52◆ ――〈己の言葉に裏切られる〉こと
俺はもちろん疲労困憊の極致にあった(し、そもそも本来ならば渇きと飢餓で動けない状態だったはずだ)し、キルディアス侯はキルディアス侯で、恐らくは何かの厄介事、あるいは揉め事に巻き込まれた後のようだった。
つまるところ、連れ立って歩いている二人が二人とも亀の歩みであって、のろのろとした行進は遅々として進まず、然程距離を稼げないうちに夜が帳を下ろした。
キルディアス侯は無言で、いっそ俺が唖然とするほどに何の声掛けもなく、ある瞬間にぴたっと足を止めてその場に座り込んでしまい、俺はそこから数歩進んで、やっと後ろの足音が途絶えたことに気付いて振り返り、「えっ」と声を出してしまった。
何と声を掛けたものか、俺がおろおろしているうちに、キルディアス侯は花びらのような色合いの薄紫の瞳で俺を一瞥して、心底からの軽蔑を感じさせる口調で言っていた。
「――まさか、わたくしを夜通し歩かせるおつもりで?」
「――――」
俺は瞬きし、口を開き、しかしながら何を言う気力ももはやなく、首を振ってその場に座り込んだ。
丈の低い草が生い茂っていて、芯に硬さを感じさせる柔らかさが俺の体重を受け止めた。
いちど座り込んでしまえば体重が三倍にもなったように思え、俺は座っていられずにその場に寝転んだ。
背中にちくちくと草が当たる。
耳許で草が擦れる柔らかい音がした。
昨夜と変わらず、天穹は見事に星が煌めく様を見せていた。
一方で進行方向に首を傾けてみれば、もはや明々白々だった――夜陰を散らすほどに明るく、誰かの、あるいは複数人の魔力が、俺の目にのみ見える光となって、恐らくは既に廃墟となっているであろう町を照らしている。
――あそこに大魔術師の誰かがいるとして、
と、俺はぼんやりと考える。
――そいつはトゥイーディアの行方を知っているだろうか。
だがよくよく考えてみれば、トゥイーディアの行方を知っている誰かに会ったとして、俺がそいつに何を訊けばいいのかは、俺自身にすら曖昧にしか分からなかった。
トゥイーディアは無事だと言われれば安心するだろうが、この状況だ、その安全がいつまで続くか分からなくて不安に思うことは目に見えている。
だが一方で、トゥイーディアの居所を教えてもらえたとして、俺が会いに行きたいかと言えば、それも否だった。
会いたくないわけでは決してなく、彼女の表情や声、仕草の全部が懐かしく愛おしかったが、だがもはや合わせる顔がないということは明らかだった。
俺は彼女にあれほど悲痛な顔をさせたし、俺の行動は彼女を裏切るものだった。
だからもしかしたら、俺は彼女が無事だと聞いた途端に、安堵余って今度こそ自ら命を絶つかも知れなかった。
むしろ考えてみれば、それが順当で妥当な気もしてくる。
俺が死ねば、ヘリアンサスも少しは冷静になってくれるかも知れない。
――そんなことを考えながら、俺は微睡むような睡眠をとった。
目が覚めたのは夜明け前で、ふと意識が覚醒したのは例の、ささやかな声が聞こえたからだった。
――お呼びが掛かっています。
トゥイーディアの声だ。
淡々とした声。
ふらつきながら上体を起こし、霞む目を擦って、徐々に明るさを取り戻していく原野を見渡す。
まだ日は昇っていなかったが、昇る太陽の気配に、夜が逃げ出しつつあった。
辺りは薄墨色の紗に包まれたようではあったが、確かな明るさの気配がある。
俺から少し離れた場所で、キルディアス侯も俺と同様に目を覚まし、身を起こしていた。
恐ろしいほどに不機嫌な表情をしていて、俺はそれをちらりと見て、トゥイーディアの声は決して俺の幻聴ではないことを確信すると共に、ああ本当にこの人はトゥイーディアのことが嫌いなんだな、と納得した。
恐らく、聞こえてきた声が他の人のものであれば、侯もここまで不機嫌な顔はするまい。
キルディアス侯はその不機嫌な顔のまま、しばらくは何をするでもなくその場に座っていて、やがて大きな溜息を零して顔を押さえたあとに、ふらふらと立ち上がった。
