40◆◇――西の国に曰く
夢を夢だと自覚していることは、俺の場合は少なくないが、このときもそうだった。
――俺は夜道を歩いていて、といっても道の両端には煌びやかに明かりを灯した露店が並んでいて暗くはなく、むしろ星の間を泳いでいるかのように明るかったが、行き交う人の顔は全て、夜闇を吸い込んだように暗く映って仔細が見えない。
頭上の空も真っ暗だったが、曇っている感じではなかった。
この夢の中では月も星も存在しないのかも知れない。
道幅は広くて、ああここはリーティのどこかなんだな、と俺は思う。
そう思って見てみると、どうやらこの光景は訪春祭のものに似ていた。
賑やかな感じがあったが、意味のある言葉として聞こえる音はなかった。
俺はなぜかカンテラを手に持っていて、それも単なるカンテラではなくて、持ち手の部分がなぜか棒状で長く、長い棒の先にカンテラがぶら下がっているような代物を持っていた。
カンテラはよくよく見れば金細工の装飾が施されており、トゥイーディアがあの庭園に持ち込んでいたものとそっくりだった。
かしゃん、かしゃん、と、俺が歩くのに合わせてカンテラが揺れて音を立てる。
ざわめきと一緒に人波が動いて、影のように見える人影が無数に俺と擦れ違ったり、あるいは俺を追い越して行ったりする。
露店からは光が零れて明るかったが、そちらを見ても、何を売っている露店なのかは判然としなかった。
ただ素敵に明るく温かく、俺はその光が目に入るだけで満足する。
俺は幅の広い道の、真ん中より向かって左側に寄ったところを歩いていた。
混み合っているのに不思議と誰にもぶつからないのは夢のゆえか。
そして右側をちらりと見ると、人波を挟んで道の右側に、俺と同じくゆっくりと歩くトゥイーディアが見えた。
いつものように蜂蜜色の長い髪を半ば結い上げて、羊毛の外套を羽織ってふわふわした襟巻を巻いている。
鼻先まで襟巻に埋めながら、俺と揃いのカンテラを手に、大きな飴色の瞳をきらきらさせながら周囲を見回していて、ただ歩いているだけなのに楽しそうだった。
寒そうではあったが背筋を伸ばして歩く彼女の周囲に、目には見えない明るさが集まっていくようで、俺は夢の中であってもその姿に見蕩れたが、勿論のこと、俺が夢に見るトゥイーディアが実物よりも優れているなんてことは有り得ない。
トゥイーディアはいつも、俺が想像したり想定したりするよりも遥かに、可愛らしくて綺麗だから。
人混みを挟んで歩きながら、俺は、「あ」と思い出す。
夢の中で思い出すのだからそれは夢の記憶であって、実際に起こったことではないのだけれど、ともかくも思い出した。
訪春祭を一緒に回ることは出来ないから――何しろ俺は大使で彼女は伯爵、それぞれ立場があって難しいから――、偶然、ずっと同じ距離で歩くことはあるかも知れない、という話をしたんだった。
俺もトゥイーディアも一人で歩いているが、偶然、たまたま、ずっと相手が見えているだけだ。
これが望み得る最上のものなのだ、と、俺はこうしていられるだけで――トゥイーディアの姿が見えるだけで――彼女がこの、おふざけじみた遊びに付き合ってくれる程度には俺に好意を向けてくれているというだけで――、これ以上ない幸せを噛み締める。
露店の明かりが延々と続いている。
カンテラが揺れて、光が踊る。
どうか道が尽きたりしませんよう、夜が明けたりしませんよう、と、俺は祈る。
人混みの向こう側で、トゥイーディアが足を止めた。
もしかしてこの遊びに飽きてしまったんだろうか、と俺は心配になるが、そういうわけではないようだった。
トゥイーディアは慌てた様子で、露店の奥に向かって何かを言っている。
何か、買いたいものが見付かった様子だった。
俺もそれを、道の反対側で足を止めて待つ。
人混みの中で立ち止まっても、ここは夢の中だから誰かがぶつかってきたりはしない。
