45◆◇――応えのない日
ヴェルロー連合王国に例の兵器が現れたと伝えられたとき、バーシル曰く、古老長さまは苦虫を噛み潰したような顔をしたらしい。
「――まあ、そりゃそうなるわな」
と、バーシルは俺にそう話しながら――それも、古老長さまの家から少し離れた斜面に座りながらのことだったが――、あっけらかんと言っていた。
「何しろ、ヴェルローほど羽振りの良い上客はいないからな。それに、ヴェルローに守人があるとあっちゃあ、取り返すのにも一苦労だ」
へえ、と、俺は返答にもなっていない声を零す。
――ヘリアンサスは戻って来ない。
あいつは多分、地下神殿よりもその外の方が好ましいと判断したのだ。
だが古老長さまは、ヘリアンサスを取り戻す気でいる。
バーシルもその成否は疑っていないらしく、どことなくのんびりとした口調で呟いた。
「ただ、まあ、ヴェルローが倒れるとあっちゃあね……。
けど、古老長さまとしては発想をご転換されたらしく」
「転換」
俺は呟く。
どんどん自分の感情が稀薄になっている気がしていて、それは一種の自己防衛なのかも知れなかったが、この世の誰より好きだと思っていた人の顔も声も思い出せなくなるのは――本当に良くしてくれた、優しくしてくれた、頼りにしていた、そんな兄貴の顔も思い出さなくなっていくのは、どことなく鈍痛のような痛みを俺の心に齎していた。
「そ、転換。世双珠があれば技術は、ってか文明は、進んでいくわけ。なら、守人を戻したあとで、俺らが次の文明を発展させてやればいいだろっていう――」
俺の脳裏には、両大陸の地図を覗き込む古老長さまが思い浮かぶ。
古老長さまが手に印をつけるためのピンを持っていて、地図を矯めつ眇めつしながら、ここだと決めた場所にピンを打つ――
あの人は神さまにでもなりたいんだろうか。
そう思うが、言えない。
言ったら酷い目に遭うだろうと予想するまでもなく、もはやその気力すらない。
バーシルはそんな俺をちらっと見て、溜息を吐いた。
「ま、おまえには関係ない話か」
それは、ヘリアンサスさえ戻れば俺が番人として、再び地下神殿と地上を行ったり来たりする生活を送るだけになるから、という意味の言葉だったのか、それとも単に、ヘリアンサスが戻りさえすれば俺が殺されることになるから、という意味の言葉だったのか。
――どちらとも判断のつかない俺は、ただ黙り込んで、家々の煙突から吐き出される煙の行方を目で追っていた。
だが、大方の予想を裏切って、古老長さまの予測は斜め上の方向に外れることになる。
――大国レンリティスですら、一月足らずで壊滅させた例の兵器。
それが全土に出現してなお、ヴェルローが踏み耐えてみせたのである。
無論、被害はあった。
だがそれは謂わば、「局所的な嵐が発生し、人命の救助と町の修復が必要である」といった被害であった――らしい。
一方のレンリティスでは、いや東の大陸ではどうだったか。
思い返してみれば明らかだ。
あの兵器が齎した異変は天変地異の水準であり、もはや町の修復がどうこう、踏み込んで言ってしまえば人命がどうこうと議論している場合でもなく、国がその形を保つことすら出来なかったものだったのだ。
無論、状況に違いはあっただろう。
そもそも東の大陸に例の兵器が出現したのは、〈呪い荒原〉がカロックを呑んだ――俺がカロックを焼き滅ぼした直後だった。
大国が一夜にして滅んだ動揺に重ねて、兵器の出現の混乱があったわけだ。
そしてなおかつ、東の大陸は多数の国が群雄割拠する状況にあった。
それが災いして、人間同士の戦争にまで発展してしまったという背景がある。
翻って西の大陸では、戦争といえばヴェルローが引き起こす侵略戦争のことのみを指すような状況にあり、大陸そのものの覇権をヴェルローが握っていた。
ゆえに、兵器の来歴を巡っての人間同士の戦争は、端から起こりようがなかった。
――だが、それでも、そもそもの国としての余力が違ったのだ。
俺もレンリティスで学んでいた。
国は民から財を吸い上げて成り立つものだ。
そしてその財を民に還元できるかどうか、そこに国力が表れる。
新興国は国としての地盤を固めるために中央に財を集めがちになるのが常だし、衰退していく国も勿論、一部の権力者が財に群がる。
ヴェルローの、広大な国土のその辺境に至るまで、取り零すことなく財を行き渡らせることが出来ていた、それこそが他とは桁違いの豊かさの証だった。
