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輪番制で救世主を担当してきたのに、今回の俺は魔王らしい  作者: 陶花ゆうの
6 おまえはとっくに忘れたんだろうけど
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44◇ ――女王陛下のお膝元

 蔵書館というのは、薔薇色の石造りの、見上げてもなお足りないほどに背の高い建物だった。



 白大理石の階段を昇った上にあって、仰ぎ見ると建物の正面は色付き硝子を格子状に嵌め込んだ窓になっていて、陽光を弾くその窓はいっそ眩しいほどだった。


 入口は黒檀の回転扉になっていて、扉を手で押すと、ぐるり、と独特な形の扉が回転して中へ入ることが出来るようになっている、というもの。


 入った先は毛足の長い贅沢な絨毯が敷かれた広間で、三階分くらいが吹き抜けになっている天井から、煌めくばかりの水晶のシャンデリアが巨大にぶら下がっていた。



 目を瞬く。


 おれがそこで足を止めていると、「ここは初めて?」と、回転扉を入ってすぐのところに立っている、かっちりした服装の女が声を掛けてきた。

 にこ、と彼女は微笑んで、


「良ければ案内するけれど」


 と。


 おれは瞬きして、彼女に当てた視線を奥の方へ向けた。

 少し進んだところから、書架が延々と続いている空間があるのが見て取れる。


「――いい」


 おれは呟いて、奥の方に足を進めた。



 見上げるほど背の高い書架の間を歩きながら、おれは無意識に、ここにカルディオスと一緒に来なくて良かったな、と考えている。

 あいつは自分が文字を知らないことを気にしているようだったから、こんな文字だらけのところに連れて来てしまったら、さぞかし居心地悪そうにすることだろう。


 一方のおれは人間ではないから、意識さえすれば、文字の向こうの意図を読み取ることが出来る。



 しばらくうろうろと歩き回って、この蔵書庫という場所の、人間がそれなりの数でたむろしているにも関わらず静まり返っているという特徴を、おれは少しばかり気に入り始めた。


 探してみれば本を読むための広々としたテーブルも随所に設けられていて、そういったテーブルの六割方は既に埋まっていた。


 寡黙に本を読む人間たちの、時折発する控えめな咳払いや、頁が擦れる乾いた音が淡々と静寂の中を漂っている。



 おれは適当に引っ張り出した本を、その意外な重さにびっくりしながらもテーブルに運んで、周りの人間の見様見真似で開いて、文字を追い始めた。


 別に、種別ジャンルに拘って本を選んだわけではなかった。


 おれはとにかく、どうすれば女王の裏を掻けるのか、どうすれば女王の目を掻い潜ってこの都市を壊してしまえるのか、それを知りたかっただけで、文字の裏から伝わる意図から、そういうことが分かりそうな本を、ぱらぱらと捲っては本棚に戻し、また別の本を取って、ということを繰り返していた。


 大抵が歴史を編纂した本を引くことが多く、おれは後になってムンドゥスに、「きみのことが色々書いてあって面白かったよ」とそれを伝えることになる。

 ムンドゥスはふらふらしながらそれを聞いていたので、結局のところ彼女が、本を手に取ることがあったのかどうか、おれは知らないけれど。



 そういう動作を反復しているうちに、傍でごほんと咳払いの声がして、振り返ると総白髪の紳士然とした男が立っており、咎めるようにおれを見ていた。


 おれが首を傾げると、彼はおれを嗜めるように、


「まだ子供とはいえ」


 と。


「読んだ本は、元あった場所に返しなさい」


 おれは再度首を傾げたあと、「ああ」と呟いた。


「そういうものなの」


 面倒だな、という感情が顔に出たのか、紳士然とした男は、むっとしたようにおれを見下ろした。

 が、ここで騒ぐのは良くないと思ったのか何なのか、顔を顰めたままではあったものの、どこかに立ち去って行った。



 おれは結局、夜になるまでそうして本を読み漁って、結果として暗い中に世双珠の明かりが灯る頃になって、「あの」と、遠慮がちに声を掛けられることとなった。


 顔を上げると、栗色の髪をきっちりと編み込んだ若い女が困り顔でおれを見ており、「そろそろ、閉めないといけないの」と、小声でおれに囁いた。


 周囲を見渡すと、誰もいない。


 別にここに居座ることもないか、と思ったおれは立ち上がったが、女はそんなおれを探るように見ながら手を伸ばし、「本、私が戻しておくから」と言って、おれから本を受け取った。

