が揺れたように感じるほど。
肌がびりびりと震える。
この雷は明らかに魔法の為せる業だが、それがキルディアス侯の魔法に因るものなのかヘリアンサスの魔法に因るものなのか、俺にはもう分からなかった。
分かることとすれば、あの破天荒なカルディオスの魔法を学ぶことが出来るヘリアンサスならば、キルディアス侯の魔法など、いとも容易く模倣することが出来るだろうということのみだった。
落雷に明滅し、吹雪が閃く視界の中で、目を疑う光景が展開されている――地面が捥げている。
地面が、文字通り目に見えない巨大な匙で掬い上げられるかの如くに持ち上がり、捥がれ、ヘリアンサスに向かって投げ付けられている。
それはまさに、かつてパルドーラ領を襲った魔法の再現に他ならなかった。
が、その皇太子の魔法でさえ模倣したのか、あるいは魔力量の暴力に任せてのことか、押し固められて投げ付けられる地面、あるいは地面の下から掘り起こされたかのような岩石の塊を、ヘリアンサスは殆ど狂気じみた目付きで睨み据え、投げ返すようにして離れたところに放り投げるか、あるいはその場で砕くか、どちらかの対処を以て当たることを防いでいた。
岩石の塊が砕かれる度に轟音が鳴り響き、あるいは的を逸れて地面に落ちた巨大な土塊が、地鳴りにも似た地響きを立てる。
落雷が掠め、風を切って地面が投げ付けられ、砕かれた土塊や岩の欠片が散らばるヘリアンサスの足許が、断続的に炎上する。
それは俺の魔法だったが、結実しているとは言い難かった――魔法が成就するその瞬間に、ヘリアンサスが悉く俺の魔法を潰している感覚がある。
閃く赤い炎が、立ち上がったと思うと消えていく。
ヘリアンサスは今や、落雷に曝され、文字通り地面を投げ付けられてはそれを防ぎ、足許の俺の魔法さえ殺しながら、しかしさすがによろめき、足許の悪さにふらつきながら、一歩一歩、踏み締めるようにして前に進んでいた。
目指す先は俺ではなく、女王の後ろで顔を強張らせているカルディオスでもなかった。――トゥイーディアだった。
トゥイーディアは、この混戦の場にあって、明滅する雷と吹雪のために、他の四人の居場所の把握すら定かではない俺が、どこに立っているのかを明確に把握している唯一の人だった。
――当然だ。
彼女は俺の心臓よりも俺の命に近い。
俺に幸福をくれた、俺の壊れた良心の残骸の真ん中に立つ、絶対に失いたくない人だ。
彼女は今、俺よりも後ろに立ち、吹雪と稲光に目を細めながら、ヘリアンサスに狙いを定めた魔法の間合いを計っている。
魔力を温存しながらも、悪逆を尽くし過ぎた、ヘリアンサスという敵を討伐するその瞬間を計っている。
――今のトゥイーディアならば間違いなく、こういった局面にあって、後ろに立っていることは絶対にない。
前に出て、最前線でヘリアンサスと殺し合ったはずだ。
だがこのときのトゥイーディアは伯爵で、良くも悪くも、自分自身が後ろにいることにも慣れていた。
そして、救世主として積み重なった自負や責任感も、このときのトゥイーディアにはまだなかった。
そのトゥイーディアに向かって、ヘリアンサスが、憎悪そのものといった表情で、じりじりと距離を詰めている。
それが、トゥイーディアの魔法こそが自分にとって消滅の決め手となるものだと把握しているがゆえのことなのかは分からなかった。
冷静な理解を動機と思うには、ヘリアンサスの表情は余りにも嫌悪と憎悪に満ちていた。
――母石を壊すならば、トゥイーディアの魔力も魔法も足りない。
だがヘリアンサスにならば、先程のヘリアンサス自身の反応をみても、トゥイーディアの魔法と魔力はなんとか届く。
母石とヘリアンサスはふたつでひとつだが、全く同一のものではない。
だが本当にそれはぎりぎりのことで――大量の魔力を要することだと直感的に理解したからこそ、トゥイーディアも魔法の無駄撃ちを控え、後ろに留まり間合いを計っているのだ。
どこから掘り起こされたものか、巨大な岩石が幾つもヘリアンサスに向かって飛んでいく。
風を切り吹雪を散らしながら、ヘリアンサスを圧し潰すために真っ直ぐに宙を飛び――止まる。
幾つかの岩石が、見えざる大きな掌に受け止められ、そのまま投げ返されたかのように、宙に跳ね上がって明後日の方向へ撥ね返った。
残る岩石は、その場で轟音と共に砕けていく。
ヘリアンサスが、目の前を振り払うような仕草をしたまま、何かを叫んだ。
――聞こえない。
砕けていく岩石の断末魔のために、その声が聞こえない。
雷鳴が轟き、雷光が間近に閃く。
ヘリアンサスのすぐ傍に突き刺さった稲妻に、ヘリアンサスがよろめき、眩い閃光を厭うように顔を覆う。
やはり何かを叫んでいるが、聞こえない。
ヘリアンサスが、なおも一歩進む。
皇太子が地面を捥ぎ、抉ったがために、地面は決して平らではない。
地面に口を開けた巨大な穴を避けて、ヘリアンサスがトゥイーディアとの距離を詰めようとする――
俺は殆ど無意識に、ヘリアンサスの足許よりも数歩先の部分に向かって魔法を撃った。
轟音と共に爆炎が閃き、土塊を噴き上げながら火炎が踊り上がる。
ヘリアンサスがまた何かを叫んで両手を振り、左腕に煌めく腕輪が炎の明かりを反射して白く輝き、炎がぱっと散る。
掻き消され、ちらちらと小さく閃くのみとなった炎を跨ぎ超えて、ヘリアンサスが更に前に進もうとして――
――その前に、つい、と、女王が立った。
俺からすれば、女王が唐突にその場に立ったように見えた。
ヘリアンサスが驚いたように息を呑み、一歩下がる――
――その右腕を、す、と静かに手を伸ばした女王が取った。
まるで、麾下に褒賞を与えるような手付きだった。
ヘリアンサスが身震いしたのが分かったが、女王は当然ながら、それに頓着しなかった。
ただ婉然と微笑んだ。
そして口を開いたが、そのよく透る声は俺にも聞こえた。
「――この身体、造りは人間と同じか?」
そして次の瞬間、ヘリアンサスの腕が崩れた。
――朽ちるというのとも違う。
そもそもヘリアンサスの身体は朽ちるものではなく、ゆえにキルディアス侯の魔法を以ても朽ち果てさせることは不可能だろうが、女王の魔法はそれとは違う――
――戻している。
ヘリアンサスの腕を、再生される前の状態へ戻している。
それを見た瞬間に俺は、ムンドゥスが、この世界そのものが保証したヘリアンサスの無事は、本当にあの一瞬だけのことだったのだ、と確信した。
そうでなければ、女王といえどもヘリアンサスを傷つけることが出来たはずがない。
ヘリアンサスの右腕が、瞬く間に消失し、そして煌めく世双珠が零れ、右腕が再生しようとし――
「ならぬ」
女王が素気なく呟いた。
世双珠の生成が断絶される。
右腕の再生が止まる。
だがそれは、ヘリアンサスの特性が、――俺にももう認めざるを得なかった――“肉体の損傷と引き換えに世双珠が生成され、損傷がなかったこととなる”、その特性が失われたわけではなかった。
女王が、ヘリアンサスに起こる全ての変容を〈止め〉ている。
ヘリアンサスが、その瞬間、あどけないまでに驚いた、ぽかんとした顔を晒した。
信じられない様子で自分の右腕があったはずの場所を見下ろし、そして黄金の目を上げ、目の前に凛然と、気負いなく立つ女王を見て――
「――なんで……」
叫んだ。
その声は聞こえた。
「なんでもっと早くおれのところに来なかった――」
――俺の心臓が痛んだ。
ヘリアンサスは採珠を嫌がっていた。
「番人ルドベキアは、守人ヘリアンサスを置いて行かない」と言って、俺を引き留めようとしたこともあったほどに。
