56◆ ――清算の日:影の足跡
沈黙がどれだけ続いたのか、俺には数えることが出来なかった。
唐突に両耳を巨大な質量で圧迫されたかのようで、沈黙は耳鳴りすら伴っていた。
掌にじっとりと汗を掻いていたことを覚えている。
最初にその沈黙を破ったのは皇太子で、彼は短く息を吐くと、あからさまな苛立ちと若干の当惑を籠めて、低い声を出した。
「――魔王。ふざけるのも大概にするように」
こののち、俺は数えるのも馬鹿馬鹿しいほどにたくさん、コリウスのこういう声を聞く。時にはうるさいと言ってあしらうこともあるようになる。
だがこのときの俺からすれば、皇太子の方を見ることも恐ろしかった。
俺は女王の前に立ち続ける侍女の、その足許の辺りを見たまま、呟く声音で応じた。
「――事実です」
俺の口調の中に何を聞き取ったのか、皇太子が息を吸い込んだ。
そして、もはや半ば笑い出すかのような声で言っていた。
「ならば、そうか。おまえが魔王だというのは、ずっと以前からの事実か」
「――――」
俺は応じられなかった。
ただぼんやりとレイモンドの顔を思い出していて、あの兄貴がこの場にいたら、きっとこの皇太子の言葉にさえ噛み付いて厄介なことになるに違いない、ということを考えていた。
――本当に、どうしてなのか疑問に思うくらいに、俺を全肯定してくれる人だった。
そういう兄貴だった。
カルディオスが、何か言おうとした。
だがそれに僅かに先んじて、キルディアス侯が口を開いた。
「――では、ハルティがわたくしの要請に応じてそこの大使さまを――いえ、失礼、魔王さまを、陛下の国に遣わしたのは、」
俺は顔を上げられなかったが、キルディアス侯が不愉快そうな顔をしていることは、ありありと想像できた。
「あるいは魔法を廃絶するためと? 然様な害悪にこのわたくしを利用なさったと?」
魔法は、この世界での生活の基盤だ。
なるほど魔法を殺すことは害悪だと、俺も散々思ってきた。
だがいざ言われてみれば、こちらもどうにも不快な気がしてくるから皮肉なものだ。
――全身を罅割れに覆われたムンドゥスの姿が脳裏を過る。
俺が魔法を殺すお役目に対して疑問を呈する度に、困った顔をしていたレイモンドやチャールズたちの顔を思い出した。
――俺もようやく、あのときの兄貴たちの気持ちを理解したわけだ。
遅きに失する、皮肉でしかない展開ではあるけれど。
――疲れたな。
唐突にそう思った。
――疲れた。
それにしても俺はなんでわざわざ、馬鹿正直にこの場で質問に答えている?
もはや国と呼べるものは地上になく、これぞまさしく世界の終焉といったこの場面で、どうして女王は俺にあれこれ尋ねるのか。
全身が重くなって、俺は息を吐いた。
それを見咎めた様子で、キルディアス侯が息を吸い込んだ。
「わたくしを――」
キルディアス侯の語調が荒くなるのを抑え込むように、今度はトゥイーディアが声を出した。
彼女はどうやら、自分の弟子が何かを言いたげに俺を見ていることには気付かなかったらしい。
「――なぜです?」
トゥイーディアはどうやら、若干こちらに向かって身を乗り出しているようだった。
落ち着きを取り戻したというよりは、茫然としていたところから我に返ったようだった。
彼女の魔法で見事に更地になった地面を踏む(今から思い返してみれば、地面ごと吹っ飛んで消失させなかっただけ、トゥイーディアもまだ冷静さを失い切ってはいなかったということなんだろうけれど)、軽い、足音ともいえないような音が聞こえた。
「なぜです? ルドベキア、きみのことだから、決してゆえのないことではないでしょう?」
彼女はそう言った。
我に返って最初に出てきた、純粋な疑問といった口調だった。
「きみのことだから、何かやむない事情があるのでしょう?」
――その声に籠められた信頼が、というよりも信頼と名前をつけることすら躊躇うようなささやかで絶対的な何かが、倦怠に溺れそうになっていた俺の足許を支えた。
答えるべきだ、説明するべきだ。
この人たちは何も知らないのだから、知らせて、この人たちがそれぞれ自分の判断を出来るようにすべきだ。
――そう思った。
「それは――」
応じようとした俺の言葉を遮って、とうとう堪りかねたという様子で、カルディオスが口を開いた。
口の形を待たずに声が転がり落ちたのだというような、縺れた声だった。