俺と同様、彼女も少なくとも丸一日以上は飲まず食わずであるはずだった。
そしてこれもまた俺と同様、彼女の命もまた、そういった生理的な事象とは切り離されている様子で、生命に関わるほどには衰弱している様子はなかった。
キルディアス侯から一拍遅れて、俺も立ち上がった。
何か声を掛けるべきかとも思ったが、今までに見たことがない程に不機嫌そうな表情を浮かべているこの人に言葉を掛ける勇気もなく、俺はただ淡々と、昨日に比べて少しは近くなった、町の影を目指して足を進める。
そのまま俺たちは、特段声を掛け合うでもなく――今から思えば、こいつは決して多弁な奴ではなく、むしろ会話においては頷きすらも返答の一種と思っている節もあるくらいだから当然ではあったが――、のろのろと足を進めて町に向かった。
足を引き摺るようにして進む歩みは遅く、景色は一向に変わらない。
時折足を止めて座り込むことはあったが、そしてその場合の多くが、キルディアス侯が何の前触れもなく足を止めるものだったから俺は当惑したが、長く休むことはなかった。
トゥイーディアの声は時折、切れ切れではあったが聞こえていて、俺はそのうちにすっかり、あの町の影の中にトゥイーディアがいるに違いないと思い込むようになっていた。
いや、思い込んだというよりは、そうであればいいという切望だったかも知れない。
彼女の無事を確かめたいという気持ちは、他の何にも勝って大きかった。
そうしているうちに太陽は動いて、俺たちの頭上に昇ってまた沈んだ。
暗くなった原野で、俺たちは足を止め、座り込み、横になり、再び満天の星を仰いだ。
町の影はもう随分と近くなっていて、煌めくばかりの魔力の光は、音のない噴水が盛大に夜空に向かって打ち上がっているかのように華やかに見えた。
その夜には、ぽそりと一言、キルディアス侯が俺に声を掛けてきた。
「……あの町にいらっしゃるのがどなたか、まだお分かりになりませんか」
俺は微睡み掛けていたが、声を掛けられてはっとして、回り切らない頭で応じた。
「――実際に、お顔を見るまでは、なんとも」
キルディアス侯は少し沈黙したあとで、「然様ですか」と答えた。
それきり声はなかった。
翌朝、やはりまだ暗いうちに目を覚ました俺たちは、お互いに何の声を掛け合うでもなく、のろのろと立ち上がって、また遅々とした歩みを再開した。
だが、どれほど亀の歩みだろうと、俺たちが疲労したぶん、目的地までの距離は縮んでいた。
俺の目には辺りがますます明るく輝くように見え、何度も何度も、意識して魔力の光を見ないようにしなければならなかった。
そうやって、ひたすらに俯いて歩みを進めているうちに、さらさらと小川の流れる音が聞こえ始めた。
どこかに水の流れがあるのか、と考えているうちに、地面は緩やかな上り坂を描き始め――俺たちは何しろ疲労困憊していたから、その僅かな傾斜ですらも昇ることには非常な労苦を伴ったわけだが――、いっそう遅くなった歩みで、さながら雲を衝くような山を越えるような気持ちで、俺たちはその坂を昇り切った。
その頃には、太陽は中天に達していた。
眩しい陽光に目を細め、肌に当たる熱に確かに春の暖かさを感じながら、俺は足を止め、坂の上を見渡した。
――が、視界が白く潰れてよく見えない。
俺はぎゅっと目を瞑り、眉間に力を籠めて、無理やりに視界を切り替え、もういちど目を開いた。
――そして、絶句した。
そこはもう町の目の前で――町というよりもそれは、予想に違わず既に真新しい廃墟となって崩れていたけれど――、その町の残骸の手前、俺の足許から十数フィートのところを横切るようにして、川幅こそ狭いものの、抉れたように底の深そうな小川が、勢いよく流れていた。
地面に鋭角に切れ込む小川を挟む両岸は、さながら水流を他の目から覆い隠そうとするかのような、ごつごつとした岩場になっている。
その岩場に腰掛けて、勢いよく流れる川面を眺め、飛沫を目で追っている――
「……――トゥイーディア」