仮にヘリアンサスに人並みの痛覚があるとするならば、そうだろう、痛かっただろう。
採珠というものがもしも、ヘリアンサスを故意に傷つけて世双珠を採取するものであったならば、その苦痛は想像を絶するものだっただろう。
――だからか。
だから、今、あらゆる変化が禁じられ再生を止めた右腕を見て、その喪失感よりも何よりも先に、世双珠が生成されないことを、もっと早くにその魔法が自分に掛けられていれば採珠も行われなかっただろうことを、真っ先に考えたのか。
――俺の心臓の痛みはいっそ胸を抉られるほどだったが、そしてその痛みが罪悪感のゆえなのか憐憫のゆえなのか、俺自身にすらもはや分からなかったが、女王にその情動は欠片もなかった。
凄絶に整った顔貌をヘリアンサスに向け、首を傾げ、淡紅色の瞳を長い睫毛に翳らせて、女王は冷淡に。
「――朕がどこへ向かうかも、何を為すかも、全てこのディセントラが決めること」
赤い唇から滑り落ちていく言葉の冷徹さ。
「そしておまえは、その朕の血肉を削ぐにも等しいことをしたのだ。
――生きてはいないと聞いた。果たして命なくて痛みを感じるものか懸念もあったが、おお、苦痛を感じるならば重畳じゃ。――おまえが殺した朕の臣民は万に千を重ねる以上の数に昇るぞ。
その全ての断末魔の分も苦しむが良い」
そして、ヘリアンサスが絶叫した。
だが、声は聞こえなかった。
――唐突に、ヘリアンサスの周囲の空気が、一切の変化を受け付けなくなったようだった。
音も通さず、突然に鋼鉄にも勝る不変を付与された空気が、ヘリアンサスの僅かな挙動を拾って、がりがりとその身体を削る。
それどころか――もはやどういった魔法を使っているのか、俺にも分からなかったが――その空気の体積が増していく。
まるで、ヘリアンサスの身体が巨大な万力で締め上げられていっているようだった。
ヘリアンサスの両脚が押し潰されていく。折れるというのも違う。一切の変容を受け容れることを禁じられた空気そのものが、凄まじい圧力と化して、ヘリアンサスの身体を圧迫し、圧縮し、小さく小さく圧し潰していくかのよう。
音は聞こえない。
音が空気を伝うことすらも、女王が許していない。
ヘリアンサスの身体が、そのとき、空中に磔になっていた。
脚を失ってなお落下すら許されず、宙に吊り上げられたような状態で、腰までが潰れ、ひしゃげ、圧縮されていく。
ヘリアンサスは生き物ではないから、血は出ない。
世双珠の生成も止められている。
だが痛みはないわけがなかった――ヘリアンサスが絶叫している。
声を出すことも禁じられてなお、吼えるように何かを叫んでいる。
嘔吐の音が聞こえた。
つん、と鼻に突く臭いがする。
見ずともそれが、カルディオスが余りの光景に嘔吐したものだと分かった。
空中に磔にされ、身体を圧し潰されていくヘリアンサスの姿は、それが人間の格好をしているだけに、正視に耐えない醜怪さを持っていた。
――どォし
また、声が聞こえた。
あの人たちの、〝えらいひとたち〟の声――だがそれもすぐに、狙い澄まして降った雷光が直撃して消えていく。
キルディアス侯だ。
彼女もまた、暴力という言葉でさえも生温く感じるほどの女王の魔法に顔を顰めつつ、しかし仇であるヘリアンサスへ寄せる憐憫など欠片もなく、正確無比に魔法を使った。
女王はまじまじとヘリアンサスを見ている。
身動きも取れず、胸辺りまでもが凄まじい勢いで潰れていくヘリアンサスもまた、苦痛と憤激の熱が溢れる黄金の瞳で女王を見ており――
俺の目に、はっきりと、魔力と魔力の競り合いが見えた。
片や女王の、人の身が享ける上限の魔力。
そして片や世界の双子――その片割れの、無制限に注ぎ込まれ続ける魔力。
それがぶつかって、
――弾けるような音がした。
同時に、どう、と、その場にヘリアンサスが落ちて倒れ込んだ。
紙一重ではあったのだろうが、魔力の競り合いにおいてヘリアンサスが女王に勝った瞬間だった。
だが両者の差は明らかで、傷一つなく佇む女王に対して、地面に落ちたヘリアンサスは、もはや頭部と、左腕と、胸から上――その部分しか身体を残していなかった。
そしてなお、女王がヘリアンサスの再生を妨げている。
ヘリアンサスが左手で地面を掻き、動こうとした。
戦慄くような動きで、ヘリアンサスが辛うじて顔を上げた。
地面に這い蹲る格好になったヘリアンサスが、吹雪を映す黄金の両眼で女王を見上げた。
魔法を打ち破られた衝撃があったにせよ、女王はそれをおくびにも出さなかった。
顔色一つ変えず、女王が俺を振り返った。
さすがに、俺であっても、その意味は違えなかった。
――ヘリアンサスは、人を殺し過ぎた。
国を滅ぼし過ぎた。
そして何よりも、トゥイーディアを傷つけ過ぎた。
罪悪感も憐憫もあれど、躊躇は過ぎた。
片手を上げて、振り下ろす。
ヘリアンサスの喉元の辺りが光った。
それは白熱した温度に耐えかねて空気が発光するものであり、一瞬後、影も喰い尽くす白光が、ヘリアンサスを包み込んで弾け、轟音と共に大火が爆発した。
ヘリアンサスが動いた。
俺の見間違いでなければ、魔法の行使のために動いたのではなかった。
何か小さなものが、ヘリアンサスから離れる方向に放り投げられた。
だが俺はそちらを見られなかった。
魔法の規模としては、カロックを襲ったものとほぼ同等だった。
俺の身の内の魔力がごっそりと削り取られていく感覚。
熱と光を撒き散らし、一国を滅ぼすに足る熱量が燃え盛る。
そしてその魔法を、女王が見事にヘリアンサスの周囲のみに留めている。
そのほかには熱を伝播させず、苦も無く俺の魔法を止め、折り畳むようにして熱の密度を上げていく。
球形に閉じ込められた炎が、目が痛むほどの白さで燃え盛る。
眩い光の中心にあって、ヘリアンサスの姿はもう見えない。
あるいは、再生を妨げられている以上は既に消失しただろうか。
「――あぁ、」
皇太子の、嘆息じみた声を俺は聞いた。
「さすがは魔王だ」
そうだ、あのとき彼も、これと同じ魔法を見た。
足音が聞こえ、俺のすぐ隣にトゥイーディアが走って来た。
蜂蜜色の髪に雪片がついている。
強張った白い頬に、炎の光が照り映えている。
飴色の瞳は真っ直ぐに大火の中心、ヘリアンサスがいるはずの方向を見ていた。
――優しいトゥイーディアが、平然とヘリアンサスを見ていたはずはない。
ありとあらゆる災厄の引き金を引いた仇敵であり、排除すべき害悪であると認識していてもなお、彼女のことだから心を痛めたはずだ。
だがそれでも、トゥイーディアは彼女らしい迷いのなさで動いた。
そして、トゥイーディアが魔法の行使のために指を上げ、
――その瞬間、感じた。
視線。
ヘリアンサスが、炎を通してトゥイーディアを見ている。
咄嗟に俺が動いたのは十割が保身ゆえの反射で、トゥイーディアに死んでほしくない、彼女がいない世界の空気なんかは死んでも吸い込みたくはないという、甚だ自分勝手な思いのためだった。
トゥイーディアの肩を掴んで引っ張り寄せる。
彼女が驚いたように俺を見て、俺に凭れ掛かる形で倒れ込んだ一瞬後、トゥイーディアが立っていた場所に、俺の魔法の意趣返しのような熱閃が叩き込まれて地面が抉れた。
高く跳ねた土塊が、俺の頬にもぶつかった。
掌でトゥイーディアの顔を庇いつつ、俺はヘリアンサスがいるはずの方向を振り返る。
――ここまでして、それでもまだあいつは魔法を使うのか。