トゥイーディアが声を掛けている露店も、眩しい光が溢れていて中が見えない。
トゥイーディアが何を買ったのかも分からないが、彼女が嬉しそうなので俺も嬉しくなる。
やがてトゥイーディアは、小包を大事そうに胸に抱えて、またさっきまでと同じように歩き出す。
カンテラを揺らして、つんと澄まして歩き出したのに、結局はちらりと俺の方を見て、俺が道の反対側にいるかどうかを確認する。
そういうところが可愛らしくて俺は笑ってしまうが、すぐに表情を取り繕って、同じようにまた歩き始めて――
――がくん、と身体が揺れて、俺ははっと目を覚ました。
目を覚ましてみると窮屈な姿勢になっており、俺は反射的に、ここが櫃の中ではないかと錯覚しそうになる。
慌てて周囲を見渡すが、暗くて辺りがよく見えない。
恐慌が喉元にまでせり上がる上に、夢の中のようなトゥイーディアとの関係はもう壊れてしまったし、第一もう俺はトゥイーディアの顔を見ることさえも出来ないのだ、と気付いて、いっそう俺の目の前が真っ暗になった。
恐怖と混乱に息が上がったが、そのとき、ちらりと白いものが見えた。
――窓の外を雪が舞っている。
その雪を、何かの拍子に差した光が捉えたらしい。
櫃の中では有り得ない光景だ。
それを見て、俺はようやくまともに息を吸い込むことが出来た。
吸い込んだ息が、籠もったような臭いを捉える。
俺は目を擦り、その弾みで自分の手が震えていることに気付き、ぐっと拳を握る。
そして、握り込んだ拍子に掌に触れた指先の冷たさに覚えず苦笑してから、ここに至るまでの経緯を思い出した。
――バーシルに連れられた俺は、そのまま、こんな時世であっても辛うじて走っていた辻馬車に詰め込まれて、雲上船の発着所まで連れて行かれたのだ。
馬車の中でバーシルは一言も話さず、俺は息が詰まるというのを通り越して、実際に呼吸を憚っていた。
発着所に辿り着くと、今度は昼までここに居ろと指示をされ、というのもリーティで俺――とヘリアンサス――の捜索に当たっているバーシルたちは、毎日正午と日暮れ時に雲上船の発着所に集合して、成果を報告し合うという取り決めをしていたらしい。
実際、正午になると続々と〝えらいひとたち〟やそのお付きの人たちが俺の前に現れて、俺は危うくその場で卒倒するところだった。
とはいえ、バーシルは俺が卒倒するのも面倒だと思ったのか、さっさと話を纏めて――ここで守人を捜し続けるよりも、まずは確保した番人を諸島に連れ戻るのが優先ではないか、というようなことを言っていたが、俺の耳はそのときまともには機能していなかったので、俺が聞き取った内容には疑義が残る――、雲上船に俺を放り込んだ。
それがここだ。
つまり、ここは雲上船の中なのだ。
この雲上船は、俺が初めて見る構造をしていて、形こそ普通の雲上船と同じ流線形をしていたが、構造としては二階建ての家屋のようなものだった。
下部の入口を入ると、そのまま天井の低い一階に出て、その一階から狭い階段を昇ると二階がある、という構造なのだ。
当然の如く、〝えらいひとたち〟は二階へ昇り、俺は一階に詰め込まれ、断じて階段を使うなと厳命された。
どこの愚か者が、わざわざ〝えらいひとたち〟の近くに行こうというのか。
俺は黙って何度も首肯して、自分が言われたことを理解しているということを示した。
俺が放り込まれた天井の低い一階部分は、船体の前方に、寝椅子を四つ、箱型に組み合わせたように置かれているスペースがあって、その後ろには三列の、通常の座席が並べられている。
そして更にその後ろに、炊事に使うと見える場所があって、しかしその場所は、座席が並べられているところからは簡易的な扉で区切られていて、中がよく見えるわけではなかった。
船体には丸窓が規則正しく並んでいて、俺がつい先ほど雪を視界に捉えたのは、この丸窓を通してのことだった。