思わず、ぼろっと声が漏れた。
その名前が唇から漏れることだけは堪えられなかった。
一気に両脚から力が抜けて、俺は危うくその場に倒れ込みそうになった。
――生きてた。生きてたのか、トゥイーディア。
俺の、潰れて掠れた声が聞こえたのか、トゥイーディアが顔を上げた。
身に着けたドレス――いや、ドレスというよりは、以前はドレスだったのだろうと察することの出来る、傷んだ衣裳といった方が正しいかも知れない――は元の色が分からないほどに汚れていて、岩場に行儀よく揃えて置かれている、彼女の小さな両足を包む靴も同様に、汚れて傷んでいた。
肌にも埃がついていて、見ていて俺の胸が潰れそうになるほどだったが、しかし、蜂蜜色の髪は几帳面に半ばが結い上げられていた。
髪が傷んだ様子はあったが、それでも解れをほぐして結紐を通したことが分かった。
こんな場合であってもそういった点に気を配るところが、涙が出るほどトゥイーディアらしかった。
その蜂蜜色の髪が揺れて、トゥイーディアが俺を、俺たちを見た。
双眸が大きく見開かれた。
あの目だった。
あの飴色の瞳。
俺を恋に落とした強い瞳。
あのとき――カロックの皇太子を前にして、最後に浮かんだあの眼差し。
ぼろぼろになっていてなお、それだけは折れることはないのだと全世界に向かって宣言するような――凛と澄んだ飴色の双眸。
刹那、目が合った。
俺は泣けばいいのか笑えばいいのか、それともこの場で踵を返せばいいのか、あるいは膝を突いて許しを請えばいいのか――どうすればいいのか分からずに、茫然として突っ立っていた。
キルディアス侯はどんな顔をしたのだろう――俺には見えなかった。
目が合った直後、トゥイーディアは、俺が思いも掛けなかった反応を示した。
俺を詰るでも軽蔑するでもなく、焦ったように肩を跳ねさせ、慌てた動きで岩場から降りて、俺たちからすれば小川の対岸に当たる位置に立ち、いっそ狼狽すらしたような態度で足踏みしたのだ。
表情が目まぐるしく変わったが、結局は危機感の色濃いものに落ち着いた。
そして、咄嗟のようにこちらに掌を向けた――制止するかのような動きだった。
そうしてから町の方を半ば振り返り――
「…………?」
俺はぽかんとしていた。
トゥイーディアの仕草の意味が、いまいちよく分かっていなかった。
だが一方のキルディアス侯はといえば、愕然とした様子で唇に手指を宛がって、息を呑んだ様子だった。
キルディアス侯が、ぽそ、と、何かの言葉を一言零した。
あとから思い返してみれば、それは彼への呼称の何某かを唇に昇らせたものだったのだろうが、全く頭の回っていなかった俺は、それすら聞き逃していた。
そしてもはや、トゥイーディア以外の誰も目に入らなくなっていた。
俺は馬鹿みたいにぼうっとして、全く何の考えもなしに一歩前に進み、
――直後、トゥイーディアの向こうからこちらへ向かって、それこそ突進じみて距離を詰めて来た人物が、そうだ、彼は架け橋も何もなく、空気を踏んで小川も越えたのだ、突進の勢いそのままに拳を振り被り、渾身の力で俺の頬を殴りつけていた。
俺からすれば、突如目の前に火花が散るような衝撃に見舞われたに等しかった。
口の中が燃え上がるように痛んだ。
目が眩み、視界が回る。
俺は呆気なくその場に引っ繰り返って青空を拝むことになったが、尾骶骨の辺りに激烈な痛みを覚えると同時に、今度はその襟首を掴み起こされ、何度もその手を振り動かされて、視界がぐるぐると回り始めた。
息が詰まり、吐き気が込み上げる。
だが吐くものももはや無かったので、俺は空気が胃袋いっぱいに詰まったかのような感覚に襲われる。
もういちど殴られた。
今度は蟀谷の辺りだった。
俺は混乱して、どうしてここに〝えらいひとたち〟がいるのだ、と、間の抜けたことを考えた。
脳みそが勢いよく混ぜ合わされたかのように、意識が朦朧となった。
ちかちかと視界が点滅する。
襟首をなおも掴まれ、揺らされ、その点滅に拍車が掛かる。
「――殿下!」