「なんで?」
俺はカルディオスの方を見た。
今からそれを、どうして俺たちが魔法を殺そうとしていたのかを説明しようとしているのに、どうしてこいつは重ねてそれを訊くのだろうと思った。
――違った。
トゥイーディアの傍に立ち尽くすカルディオスは、翡翠色の大きな目を見開いて俺を見て、殆ど咳き込むようにして、俺に尋ねていた。
「なんでアンスを殺そうとしたんだ?」
「――――」
俺はまじまじとカルディオスを見た。
――俺は、知らない。今であっても、カルディオスとヘリアンサスの関係を知らない。
カルがどれだけの時間をヘリアンサスと共にしていたのか、どういう遣り取りをしていたのか、ヘリアンサスをどう思っていたのか――それを知らない。
だが、たぶん、決して悪い間柄ではなかったのだ。
ヘリアンサスの方が本心でカルディオスに接していたのかどうか、俺には判断がつかないが、少なくともカルディオスは本心から、ヘリアンサスに好意を向けていた。
俺が黙っているので、カルディオスが再度口を開いた。
同じことをもういちど尋ねようとしているのが分かった。
結局俺は、それを遮るためだけに声を出し――どうしてそうしたのか、俺にとっても理由は不明瞭で、もしかしたら俺はヘリアンサスを殺そうとしたことに対するなけなしの罪悪感から逃げようとしたのかも知れない――、言った。
「――俺たちがヘリアンサスを……魔法を殺そうとしてたのは……そうしなきゃならなかったのは、」
カルディオスから目を逸らして、俺は女王の方を見た。
粛然と立ち尽くす侍女の向こうで、女王は泰然とした興味を湛えた瞳で俺を見ている。
底知れない淡紅色の双眸はいっそ人間離れして、眼窩に生きた宝石を埋め込んだかのようだった。
「――魔法が世界を殺すからです」
俺がそう言い、同時にどよめきが、驚きのゆえのものではなくて意味を取りかねたがゆえのどよめきが大魔術師たちの間から上がったが、カルディオスと女王は声を出さなかった。
カルディオスは恐らく、俺の返答が理解の埒外だったのだろうし、女王は何かを少し考えるような表情になっていた。
「ルドベキア、どういう」
トゥイーディアの声がしたが、俺はそちらを見なかった。
女王の方を見ていた。
今や女王を納得させることが最優先だった。
女王さえ納得させることが出来れば、後はどうにでもなるのだと分かった。
そして今、誰よりも冷静に俺の言葉を聞き取っているのもまた、女王をおいて他にはなかった。
女王が僅かに首を傾げる。
俺に話の続きを促す仕草だった。
――俺は息を吸い込んで、レイモンドが俺にこのことを説明してきてくれたとき、どういう順番で話してくれたのかを思い出そうとして、それを辿る。
「魔法というより――魔力そのものが害毒で」
女王が小さく身を乗り出し、俺をまじまじと見ている。
彼女はその凄絶なほどに整った顔を、今や隠すことも咎めることもなく俺に見せていた。
「魔力がどこから人間の中に来るのかは、古老長さまもご存知ありませんでしたが、少なくとも確かなのは、」
古老長さま、と俺が口に出した瞬間に、女王が微かに唇を歪めた。
それは笑みにすらならない微細な感情の発露だった。
「有史以来――いや、有史以前から、この魔力が、つまり正体不明の災害が、この世界に送り込まれ続けているということです」
俺は必死に記憶の中のレイモンドの言葉を辿っていて、視界は女王に固定されていた。
この瞬間の、他の大魔術師やカルディオスの疑念や驚愕の表情を、だから俺は見ていない。覚えていない。
「ですが、この世界には自浄作用がありますから――あるはずでしたから、」
女王は、これまでで最も注意深い目で俺を見ていた。
まるで、俺を通して俺にこの真実を話して聞かせたレイモンドまでをも覗き込んで、その言葉の真偽を確かめようとしているようですらあった。
「世界そのものが俺たちを、つまり人間を創って――」
声が震えた。
もっと早くに詳らかにすべきだった事実を話しているうちに、そんな場合ではないのに、安堵すら覚えそうになっていた。
女王にはそういう――この人に分かってもらうことさえ出来れば何とかなるに違いないという――盲目的な感覚を植え付けるような雰囲気があった。
「――俺たちの、つまり人間の価値は、この身体で、」