俺は三列並べられた椅子の、その真ん中の列の窓際の座席に身を縮めて座っていて、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたようだ。
時刻は夜になっていて、窓の外も暗ければ船内も暗い。
一階部分に放り込まれたのは俺だけではなくて、〝えらいひとたち〟のお付きと見える数人も、同じく一階部分にいた。
とはいえ彼らには役割があって、乗船直後とその後の夕方には、忙しく炊事のために立ち働いていた。
彼らは〝えらいひとたち〟に食事を用意し、夜には、ついでのように俺にも残りをくれた。
まさか自分に食事が出るとは思わず、俺はきょとんとすると同時に、自分が不当なものを受け取っているのではないかと思って怖くなったものだった。
食べ物を口に入れたのが久し振りだったせいだろうが、食後しばらく、俺は腹痛を抱えることになったものだが。
俺は音を立てないよう慎重に、椅子の背をずり落ちていた姿勢を正した。
変な姿勢で眠り込んでしまったからだろうか、首と肩と腰が痛い。
だが、まだまだ我慢できる程度だ。
姿勢を直して、丸窓に額を付けんばかりにして、外を覗き込む。
丸窓の、嵌め殺しの分厚い硝子は冷気を存分に吸い込んだかのように冷えていて、近付けた額にひやりとした空気を感じさせた。
生憎と外は暗くて、真っ黒な光景が延々と広がっているようにしか見えなかったが、時折、何かの光を拾って――もしかしたら階上には明かりが灯っていて、その光が窓を通して外に漏れ出しているのかも知れない――、雪片が白く煌めくのが見えた。
どうやら外では雪が降っていて、それも結構な吹雪になっているらしかった。
誰かの寝息が聞こえていた。
――〝えらいひとたち〟のお付きの数人が、前の方の寝椅子で休んでいるのだ。
乗船直後からこちら、彼らが不気味そうに俺を見ていたのは、勿論のこと俺自身も察せるところではあったので、俺はひたすらに気配を殺して小さくなる。
彼らが機嫌を損ねて手を上げてきた場合、雲上船の中では逃げ場がない。
彼らの寝起きがいいことを祈るばかりだ。
ゆっくりと息を吐く。
とにかくここは冷えている。
温度を調節する世双珠の働きが階上に限られているのだ。
世双珠がどこでどう働いているのか、そんなことはこの近距離にあっては、俺には全て手に取るように分かる。
両手を握り合わせて、すっかり冷えた指先に息を吹き掛ける。
一瞬だけ温まった指先が、しかし瞬く間に冷えていく。
病的な、容赦のない冷たさが棘のように空中を漂っていた。
俺なら、この雲上船の内部全体を暖めることも容易に可能だ。
だが、〝えらいひとたち〟が認めてくれないと、俺は魔法も使えない。
あの庭園の、真冬の冷たさを思い出した。
透き通るような清冽な寒さで、俺はあの温度も好きだった。
――トゥイーディアの、寒気に頬を染めた顔を思い出した。
彼女が吐く息の白さを覚えていた。
「寒いですねぇ」と呟きながら両手を握り合わせ、襟巻に顎を埋める彼女の仕草を、否応なく思い出した。
俺が薄着なのを見て心配そうに、「見ていてこちらが寒くなってしまいます」と真面目に告げた、あの声がまざまざと甦ってきた。
胸が痛んで、唇が震えた。
もういっそこの雲上船ごと地上に墜ちて死んでしまいたい、と思う。
そして技術的には、俺にはそれも可能だ。
――だが、それが出来なかった。
〝えらいひとたち〟の命令に背くことが、俺にはどうしても出来なかったのだ。
◇◆◇
着地と同時に、何か弾力のあるものに弾かれて、思わぬ方向に自分の身体が跳ねた――そんな感じがした。
がしゃんっ、と自分の周囲で音が鳴って、おれは半ば茫然としつつ目を開ける。
途端に陽光が目を刺して、おれは眉を寄せた。
――なんだ、どこだ、どこにいる。
あいつらが来た。
あいつらに見付かった。
サイジュをする、あの連中だ。
レンリティスの青髪の侯爵がカルディオスに呪いを掛けて、連中がそちらに気を取られた。