悲鳴じみた声が聞こえた。
この状況であっても、俺はその声を聞き違えられなかった。
トゥイーディアの声だ。
彼女が悲鳴を上げて、恐らくは――彼女も魔法の補助を使ったのだろうが――小川を越えて、こちらに駆け寄って来たらしかった。
視界の隅に、彼女らしき影が映った。
そしてそれを認識するに至ってようやく、俺は、俺の目の前で、倒れ込んだ俺に跨るようにして膝を突く、烈火の如き憤怒を以て俺を睨み据える男性を視界に捉えた。
俺はぽかんと口を開ける。
そして間髪入れず、俺が死を覚悟するほどの勢いと躊躇の無さで、今度は顎を殴り上げられた。
がくん、と、何かの段差を踏み外したように視界がずれる。
俺の喉から変な声が出て、そいつが俺の襟首を掴んでいなければ、俺は後頭部を地面にぶつけていたところだった。
「殿下!」
もういちど、トゥイーディアの声。
彼女が傍まで来て、俺の襟首を掴む彼の、無数に細かい傷の走る手を押さえたのが分かった。
「――――」
はぁはぁと荒らいだ息の音が聞こえていた。
俺の喉から漏れる息の音だった。
ぎこちなく、視界の位置を元に戻す。
視界の真ん中に彼が映る。
痛みと衝撃に喘ぎながら、俺は茫然と彼を振り仰いでいる。
――解れた長い銀色の髪、汚れた白皙の頬、激情に燃え上がるような濃紫の瞳。
カロック帝国の皇太子だった彼が、一切の手加減もなく、何度目かに俺の頬を殴った。
ごっ、と鈍い音がして、今や彼の拳の方も真っ赤だった。
「殿下、」
トゥイーディアが切羽詰まった声を出して、皇太子の手を俺から引き剥がそうとしている。
だが、同じ大魔術師とはいえ、そこは男と女の膂力の差だった。
皇太子はトゥイーディアを一瞥もせず、俺だけを睨み据えて、血を吐くようにして詰問した。
「――どちらだ」
俺は瞬きする。
その動きですら瞼が痛む。
口の中にじわじわと血の味が拡がっている。
目が眩む。
「どちらが、」
皇太子が言葉に詰まる。
俺を殴る手が止まった。
俺の焦点がようやく合う。
皇太子と視線が合った。
今や、彼の方が嗚咽を堪えていた。
目は真っ赤になっていて、今にも感情が昂ったがゆえの涙が零れそうだった。
「――どちらの仕業だ。
おまえたちの、どちらだ。あんな――」
俺は声を出そうとするが、上手く喉が震えない。
息だけが漏れる。
その息も妙に浅い。
「おまえと、あの、白い髪の妙な子供と、どちらだ。
どちらの故意が私の国を焼いて、あれほど大勢を殺したのだ」
食いしばった歯の間から声を漏らすようにして、皇太子が俺に詰問していた。
――俺はひたすらに茫然とする。
「おまえ――おまえ――、」
皇太子は泣いている。
涙が睫毛から落ちそうになっている。
歯を食いしばって、蟀谷の辺りが痙攣している。
――これほどの激情に駆られてなお、あの場に俺の他にヘリアンサスがいたことを覚えていて、俺が故意に彼の国を焼き払ったのではない可能性すら考慮しているのか。
あれほど明瞭だった俺の魔力の気配を察しなかったはずがないのに――覚えていないはずがないのに、それでも。
――俺はただただ茫然として、一国の主になるよう育てられた男の度量に驚倒する。
そんな俺の襟首を掴む皇太子の手は震えている。
「おまえ――、ヘレナが、」
皇太子の声が震える。
もはや嗚咽が声に勝ちつつあった。
「私の親友が、――私の妻が、」
俺は息を止める。
――ここまで激烈に、俺が死にたいと思ったことはなかった。
〈呪い荒原〉を目の当たりにしたときですら、ここまで――自分という形を象る皮膚を剥いでしまって、俺の中身をどこかに埋めて、消えてしまいたいと思うことはなかった。
感情の底が抜けたかのように、俺はその場で自分の腹を裂いて死んでしまいたかった。
責められることのないどこかに行きたかった。
「――どれだけ、どれだけ――」
皇太子の肩が震える。
彼の手から幾分かの力が抜けて、そのときになってようやく、トゥイーディアが皇太子の手を俺から引き剥がすことに成功した。