俺が軽く自分の胸の辺りを叩いてそう言ったときに、なぜだかは知らないが、カルディオスが怯んだ様子だった。
だがその理由は、今であっても俺は知らない。
「人間の身体は、魔力を受け取るための器で、魔力の濾過装置のようなもので――つまり、人間の身体を通った魔力は、世界にとって無害になります。
魂は身体を動かすためのもので、この二つはムンドゥスが――世界そのものが、自浄作用として創ったものです。
命は魂を身体に固定するためのもので、だから命の有無は魂に遵うわけですが――」
“自我はどこに依存すると思います?” と尋ねるレイモンドの声を、俺は覚えている。
「――精神は違います。
精神だけは偶発的に、あの子の慮外の産物として出来上がったものだそうで、」
女王が瞬きする。
だがそれ以外には、表情に特段の動きはなかった。
「精神が魔法を使いますから、」
俺は続ける。
女王の、彫像のような頬の辺りを見ながら。
「世界にとって計算外の産物が、魔力を、つまり世界にとっての害毒を使って、世界の法を変えてしまうのが魔法ですから、魔法が――世界を傷つけます」
女王が首を傾げ、俺は黙った。
女王が口を開き、言葉を滑らかに並べるのと全く同時に、もしやと疑うような声音で、皇太子が発作的に言葉を吐き出していた。
「――その結果が〈洞〉か」
「――その結果が〈洞〉とでも言うつもりか?」
ぴたりと重なった二人の言葉に、俺はやや狼狽え、女王と皇太子を見比べてしまう。
これは単純に、二人の察しの良さへの当惑だった。
だがそれを数秒で呑み込んで、俺は頷く。
「……はい。魔法のために、〈洞〉が増えているわけですし――」
息を吸って、俺は呟く。
「――世双珠は、世界にとっては、魔法に勝る害毒です。
何しろ造りが世界と同じで――同じように世双珠もどこかからか魔力を享けているわけですから、世界にとっては――世界をいくつも抱え込んで、直接毒を流し込まれているようなもので」
キルディアス侯が息を呑んだ。
俺が咄嗟に言葉を切って彼女の方を振り向くと、女侯は目を見開いて俺を見ていた。
そして、やや高い声で言った。
「もしや――もしや、世双珠の産出量が減少しているというのは、ただの方便でしたか。魔法は大抵、世双珠を用いるもの――世双珠を廃すことで魔法そのものを廃そうとでもなさったの?」
俺が咄嗟には答えられないでいる数瞬に、キルディアス侯の言葉にはっとした様子で、トゥイーディアが呟いた。
俺は反射的にそちらを見て、トゥイーディアの、驚きと納得が半々の、傷付いたような顔を見た。
「そ――それならもしや、条約に反対されたのもそのためですか? 殿下と――」
そう言って、皇太子の方を見たトゥイーディアの飴色の双眸が揺れる。
間違いなく、自分の領地に起こった惨劇のことを思い返したがゆえだった。
「――殿下と私が、世双珠に依らない魔法を発達させるのが、ハルティの意図に反したがゆえですか?」
皇太子の瞳が、さっと翳った。
唐突に、濃紫の瞳そのものが凍り付いたかのようになった。
そして彼が、喉に絡んだような声で、小さく何かを言った。恐らく、「そもそも世双珠を輸出していたのはハルティだろう」といったようなことを。
だが明瞭には聞こえず、対して女王の、気怠げな声が――殆ど独り言のような語調が――聞こえた。
「――そう上手くはいくまい。古老長と申したか、ハルティのあれとは会うたこともある。――あれほど魔法の文化に執心の人間もおるまいて」
俺は息を吸い込んだ。
確かに古老長さまは、若かりし頃に女王にも会ったことがあると言っていた。
だがいざそれを肯定されてみると、この女王と古老長さまが相対するとすれば、どれほど恐ろしい場になるだろうかと思わざるを得なかった。
皇太子が、ぱっと女王を振り返って見た。
銀色の長い髪が閃いた。
彼の表情に、俺には理解できない何かの納得が、唐突に降ってきたかのようだった。
「――お知り合い?」
やや大きな声でそう尋ねて、皇太子は確認するかのように。
「古老長……といいましたか、聞くにそれがハルティの元首ですか」
そう言われて初めて、俺はハルティ諸島連合の、元首というにも相応しくはなかったあの人を指す呼称が、海を越えた向こうには一切伝わっていなかったのだと知った。
「それと、女王陛下、お知り合いでいらしたと?