それでおれは咄嗟に、西へ行こうとして――
――ここはどこだ。
何かに弾かれる感じがあったけれど、あれは何だ。
瞬きしながら周囲を窺う。
ちょうどそのとき、仰天したような声が聞こえてきた。
「――あれまあ。おまえさん、どこから」
おれはそちらに目を向けて、そのときようやく、ここが屋内であると知った。
――木造の家屋の中だ。
おれの正面には大きな窓が開いていて、そこから陽光が差し込んでいる。
窓のすぐ傍には六人掛けのテーブルが据え置かれていて、その上に小さな花瓶が置かれている。
花瓶には黄色い花が挿されていたが、見ればそれは生花ではなくて、花を魔法で凍らせたものであるようだった。
下に目を向ければ、年季が入って艶のある木の床で、テーブルの下には毛足の短い絨毯が敷かれている。
上に目を向ければ、高い天井と梁が見える。
声が聞こえた方に目を向ける。
ちょうど、外からこの家屋の中に入ってきたところといわんばかりの、背の低い老人が立っていた。
しっかりと防寒着を纏った彼は目を丸くしておれを見ていて、おれは彼を一瞥したあとに、ようやくきちんと自分の至近の距離に視線を向けた。
おれは、窓が開いている壁と反対側の壁の、すぐ傍に落下したようだった。
どうやらその壁には造り付けの棚が据え付けられていた様子で、おれはその棚に激突してから床に落下したらしい――周囲には棚板の残骸と、そこから落ちて砕け散ったとみえる白い陶器の欠片が散乱していた。
すぐ傍にはあかあかと火の入った暖炉も見えて、今しも、ぱちん、と、さも暖かそうな音を立てて薪が弾けたところだった。
「おまえさん、どこから」
老人がもう一度そう言った。
おれは首を振る。
答える気がないという意思表示だったが、老人はそれを、「分からない」という意味だと受け取った様子だった。
息を吸い込むと、少しだけ煤っぽい、暖められた空気の匂いがする。
もう一度、今度は頭を整理するために首を振って、おれは立ち上がった。
幸いにも、棚に激突してもおれの身体には損傷はなかったらしい――周囲には世双珠が転がっていたりはしない。
立ち上がった拍子に陶器の欠片を踏んだおれの足許で、ぱり、と乾いた音がした。
――どういうことだ。
これまで、距離を跨いで移動したことは多々あるが、こんな目に遭ったことはない。
いつもおれは、自分が意識した場所に、特段の不具合なく出現することが出来ていたのだ。
それが、これはどういうことだ。
そもそもおれは、移動する寸前に何を考えていたのだっけ。
額に手を遣って考える。
そして思い当たった。
――女王だ。
西の大陸の女王とやらのことを、咄嗟に考えたのだった。
となると、これは。
この事態はつまり、女王の傍に出現しそうになったおれが、何か他からの干渉を受けて跳ね飛ばされて、意図しない場所に落下してしまったと、そういうことになるわけか。
他からの干渉――といっても、妥当なところで女王自身の干渉だ。
女王のことは、彼女の周囲には世双珠が豊富にあるはずであるのに見えなかったりと、分からないことが多過ぎる。
額に手を遣って考え込むおれを見て、家主と思しき老人は、何か沢山の言葉を呑み込むような風情を見せた。
そして、こつこつと靴音を立ててこちらに寄って来ると、言った。
「坊や、大丈夫かね。何かあったのかね」
その言葉に、耳慣れない訛りがあった――どうやらここが、元居た場所と離れた場所であることに間違いはないらしい。
おれは顔を上げ、皺の寄った老人の顔をまじまじと見た。
相当迷ったものの――というのも、おれにちゃんと物事を教えてくれるのはカルディオスであって、他の人間に何かを問うという行為そのものに、おれが多大な違和感を覚えたためだったが――、おれは尋ねた。
「……ここ、どこ」
冷静に考えれば、おれには世界中に散らばる耳目がある。