 そしてその本を胸に抱えつつ、「ねえ」と、眉を寄せる。


 暗い中で、世双珠の明かりがその片方の頬だけを暖色に照らし出していた。


「大丈夫? この辺の子じゃないでしょう? お連れは? 泊まるところはあるの?」


 おれは瞬きし、首を傾げ、応じるのも面倒に思って踵を返した。


 そのおれの挙動に、「あっ」と声を上げた女の声が、後ろからおれを追い掛けてくる。


「――困ってるなら言ってね! 別に、子供一人泊めるくらい、夫もうるさくは言わないから!」


 うるさいな、と首を振って、おれは毛足の長い絨毯を踏んで足早に、蔵書館の外を目指す。



 回転扉を押して外に出ると、既に外には夜陰が広がって、大都市は煌々と煌めく存在感を示していた。



 特に意味もなく伸びをして、おれは呟いた。


「――ムンドゥス」


「なあに?」


 即座に(いら)えがあって、おれの隣にムンドゥスが現れる。


 なんだか眠そうにしていて、階段を下りるべく歩き出したおれに追い縋るように小走りになると、そのままおれの腰に抱き着いてきた。

 例によって彼女は、片腕にカルディオスの機械を抱えていたので、おれの腰に巻き付いた腕は一本だったが、それでもおれはぎょっとして足を止めた。


「ムンドゥス?」


「ねむい……」


 ムンドゥスは呟いて、ともすればそのまま、おれの身体に沿ってずるずると地面に倒れ込んでいきかねない様子で、ふにゃふにゃと言った。


「とてもねむい……」


「へえ、寝ていれば」


 おれはそう応じたあとで、しかしはっとした。


「――待って、眠い?」


 訊き返して、ムンドゥスを覗き込む。


「きみ、おれと同じようなものだろう。眠いなんてあるはずない」


「ねむいの……」


 ムンドゥスの罅割れに覆われた顔貌の、その表情は分からないものの、声音は確かに眠たげだった。


 おれは瞬きをして、首を傾げる。


「そう。……きみ、いよいよ限界ってことなのかなあ」


 呟いて、おれはムンドゥスを引っ張るようにして階段の一段目を下りて、そしてそこに腰掛けた。


 ムンドゥスはいそいそと例の機械を、まるでそれが柔らかいぬいぐるみであるかのように抱え直し、おれに凭れ掛かって、胸の辺りに頭を預けてきた。


「姉が弟に甘えてどうするのさ」


 おれは思わずそう呟いたが、別に厭うているわけではなかった。

 それから、特に遣り場のない左手を持ち上げて、その際に街灯の光を弾いた空色の宝石に微笑んでから、ムンドゥスの黒髪を撫で始めた。


「おれがきみをそんな風にしてるんだけど。そのおれに甘えてどうするのさ」


 小声で言うと、ムンドゥスはふわふわした声で、「あなたがすきよ」と応じた。

 おれは苦笑する。


「おれもきみが好きだよ」


 空を見上げる。

 都市の光輝に怯んだかのように、見える星明かりは控えめだ。


 それでもぽつぽつと見える星を、順番に追うように目に映しながら、おれはムンドゥスの髪を撫でたり、あるいは長いその髪を指に絡めたりしてみる。


 そうして、独り言を漏らした。


「本を読んだんだけど、なんだかこの国の女王はよく分からないね。

 多分、ねえ、この都市をあっちみたいにするには、」


 あっち、と言いながら思い浮かべたのはリーティだった。

 あっちは簡単だったな、と、今になって思う。


「それこそ、戦争か何かを起こさないと駄目みたい。けど、女王がいるからそれも難しい。

 女王が唯一手を焼くのが、」


 この国の歴史を編纂した本の内容を思い返す。


 侵略と平定の見本市のようなものではあったが、首尾一貫して、女王が貫いていることがある。


 ――それは領土内への他国の侵攻を許さないこと。

 そして、自国民に対し、威嚇以上の軍事力を行使しないこと。


 例えば国土に加えたばかりの領地、即ちつい先日までは他国であった処において反乱の火種を感知したとしても、差し向ける軍には断じて剣を揮わせない。

 圧倒的な軍事力を背景に、数で押す。

 反乱の拠点となる場所を包囲して補給を絶ち、降伏を待つ。

 必ず位の高い将校を向かわせ、是が非でも対話に持ち込む。


 他国を侵略するときの容赦のなさとは対照的なまでに、一度でも己の下に置いた民には寛容である、らしい。


