46◇◆――対価
何度か呼んでみたものの、ムンドゥスからの応えは一向になかった。
それはそれで構わないのだけれど、ムンドゥスに例の――おれがカルディオスから貰った――機械を預けているのが気に掛かる。
あの子が何かの拍子にあれを壊してしまったらどうしよう、と思って、おれはしばらく、当てもなく広大な都市の中をうろうろし、狭い路地であるとか、乗合馬車を待つために道端に置かれた長椅子の下であるとかを、そんなところにムンドゥスがいないということは分かり切っているにも関わらず、覗き込んでみたりした。
おれのそういう振る舞いは、まさしく迷子の捜索――あるいは逆に、迷子になった者が保護者を捜す振る舞いに酷似していたらしく、夕刻になって帰路に就く幾人かから、おれはその手伝いを申し出られる。
的外れなことを言われて腹が立ったので、おれはその幾人かの息を止める。
それからおれは、あの子がどこにいるのか、世界中に散らばるおれの耳目を辿って見付けられるものか、試してみる。
だがこれは上手くいかなかった。
この国の女王とはまた違った意味で、ムンドゥスもおれには見え難い存在であるらしい。
道端に置かれた、適当な長椅子に座ってぼんやりする。
呼びさえすればすぐに傍まで来るものだと思っていたから、カルディオスから貰った例の機械を預けていたのに。
自分の算段が的外れだったことに、口惜しいような気分になった。
夕陽が地平線に近付いていき、とはいえこの都市においては、背の高い無数の建物が邪魔をして地平線などは見えようがないが、ともかくも沈んでいく太陽が、象牙色あるいは薔薇色の建物の後ろに回って、その輪郭を黄金に輝かせていた。
おれがいる場所はちょうど建物の影になっていて、周りのどこに目を遣っても、相変らず塵一つ落ちていない。
この数日で、幾度か例の――ムンドゥスに造ってもらった方の――機械を、このデルムントガーフェにも出現させているのに、なんだかこの都市には――延いては女王には――まだ余力があるのだと、そう言われているようで腹が立ってきた。
身体の下の石造りの長椅子は冷えている。
そのことに何とはない居心地の悪さを感じつつも、立ち上がるのも億劫でおれは座ったままでいる。
そのうちに、がたごとと乗合馬車が走って来たかと思うと、おれを馬車を待っている人間だと勘違いしたのか、その大きな馬車がおれの前で停まった。
少しして、馬車の扉が開けられ、顔を出した男が気怠そうに、行先ごとの料金を、決まり切った口上のように述べ始める。
しかしながらおれが動かないのを見て取ると、その口上が半ばで止まり、扉を開けた乗員と思しき若い痘痕面の男が、おれに向かって口汚い罵りの言葉を小さく吐いてから、扉を閉めた。
御者に合図が送られ、ぴし、と鞭が馬に向かって振られて、再び大きな馬車ががたごとと動き出し、おれから離れていく。
少し離れたところで、悲鳴と狼狽の声が上がった。
おれが息を止めさせた幾人かが、どこかで発見されたのかも知れない。
人間がいつか息絶えるのは常道であるはずなのだが、他の人間が死んでいるところを見付けると、大抵の人間は大騒ぎをする。
いちいち不思議だな、と思いつつ、おれは目を閉じる。
――衛兵を、と呼ぶ声がしたかと思うと、ちょっと待てよこいつの顔見たことあるぞ、と、それを制止するように上がる声もある。
「――ちょっと前に王宮まで殴り込もうとしてた奴だ」
「そうだ、俺も見た。で、城門の前で衛兵五人くらいから袋叩きに遭って」
「真面目な大工だよ、そいつ。なんだってこんな」
「誰が」
「待てよこれ、衛兵の仕業じゃねえのか――」
ありもしない疑念を掘り下げていく人間の声を聞きながら、おれは、どうやらこの都市で権力に対する信頼はすっかり失墜しているらしい、と、そう思って小さく満足する。