わざわざ訊かずとも自分の居場所を把握することは可能であるはずだったが、初めての体験、つまりは自分が意図した場所に出現できなかった体験に、おれも戸惑っていたのだと思う。
老人は、しばしばと忙しなく瞬きした。
皺の寄った目蓋が、忙しく上下した。
それから彼は、何かを憚るような小声で言った。
「――大丈夫かね」
そう言われておれは、「おまえ、頭大丈夫か」と、出会ったばかりのカルディオスに頻繁に訊かれたことを思い出した。
頭が大丈夫か、と訊かれれば、それは。
「大丈夫ではないけど」
おれは呟く。
何しろおれの正気はとっくに壊れていて、つい最近にもおれの愛すべき馬鹿息子に木端微塵にされたばかりだ。
おれは、目の前にいる老人に向かって応じたというよりも、その老人を通して思い出した過去のカルディオスに応じたようなものだったのだけれど、老人はそれをすっかり、自分に向けられた回答だと思った様子だった。
「それはそれは」と気遣わしげに呟き、加齢を感じさせるわななくような仕草で防寒着を脱ぎ去りつつ、言った。
「ここはね、ヴェルローの」
老人は、「ヴェル=ロー」というように、ゆっくりと丁寧にそう発音した。
「デル=ムント=ガーフェ」
続けて老人はそう言って、おれは首を傾げた。
「デルムントガーフェ?」
呟くと同時に、世界中のおれの耳目から情報が集まってきた。
――ヴェルローのデルムントガーフェ、即ち王都だ。
ヴェルローは連合王国であるから、複数の王国が一つの連合を成しているわけだが、この場合の「ヴェルロー」は、「ヴェルロー連合王国」ではなく、「ヴェルロー王国」を指す。
つまりは連合王国の中核の国、女王本人が君臨している国だ。
女王はヴェルロー王国から、他国に施政を及ぼしているのである。
おれの表情が無いに等しいものだったからか、防寒着を腕に掛けた老人は、心配そうにまじまじとおれを眺めた。
「この世界の真ん中の都市だよ」
おれに教えるようにそう言うので、俺は小さく頷いておく。
そのまま足を踏み出して、正面に見える窓の方に寄る。
それでようやく、まじまじと室内の様子を見て取ったのか、老人は「おやまあ」と素っ頓狂な声を上げた。
「おまえさん、どこから来たんだね。どうやって入りなさった――屋根に穴でも開いたかな」
そんなことを言って、目を細めて天井を振り仰ぐ老人のことは無視して、おれはテーブルに手を突いて、窓の外の光景に目を向けた。
――明るい。
窓の外は幅の広い平坦な道になっていて、敷石は殆どが、どうしたことか汚れのひとつもない象牙色をしていたが、所々に気紛れのように、薔薇色を呈する敷石も嵌め込まれていた。
広々としたその道の真ん中にはずらりと、円形の花壇のように象牙色の石が積まれて、ほっそりとした街路樹がそれぞれに一本ずつ立っている。
その街路樹を境にして、馬車や人間の進行方向が反対側に擦れ違うようになっているので、どうやらあの街路樹は進行方向ごとに通行を区切る意味合いのものであるらしかった。
道の端には等間隔で街灯が立っていたが、その街灯は磨き抜かれた黒色をしていて、細部にまで瀟洒な細工が施されているものだった。
道の向こうに見える建物は、象牙色あるいは薔薇色の、滑らかに磨き上げたような石の壁を見せるものばっかりだった。
おれが今いるこの家屋も、内側こそ木造であったものの、外から見れば白い石造りであるようだった。
建物の高さは様々だったが、色味が二つに纏められていることもあって雑然とした感じはしない。
どの建物も、窓枠は鮮やかな緑や赤や金色に塗られており、透明度の高い硝子が窓に使われていた。
目を細めて上方に目を向ければ、背の高い建物は、これまでにおれが見たどの建物よりも高く聳えていた。
そしてそういった高層の建物どうしは、優雅に弧を描く象牙色の吊り橋で、高所でそれぞれ結ばれている。
空中に回廊があるような格好で、高い位置でも互いに行き来できるようにされているらしかった。