いや、だが、この状況、女王がいなければ俺たちは総崩れの道を辿ることは自明だ。
ヘリアンサスの無制限の再生を妨げているのは女王だし、ヘリアンサスの身体の殆どを削ったのは女王の魔法だ。
魔法を撃つ余力があるならば、どうして女王を狙わない。
怪訝を覚えたものの、誓って、俺はヘリアンサスを燃やす魔法は緩めなかった。
だが次の瞬間、俺の魔法が吹き飛んだ。
間違いなくヘリアンサスが俺に競り勝ったがゆえのことだった。
炎が掻き消えて下火になる。
魔法を強制的に解除された衝撃に息が詰まる。
炎の向こうを見ていた俺の視線が空を切った。
それはヘリアンサスが、俺が想定したほどの大きさを保っていなかったがゆえだ。
――確かに俺の魔法は、ヘリアンサスを燃やし尽くす寸前だったのだ。
女王がヘリアンサスの再生を留めていたことも相俟って、ヘリアンサスは――いやもう、この状態のものをヘリアンサスと呼ぶことが出来るのか――、今や眼球一つと、その周辺に僅かに残った肉片のみとなっていた。
炭化する寸前の肉片に覆われた眼球、黄金の虹彩が煌めくその眼球が、それこそ一個の世双珠のように、爛々と視線をトゥイーディアに注いでいる。
「――死んだ?」
囁くようなカルディオスの声がした。
彼がにじり寄るようにして、俺たちの中の先頭付近にまで出た。
それはカルディオスの、友情の残骸が為せる行動だった。
裏切られた痛みを簡単に呑み下せるような大人ではなかったこいつが、ヘリアンサスが死んだことを確認しようとしたがゆえの。
「アンス、死んだ……死んだの?」
「さすがに……」
キルディアス侯の声が、少し離れたところから聞こえた。
雷が遠ざかり、遠雷の響きとなる。
上空を覆っていた黒雲が、ほんの僅かに薄らいだ。
雪が降る。
「いや、まだだ」
皇太子が断言した。
ぼごっ、と、ヘリアンサス――ヘリアンサスに残った眼球一つの傍の地面が隆起して、そのまま眼球を呑み込もうとしたが、忽ちのうちにその地面が元の形に戻る。
「――死んでいるなら、なぜ魔王の魔法が中断されたのです」
皇太子の言葉に、トゥイーディアがもういちど指を上げる。
白い光の鱗片が舞い――しかしその魔法が掻き消される。
同時に、舌打ち。
――女王が、苦り切った顔でヘリアンサスの眼球を見下ろし、舌打ちを漏らしていた。
それは取りも直さず、これまでずっとヘリアンサスの再生を妨げていた彼女の魔法が、遂に破られたことを示すものだった。
――世双珠が溢れる。
これまでに見たことのない数の、千にも万にも昇るだろう数の世双珠が、唐突にその場に溢れ返った。
しゃらしゃらと音を立てて互いにぶつかり合いながら、色とりどりの世双珠が、煌めきながら地面を覆うように溢れ、後から後から生成される世双珠に押されて地面の上を流れる。
その勢いは、ヘリアンサスのすぐ目の前――文字通り眼球の前に立っていた女王が、後退って距離を置いたほどのものだった。
その女王の足許を、世双珠が埋め立てるようにして流れ、溢れていく。
女王は鬱陶しそうに世双珠を足で払い、距離を置く。
そして、溢れる世双珠の源泉に当たる場所から、ぼこっ、と、白い腕が突き出した。
――息を呑んだのは、その場のほぼ全員。
細い腕がゆらゆらと揺れ、続いて頭が――元のように新雪の色の髪を備え、黄金の双眸を戴いた、ヘリアンサスの頭部が突き出す。
続いて肩が、胸が――世双珠の海に溺れていた人間がそこから抜け出してくるかの如くに、傷一つない四肢を備えたヘリアンサスが、溢れる世双珠の中から立ち上がった。
大きく呼吸をし、息を吸い込んだかと思うと息を詰まらせ、出来上がったばかりの色の薄い唇から、青い世双珠を一つ吐き出す。
気持ち悪そうに掌で口許を拭って、――ヘリアンサスが顔を上げる。
膝までが世双珠に埋まったまま、ヘリアンサスが真っ直ぐにトゥイーディアを見ていた。
その周囲の空気がふわっと靡いて見え、直後にヘリアンサスは元のような衣服を纏っている。
ヘリアンサスが軽く首を振る。
――俺には明瞭に分かったし、他の大魔術師もそうだっただろう。
――ここに溢れる世双珠は、ヘリアンサスの意思一つで動く。
ヘリアンサス自身が世双珠なのだから、何よりもヘリアンサスの意思に従う。
つまり今、ヘリアンサスは、無数の――万にも昇る武器の中に立っているようなものなのだ。
その事実に頭を押さえられ、俺たちは動けない。
しばらくトゥイーディアを眺めたあと、ヘリアンサスが、唐突に視線を落とした。
ざくざくと――さながら、膝まで積もった雪を掻き分けながら歩くようにして――足を踏み出し、少し歩いたところで膝を屈め、ヘリアンサスがしゃがみ込む。
手を世双珠の海の中に差し入れて、何かを探るような仕草をする。
そして立ち上がった。
「――――」
俺は息を吸い込んだ。
見間違いではない――見間違いであればいいと心から思うが――、ヘリアンサスは、今、世双珠の海の中から、あの腕輪を――最後の日に俺があげた、カライスのあの腕輪を拾い上げた。
俺がヘリアンサスに火を点けたあの瞬間、では、ヘリアンサスは、あの腕輪を放り投げたのか。
燃えればただでは済まないあの腕輪を、咄嗟に安全圏に逃がしたのか。
――どうしてこの期に及んでそんなことをする。
ヘリアンサスが俯いて、左の手首に腕輪を着け直した。
それから、腕輪に傷がついたかどうか、検めるような仕草をする。
俺の呼吸はいよいよ苦しくなったが、すぐにヘリアンサスは顔を上げた。
顔を上げてトゥイーディアを睨み据える、その表情は憎悪そのもの。
「……おまえ」
ヘリアンサスが呟く。
雪が降る。
いくらか勢いは弱まった。
荒れ果てた地面と世双珠の海に、しんしんと雪が落ちてくる。
「おまえ、あっちは助けて、おれは殺すのか」
また、ヘリアンサスがそう言った。
俺には意味が分からない。
恐らくトゥイーディアにも分かっていない。
だがヘリアンサスは、ぎらぎらと輝く黄金の目でトゥイーディアを見て、右手を持ち上げて弾劾の仕草で彼女を指差し、もはや叫ばんばかりに言葉を続けていた。
「なんでだよ。理由を言ってみろよ。不公平だと思わないのか。おれを――」
肩を震わせて、ヘリアンサスは、それこそ血を吐くように。
「――おれを助けなかったくせに、全部おれに押し付けてたくせに――、おまえ、何の権利でそこにいるんだよ!」
ヘリアンサスが歩き出した。
世双珠を掻き分け、カルディオスの方へ――延いてはそのやや後ろに立つ、俺とトゥイーディアの方へ。
その視線が翻って俺を見た。
ヘリアンサスの唇が歪んだ。声が震えた。
「――ルシアナはこんなの、一度もしなかった」
世双珠を蹴り分け、ヘリアンサスがカルディオスの目の前に立つ。
そして瞬きして、カルディオスを見た。
カルディオスは絶句していた。
さすがに――眼球一つのあの状態から、五体満足の状態へ復活したヘリアンサスの人外の所業を、呑み込み切れていないようだった。
カルディオスの驚愕と恐怖の表情を黄金の瞳に映して、ヘリアンサスは手を伸ばし、彼の肩に手を置いた。
そして、低く呟いた。
「――やられた側には、やり返す権利がある。教えてくれてありがとう」
ぎゅっ、と、カルディオスの肩を掴んで、ヘリアンサスは目を伏せる。
「おまえがサイジュをするなら、最初から、あんなに気を回すんじゃなかったな」
そして、ヘリアンサスが腕を引いた。
ぶちぶちぶち、と、有り得ないほどにおぞましい音が上がった。
筋が断たれ、血管が千切れ、骨が折られる凄絶な音が。
――けたたましい悲鳴が上がった。