俺に触れているには、皇太子の手はあまりにも綺麗すぎた。
俺に対して怒りだとか恨みだとか、そういう感情を動かされることすら勿体なかった。
俺は彼の記憶や人生から、速やかに姿を消すべきだった。
トゥイーディアが皇太子の手を握って、彼を引っ張って立ち上がらせた。
皇太子がよろめいて、トゥイーディアが――彼女は小柄な方だったから――身体全体を使うようにしてそれを支えた。
だがすぐに皇太子はしっかりと立って、謝罪を示すような手振りを見せる。
その右手が、俺を殴ったがために真っ赤になって、関節の皮膚が切れているのが見えた。
トゥイーディアが、そうっとその手を取って、簡単な魔法で浅い傷を癒したのが分かった。
「――――」
俺は声も出せず、頭を下げることも出来ず、ただその場に、のろのろと立ち上がった。
ずきずきと顔中が痛み、思わず手で唇の辺りを押さえたが、その仕草では皇太子の前では憚られて、俺は息を止める。
――どうして皇太子とトゥイーディアが一緒にいるのかとか、そもそもトゥイーディアがどういう意図で、彼女の声を遠方に届かせる魔法を使っていたのかとか、そういう、疑問に思うべき全てのことが、このときの俺の認識の外にあった。
皇太子の治療を終えて、その手を離したトゥイーディアが、俺の方に顔を向けた。
俺は急に怖くなって目を逸らしたが、トゥイーディアが俺に声を掛けることはなかった。
瞬間、彼女が何かを言おうとして躊躇った――そういう風情があったが、トゥイーディアは結局、俺には何も言葉を向けなかった。
トゥイーディアは滑らかに、最初から俺のことは見えていなかったかのように、キルディアス侯に目を向けた。
そして小さく首を傾げ、ごく静かに呟いた。
「――顛末はもう拝聴いたしましたから、お気遣いはなさいませんよう」
キルディアス侯もトゥイーディアを見ていて、不意に、全ての疲労を忘れ去ったかのように背筋を伸ばし、頷いた。
――かつて栄華を誇った大国で、それぞれが啓沃の功を競った二人の大魔術師が、僅かの距離を挟んで立ち、目を合わせていた。
「でしょうね、パルドーラ。殿下がここにいらっしゃるとなれば」
キルディアス侯の物静かな言葉に、トゥイーディアが瞬きした。
そして、驚くほど平坦な声を出した。
「ええ、然様です。
尤も、もうお一方からもお話は伺ったのですけれど」
――その瞬間のキルディアス侯の表情を、俺はこの人生が終わるその瞬間まで、非常な衝撃と共に覚えていた。
恐怖の表情だった。
並外れた畏怖の表情――この少し後になって目の当たりにする、人外のヘリアンサスに対してすら、彼女はここまでの恐怖を覚えなかったに違いない。
そう確信できるほどの、純粋な、激烈な怯懦の顔貌――
そしてその次の瞬間、俺の視界が光に爛れた。
◆◆◆
それは魔力の光ではあったが、だがそれにしても強烈に過ぎた。
意識して魔力の光を見ないようにしていてなお、視界の中に割り込み、そして視界の全部を燃え上がらせるような強烈な光――
俺は思わず手で目を覆い、よろめくように下がった。
トゥイーディアも皇太子も、魔力の光が見えたわけではなかっただろうが、打たれたように反応して、道を譲るかの如くに数歩下がった様子だった。
しかし一方のキルディアス侯は、その場から動かなかった。
いや、下がろうとして、逃げようとして、なおその場に縫い留められたかのように動けなかったのだと分かる。
これほどの怯懦の浮かぶ表情をした人間が、なおその場に己の意思で踏み留まることが出来るものか。
そして、
「――刑場に自ら足を運ぶ罪人ほど易いものはない」
低い女性の声がして、直後、ようやく、太陽にも勝るような魔力の光を遮って、俺は目を開くことに成功した。
振り返る。
ちょうど、小川の向こうに二人の女性の姿があった。
俺が心底戸惑ったことに、その二人が二人とも、激烈なまでの魔力の気配を纏っていた。
だが明らかに、存在感において勝るのはそのうちの一人――すらりと背が高く、今この状況にあってさえ、傷のひとつも染みのひとつもなく堂々と立つ、艶やかな赤金色の髪を高く結い上げた女性だった。