――だからあれほど条約の破棄に強硬でいらしたのですか。そのお知り合いに頼みを受けられたとでも仰せか」
女王が微笑んだ。
淑やかな、温厚な笑みで、いっそ少女めいてさえ見えるほどに若々しい表情だった。
――そして、その赤い唇から、ぴしゃりと言葉を吐き出した。
「礼を弁えるか、腕一本を落とすか、選ばせてくれよう」
皇太子が一歩下がった。
同時に言葉も呑んだようだったが、女王はその皇太子をまじまじと目で追って、典雅に首を傾げていた。
「――とはいえ、許す。
そなた、以前も戯言を申しておったな。条約――」
女王が睫毛を瞬かせ、視線が翻ってトゥイーディアを見た。
俺は訳もなくトゥイーディアの前に立ちたくなったが、トゥイーディアは一瞬怯んだようではあったがすぐに、彼女らしい澄んだ眼差しを伏せて、女王の足許辺りに視線を遣りつつ、低い声で言った。
「――わたくしパルドーラと、カロックの皇太子殿下で骨子を固めました条約は、陛下のお気に召さないものであったと記憶しておりますが」
女王は瞬きし、ああ、と小さく声を漏らした。
――まるで、自分がレンリティスに使者を差し向けたことで、あのときどれだけ王国の中枢が混乱に陥ったのか、そのことを想像したことがないと言わんばかりだった。
「――ああ、然様であったな。一度は批准はならぬと言い渡したというのに、そなたらは頑なであったな」
「結局お許しには与れませんでしたが」
皇太子が小さく、だが断固として言い、そのとき初めて女王が眉を寄せた。
「なに?」
「お許しになりませんでしたでしょう」
皇太子が重ねて言った。
彼は真っ直ぐに女王を見ていて、これを弾劾するためならば、腕の一本程度は惜しくないと思っていることが俺にすら分かった。
「ご記憶でないと仰るようでしたら、さすがに私も今一度、陛下のお怒りを買う真似をせねばなりません。
――父に書状を送っていただいた。あくまで条約を批准するならば私の親友を――私の妃を人質に寄越すようにと――」
トゥイーディアが、唖然とした顔で皇太子を振り返った。
その隣のカルディオスは、一体何の話がされているのか分からないといった表情だったが、キルディアス侯は恐らく、既に聞いていた話だったのだろう――むしろ女王の反応を見るように、まじまじとそちらへ視線を向けていた。
そして女王は、今や怪訝を隠そうともせずに、ひたすらに皇太子を眺めて眉を顰めていた。
しばらくそうしていて、やがて、居丈高に言い放った。
「何時のことじゃ」
「調印式の日取りが決まった後です」
皇太子が即答した。
その濃紫の目に、軽蔑にも似た激怒が閃いていた。
「ご記憶にないと仰る? あれが――あれのために私が――」
「お待ちを」
トゥイーディアが割って入った。
一歩前に出て軽く手を上げる、彼女の指先が震えていた。
「お待ちを、殿下。では――では殿下は、それがあったから、」
トゥイーディアが瞬きを繰り返し、混乱に震える唇で、戦慄くように呟いた。
「陛下がわたくしどもとの条約をお許しにならなかったから――皇太子妃殿下の御身が危うくなったがゆえに、わたくしの領民をあれほど犠牲にしたと仰る?」
皇太子が言葉に詰まった。
彼がトゥイーディアを振り返って、しかしすぐに目を逸らして、女王の方に視線を戻しながら、極めて小さく呟いた。
顔貌は蒼白で硬かった。
「神罰も恨みもいくらでも。
私にでしたら、死の幕の向こうでそれこそ千年の業罰でも」
「どうして――」
トゥイーディアが口走った。
「どうして理由をお話しくださらなかったのです」
「条約を反故にしたいと?」
皇太子が、激しいまでの語調で反駁した。
いっそ失笑を堪えるようですらあった。
「理由を話してご納得いただけたとでも? いや、いい――あなたは、貴族とは信じ難いほどに純朴な方だ、いい。
だが、あなたの後ろの国王陛下は?