それから、なんだかこの頃はこんなことばっかり考えているな、と自覚した。
――そういえば、最近はカルディオスの様子も見ていなかった。
そう思うと、なんだか急に気になって、おれは海すら跨いでカルディオスの様子を窺おうとする。
だが、どうにも上手くいかなかった。
これは単純に、現在のカルディオスの傍に世双珠がないということのようだった。
――まあ、レンリティスのあらかたの都市は壊滅している状態にあるはずなので、それに伴って世双珠も大量に砕けたはずだ。
だから、カルディオスの傍に世双珠がないということは、不自然ではない。
ムンドゥスがいれば、カルディオスが無事かどうかは分かるのに、と思い付いて、おれはもう一度、「ムンドゥス」と呼ばわる。
一音一音区切って、はっきりと呼んだ。
だがやはり、ムンドゥスはおれの傍には現れなかった。
溜息を吐いて、上を向く。
ルドベキアの様子も気になったが、どうしたことか、ルドベキアの様子もおれからは見えなかった。
もしかしたら、ムンドゥスがルドベキアの傍にいるのかも知れない、とふと思うが、確かめようもないことだった。
そのまましばらく、当てもなくうろうろと視線を彷徨わせていた。
そうしているうちに、見覚えのある姿が視界に入った。
これは意図していたことではなくて、こいつらを捜していたわけでもなくて、何ならこいつらのことは忘れていたくらいだったのだけれど、ちらりと雑多な色が入り混じる視界の中を掠めたその姿に記憶を刺激され、あれ、とおれはしばらく考え込む。
――あれ、何だっけ。
色々としばらく考えて、重要なこと――おれが不当に搾取され犠牲にされている現状のこと、ムンドゥスに預けたカルディオスの機械が見当たらないこと、カルディオスがどこにいるのか分からないこと、夕陽が見事に眩しいこと、夕暮れを迎えた空が匂い立つように美しいこと、吹く風が冷たいこと、世界が広いこと――を頭の中で整理して、記憶を手繰って、それからようやく、おれは思い当たった。
思い当たったついでに手を打ったので、おれの傍を通り掛かろうとしていた親子連れが、ぎょっとしたようにおれを振り返り、次いで足を速めて立ち去ったくらいだった。
これは、あれだ。
片方は直に見たこともある。
銀髪の皇太子と、青髪の女侯爵。
二人がなぜか近い距離で立っていて、いや、歩いている。
周囲一帯は雑多な色の積み重ねにしか見えないので、どこを歩いているのかはいまいちよく分からないが――
興味を惹かれたので、少しだけ時間を遡って、二人の様子を見てみることにする。
すぐに、二人がどこかの都市の通りを歩く様子が、はっきりとおれのものではないおれの目に映った。
揃って無言で、粛々と足を運んでいる。
銀髪の方がやや足が速いのか、青髪の女侯は時折小走りになって、引き離された分を巻き返すようにしていた。
女侯が何かを言って、銀髪の皇太子が振り返る――
――そこまで見て、違和感を覚える。
今の東の大陸に、あれほど形を残している都市があるか?
東の大陸で最も栄えた二つの国は、片方は国土を焼き払われて滅び、もう片方に関しても、滅んでいないにせよ滅亡まで秒読みの状態であるはずなのだ。
それ以外の国も、面白いように次々に倒れていったのを、おれは見ていた。
というかカロック帝国以外に関しては、おれがそのように仕向けた。
首を傾げる。
考え事をするときには首を傾げるものなのだと、ルドベキアに教えられた通りに。
そのまましばらくあれこれと考え合わせて、おれは瞬きした。
「……つまり、――ん?」
思わず声が出る。
カルディオスも時々、考え事をしながらぼろっと声を零していたが、その気持ちが分かった。
つまり――順当に考えるのであれば――、あの二人は今、西の大陸のどこかにいるということ?
