57◆ ――清算の日:禍根
「――なんだ、これは」
喉に絡んだような声で、最初にそう言ったのは皇太子だった。
彼はじりりと後退り、無意識にだろうがムンドゥスと距離を取ろうとしている。
キルディアス侯も、トゥイーディアも、声こそ出していないものの反応は同じだった。
誰も彼も、固唾を呑んだ顔でムンドゥスを、その異様さを凝視している。
カルディオスは、目の前に唐突に現れたムンドゥスの姿の異様さに加え、この子が腕に抱えた自分の作品への驚愕があって、一周回って感情を捉まえ損ねたような表情になっていた。
ムンドゥスを指差した手を下ろし、また指差し、手を拳にして両腕で頭を抱えるような仕草をする。
「どういうこと?」といった言葉の形に唇が動いたが、定かではない。
そして女王は、俄かに立ち上がっていた。
明確な警戒を以て、彼女は自分の侍女を庇うように、彼女の前に立った。
眉を顰めてムンドゥスを見遣る彼女の表情からは、警戒と嫌悪のみが窺えた。
そして一方、主君が自分の前に立つ事態になっても、侍女の表情は動かず、なおも粛然と顔を伏せ、その場に立ち尽くしているだけだった。
「――ムンドゥス」
俺が呼び掛けると同時に、ムンドゥスはきょろきょろと周囲を見回し始めた。
俺は思わず言葉を切る。
「なあに」と尋ねたにも関わらず、ムンドゥスは俺を無視して、罅割れに覆われた顔貌を、ややあって女王の方へ向けた。
ぼろ、と、蟀谷の辺りから欠片が落ちる。
そしてムンドゥスは、責めるような声を出した。
「――だめよ、ディセントラ」
息を呑んだのはその場の全員、恐らく実の両親でさえ、女王をその名前で呼び捨てたことはなかっただろう。
女王は嫌悪を籠めてムンドゥスを見下ろしている。
ムンドゥスは女王の感情を理解した様子もなく、掠れた声で歌うように呟く。
「こんなことをしてはだめよ、ディセントラ。
失われたものをとりかえさないで。わたしが用意した肉の器を動かす魂を減らさないで。肉の器がこわれたらそのままにして。どうしてわたしにかえしてくれないの。肉の器を、長く長くつかわせないで」
皇太子が唐突に、はっとしたように女王を見て、そして今は女王自身が庇うようにしている、彼女の侍女をまじまじと眺めた。
女王はそんな皇太子には無関心で、「だめよ」と繰り返すムンドゥスを、軽侮の眼差しで見下ろしている。
――と、その眼差しが翻って俺を見た。
俺は覚えず一歩下がったが、その挙動を女王が見咎めることはなかった。
女王はただ俺を見て、淡紅色の瞳を眇める。
そして、不機嫌に呟いた。
「――これが? この繰り言を申すものが、世界そのものと抜かすか」
俺が頷く一方、ムンドゥスはなおも、「だめ」と繰り返して、女王の方へふらりとよろめくように一歩進んだ。
俺は心臓を鷲掴みにされたようにひやりとする。
何しろ、女王が機嫌を損ねてムンドゥスに手を上げた途端に、人の主観すなわち人の世界が終わることになってしまうのだ。
「わたしがとくべつに、だいじにつくってあげたのに……」
ムンドゥスが夢見るようにそう呟いて、聞き咎めたのか女王が声を大きくした。
女王が初めて、理性よりも感情を優先していた。
「創った? おまえが? 朕をか?」
殆ど弾劾するようにそう言って、ムンドゥスは否とも応とも言わなかったが、女王は失笑じみた溜息を漏らした。
「このディセントラの名の及ぶところに、朕以外のものの意志はない」
堂々とそう言って、女王はまじまじとムンドゥスを見下ろす。
首を傾げるその様は、皮肉なまでに完璧だった。
――片や、度重なる魔法ゆえに損耗し、動く度に破片を落とすほどに傷付き切った世界そのものの、罅割れに覆われた姿。
――片や、その世界そのものが己の存亡を懸けて創り出したにも関わらず、その絶大な力で権力を恣にした極大の魔力の器の、瑕疵の欠片もない姿。