古老長さまはヴェルローの状況を知らせる報告を聞き、ヴェルローの国力を計り、古老長さま自身、若かりし頃に直接会ったこともあるという女王が、例の兵器に対応するまでの時間を推測し、そして、ヴェルローは倒れることはないだろうと結論した。
この時点で、古老長さまの耳に、このとき起こっていたのだろうもう一つの重要な動きが耳に入っていれば、この評価も大幅に修正されることになっていただろうが――それは言っても詮無い話だ。
ヴェルローは倒れない。
それは古老長さまからすれば、守人ヘリアンサスが手許に戻った際に、世双珠を商う最大の相手国が残るという朗報でもあった。
だが同時にそれは、現在ヴェルローにあるのだろう守人を、そこから取り戻すことは想像よりも遥かに難しいということの証左でもあった。
古老長さまはたぶん、ヘリアンサスが自分で動くとは考えたことがなかったのだろう。
誰かが、何者かが、何らかの意思と目的を持って、ヘリアンサスをヴェルローに運んだと思っていたに違いない。
運んだ先がヴェルローであったということは、ヘリアンサスを現在手許に置いている何者かは、間違いなくヴェルローの人間であると古老長さまは考えていたはずだ。
ヴェルローの国境を跨ぎ、守人を捜索し、ヴェルローの人間から取り戻す。
その事の正否を、古老長さまは吟味したに違いない。
――俺はぼんやりとしていることが多くなって、更には古老長さまに呼び付けられることも少なくなっていた。
それは古老長さまが、俺から得られる情報はもう無いに等しいと判断したからだったのだろうが、それはそれとして、俺が家の中にいることを、俺を置いておいてくれている〝えらいひと〟が嫌がるのも事実だった。
なので俺は、古老長さまの家の近くの広い斜面に、一人で腰を下ろしてじっとしていることが増えた。
吹く風からは冷たさの険が取れつつあったものの、まだなお春と言い切るには冷ややかさが勝るものではあった。
そういう風に吹かれ、ざわざわと枯れた草が揺れる斜面に座り込みながらも俺は、どうにかして世界中の時間を戻すことが出来ないかどうかを考えていたが、どう考え合わせても、それは無理な話だった。
俺の魔力が足りない。
魔力の丈が、圧倒的に不足している。
俺がそういう、何の実も結ばない思考に無駄骨を折っている最中に、雲上船が次々と島の近くに着陸するのを、よく見掛けるようになった。
俺はそのことにすら関心を寄せられなかったが、時折俺の近くに来て同じように座り込み、俺に食べ物なんかを恵んでくれるバーシル曰く、あれはヘリアンサス捜索のために二つの大陸に散っていた〝えらいひとたち〟をはじめとする人たちが、徐々にこの島に戻って来ているものらしい。
それを聞いた俺は覚えず、僅かながらも活力と関心を取り戻し、「使節団も?」と尋ねていた。
「使節団も、戻って来るの?」
バーシルは俺を見て、蟀谷を掻いて、顔を顰めた。
「あー」
口籠ったあと、バーシルは肩を竦める。
「どうだろうなあ。何しろあいつらは――」
そこまで言われて、俺も気付いた。
――古老長さまは、使節団に対して伝言を届けることが出来ないのだ。
そしてヘリアンサス捜索に当たっていた他の船からも、チャールズが乗っているはずのあの船に、何かの連絡をつける手段はないはずだ。
チャールズが乗っているはずの、あの使節団の船――それ以外の船どうしには、何かの連絡手段があるはずだった。
そうでなければ、ヘリアンサスを捜索するにしても効率が悪すぎる。
だが、あの使節団の船だけにはそれが与えられていない。
なぜなら、そもそも、使節団に対して「ヘリアンサスを捜して連れ戻せ」という命令が下されたのは、その命令を遂行できなかったことを以て使節団を罰するための、謂わば言い分めいた理由からだったからだ。
――そういう話を、以前に、チャールズとした。
俺が落胆したことが伝わったのか、バーシルは大きな掌を俺の頭の上に載せた。
そして、慰めるように口を開いた。
「まあ、そう気を落とすな。むしろ、あいつらは幸運だったと思うぜ。――リーティから戻って来てる最中に、俺、言っただろ。古老長さまのなさることには気が進まないってさ」
はあ、と息を吐いて、バーシルはぼやくように呟いた。
「――ヴェルローのせいで計画が前倒し。……っつか、成功するもんなのかね」
俺は無関心にそれを聞き流していた。
注意していれば分かったはずだったのに。
〝えらいひとたち〟が、この後に起こることを――あの人たちが起こすことを、島の他の人たちに、何の根回しもせずに決断したわけがない。
