36◇ ――〈絶対に魔王と結ばれることはない〉こと
だが、おれは結局、カルディオスに忠告も警告もしてやることは出来なかった。
理由は簡単で、どうやら駅馬車を捉まえたらしいカルディオスが、その翌日の朝にはリーティに到着してしまったからだ。
あいつの目的地はリーティだったのだ。
リーティは、何とも皮肉なことに、レンリティスの、まだ生き残って機能している町の中では、五指に入る治安の悪さを誇っている。
理由は知れている。
リーティに住んでいる連中は、大魔術師が王宮の外に出ていないことを知っているからだ。
おれとしては、リーティには例の機械を出していないのだから、うるさいことは言わなくてもいいような気がするが、それはそれとして、大魔術師が外に出て来ないことは市民にとって業腹であるらしい。
連日連夜、小さな揉め事が起こっているリーティに、カルディオスは入ったようだった。
“ようだった”、というのは、今に至ってもやはり、カルディオスの姿が見えないからだ。
リーティは広大で、その隅々にまで世双珠が行き届いている。だからおれの感覚としては、カルディオスが通るその場所だけ、強制的におれの目が閉ざされていくかのようだった。
見えない場所にこそカルディオスがいると分かる。
カルディオスはリーティには入ったものの、そこからの道のりに少し困ったようだった。
というのも、おれの耳目が閉ざされている位置が、しばらく変わらなかったからだ。
恐らく広いリーティにおいて、目的の場所に行くには乗合馬車か辻馬車を使わなくてはならないが、治安も悪化している中、そういった移動手段も数を減らしているのか、なかなかそれらが見当たらなかったのだろう。
おれはカルディオスが、困った顔、あるいは顰め面、あるいは不安そうな顔をしているところを想像する。
あいつは他人を怖がるから、今も怯えているかも知れない。
だがやがて、カルディオスが首尾よく馬車を見付けたのか、おれの耳目が閉ざされていく箇所が次々に移り変わり始めた。
カルディオスは、幾つか馬車を乗り継いだらしい。
止まったり動いたりしながら、徐々にリーティの中央、王宮に近付いて行く。
おれはぼんやりしながらカルディオスの気配を追っていたが、カルディオスが王宮に辿り着く頃には、昼近い刻限となっていた。
おれはリーティの王宮に足を踏み入れたことはない。
だが、世双珠が溢れるその王宮の広大さはよく知っている。
その王宮の入口で、カルディオスは少しばかりの足止めを喰らったらしい。
しばらく彼の位置が動かなくなって、だがすぐに、何か徒歩以外の移動手段を確保したのか、かなりの速度で移動し始めた。
――どこに向かっているんだ?
女伯のところ? それとも他の場所?
おれは目を閉じて、見えないカルディオスの行方を追う。
次々におれの目が閉ざされる場所が入れ替わっていく。
やがてカルディオスの移動が止まって、そこでようやく、閃くように彼の姿が見えた。
今の今まで、おれが彼を見ることを妨害していた、彼自身から溢れる魔力――それが少しの間だけ落ち着いたかのようだった。
カルディオスは、おれが見たことのないような顔をしていた。
目許が強張り、顔が蒼白になっていて、それ以外の表情が全て削ぎ落されたかのようでもあった。
どこかに入ろうとしていて、それを止める誰かと言い争いになっている。
おれは眉を寄せる。
カルディオスは基本的に、誰かと言い争うことなど滅多にしないのに。
また、すうっと目蓋が下ろされるようにして、カルディオスの姿が見えなくなった。
おれは思わず顔を顰めたが、今度はすぐに、カルディオスの姿が朧気に見えるようになった。
とはいえ、視界は安定していない。
ちかちかと瞬く。
カルディオスの横顔が見えて、またすぐに消える。
そして、声が見えた。
『――カル、どうして?』
おれは思わず眉を寄せた。
――この声は、あの女伯の声だ。