「仮に世界そのものが朕を特別と呼ぶならば、その一片に至るまでが朕の意志よ」
静かにそう言って、女王は低く、警戒するように。
「――朕のものを朕から奪おうなどとするな。腹立たしい」
女王が明瞭に不愉快さを口に出すに至って、俺は耐えられなくなった。
女王がムンドゥスに手を上げた瞬間に、人の世界が終わる――そしてそれのみならず、トゥイーディアまでが無事ではいられなくなる。
それは受け容れられなかった。
「ムンドゥス」
呼び掛けて、一歩前に出て、ムンドゥスが抱える機械に触れる。
ムンドゥスに直接触れなかったのは、触れた途端に彼女が砕け散りそうだと感じたからだ。
俺が機械に触るのを嫌がるようにムンドゥスが身を捩り、振り返って俺を見上げた――そう感じた。
重ねていうが、ムンドゥスの顔貌はもはや罅割れに覆われて、見るに堪えないものとなっていたけれど。
「――わたしがもらったのよ」
ムンドゥスがそう言った。
俺は、「誰から?」と、答えが分かり切っていることを尋ねようとしたが、それに先んじて、「違う」と、カルディオスが発作的に声を出していた。
絞り出すような声だった。
「違う、俺、それ――それは、アンスにあげた」
ムンドゥスが首を傾げ、人には有り得ない角度で振り返って、カルディオスを見た。
そして、掠れて軋む声で応じた。
「ヘリアンサスが、わたしにくれたのよ」
「嘘だろ」
カルディオスが呟いた。
こいつは多分、子供だったから――再三同じ内容を突き付けられ、その都度に衝撃を受けていてなお、きちんとそれを事実として受け容れることは出来ていなかったのだろう。
自分の決定的な誤解を、このときようやくカルディオスが呑み込んだのが、端で見ていた俺にすら分かった。
とうとう、カルディオスがぺたんとその場に座り込んだ。
立っていられなくなったらしかった。
トゥイーディアがぎょっとした様子でその傍に膝を突いたが、カルディオスを触れるのを躊躇うように、半端な位置に持ち上げた手を右往左往させる。
「カル――カル」
トゥイーディアが気遣う声音で呼ばわるのには応じず、あるいは聞こえていなかったのかも知れないが、カルディオスは茫然と。
「それ――それの造り、知ってるのは、師匠だけだと……思って、だから、」
「ムンドゥス、教えて」
俺は、カルディオスの言葉に割り込むようにして、ムンドゥスの傍に膝を突いて彼女を見上げた。
ムンドゥスはもういちど俺を見て――つまり、もはや顔貌としての輪郭すら危うくなっている顔を俺に向けた。
「なあに、ルドベキア」
なあに、と尋ねたにも関わらず、ムンドゥスは俺が口を開くよりも早く、歌うように続けていた。
「ヘリアンサスが会いたがっていたわ」
そう言われて、俺の喉の奥の方が熱くなった。
もはやその感情が何であるのか、俺自身にすら分からなかった。
目の奥までもが刺されたように痛くなって、俺は歯を食いしばり、俯いて、せり上がってきたその感情を呑み下す。
そして顔を上げて、断固として尋ねた。
「ムンドゥス。――それ、その、機械」
「これ」
ムンドゥスが復唱するようにそう言って、ぎゅう、といっそう力を籠めて機械を抱き締めた。
艶やかな、常識外れなまでに長い黒髪が機械の上を滑って、するりと垂れた。
俺は頷く。
「そう。――それと同じ……それよりも大きいものが、たくさん人を殺したわけだけど、それは」
「おねがいされたの。これを大きくして、たくさんつくってって。だからたくさん、わたしの中にゆるしたの」
ムンドゥスは軽やかなまでの声音で応じた。
俺は吐き気を催した。
――これで、ヘリアンサスのやったことは俺の推測の域を出て、事実として確定した。
吐き気は眩暈を伴うほどに激しかったが、俺の口は、いっそ自傷行為じみた作用で、機械的に言葉を吐き出していた。
「……お願い? ヘリアンサスに?」
「そうよ」
ムンドゥスは言って、その瞬間に彼女は微笑んだに違いないと思えるほどに明確に、その声音を和らげた。