だから注意深くあれば、俺は事態に予め気付くことも出来たはずなのに――俺はそれが出来なかった。
――全て思い出した今となってみれば、このとき俺は、ムンドゥスに泣き縋ってでも、この事態を止めるべきだったのだ。
だが、それも、このときに分かっていれば苦労はなかった。
後から振り返ってみれば、明々白々に分かることであっても、その道の上にいるときには何も分からない。
人生とはそういうものなのかも知れないが、それを理不尽の一言で片づけるには、後の世に残した爪痕が余りにも大き過ぎた。
――だが、肝心のこのときの俺は、ただぼんやりと死んだように寝て起きて偶に食べて、単純に呼吸を繰り返していただけだったので、周囲で何が起こっていたのか、古老長さまが何を考えていたのか、そんなことを知るはずもなかった。
もっといえば、トゥイーディアのことを考えることすら稀だった。
リーティが陥落したのちに彼女がどうなったのか――落ち延びたのか、それとも考えたくもない事態になったのか、それを思うのが怖くて、彼女のことを意識的に考えないようにしていたこともあった、のだと思う。
更には、今まさにあの未知の兵器によって苦しむ数多の人のことに思いを馳せるなどと、殊勝かつ何よりも大切なことを、俺が少しでもしたかといえばそれも否だった。
カロック帝国のことすら、徐々に考えなくなっていた。
あの銀髪の皇太子、奇跡的に落ち延びたらしいあいつが今どこで何をしているかも、想像してみることは一度もなかった。
俺はまだ救世主ではなかったから、救世主というものはまだ存在しないものだったから、俺の良心はあのときに壊れたままになっていたから、俺は人間として当然にすべきことの大部分を放棄して、息をするだけの人形みたいに日々をやり過ごしていた。
なので、前後関係はよく覚えていない。
そもそも意識していなかったのだから、今になっても思い出しようがない。
覚えているのは、ある日唐突に、「古老長さまがお呼び」と、俺を家に置いてくれている〝えらいひと〟から告げられたことだ。
唐突だったので俺は驚き、それ以上に慄いたが、だが背けば更に酷い目に遭うということは想像せずとも分かったので、促されるままに家を出た。
唐突だった、と俺は記憶しているが、客観的にみればそうでもなかったに違いない。
この日に何が起こるのか、朧気ながら島中の人間が知らされていたに違いない。
俺は唯一の例外だったわけだ。
夕方、だったと思う。
影が長く伸びていたから、日が落ちる間際の時刻だっただろうか。
正確な時刻を確かめようにも、俺がトゥイーディアから貰った懐中時計は止まったままになっている。
最初、俺は先を歩く、家主でもある〝えらいひと〟の背中を追い掛けて歩いており、そのうちに行く手から、バーシルを含む〝えらいひとたち〟が数人歩いて来て、俺たち――というか、家主である〝えらいひと〟――と合流し、俺は前後を〝えらいひとたち〟に挟まれて歩くことになった。
余りの恐怖に俺は声も出なかったが、偶然に横に来たバーシルがそのとき不意に、何かの拍子だったのか、それとも俺が怯えていることを察したのか、俺の方に頭を傾けた。
それで辛うじて声が出るようになって、俺は囁いた。
「……なに?」
バーシルは唇を曲げた。
微笑のようにも見えたが、違ったかも知れない。
彼は無言で、びくびくする俺の頭の上に掌を置いて、「そうびびるなよ」と言った。
道、といっても舗装されているわけでもなく、剥き出しの地面そのままのささやかなものだった。
そこを踏む靴先が、ごく僅かに砂塵を巻き上げていたことを、俺は覚えている。
俺が恐怖に足を縺れさせることが多かったから、俺の後ろを歩いていた人たちは、いつの間にか俺の前に出ていた。
そのうちに俺は、これが古老長さまの家を目指した移動ではないと気が付いた。
そうではなくて、これは俺が何千回と、番人としてのお役目を果たすために辿った道だ。
地下神殿のある、あの島に向かう浮橋へ続く道だ。
――そう気付いて、俺の足が竦んだ。
櫃に入れられるのだ、と、そう確信した。
足が震えて前に踏み出せない。
俺が足を止めたことに気付いて、俺の前を歩く〝えらいひとたち〟が振り返り、足を止め、大仰な溜息をついて引き返してきた。
率先して引き返してきたのは、俺の家主でもある〝えらいひと〟で、彼はそのまま一言もなく、右手を振り被る。
殴られる、と気付いて俺は目を閉じ、歯を食いしばったが、予想した衝撃は無かった。
え、と面食らって目を開けるのと、ぐい、と腕が引っ張られるのが同時だった。