 だから、多分というか、絶対に、


「――女王が手を焼くとすれば、この国の人間を相手にしたときだけなんだ」


 つまり、この国の人間に女王が手を焼いているうちに、さっさとあの機械を投入すれば、結構簡単にこの都市も落ちるはずなのだ。



 ――ただ、女王がこの国の人間に手を焼く状況、それを作るのが面倒そうだった。



 何しろ、今のところこの国の人間は、女王に対して反感を抱いていない。


 反感を抱く理由となり得るのは恐らく、人間が生活に窮乏することだ。



 おれは人間ではないから、その辺の機微はよく分からない。



 だがどうやら、色々と本の中身を覗いてみたところによると、大抵の人間というのは生活の安定を国に対して――というか、自分が属する共同体に対して――求めていて、その割には国というものは、その辺をうろうろしている人間を搾取して成り立っているようなので、矛盾を感じておれは首を捻ったものだったが、ともかくも、その安定が脅かされたと感じたときに、普段は自分たちを搾取している側の人間に対して、反旗を翻すものであるらしい。


 搾取が限度を超えて人心が沸騰するのか。

 あるいは搾取した分は返してくれと要求して、その要求が通らないことが続けば乱が起きるのか。


 それはおれにはよく分からないが、分かっていることとしては、現在はこの国は、ここに住んでいる人間たちが満足する程度の生活基盤を整えることが出来ている、ということだった。



 これではなんにも起こらないだろう。



 困ったな、と、おれはムンドゥスに気を付けながら、膝に頬杖を突く。

 目を閉じる。


 それは何の気もない動作であって、死にかけているムンドゥスと違って、おれは眠気を覚えることも出来ない。



 ――が、そのとき、光景が見えた。


 言葉が見えた。



 それは言い争い、あるいは罵り合いの光景であって、そうして舌戦を繰り広げている人間は二人、その二人をおれは知っていた。



『――それで、仮に、殿下がおいでになったとして』


『来させろと言ったはずだ。いいか、こちらは陛下を弑された。相応の報答をして然るべきでしょう。こうなった以上明らかに、カロックが、』


『殿下が御自らのご意思で、わたくしの領地を更地にしたのではないとでも仰るおつもりですか。あれが殿下でなくてどなたの意思だったと』


『そこにヴェルローが関わっていた可能性を言っている! あなたの領地を潰して、それでカロックが益を得たか!』



 激昂した声を最後に見て、おれは目を上げた。


 ふんわりと輪郭の不明瞭な考えが頭の中に降ってきて、整理するためにムンドゥスに話そうとする。



 が、そのときになって、ムンドゥスがすっかり寝入っていることに気付いた。



 おれに体重を預けて、といっても鳥のように軽いものではあったが、呼吸すらなく動かなくなっている。

 これが仮に人間であれば、間違いなく死んでいると判断するところだ。


「――わあ」


 おれは思わず、奇天烈なものを見たかのような声を出してしまった。


「何してるの。本当にもう限界なんだね」


 すっかり寝入ったムンドゥスが、例の機械を取り落としそうになっているのを見て、おれは苦笑してその機械を取り上げた。


 落とされては堪ったものではないと思ったからだったが、おれのその挙動で、ムンドゥスは目を覚ましたらしい。


 もはや目を閉じているのかどうかすら、夥しい数の深い亀裂が走る顔貌の上では分からないが、ともかくもむくりと身を起こして、両手を機械の方へ伸ばしたのだ。


「――かえして、かえして」


 おれは苦笑して、機械を元のように抱えさせてやる。

 だが、言わずにはおられなかった。


「それも、世双珠が使われてるはずだから、きみにとっては毒のはずなんだけどな」


 ムンドゥスはその言葉を聞いているのかいないのか、うっとりと機械の、楕円の頂点の部分に手を這わせる。


「……とってもすてきよ、ヘリアンサス」


「それは良かった」


 と、おれは真顔で応じた。


「それ、おれの友達の作品だから」





◇◇◇





 ――例えばだ、もはやレンリティスは崩壊したようなものだが、その生き残りの大魔術師が、この国に攻め込んで来ようとしている、と噂が流れたら?