ちょうど見上げた位置にある、そういった高い建物の先端に、太陽が半ば隠れるようにして浮かんでいる。
建物の縁から陽光が溢れて明るい。
そして気付いたが、外部の物音は殆ど聞こえてこなかった。
この家屋が、あるいは周囲の建物全部が、おれが今まで入ったことのあるどの建物よりも遮音性に優れているのだろうが、
「――なるほど」
おれは思わず呟いた。
今まで、女王に興味を惹かれることはあっても、彼女がいる都市そのものの様子を窺おうと思ったことはなかった。
だが実際に目にしてみれば、なるほど、「世界の中心」というのも頷ける。
大国と言われていたレンリティスの王都でさえ、これほど発達し、繁栄はしていなかった。
同時に、眩暈がするほど多くの世双珠の気配もある。
それこそレンリティスの王都にもカロックの帝都にも、これほど多くの世双珠の気配はなかった。
この都市の発達と繁栄を底支えしたのは、間違いなく世双珠、つまりはおれの苦痛の産物だ。
「おまえさん、どこから」
また老人がそう尋ねてきたが、応じるのも面倒なので、おれはさっさと踵を返して扉に向かった。
老人は目を白黒させていて、おれが近付くと、殆ど反射のように道を譲った。
重厚な扉を押し開ける。
その外は短い廊下になっていて、そこを進むとようやく玄関扉があった。
扉の重さはおれには障害にならないので、そちらも押し開けて外に出る。
玄関先は白亜の幅広の階段となっていて、そこを下りると通りになっている。
先ほど眺めていた幅員の広い通りは、ここから見ると右側に通っているようで、おれの目の前にある道はそれよりはやや狭かったものの、馬車が擦れ違うことが出来る程度の幅員は確保されていた。
どこもかしこも道幅が広いな、と思った途端、世界中のおれの耳目から、人間の話し声に起因する情報が送り込まれてくる。
――女王が即位してからというもの……街路の整備には意欲的で……最低でも馬車が擦れ違う幅員は確保せよと……お陰で馬車同士の衝突も減った……
通りに足を踏み出して、右側、大通りの方へ足を向けてみる。
それにしても、磨き抜かれたような光景だ。
何がおかしいと言って、道に塵が落ちていない。
今までカルディオスと訪れたことがある町では、大抵、道の端には塵が堆積していた。
カルディオスも、要らなくなったものは頓着なく道に放り捨てていたものだが――
――女王のお達しで……流行り病は清掃が行き届かないがゆえだと……用水路の整備と清掃夫への給金には湯水の如くに税を使われた……
耳許で誰かが囁くかの如くに情報が落とされて、おれは思わず頷いてしまう。
どうやら夜中から朝方に掛けて、女王が雇った清掃夫が――ここだけではなくて、どこの町でも――町の清掃に当たるらしい。
塵は纏めて都市の外れで処分されるらしく、自力でそこまで塵を運ぶ者にはある程度の税優遇が約束されるらしい。
都市に住むだけで税を毟り取られていく国民は、我先にとその優遇に飛び付き、結果として清掃夫の仕事からも過酷さは失われていると、そういうことのようだ。
よく分からないな。
カルディオスは要求された分だけ金を出していたし、特に困った様子も見せなかったが、金というのは実は貴重なものなのか。
他人から盗む者もいるということは知っていたが、あれは単純に欲深いというのではなくて、自分が持っていないから盗んでいたということなのか。
更に辺りの世双珠の働きを見てみれば、驚くべきことに、家屋ひとつひとつに水を汲み上げる働きをしているものが感じられた。
地下の水脈から直接、各家屋に水を引いているらしく、なるほどそれで高い建物もあるのか、とおれは納得する。
何しろ水を汲むためだけに、遥かな高処から地上に降りるのでは、面倒なことこの上ないだろうから。
女王の施策で、そういった清潔な水と、使用済みの汚れた水を流す水路が分けられて、結果として疫病は減ったらしい、という情報を、おれはおれの耳目から得る。