どうしてだろう、と思いはしたものの、おれは思わず、期待に目を細めていた。
――あの二人がこちらの大陸にいるというならば、カルディオスがこちらにいることも、もしかしたら有り得るかも知れない。
そうであれば、案外簡単に会えるだろう。
何しろ東の方にはサイジュをする連中がいたので、おれは怖くて、あちらの大陸にはしばらく戻れそうにないのだ。
◇◆◇
海が岩場に波を寄せる音が響いている中で、古老長さまが膝を突いて、ムンドゥスと向かい合っている。
そして、次々に、確認するように、言葉を投げていた。
――このときのことを、俺は断片的にしか覚えていない。
異様に印象に残る場面であったはずなのに、身体の中でひっきりなしに銅鑼が鳴らされているようで、そちらばかりを覚えている。
覚えているのは古老長さまの言葉と、それに対して頷いたり首を傾げたりするムンドゥス、それだけだった。
〝えらいひとたち〟が他にもたくさん周りに立っていたのだが、俺はそちらの様子をまるで覚えていない。
「魔力の代替は、あなたにとって価値のあるもので可能だ。違いあるまい?」
ムンドゥスが頷く。
機械を、兵器の原型になった機械を、まるでそれが気に入りのぬいぐるみであるかのように抱き締めている。
「わたしがたべておいしいものなら」
「あなたにとっての価値とは即ち、人の主観における価値だ。そうだな?」
ムンドゥスが頷く。
「我々の主観もまた、人の主観の一部だ。で、あらば、我々にとって価値のあるものは、あなたにとっても価値のあるものだ。相違あるまい?」
ムンドゥスが首を傾げ、それから頷いた。
「『価値がある』という、その言葉の定義は、この場合は、」
古老長さまが言葉を続ける。
たぶん、いや絶対に、〝えらいひとたち〟の中で既に議論が交わされたことであったはずだ。
その正誤を、世界そのものに確認している。
「あなたを傷つけることと同義だ」
古老長さまが呟く。
ムンドゥスは明確に肯定しない。
首を傾げ、反対側に首を傾げ直し、黙っている。
「魔力はあなたを傷つける――無論、あなたはそれにも適応しようが、――その魔力を以て、あなたは法の変更を受け容れる。
ならばあなたに同じく働くものを以て、同じ結論が得られる、――これが道理だ」
ムンドゥスが首を傾げている。
古老長さまの言っていることには興味がないのかも知れず、罅割れに覆われた顔貌はきょろきょろとあちこちを見渡していた。
「あなたは客観だ。即ち、全ての主観だ。同じ事象を多角から見るものだ。傷つくことすら一種の価値と置くほどに。
なぜなら我々が、あなたが傷つくことを、即ち魔法の行使を、価値あるものとして置くからだ」
ムンドゥスが、唐突に俺に顔を向けた。
びっしりと亀裂に覆われたその顔貌に、俺は無意識のうちにびくりと背筋を震わせてしまう。
ムンドゥスは俺を見て、首を傾げて、呟いた。
「……ヘリアンサスがよんでる」
「――え?」
俺は思わず、訊き返すというよりもなお曖昧に、そう呟いた。
だが俺が何を考えるよりも早く、古老長さまが言葉を続けていた。
古老長さまは古老長さまで、ムンドゥスがここに姿を見せている限りは、どこを見ていようが無頓着であるようだった。
「――ならば当然に、」
ムンドゥスが、気紛れを起こしたように古老長さまに顔を向けた。
「逆もまた然り。
あなたが価値を認めるとすれば、」
古老長さまの恬淡とした声にはしかし、明瞭な熱があった。
ムンドゥスがヘリアンサスのことを、延いては世双珠のことを語るときと、全く同種の熱だった。
「――それは、我らが犠牲を払い、傷つくものに対してだ」
古老長さまの、老いて節くれ立った指が持ち上げられて、ムンドゥスを示した。
「我々は、あなたが傷つく魔法の行使に価値を置く」
指先が翻って、古老長さまは自分を、延いては〝えらいひとたち〟を示す。
「ならばあなたにとっては、我々が傷つく対価の進奉にも同様に、価値が置かれるはず」
ムンドゥスが首を傾げた。
古老長さまが続ける。
「――あなたは全ての主観だ。あなたは全てだ。
即ち、我々が傷つくことはあなたが傷つくことと同義だ」
古老長さまが指を下ろす。
膝を突いたまま、答えを促すように頭を傾ける。
「つまりは、我々が傷つくこと、犠牲を払うこと、そのことは『対価』として成立する」
