59◆ ――決意と兄弟
相手の肩口に顔を埋めて、殆どしがみ付くようにして抱き着いていたのは何秒だったか。
不意に、ずい、とチャールズが俺の肩を押し遣って、俺との距離を僅かに開けた。
俺は安堵の余りに目が眩んでいて、ひょっとすると無自覚に涙ぐんでいたのかも知れないが、チャールズの顔がちゃんと見えなくて、繰り返し瞬きした。
チャールズの、今までに聞いたことがないほどに上擦った声が、口早な語調が、俺の耳に届いた。
「ルドベキア、きみ、今までどこにいたんだ。リーティで別れてからこっち――」
そこまで言って、不意にチャールズは言葉を切った。
ざわざわと、他にも人声が聞こえてきていた。
どうやら雲上船の出入り口から、使節団の若手のみんながこちらを覗き込み、口々に何かを言っているらしい。
複数の声が錯綜して、言葉として明確に聞き取れるものはなかったが、だが俺は久し振りに聞いたみんなの声、みんなの雰囲気に、それこそ膝が折れそうになるほど安堵した。
――生きてた。
ちゃんと生きてた。
〝えらいひとたち〟みたいに、何か変なものになってしまうこともなく、無事だった。
俺はひたすらにその安堵を胸の中で唱え続けていたが、チャールズの表情は、どうやら一変していた。
「――ルドベキア、きみ……」
言い差して、息を吸い込んで、チャールズが俺の顔の方に手を伸ばした。
けれども顔に触れはせず、チャールズは険しい声で。
「どうした、この怪我。誰かに殴られたのか? 誰がこんなことした」
俺は戸惑って瞬きし、ようやくそのときになってチャールズの顔がはっきり見えるようになって、自分の顔に指先で触れた。
――鈍い痛みがあった。皇太子に殴られた傷の。
チャールズは明らかに憤慨していた。
俺の怪我を見て、息巻くように、「誰にやられた」と再度詰問してくる。
俺はなんだかぼんやりしてしまって、首を振った。
「これは……違う……」
「違うって何が。転んだ傷じゃないだろ」
俺を問い詰めて、チャールズは軽く振り返って、「俺、治療は下手なんだけど。パット、いける?」と声を掛ける。
俺は慌てて、チャールズの腕に手を掛けてそれを止めた。
「チャールズ、大丈夫。俺は大丈夫」
言いながらも、俺は若干よろめいた。
兄貴の顔を見た安堵に、腰が抜けそうになっていた。
俺がふらついたのを、がばっと振り返ったチャールズが泡を喰った様子で支えてくれる。
俺はその腕をしっかりと掴んでみた。
――透けたり、溶けたりはしない。ちゃんと現物だ。
とはいえ掴んでいないと不安なので、俺はいきおいチャールズに縋りついているような格好になった。
チャールズは僅かに、それこそ瞬きほどの間に、俺のその挙動に微笑んだようだった。
だがすぐに周囲を、というよりは俺の向こうを見て、目を見開く。
そして、唖然とした調子で呟いた。
「おいおいおい、パルドーラ閣下じゃねえか……」
視線を翻して俺を見て、チャールズは囁くように。
「ルドベキア、マジで……マジで、駆け落ちしたの?」
俺はぱかっと口を開けた。
チャールズの見開かれた目に、俺の間抜け面が映った。
「は?」
「てか、いや、しゃんとしろって。閣下が見てるぞ」
チャールズがそんなことをこそこそと囁きつつ、俺をちゃんと立たせようとするので、俺はその場に崩れ落ちそうになった。
そういう――そういうことを、今、言うか。
気が抜けたが安堵の方が大きかった。
チャールズの、素朴に過ぎる口調は、彼自身がこの状況に度を失っていて、頭が回らなくなっていることを如実に俺に伝えた。
「ちが――違うって、チャールズ……」
「違うって何が。――えっ、待て、あれ、閣下の弟子じゃん……」
チャールズが、ようやっとトゥイーディアの傍で棒立ちになっているカルディオスにも目を留めたらしく、ぽかんとした口調で小さく言った。
「え、どういう――どういう状況? ルドベキア、きみ、ほんとに今までどこにいたんだ」
チャールズの、混乱し切ったその口調に、俺は泣きそうになった。
――チャールズの、この声音。
では、たぶん、チャールズは自分の弟が何をしたのかを知らないのだ。
俺は鼻を啜り、俯いて、絞り出すようにして声を出した。
「……チャールズ、島には戻った?」
「戻ってねーよ、ずっと大陸の上をふらふら」
ふらふら、と言いつつ、雲上船が飛ぶ様を表すようにして、チャールズは片手を広げてひらひらと動かす。
俺はいっそう言葉に詰まりつつ、「じゃあ」と言葉を続ける。
「〝えらいひとたち〟――古老長さまたちが、どうなったか、知らないの」
「え、なんかあったの?」
チャールズが目を見開いてそう言った。
「あの方に何かが起こるとか、それこそ天変地異のときくらいだろ」
俺は息を詰めた。
あの夕暮れ時に見た光景がまざまざと脳裏に甦って窒息しそうだった。
だが一方で、納得するところもあった。
――あのとき、あの場には――島には、世界各地に散っていたらしい諸島の人間が、軒並み連れ戻されていた。
だが、チャールズたちだけは、使節団だけは、別だったのだ。