 それだけでは大したことにはならないかも知れないが、加えて――そうだな。


 この国の玉座は、神なるものが女王に与えたとされているものだ。

 であれば、その教えの象徴である教会が、次々に倒れていったりすれば、それは女王にとっても看過できない問題になるうえ、この国の人間も、何かがおかしいと思い始めるのでは?



 その結果に、女王が手を焼くような事態に発展することも、十分以上に有り得るのでは?



 ――おれに浮かんだ、ふんわりと輪郭の不明瞭な考えは、言語化してみればそんなものだった。



 とはいえ、どんな契機で噂が流れるものなのか、おれは知らない。


 だが、たぶん、()()()()()()()()()()()()()、と思った。



 ――カルディオスの、あの魔法。


 あれは存在しない場所に存在を定義するもの、ありとあらゆる条理を踏み越えるもの、夢想と現実の垣根を崩すもの。


 あの魔法を以てカルディオスは、ルドベキアが「呪い」と呼んだあれですら、見事に再現してみせたのだ。


 おれでは、カルディオスほど上手にあの魔法は使えないが、模倣は可能だろう。




 すっかり日が昇ったデルムントガーフェを歩き回ってみる。


 呆れるほど、天を衝くほどに高い建物の根元をうろつき、がらがらと走る豪奢な馬車を見送る。

 ときたま、宙に浮いて移動する、雲上船をうんと小さくしたようなものが、人間の頭上を静かに飛行していくのも見ることが出来た。

 街路樹を囲む花壇に腰掛け、ざわめきと共に移動する人波を眺め、高所を繋ぐ吊り橋の上から身を乗り出して、眼下の町並みを望む。

 高級市を覗いて、そこで買い物をする使用人たちの、主人に対する冗談交じりの愚痴を、聞くともなく耳にする。



 そのうちに、ひそひそ、ひそひそと、存在しないはずの声があちこちから、(あぶく)のように浮き上がってくる。



 ――ねえ聞いた、レンリティスはもうぼろぼろだって。


 ――そうなの、なんで?


 ――これは雲上船乗りに聞いた話なんだけど、なんでも王都が陥落したそうだ。



 おれが意識したことを、都合よく、この都市の人間たちが呑み込みやすいような言葉にして、声にして、ひそひそぼそぼそと、絶えず流れる存在しない人間たちの声。


 この声を聞いた人間は、どこで誰からそんなことを聞いたのかも分からぬままに首を傾げ、「こんな話を聞いたのだけど」と、知人に認識を擦り合わせに行く。



 面白いように話が広まっていく。



「レンリティスの王都が、そんなことに?

 でもあちらにも、うちの女王陛下ほどではないにせよ、一応は大魔術師がいるのでしょう」


 怪訝そうにそう呟く人間に、「けれども」と、他の人間が言う。


「その大魔術師でも止められない何かがあったってことでしょう?」



 ひそひそ、こそこそと、話が広がっていく。


 面白くなってきて、おれはわざわざ他の都市に足を運んでまで、同じようなひそひそ声を広めていく。



 ――王都は崩れたけど、なんでも、大魔術師は生きてるって話で。


 ――で、俺も他の人から聞いたんだけど、あっちの王都を襲ったのがどこの国か、分かってないらしくて。


 ――で、あっちの大魔術師は、うちの女王陛下のことを疑ってるんだって。


 ――まさかそんな。


 ――まあ、女王陛下なら、海の向こうの都市(まち)だって陥落させそうなものだけどさ。


 ――でもね、ともかく。


 ――あっちの大魔術師が、なんていうのかしら、逆恨み? それで、こっちの国まで攻めて来るかも知れないんだって。


 ――いやまさか、海を越えてまで。


 ――でも、一応は、大魔術師だしねえ。


 ――何それ、怖い。



 ――でも大丈夫、だってこちらには、


 ――女王陛下が御座しましているんだから。



 ――それに、この国は、


 ――創造主ユスティドーヌと教導主エイオスがお守りくださっているんだから。










 さて、試してみよう。



 これまでおれは、人間を叩き潰したりする以外の破壊行動を、全て例の機械に任せていた。


 カロック帝国を焼き払ったのは、まあおれの干渉もあったにせよ、あれはルドベキアの魔法がしたことなので数には入らない。



 そしてこの国においては、例の機械は持って来ると同時に女王に崩される。


 どういう種があって女王が例の機械を察知しているのかは知らないが、出来ないものは仕方がない。




 では、おれは?