ムンドゥスは、しばらく何事かを考えている様子で動かなかった。
だが、やがて、首肯した。
「――成立する。そう。対価をみとめる。
わたしは、対価に応ずる報答をする」
小さくどよめきが起こった。
〝えらいひとたち〟が、その複数人が、堪え損ねた何かの声を出したようだった。
だがそのどよめきの色を――それが困惑のものであったのか歓喜のものであったのか、はては恐怖のものであったのか――俺は聞き取ることが出来ていなかったし、ゆえに今も覚えていない。
古老長さまは、起こった微かなどよめきにも反応を示さなかった。
ただ短く、こちらは明らかに満足の色のある吐息を漏らすと、言葉を続けた。
「『対価』に価値があればあるほど、即ち我々が払う犠牲が大きければ大きいほど、あなたはそれを大きな魔力の代替物として認めるはずだ」
ムンドゥスは、また少し考える風情を見せた。
だが、やはり今回も、肯って古老長さまの言葉の是を認めた。
認めて、ムンドゥスは先程の言葉を繰り返した。
「そう。わたしは、対価に応ずる報答をするから」
「ならば、」
言下に、まるでムンドゥスの言葉尻を逃すまいと捕まえるようにして、古老長さまは言った。
「『対価』を以て、我々の魔力の丈を補うことも出来よう?」
◆◆◆
人間が作る歴史というものはややこしいもので、縒り絡まった細い糸のようにして、あちこちで重なっては結ばれ、ふとしたことで解けてはまた別の位置で絡まり合ったりする。
――間違いなく俺が断言できることは、〝えらいひとたち〟よりも先に、魔力以外のもので魔法を行使すること、魔力以外の何かを対価として捧げ、足りない魔力の丈を補うことを考えた人間はいないということだ。
そして重ねて言うならば、あのときの――これよりも少し後に、俺が目の当たりにすることになる――ヘリアンサスの顔を思い返してみても、ヘリアンサスでさえ、ムンドゥスの弟といえる存在であり、この世に最初に誕生した世双珠であるはずのあいつでさえ、対価を以て魔力の丈を補い、魔法の持つ限界を超えるという方法には、思い至っていなかったはずだ。
だから――本当に――責任の所在をいうならば。
もはや俺たちの人生は絡まり合い過ぎていて、どこで何をしていれば、あるいはしていなければ、実際とは違う道が拓けていたかなど、もう分かりようもないけれど。
――俺のせいだった。
俺は、――そうだ、まだ――俺はこうして全てを思い出しているけれど、あれは今日のことだったのだ――、これから先の生涯、決して忘れることも出来ないだろう記憶として、今はまだ記憶と呼ぶにも生々しさが過ぎるけれど、トゥイーディアの顔を、声を、はっきりと覚えている。
自分が先に死にたかったと叫んだ彼女の言葉を覚えている。
――俺のせいだった。
ヘリアンサスに選択肢を、対価を捧げて不可能を可能にするという選択肢を与え、その結果、あまつさえ彼女の父親を殺させた、その責任は俺にある。
俺がこのとき、ここにさえいなければ、俺があのとき――この少し先に訪れることになるあの時点で――、全部を受け容れていれば。
――そうすれば、世界があと千年続いたかどうかは別として、彼女にあれほどの苦痛を与えることにはならなかったのだ。
決着に待ったを掛けた、あともう一回を要求した、兄貴の厚意に甘えてでも盤上を引っ繰り返すことを選んだ――俺が。
俺が彼女に、あれだけの仕打ちをしたようなものなのだ。
――俺にとっての世界の価値は、トゥイーディアだ。
今となっては、なおいっそう、そうだ。
トゥイーディアが生きているからこそこの世界に価値がある。
たとえ世界が滅ぶとしても、その後にトゥイーディアに生き残る術が残されているならば、俺は躊躇いなく世界を見捨てることもするだろう。
そのくらいに、ひたすら、トゥイーディアが笑ってくれてさえいればいいと思っている。
――そのはずだったのに。
巡り巡ってヘリアンサスは、俺に徹底的な復讐まで成し遂げたわけだ。
◆◆◆
潮風に吹かれるムンドゥスが、古老長さまを見て――罅割れに覆われた顔貌の上にあってさえ明瞭にその視線を悟らせるほどにはっきりと、古老長さまに眼差しを当てて――、そして、頷いた。
古老長さまが立ち上がった。
潮の匂いの載った風が吹く。
どうどうと海が響く。