同時に、その姿が見えた。
蜂蜜色の髪の半ばを緩く結い上げて、質素極まりない衣装の上にガウンを羽織った女伯。
青白い顔色で、目を丸くしてカルディオスを見ている。
おれに見える雑多な色彩の中で、白い頬が浮かび上がるように映えている。
ちかっ、と、視界が揺れる。
おれは顔を顰める。
次にきちんとカルディオスの様子が見えたときには、女伯がカルディオスに駆け寄って、殆ど彼の肩を掴まんばかりに間を詰めていた。
『どうしてここにいるの? あの方が――キルディアス閣下が、それこそ血眼できみを捜しているのよ。昨日、そう言われたばかり』
『――俺を?』
カルディオスの、普段よりも低い声が見えた。
――その声を見て、おれは確信した。
おれの勝ちだ。
あの偽装を、カルディオスは見たままに受け取ってくれたに違いない。
つまりは、おれを殺したのは女伯だと思い込んでいる。
だからこうして、女伯に会いに来た。
『なんで?』
カルディオスの声音に、女伯が怪訝そうに眉を寄せた。
そして、躊躇いがちに、言葉を選ぶようにしながら口を開いて、
――駄目だ。
意識するまでもなく、おれは遥か離れた場所にいるにも関わらず、膝立ちになってそう考えていた。
――駄目だ。
女伯は訊くだろう。
カルディオスに、「どうしたのか」と尋ねるだろう。
カルディオスはおれのことを女伯に話し、女伯はそれを否定するだろう。
女伯はそもそもおれを殺してなどいないのだから、嘘の欠片もない口調で。
カルディオスも冷静になれば、それを信じてしまうだろう。
――駄目だ。
おれは女伯に腹が立っている。
不平等に救済を与えていた女伯に、この上なく腹が立っている。
だからこそ、頼むから、女伯にはカルディオスの情を与えてほしくない。
――口を開かないでくれ。何も言わないでくれ。
おれはそう考えていた。
いや、口にすら出していた。
「……口を開かないでくれ――」
――おれの意思、おれの言葉が、遠大な距離を越えた先の、ささやかな事実を書き換えたのが分かった。
果たせるかな、女伯が口を閉じたのだ。
――その瞳に、確かに驚愕の色があった。
彼女の意思ではない。
口を閉ざしたのは彼女自身の意思ではない。
おれの勝ちだ。
――女伯が、明瞭な焦燥を表情に浮かべた。
そんな彼女を見ているカルディオスは、いっそ透き通るような無表情だった。
『……アンス』
カルディオスが呟いた。
おれも聞いたことがないくらいに、低く潰れた声だった。
――おれは咄嗟に、「なに?」と応じそうになる。
それが癖になるくらいには、おれはカルディオスと一緒にいたから。
だが、おれがここで百万回返事をしたとしても、遠く離れているカルディオスには聞こえない。
呟いて、そのまま、カルディオスが俯く。
彼が歯を食いしばるのが分かる。
その歯の隙間から息とも紛う声が漏れる。
『アンスが――俺の友達が――』
また、ちかりと視界が瞬いた。
おれは眉を顰める。
切れ切れに、声だけが見えた。
『――師匠の魔法の匂いだった』
視界が安定する。
女伯は、おれが思わず笑いそうになるくらいには、不意を打たれた唖然とした表情を浮かべていた。
口を開かないでくれ、声を出さないでくれ、と、おれはひたすらに念じ続ける。
『……師匠があいつを殺したんだ』
俯いたまま、カルディオスが言った。
決して強い口調ではなかった。
むしろ弱々しく、震えんばかりの声だった。
女伯が目を瞠り、首を振り、喉に手を当てる。
焦っている――混乱している。
それが分かる。
「ちょっと待って、きみが以前言っていたあのお友達が、どうなったと言ったの?」と、そう尋ね返そうとしているのだということさえ、おれにはまざまざと想像できた。
――おれは思わず微笑む。
カルディオスが、素直におれが死んだと思っているのが微笑ましかったし、おれのことを人間だと思い込んでいるのが嬉しかった。