「おとうと……ほんとうにかわいい……たくさんおねがいごとをされたの」
「――――」
俺は息を吸い込み、カルディオスを見た。
カルディオスは俺よりも数段吐きそうな顔をしていたが、俺はこいつを、少なくとも一度は完膚なきまでにトゥイーディアを傷つけたのだろうこいつを、許して容赦することが出来なかった。
「……おまえじゃねえか」
俺は言って、カルディオスを指差した。
カルディオスは俺に視線を向けすらせず、茫然としたままだった。
「おまえが、これを、ヘリアンサスにやったんだろ。――おまえじゃねえか。全部、原因、おまえじゃねえかよ。
おまえ、自分がやったことを棚に上げて、よく世話になった師匠のことを呪えたな?」
「全部? よく言う」
予期しない方から声が上がって、俺は覚えず肩を揺らした。
――皇太子だった。
銀髪の皇太子は腕を組んで立っていたが、整った顔いっぱいに軽侮を湛えて、冷ややかに俺を見下ろしていた。
「その機械を」と言いつつ、彼はムンドゥスの方へ顎をしゃくった、「模倣した兵器で戦が起こったのは、私の記憶では、おまえが父の国を焼き払った後だったが。おまえが我が国に現れなければ――あの混乱がなければ――、事態の逼迫には猶予があっただろうものを」
「少しよろしいですか」
と、極めて礼儀正しく冷ややかに、トゥイーディアが言って立ち上がった。
軽く衣裳を払って埃を落とす仕草をして、トゥイーディアが飴色の双眸で皇太子を睨み据える。
茫然自失といったカルディオスとは対照的に、トゥイーディアの態度は敵愾心に満ちていた。
「そもそもそれよりも先に、殿下、あなたが偽の書状を真に受けて、私の領民を虐殺したと記憶しておりますが」
皇太子は瞬間、言葉に詰まり、息に詰まったようだった。
だがすぐに、断固として言った。
「――私の犯した罪業と、そこの魔王の所業に因果があると仰るのなら、伯爵閣下。
あなたが魔王に父の国を焼き払うように嘆願なさったということになりますが」
「なん――」
「は?」
トゥイーディアがさっと顔を蒼くする一方、一気に俺の頭に血が昇った。
その瞬間だけは俺は自分が彼にしたことを忘れて、傍に罅割れに覆われたムンドゥスがいることも忘れて、勢いよく立ち上がって皇太子の方へ一歩詰め寄っていた。
「トゥイーディアがそんなことするはずないだろ……!」
むしろ、彼女がそう望んでくれた方が、俺はずっとずっと楽だった。
トゥイーディアが、俺にとっての朝のいちばん眩しいところが、決してそんなことを許さない清廉潔白な人だから、俺は俺が許せなくて苦しい。
トゥイーディアもたぶん、俺のことを真に許したりはしないだろう。
「――あら」
キルディアス侯が、無意識の様子で声を零した。
俺がちらりとそちらを見ると、薄青い髪の侯爵は、素直な驚きを湛えた薄紫の目で俺とトゥイーディアを見て、口許を上品に押さえていた。
「まあ、意外。てっきりパルドーラが魔王さまに、あれをお願いしたものかと思っていましたけれど」
俺は息を吸い込んだ。
苛立ちと罪悪感に眩暈がした。
「――どいつもこいつも……!」
声を荒らげた俺に一瞥をくれて、それからついでのように、俺の傍でゆらゆらと身体を揺らすムンドゥスをちらりと見て、皇太子が俺に視線を当てた。
水晶のような濃紫の目が、もう随分と高く昇った陽光を捉えてきらりと光った。
「伯爵閣下の頼みだろうが何だろうが、おまえの動機になど欠片も興味はない」
徹底的に冷淡にそう言って、皇太子は首を傾げた。
ほっそりとした顎の線が影を落とした。
「だが、――いいか、魔王。おまえに譲って、父の国を焼き払って私の親友を殺したことは、おまえの故意ではなかったとしよう。あの白髪の子供の意思だったと仮定しよう」
俺は咄嗟に反応できなかった。
あの瞬間のヘリアンサスの顔を、声を思い出して、あのときの感覚がまざまざと甦ってきて、声が出なかった。