宵闇が、徐々に徐々に近づきつつある。
妙に現実味がない。
薄暗い中で、光景が変に浮き上がる。
まだ冷たい風にローブをはためかせて振り返り、古老長さまは、並び立つ〝えらいひとたち〟を見渡した。
尊大に頭を上げて、傲然と彼らを一望した。
そして、言った。
「――既に申し合わせたな?」
衣擦れの音がした。
それはその場の全員が、俺を除く全員が、首肯した動きの音だった。
それから古老長さまは俺を見た。
俺はその場に膝を突いたまま震えていて、古老長さまがこちらを見ると同時に――小さい頃から、決してこの方の前で許しなしに顔を上げてはならないと叩き込まれていたことに従って――、顔を伏せた。
だがその刹那、掠めるように見えた古老長さまの顔貌には、俺にとっては見慣れない表情が載っていた。
――今思えば。
こうして、全部を思い出して、客観的に考えてみれば。
――あの表情は恐怖に類されるものだった。
俺はこのときはおろか今でさえ、古老長さまのことが、〝えらいひとたち〟のことが恐ろしくて堪らない。
骨に刻むようにして行われた加虐の全部が、それを被った俺の精神に、修復不可能な傷を残している。
だが一方、その加虐は、俺からこの人たちを守るためのものだった。
この人たちが、俺が罷り間違っても彼らに背き、あまつさえ害を加えることがないように、先手を打って上下関係を叩き込むためのものだった。
――〝えらいひとたち〟は、どう思っただろう。
俺がカロック帝国を焼き滅ぼしたとき、何を真っ先に考えただろう。
俺にそれだけの意思能力があることに驚いただろうか。
それとも、自分たちが厳重に抑え付けてきたはずの俺がそれだけの暴走をしたことを受けて、僅かではあれ、その矛先が自分たちに向く可能性を考えただろうか。
――もしもそうであれば、このときの〝えらいひとたち〟の決断が、彼ら自身を絶対的な安全圏に置くこと、俺が何をしようが手の届かない場所に行くことを目的の一つにし、それが決断の最後の一助になっていたのだとすれば――
――俺の罪はなお、余りにも重い。
古老長さまは俺から視線を外し、ムンドゥスに向き直った。
誰かが俺の肩を叩き、後ろから俺の腕を引いて、俺を立ち上がらせた。
俺は事態が分からず混乱していたが、反射的に後ろを振り仰ぎ、そしてそこに、いつの間にか俺のすぐ傍に立っていたバーシルを認めた。
バーシルが唇に指を当てて、それは俺に沈黙を促す仕草だったが、「下がれ」と身振りで示した。
自然な仕草で――本当に――俺は自分が邪魔になるから下がっていろと、そう指示されたのだと思ったほどだった。
そろ、と、俺は一歩下がった。
バーシルが、苦笑じみた眼差しで俺を見て、そしてその視線を翻した。
彼は古老長さまを見ていた。
ムンドゥスに相対する古老長さまが、声を出していた。
どうどうと響く海の音を凌駕する、はっきりとした声だった。
「――では、ムンドゥス。我々は、世双珠を守りたい」
機械を抱えたままで、ムンドゥスはじっとその声を聞いている。
「我々が切り拓き、発展させ、守り続けてきたこの文化を、魔法という文化を守るため、世双珠を守り、時間の流れにも空間の隔絶にも阻まれることなく、我らの最大の財産である母石と守人、あれらを庇護する守護者となることを望む。
――この望みを、あなたの法を超えて叶えるには、我らの魔力の丈は足りない」
ふ、と、短く古老長さまが息を吐いた。
微笑んだようだった。
声が少しだけ小さくなって、続いた。
「――あなたのための肉の器を動かす魂、これは絶対にその数を動かさぬと、あなたが何よりも厳重に定めているのだから」
ムンドゥスは動かず、ただじっと古老長さまの声を聞き、言葉を噛み砕き、吟味しているようだった。
古老長さまが再び、厳然と声を出し始めた。
――宵闇が迫っている。
海から夜が這い上がってくるように、光景一切が影を帯びていく。
「ならば対価を捧げる。――ムンドゥス」
世界の上に人を置こうとした人間が、浅ましくも純粋な夢を見ている人間が、世界そのものと交渉している。
俺はこの後に起こることを想像だにすることが出来ず、ただ茫然と突っ立って、古老長さまの声を聞いていた。
「我らの価値は我らが定める。ここに居るは全て、魔法文化発展のため、それぞれ寄与した者たちだ。