レンリティスにも、女王陛下の使者は向かわれたでしょう? それを、我々カロックとの連合を視野に入れて、あなた方は条約締結に動かれたわけだ。
――あのとき我々がそれを一方的に反故にしたとなれば、――戦になることは目に見えていた」
皇太子が、まずは自分を、それからトゥイーディアとキルディアス侯を示した。
「大魔術師は、こちらに一人、あなた方に二人。
――戦になれば、我々の国土が無事で済まなかった」
「だからレンリティスを削り――あぁ」
トゥイーディアが、唐突に、全て納得したと言わんばかりの吐息を漏らした。
彼女が顔を覆ったので、俺は瞬間、彼女が泣き出すのではないかと思った――だがそんなはずはなかった。
彼女はただ、表情を他人に見せたくなかっただけだろう。
「――私ですね。私の地位を、なるほど、殿下、あなたが貶めたわけですね。
私とキルディアス閣下――レンリティスの防衛の要は私ども二人、自惚れではありますまい。ですから殿下は、どちらかを手折ってしまわれる必要に迫られたと、そういうことですね。
――私の領地と閣下の領地を秤に掛けられましたね」
トゥイーディアが顔を上げ、俺がこれまでに見たこともない、軽侮のありったけを籠めた眼差しで皇太子を見て、冷ややかに呟いた。
「――閣下の領地と比して、私の領地の人口は少ない。穀倉地帯も有してはいなかった。そういうわけですか。
――ですか殿下、一人一人が人間だったのですよ」
「こちらもだ」
皇太子が応じた。
声は苦々しかったが芯が通っていた。
「我々の国にも、一人一人の人間がいて、人生があった」
「それが、私の領民の人生を奪う大義になるものですか」
トゥイーディアが吐き捨て、さっと女王を振り返った。
そして、詰るように言っていた。
「――女王陛下、皇太子殿下のなさったことは、さしもの陛下であっても慮外のことでございましたか」
女王は黙って、湖面のように静かな表情で二人の大魔術師の遣り取りを眺めていた。
だが、ここに至って短く言った。
「――朕ではない」
「――――は?」
皇太子が呟いた。
一気にその顔貌が蒼白になったが、当惑のためではなかった――怒りのためだった。
「まだそのようなことを――」
「――朕ではない」
女王は単調に繰り返した。
そして、すっと立ち上がった。
なよやかな立ち姿ではあったが、その仕草ひとつで、皇太子もトゥイーディアも、即座に口を閉じて一歩下がった。
皇太子の怒りでさえも損なわれたかに見えた。
女王が立つと同時に、粛然とその前に立っていた侍女が頭を下げ、ややぎこちない動きで半歩、斜め後ろに下がる。
それも相俟って、ここが突如宮廷に早変わりしたかのようでもあった。
女王は立ち上がり、気怠そうに首を傾げ、そしてその仕草ひとつでさえ、匂い立つほどに美しく――それから、端的に言った。
「朕ではない。朕は許して遣わした。その方らから朕へ使者を立てるようにと命じはしたがの。
――そなたの妃? 求めておらぬ。我がヴェルローには朕が、このディセントラという花がある。二輪は要らぬ」
女王はそう言って、立ち上がったまま軽く腕を組み、目を閉じた。
そうするとその花貌はいっそう作り物じみて見えた。
瞼は極限まで薄く削いだ大理石のようだった。
廃墟というにも烏滸がましい、更地の中に残った教会の破片のようなその場所の前で、しばしの沈黙が場を席巻した。
俺はどうすれば良いのか分からず、半ば途方に暮れるような気持ちだったが、何にせよ声を出せるような雰囲気ではなかった。
皇太子は毒気を抜かれたような、不意を突かれた顔をしていた。
目を見開いていて、俄かに恐怖がその足許を浚おうとしているようだった。