何しろ、懲罰の意味合いがあってヘリアンサス捜索に駆り出されたチャールズたち使節団には、他の捜索隊と連絡を取り合う手段がなかった。
それが転じて吉となされ、チャールズたちだけは無事だったのだ。
〝えらいひとたち〟に何が起こったのか、説明しようにもする言葉を持たず、俺は何度も声を呑み込んだあとに、「島には戻らないで」とだけ言った。
チャールズは瞬きして、「今さら、戻る予定もないけどさ」と。
「ルドベキア、あれからどうしてたのさ。こっちはもう、守人を捜すどころじゃなかったけど」
「――――」
俺は言葉を失くして、半ば茫然とチャールズを見た。
チャールズは眉を顰めて俺を見ていた。
目が合って、チャールズは顰め面で。
「カロックが――」
そこまで言って、チャールズはその刹那に俺が浮かべた、罪悪感と嫌悪の表情を見た。
声を失った様子で、チャールズがぽかんと口を開け、短く息を漏らした。
――チャールズは、俺の魔力がどれほどのものか知っている。
目を丸くして、茅色の短い髪を――いや、俺の記憶にあるより、髪は少し伸びていた――くしゃっと掻き回して、チャールズは息を吸い込み、
「――――っ」
何かを言おうとして、その言葉を呑み込んだ。
それからさっと俺から目を逸らし、顔を両手で拭うようにする。
俺は、兄貴からの弾劾の言葉が怖くて後退ったが、チャールズはすぐに顔を上げて俺を見て、いっそ痛ましそうに目を細めた。
そしてちらりと俺の後ろを見て――恐らく、まず間違いなく、距離を挟んで後ろにいるトゥイーディアを見ていた――、小さく、殆ど聞こえないくらいの声で、呟いていた。
「……きみ、閣下のことが好きだっていうのは、もうそれ、病気だね」
「――――」
声が出なかった。俺は俯いた。
チャールズもレイモンドも、俺がトゥイーディアのことをどう思っているのかは知っている。
それに加えてチャールズは、皇太子がトゥイーディアの領地を壊滅させたときの、俺の様子を知っている。
俺が復讐に走ったのだと判断する材料は揃っていて、それに輪を掛けて今の、俺の罪を自覚した表情を見たのだから、俺がカロックに何をしたのかを確信するには十分だっただろう。
息を吸い込み、俺はようやくのことで顔を上げて、呟いた。
「……トゥイーディアは関係ない……」
チャールズは俺を見て、一瞬だけ顔をくしゃっとさせて、更に小さな声で、押し殺したように囁いた。
「――きみ、ほんとに閣下が好きなんだな」
俺は無意識のうちに首を振った。
――俺が本当にトゥイーディアを好きなら、正しいやり方で彼女を好きでいられたなら、こんなことにはなっていなかったのだ。
チャールズは、おずおずと俺の方に手を伸ばし、俺の肩に手を置いて――そのときの彼の仕草はまさしく、俺の身体が突然発火しないかどうかを恐れるようなものだったが――、すぐに、強張った微笑を浮かべた。
「ルドベキア、ひどい顔してるから、取り敢えず休んで――」
そこまで言って、チャールズが口を噤んだ。
彼の目が、さっと動いて俺の後ろを見た。
同時に雲上船の出入り口辺りに蟠る、使節団の他の若手が、ひときわ大きくどよめいた。
俺は振り返った。
そして、トゥイーディアが、じっとチャールズを見詰めながらこちらに歩を進めてきているのを見た。
彼女の仕草は、衣裳の裾を慎重に捌くような足運びで、まさしく貴族の挙動だった。
チャールズは、恐らくは反射的な動作だったのだろうが、俺から一歩離れて顎を引き、警戒ぎみにトゥイーディアを見て、背筋を伸ばした。
いよいよトゥイーディアが近くに来るに至って、チャールズは瞬間、困惑したように瞳を揺らしたが、すぐに短く息を吸って口を開き、「閣下」と挨拶を述べようとしたようだった。
が、それを、他ならぬトゥイーディアが遮った。
彼女は権力者の仕草で手を振ってチャールズを黙らせて、俺が落ち着かなくなるほどに注意深くまじまじと、チャールズを覗き込むようにして見詰め、大きな飴色の瞳を瞬かせていた。
彼女があまりにも興味深そうにチャールズを眺めるので、俺は不意に、チャールズの先程の言葉が全部彼女に聞こえていたのではないかと恐怖に駆られた。
そうなるともう黙っていられなくて、俺は発作的に声を出す。
「トゥイーディ、イーディ、ディア。どうした」
トゥイーディアは、俺が呼んでも俺を見てくれなかった。
むしろチャールズの方が驚いたようだった――思えば彼は、俺が大使ではなくただのルドベキアとして、トゥイーディアに声を掛けるところは見たことがなかったはずだ。
だからもしかしたら、俺が砕けた口調で彼女に話し掛けたことに驚いたのかも知れない。
だが勿論のこと、トゥイーディアにとってはそれは当たり前のことだったので、彼女は何らの反応も示さなかった。
彼女はただ、呟くような声を出したが、そしてそれはやっぱり俺ではなくて、チャールズに向けられたものだった。
「……先ほど、ルドベキアから、魔力について伺ったのですけれど――」
チャールズの頬が、刹那の間強張った。
だがすぐに、見事なまでに、チャールズは平静を取り戻した。