ここにいる我々こそが、世界の要、ハルティ諸島連合そのものだ」
ムンドゥスの顔が動いて、〝えらいひとたち〟を順番に、一人ずつ眺めるようにした。
そして、頷いた。
古老長さまの言葉の是を――主観の言葉を、主観として正しいと認め、世界ですらもその主観を共有することを認めた。
「――我々の尊厳、我々の名声、我々の自意識。全て価値のあるものだ。
喪うに、我らが覚えるこの痛みは、まさに魔力と同じ味」
古老長さまは軽く両手を広げ、それから数秒、押し黙った。
何かを反芻するような、僅かな哀惜を覚えたような――そんな沈黙。
だがそれを振り払い、沈黙を突き破って、古老長さまは言葉を続ける。
「――この我々が、人の文明を支えてきた私たちが、いずれ適応するであろうムンドゥスを傷つけ続けた私たちが、二度と再び同じ個として世界を踏むことはない。我らは全ての自己と矜持、再誕をあなたに捧げて、我らの魔力の丈を補う。
――捧げた分だけ、あなたのために巡る肉の器を差し引かせていただく」
古老長さまが、指を鳴らした。
違和感を覚えるほどに自然な、魔法の行使のためにはありきたりな仕草だった。
――だが、俺に魔力は見えていない。
魔法の行使に必要な魔力はここにはない。
そのはずだった。
だがムンドゥスが首を傾げ、そして、頷いていた。
「――対価は払われた」
魔力の丈が補われたことを、己が定めた法を踏み越えられることを、如何にも自我のない世界そのものらしく認めて、許して、ムンドゥスは、いっそ親しげでさえある口調で、ゆっくりと――静かに――囁いた。
「あなたたちをうごかすものを、わたしのための決まり事の外に置いてあげる。
あなたたちをうごかすものを、わたしのための肉の器なしにわたしの中に顕在するようにゆるしてあげる。
――あなたたちに、」
罅割れに覆われ、表情など拾いようもないムンドゥスのその顔貌に、しかしその瞬間に満面の笑みが載ったことを、俺は悟った。
熱に浮かされたような声で、病的なまでに愛情深く、ムンドゥスは言った。
「――わたしのおとうとを、守らせてあげる」
その瞬間に、夢と現実が切り替わった。
少なくとも俺からはそう見えた。
突如として、この夕暮れの一幕が――紛れもない現実であるはずのこの一幕が――、継ぎ目もなく滑らかに、悪夢と入れ替わったように見えたのだ。
世界を侵食する夜が、そのまま人の体内に潜り込んだかのようだった――
――どろ、と、古老長さまの身体が溶けた。
いや、古老長さまだけではない、〝えらいひとたち〟の身体が次々に、恐らく直前までは何かを考え、感じ、思っていたはずの彼らの身体が、溶け始めた。
頭のてっぺんから形を失い、滴り、素早く足許まで輪郭が失せ、溶け出したその身体が、しかし血液も吐き出すことはなく、むしろ液体というには実体のないものになっていく。
影を凝縮したかのような、霞というには重々しく、雲というには禍々しい、何かに変じて漂おうとする。
音もなかった。
余りにも密やかに、何か重大なことが起こったのだとは俄かには信じられないほどに静かに、地面の上をその霞が漂い、流れ、そこここで渦を巻き――
遅れて、恐怖が俺の背中に火を点けた。
息が詰まり、足から力が抜け掛ける。
――有り得ない、と、まず思った。
なんだこれは。こんなことは有り得ない。
夢ではないというならばこれは嘘だ。
何が起こったのか、俺には全く分からない――
――振り返る。
バーシルがいない。
俺の腰の高さの位置まで漂う、灰色の濃い霞が漂っているのみで、俺を幾度となく櫃から助けてくれた、パンを恵んでくれた、俺に靴紐の結び方を教え、字を教え、数を教え、言葉を教えたあの人が、もはやどこにも見当たらない。
「……バーシル?」
呼んだその声が――恐らく、呼び掛けるために口に出すのは初めてだっただろうその名前が――灰色の霞に呑まれて消える。
「バーシル?」
声が裏返る。
喉が震える。
「バーシル、どこ?」
呼びながら一歩下がろうとした俺の左手を、小さな掌が握った。
はっとしてそちらを見下ろす。
ムンドゥスがいつの間にかそこに立っていて、掴んだ俺の手を引っ張るようにして、ぐっとこちらに向かって背伸びをしていた。
そして、ごく小さな声で囁いた。
「――ルドベキアは、だめ」