 おれが直接、教会を倒壊させていくことを、女王は止められるだろうか。





◇◇◇





 おれは勿論、すっかり好きになった聖歌のことであるとか、薔薇窓を透過した陽光の美しさであるとか、そういったものに想いを馳せもした。


 だが、まあ、仕方がない。


 おれが奪われ続けたものは返してもらわなければならないし、教会は教会で、おれの苦痛の産物である世双珠を大量に保有して、その上に成り立っているものだ。



 おれが最初に目を付けたのは、デルムントガーフェの端の方にある、他に比べれば規模の小さな教会だった。

 それを選んだ特段の理由はなかったが、規模の小さな――とはいえ十分に高く聳える象牙色の教会が静まり返っていて、聖歌の声がなかったことが最後の一押しをしたのだとは思う。



 世双珠を通した視界では、人間以外のものは雑多な色の塊にしか見えない。

 それを嫌って、おれは実際に扉を押し開けて、中の様子を確認してみた。


 扉の傍に立っていた修道服姿の女が、おれに気付いた様子で唇に指を当て、無言のまま、おれに聖堂の中の長椅子を示してみせる。

 どこかに座れ、という意味だろうとは思ったが、腰掛ける意味も見当たらなかったので、おれはそのまま、教会の中を見渡した。


 中には人間が沢山いて、聖堂の長椅子は全て埋まっていた。

 長椅子に腰掛ける者たちは、身形は様々で、裕福そうな者もあれば使用人の格好をした者もあり、小さな子供の姿もある。

 壇上で白い髭を蓄えた老人が、片手に収まる程の大きさの、ただし分厚い本を手に、何かを説教している様子だった。


 陽光が色付き硝子を通って降り注ぎ、黄金と薔薇色と薄青い色のきらきらした模様を空中に描いている。


 老人のぼそぼそとした声が伝わってくる他は静まり返っていたが、時折、子供がむずがるような声がそこここで上がった。

 その度に窘めるような声がして、元のような静けさが戻る――その繰り返し。


 壁には大きな壁龕が穿たれていて、その壁龕に匿われるように、曰く付きと思しき大仰に飾り立てられた箱が置かれていたりした。



 ――瞬きをする。



 あのとき――カルディオスの手形が盗まれたとき、カルディオスが次々に集合住宅(アパート)の扉や窓を、手で触れることもなく叩き壊していったのを思い出した。



 同じことをすればいいだけだ。



 ――おれは無意識のうちに、左手を持ち上げている。

 しゃら、と、手首で空色の宝石が鳴る。


 世の魔術師の多くが、魔法を使う際に、精神の集中の補助として動作を伴うことが多く、それはルドベキアであっても変わりはなかった。


 おれは人間ではないくせに、人並みに精神を持っている。

 それがゆえにこんなときも、おれも無意識に同じような挙動を取ってしまったらしかった。



 扉の傍に立つ修道服の女が、おれに向かって、もう一度長椅子の方を示した。

 座れ、と指示している。


 おれはそれを無視して、左手を振り下ろそうとして――



 ――軋むような抵抗を感じて、その手を止めた。



 抵抗というか――これは何だろう。


 万物一切に変化を禁ずる守護、とでもいえばいいのか。

 この教会が建立された姿そのままに、未来永劫変わることがないようにと、誰かが与えた絶対の庇護――



 ――違う。



 ()()、ではない。()()だ。



 この広大なデルムントガーフェの中央に広がる王宮、その更に最奥に君臨する女王、まさにその人の、不可解なまでに強固な魔法が、この教会――いやそれどころか、都市全体を常に守り、庇護している。


 己のものに他所から手を出されることほど嫌悪を誘うことはない――そう思っていることが、おれにさえありありと分かる。

 行為の結果は守護そのものだが、行為の動機はいっそ攻撃的な色すら帯びているものだった。



 ――思わず、息を吸い込む。

 口許に微笑が浮かんだが、それは呆れのゆえだった。



 どれだけのことをしているのだ、この女王は。

 カルディオスと並び立つだけの、世界最大の魔力の器であるとはいえ、広大に過ぎる都市一つを、常時魔法で守り続けるなど正気の沙汰ではない。


 女王の無機質な魔法が、この教会を守り続けている。



 おれは首を傾げ、もう一度、振り下ろそうとする手に力を籠めた。



 ――女王は確かに世界最大の魔力の器、ムンドゥスが自分のために拵えた最初の器だ。

 だがおれは、構造としては()()()()()()



 どこか別の次元から、延々と魔力を注がれ続けている、世界そのもの。



 喩えて言うならばこれは、ひたすらに凪いでいる大海に、唐突に激流が注ぎ込むようなものだった。


 水の流れはどちらに遵うか?