疫病が何なのかは知らないが、多数の人間がその功績を褒め称えていることから推しても、どうやら厄介なものであるようだ。
視野を広げてみる。
世双珠を通して、広くこの国を見てみる。
そうしてみると、どうやら女王のお膝元であるこの都市だけではなく、女王の支配下にある町では大抵、これと同程度の住環境が維持されているらしかった。
一つの町で病が広がればそれが他所へも感染する、という女王のお達しがあったというが、お蔭で女王が一つの国を征服する度に、沢山の魔術師や大工や土木業者、清掃夫がその国へ派遣され、他と同程度の住環境を提供するために汗を流す羽目になったようだ。
――『とはいえ、ねえ』
と、おれの耳目が過去の声を拾う。
――『仕事がないよりはマシだよな。この頃じゃ女王陛下が戦争始める度に、おっ、俺たちの仕事が増えるぞ! って思えるようになってきたっつーか』
――『分ッかる。ていうか、アレだよな。ええと、なんつったっけ、ほら、前まで国境だったとこを越える度にさ、あの偉いさんたちが何か言うじゃん、ええっと』
――『ナントカ不安』
――『それだ、せ――政情不安。せーじょーふあんが何だか知らんが、取り敢えずそれが理由で、俺らはお国から普段より高い金が貰えるんだろ』
――『そーそ、あと、笛を配られる儀式な』
――『あー、あれね。なんか、そこに住んでる連中に襲われたりしたら笛鳴らせってやつだろ。軍人が助けに駆け付けて来るからって』
――『普段偉そーな軍人が、犬みたいに駆け付けて来るのウケるよな』
――『けど、軍人も走って来て相手を追っ払うだけじゃん。逆を知ってるか』
――『逆、ってーと、あれか? 軍人がそこに住んでる連中を襲うってこと?』
――『そんなことあんの?』
――『昔、一回だけあったらしい。そのときにその、やらかした軍人? が、相当えらい目に遭ったっていうんで、それ以来はないらしいけど』
――『殺されたの?』
――『違う違う、男の、なんだ、アレを、ちょきんと』
――『マジ? ……えげつねえ。お国のために頑張って身体張った軍人に、陛下もよくそんなことするねえ』
――『軍人は偉いけど、おまえも教わっただろ』
――『ああ、うん、――“主が創り給うた人間は皆平等、門地および両親の身分、職業により差別されない、篤く天主ユスティドーヌと教主エイオスを敬い、女王陛下に忠誠を誓う限りは”』
――『そう、それ。まあ、女王陛下が叩くのは相手の国の王さまと、軍人だけだからな。一回でも女王陛下のものになった奴に、その、なんだ、軍人といえども好き放題していいわけじゃないって、そういう考えらしい』
――『ってか、おまえら知ってる? 他所の国だと、俺らみたいな職人は字ぃ読めないこともあるんだって』
――『嘘言うな、どうやって指示書を読んだり書いたりするんだよ』
――『全部口頭なんだって。なんか、他の国だと、俺らみたいにガキの頃に町学に入れてもらえないらしいよ。そもそも町学もなかったりするって』
――『マジかあ、本読めねえじゃん。手紙も書けねえし』
――『ヴェルローに生まれて良かったな。なんで他所の国の連中、女王陛下に膝突くのを嫌がるのかね』
――『あれじゃねーの、生まれた環境が変わるのが嫌なんじゃねーの』
――『まあ、それもあるけど、あれだ。自分たちの領主とかに、あいつらは悪い奴らだから屈するなって言われんだよ。で、実際に怖い顔の軍人が攻めて来るわけだから、びびり上がる。で、実際に何されんだろって怯えてると、町の整備工事が始まって、きょとんとする。で、次に税の重さにびっくりして引っ繰り返る。生活詰んだと思ってたら、割と国が税の分は助けてくれるってことに気付いてほっとする。金払わねーで医者を呼べるんだもん、びびるよ』
――『あー、そういやおまえ、五年? 四年? くらい前まで他所の国の奴だったっけ』