「は?」
声が出る。
現実味の欠片もないことが起こって、全てが俺の理解の範疇を超えていて、頭の中身が凍り付いたかのようだった。
「ルドベキアは、だめ」
ムンドゥスは繰り返して、俺の手を離した。
離されたその掌が、妙に冷たく空気を拾った。
ムンドゥスは両手に機械を抱え直してそれに頬擦りし、呟いた。
「――ヘリアンサスが、ルドベキアはルドベキアのままがいいとおもっているから、ルドベキアは、だめ」
息を吸うような間を開けて、ムンドゥスは。
「ルドベキアの自意識は、うけとってあげない」
――俺はよろめきながら後退った。
岩場に足が滑り、転びそうになる。
どうどうと海が響き、いやその音は海の音だったのか、それとも俺の血潮が耳の奥で騒ぐ音だったのか――
薄墨色に流れ、そこここで渦を巻く霞が、その一部が、ぼこん、と、盛り上がった。
その動きにはっとして、俺の焦点がそこに合う。
それはもはや反射、不可抗力の域だった。
唐突に形を思い出したかのように、ぼこ、ぼこ、と、霞の表面が波打って、そして――
――膜を突き破るかのようにして唐突に、明瞭に五指の形のある腕が、何かの、誰かの右腕が、そこから突き出した。
霞の中から、まるで誰かが這い出して来ようとしているかのように腕が突き出され、闇雲に空気を掻くようにして動き――霞がたなびくように動いて――
――目が。
濁った黄金の、結膜のない奇妙で不気味な目がひとつ、ぎょろりと霞の中で見開かれた。
その目の中央で、縦長に切れ込む漆黒の瞳孔が縮まっていく。
ぎょろぎょろと動いたその目玉が、愕然と立ち尽くす俺を見た。
俺は口を開けたが、声が出なかった。
恐怖に根が生えたように、俺はそこに立っていた。
『――――か』
声がした。
間違いなくその目玉の方向から響く声だった。
古老長さまの声ではなかったし、バーシルの声でもなかった。
誰の声でもなくて、強いて言うならば、〝えらいひとたち〟全員の声を混ぜ込んだような声だった。
『――か――ぁ』
膝が笑った。
恐怖に喉が干上がっていた。
頭のてっぺんまでも悪寒に覆われた。
俺は人生で一度も、ここまで明瞭な化け物に遭遇したことがなかった。
――のちには亡霊と呼ばれることになる、この化け物。
ぎょろ、と目玉が動いて、しかしまたすぐに俺を見る。
俺を見据えて、声が続く。
『――かぁ――わい……そォに――ねぇぇぇ』
その声。
心臓を直接撫でてくるような、背筋が粟立つほどに不快な、その声。
――俺は悲鳴を上げた。
開けていた口から、もはや声という実体のある何かを吐き出したかのように思えるほど、喉も嗄れんばかりに叫んだ。
火が点いたかのように、心臓を絞ったかのように悲鳴を上げて、俺はその目玉に背中を向けて走り出そうとした。逃げようとした。
膝が震えてその場に転んだ。
確実に血が出た痛みがあった。
だがその痛みも知覚の埒外で、俺は震える手で岩場を引っ掻くようにして、全身を痙攣するように震わせながら、一目散にその場を逃げ出そうとしていた。
『――――かぁ』
声がする。
それが恐ろしくて、俺は両手で耳を塞いだ。
その拍子に身体の均衡が崩れて、俺は今度は顔から転んだ。
頭の中に火花が散るような衝撃があったが、構っていられなかった。
もはや咽び泣くようにして悲鳴を上げ、俺は必死になって地面を引っ掻いて立ち上がり、地面を掻いた拍子に爪が欠け、剥がれたが、それももはや構っていられず、笑う膝を叱咤して、俺は這いずるようにしてその場から逃げ出した。
――夜が天穹を覆う。
光景一切が闇に沈んで、目の前も、足許も、そして後ろにあるはずのあの薄墨色の霞でさえ、見えなくなる。
海だけが轟く。
風が渡る。
あとはもう、何も分からない。
◆◆◆
――この遥か後になって、千年か、二千年か、それ以上後のある夜に、この最初の人生の全てを忘れたトゥイーディアが俺に、極めて正解に近い仮説を聞かせることになる。
即ち、世界に突然出現したレヴナントという災害の正体が、人の魂なのではないか、と。
彼女が魔法で以て壊せないものなど、魂の他には存在しない。
ゆえにあれらの正体は、人の魂なのではないかと。
俺はそれを一笑に付したし、トゥイーディア自身が、その論の綻びを自分自身で指摘して、冗談のように取り扱った。