感情が一所に定まってくれなくて、まるで感情が遠大な距離を走り回り続けているようで、その移動分だけ俺の肩の辺りに疲労が溜まるかのようだった。
そんな俺を淡白に眺めて、皇太子は明瞭に言葉を続ける。
「そう仮定したとしても、おまえが私を呪った事実が変わるか?」
「――――」
俺は針を呑み込んだような心地になったが、皇太子は容赦なく言葉を重ねた。
「大した呪いを掛けてくれたものだ。〈心から信頼した者に裏切られる〉だったか? なるほど来世の私が気の毒だ」
俺は声を出せなかったが、だが、明瞭に考えた――恐らく俺たちに来世はない。世界の寿命はそれほど長く残されていない。
トゥイーディアが俺を見ていて、その眼差しに確かに罪悪感があり――恐らく彼女も、俺に呪いを掛けた動機の半ばを誤謬と気付いてしまって、それで罪悪感を覚えているようだったが――、俺は思わず彼女の方を見て、小さく首を振っていた。
大丈夫、気にすることはないという合図だったが、当然ながらトゥイーディアには伝わらず、彼女は痛ましそうな顔のまま、ちょこん、と小さく首を傾げた。
そのとき笑い声がして、俺は戦慄しながらその笑い声の主を振り返った。
――女王が笑っていた。
なおも侍女を庇うように立ったまま、口許に手を当てて、心底可笑しげに女王が笑っている。
「よく吠えるものだ」
女王はそう言って、皇太子を見て目を細めた。
何の瑕疵も年齢の刻みもない完璧な花貌が綻ぶ様は、そこにひときわ明るい光が当たるかのようだった。
「カロックの皇太子、その方も同じう、錯誤と誤謬に拠ってあれほどの戯言を抜かしたうえで……。だがよい、先も申したが、朕は己の影が踏む場所にすら責を負う……」
目を瞑り、呆れたといった様子で首を振ってから、女王は双眸を開いてカルディオスを見た。
距離を跨いで彼を覗き込むようにして、女王はいっそ悪戯っぽくさえあるほどに残酷な口調で、軽やかに言った。
「――聞けば、坊。そなたが最たる道化じゃな」
ムンドゥスに、正しくは彼女が抱える機械にちらりと淡紅色の瞳を向けてから、女王は朗らかなまでの語調で。
「その方が造ったのか――よう出来ておる。坊、朕が召し抱えてやっても良いほどの腕じゃ。
――それをあの童にくれてやってうえ、その童の為したことをそなた、己の師の仕業と思うて、恨み辛みを並べた挙句に呪うたのだな」
女王は微かに俯いたが、どうやらそれは笑いを堪えるためのようだった。
――俺は自分の目と彼女の正気を疑ったが、女王はこのとき間違いなく、心底からカルディオスのことを愉快だと思って笑っていたようだった。
皮肉や辛辣な意図は欠片もなく、宮廷で道化が芸を見せるのと全く同じように、目の前で絶望に打ち拉がれている少年のことを見て、捉えていた。
「――傑作じゃ。戯曲にしやれ。朕の気に入りとなろうに」
トゥイーディアが、戦慄と嫌悪の入り混じった眼差しで、唖然とした様子で女王を見ている。
キルディアス侯も、違和感を覚えるほどにトゥイーディアと全く同じ表情で、女王を凝視して半ば唇を開いていた。
皇太子も愕然としており、恐らくは自分の耳を疑っている。
そしてカルディオスも、むしろぽかんとした顔で女王を見て――
「――もうやめて」
震える唇から、絞り出すように声を吐き出した。
ムンドゥスが、俄かに関心を寄せた様子でカルディオスの方へじっと顔を向けた。
その視線には気付かない様子で、いやもはや、自分の内面のことで精一杯であるという様子で、カルディオスが、
「もう、――もう、分かってる。
俺が悪いことをしたのは分かってるから、――言わないで」
幼さゆえの懇願じみた語調で、――そして、俺には見えていた。
見えていたのは俺だけだろう、何しろこのときの俺は目が良かった。
魔力と魔法を見ることにかけては、恐らく俺の右に出る者はいなかった。