もう一人の女性は、その後ろで慎ましく顔を伏せている、栗色の髪の中年の女性で――いや、彼女の魔力の気配はむしろ、彼女自身のものというよりは――
赤金色の髪の女性が、一歩前へ踏み出した。
いっそ穏やかなほどの表情だったが、薔薇色の双眸が、雷光が閃くように輝いていた。
そして神羅万象の一切が彼女に道を譲ったかのようだった――錯覚ではなかった。
彼女が足を踏み出した途端、その目の前にあった、小川の岸を成す岩場が平らに均された。
音も無かった。
岩が崩れたわけではなかった。
ただ形が変わったのだ。
続いて川の水面がぴたりと動きを止め、凍り付きもせず、しかしながら確かな足場となって、踏み出された彼女の足を受け止めた。
彼女が長く引き摺る、質素な形の深紅の衣裳の裾ですら、打ち広がって水面の上を滑り、水の染みひとつとして作らなかった。
彼女は大きく三歩で小川を越え、それと同時にこちら側の岸であった岩場もまた、恭しく頭を下げるかのように凹凸を均して彼女の足裏を待ち受けた。
そして更に目を疑うことに、彼女が通り過ぎるや否や、岩場が元の、ごつごつと尖った形を取り戻した。
――どんな魔法がそれを可能とするのか、この俺ですら分からなかった。
今や彼女の姿は目の前にあった。
俺は無意識のうちに数歩下がり、そしてそれはトゥイーディアも、カロックの皇太子も同様だった。
唯一その場を動かなかったのは、それを禁じられたキルディアス侯だけだった。
――誰も、何も、彼女の称号も名も呼ばなかった。
だが分かった。
これがヴェルローの女王だ。
レイモンドもチャールズも――誰もが、世界最大の国を治める女王を化け物と呼んだ。
これを化け物と呼ばずに何と呼ぶ。
これを最強の大魔術師と呼ばずに何と呼ぶ。
大魔術師の筆頭と呼ぶことすらもはや烏滸がましい――俺たちの誰も、この人と同じ土俵には立てていないのだ。
女王は微笑んだ。
見る者の魂すら搾り取るほどに美しい表情だった。
まるで紅玉の花が綻んだかのようで、戦慄するほどに完璧な表情だった。
俺が知る限り、ヴェルローの女王は在位六十余年――それを考えれば、彼女の見目は余りにも若い。
だがその違和感を呑んで有り余るほどの威厳と気迫。
にっこりと微笑んで、女王はキルディアス侯を見据え――
ばきっ、と、名状し難い音が鳴った。
同瞬、キルディアス侯がその場に頽れた。
悲鳴すら上がらなかったが、いっそ現実味がないほどに呆気なく、彼女の両脚が折れたのは明らかだった。
キルディアス侯は数瞬、絶句したかにも見えた。
恐怖と驚愕の余りに、痛みにすら意識が向かないようでもあった。
だが数瞬後、何かを叫ぼうとするかのように口を開け――
「――礼を申せ」
静かに、淑やかなまでの仕草で、まるでそこが謁見の間であるかのように思わせるほどの威厳を以て、女王がキルディアス侯に歩み寄っていた。
長く裾を引き摺るその仕草が、まさに支配者のそれだった。
そしてそれはまた、いっそ温情すら感じさせる歩調でもあった。
その歩調のままにキルディアス侯の傍に立ち、女王は感情に乏しい瞳で彼女を見下ろした。
世界に名だたる女王の、他の追随を許さぬ美しい横顔が俺からは見えていた。
そして女王は、当然のように片足を持ち上げ、痛みに目の焦点すら失い掛けているキルディアス侯の、地面に突かれた手の甲を踏み付けた。
そうして、女王は物柔らかに繰り返した。
「礼を申せ、キルディアス」
踵が女侯の手背にめり込んでいる。
俺はただひたすらに唖然とし、トゥイーディアは口許を手で押さえ、皇太子もまた絶句している。
「この朕が、」
女王の声は優しげでさえあった。
「その目にこの顔を映してやった上に、」
歪みひとつない花貌の上に、なおも薄く微笑みを佩いて、キルディアス侯を覗き込むように腰を屈めて、女王が囁く。
――温かさすら感じさせるほどの、穏やかな声音で。
「こうして触れてやって、」