そしてまた、おれがひょっこりあいつのところに顔を出したら、どれだけ驚いてくれるのかと楽しみになったから。
『あいつ……俺の――』
カルディオスが言葉に詰まり、顔を上げた。
だが、目が見えていないのではないかとおれは案じた。
そのくらいには、焦点の失せた瞳だった。
『――師匠が紹介してくれた宿でした』
女伯が息を吸い込むのが分かった。
事態を理解しつつあり、何かを言おうとしている。
それを、おれがひたすらに押し込めている。
女伯が首を振る。
懸命に首を振り、声を出そうとしている。
カルディオスには、果たしてその挙動が見えていたのかどうか。
カルディオスの声が掠れた。
まるで、棘のついた何かを吐き出そうとしているかのように、言葉を喉から絞り出した。
『朝、あいつ……。師匠の魔法の匂いが、あんなに』
そのとき、女伯が見えざるおれの手を擦り抜けたかのように、声を出した。
おれは息を引く。
どうやらカルディオスの言葉が嬉しかったついでに、少しだけ気を抜いてしまったらしい。
一息に、まるで次にいつ言葉を吐けなくなるかを恐れるように、女伯が囁いた。
『――待って、落ち着いて。違うわ、理由もないでしょう』
おれはまた、「口を閉じていてくれ」とひたすら念じる。
果たしてこれほどの遠方から念じて、どれだけ効果が続くのかは知らないが。
『――理由』
カルディオスがぽつんと言う。
『あいつの涙は宝石で……』
カルディオスが呟いた。
うわ言じみた口調だった。
随分前におれが話した戯言を、あいつはちゃんと覚えていた。
『……あいつ、人を捜してたんだ。なのに急に、もういいって……』
ちかちかっ、と、視界が瞬く。
おれは眉間に皺を寄せる。
『――教会に、誰か来てた……あいつを捜してた……』
カルディオスの声がぽっかりと浮かぶように見えて、視界が安定する。
唐突に、雲が晴れるように視界が明瞭になって、明るく照らされるカルディオスの白い顔貌、そこに煌めく大きな翡翠色の瞳がはっきりと見えた。
『ハルティの大使だ。あいつが捜してたの、絶対にあの人だ』
女伯が瞬きする。
雷に打たれたとしてもこれほどの衝撃は浮かべまいと思うほどの衝撃を表情いっぱいに浮かべて、目を見開く。
どうしてここでルドベキアの話になるのか、と、それを思って驚愕したことが、おれにはよく分かった。
『あいつ、ほんとに……全然ものも知らなくて……あんなのおかしい。
前に居たところで、忘れたくなるような何か、そういうのが、あったんだ』
カルディオスが呟く。
熱に浮かされたかのような早口だったが、声音に力がなかった。
『あいつがハルティから来たんなら、大使もあいつを知ってたんだ。あいつを酷い目に遭わせたんだ』
「――――」
おれは思わず、息を吸い込んで両手を合わせ、その合わせた指先を、自分の眉間の辺りに当てていた。
――そうだ、そうだ。
カルディオスが想定していることは、おれがハルティで何か凄惨な境遇にあって、そこから逃げ出した結果に恐怖と衝撃が過ぎてそれまでの記憶を落としてしまったのだ、と、そういうことだろう。
それは違う。
事実とは遥かに乖離している。
だが、意味は合っている。
「そう、そう」
思わず、おれは呟いていた。
「そうなんだよ、カルディオス」
『あいつ、急におかしくなったんだ。急にどこかに行くって言ったり……やることがあるって言ったり。
何か思い出してたのかも知れない』
カルディオスが呟く。
まるで、何度も何度も繰り返し同じことを考えた結果、最も蓋然性の高い事柄だと認めたことについて話すかのような口調だった。
『あいつ、あいつの涙が宝石だから、だからハルティは、あいつに戻って来てもらおうとしたんだ――そうとしか、もう』
カルディオスの声が曇って、おれは不安になる。
女伯もただただ目を見開いている。
だが、口を開けないのならば、何か他の手段で自分の身の潔白を証明するべきだと思ったのか、カルディオスに向かって手を伸ばした。