カルディオスの声、そこに滲む、圧倒的なまでの魔力の気配。
煌めくばかりの魔法の才覚。
無意識にだろうが確実に、条理のない場所に条理を定義し、理屈のない場所に理屈を定めて、絶対不可侵の規則を定める、その声。
「もう言わないで。分かった、分かったから、――だから、」
カルディオスの肩が震えて、あいつはもう泣き出す寸前の顔をして、
「――もう二度と、誰も、呪いのことは口に出さないで。もう責めないで。
自分がどうされたとか誰をどう呪ったとか、そういうこと――、もう、言わないで」
――瞬間、俺たち全員が、女王でさえも、一刹那言葉を失った。
それは、言うべき言葉が、論じていた話題が、全て禁じられたがゆえのことで――
「……わかった」
ムンドゥスが、掠れて潰れた声で、しかし明瞭に、そう肯った。
「わかった。カルディオス。
あなたが変えたようにしたがうわ」
カルディオス自身は、何を言われたのか咄嗟には理解できなかったような顔をして、それは取りも直さず、俺たちの言動を即座に、しかも永続的に縛る魔法を行使してなお、カルディオスの魔力の摩耗が意識するほどのものではなかったという驚異的な事実の証左だったが――
――今の俺からすれば、これが誤算だった。
呪いのことを口に出すことを禁じた、このときのカルディオスの魔法はまだ生きている。
いや、正しくは、このときカルディオスが〈無から有として生み出し〉た、「呪いのこと一切を口に出すことを禁ずる」という条理規則が、この世界に依然として存在し続けているのだ。
魔法を掛けた本人がそのことを忘れ去っていてなお、そして何度も何度も命を落としていてさえ、俺たちに確固たる作用を与え続けている、その規則が。
カルディオスに悪意はなかった。こいつはまだ子供だったから、俺たちが互いに敵意を剥き出しにして言い争っていることが、そして女王に道化を見るような目で見られたことが、耐えられなかっただけだ。
カルディオスを追い詰めた俺たちが悪い。
だが、そう分かっていてなお、転生を繰り返している間に、呪いのことを口に出せていればと思わざるを得ない。
もしもそれが可能だったなら、コリウスは俺たちに対して、信頼こそが奴にとっての致命傷になるのだと仄めかすことが出来ていたはずだ。
ディセントラは俺たちに対して、一緒にいると俺たちの誰かがディセントラのために命を落とすと伝えられたはずだ。
アナベルだって、自分の言葉に裏切られる以上、滅多なことは口に出せないと表明できたはずで――もしもそれが出来ていれば、彼女が自らシオンさんに向かって、優しい別離を叩き付けることにもならなかったかも知れない。
諦めるのはまだ早いのだから滅多なことは言うなと、俺たちがそれを止められたかも知れない。
そして俺だって――訳があってトゥイーディアには無関心に接さざるを得ないのだと、誰かに伝えられたかも知れないのに。
――いや、俺に掛けられた呪いは、俺の代償は、感情の発露を禁ずるものだから、もしかしたらそう上手くはいかなかったかも知れないが、もしも呪いのことを口に出せて、そのことが話題になるようなことがあれば――ディセントラやコリウスが、もしかしたら気付いてくれたかも知れないのに。
――だがそんなことを、このときの俺が考えたはずもなかった。
まさかこれから千年もの間、俺たちの人生が続いていくなんてことを、想像だにするはずがなかった。
このときの俺は唖然と自分の喉に手を当てて、禁じられた話題を紡ぐための言葉が出てこないことに驚倒していて――
「――不知を恕してやろう、坊」
女王が、先程までの笑みの欠片もない、徹底的な不快感の滲む声でそう言った。
「このディセントラの一部であっても縛めようとは命知らずな。
だが故意ではなかろう――己の所業を知らずに為したのであろう――ゆえに此度は許す、そしておまえは、」
女王が、不愉快そうにムンドゥスを見て、柳眉を顰めた。