――だが、違う。
正解だ。
レヴナントは人の魂、正確にいうならば、このとき『対価』を捧げて成立した、転生すらも拒否した古老衆の魂そのものだ。
だからこそ、魔法を以てしてすら破壊は出来ず、その場から一時的に排除することしか出来なかった。
俺がこの先、〈呪い荒原〉の傍で遭遇することになるレヴナント、思い返せばあれは、古老長さまの魂が最も色濃く顕れたものだったのかも知れない。
律儀なことにあのレヴナントは、俺が偶然にも口にした、「合わせる顔がない」という言葉を誤認して、「守人ヘリアンサスに会いに行くのか」と尋ね返してきた。
そして更に偶然にも俺がそれを肯定したことから、番人ルドベキアが己の役目を、即ち守人ヘリアンサスの監視を全うしているものと判断して、あの場から引いたのだ。
ムンドゥスも、そうだ。
あの子は何も隠し立てしていなかった。
――『守られていても、レヴナントは、嫌い?』
この遥か後になって、ガルシアと呼ばれる町で、ムンドゥスは俺にそう尋ねる。
主語の欠けた問いだったから、俺はそれを誤解した。
だが、思い返してみれば明らかだ。ムンドゥスはあのとき、ヘリアンサスにとっての好悪を尋ねたのだ。
ムンドゥスは恐らく、俺とヘリアンサスが敵対の関係にあると認識していなかった。
俺が未だにヘリアンサスを慕っていて、かつヘリアンサスも俺に情を寄せている、元の通りの関係であると認識していたのだ。
だからこそ、俺に尋ねたのだ。
守られていたとしても、ヘリアンサスはレヴナントが嫌いなのか、と。
そして俺はそれを、誤解したままではあれ肯定した。
ムンドゥスはそれに対して、『分かった。努める』と応じ――そしてその直後、ガルシアに出現するレヴナントは、大幅にその数を減少させた。
当たり前だった。
ムンドゥスは世界そのもの。
古老衆が対価を捧げてまで無理やりに穴を開けた法を定めた存在そのもの。
その彼女が、「努める」と言ったのだ。
世界が定めた法に反する存在の出現を、一時的にではあれ抑えることは、ああして弱ってはいても、ムンドゥスにとっては無理なことではなかっただろう。
――そして何よりも、レヴナント出現の引き金。
あれらは、世双珠の破損と共にその場に現れる。
なぜならば、そのためのものだからだ。
世双珠を守り、魔法という文化を守り続けるためだけに、道理を圧して存在するものだからだ。
どうして、どうして――と、出現する度に声を出していたあれはもしかすると、『これほどに自分たちが心を砕いて守っているものを、どうしておまえたちは傷つけるのだ』と、そう尋ねようとしていたのではないか。
盲目的に世双珠を、延いてはヘリアンサスを守ろうとしていたのが、あの灰色の亡霊だ。
だからこそ、ヘリアンサスの振る舞いは尊重したのだ。
庇護されるべきヘリアンサスが、なぜ地下神殿にいないのか――その理由までは、あの亡霊は理解してはいなかっただろう。
彼らが捧げた『対価』は、彼らの全ての自意識、矜持、再誕。――自意識と矜持を捨て去った結果、知性も大幅に後退したと考えるべきだ。
ゆえに、ヘリアンサスをひたすらに尊重し、恭順したのだ。
それしか出来なかった。
そしてそれでもなお、俺もヘリアンサスも、あれらがひたすらに恐ろしかった。
俺はまだいい――あれの正体を知らなかった。忘れていた。
だからこそ、明瞭に言葉を操った個体、それ以外に心を動かされることはなかった。
だが、ヘリアンサスは違う。
ヘリアンサスには――全て知っており、覚えていたあいつには恐らく、あれらが未だに、〝えらいひとたち〟として見えたはずだ。
恐ろしくなかったはずがない。
――それでもあいつは、おまじないを口にした。
他でもない俺のために、古い古いおまじないを口にして、俺を守ったことがある。
――もう分かっている。
その動機、あいつを動かした感情を、俺はもう知っている。
情ではないし、ましてや好意などでは絶対にないあの感情を。
その感情を俺がはっきりと知るときのことを、レヴナントがこの先千年に亘って姿を見せずに潜在することとなる理由を作り上げたときのことを話して、俺のこの長い長い一度目の人生の回顧は終わる。
――俺が死ぬまで、あと僅か。
活動報告も少し書きます。
よろしければご覧ください。