縋るようでさえあった。
カルディオスが大きく一歩後退って、女伯の手を払い除けた。
『――――』
女伯が、もうどうすればいいのか分からない、と言わんばかりの、年齢には不相応に見えるほどの、途方に暮れた表情を見せた。
もういっそ、ぽかんとしている、と表現できるほど、空になった瞳でカルディオスを見ていた。
顔貌はいっそう青白くなっていた。
『……師匠が』
カルディオスが呟いた。
彼が鼻を啜ったのが見えた。
異変が起こった――カルディオスの両目に、涙が膜を張り始めたのだ。
カルディオスが口を開き、息を吸い、声を落ち着かせようとするかのように歯を食いしばって息を止めてから、囁くように声を落とした。
『師匠なら、あいつを、連れ戻せる』
女伯が、まるで自分の心臓がたった今自らの胸から取り出されたのを見たかの如き、明瞭な痛苦を頬に昇らせた。
一歩下がる。
飴色の瞳が細められる。
――どうして彼女がこのとき、そこまで苦しそうな顔をしたのか、おれには分からなかった。
女伯の表情は、まるで、不当な差別から逃れた先でまた差別に遭ったかのような、そういう――裏切られたがゆえの驚きと悲哀さえ漂うものだった。
『ずっと考えてたんです……なんで師匠が俺たちのところに来たのか……でも、もう、それしか思い付けない』
カルディオスが目を擦った。
乱暴な仕草だったので、目許が赤くなった。
ぼろ、と人の気持ちがその双眸から落ちて、カルディオスは小さく嗚咽する。
『あいつ、俺に、次の宿も一緒に行っていいって……まだしばらく一緒にいてくれるって……そう言ったばっかりだったんだ……』
カルディオスは顔を上げたが、相変わらず、目の前の光景がまともに見えているのかは怪しかった。
今や次から次へと、人の気持ちがカルディオスの双眸から溢れていた。
『ハルティの、あの大使、何でも出来るんでしょ。時間を停めたり出来るなら、あっと言う間に師匠を連れて来ることも出来たんでしょ。
アンスが、あいつが、ハルティに戻りたがらないから、大使が師匠に、あいつを説得してくれって言ったんじゃないですか』
だって、と、カルディオスが声を継ぐ。
女伯が懸命に首を振るが、それは恐らく見えていない。
『師匠は、人の心も変えられる、そういう、たった一人の大魔術師だ』
女伯が、手背で顔を隠した。
まるで見えない刃物から顔を庇うかのような仕草だった。
痛みを厭うように首を振る彼女が何かを言おうとしているが、言わせない。
それで、と、カルディオスが続ける。
嗚咽で、言葉が不明瞭になっている。
『あいつが言うことを聞かなくて、それで、あんなことをしたんだ』
カルディオスが顔を覆った。
彼の全身が震えていて、おれは小さく驚く。
これほど静かに、だが度を越して取り乱すカルディオスは、おれも見たことがなかった。
『――俺、自分の親友が殺されてるときに、暢気に寝てたんだよ。そんなのないよ』
「おれがおまえを起こさないようにしたんだよ」
おれは思わずそう呟いたが、ここで呟いたとてそれがカルディオスに届くはずもなかった。
カルディオスが顔を上げる。
蒼白な花貌の中で、目許と鼻の頭だけが赤い。
唇までもが青白く、翡翠色の目が異様に煌めいて見える。
『師匠が、大使のお願いを聞いたんだ。――だって師匠、あの人のことが好きなんでしょ?』
女伯が手背から顔を上げ、しかしその場に座り込んだ。
ふわっと蜂蜜色の髪が慣性で浮いて、衣裳の裾が広がる。
唐突に、彼女の膝から力が抜けたかのようだった。
それを見て、カルディオスが瞬きする。
表情から、僅かに――ほんの僅かに、確信が薄れた。
おれはどきりとする。
あるはずのない心臓が動悸を打つ。
『――違うんですか?』
手首の辺りで目許を拭って、カルディオスが尋ねた。
詰問というよりも哀願に近かった。
『違うんですか、師匠?