傲然と顎を上げてムンドゥスを見下ろすその眼差しに、敬意も畏怖も欠片もなかった。
「この坊の言葉を認めたな。何の権限で然様な真似をする。
――魔王の言では担保にはならぬ、言え」
女王が首を傾げ、赤金色の髪が宝冠のように煌めいた。
「おまえは何だ」
ムンドゥスは、カルディオスに向けていた顔を、今や顔であるという判別すら困難なその部位を女王に向けて、小さく首を傾げた。
ぼろ、と破片が落ちて、俺は息を呑む。
「――わたしは」
ムンドゥスは、俺が声を掛けたときと全く同じように、そう応じた。
「わたしは全て。全てがわたし。わたしは客観。客観は全ての主観。わたしは、全ての人の主観」
俺はムンドゥスの言葉を補完しようとして口を開いたが、必要なかった。
今度は皇太子が、ちらと女王を見遣って遠慮した様子ではあったものの、低く声を出していた。
「――きみは世界か」
ムンドゥスは少しの間、考えるような間を取った。
それから頷いた。
「世界は客観、客観は全ての主観、全ての主観がわたし。――あなたたちの世界」
「どうしてここにいる?」
皇太子が尋ね、ムンドゥスは頼りない動きで俺を振り返った。
「ルドベキアがよんだから……」
「そうではない」
皇太子が遮り、言葉を変えてもういちど尋ねた。
「どうして――きみが世界だというのなら――世界そのものが世界の中にいるのだ。これでは卵の中に親鳥がいるようなものだ」
「…………」
ムンドゥスはまた、少し黙った。
それから唐突に、流れるように歌うように答えた。
「わたしがすべて。すべてがわたし。でも、もうそう在るのではいられない。
とてもいたいの。わたしがつくったものが、わたしの定めにないことをする。たくさんたくさん穴があいているの。たすけてほしいといったのに、たすけてくれないのだもの。とてもいたいの。
わたしはすべてでいられないから、わたしはわたしでいることにするの」
全員が押し黙った。
皇太子と女侯が俺を見て、天秤を見守るような顔をした――つまりは、疑念と信用をそれぞれ皿に載せた天秤を見るような顔を。
一方でトゥイーディアが、初めてはっきりとムンドゥスに言葉を向けた。
「――あなたを傷つけているのは、魔法ですか?」
ムンドゥスはそっぽを向いた。
トゥイーディアが戸惑った様子で瞬きして、もういちど同じ問いを発した。
それに対してムンドゥスは、そっぽを向いたまま、拗ねたように呟いた。
「……きらい、トゥイーディア」
「え」
トゥイーディアが不意討ちに目を丸くして、どうしてか俺を見た。
そしてすぐに、気まずさすら覗かせる仕草で俺から目を逸らせた。
「――どうしましょう、世界そのものに嫌われていました」
「もしそうだとしたら、それは世界の方がおかしい」
俺は思わずそう言って、しかしトゥイーディアが驚いた顔をするのを見ていられず、ムンドゥスに視線を向けた。
ムンドゥスが、訊かれたことには的外れながらも従順に答えることの多いムンドゥスが、どうしてトゥイーディアをその対応の外に置いたのか、俺には分からない。
だが特段、そこに拘る理由もなかった。
それから俺は、トゥイーディアと全く同じことを尋ねた。
「――きみを傷つけているのは、魔法だ。そうだろ?」
「そうね」
ムンドゥスは即座に応じた。
俺は顔を顰めた。
「……あとどのくらい時間があるの?」
ムンドゥスは首を傾げた。
「わからないわ」
「構わぬ」
唐突に女王がそう言って、俺は、そして他の全員も、女王が何を言ったのか分からずにぽかんと彼女の方を見た。
その視線を受けても、女王は俺たち如きが何を見ているのか、そんなことには端から無関心だと言わんばかりに、凄絶なまでに整った顔貌を、ムンドゥスに向けたままでいた。
――本当に、このときのディセントラの威厳は、これから先千年を生きることを考えても、他に類を見ないものだった。