慌てて視線を上げると、西日がまともに目に入って視界が眩んだ。
目に涙が滲む。
それでも目を凝らすと、どうやらバーシルが、俺の腕を掴んで引っ張り、強制的に歩かせることにしたようだった。
それを見て、俺の家主であるあの人も、わざわざ自分の手を痛めてまで俺を殴ることはないと思い直したということか。
バーシルに半ば引き摺られるようにして、俺は何千回と通った浮橋の前まで連れて来られた。
通常であれば、浮橋の手前に内殻が張られ、薄らと白く視界を曖昧に遮っていたはずだ。
だが、それは今は消失して、何の抵抗もなく浮橋に足を踏み出すことが出来るようになっている。
浮橋の手前には、古びた石の道標じみた目印が立てられていて、文字が彫ってある――彫られているのは、この先への立ち入りを禁じる文言なのだ、と、俺は初めて気付いた。
何しろ俺がお役目のためにここを通っていたときには、俺は碌に文字を読むことも出来なかったから。
レイモンドと、チャールズの顔が浮かんだ。
書写を教えてくれたのは、主にチャールズだった。
俺の蚯蚓がのたくったような字を遠慮なく笑って、その分惜しみなくたくさん手本を見せてくれた。
吐きそうになっている俺を引っ張って、バーシルが浮橋に足を進めた。
鎖で互いに繋がれた沢山の舟の上に板を渡した、長い橋だ。
足を乗せると、ゆらり、と揺らぐような感覚がある。
海が舟の底を洗う、柔らかく瑞々しい音がする。
その音すらも俺の心を折ろうとする。
俺の全身が震えていることに気付いたのか、俺を引っ張りながら、バーシルがこっちを見た。
そして、「ああ」と合点した声を漏らして、呟くように言った。
「――別に、おまえを櫃に入れるわけじゃねえよ」
潮の匂いの濃い風が吹いて、浮橋が揺れた。
歩く人たちの歩みが、揺れを警戒して鈍くなる。
俺はぎゅっと目を瞑って、頬に触れる風の感触を覚え込んでから、薄く目を開けて、囁いた。
「……じゃあ、なに?」
ぎぃ、と、浮橋が軋んだ。
俺が見上げる先で、バーシルが瞬きした。
それから何かを考えた。そう見えた。
これまで俺が見たことのない、記憶を辿るような、何かの深いところを見るような、そういう顔をした。
バーシルの歩調が緩んだので、俺も釣られて脚を遅くした。
俺たちと他の〝えらいひとたち〟との間に、半端な空間が開いた。
その空間を潮風が埋めて、ささやかな波の音を運んで吹き抜けていく。
不意にバーシルが手を伸ばして、俺の頭の上に掌を置いた。
いつも俺は、誰かが俺の頭の上に手を遣ると、条件反射でびくっとしてしまう。
それがレイモンドであるとかチャールズであるとか、絶対に俺に危害を加えないと分かっている人ならばいざ知らず。
だがこのときは、バーシルの掌に俺が怯えることはなかった。
バーシルは視線を遊ばせて、前を歩く〝えらいひとたち〟を見た。
それからその先に見える地下神殿を擁する島の輪郭を目で辿り、それから視線を上に向け、青い空を眼差しでなぞった。
そうしてから俺に視線を落とすと、バーシルはごく低い、小さな声で、しかしはっきりと、言った。
「――おまえさ、頃合いだと思ったら、逃げろよ」
「…………?」
何を言われたのか分からず、俺は瞬きした。
そんな俺の顔を見て、バーシルはふと顔を綻ばせた。
頭の上に置かれていた手が退かされて、ぽん、と背中を軽く叩かれる。
ぎぃ、と、海に押されて浮橋が軋む。
風が渡る。
海鳥が鳴く。
「今は……」
バーシルは、いっそう小さな声を出した。
ともすれば波の音に紛れそうな声だったが、俺の耳にはちゃんと聞こえた。
「……もう、おまえを抱えて逃げてくれる母親はいねえんだから」
◇◆◇
ひそひそ、こそこそと声がする。
おれが撒いた声もあるし、現実の人間の声もある。
――ねえ、また、今度は西の方の町に出たんですって。
――怪我人を匿うところももう少ないだろうに。
――街道が塞がったって、聞いた?
――お陰でえらいことになってる。塩の値段を見たか。
おれは高所に架けられた吊り橋の上に立ち、細い手摺に凭れて、それを聞くともなしに聞いている。
あるいは見ている。
この都市にはとにかくおれの耳目が多くある。
――それで、ねえ。
――女王陛下は相も変わらず、豪勢な暮らしをなさっているわけか。
――年貢を下げる話もねえよな。
――これじゃ生きていけないわ。
――ただでさえ、いつ〈洞〉が開くかも分かんねえような世の中なのによお。
――そもそも、総本山が倒れたんでしょう?