キルディアス侯は声も上げない。
だがそれが、騒音を嫌う女王によって、声の自由すら奪われていることは明白だった。
「直に口を利いてやっているのだ。
罪人には過ぎた栄誉よ。礼を申せ。
死の幕の向こうには罪人が犇めいていようが、キルディアス、そなた――連中から嫉妬を買うほどの厚遇を受けているのだ。
――這い蹲って礼を申せ」
その最後の一言のみを低く囁いて、女王が顔を上げた。
文字通り、自分の足許に蹲る女侯を、冷徹な薔薇色の瞳で見下ろした。
そして不意の気紛れのように、キルディアス侯の手背を踏み躙っていた足を軽く上げて、もはや地面に触れんばかりの位置にまで伏せられていた彼女の頭を、戯れに積み木の城を崩すような身振りで、爪先で突いた。
当然に、キルディアス侯がよろめいて、完全に地面に倒れ伏した。
薄青い髪が、ばらりと地面に広がった。
呻き声すら上がらなかったが、それがキルディアス侯の意地によるものなのか、それともなおも女王が侯の声を封じているのか、それはもはや俺にも分からなかった。
だが、キルディアス侯の細い指が、地面の上で戦慄くように震えたことは見て取れた。
「――そなたの命程度で贖えるものではない」
女王が呟いた。
その瞬間、声に烈火の如き憤激が満ちた。
先ほどまでの穏やかさはどこにもなかった。
苛烈な声、苛烈な眼差し――激烈な嚇怒。
「さても当然、命は一つ――他の命を奪った罪を、他の命で拭い去れるはずもあるまい。罪人のものであってさえ――」
極めて静かにそう言って、女王はまるで、教典を読み上げるかのように、あるいは幼い子供に文字を教えるために簡単な本を読み聞かせるかの如くに、続けた。
「人が人の命を奪って許されるのが、如何なる場合か分かろうてか、キルディアス」
キルディアス侯は、当然ではあったが、応じない。
彼女が息をしているのかどうかを、俺は危ぶんだ。
トゥイーディアでさえ――あれほどに彼女と犬猿の仲だと囁かれたトゥイーディアでさえ、今はキルディアス侯を案じているようだった。
だが、俺たちは身動き一つ出来なかった。
理由は単純だ。
女王がそれを許さないからだ。
丈高く立つ、世界に名を轟かせた暴君は口を開いた。
「――朕がそれを許したときだ、キルディアス」
傲慢さの欠片もなく、単なる事実を述べる口調でそう言って、女王は目を細めた。
「それを――手に掛けるに事欠いて朕の臣民を――」
双眸を細め、睫毛に瞳を煙らせて、女王はゆっくりと、親切さすら感じさせる口調で呟いた。
「……朕を手に掛けようとする分には、良いのだ」
嘘のない口調でそう言って、女王はもはや独り言の如くに。
「己の分際を知らぬ者はそうする――なれば朕も、その命ひとつで許してやろうに。
だが、そなた――朕の臣民は、そなたが朕に手を掛けるための、足場となるためのものではないのだ」
苛烈な眼差しを女侯に注ぎ、女王の声が冷えていく。
嵐を運ぶ黒雲のように曇っていく。
「あれらは全て、このディセントラのためにある――」
女王が軽く息を吸い込み、そのとき初めて、俺はこの人も生身の人間なのだと認識した。
吸い込んだ息を小さく吐いて、女王は呟いた。
「――天を踏むために雲に足を掛けたな、キルディアス」
踏みしめるものを誤ったがゆえに地面に落ちたのだと宣告するようにそう言って、女王は微笑した。
「なれど、酌量してやろう。朕の温情をくれてやる。
だが、よいか、決して許さぬ」
はっきりとそう言って、女王は目を上げ、すっと視線を滑らせた。
俺は反射的に一歩下がり、それはトゥイーディアも、皇太子も同じだったが、女王が目を留めたのは皇太子の上のことだった。
皇太子の肩が震えるのが見えた。
女王はなおも微笑み、その微笑みはいっそ慈母の如きものだったが、だがどこまでも冷たかった。
「――キルディアス、そなた、申したな」
視線を翻し、自身の足許で呼吸すら危うくしている女侯を双眸に収めて、女王は言った。
「カロックの皇太子に、笑止千万な約定を持ち掛けたと、そう申したな」