この先千年、美醜の概念が変わらず、ディセントラがあらゆる言葉で称えられてきたことでさえ、ディセントラ本人の意思が働いたゆえではないかと思えてしまうほどに。
「構わぬ。人の世界に、一両日の猶予があればそれで良い」
俺は唖然と口を開けた。
――俺は、少なくとも使節団は、人の世界を永らえさせるために尽力した。
〝えらいひとたち〟でさえ、いちどは世界の延命のために魔法を切ることを決意したのだ。
それを、この女王は。
言葉のひとつも出ない俺とは違って、トゥイーディアが、畏怖すら感じさせる囁き声で尋ね返していた。
「……何を仰います?」
女王がトゥイーディアに目を向けて、首を傾げた。
そのときになって彼女の侍女が、強張った動きで女王の前に立とうとする様子を見せる。
女王は初めて純朴な反応を、即ちはっとしたような素朴な驚きを見せたあと、慈愛深く微笑んで一歩を下がり、元のように演壇に腰掛けた。
なお宙に浮く天蓋の欠片の下の、辛うじて建造物がその形を残している場所だ。
元のように傲然と腰掛けた女王の前に侍女が立ち、粛然と、断固として、俺たちが直接に女王を見ることを阻んだ。
その侍女の後ろで、女王は理の当然とばかりに。
「人の世界には、一両日の猶予があれば事足りよう」
「一両日」
トゥイーディアが繰り返した。
そして、細い声で。
「なぜです。ルドベキアの言っていることは――もう疑う余地もありませんから、事実でしょう。そのうえで、なにゆえ一両日などと仰るのです。まだ生きている者もおります。彼らの寿命も刈ろうと仰せですか」
女王の顔は、俺からは見えなかった。
だがどうやら、彼女は笑ったようだった。
「彼ら? 知らぬ。朕の国は滅んだぞ」
「だとしても――」
勇敢極まりないことに、トゥイーディアは喰い下がった。
女王が、それを面倒そうに払う仕草をする。
「黙りよれ。――朕の国は滅んだ。パルドーラ、そなたに教示をつける暇はない。
だが異論は許さぬ。良いか、人の世界は既に潰えたも同然。
このうえ客観の世界が永らえることに何の意味がある」
皇太子と女侯が、そして俺が、半ば以上はその言の正しさを認めた。
――何も女王が、自国の安泰のみに固執してこのように言ったとは、俺にも思えなかった。
女王はそれこそ客観的に、滅んだ国の数を見て、死んだ人の数を思って、そして、人が人として生活するための経済活動を取り戻すことは不可能に近いと判断したのだ。
大国ヴェルローが生き残っていれば、まだ手の打ちようもあったかも知れないが、世界に栄えた大国は悉く滅んだ。
法も秩序もない中で、残った人々が自力で再建の道を歩むことは困難だ。
それこそ、不可能とほぼ同義であるほどに。
だが、それは分かっていただろうに、分からざるを得ないほどには聡明だっただろうに、トゥイーディアがなおも反駁の口を開いた。
「――だとしてもです」
トゥイーディアが、あの目で女王を見ていた。
あの飴色の目。
何があっても折れないのだと、全世界に向かって宣言するような目。
「たとえ翌日に世界が滅びるのだとしても、残る一日は前に進むもの。
――それが人間でございましょう」
女王が笑ったようだった。珠を鳴らすような声がした。
「可笑しなことを。既に潰えたと申したであろ」
「いいえ、まだです。まだ生きています」
トゥイーディアがはっきりとそう言って、それから瞬時の逡巡ののちに、そっと、呟くように続けた。
「陛下、貴女は――貴女のみを正義としたときに、正しい御方でいらっしゃいますが、」
「然様、朕が正しい」
女王が叩き付けるように宣言した。
その語調に、トゥイーディアが言葉を失ったのが分かった。
「世の金科玉条はこのディセントラの意志のみ。他の正義などは存在せぬ。
――良いか、勝者の他に正義などない」
滔々と、年端のいかぬ子供に言い聞かせるかのように、女王は言葉を並べていく。