――チャールズは、諸島の使節団の一員として、常に外交の前線に立っていた人だ。
事ここに至ってさえ、彼の足許をその経験が支えていた。
チャールズの声は冷静だった。
「――なんのお話でしょう」
トゥイーディアはチャールズから目を逸らさなかった。
俺の方を、確認のためとか更問のためとか、そういった様子で一瞥することもなかった。
静かに唐突に、トゥイーディアの形の良い頭の傍に、白い光の鱗片が散り始めた。
――俺は戦慄した。
このとき初めて、俺はトゥイーディアが、故意に相対する人間の〈内側に潜り込み〉、その記憶を閲覧しようとしているところを見たのだ。
トゥイーディアが何よりも唾棄する手段だった。
彼女が、自分が作った優しい魔法を卑下し忌避する、その理由そのものだった。
躊躇いなくその手段を採ることに踏み切る――それほどに彼女が俺の言葉の証左を求めたのがなぜなのか、俺には咄嗟に分からなかった。
――ムンドゥスのあの姿を見て、あの言葉を聞いて、まだ俺の言うことを疑うトゥイーディアではないはずだ。
それに彼女自身、俺の言うことは信じざるを得ないと先ほど言っていた――
もはや何を考えている余裕もなく、俺は手を上げて、トゥイーディアの肩を掴んで強引に半歩下がらせた。
トゥイーディアが、勢い余って半ば俺の方を向くような格好になって、びっくりしたように俺の方を見た。
彼女の肩口の辺りで散った白い光の鱗片が、薄らと透けて消えていく。
「ルドベキア」
トゥイーディアが呟くように俺を呼んだ。
俺を窘め、あるいは懇願する口調だった。
――俺が、トゥイーディアがチャールズの記憶を閲覧しようとしたことに気付いたのだと、彼女が悟った声音だった。
その上でトゥイーディアが、止めてくれるなと俺に頼んでいる。
だが、駄目だった。
これだけは譲れなかった。
「――駄目だ」
俺は断固として囁いた。
チャールズは、何が起ころうとしたのかを瞬時には図りかねた様子で、だが警戒した様子で、俺とトゥイーディアから距離を置く方へ一歩下がった。
「駄目だ」
繰り返し、俺は呟いた。
――そうだ、これだけは駄目だった。
チャールズは、俺の、トゥイーディアに対する恋慕の情を知っている。
それが――俺の彼女に対する気持ちが――、彼女自身の知るところとなれば、トゥイーディアのことだから、きっとカロックに起こったことを自分のせいだと思い込むに違いない。
因果関係と帰責性を、切り離して考えることの出来る彼女ではあるまい。
だから、駄目だ。
これ以上、俺は彼女の心の一片たりとも傷つけたくはない。
俺がトゥイーディアに気持ちを伝えることがあるとすれば、それはもうたぶん、その直後にトゥイーディアの記憶が全部消し飛ぶとか、――あるいは考えたくもないけれどもそれがトゥイーディアの今際の際で、トゥイーディアがそういった因果関係と帰責性に思いを馳せることがないに違いないと断言できる――そういう瞬間だけだろう。
そういう場面がくるとはとても思えないから、つまり、俺がトゥイーディアに気持ちを伝えることはない。
――トゥイーディアは、俺のそういう、薄汚い本音を察した様子はなかった。
ただ瞬きして、眉を顰めて、チャールズをちらりと見てから俺に視線を戻して、首を傾げた。
大きな飴色の目に、真剣な顔の俺が映っていた。
「……特別な方ですか」
俺は、卑怯にも、その言い訳に飛び付いた。
頷いて、俺はチャールズを示す。
「俺の兄貴だよ。レイには前に会ってるだろ。こっちはチャールズ」
チャールズが、少しばかり目を瞠って俺を見た。
だが俺はそれに応ずるどころではなく、俺の言い訳がトゥイーディアに受け容れられるものかどうか、そればかりを気にして彼女を見ていた。
トゥイーディアは、しばし、逡巡するように俺とチャールズを見比べていた。
だがすぐに、もういちどちゃんと俺を見て、首を傾げる。
「――他に、きみのお兄さまはいらっしゃいますか」
「え?」
俺は訊き返した。
トゥイーディアは瞬きして、断固として。
「あるいは、きみの言う――ハルティの使節団の皆さまの、指揮官に当たる方は中にいらっしゃいますか」
中、と言いつつ、トゥイーディアは雲上船の方を身振りで示す。
俺は思わずチャールズを見た。
チャールズは、俺とトゥイーディアが何を議論しているのかは分かっていない様子だったものの、俺の視線の意味は察した。
肩を竦めて、彼はぼそりと、俺に向かって言葉を放り投げる。
「――上の方々なら、中にいらっしゃるけどもさ」
「そうですか」
トゥイーディアが、チャールズが俺に向けた言葉を途中で捥ぎ取るようにしてそう言って、さっと俺とチャールズから離れ、雲上船の方へ歩き出した。
歩調は決して速いものではなかったが、足運びは断固としていた。
俺はトゥイーディアを追うように振り返り、それはチャールズも同じだったが、二人して唖然としてしまう。
「……閣下、なんのつもりだ?」
チャールズが呟き、そして、ぱっと俺を振り返ると、声を潜めながら怒鳴るといった語調で問い詰めてきた。
「――ってか、ルドベキア! なに考えて閣下に――」