――だったら、
おれは少しだけ顔を上げて、耳を澄ます。
――どうしてあの方は、まだ玉座の上にいるわけなの。主は、あの方に、まだ王権をお許しなの。
短く息を吐いて微笑む。
憤懣や不満がとぐろを巻いているのが見えそうだった。
苦労した甲斐があった。
おれのやっていることは順調だ。
暴力的な方向に人間の思考が傾いているのが分かる。
今にも数にものを言わせて王宮に雪崩れ込んでいきそうなほど、行き場のない恐怖と不満がはち切れそうになっているのが。
実際、既に、王宮を堅固に囲む城壁の門番に噛み付いて、叩きのめされている人間も少なからず、いた。
そういう、門番から暴力を受けてぼろぼろになった誰かを介抱する別の人間も、どんどん胸中に不満を溜めていっているのが分かる。
なんでこんな目に、と呟く、そういう連中の目は大抵暗い。
背中を押してやってもいいだろう。
ついでに、おれも王宮まで入ってみてもいいかも知れない。
王宮まで行けば、そしてそのときに騒ぎが起きていれば、女王も前の方まで出て来るかも知れない。
そうすれば、きっと女王の顔も分かる。
おれが知ろうとしても分からないのは本当に、女王の姿形だけといったところで、それはなんだか気持ちが悪い。
いや、でも――
「――ねえ、きみは、女王の顔も分かるの?」
はたと思い付いたおれはそう尋ねて、自分の左右を見渡した。
――そして首を傾げる。
さっきまで居たはずのムンドゥスがいない。
「ムンドゥス?」
声を掛けてみる。
気紛れにおれの傍を離れることはあっても、あの子は常に、おれが呼べば瞬きのうちに戻って来た。
――だが、数秒待ってみても、おれの姉は現れなかった。
「ムンドゥス?」
もう一度、今度は語調を強くして呼んでみる。
手摺から離れて、周囲を見渡す。
傾いていく西日が、妙に赤く冴え冴えと照って周囲を照らし、影を長々と伸ばしていた。
この高所にあっておれの影は、遥かに離れた場所の地面に、小さくこじんまりと落ちている。
ちょうど、吊り橋の上――おれの傍を通ろうとしていた若い女が、びっくりしたようにおれを見た。
それには頓着せずに、おれは三度、空中に向かって呼び掛ける。
「――ムンドゥス?
ムンドゥス――どこに行ったの?」
◇◆◇
地下神殿の入口に当たる洞穴まで連れて来られたとき、俺はささやかな違和感を覚えた。
――あれ、いつもと違うな、と思ったのだ。
なんだか……何だろう……今であってもあの違和感の正体は分からず、推測ならば立てることも出来るが、一言でいうなれば、「空っぽだな」と思ったのだ。
いつもに比べて空虚な感じがする。
空っぽで、誰もいない感じがする。
それは謂わば、あまりにも静かに自然であったために意識していなかった誰かの話し声が、あるとき急にぱたりと途絶えたときの、不意に訪れた無音に対して遅れてやってくる違和感――そんなものだった。
だがまあ、その要因も、思い当たることならば山ほどある。
そもそもここに居たはずのヘリアンサスがいなくなっているわけだし、母石もどこかに消えてしまったわけだし、内殻もそれに伴って消失しているし。
加えて、ずっとこの洞穴の傍に立っていたムンドゥスも、今はもういなくなっていた。
そもそも地下神殿を訪うこと自体が二年ぶりだったわけで、俺の記憶が多少美化されてしまっていたのかも知れないわけで。
そして、そんなささやかな違和感などに、長く拘泥していられるわけもなかった。
地下神殿の入口を守る洞穴の中、そしてその洞穴の前に至るまでに、島にいる全部の〝えらいひとたち〟が集まっているようだった。
数はどれくらいだっただろう――三十か、五十か。
彼らが一様に浮足立ったような顔をしてざわめいているので、俺もますます竦み上がる心地だった。
中には勿論のこと古老長さまもいて、洞穴の奥の方で、〝えらいひとたち〟の中でも特に偉いのだろう何人かと、淡々と何かを話し合っていた。
俺の家主である〝えらいひと〟も、上から数えて三番目くらいには偉い人だったから、そこに加わらねばと思ったのかも知れない。足早にそちらに歩いて行って、普段より少し上擦った声で何かを喋り始めた。
俺は洞穴に入ることも出来ず、その入口の手前で、背後で海が岩に打ち寄せる音を聞いていた。
どうして〝えらいひとたち〟がここにいるのか、なぜ自分がここに連れて来られたのか、少し考えてみたものの分からなかった。
それに第一、俺の頭は恐怖のためにあんまり回っていなかった。
そのうちに、さっと〝えらいひとたち〟が形作る人垣が割れた。
俺はびくっとしたが、人垣が割れて出来上がった道を歩いて、古老長さまがこちらに歩みを向けているのを見ると、輪を掛けて心臓が暴れ始めた。
慌ててその場に膝を突く。
顔を伏せる。
ヘリアンサス、戻って来てくれ――と、今までになく強く願った。