「朕はこれまで勝ってきた。勝利とは凱歌をあげて華々しく飾り立てられるばかりのものではない。雌伏を経て掴むものもある――朕はその全てを得てきた。
勝利とは生き残ることじゃ。勝者とは嘗胆の思いで屍山血河を生き抜いた者のことじゃ。
手折るばかりが戦ではない。耐え忍ぶことこそ戦の真髄。生きることは全て戦じゃ。
長閑に暮らす者どもの手綱を束ね彼らが歩む平坦な道を築くために、朕がこれまで戦の中にのみ生きたのじゃ。朕の敬愛する兵卒を異国の地に埋め、その地を我が物としてきたのじゃ。
――そして、勝ってきた」
女王が笑ったことが、見えずとも分かった。
「只の小さな子供が、知った口を叩くでない。
そなたらが生まれる遥か以前より、朕は玉座の上からこの世を見てきた」
もはや口を開く者は一人もなかった。
「国があり民があるからこそ朕があるのではない。朕が、このディセントラが居るがゆえに国があり民があるのだ。一両日を越えて世界が永らえるならば、それもまたこのディセントラの意志が為すことよ。
だが、今の朕にその意志はない。
あるとすれば――」
言葉を切って、女王はムンドゥスに瞳を向けた。
「――そこの。あの童の頼みで人民を手に掛けたのだな」
ムンドゥスは黙って首を傾げた。
何を言われたのか理解できなかったのかも知れないが、もはやどこからも否定のされようはなかった。
女王はムンドゥスからやや視線を外し、呟くように。
「発端は朕のカロックに宛てた書状じゃな。あれを書き換えられるとは、朕の抜かり。
――皇太子、重ねて申すが気に病むな。だが一方、敵は明瞭」
女王が脚を組んだ。
「――あの童じゃ。朕の書状を書き換え、それを契機にレンリティスの民が死んだ。因果は知らぬが魔王、そなたもあれがあってカロックを訪うたのであろ。そなたがカロックに現れたがゆえにあの童もまた姿を見せたというのなら、まこと皇太子、そなたには死神が憑いておるに違いない。――してあの童の頼みで東の大陸が荒れ、手に掛けるに事欠いて朕の国を殺すとは。
一つをとっても死罪でも軽い」
呟くようにそう言って、女王が俺の方を見たようだった。
「のう、魔王」
心底それを不思議に思っているのだという口調で、女王は言った。
「あの童が世双珠というならば、一体あれは幾度殺すことが出来るものなのじゃ」
「――――」
俺は言葉が出なかった。
だが女王の言葉を聞いて俄かに正気に戻ったのか、カルディオスがもがくようにして声を出していた。
「待っ――、違う、アンスが、ヘリアンサスがそんなこと分かってやったわけない。
あいつ、何も知らないんだ」
トゥイーディアが低く、「カル」と呼んだ。
女王に対する無礼を窘めるための、延いてはその無礼ゆえに自分の弟子が懲罰を貰うことを避けるための声だった。
しかし、カルディオスはそれを無視した。あるいは聞こえなかったか。
「あいつ――すごいことをしてるけど、でもあいつ、悪気はないんだ」
カルディオスはそう言った。
必死だった。
彼の全身が震えているのがよく分かった。
「あいつ、いいやつなんだ。世間知らずなだけで、だから、」
「坊」
女王が、溜息のような声で囁いた。
カルディオスが言葉と息を呑み込んだ。
そんなカルディオスに向かって、女王は蕩けんばかりに優しい声で。
「麗しい友愛じゃ。だが斟酌の余地はない。
不知を恕すにも限度があろう」
女王がすっと立ち上がって、大魔術師たちを見渡した。
顎を上げ、目を細める、その完璧な花貌に陽光が映える。
「件の童の為したことは、悪意の有無を超えておろう。
あれは手を出すべきでないところに手を出した」
ちらりとムンドゥスを見遣って、女王は婉然と微笑む。
「魔王の言は真のようじゃな。だが世界には一両日の猶予しか望まぬ。
一両日中に、あの童を除すこととするが」
女王が瞬きして、宣言する。
「――朕の軍門に下る者は申し出よ」