そこまで言って、チャールズは、俺が反射的に身を竦ませたのを見た。
そして一拍を置いたのちに、はあ、と息を吐き出す。
「……まあ、いいか。どっちにしろ何も変わらんだろうし。この状況になっちまったらなあ。
――まあ、俺からすれば、まずはきみが無事で良かったっていう、そこに尽きるんだけどさ」
俺はおずおずと頷いた。
チャールズが苦笑して、俺の頭の上に掌を載せた。
「……ちゃんと食ってる?」
俺は泣きそうになった。
事ここに至ってさえ、俺にそういう言葉を掛けてくれるチャールズの存在が、ただただ有り難かった。
鼻を啜って、頷く。
空腹は眩暈すら伴っていたが、もうそれに拘泥する気分でもなかった。
「――うん」
チャールズはいっそう苦笑を深めた。
こつん、と、俺の蟀谷を小突くようにして、彼は小さく呟く。
「この悪ガキめ」
それが、俺の嘘を――嘘とも言えない強がりを、チャールズがちゃんと察してくれているがゆえの言葉だと分かった。
いよいよ涙が零れそうになり、俺は俯いて顔を擦った。
顔の傷が痛んで、その拍子に俺は、傍に皇太子もいるのだと――それどころかこの近辺に大魔術師全員が揃っているのだということを思い出した。
それを兄貴に伝えようと顔を上げる。
しかしながらチャールズは、すたすたと歩を進めていくトゥイーディアの方を半ば振り返っていた。
その表情に、顕著な不安があった。
俺もそちらを見て、僅かな逡巡に足踏みしたあと、トゥイーディアを追って足を踏み出した。
俺の後ろに、チャールズも付いて来た様子だった。その足音が聞こえた。
「トゥイーディ、どうした」
彼女に追い縋りつつ声を掛ける。
さっき泣きそうになった反動で声が上擦りそうになったために、俺はいつもより意識して低い声を出した。
「俺の言うことは信じざるを得ないんじゃないのか。そこまでして確かめなくても――」
語尾と同時にトゥイーディアに追い着き、俺は彼女の顔を覗き込む。
トゥイーディアは眉を寄せていた。そして、素気無く応じた。
「そのことではありません」
いよいよ訳が分からず、俺はまだ少し距離のある雲上船の出入口に、翼の方へ乗り出さんばかりに鈴生りになってこちらを見下ろしている、使節団の若手のみんなを見上げた。
みんなは俺とチャールズを見ていて、幾人かは俺の無事を喜ぶような顔をしてくれたものの、他の大勢は概ね、レンリティスの女伯がつかつかと雲上船に歩み寄っている現状に対する危機感を表情に浮かべ、なおかつ俺とチャールズの顔から、俺たちもまたトゥイーディアの行動に困り果てているのだと察してくれた。
何人かがさっと出入口から退いて、どこかへ走って行った――察するに、それこそ上の人たちへの注進へ向かったものだと思われた。
俺のその勘が外れていなかったことは、間もなくして、数人の上の人たちが雲上船の出入口に姿を見せたことで分かった。
使節団の若手のみんながぱっと割れて道を作って、上の人たちが現れる。
その中に、俺が唯一名前を知っていた、アークソンさまもいた。
上の人たちはトゥイーディアを見下ろして、彼女が一向に足を止める気配もなく、ややもすれば雲上船まで乗り込んで来そうだと察したらしい。
二言三言交わしたかと思うと、滑るように雲上船から地上に向かって下り始めた。
何もない空中を踏んで、それももちろん魔法だったから、ムンドゥスを傷つけるものであるわけだが、するすると滑るように地面に降りてくる。
緑色の装束が、折しも吹いた冷えた風を孕んで靡く。
――恐らくというか絶対に、上の人たちが地上に降りたのは、トゥイーディアという余所者を、雲上船に上がらせる事態を防ぐためのことだっただろう。
どうやら使節団の中でも上の地位にある者たちが現れたらしい、と察した様子のトゥイーディアは、ようやく足を止めた。
傷んだ衣裳を纏っていてなお、その立ち姿はちゃんと伯爵に見えた。
トゥイーディアが足を止めたので、俺もチャールズも足を止めた。
とはいえ俺は、久し振りに目の当たりにする上の人たちが恐ろしくて、思わず一歩下がった。
チャールズがそれに気付いた様子で半歩前に出て、俺を庇うような格好をとる。
雲上船から少し距離を置いたところで、トゥイーディアと上の人たちが向かい合った。
アークソンさまの目が一瞬こちらを向いたように感じて俺は竦み上がったが、他の上の人たちは、トゥイーディアの方を警戒ぎみに眺めていた。
ややあって、中の一人が、それは髭を長く伸ばした老年の男性だったが、しわがれた声を出した。
「――パルドーラ閣下とお見受けしますが」
トゥイーディアは応じなかった。
ただ、上の人たちの顔を、順番に、しげしげと眺めていた――それこそ無礼を咎められても文句はいえないほどに。
トゥイーディアの周囲で、音もなく静かに、白い光の鱗片が舞い始めた。
今度は俺もそれを止めなかった。
ただ、これでトゥイーディアが、俺の普段の――みっともないほどに怯えている姿を知ってしまったら、俺は完膚なきまでに軽蔑されるだろうな、と、殆ど泣きたいような気持ちで考えていた。