それはトゥイーディアの声だった。
カルディオス本人は声も出せない様子だった――それはそうだろう。
カルディオスの左腕が、その根元から引き抜かれて、ヘリアンサスがそれを、ぽい、と足許に放った。
夥しい血が地面を叩いた。
カルディオスの半身が真っ赤に染まる。頬に血が飛ぶ。
ヘリアンサスの全身もまた、その瞬間に返り血で真っ赤に染まる。
特に手が、指先までもが滴るほどの血に濡れる。
その指先を持ち上げ、ぽたぽたと落ちる血の滴を一瞥して、ヘリアンサスは平然と。
「――おまえ、人間で――血も出るし、良かったね」
瞬間、カルディオスは、思考が追い着かない様子で茫然とヘリアンサスを見た。
「――え、……は、あ?」
それから地面に放り投げられた自分の左腕を、肘の辺りが曲がり、無理に引き抜かれたがために筋が伸びてしまったようなその腕を眺め、それから自分の左肩の辺りを見て、どうして自分の腕があそこにあるのだろう、というような顔をして――
――叫んだ。
痛みに火が点いたようだった。
倒れ込むようにカルディオスがその場に膝を突き、全身を痙攣させ、喉が裂けんばかりに悲鳴を上げる。
血が流れる。
真っ赤な血が尽きない。
カルディオスの全身の肌が白い。
トゥイーディアが前に出た。
この瞬間の彼女が、ヘリアンサスの存在を忘れ切っていたことは明白だった。
今のトゥイーディアとは違う。このときの彼女は軍人ではなかった。
この局面にあって、弟子の安否こそが最も重要になってしまったことを責められない。
咄嗟に彼女を引き留めようとした、俺の手が空を切った。
トゥイーディアがカルディオスに駆け寄ろうとして、だがさすがに土壇場でヘリアンサスのことを思い出したのか、あるいは単純に弟子から危険を排除しようとしたのか、トゥイーディアの手許で真っ白な光の鱗片が散った。
――その魔法をヘリアンサスがへし折る。
真っ向から、魔力量の暴力で以てトゥイーディアの魔法を潰して、そしてヘリアンサスが血に濡れた手を伸ばし、トゥイーディアの手を握り、
「――トゥイーディア!!」
一呼吸の間もなく、ヘリアンサスがトゥイーディアの左腕を引き抜いた。
血霞に風景が翳る。
俺の視界はその瞬間に真っ赤になった。
膨大な量の血が地面を叩く。
耳鳴りがして音が聞こえなくなった。
トゥイーディアは悲鳴を上げただろうが、だがそれも聞こえず、俺は気付けば走り出し、トゥイーディアの腕――さっきまでトゥイーディアの肩についていたはずの、今はただだらんとぶら下がるだけの腕――を、無造作に引っ提げたままのヘリアンサスの、その横面を思い切り殴り付けていた。
ヘリアンサスがよろめいて倒れる。
トゥイーディアの腕が、身体から離れた腕が、その拍子にヘリアンサスの手を離れて地面に落ちた。
世双珠の海の傍に倒れながら俺を見て、ヘリアンサスはさあっと目許に怒りを昇らせた。
だがそれももう気にならない。
頭の中が沸騰している。
――どうすればいい。
トゥイーディア。
あんなに血が出ている。早く止めないと死んでしまう。
俺の腕をあげたい。
駄目だ、こいつが邪魔だ。
ヘリアンサスが邪魔をする。
早くこいつをどうにかしないと。
トゥイーディア。
倒れたヘリアンサスに馬乗りになる。
耳鳴りが酷い。
視界が狭まっているのが自分でも分かった。
加えて眩暈がする。
繰り返しヘリアンサスを殴り付ける。
俺の拳が火花を散らして、殴る度にヘリアンサスの頬から世双珠が零れる。
ヘリアンサスが何か言おうとしていたが、俺にそれを聞く気がなかった。
ひたすらにヘリアンサスを殴る。
頭が熱い。
トゥイーディア。
あの庭園で、段差を越えるときなんかに、俺にお遊びみたいな紳士の仕草を求めて、よく差し出してくれていた左手。
俺に花を指差して教えてくれていた左手。
夜中に舞踏会の真似事をしたときに握った――温かいあの左手。
ヘリアンサスなんかが奪っていいはずがなかった。
ヘリアンサスを殴る手が痛い。
殴る相手の硬さに負けて、関節から血が出ていた。
手が一回り大きくなってしまったような、そんな妙な感覚がある。
それが分かって俺は動揺する。
怪我をした左腕をあげて、果たしてトゥイーディアは喜んでくれるだろうか。
ヘリアンサスが遮二無二手を上げて、ひたすら殴る俺の拳を遮った。
ヘリアンサスの手は血塗れになっていたから、生温い、べたついた、怖気を振るうような感覚があって、俺の背筋がさあっと冷え、鳥肌が立った。
ぺっと口の中から世双珠を吐き出して、ヘリアンサスが怒鳴る。
「――この馬鹿息子!」
「そんなんじゃない!」
俺も怒鳴り返した。
眩暈が酷かった。
トゥイーディア、トゥイーディアは大丈夫か。
どうしてヘリアンサスはさっさと消えてくれないんだ。
ヘリアンサスに遮られ、握られた拳を自由にしようと藻掻く。
血でぬめるがなかなか手を引き抜けない。
ヘリアンサスもまた、馬乗りになった俺の下から抜け出そうと足掻いていた。
爛々と輝く瞳が俺を睨んで、ヘリアンサスはまるで、それがこの世界の全部の価値を決める玉条であるかのように、
「――おまえはルシアナの息子だろう!!」
右手が自由になった。
俺の手にも血の汚れが移っている。
ヘリアンサスを殴る。
ずきずきと拳が痛む。
とにかくこいつをどこかにやって、トゥイーディアの無事を確保しないと。
俺に殴られて、がくん、と反れた顔を元に戻して、また世双珠を一つ吐き出して、ヘリアンサスが怒鳴る。
「ルシアナの息子だから助けてやったのに!」
「頼んでない!!」
叫んだ。
――俺は生まれてすぐ、本当なら殺されるはずだった。
それをこいつが助けた。知っている。
こいつは俺の命綱だった。分かっている。
だが違うのだ。
殺されているべきだったのだ。
俺が殺されてさえいれば、俺がトゥイーディアの人生に現れなければ、彼女はもっと穏やかな、彼女が乗り越えられるだけの困難しか用意されていない、そんな人生を歩いたはずだったのに。
俺が彼女と出会って恋をしたそのせいで、俺が一国を焼き滅ぼし、トゥイーディアにあんな顔をさせることになったのだ。
俺が生きていることよりも、トゥイーディアの心が平穏であることの方が、ずっとずっと価値があることなのだ。
彼女に出会えたこと、恋が出来たこと、それら全部をこのうえなく幸福に思う俺なんか、最初からいない方が良かったのだ。
左手も自由になった。
だが直後、ヘリアンサスが唐突に、それまでとは次元の違う力で俺を押し遣り、俺がヘリアンサスの上から突き飛ばされた。
間髪入れず立ち上がったヘリアンサスが、そのまま俺の首を絞める。
「――――っ」
息が詰まる。元より上がっていた心拍数が要求する空気が尽きる。
頭が危険な冷え方をしていく感覚。
眩む視界の中でさえ、煌々と光る黄金の双眸。
「――ルシアナが」
ヘリアンサスが呟いている。
「ルシアナが、あんなに」
藻掻く。
ヘリアンサスの手を振り解こうとする。
直後、ぱぁんっ! と、激しい破裂音がして、ヘリアンサスのすぐ後ろで雷光が地面に突き刺さった。
肌がびりびりと震え、さしものヘリアンサスの掌の力も弱まる。
そして更に一瞬後、半ば透ける白い身体を持つ巨大な猫が地面の下から踊り上がり、ヘリアンサスを横から掻っ攫うようにして咥え去った。
俺の喉を絞めていた手が離れる。
ヘリアンサスの爪が最後に頸の皮膚を掻いたがそれだけだ。
「――は?」
喘ぎながら茫然と声を漏らす。
――なんだあれは。首を絞められたがゆえの幻覚か?