女王は喉の奥で笑った。
その様すらも美しかったが、だが同時に――凄惨でさえあった。
「何と申したか――そう、朕の首を狩るにそれを扶けると、そう申したのであったか。
――戯言を」
女王は嫋やかな両手を組み合わせ、指先までもが余すところなく天に愛された美しさを湛えていることを示しつつ、首を傾げた。
いっそあどけないほどの仕草だった。
「まったく、戯言を。朕の首級を狩るなど、魔王でも叶わぬ」
俺は思わずびくりと肩を揺らしたが、女王は俺の方には一瞥も向けなかった。
今や彼女はキルディアス侯のみを見て、そして――
「――――」
俺は息を止めた。
まただ。
もう既に五度感じた。
――母石に魔力の指が伸ばされる、あの感覚。
「――そなたは、」
女王が声を出した。
その声ですら、俺には見えた。
その声に絡む魔力が、ありありと分かった。
「――朕の可愛い臣民を手に掛けたがゆえに、」
キルディアス侯が、顔を上げようとしたようだった。
ぴくりと肩が震えた。
髪がさざめいた。
だがそれだけだった。
それ以上の動作は、到底身体が許さないと言わんばかりだった。
トゥイーディアが絶句している。
驚愕の根源は俺と同じだっただろう――どうしてこの女王が呪いの掛け方を知っている。
あるいは、誰かがこの女王に、既に呪いを掛けたのか?
この女王に――化け物に?
皇太子が、明瞭に顔色を蒼白にして女侯を見ており――
「――そのために、そこに控える……不愍な皇太子に、世迷言の約定を申し出たのだから、」
恬淡と、まるで法律を定めていくかのように、世双珠の母石に女王の言葉が刻まれる。
女侯の魂を巻き込む、桁外れの規模の魔法が行使されていく。
この先アナベルを生涯苦しめ、そして巡り巡って俺たち全員を、ディセントラ本人をも苦しめる、六つめの呪いが定められていく。
「そなたはこののち必ず、己の言葉に裏切られ、永劫苦しむ定めを負うて生まれてくるのだ。朕の心を砕いた全てを陥れようとしたそなたの、これが罰だ」
そう告げて、そう定めて、女王が昂然と胸を張った。
――俺は愕然として口を開ける。
驚きの余りに頭が空転する。
女王が呪いの掛け方を知っていたことにも驚愕すべきだが、だが、それを上回って――
――どうして魔力が枯渇しない。
俺はもちろんトゥイーディアも、呪いを掛けた直後には魔力が枯渇したのだ。
それが、なぜ、女王はこうも平然としているのだ。
俺の目にはまだ、眩いほどに煌めき渡る彼女の魔力の気配が分かる。
――まさに、桁違いだった。
俺やトゥイーディアの魔力を湖に喩えるならば、女王の魔力は大海というに相応しかった。
まさに、最初に世界が創った特別な器――他とは違う、真に特別な器。
世界が定めた極大の器を見せつけ、傲然と頭を巡らせた女王が、俺を見た。
扁桃の形の双眸に、俺が映った。
たった今、あれほどに苛烈な意志を以て呪った女侯のことすら、もはや女王の眼中にはないように見えた。
俺は慄いて一歩下がったが、だがそれ以上は到底動けなかった。
――女王が俺を見て、その唇が弧を描く。
それだけで、俺の足を止めさせるには十分だった。
「――さて」
女王がそう言って、片手を上げ、俺を指差した。
俺は息を止めたが、女王は天鵞絨のような声で、穏やかに呟いたのみだった。
「そこの。変わった目をしているな。――ハルティの大使であろ。
朕に筋を通さずにレンリティスに足を運んだ、その無礼は許して遣わす。であるから、話せ」
女王が首を傾げて、微笑む。
宝石の花が咲いたような魔性の笑みだったが、その双眸の奥に、今度こそ手の付けようのないほどに荒れ狂う激情が仄見えていた。
「――朕の国を殺した、あの醜怪な童について、朕が知らぬのだ。
朕が知らぬことを知っておるならばハルティの人間であろう。
――話せ」
女王の花貌から笑みが消えた。
凍て付くように冷ややかに、女王は宣言した。
「あれには朕が手ずから、死よりも惨い処断を下してやらねばならぬ」