チャールズも、同じくトゥイーディアの周囲で舞い散る光の鱗片を見て、俺を振り返った。
得体の知れない何かを見たかのような表情だった。
「……閣下、何してる……?」
俺は答えなかった。
どう答えたものかが分からなかったのだ。
上の人たちも、チャールズ同様、トゥイーディアの佇まいに不穏なものを感じたらしい。
彼らは恐らく、トゥイーディアが自分たちの記憶を閲覧していると、感じ取ることは出来ていなかっただろう。
誰だって、それこそ俺であっても、人の精神に働き掛けるトゥイーディアの魔法を我が事として感知することは困難だ。
だがそれでも、トゥイーディアの目付き、雰囲気、そして舞い散る白い光の鱗片、そういったものから不穏なものを感じているのだろう。
中の一人、これは白髪を刈り込んだような頭で、鷲鼻が目立つ男性だったが、彼が訝しそうに口を開けた。
が、彼が何を言うよりも早く、トゥイーディアが口を開いた。
チャールズの後ろから見ると、彼女の顔色が若干、象牙めいて白くなっているのが分かった。
人間の記憶というものは無論、索引をつけて便利に目的の頁を引くことが出来るものではない。
膨大な情報を一気に処理したがために、トゥイーディアの頭脳や精神に、並々ならぬ負荷が掛かったのだと分かった。
「――ああ、確かに」
トゥイーディアはそう言った。
言って、微笑んだ。
蒼褪めた頬の上でなお、凍て付くような微笑だった。
「確かに、ルドベキアは何も知らなかったようですね」
俺は息を止めた。
――トゥイーディアがこう言うということは、では、彼女が確かめたかったのはその点か。
トゥイーディアは言葉を続けている。
穏やかに――静かに。
「対してあなた方は、ずっとご存知だったと。そのためにルドベキアに大使の任を与えられたわけですね。
なるほど、我が国の王宮にご滞在の間、どれほどのご心労だったことでしょう。それほどの思いをされて世界を守ろうとなさった、あなた方の行動に心からの敬意を。
――ですが」
上の人たちが、間違いなく俺の方を見た。
烈火のような眼差しだった。
許しを得ずに、俺がこの世界の秘密を話したことを憤っている――それが分かって、俺は更に一歩下がった。
しかし、上の人たちが何を言うよりも早く、トゥイーディアが言葉を継いでいた。
語調が一転して激烈なものになった。
「ならばなぜ、わたくしたち貴族に何も仰らなかったのです。わたくしでなくとも、キルディアス閣下でも――。あるいは、ヴェルローの女王陛下にでも」
苛烈な眼差しで並み居る使節団の筆頭を見据えて、トゥイーディアが詰っていた。
「わたくしどもが、民の命よりも世の平穏よりも、利や財を採るとでもお思いでしたか。
それゆえに何もお話しくださらず、わたくしどもがこの世界を守る、その機会と権利すら奪った――そう仰るのならば、これ以上の侮辱はございますまい」
はっきりとそう言って、トゥイーディアは息を吐いた。
激情のゆえか、その息は少し震えていた。
そして、叩き付けるように言った。
「――あなた方のご判断が誤っていたがために、もう、お終いです」
「――――」
誰も、何も、言わなかった。
トゥイーディア自身、返答を求めた様子はなかった。
自分の感情を理性で抑えることが習慣になっているだろう彼女が、このときは完全に私情で動いたことが分かった。
何の益もなくとも意味もなくとも、言わずにはおれなかったのだと察せざるを得なかった。
上の人たちは、顔色ひとつ変えていなかった。
それがなぜなのかは俺には分からなかったが、反応がなかったということが、トゥイーディアが腹に据えかねることであるということは分かった。
彼女が手を上げて、俺は一瞬、その手が目の前にいる上の人たちを打擲するためのものではないかと思って肝を潰したが、トゥイーディアはそんなことはしなかった。
ただ、断固たる手付きで廃墟の方を――一面の更地の中に辛うじて残っている、宙に浮く天蓋とその下の教会の廃墟の方を、真っ直ぐに指差した。
そして、言った。
「――恐らく、ヴェルローの女王陛下もあなた方に仰りたいことが山とおありでしょう。行って、ご挨拶なさっては?」
それまでは眉ひとつ動かさなかった上の人たちが、その一言に顔色を変えた。
ほぼ全員が同時に、「女王陛下が?」と呟いたのが、さざめくような声で聞こえた。
「女王陛下が――こんな場所に?」
「こんな場所? 可笑しなことを――もうどこも同じ有様でしょう。
これもあなた方の所為と言って過言ではありませんでしょう」
トゥイーディアが、廃墟の方を指差したまま、もはや直情的なまでの声で言っていた。
そのとき初めてトゥイーディアは、年齢相応の若い女性に見えて、遥かに年長の数人を相手に言い募っているように見えた。
「世双珠の原石を管理なさっていたのなら、どうしておめおめとそれを外に出したのです。その挙句がこの有様です。
こうなった発端は、あなた方が逃した世双珠の原石が為したことですよ」
チャールズが息を吸い込んだ。
彼が、目を見開いて俺を見た。
「話したのか」という問いの形に唇が動いたが、俺はそれに答えるどころではなかった。