――何かの決定的な誤謬があったのだと、ここに至って突き付けられて、急速に血の気を失っていっているかのような。
やがて、ふっと女王が瞼を持ち上げた。
そして、微笑んでカルディオスに視線を向けた。
カルディオスは、さながら蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
大僧正に相応しい、慈悲深いまでの眼差しでカルディオスを見て、女王は。
「……のう、坊」
優しく、静かに、そう呼ばわった。
「坊、存じておろう。ヘリアンサス、と申したか――成程、そなたとあの童は共に居ったのであろ。
――もはやあれ以外には有り得ぬ」
断言して、女王は決然と。
「このディセントラの目から零れるとすれば、あの童以外には有り得ぬ。
――坊、申せ。あの童、よもや何某かの手で以て、そうよのぅ――声でも文字でも。朕の言葉を偽ることが出来ようものかな」
カルディオスは、大国の君主に真っ向から言葉を掛けられて、茫然としたようだった。
それから一歩下がり、縋るようにトゥイーディアを見た。
トゥイーディアもそれに気付き、こんな場合であっても弟子を庇わねばならないと思ったのか、小さく囁いた。
「――カル、怖いなら私に仰い。私から陛下にお伝えするから」
カルディオスが小刻みに頷き、女王ではなくトゥイーディアを見て、呟くように言った。
「……分からない」
「本当に?」
トゥイーディアが辛抱強く尋ねた。
――本当に辛抱強かった。
たった今、自分の領民を殺めた相手と、まさにその事柄について言い争ったばかりだったのだから、心穏やかであったわけがない。
だがそれを堪えて、感じさせずに、トゥイーディアは静かに尋ねる。
「何か――些細なことでもいいから、何か、知らない? きみのお友達が、たとえばそうね、紙に書いた文字を変えてしまったとか」
カルディオスは首を振り、しかし直後、はっとしたように口許に手を当てた。目が泳いだ。
「――いや、一回だけ……あいつが、板に書かれた内容を変えたのは見たことがある……」
「本当に?」
トゥイーディアが、さすがに色めき立って問い詰め、カルディオスは怯えたようにびくりと肩を震わせ、目を上げた。
「いや、でも、違う。あいつ、いいことをしたんだよ。ほんとに、あの子のためで……」
カルディオスが両手の指先をそれぞれ合わせ、そのうちの人差し指だけを、互いにくるっと回した。
「……それにあいつ、そんな大それたこと出来ないよ。あいつ、何も知らないもん」
トゥイーディアは聞いていなかった。
彼女は女王の方を振り返っていた。
女王は莞爾と微笑んで、再び石壇に優雅に腰掛けたところだった。
「――よい、腑に落ちた。
皇太子、何も悔いることはない」
朗らかなまでの声音でそう言って、女王はいっそう笑みを深める。
その笑みに少なからぬ狂気的なものを感じて、俺は恐ろしい。
「虚偽であろうが悪意であろうが、朕の名の下に起こったことよ。
このディセントラは、己の影が踏む場所にすら憐れみをくれてやろう――責は負うてやるゆえな」
そう言って、女王は再び俺に視線を向けた。
「さて、ハルティの魔王。
そなた、あの童にまさか条約の破棄を願い出たのではあるまい?」
「違う!」
思わず、意図した以上の大声が俺の口から出た。
「違います――俺たちだってずっとあいつを捜していました。
第一、あいつが魔法を殺すのに協力するわけがない――あいつにとっては自殺です」
女王は目を細めた。
「騒ぐでない、不愉快じゃ。
――話を戻す。古老長、あやつだ。あれが魔法を縊るものか。ハルティとて一枚岩ではなかったのであろ?」