いや、どうでもいい。
トゥイーディアは。
立ち上がろうとしながら振り返り、俺は霞む視界でトゥイーディアを捜した。
だが、俺が立ち上がるよりも早く、トゥイーディア本人が俺に駆け寄り、俺に両手を伸べて手を貸し、よろめく俺を立ち上がらせた。
「――え?」
思わず、間抜けな声が口から漏れた。
立ち上がり、まだなおふらつきながらも、俺は自分の手を握るトゥイーディアの両手を見下ろしてしまう。
ついでに、思わず、地面に落ちたままのトゥイーディアの腕を見た。
そこにあった。
大量の血を撒き散らして、地面に落ちたトゥイーディアの左腕はそのままだ。
――どういうことだ?
トゥイーディアは僅かに震えていた。
だがそれでも気丈に、右手で俺の首筋を撫でてくれる。
大丈夫ですか、と訊いてくれる声が聞こえたが、俺はそれに答えるどころではなかった。
思わずトゥイーディアの左手をぎゅっと握って、だがすぐに自分の手が血で汚れていることを思い出してその手を離し、衣服でごしごしと手を擦ってから、もういちど、トゥイーディアの左手をそうっと握った。
そうして、トゥイーディアの飴色の瞳を覗き込む。
――夢幻の類ではなかった。
それは確実だ。
なぜならトゥイーディアの半身が、べっとりと血に汚れている。
この量の血液を失ったのかと思うと眩暈がするほどの血が、トゥイーディアの左半身を濡らしているのだ。
衣裳も左腕の部分は破損してしまっているし、何よりも顔色が悪い。
土気色になった顔色は失血ゆえだろう。
「……トゥイーディ?」
語尾を上げて呼び掛けた俺の意図を察したのか、トゥイーディアが頷いた。
こくこくと、繰り返し何度も頷いて、彼女も咄嗟には言葉を作りかねた様子で口籠ってから、答えてくれる。
「大丈夫――大丈夫です。陛下が、カルと、私の」
「……陛下……」
思わず鸚鵡返しにし、俺は顔を上げて周囲を見渡す。
そしてそこに、ヘリアンサスを殺すための六人が勢揃いしていることを、初めて認めて瞬きした。
先ほどまでは少し離れた場所にいた女侯も、皇太子も、そして女王も、今はここにいる。
そしてカルディオスは、トゥイーディア同様、出血のショックは抜け切っていない様子ではあったものの、両腕が揃った状態でそこに膝立ちになっていた。
彼も小刻みに震えていた。
失血ゆえに震えているのと、ヘリアンサスが自分の腕を引き千切ったのだという事実の衝撃のゆえに震えているのと、それが半々であるようだった。
俺は半ば口を開け、その場に不機嫌そうに佇む女王を見た。
――では、女王が、トゥイーディアとカルディオスの、欠損した腕一本を再生したのか。
人体の一部を再生するなど、俺の手にも負えない大魔法だ。
この女王は余りにも何もかもが規格外すぎて、本当に人間なのかを怪しんでしまうほどだ。
「――そう……」
俺は呟いた。
トゥイーディアの手を握る指に力を籠めた。
――温かい。ちゃんと温かい。
涙が出そうになる。
目を落とすと、トゥイーディアの腕はちゃんと元のようになっていた。
指先の繊細さもそのままだった。
俺は思わずその手を持ち上げて、手背に頬をつける。
「――ルドベキア?」
俺の突然の挙動に、トゥイーディアが目を丸くした。
俺は鼻を啜り、「良かった」と呟く。
そうして、馬鹿なことを口走った。
「……俺、おまえに、俺の腕をあげなきゃって思った」
トゥイーディアがますます目を丸くし、右手で軽く俺の頬を叩いた。
叱責というよりも親愛の色の濃い仕草だった。
声音が少し柔らかくなった。
「ばかもの。――何を言っているんですか」
それからすぐに、トゥイーディアは俺の手の中から自分の手を引き抜いてしまった。
口調を改めて、視線も他所に向けてしまって、口早に。
「――さっききみを助けたのは、キルディアス閣下とカルですので、のちほどお礼を」
「……さっき?」
俺は曖昧に呟き、トゥイーディアと同じ方向に視線を向けた。
そして、急速に前後関係を思い出した。
トゥイーディアが無事だった安堵の余り、ほんの数十秒前のことを頭の外に放り出してしまっていた。
さっき――つまり、俺がヘリアンサスに首を絞められていたときだ。
確かに突然の落雷であいつの手が緩んだわけで、それは女侯の魔法だった。
そしてもう一つ、俺が幻覚かと疑ったあの猫が、恐らくカルディオスの魔法の産物だったわけだが――
俺が視線を向けた先で、今まさに、その猫が消滅していくところだった。
つい先ほど見た、蛇や魚、猛禽と違って、確たる実体があるというわけではないらしい。
半透明の身体を持つ巨大な猫を、ヘリアンサスがその首を引き千切って消滅させている。
――なるほどあの猫が、つまりはカルディオスの魔法が、ヘリアンサスを俺から引き離してくれたわけだ。
遅まきながらも絞められていた首を撫でる。
自分では見えないが、痣程度にはなっているらしかった。触れたところがじんわりと痛む。
空中に溶けるように消えていく巨大な猫を苛立たしげに踏みつけるような仕草をして、ヘリアンサスがこちらを振り返った。
真っ白な髪が揺れる。
黄金の瞳が燃えている。
雪が降る。
随分と勢いは弱まった。
だが風に吹かれて斜めに降る雪が、なおも風景を斑に染めている。
その雪を通して俺を見て、ヘリアンサスは、何かの権利を――それも、正当な権利を――侵害されたかの如くに叫んだ。
「――なんで……」
こちらを指差す。
その手首で揺れるカライスの腕輪。
「なんでおまえがそっちにいるんだ!」
もう無意識だった。俺は応じていた。
俺とヘリアンサスの間には、他の誰とも異なる関係があって、そしてその関係において、どちらが正しい振る舞いをしたのかどうかを、互いに競っているようですらあった。
「おまえが外に出たからだ!!」
――外に出るなと言ったのに。
ヘリアンサス、おまえは知らないだろうけど、俺はおまえに外の景色を教えてやるために、俺には到底難し過ぎた魔法でさえも学ぼうとしたんだ。
諸島に戻れば殺されるだろうと確信していても、最後におまえに会えるかどうかは気にしていたんだ。
おまえが俺を忘れていないかどうか心配していたんだ。
おまえのために絵具を買ったんだ。
内殻が消えたとき、おまえに何かあったんじゃないかと思って心配したんだ。
――それなのに、おまえは。
外に出た挙句に、これだけ多くを殺すとは。
――ヘリアンサスの金眼が俺を見て、表情はその瞬間に、奈落の底に落ちたようなものになった。
ヘリアンサスが口を開いた。
表情に烈火のような怒りが載った。
「おまえが――」
ヘリアンサスが絶叫する。
「おまえが戻って来なかったからだろう!!」
俺の心臓が痛む。
――分かっていたのだ。
分かっていたのに。
カライスの腕輪をずっと身に着けてくれていたことからも、十分によく分かったはずだったのに。
「帰って来るって言ったのに、おまえは帰って来なかった!」
雪が降る。
俺の心臓が痛む。
「おれは待った――おまえ、言っただろう――明るいのと暗いの、両方合わせて一日。繰り返して三百六十――それで一年!」
あのとき俺が地下神殿で教えたことを、ヘリアンサスが叫ぶ。
「一年で戻るって、おまえは言っただろう!」
ヘリアンサスが、真っ直ぐにこちらに歩みを寄せて来る。
俺を見ている。
俺の不義理を叫んでいる。
「おれは待った! 三百七十一日、待った! おれは数えた! おまえが……!」
声が詰まる。
ヘリアンサスが俺を見て、その瞬間は泣きそうに見えた。
「おまえがもう少し早く帰って来てくれてもいいと思って……」
俺の心臓が痛む。
耐え難いほどに痛む。
――あのとき、内殻が消失したとき、咄嗟にアークソンさまに向かって、俺を諸島に戻してくれと進言できなかった――それを思い出して、いっそう俺の心臓が痛む。
「ずっと絵を描いて……」
だが認められなかった。
ヘリアンサスのしたことは、約束の不履行を責めるにも度が過ぎていたことだと――客観的なその事実だけを、まるで何かの特赦状のように掲げて――
「――おまえのしたことを、俺のせいだって押し付けるな!!」
俺も叫んだ。
目の前にいる白髪金眼の守人が、余りにもものを知らなかったこと――それを分かっていたはずなのに、俺はそう叫んでいた。
「あのとき言おうとしただろ――理由があったって言っただろ――」
キルフィレーヴの皇宮の屋上で、俺は確かにそう言った。
「それを聞かなかったのはおまえだろ!