上の人たちが、一斉に俺を見ていた。
俺を見て、今度こそ俺が許されないほどに重大な事実を島の外の人間に話したのだと悟った――その表情に、信じられないほど激烈な怒りが昇った。
一人が、トゥイーディアを完全に無視して、俺の方へ一歩足を踏み出した。
俺が竦み上がって後退り、俺の方から上の人たちへ視線を移したチャールズがその場で、上の人たちを通すまいと俺に意志表示するかの如く足を踏ん張る――
――そのとき、唐突に、本当に何の前触れもなく、声が掛かった。
「失礼」
全員が、ぱっとそちらを見た。
俺からすれば右手側、上の人たちからすれば左手側に、どこかに表情の作り方を落っことしてきたかのような無表情で、銀色の長い髪を風にそよがせる皇太子が、忽然と姿を現していた。
皇太子は確かに雲上船を目にして動いたようではあったが、それでも、ここからは少し距離のある場所にいたはずだ。
それが唐突にここに立っているのだから恐れ入る。
俺とトゥイーディアは僅かに驚いたのみだったが、チャールズと上の人たち、それから雲上船の上からこちらを眺めている使節団の若手のみんなは、突然現れた彼に仰天した様子だった。
雲上船の方からはどよめきも聞こえた。
自分に注がれる驚きの視線には全く無関心に、皇太子は冷たい水晶のような濃紫の目で、上の人たちを蔑むように見て、端的に言っていた。
「――ハルティの方々かとお見受けしますが、女王陛下が、」
そう言いつつ、皇太子は廃墟の方を示す素振りを見せる。
「是非にお話をお聞き召されたいと仰せのご様子。お運び願えますか」
折しも、トゥイーディアが言った通りの展開になった。
突然やって来た所属不明の雲上船から降りて来た人に俺が飛び付いていたのだから、雲上船がハルティのものであるとは誰から見ても察することの出来ることだっただろう。
だからこそ女王が興味を示したのだろうが、仮にも一国の皇太子を使者の如くに立てるとは。
チャールズが、さっと下がって上の人たちを慇懃に促す身振りをした。
上の人たちからしても、女王の意志を無視することは考えられなかっただろう。
女王が自ら言ったように、大国の上に君臨していたからこそ女王が恐れられていたのではない。
女王という人が恐れるにも余る人だったからこそ、彼女が大国を統べていたのだ。
俺からすれば、女王の思し召しに堆いほどの感謝を示すに足る一幕ではあったが、気が進まない様子ながらも皇太子に従って歩き始めた上の人たちを、さながら案内するように廃墟の方へ引き返しつつ、皇太子がちらりと俺を見た眼差しは、あからさまに冷ややかな揶揄を浮かべていた。
――大国ひとつを焼き払った俺が、僅か数人を相手に竦み上がっていることへの、明らかに過ぎる冷淡な軽侮の目だった。
俺は俯いた。
下を向いたその視界の端っこを、上の人たちの靴が歩いて、遠ざかっていく。
上の人たちが十分に遠ざかってから、チャールズが大きく息を吐いた。
それを合図にしたかの如くに、俺は顔を上げた。
トゥイーディアは、遠ざかっていく上の人たちの背中を、穴が開くのではないかと思えるほどにまだ睨み据えていたが、その目付きは怒りというよりも哀切を感じさせた。
――俺は世界の寿命に、トゥイーディアの寿命よりもほんの一瞬だけ長いということ以上には何も求めなかったが、トゥイーディアは違うのだ。
トゥイーディアは、世界が死んでいくことを受け容れていない。
たとえ一時間後に世界が死ぬのだと分かっていても、その一時間で方策を探ろうとする人だ。
トゥイーディアはそういう人だ。
人間というものはそういうものだと信じている、清廉潔白な人だ。
少し離れたところでは、カルディオスが立ち竦んだままになっている。
短い間しかこいつを見ていない俺が、こいつの並々ならぬ対人恐怖を察するほどだから、知らない人間が突然たくさん現れた、この状況はカルディオスにとっては恐ろしかっただろう。
チャールズが、小さく咳払いして、俺を覗き込んできた。
「――大丈夫か?」
俺は頷いた。頷くだけでは説得力がないかも知れないと思って声を出したが、その声は掠れた。
「……大丈夫」
「そっか」
チャールズが目を細め、それから少し迷うように視線を泳がせたあと、述懐する。
「あれ、カロックの皇太子だよな。びっくりだ――ここに何人揃ってんだよ」
独り言ちるようにそう言ってから、チャールズは、俺に向かって首を傾げた。
「……それはそうと、――ルドベキア、めちゃくちゃ心配してたんだ。ここで会えて良かった。
あの方たちが、」
あの方たち、と言いながら、チャールズは歩いて行った上の人たちを示す手振りをする。
「居るのは気詰まりかも知れないけど。
――でも、きみ、全然食べてないだろ」
俺は瞬きして、チャールズを見上げた。
彼が何を言っているのか、よく分かっていなかった。
チャールズはそんな俺を見て、「レイモンドが見たら発狂するな」と呟いて、苦笑する。
トゥイーディアが、不意に視線を翻して、チャールズを見た。
飴色の瞳が瞬いて、チャールズを見て、そしてどうしてだろう――彼女の表情が強張った。