躊躇ったものの、俺は頷いた。
そんな俺を見て、キルディアス侯が小さく鼻で笑った。
「――ご苦労なさったご様子でなにより」
「閣下」
トゥイーディアが、窘めるようにそう呼んだ。
明瞭な苛立ちが声に籠もっていた。
「少しはお口を慎まれませ。あるいはあなたを曲がりなりにも才媛と思ってきた、私の目が曇っていたのかも知れませんけれど」
「同じ言葉を返します」
キルディアス侯が、つんとした声音でそう返した。
「そもそも魔法と魔力が世界にとって害毒などと、証左もないのに鵜呑みに出来ますか。歴史の全否定にも程があります」
「――証拠?」
思わず俺が割って入り、そうしてトゥイーディアとキルディアス侯の顔がこちらを向いた。
俺は苛立っていて、それは俺がこうして事実を話しているにも関わらず、一向に信用が得られない――そのことに対してではなくて、トゥイーディアを傷つけるこの世の万物に対してだったが、ここへきてそれが、意地の形で姿を見せつつあった。
――あのとき、あの子は何と言ったか。
俺がレンリティスから諸島に戻されたとき、俺はあの子にいちど会っている。
そしてあの子は――
『よべばいく、ルドベキア』
あのときのあの子の声を思い出して、俺は息を吸い込んだ。
「――俺の言葉ではご信用に足りないと仰るなら、」
キルディアス侯も、皇太子も、俺の言葉を信じていないことはありありと分かっていた。
トゥイーディアでさえ、さすがに疑っていることだろう。
カルディオスは恐らくそこまで頭が回っていなかっただろうし、女王は俺の言葉の中の真実を推し量っていたかも知れないが――
だが、待っていられない。
信用を得るまで待てない。
俺は、理由もなくトゥイーディアを傷つける側に加担したのだと思われたくない。
俺が、何かやむない理由があって魔法を殺そうとしていたに違いないという、彼女からの信頼を、数秒であっても裏切りたくない。
「――だったら、世界そのものにご説明いただきますか」
俺がそう言い切って、さすがにその場の全員に――いや、女王の侍女だけは、相も変わらず粛然と立ち尽くしているだけだったが――、色濃く怪訝の影が見えた。
トゥイーディアが首を傾げ、眉を寄せる。
「……ルドベキア? どういうことです?」
俺は息を吸い込んだ。
太陽はやや高く昇っていたが、それでも今日の空気は冷えていた。
そして俺は、あのとき――〝えらいひとたち〟が人間ではない何かに変じたあの夕方、あのときにしたのと全く同じように、声を出した。
「――ムンドゥス!!」
一瞬の静寂、そして、
「――なあに」
耳障りに掠れた声がして、どこからともなく現れた、罅割れに潰れたような小さな女の子がその場に立って俺に応じた。
さすがに息を呑む大魔術師の間で、カルディオスが愕然とし、声も言葉も失った様子でその女の子を指差したのは間違いなく、ムンドゥスがその両手で、まるでぬいぐるみを抱えるかのように大事そうに、例の機械を――カルディオスが造り魔法技術展に展示されたあの機械を、包み込むようにして抱き締めていたからに違いない。
ムンドゥスは、俺が心からひやりとしたことにその場で僅かによろめいて、しかしすぐに俺を見上げ、いやその顔貌すらも罅割れに覆われて目の位置すらも定かではなかったが、言った。
「なあに、ルドベキア」
女王ディセントラが、言葉の綾とはいえ、「我が国に(自分と並ぶ)花は要らない」とコリウスの親友(妃)のことを言ったのは、
言葉の上であっても彼女を自分と同格に見ているということで、亡くなった彼女への最大限の敬意と弔意の表れです。