だったらそう言って――』
何も言わないでくれ。
『――いつもみたいに、言って聞かせてくださいよ』
口を開かないでくれ。
――女伯が顔を上げ、肩を震わせる。
おれはひたすらに、黙っていてくれ、声を出さないでくれ、と念じる。
女伯は何も言わない。口を開かない。
――それが出来ない。
何一つとして弁解の許されない女伯は、ひたすらに肩を震わせて、茫然とカルディオスを見上げている。
カルディオスの顔が歪んだ。
彼が一歩下がった。
よろめくような動作だった。
『――それに、あの』
呟く。
女伯は床に座り込んだまま、もう何も言わないでほしいと懇願するようにカルディオスの方に掌を向けている。
けれどもそれを乱暴に無視して、カルディオスが、感情が突き抜けたかのような淡々とした声を出す。
『俺も見た。あれ。
俺が、師匠にあげた機械の、でかいやつ』
女伯が唇を覆う。
その指先までもが青白かった。手指が小刻みに震えている。
『あの機械、俺以外だと、ちゃんと見たことがあるの、師匠だけだ。
俺、あいつの仕組みを師匠に説明もしましたよね』
カルディオスの翡翠の双眸が、初めて見る生き物を捉えるかのように、女伯をまじまじと映した。
『――あなたがやったんだ。
あなたが、戦争まで起こしてるんだ』
女伯が首を振った。
訴えるように何度も首を振る、その仕草をしかし、カルディオスはもはや完全に無視していた。
『師匠がそんなこと……するならとっくにやってるから――あの大使に何か頼まれたんですか?』
カルディオスは今や、不思議そうでさえある眼差しで女伯を見ていた。
彼が女伯の無言の挙動を、否定と受け取っていないのは明らかだった。
言い訳にも劣る言い逃れの仕草だと思っていることが、おれですらありありと分かった。
――カルディオスの、その表情に嫌悪が載る。
ゆっくりと上から注がれているかのように、嫌悪が瞳に表情に口許に拡がる。
『……そこまで? ――で、まだそんな顔してんの?』
嫌悪と軽蔑と失望のありったけが詰まった声でそう言って、カルディオスは先程とは真逆に、今度は女伯に向かって、詰め寄るように足を踏み出した。
殆ど反射的にだろうが、カルディオスが手を振り上げる。
間違いなく打擲の仕草だった。
このときカルディオスが何を考えたのか、おれは知らない。
瞬くほどのあいだ動きを止めた彼が何を思っていたのか、おれは知らない。
ただこのとき、カルディオスの唇が震えて、断固として拳を握り、彼がその手を下ろしたのを、おれは見ていた。
カルディオスが口を開いた。
項垂れる女伯に向かって、明瞭に言葉を押し出そうとしている。
――そして、
おれは目を見開く。
『――あなたが、』
カルディオスの、その声。
女伯が顔を上げ、驚愕といってもなお余る、呆気にとられた顔をする。
それがなにゆえか、おれにはよく分かった。
カルディオスの、この声のゆえだ。
運命が動く音を伴うほどに重い、この声。
――どうして、と、おれは思わず呟いている。
呟かずにはいられない。
ルドベキアも、あの皇太子に向かって同じようなことをしていた。
あれにも驚いたが、だが、まだ分かる。
なぜならルドベキアは、もうひとつのおれのことを知っている。
だからこそ、あの機転が利いた。
そう納得できる。
だが、カルディオスは、何も知らないはずだ。
『――俺の親友を殺して、』
カルディオスの声に伴う、その圧倒的な魔力の気配。
このおれですら愕然とするほどの、煌めくばかりの才気の声。
粗削りながら圧倒的な才気を以て、カルディオスがもうひとつのおれに、女伯の魂を縛る刻印を成そうとしている。
――ムンドゥスが、彼女ですらも驚いたように顔を上げ、混乱したように頭を振っている。
「……ああ」
おれは呟いた。
納得と得心の、もはや誇らしさすらある呟きだった。
――そうだ。
カルディオスの魔法。
無から有を生み出す、あの破天荒な魔法。
有形無形に関わらず、あいつの意思そのもの、あいつの夢そのもの、あいつの言葉そのものを、現実に顕す無二の魔法。