だが、彼女は何も言わなかった。
チャールズは、ぽかんとしている俺にますます苦笑して、俺の肩に手を置いた。
そして、促す声音で言った。
「船に乗って。んで、怪我の手当てしよう。
で、どこかに行こう」
「…………」
俺は黙り込んでチャールズを見上げた。
――どこかに行こう、か。
そうか。
なるほどここで合流できたわけだから、俺は以前のようにチャールズと一緒にいることが許されるわけだ。
許してくれるわけだ、俺の兄貴は。
一国を焼き滅ぼした魔王を、まだ弟として見てくれているわけだ。
涙が出そうになった。
何も言わない俺に、チャールズが首を傾げる。
俺は瞬きして、息を吸い込み、それからトゥイーディアの方をちらりと見た。
トゥイーディアは俺の方を見ていたが、目が合うと、慌てた様子でちょっと微笑んだ。
いっそ促すような微笑で、それを見て、彼女が俺をここに引き留めることはないな、と分かった。
トゥイーディアの表情からは、彼女が俺の日常の、みっともない程に怯え切った姿を知ったのかは分からなかったが、だが彼女には、まだ俺を軽蔑するような様子はなかった。
そのことに、こんな場合ではあっても、俺はほっとしてしまう。
――チャールズと一緒にいるのは好きだった。
使節団のみんなのことは好きだったし、彼らの雰囲気には安心できた。
俺を人間扱いしてくれた人たちだった。
俺に言葉とか、振る舞いとか、そういう全部を教えてくれた人たちだった。
上の人たちがいても、みんなが守ってくれるだろうと容易く想像できるくらいには、俺はみんなのことを信頼していた。
――俺が、年相応の、子供でいられる場所だった。
息を吸い込む。
守ってもらうのは簡単だった。
ここでチャールズに向かって頷いて、雲上船に入っていけばいい。
そうすればみんなが、「顔の傷はどうした」だの、「ちゃんと食べてるのか」だの、たくさん心配してくれて、あれこれと世話を焼いてくれることだろう。
俺はみんなに甘えて、守られながら、世界が終わるまでの僅かの時間を過ごす。
――そうだ、簡単だ。
ただひとつのことを無視すれば、この上なく簡単だ。
――そしてそのひとつのことがあるがゆえに、守られながら最後の時間を過ごすことは、俺にとっては耐え難いほどに困難だった。
そのひとつのこと――変え難い事実。
俺はトゥイーディアを愛している。
その彼女が、女王に――この事態に怒り狂っている女王に助勢して、ヘリアンサスを殺しに行くのだと言っている。
俺はそれを見送れない。
彼女がどうなったのかを知らずに過ごすこと、ただ彼女の無事を祈っているだけの自分――そういうことには耐えられない。
彼女が望もうが望むまいが、死地に赴くならば一緒にいたい、世界最後の日を見るならばそのとき彼女の姿を見ていたい――そう思う、恐ろしいほどに切実な本能。
その本能を無視することの、耐え難い困難。
――このとき俺はその本能に屈した。
トゥイーディアの、慌てた様子の小さな微笑――そこに、子供を慮る大人の情を見て、だからこそ強く、切実に、彼女に追い着きたいと――彼女に頼られたいと――彼女を守るに足るだけの大人になりたいと、心から思った。
息を吐いて、もういちど息を吸い込む。
一歩下がって、チャールズの手から逃げる。
チャールズが首を傾げて、怪訝そうに俺を見て口を開く――その機先を制する。
「――チャールズ、ありがとう」
声は震えなかった。
「でも、ごめん、行けない。
やることがある」
――証拠は揃っていた。
ヘリアンサスがトゥイーディアを追い詰めた。
あいつにその気がなくとも、あいつがトゥイーディアを知らなくとも、ヘリアンサスの行為がトゥイーディアを追い詰め、傷付け、悲しませる結果を招いたのだ。
――トゥイーディアが、ヘリアンサスに憤っている。
あいつが悪逆を尽くしたのだと、彼女が判断した。
ならばそれが俺にとっての正義だ。
――そしてトゥイーディアは、この世界を惜しんでいる。
この世界が死につつあるということに衝撃を覚え、この世界を守る最後の機会を奪われたのだということに憤った。
残念ながら、もう手の打ちようはなく、世界を救う術は恐らく存在しない。
だが、ヘリアンサスのことならば何とか出来るだろう。
世界が死ぬ前に、俺が死ぬ前に、俺は彼女の憂いをひとつであっても取り払いたい。
ちらりと雲上船を見る。
この雲上船を動かす世双珠に、ヘリアンサスが今まさに注意を向けていることなど有り得るだろうか。
――いや、もういい、知ったことか。
「チャールズは逃げててほしい――何が起こるか分からないから。
俺、あいつのことはよく知ってるつもりだったけど、あいつ、俺が知ってる以上に色々出来るみたいだから――だから、何が起こるか分からない」
俺の知っているヘリアンサスは、地下神殿の壁にひたすらに絵を描いていた、無表情でたどたどしい言葉を喋るだけの、兄ちゃんだ。
そんなヘリアンサスはもうどこにもいないんだろう。
――俺の唐突な言葉に、チャールズが当惑した様子で眉を寄せている。