 緩やかに断固として続く海流に遵うか――それとも。


 尋常でない水量と勢いで注ぎ込む激流に押されて、一時的にではあれ流れを変えるか?



 ――みし、と、どこかで何かが軋んだ。


 教会の石組が歪んで、ぱらぱらと天井から細かい石榑や埃が降ってくる。


 説教をしていた老人が、何かを怪訝に思った様子で顔を上げた。

 もしかしたら、読み上げている本のまさにその頁の上に、石榑が落ちてきたのかも知れない。



 おれは微笑む。

 押し勝った感覚が確かにあった。


 強い抵抗を振り切ったあと特有の爽快感があって、おれはいっそう目を細める。



 説教が止まったがために、長椅子に座る人間たちもまた、怪訝そうに上を見たり、あるいは伸び上がって壇上を窺ったりしている。


「おかーさんどうしたのー?」


 高い子供の声が上がって、慌てたように、「しーっ」と窘める声がそれに続く。



 天蓋が揺れ、描かれた天井画が歪んだ。

 即ちそれは石組みが歪んでいるということだ。


 押し潰されて砕けた石が細かく落ちる。


 潰れるような甲高い音を立てて、色付き硝子の大窓に亀裂が走った。


 みしみしと音が鳴る。

 床が揺れる。



 何が起こっているのか把握できない、と言わんばかりに、一様に天井を振り仰いだ人間たちが硬直した。



 そしてその硬直を突き破るように、泣き声が上がった。


 悲鳴じみた子供の泣き声が複数一斉に響き渡り、それに背中を小突かれたように、成長した人間たちもどよめき、立ち上がり、外に逃げ出そうとする。

 床が揺れて、数名がよろめいて、転ぶ。



 その直後、天井が破裂した。



 ――おれの目的はあくまで、()()()()を壊すことだった。

 ゆえに、中に人間が入っているがいるまいがどちらでも良かったのだが、どうやらこの人間たちは、行動を起こすのが数秒遅かったらしい。



 上から、まるで途轍もない重さのもので押し潰されたかの如く、下に向かって破裂するように崩れる天井。

 その重みに耐えかね、一瞬のうちに木端微塵になる色付き硝子の窓。


 硝子片が陽光にきらきらと煌めくのを、おれは目で追う。


 壁が半ばまで一気に崩壊する。

 崩れた天井がばらばらになり、大きさも様々な破片になって、床を叩く。

 足許が震える衝撃が幾度もある。


 悲鳴が上がる。


 長椅子が弾け、潰れ、ついでに人間が潰れていく。



 おれが潰れるのは嫌だな、と思っていたところ、まるで図ったかのように、おれの周囲だけが崩落から守られていた。

 それがおれの意思のゆえか世界(ムンドゥス)の意思のゆえかは分からない。

 とはいえ、叩き付けるように落ちる天井の重みに耐えかねた床に走る亀裂は、おれの足許にまで伸びつつあったけれども。



 耳を聾する大音響と共に崩れていく教会。

 悲鳴が上がっており、それはこの教会の外であっても同様であるようだった。


 局所的な天変地異に見舞われた教会に、道を歩く人間が足を止め、あるいは近隣の家の者はそこから飛び出して来て、悲鳴を上げたり唖然として口を開けたりしながら、教会が瓦礫に変ずる様を見ている。



 ――祈りの文句が聞こえてきて、おれは微笑んだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 小さな子供が、辛うじて崩落を免れた壁際に蹲って、泣きじゃくり耳を塞ぎながら壁龕に潜り込むのが見えた。

 その頭の上に、雨のように粉塵が降っている。


 直後、今度は――そう、喩えるならば、誰かが法外に大きな掌で、この教会、あるいは教会の残骸を、挟むようにして叩いたかのように――、四方の壁の残骸が、全て内側に向かって吹き飛んだ。