――『そうそう、まだガキだった。まあ、俺が元居たとこの領主とか権力者とかは、結構な数で首斬られたらしいけど』
――『女王陛下は、そこは容赦ないからなあ』
――『確かに。攻め込んだ直後だけは、疑わしきは罰するって感じだよな。俺たちみたいな平民でも分かる。ちょっとでも女王陛下に反抗的な奴は片っ端から首斬れって命令するらしい』
――『まあ、そうだな。俺の叔父さんも晒し首にされたし』
――『なんか悪いことしたの?』
――『してねーよ。あれは濡れ衣だった』
――『けど、お役人が首斬っていいって言ったんだろ』
――『だから――いや、いい、こういう話は喧嘩になるから』
――『……なあなあ、他所だと、女王陛下って酷い言われ様なんだって?』
――『あー、うん。今から考えるとすっげぇ不敬だけど。なんかこう、常に軍人を町に徘徊させて俺らを監視してる、みたいな感じの。気に入らないことがあったら町ごと焼き払う、みたいな感じの』
――『なんだそれ!』
――『まあ、女王陛下のお陰で俺たちは酒を飲めるということで』
――『かんぱーい!』
おれは瞬きして、我に返った。
いつの間にか、大通りの真ん中辺りまで歩を進めていた。
足を止めると、ややあって、「ちょっと」と後ろから声を掛けられる。
振り返ると、中年ぐらいの男女の二人連れが、訝るようにおれを見ていた。
「――どうしたの、迷子?」
おれは首を振った。
だが同時に、会ったばかりの頃のカルディオスがおれのことを迷子だと思い込んでいたのを思い出し、ふと尋ねていた。
「――教会は?」
確か、カルディオスはおれを迷子だと思い込んで、おれを教会に放り込もうとしていたんだった。
二人連れは顔を見合わせたあと、「朝のおつとめの時間は過ぎてしまったけれど」と前置いて、
「一番大きな教会は、もちろんお城の中だけれど、近い方だと、ギルデ通りに」
ギルデ通り、というのが何かは分からなかったが、知ろうと思えばすぐに分かることだろう。
おれは頷いて、適当な方向に歩き出した。
後ろでその二人連れが、「あらギルデ通りに行くんじゃないの」だのと呟いていたが、特に気にならなかった。
だがすぐに、どうやら自分は人波の動く向きに逆らっているらしいぞ、と気付いて、なんだか面倒になって向きを変え、周りに押し流されるようにして歩き出し直す。
そのうちに人混みが嫌になって、おれは脇道を見付けてそちらに入った。
上を眺めると、背の高い建物に切り取られた狭い空が見える。
狭かったが、その分突き抜けるように高い青空で、思わず左手を上に向かって伸ばして、空の高さを計ってしまう。
しゃらん、と手首で、青空と同じ色のカライスが揺れる。
そうやってしばらく歩き回っていると、そのうちに、おれの好きな澄んだ声が聞こえてきた。
これは一度聴いたことがある、聖歌というやつだな、と嬉しくなって、おれは声が聞こえる方向に歩を進めた。
しばらく歩くと、周囲の建物よりも二回りくらい大きく、立派な鐘楼を備えた白亜の教会が見付かって、おれは教会の大きな入口に続く幅の広い階段を昇り、開きっ放しになっている扉から中を覗き込んだ。
薔薇窓から差し込む陽光に照らされて、年齢も性別も様々な人間たちが、教会の奥の方で歌っている。
高く低く響く歌声が、高い天井に反響して透き通り、目には見えない慈雨のように降り注いでいる。
しばらく立ったままそれに聞き惚れていると、やがてそれに気付いたのか、既に教会の中にいた数人がおれを手招きし、声を立てないながらも、「中に入って聴け」と合図を送ってきた。
おれはその手招きに従って教会の中に足を踏み入れ、ずらりと並べられた長椅子のひとつに腰掛けて目を閉じ、壮麗な歌声と伴奏に耽溺する。
やっぱり聖歌はいい、と、おれは隣に向かって呟こうとして、しかし隣に誰もいないことを思い出し、少しばかりの、小さな蟠りのような違和感を覚え、吐く必要もない息を吐き出す。