おまえが地下神殿に居さえすれば、俺はおまじないでこの場を乗り切ることが出来るから。
番人ルドベキアが守人ヘリアンサスに会いに来た、そう言って、なんとかしてこの人垣を潜り抜けていくことが出来るから。
だから戻って来てくれ。
――だが、願ってヘリアンサスが戻って来てくれるなら、もうとっくにあいつはここに戻っていたはずだ。
古老長さまは俺の目の前まで来て、そして俺を見下ろしているようだった。
だが、待てども俺に声を掛けられることはなかった。
しばしの沈黙ののち、古老長さまは恬淡と、試すように、呟くように、呼んだ。
「――ムンドゥス?」
海がひたひたと島の輪郭を洗う音がする。
数秒ののち、小さく溜息を吐いて、古老長さまが言った――俺に向かって言ったのではなくて、周囲に向かって言ったようだった。
「どうやらご機嫌斜めらしい」
じわっ、と、滲むように、苦笑の気配のある笑い声が広がった。
それから古老長さまが、今度こそ、俺に向かって言った。
「――番人、呼んでみろ」
俺は瞬きし、口籠り、そして古老長さまが苛立った溜息を零すのを聞いて、慌てて口を開いた。
「――ムンドゥス?」
〝えらいひとたち〟が一斉に、俺から離れる方向へ一歩動いた。
古老長さまも一歩下がったので、俺はいっそぽかんとする。
そして遅れて、俺の左側のすぐ傍に、音も気配もなく、いつの間にか、あの女の子が立っていることに気付いた。
艶やかな長い――長過ぎるほどの漆黒の髪の他は、全身を罅割れに覆われた、あの。
その姿の異様さに、呼んだのは俺だというのに、腰が引けた。
だがそれに構わず、突然現れたムンドゥスは、他には目もくれずに俺に向かって手を伸ばした。
――恐らく、理由の一つめはこれだった。
ムンドゥスが呼び掛けに応じるとすれば、古老長さまや他の〝えらいひとたち〟よりも、俺の方に可能性がある。
ムンドゥス自身が特別に拵えた器の、その一つである俺の方が。
そのために俺はここに連れて来られたのだ。
ぽろぽろと、その指先から欠片が落ちる。
その手指が俺の頬に触れて、得体の知れない柔らかな感触を俺にもたらした。
双眸さえも罅割れの下に隠れて、ムンドゥスの視線は定かではない。
だが俺は咄嗟に、その顔貌から目を逸らして視線を下げ、そして気付いた。
――あの機械。
魔法技術展で見た、例のトゥイーディアの弟子……カルディオスといったか、あの子供が作った、あの機械。
それをなぜか、ムンドゥスが片手で抱き締めている。
ムンドゥスの容貌が人並みであったならば、そこにぬいぐるみでも抱えているのではないかと錯覚するような仕草で。
「――それ」
思わず声が出た。声が震えた。
「ムンドゥス、それ、なんで」
無意識に手を伸ばして、その機械に触ろうとする。
ムンドゥスがそれに気付いて、嫌がるように身を捩り、機械を俺の手から遠ざけた。
そして、まるで俺に言い聞かせるかのように、言った。
「――わたしがもらったのよ」
「誰――」
古老長さまの前だというのに、俺は覚えず、震える声を続けて漏らしていた。
「――誰から……?」
「ヘリアンサス」
打てば響くようにそう応じて、ムンドゥスは首を傾げた。
ぼろ、と、その頬の辺りから破片が落ちる。
俺は息を止めていた。
――そうか、では、ヘリアンサスは実際に、この機械の造形を知っていたわけだ。
であれば、本当に、間違いなく、戦争を起こしたのはあいつだったのだ。
何を考えているのかは知らないが、俺の当て推量は的を射ていたわけだ。
予想していたことだったからか、証拠を突き付けられても衝撃はなかった。
ただ、なんでだろう、胸の辺りにぽっかりと穴が開いたような気がした。
「ヘリアンサス……」
呟いて、俺は茫然と。
「……あいつ、どこにいるの?」
ムンドゥスは首を傾げた。
以前――レンリティスからここに戻って来たときにも、俺は同じ質問をムンドゥスに対してした。
そのときにはムンドゥスは自分自身を指して、「ここにいる」と応じていた。
彼女は世界だから、世界の中にヘリアンサスがいるのだから、その応答には筋が通っていたわけだ。
だがこのとき、ムンドゥスは、俺の頬に触れていた手を離して、島の内陸の方向、海とは反対側――つまりは西の方角を、真っ直ぐに指差した。
それから指先を、少しだけ北寄りの方角に修正した。
「あっち」
本当にヴェルローにあいつがいるんだ、と、俺はぼんやりと思った。
――どうやってそこまで移動したんだろう。
あいつが雲上船に乗っているところなんて、どうしても俺には想像できないけれど。
そして、俺が特段の注釈をつけずとも、ムンドゥスが自分自身の外部を指差して、ヘリアンサスの居場所を示したことに、何とはない焦りを覚えた。
――世界が傷ついているから、人の世界が具現の姿を取っている。