 ばらばらに砕けた象牙色の石の壁が、中空目掛けて殺到するのを、おれは妙にゆっくりと目に映している。

 差し込む陽光にくっきりと陰影を描き出しながら、不規則に回転する壁の破片――



 悲鳴が聞こえて、たった今壁龕に潜り込んでいった子供が、巻き添えを喰らった様子で、背中を大きな石材に突き飛ばされるようにして短い距離を吹き飛び、既に崩壊した天井で足の踏み場もない床に、もんどりうって倒れ込むのが見えた。

 どしゃ、と重い音を立てて、赤黒い液体が瓦礫の上に広がった。



 そういう小さい子供を見て、おれは何となく、ルドベキアを思い出した。


 痛そうだな、と思ったものの、あれはルドベキアではない別のものなので、別に構わない。


 おれが何千回と味わった痛みも苦しさも、たった一回味わうだけで命を手放すことが出来るものだから、特段の同情を向ける必要もない。


















 この日に、おれはデルムントガーフェにある五つの教会のうち三つを、同じようにして壊した。


 本当をいえば、王宮の中にある教会をこそ壊してみたかったのだが、さすがというべきかその教会の守護は厚く、すぐには突破できそうになかった。

 そこに手間取っているうちに、この日が終わってしまったともいえる。



 だが、まあ、それでも十分だった。



 日が落ちて、夜陰の広がった都市の、空に近いほどに高い建物の屋根の上で、おれは満足して目を細める。



 ――ひそひそ、こそこそと、不穏な声がする。



 それはおれが撒いた声でもあるし、本当の人間の声だったりもする。



 ――ねえおかしいんじゃない、だってこの国は(しゅ)が守り給うているはずなのに、


 ――どうして女王陛下のお膝元でこんなことが起こるんだ?


 ――女王陛下の王権は、神がお与えになったはずのものなのに。


 ――どうしてこんな恐ろしいこと。


 ――私の甥も死んでしまった、陛下はお守りくださらなかった。



 ひそひそ、こそこそと、不穏で陰鬱な声が拡がっていく。





◇◇◇





 この翌日に、おれはようやく、厚過ぎた女王の守護を突破して、例の機械をこの国に出現させることに成功する。


 女王本人が手厚く守護していた町並みを、多少なりとも崩したことが直接に、女王本人の魔力や精神力を削っていたのかも知れない――それがゆえの成功だったのかも知れないが、今となってはもう真相は分かりようがない。



 ともかくもおれは、ようよう憂さを晴らすことが出来ると意気込み、この広大な国土全体に、例の機械を用意してくれとムンドゥスにお願いした。



 ムンドゥスは例によって、衒いもなくそれに頷いて、魔法で栄えた――世双珠で栄えたこの広大な王国を灰燼に帰し始める。


 とはいえその()()は、レンリティスで同じようにしたときに比べて、遅々として進まないようにも思えるものだったが――それを、この国の人間が弁えていたはずもない。



 これまで一度たりとも他国の侵略を許したことのない国の人間たちは狼狽え、侵攻がどこの国の仕業かも分からないのだから当然に、その感情の矛先は女王に向く。


 他ならぬ女王がいたがために、おれでさえ、ムンドゥスでさえ、あの連合王国を灰燼に帰すのに時間が掛かっていたというのに。



 ――無知は罪だ。



 この十日後に、おれがわざわざ自分自身で――というのも、例によって女王の守護が厚かったがゆえだが――、エイオス教の総本山と言われる壮麗明媚な教会を瓦礫の山に変えたことで、それは決定的になった。


 支柱を失った人心が、一気に女王の方へ、それも尋常でなく暴力的な形で傾くその様を、おれはじっと観察し、煽り、誘導し、背中を押した。






 ――さて、季節は()()()()()()()寒い時期の、その底を浚い終えて、ゆっくりとだが確実に、おれが最初に教えてもらった、あの季節へと戻りつつある。



 だが、天使の喇叭は聞こえない。



 なぜならその前に――春を目前にしたある日の、季節外れといってよいだろう吹雪の中で全部が終わり、カルディオスが死ぬことになるからだ。




 ――けれども、その日のことを思い出す前に、まだもう少し思い出しておくこともある。




 あの青髪の子と銀髪の皇太子のこと、――女王のこと。




 そしてそれに先んじて訪れた、呼べどムンドゥスの(いら)えのなかった日のことであるとか。
























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