それなのに――全部俺のせいにして押し付けるな!」
――違う、本当は分かっていた。
本当は、ずっと分かっていた。
俺の子供じみた甘え、未練が、俺をあの楽園のような王宮に留めて、そしてヘリアンサスとの約束を破らせたということを。
俺が、俺自身がヘリアンサスにとってどれだけの重さを持つ存在なのかを見誤ったこと、それこそがヘリアンサスを追い詰めたのだということを。
でもこのときの俺は、それを認められなかった。
ヘリアンサスが真っ直ぐにこちらへ歩いて来る。
もう何の斟酌も呵責もなかった。
――ヘリアンサスが腕を振って、その瞬間、俺たちの決定的な断裂を示すかの如くに、海からこの高台に向かって地面が裂けた。
今から考えると、この場所は本当にガルシアの近くだ。
海から真っ直ぐに俺たちの足許に向かって裂けた地面は、次々に割れ、砕けていく岩と地盤の大音響を響かせ、小さな渓谷を形作った。
余りにも規模の大きな魔法の行使に唖然とする間はなく、俺たちは自分たちがその渓谷の底に落ちないよう、後退らなければならなかった――が、女王はその場から一歩も動かなかった。
ただ、当然のように呼ばわった。
「カロックの殿下」
応じて皇太子が一歩踏み出す。
両腕を、何か重いものを押し返すかのように動かす――地面が動いた。
比喩抜きにして地面が動き、地面を走る亀裂が、ヘリアンサスの方へ折り返して地面を砕き始めた。
凄まじい轟音に足許が揺れる。
トゥイーディアがよろめいたのを、咄嗟に俺が支えた。
渓谷の下には地下水の流れがあったのだろう――砕けて割れ落ちていく地面の欠片が、ぼちゃんぼちゃんと冗談のように大きな音を立てながら、その流れの中に落ちていく。
――コリウスの魔法としても破格の規模、地形ごと躊躇なく変えていく魔法。
ヘリアンサスは足を止めなかった。
そのまま歩を進め、俺が目を疑ったことに、当然のように地面の亀裂を迎え――そして何もない空中を踏んで、すたすたと歩みを続行する。
その真下から、突然、無数の氷柱が突き立った。
鋭利な先端を持つ錐形の氷柱が、渓谷を埋めんばかりに突き立ち、雪の中でさえ氷が煌めいた。
渓谷の底の地下水を吸い上げて、白く冷気を漂わせる無数の氷柱が、真下からヘリアンサスを貫いている。
――キルディアス侯の魔法だ。彼女以外にこの芸当は不可能だ。
真下から身体を貫かれたヘリアンサスが悲鳴を上げた。
自分の身体を持ち上げて氷の磔刑から逃れようとし、しかしそれすら女王が留める。
すかさずトゥイーディアが、恐らくはヘリアンサスにとって唯一の致命のものとなるだろう魔法を――
「――嫌だ!!」
ヘリアンサスが叫んだ。
トゥイーディアの魔法が棄却される。
それと同時に、弾けるような音を立てて、ヘリアンサスを貫いていた氷柱が折れた。
鋭利にざらつく断面が複雑に煌めき、一方のヘリアンサスは何もない空中を踏んで留まり、その身体からしとどに世双珠が落ちる。
損傷がなかったこととなり、ヘリアンサスは四、五個の世双珠を口から吐き出した。
「嫌だ――絶対に、おまえの手に掛かるのだけは嫌だ――」
キルディアス侯が舌打ちし、ちら、とトゥイーディアの方を薄紫の瞳で見遣った。
「パルドーラ、おまえ、随分とあれの恨みを買っているようだけれど何をしたの。おまえのせいで、あれの抵抗が長引いているようだけれど」
「さあ、存じませんが」
トゥイーディアは応じて、息を整えるような間を取った。それから言った。
「――不甲斐ないことですが、私の魔法ですと、魔力量の差でしょうか――すぐにああして散らされてしまいます。皆さまもう少し、あれが私の魔法に注意を割けないほどに、あれを引き付けてくださいますか」
「もうそれしかないでしょう」
女侯が素気なく言って、今度は俺を見た。そして肩を竦めた。
「特にお聞きしたことはありませんでしたが、魔王さま。時間に干渉する魔法の他には熱を扱う魔法がお得意の様子。であればわたくしも、合わせて氷は使いますまい」
直後、頭上で雷鳴が轟く。
間もなくして、無数の稲妻が、それこそ冗談のような数と勢いで渓谷に向かって――延いてはヘリアンサス目掛けて降り注いだ。
同瞬、俺が火を点ける。
火を点けるとはいえ尋常の魔法ではない。
渓谷はあっと言う間に、氷柱の並ぶ静謐なものから、炎の溢れる地獄へと様変わりした。
渓谷から溢れんばかりの青白い炎の中に、幾度も幾度も雷が落ちる。
鋭利に空気を切り裂く閃光が間近に落ちて、皇太子とカルディオス、そしてトゥイーディアが眩しげに目を細める。
轟く雷鳴は破裂音にも似て、叩き付けるように空気を震わせた。
肌が痺れ、耳が聾される。
その只中にいるヘリアンサスが悲鳴を上げた。
苦痛を訴える悲鳴だったが、だが、悲鳴を上げているということはまだ口も喉もあるのだ。
女王が片手を上げた。
それは彼女自身の魔法の行使のための合図ではなく、他者への合図のためだった。
ちら、と彼女が振り返った先には膝立ちになったままのカルディオスがいて、女王はカルディオスに向かって、当然のように言った。
「――腕の礼をしてやれ」
カルディオスは一瞬、何かが喉に詰まったような顔をした。
だがそれ以上の躊躇はなかった。
まだ少し震えながらカルディオスは立ち上がり、ヘリアンサスがいるはずの、雷が降り注ぎ炎が溢れる渓谷の上を見て、
「……あのやろう、俺の腕を千切りやがった」
カルディオスが息を吸い込み、そして直後、渓谷目掛けて巨岩が落ちた。
――どこからともなく出現した巨岩が渓谷に落ち、地下水の飛沫を高く跳ね上げて地面を揺らす。
俺は瞬間、この一撃でヘリアンサスが渓谷の底に落ちたのではないかと思ったが、違った。
数秒を置いて、渓谷のこちら側に、世双珠を足許に幾つも落とし、あるいは吐き出しながら、ヘリアンサスがよろめきながら現れた。
そしてカルディオスを見て、口を開いた。
何か言おうとしたようだったが言葉にならず、カルディオスも言葉を待たない。
カルディオスが腕を振る。
それを合図として、ヘリアンサスの頭の上に、再度巨岩が落ちた。
ヘリアンサスは、その巨岩を砕くことはしなかった。
ただ、ぱっ、と、その姿が掻き消えた。
獲物を捕らえ損ねた巨岩が、地響きと共に地面を陥没させて落ちる。
土埃が上がり、舞い落ちる雪がふわっと巻き上がる。
「――はっ?」
カルディオスが声を上げ、トゥイーディアが皇太子を見て口早に、
「殿下の魔法と同じ――?」
「いや、微妙に法の書き換えが違う――」
応じる皇太子の言葉に被せて、俺が叫ぶ。
「どこに行こうと、絶対俺が見失わない!」
俺には世双珠の気配が分かる。
――半身を翻して、渓谷の反対側を見る。
やはりそちらだ。
ぜぇぜぇと喘いで膝を折りそうになっている、ヘリアンサスの姿がある。
少し離れている。
だが魔法は届く。
「そっち――」
俺が指差す方向目掛けて、もはや目で見ての確認すら億劫と言わんばかりに振り向きざまに、女侯が立て続けに雷を落とした。
ほぼ同時に、カルディオスが立て続けに巨岩を落とす。
ヘリアンサスが再び姿を消そうとして――その場で硬直した。
考えるまでもない、女王がそれを読んでヘリアンサスの行動を禁じたのだ。
巨岩がヘリアンサスを掠めて落ち、彼の片足を下敷きにした。