そしてその世界そのものが、俺が見ている世界と彼女自身とを、切り離して考えているような仕草をしたのだ。
もうそのくらい、本当に、限界なのだ。
「――ムンドゥス」
唐突に古老長さまが声を出したので、俺は呼吸を止めた。
更には、古老長さまがムンドゥスの前に膝を突いたので、俺はなんだか見てはいけないものを見たような気がして、慌てて目を伏せた。
ムンドゥスが、どうやら古老長さまの方を見たようだった。
それからその姿が霞んで、しかし次の瞬間には、従前までと半歩ほどずれた場所に、またムンドゥスが現れる。
これを見るのは二度目だが、俺は思わず目を擦った。
一方の〝えらいひとたち〟に動揺はなかった。
「――ったのに……」
ムンドゥスが呟いた。
割れた鈴を鳴らすような不快な声だった。
「いったのに……」
「ムンドゥス、守人は」
古老長さまが言った。
「守人ヘリアンサスは、ここに戻るか?」
ムンドゥスは首を傾げ、数回それを繰り返し、右に左に首を傾げた。
それから、きっぱりと告げた。
「もどらないわ」
俺は息を吸い込み、唇を噛む。
古老長さまが少なからぬ怒りを露わにすることを予想したが、案に相違して古老長さまは、冷静極まりなく言葉を続けていた。
「ムンドゥス、世双珠は」
「かわいいおとうと」
言下にムンドゥスがそう言った。
唐突に、病的な熱がその声に宿った。
「かわいいおとうと……ほんとうにかわいい……」
古老長さまが短く息を吐き出した。
微笑んだのだと思われた。
そして古老長さまは、穏やかに言った。
「以前も言ったが、ムンドゥス。世双珠は我々が増やし、広めたものだ」
ムンドゥスはそれが聞こえなかったように、「かわいいおとうと」と繰り返す。
古老長さまはそれを気にした風情もなく、続けて言った。
「――ムンドゥス、魔法は」
ムンドゥスは、もしもまだ彼女の顔貌が無事であったならば、顔を顰めていたと思われた。
そう思える、拗ねたような声を出した。
「――きらい」
声が、耳障りに掠れた。
「とてもいたい。〈うろ〉がたくさん――わたしにあなが」
機械を両腕に抱え直して、ムンドゥスはそのてっぺんに頬擦りした。
「――ここにもできるわ。もうとくべつじゃない」
そういえば、俺は島で〈洞〉を見たことがない。
――俺は初めてそのことに気付き、それから息を吸い込んで、俯いた。
ヘリアンサスがいたからだ。
ヘリアンサスがいて、母石がここにあったからだ。
世双珠を可愛い弟であると認識しているのであれば、ムンドゥスが、世界そのものが、手厚くここを守っていたはずだ。
――今はそのどちらも、ここにはない。
古老長さまにとっては、ムンドゥスの言葉は予想の範疇だったのだろう、あの人には特段の動揺もなかった。
俺は古老長さまの方を見ることが出来ず、このときに見ていたのはごつごつした足許の岩だけで、膝を突いていて痛かったことを覚えている。
――顔を上げていたら、どういう表情を見ることになっていたんだろう。
古老長さまは、バーシルは、他の〝えらいひとたち〟は、このときどういう顔をしていたんだろう。
俺には分からない。
「――あなたには、」
古老長さまが言った。
非常に静かで、敬意さえ感じさせる声だった。
「まだ手立てがあろうに」
ムンドゥスの、本当に地面を踏んでいるのかすら不安になるほどに存在感の薄い足が、控えめな舞踏の冒頭を迷うように、岩場で軽く踏み替えられたのが、俺の視界の端っこに見えた。
そして、ムンドゥスの、割れた鈴を鳴らすような声が、小さく言った。
波の音もその声に譲ったかのように、小さいけれどもはっきりと聞こえる声だった。
「……さいごには、あの子がいるから……」
古老長さまが大きく頷いた。
見えずとも、俺にはなぜだかそれが分かった。
「我々は、」
と、古老長さまが言った。
そして直後に、その最初の一言を塗り替えるようにして、言い換えて続けた。
「我々が魔法の発展を支えてきた。世双珠なしに魔法が発展したものか。魔法なしにてこれほど文明が発展したものか」
ムンドゥスは、頷いていたのか、首を傾げていたのか、それとも無反応だったのか。
――俺には分からない。
見ていなかった。
ただ、小さく彼女が呟くのは聞こえた。
「……とてもいたいの……」
その声は、古老長さまには聞こえなかったのかも知れない。
古老長さまが立ち上がり、ローブの膝の部分を払うのが、俺の視界の隅に見えた。
「我々が育ててきたものだ。後世のために、守らねばならぬ」
後世も何も、そもそも世界そのものが残らない。
――俺は咄嗟にそう考えたが、口には出せなかった。
ただ、口に出さずともムンドゥスには分かったのかも知れない。
ムンドゥスの、傷だらけの顔貌が唐突に俺を覗き込むようにして視界の隅に現れて、俺はぎょっとして息を引いた。
いつの間にかムンドゥスは、例の機械を抱えたまま膝を突いて、俺の顔を覗き込んでいたのだ。