トゥイーディアでさえ微かな驚きを浮かべて、俺を止めて、考えを改めさせようとするかのように口を開こうとする。
それも制して、俺は続ける。
「――これから、俺たちが、大魔術師全員が、ヘリアンサスを壊しに行くから」
ヘリアンサスに命はないから、俺たちが死力を尽くそうとも、あいつを殺すことは出来ないだろう。
命が無い物から命を奪うことは出来ない。
だが壊すことなら出来るはずだ。
「だから、チャールズは――みんなは、出来るだけ遠くに逃げててほしい。諸島より遠くにさ。
――そういえば、」
もうどれくらい前だろう――遥か以前のことに思える、俺が初めて雲上船に乗ったとき。
あのとき、大きな地図を前にしてレイモンドが教えてくれた。
諸島より南に、最近発見された大きな島がある。
その島をどこの領土とするかという問題で諸国は睨み合っており――その島には人も住んでいないと。
「――ずっと南に、でかい島があるんだっけ。その辺に逃げててよ。
南の方なら暖かいんだろう――食べるに困らないくらいの恵みはあるんじゃないの」
そう言って、チャールズの顔をちゃんと見る。
兄貴は明らかに驚いていた。
俺は笑おうとしたが、その顔は変に強張った。
「俺は大丈夫――何しろ、女王陛下がいるんだから」
「――ルドベキア」
トゥイーディアが、とうとう口を挟んだ。
彼女はチャールズ以上に驚いた様子で、むしろ焦っているようですらあった。
「ルドベキア、そうです、何が起こるか分からないんですよ?
――せっかくお兄さまにお会い出来たんですから、一緒にいなさい。それがいちばんです」
「違う」
俺が言下に否定して、トゥイーディアはいよいよ持て余すような顔を俺に向けた。
だが、チャールズは違った。
チャールズは俺を見て、それからトゥイーディアを見て、それからもういちど俺を見た。
驚きが彼の表情の上から薄れて、理解の色がチャールズの瞳に昇った。
――今から思い返せば、たぶん、人の世界の寿命にまだ猶予があれば、チャールズは引き摺ってでも俺を雲上船に乗せていたはずだ。
俺の兄貴は俺に甘くて、俺が我侭で自分の命を危険に晒すことを、そう簡単に了承したはずがない。
だが、このときの状況は違った。
世界はまさに死につつあって、そして数多くの国が倒れたことで、生きていくことはいっそう困難になっていた。
だからこのとき、チャールズは、俺が我侭を通すことを許したのだ。
俺が、自分の想い人の傍で死にたがっていることを察した。
俺が分不相応な背伸びをして、少しでも想い人に追い着きたいと思っているのだと、大人の男になりたがっているのだと察した。
俺の兄貴は優しい人だった。
そして頭のいい人だった。
実際に大魔術師が、世双珠の母石の片割れを相手取るとなれば、大魔術師以外の人間は、その場においては命を危うくするだけだということを、言われずとも悟っていた。
兄貴は息を吸い込んで、ちょっと笑ってくれた。
とはいえその唇は、何かを堪えているかのように歪んでいた。
「――分かった。南ね。行くとこもないし、物見遊山に行ってみるにはちょうどいいかもな。みんなに話してみる」
と、チャールズは言った。
お道化た風な言葉選びだったが、声音は真面目だった。
トゥイーディアが目を瞠ったが、チャールズはそちらには目を向けなかった。
膝を折って地面に突き、俺を見上げるような格好をとって、チャールズは真摯に、真剣に。
「きみ、やることがあるんだな。いいよ。俺たちの心配まで、ありがとう。
弟も大人になっていくってわけだ、兄ちゃんは寂しい。
――でも、」
チャールズが首を傾げて、俺の手を取った。
ぎゅっと力を籠めて俺の手を握り、チャールズは言い聞かせるように、はっきりと――きっぱりと。
「さっき、伯爵閣下が仰ったことは本当だ。そもそもの問題はハルティの俺たちだ。俺たちがさっさと腹を割って、それこそヴェルローの女王陛下にでも本当のことを洗い浚い喋っていれば、こんなことにはならなかったかも知れないんだ。変に色々考えて、保身に走った結果がこれだ。俺たちが全部悪い。
――だから、」
チャールズがぐっと手を引いたので、手を握られたままだった俺は前のめりによろめいた。
それをぎゅうっと抱き締めてくれるチャールズの、断固とした声を俺は耳許に聞いた。
「――思った通りにいかなかったり、何か困ったことが起こったりしたときは、全部、俺たちに押し付けるんだ」
チャールズが俺の肩に手を置いて、僅かの隙間を俺たちの間に置いた。
俺の顔を覗き込んで、チャールズが念を押す。
「いいな? そういうときはこっちに逃げて来るなりなんなりして、――この兄貴を頼るんだぞ」
俺は瞬きした。
そして頷いた。
――それを約束した。
このときの俺は、まさか本当に俺たちがチャールズを頼ることになるとは思っていなかったが――
実際に俺は、チャールズでさえも想像だにしていなかっただろう方向で、この兄貴との約束を頼ることになる。
だが、それは本当に最後の話、この俺の一回目の人生が終わる、その瀬戸際でのことだ。
◆◆◆
俺が死ぬまで、あと一日。