ぎゃっ、と叫ぶヘリアンサスが女王を睨み据え、数秒の競り合いののちにヘリアンサスが自由を取り戻す。
巨岩の下から足を引き摺り出し、その拍子に千切れた足が世双珠を零して再生し、ヘリアンサスは片足を引き摺って数歩を動き――再度姿を消す。
だが俺にはあいつの気配が分かる。
振り返って気配を辿る。
もう指を差すことすら無駄に思えて、あいつがいるだろう場所に火を点ける。
天を衝くほどの大火焔が立ち昇り、それを狼煙とばかりに、大魔術師とその弟子の魔法がその場に集中する。
目が眩む閃光と共に落雷。
巨岩が降り、ヘリアンサスが逃れた先に更に俺が火を点ける。
同時にその地面が抉れ、抉れたのみならず、勢い余って地面を隧道の如くに掘り進む魔法。
捉えていればヘリアンサスといえど、隧道の奥まで吹っ飛ばされた挙句にその場で磔刑よろしく動きを止められただろうが、ヘリアンサスはこれも逃れた。
世界の終末に相応しい大魔法が連発される。
この先千年の経験を踏まえても、ここまでの大魔法が連発された戦闘はなかった。
これが、この瞬間こそが、この世界における魔法戦の頂上だった。
――そしてそれを以てしてなお、ヘリアンサスに対する決定打を入れられない。
理由は明白で――ヘリアンサスの魔力に底がないことだった。
ヘリアンサスの再生を留めることが出来る女王と、ヘリアンサスそのものを破壊することが出来るはずのトゥイーディア、この二人が俺たちにとっての本命ではあったが、だがそれでも及ばない。
女王といえども、ヘリアンサスの無尽蔵の魔力量と競えば破れるし、トゥイーディアの魔法ですらも棄却される。
ヘリアンサスを削って削って削り切って――
――出来るのか?
これが始まってから初めて、その考えが俺の脳裏を掠めた。
――出来るのか?
ヘリアンサスを壊せるのか?
可否をいうならば可能なはずだった。
トゥイーディアの魔法があれば。
だがトゥイーディアがヘリアンサスを壊すには、それ相応の魔力が必要になる。
彼女の魔力にはまだ余力はあるだろうが、足りるのか?
何度も魔法を棄却され、魔力は確実に減じているはずだ。
第一俺には、ヘリアンサスの損傷がなかったことにされる現象そのものが慮外のことだった。
出来るのか?
これは終わるのか?
――だが終わらせねばならなかった。
ヘリアンサスは多くを殺し過ぎ、トゥイーディアを傷つけ過ぎた。
この場の誰にとっても、ヘリアンサスに対する容赦は不可能だった。
カルディオスが創り出した巨岩が落ちる。
皇太子の魔法が、幾度も幾度も地面を抉り、地下隧道を開いていく。
女侯の魔法が落雷を招く。上空はもはや罅割れを生じた陶器の如くに、煌めく輝線に覆われている。
辺り一帯はもう火の海だ。
女王にしても、ヘリアンサスを何度もその魔法で捉えており、魔力の消耗は俺たちの中で最も激しかろう。
――今から考えれば、この戦闘の爪痕は、今の時代に残っている。
ガルシア周辺の地形を思えばそれは明白で、ガルシア付近を流れている川は、恐らくこのときコリウスが押し開いた渓谷が、長い年月を掛けて切り拓かれていったものだろうし、どうしてだか丘陵地帯に転がっていた無数の巨岩は、このときのカルディオスが創り出して降らせたものだ。
極めつけが、俺がいちどその中に閉じ込められる憂き目を見た地下だが、これもまたコリウスが切り拓いた隧道のうちの一つが原型になっていることに疑いはない。
あるはずのない巨岩も、妙に入り組んで広がっていた地下隧道も、このときの俺たちが考え無しに暴れたからこそ形成されていったものなのだ。
俺たちにとってヘリアンサスに対する容赦は、それぞれの失ったものを思えば不可能だったが、だが同時にヘリアンサスも、俺たちに容赦する気は全くなかった。
何度目かに姿を消したヘリアンサスの気配が急速に近付いて、俺は息を吸い込んだ。
「そこに――」
警告の言葉が間に合わず、女王のすぐ目の前に現れたヘリアンサスが、間髪入れず、殆どがむしゃらなまでの勢いで、女王の鳩尾に腕を貫通させていた。
――他の五人が全員、その場で凍り付いた。
おぞましい音が上がる。
新たな血にべっとりと濡れたヘリアンサスの腕が引き抜かれ、夥しい血が溢れて地面を叩く――だがそれも一瞬。
女王は、俺が彼女の正気を疑ったことに、顔色ひとつ変えなかった。
鳩尾を破られ、ヘリアンサスの腕が背中に貫通したのだ、骨を砕かれ、筋を引き裂かれ、血管を引き千切られ、臓器に穴が開く痛みは、神経が受容できるものではないはずだ。
――だが女王は眉ひとつ動かさず、呻きのひとつも上げず、平然と、当然のように、その場で右手を持ち上げて、目の前のヘリアンサスの横面を平手で叩いた。
ただ叩いたのではなかった。
ヘリアンサスが、勢い余って吹っ飛び、十数フィート離れた場所に倒れ込んだ。
しかしすぐに上体を起こし――さすがに目を丸くする。
だがそれは俺たちも同様だった。
地面に落ちた血が浮き上がり、さながら時間を巻き戻すかの如くに、女王の中へ戻っていく。
だが、時間が巻き戻されたわけではないことは、降る雪が変わらず上から下へと降っていることを見れば一目瞭然だった。
女王の受けた傷のみが、忽ちのうちに無かったこととなる。
膨大な魔力を必要とする、有り得べからざるほどの大規模な魔法が成就して、女王は傲然とそこに立つ。
首を傾げて、西の大陸の化け物と呼ばれた大魔術師が、吐き捨てるようにして言い放った。
「――高くつくぞ」
ヘリアンサスは上体を起こしたままの姿勢で固まっていたが、言われて我に返ったように瞬きし、皮肉に笑った。
「――そっちも人間じゃないのか」
女王が指を鳴らす。
ヘリアンサスを捉えるための不可視の魔法が、しかし空振った。
一瞬早く、ヘリアンサスがその場から姿を消している。
そして一瞬後、
「殿下!」
俺が叫ぶよりも一瞬早く、ヘリアンサスが皇太子の目の前に立っていた。
直後、聞くに堪えない音と共に血霞が漂う――
「――殿下っ!」
皇太子の左腕が、半ば引き千切られていた。
トゥイーディアやカルディオスのように完全に切断されてはいないものの、ぶらん、と垂れ下がる腕があっと言う間に真っ赤な血に覆われる。
粘ついた液体が溢れ、赤黒く皇太子の腕を染めていく。
皇太子が口を開けた。
咄嗟に声すら出ないようだった。
ふらつき、皇太子がその場に、倒れ込むようにして膝を突く。
殆ど反射じみた動きで、女侯がヘリアンサスに掌を向けた。
その掌から一インチほどの位置がぱっと光り、直後、凄まじい速度と練度で、空気中の水分が凍り付いていく。
きらきらと虹色に煌めく氷の粒が集まって、ひとつの長大な氷槍と化していく。
瞬く間にその槍が伸びて、ヘリアンサスに達する――
「――邪魔だ」
ヘリアンサスが右手でその槍を掴み取り、へし折った。
ぼき、と鈍い音を立てて槍が折れ、ヘリアンサスが左手を振った瞬間、何が起こったのかは俺にもすぐには分からなかったが、女侯が口許を押さえ、その場に横様に倒れ込んだ。
口許を覆った手の指の間から、どくどくと血が溢れて地面に伝う――喉か腹かは分からないが、ともかくもどこかが潰されたようだった。
くぐもった悲鳴を上げて、女侯が身を捩る。