存在しない場所に存在を定義して、ありとあらゆる条理を踏み越えて、その条理ですらも新たに創り、手が届くはずのない領域への道すらも創造し切り拓く、それがあいつの魔法だ。
その魔法で、ルドベキアとそっくり同じことを、カルディオスが行っている。
来世からの女伯の全生涯に、言葉を縛めとして刻み込んでいる。
『――それどころか戦争まで起こして、』
女伯が茫然としている。
彼女も、元はといえばムンドゥスが特別に拵えた、世界のための魔力の器だ。
カルディオスには遠く及ばないにせよ、それでも注がれる魔力の量は甚大で、そして何より魔法に対する造詣が深い。
だからこそ、今、カルディオスが彼女に何をしているのか、寸分違わず理解しているはずだ。
恐らくはカルディオスが働き掛けている対象として、もうひとつのおれの存在も、朧気に察しているに違いない。
『――今まであなたが俺に教えた全部が、綺麗事の嘘っぱちで、何の価値もないっていうことを、あなた自身がそうやって俺に教え直してくれてるっていうなら、』
カルディオスが女伯を見ている。
視線に重さがあるのではないかと疑うほどの、その眼差しで。
『師匠、あなたはこののち、あなたが馬鹿みたいに惚れ込んでるあの人、あの魔王とは、生涯に亘って結ばれないし通じ合わない、幸せにはなれない。そんなことは絶対に許されない。それが、あいつを殺したあなたの贖罪だ』
カルディオスが宣言した。
女伯の運命を定めた。
呪いを掛けた。
――この千年、二千年、あるいはもっと先になって、おれを大いに助けることになる呪いを掛けた。
◇◇◇
「――これはこれは」
おれは目を閉じたまま、思わず感嘆の声を出している。
「すっごく予想外だけど、」
おれの、世双珠を通した視線の先では、カルディオスが踵を返している。
吐き気を堪えるように口許に手を当てていたが、――なんとも、このおれですら恐ろしいと感じることに――魔力は枯渇していない。
ルドベキアの魔力を一瞬にして涸れさせた行い、それと全く同等のことをしてなお、カルディオスの中に注がれる魔力にはまだ余裕がある。
空恐ろしいほどの魔力量と才能だ。
「――まあ、いいものが見られたかな」
おれが惚れ惚れと友人の後ろ姿を眺めていると、女伯が動いた。
――まだ、何も言わないでくれ。
おれがそう考えると同時に、立ち上がろうとしてよろめきつつ、女伯が指を鳴らすのが見えた。
カルディオスが、弾かれたように振り返る。
表情は警戒と恐怖に占められていた。
女伯の魔力が動いたことを察したのだろうが、別にカルディオスに害を与える魔法ではなかった。
目的としてはむしろ真逆で――カルディオスの魔力を隠す魔法。
〈ものの内側に潜り込む〉という魔法を扱えるがゆえの、女伯特有の細工だったのだろうが、魔力量が齎す周囲への影響を、最小限に抑える魔法だ。
――女伯が、青髪の侯爵からカルディオスを守るために掛けたのだ。そう分かる。
それを見届けて、なんとなく釈然としない気持ちのまま、おれはカルディオスと女伯に当てていた視線を打ち切って、目蓋を持ち上げた。
――燦然と陽光が降り注いでいる。
目を細める。
どこからか轟音が地面を這うように響いてきて、おれは薄く微笑む。
「――なにをするの、ヘリアンサス」
隣からムンドゥスが、身を乗り出すようにしておれを覗き込んでいる。
おれは必要もない欠伸をしてみせて、その場で後ろに倒れるようにして身体を伸ばした。
「うーん。そうだな。
――まあ、ちょっと様子を見ておこうか」
――少し先のことを話そう。
この十日後、女伯はルドベキアに呪いを掛ける。
そして恐らくその反動で、カルディオスを守っていた方の魔法は解けたのだろうが、――その翌日、青髪の侯爵が遂にカルディオスを見付ける。
時を同じくして、おれはサイジュを行う連中に見付かることになる。
◇◇◇
ここからが、おれとあの六人の、全部の終わりと始まりの話だ。
朝になったら状況整理のための活動報告も書きますので、そちらも是非ご覧ください。