「……そうね」
ムンドゥスは呟いた。
長い長い髪が、地面に渦を巻いているのが見えた。
「母石は失せた。母石は守人の所在に遵う。
そして守人は――我らの最も価値のある財産だが、」
古老長さまがそう言っていて、それはムンドゥスに向かって説明しているというよりもむしろ、この場にいる他の〝えらいひとたち〟に、改めて結論を伝えているような、そういう趣のある声音だった。
「――ヴェルローにある。ヴェルローは、恐らく倒れない。大いに結構。
だが一方、ヴェルローから守人を取り戻すことも困難」
ムンドゥスが、すっと俺から視線を外して、古老長さまを見上げた。
髪が揺れる。
罅割れに埋まった顔貌が、真っ直ぐに古老長さまに向けられた。
「我々では、現状、世双珠を――世双珠の源流である守人を、再び庇い護るには不十分だ」
この人であっても力不足であることがあるのか、と、俺は目を見開くような気持ちだった。
かつん、と靴音が鳴って、それは恐らく古老長さまが岩場を踏む音だったが、そこに古老長さまの纏うローブが海風を孕んで膨らむ音が混じった。
「――だが、守らねばならぬ」
古老長さまは断言した。
「伝えていかねばならぬ」
ここに至ってなお、目の前に世界そのものの具現があってなお、古老長さまは――世界の上に人を置こうとする人間の、浅ましくも純粋な夢を、ひたすらに語った。
「これほど豊かに栄えたのだ。
――世双珠なしにて、人が火を熾せるものか。世双珠なしにて、船が空を飛ぶものか」
我々が、と繰り返して、古老長さまは、断固として。
「守っていかねばならぬ」
ムンドゥスが立ち上がった。
ぼろ、と、その足許に破片が散って、しかしすぐに空中に溶けていくのを、俺は見ていた。
ムンドゥスが、小さな女の子の姿をした世界が、片手に機械を抱え直して、もう片方の手の人差し指を立てて、古老長さまに向けた。
ひどく億劫そうな仕草だった。
「――たりない」
宣告するように、ムンドゥスが言った。
「なにをかんがえているのか、わかるわ。あなたはわたしだもの。わたしの中のものだもの。
――あなたのしようとしていることは、あなたではたりない。あなたたちぜんぶでもたりない」
手を下ろし、再び機械を両腕に抱えて、ムンドゥスはきっぱりと告げた。
是非や正誤を論ずるのではなくて、損得の感情がないことの証左であるかのように、成否のみを論じた。
「とてもたりない。みのほどをしらない。
わたしをかえられない」
俺は、古老長さまが逆上するのではないかと思って身を竦めた。
古老長さまの言うことを否定する存在というものに、俺は生まれて初めて遭遇していたのだ。
だが、古老長さまの声音は変わらなかった。
想定内の反論だったのかも知れない――いや、そうだったに違いない。
「これは?」
古老長さまがそう言って、俺は自分が指差されていることを、気配というよりも経験から悟った。
「これでも、不足か?」
――俺がここに連れて来られた、二つめの理由はこれだったのだろう。
確認のためだ。
もしも俺を使えるとなれば、間髪入れずに使うために、古老長さまは俺がここにいることを望んだのだ。
心臓が妙に早鐘を打っていた。
何か拙いことが起きようとしていることを、何となく俺は予感していたのかも知れない。
「――たりない」
俺を見てから、ムンドゥスは呟いた。
「この子では、とうていたりない。ディセントラでも、カルディオスでも、すこしたりない」
「そうか、ならば、」
古老長さまの返答は、打てば響くようだった。
俺は恐る恐る顔を上げた。
そして、古老長さまが、ぐるりと周囲の――周囲に立つ、〝えらいひとたち〟を見渡すのを見た。
一通りそうして仲間を見遣ってから、古老長さまはムンドゥスに視線を戻した。
奇妙に――まるで、よく出来た作り物のように――無表情だった。
「――どうあっても、我らは世双珠を、魔法を、この世界に栄えた人の文化を守らねばならぬ。何一つとて惜しまない。
――そして、」
古老長さまの、猛禽を思わせる黄色い瞳が、炯々とムンドゥスを見据えて細められるのを、俺は半ば茫然と見ていた。
「随分と昔にあなたに尋ねたな。魔力を以てしか法を変えることは出来ないのかと。
あなたは答えたな。魔法を使うに用いられるのは、何も魔力だけとは限らない」
古老長さまがもういちど、ムンドゥスの前で膝を突いた。
風が吹いて、俺の首筋が変に冷える。
「――あなたは客観であり、客観とは全ての主観だ。
ならば、我々の主観もその一部」
俺は無意識に息を止めていて、ばくばくと心臓が脈打っていたことを覚えている。
古老長さまの、恬淡とした声を覚えている。
「我々の主観の話をしよう、ムンドゥス。
その中から、あなたが価値を感じるものを、『対価』として捧げよう」