立て続けに事態が動いていた。
女王が指を鳴らす。
先ほどと違って今度は、ヘリアンサスを捉える魔法のための合図ではなかった。
女侯が血を吐き切って、汚れた掌を地面に突き、よろめきながら立ち上がる。
この瞬間に女王の治癒が施されたのは明白だった。
衣裳の前半分をどす黒く血で染めて、失血のために朦朧した表情にはなりつつあったが、女侯は真っ直ぐに立ってみせた。
一方、皇太子の腕は今度こそ落ちていた。
ぼと、と重い音を立てて、皇太子の左腕が脱落し、だが引き換えに出血が止まる。
みるみるうちに傷口が塞がり、皇太子の喉から、長い呻き声が上がる。
それと全く同時に、俺とトゥイーディアが、ヘリアンサスに向かって小規模な炎弾を降り注がせていた。
これはもう半ば以上は自衛のためで、ヘリアンサスが傍にいる以上、何らかの手を打たねば殺されることは自明の理であったからだ。
炎弾を小規模にせざるを得なかったのも道理、傍に味方がいる以上、大規模な攻撃はそれを巻き込む。
ヘリアンサスが鬱陶しそうに手を払い、トゥイーディアの炎弾の悉くが消失していく。
一方の俺が撃った炎弾は僅かに残ったものの、それもヘリアンサスが嫌がるように首を振ると、明後日の方向へ軌道を変えて飛んでいってしまう。
炎弾を捌いたヘリアンサスが、真っ直ぐにトゥイーディアを見た。
――俺の背筋が粟立った。
間違いなくこの瞬間、ヘリアンサスはトゥイーディアを殺す気だった。
ヘリアンサスにとって最大の脅威となる魔法を使うトゥイーディアを、手っ取り早く奪りにきたのだ。
ヘリアンサスが、憤恨そのものの表情で、トゥイーディアに向かって手を上げる――
「――駄目だ!!」
俺が動くよりも早く、カルディオスが飛び出し、ヘリアンサスに向かって突進し、その小柄な身体に飛び付いた。
予想だにしていなかったのか、ヘリアンサスが均衡を失ってその場に転ぶ。
いきおい、二人の子供がその場に縺れ合って倒れたような形になった。
俺がトゥイーディアの前に出る。
絶対にトゥイーディアを危険に晒したくはなかった。
それでも魔法は撃ちかねた。
この状態ではカルディオスを巻き込む。
カルディオスを巻き込めば、トゥイーディアが悲しむ。
子供を撃つことで痛む良心は、とっくに俺の中で壊れていたが、だがそれでも俺の良心の残骸の中心にはトゥイーディアがいて、トゥイーディアが否ということこそが、俺にとっての倫理に反することだった。
トゥイーディアも俺と同じことを考えたのか、「離れて」と声を掛けたものの、それがカルディオスに聞こえたか。
カルディオスはヘリアンサスを押し倒した格好のまま、「おまえのせいで――」と、食いしばった歯の間から言葉を押し出す。
声がくぐもり、殆ど涙ぐんでさえいるようだった。
「おまえのせいで、俺がどんだけ師匠に悪いことしたか――」
ヘリアンサスが身を捩り、カルディオスから離れようとしている。
今この瞬間、トゥイーディアの魔法を躱す盾としてカルディオスを使ってもいいはずなのに、奇妙なほどにその考えには至らない様子だった。
カルディオスに右掌を見せて、ヘリアンサスが左手で地面を探り、カルディオスから離れようとして動く。
「おまえが――」
ヘリアンサスが呟いた。
俺やトゥイーディアに面と向かっていたときとは違って、動揺すらしているようだった。
「おまえが悪いことなんか――」
「まだ師匠に手ぇ出そうとしやがって」
カルディオスが怒鳴った。
ヘリアンサスに追い縋り、掴み掛かるというよりは、逃れようとするヘリアンサスの膝の上にこちらも膝を使って圧し掛かるようにして、ヘリアンサスをその場に押さえ込もうとしている。
俺とトゥイーディアは、この状態でヘリアンサスに手を出せない。
俺は思わず振り返る。女王が何かの知恵を持っているかと思ったためだったが、女王は平然とした様子でカルディオスとヘリアンサスを見ていた。
そして、ちら、と皇太子を振り向く。婉然と微笑む。
「――再び腕が欲しくば、朕に有用性を示すがよい」
皇太子の、なくなってしまった左腕を示すように指を上げて、女王は傲然と。
「このディセントラの兵卒のうち、優れた有用性を示すものには褒美をとらそう――パルドーラ然り、あの坊然り」
腕を褒美と言い放ち、女王は再度カルディオスを見る。
その表情は、まるで贔屓の演者を見るかの如くに嬉しげだった。
「――見よ。あの坊、朕の見込みを超えて有用じゃ」
俺も咄嗟にカルディオスを見た。
カルディオスはなおもヘリアンサスを押さえ込み、そしてその両手が今、何かを彼の左側の――何もないはずの空中から引き出そうとするかのように動いていた。
カルディオスの両手が何かを握る。
それは虚空のはずだったが、一瞬後、ちらちらと小さな稲妻めいた光を散らしながら、その何かがカルディオスの両手の中で実体を得る。
カルディオスがそれを、空中から引き抜こうとする。
身体の左側から何かを引き抜こうとしているその動きは、まるで掲げられた鞘の中から、一振りの太刀を引き抜こうとしている様子に似て見えた。
いや――実際にそうかも知れない。
カルディオスの手が動く。
空中から、見えない鞘から引き抜かれるかのように、何かが徐々に徐々に顕れていく。
それはカルディオス特有の魔法、〈無から有を生み出す〉魔法、〈実現させる〉魔法――それによって、カルディオスが思い描いた何かが生み出されている様に他ならなかったが、だが既に存在する何物かを引き出そうとしているかのように、確固として迷いのない光景でもあった。
ぱりぱりと稲光じみた光が散る。
黝く煌めく何か、底光りする何かが、カルディオスの手の中に顕れようとしている。
薄らと光るそれは明らかに異様で、ヘリアンサスですら動きを止めた。
黄金の目が細められる。
ヘリアンサスが口走る。
「――おまえ、それ……何だ?」
カルディオスの底無しの魔力――世界が己の存続を懸けて、最後に創った特別な器に注がれる、膨大な魔力――それを喰い尽くす勢いで、黝いそれが、形以上にその存在意義にこそ、創り出された意味にこそ価値があるそれが、半ば以上顕現していた。
カルディオスが歯を食いしばる。
「――これは、」
意味を与えるその言葉が、半ば以上が生成されたそれに、最後の形を与えていく。
「おまえを殺すためのものだ、ヘリアンサス」
そして、黝い長剣が空中より引き抜かれた。
薄らと輝く見事な一振り。
細く優雅な輪郭でいながら無骨な気配もある――殺意の塊じみた、相手を殺すための造形。
ひどく鋭利な黝い切先が、振り下ろされる勢いで以てヘリアンサスの首に迫る。
ぎょっとした様子で辛うじてそれを躱したヘリアンサスが、さすがに異様な雰囲気を纏うその長剣に目を見開きつつも、掠れた声で呟いた。
「――そんなの使えるの、カルディオス」
カルディオスは首を傾げた。
がりっ、と、地面を噛んだ長剣を再び持ち上げる。
そして、喧嘩腰に言い放った。
「おまえ、刃物が怖いんだっけ、アンス」
その手許で、しゅん、と小さな音を立て、黝い長剣が短剣に姿を変えた。
――形が変わった?
目を疑う俺たちの視線を一身に受けながら、カルディオスは怒りに軋む声で断言する。
「怖かったら目ぇ瞑ってろよ。さっさと首を斬ってやる」




