35◇ ――相似
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例の機械が暴れ始めてから十日目に、ようやくルドベキアがおれの目の届くところに戻ってきた。
ルドベキアを甲斐甲斐しく運んでいた一機は、おれが少しばかり不愉快になるくらいの乱雑さでルドベキアをどこかに放り出して、飛び去ったようだった。
ルドベキアはしばらくその場で昏々と眠り込み、やがて水を掛けられて目を覚ます。
動揺しているようではあったが、生きているし無事だ。
これでいい、と思った。
これでいい、ルドベキアを殺すことならいつでも出来るから、生きていてほしいのか死んでほしいのか、分からない今のうちは生きていてもらうべきだ。
ルドベキアは数分間は目を開けていたが、すぐにまた崩れるように気を失った。
もしやこのまま死んでしまうのでは、と、おれは我知らず気色ばんだが、傍にいたらしき男が、慌てふためいた様子ながらも素早くルドベキアを支え、どこかに運ぼうとし始めた。
――おれは思わず、吸う必要もない息を吸って、吐く。
良かった。
ルドベキアが、おれに関係のないところで死んでしまうようなことがあれば、おれは絶対にそれを許せない。
――大陸各地で、おれの機械は順調に町を壊して人間を殺していた。
その甲斐あって、生きている人間も動揺していて、この数日で事態は目まぐるしく変わっているようだった。
だが、東の大陸の、幸運にもまだ国家と呼べるだけの基盤を持っている国の連中からすれば、分かりやすい敵がいるに越したことはないらしい。
もはや完全にレンリティス王国を共通の敵と認識していて、その考えが浸透することの素早さといったら、おれが思わず感嘆の声を上げたくらいに見事なものだった。
更に輪を掛けておれにとって面白かったのは、レンリティスに住んでいる人間たちはそのことを知らないということだった。
情報の行き来には人の行き来が必要だ。
こんな状況になって、国外から人間を受け容れたりすることが出来るわけもない。
空を飛ぶ雲上船も、レンリティスに向かう船はぱったりとなくなった。
だからこそ、レンリティスの人間たちは暢気にも、今や東の大陸で唯一大魔術師を擁する国となった自国こそが、この事態に対処せねば――と思っている風情すらあった。
笑いを誘うことこの上ない。
レンリティスの人間は、自分たちが周辺国から敵視されていることを知らない。
だからのこのこと、雲上船に乗って避難を試みてみたりもしている。
遠隔地の様子が分からないから、どこかに無事に保たれている場所があるのではないか、と期待するようだった。
そうやって離陸した雲上船の乗客たちは、他国に着陸したと同時に、「レンリティスからの船が来る」という情報を得て待ち構えていた人間たちに取り囲まれ、袋叩きに遭って、積荷も乗客の身包みも剥がされる。
そしてレンリティスの人間は一様に、「どうしてこんなことを」と、判で押したかのように尋ねる。
結果として唾を吐かれ、足蹴にされ、野晒しにされる。
レンリティスの人間は見事に、本人たちも知らないうちに、盛大に孤立することになっていた。
だが一方国内に目を向ければ、状況は他国よりも随分と良かった。
人間に動揺がないわけではなかったが、国内に二人の大魔術師がいるということが、国民全部の精神的な拠り所になっているようだった。
来るべき日が来たときには、大魔術師が綺麗さっぱり全てを片付けてくれると言わんばかりで、国民は今日この日を耐えれば良いのだというように、耐え忍んで過ごしている様子だった。
『――大丈夫、大丈夫』
廃墟になった町を立ち去りながらでさえ、人間たちがそう言い交わしているのが見えてきた。
『きっと、二人しかいらっしゃらないからな、お国の真ん中の方から助けていらっしゃるに違いない……』
自分たちに言い聞かせるようにそう呟く人間たちに、おれは思わず、「そんな日は来ないよ」と言いに行きたくなってしまった。
――何しろ大魔術師二人は、王都を離れてすらいない。
『今日までこのリーティは無事でございましょう、わたくしだけでも周辺を回ることが出来れば』
件の女伯が、連日のようにそう言って国王らしき男に噛み付いているのは、リーティの王宮にも腐るほど世双珠があったから、おれからはよく見えていた。
例の機械が暴れ始めてから十二日目、おれはまた女伯の姿を見ている。
『今日まで無事だとて明日も無事と言えようか』
『キルディアス閣下がいらっしゃれば、陛下の御身にも害は及びますまい』
『そなたに王宮を離れることを許せば、余はキルディアスにも領地に戻る許しを与えねばならぬ』
『今はお控えなさっては。時期も時期――このままではわたくしどもがパルドーラ閣下から頂くはずの対価も有耶無耶に』
国王ではない、別の高価な身形の男がそう言って、女伯はそちらを殺しそうな眼差しで睨み据えた。
『まさか、ご冗談でしょう? このようなときにご自身の債権を気に掛けていらっしゃる? 整理のお話はいたしました。
しかし、よろしいか、このままでは閣下が回収される財も全て塵になりますよ。国家あっての財産でしょう』
『パルドーラ閣下、あなたさまとキルディアス閣下がいらっしゃるのです、この国に大事ありましょうか。いつぞやご自身も、あなたを殺せる軍はないと断言していらっしゃったが……』
『嫌なことを仰る』
女伯がはっきりと言って、その場が少しざわめいたようだった。
恐らく、女伯がここまで直截的な口を利くことはなかったのだろう。
『軍は、そうでしょうとも。ですが今のこの状況、戦争というにも相手国はどこです? 軍が攻め込んで来ているとでも?
――わたくしを殺せる軍はない、確かに。ですが民なくして国は成り立ちません。このままでは』
『如何にもまったく、どこの国がこのような暴挙を』
別の男が口を開いた。
『数日前までならばカロックを疑っておりましたよ……条約を破棄した上に、ねえ? パルドーラ閣下の仰るには、どうやら閣下のご領地を瓦礫の山に変えてしまわれたのは、あちらの皇太子殿下のようですし』
女伯が打たれたように怯んだ。
さっと彼女の顔色が変わるのを、おれは世双珠を通して眺めていた。
同時に、薄青い髪を長く伸ばした女――キルディアス女侯が、ちらりと意味ありげに女伯の方を見た。
『ですが、まあ、彼の国はもはや一面焼け野原だと、雲上船乗りは申しておりますしねえ』
『――閣下』
青髪の侯爵が静かに呟いた。
『お言葉は慎まれませ。仮にこの国難を乗り越えたとて、雲上船の技術を掌握していた国が滅びたとなれば、我が国にも影響いたします』
『言葉を慎んで状況が好転するのでしたら、喜んで』
男が嫌味っぽく言って、青髪の子は応じてにこりと微笑み、はっきりと言った。
『あら疲れていらっしゃるのですね。失礼。
常ならばもう少し、頭の中に大鋸屑以外のものが詰まっている振りをなさっていましたが』
これには場がどよめいて、国王も短く青髪の子を咎めた。
青髪の侯爵は他には目もくれずに国王だけを見て、「仰せの通りに」と軽く頭を下げる。
女伯は随分と顔色を悪くしていたが、そこに追い打ちを掛けるようにして、周囲のどよめきが収まってから、背の低い男がぼそりと呟いた。
『――本当に間の良いことで、羨ましい限りですよ、パルドーラ閣下。首尾よく全てが有耶無耶になりつつある』
国王が短くその貴族を咎めた。
青髪の侯爵は瞬きをして、女伯の方を真っ直ぐに見詰めている。
ややあって、その意味のない言い合いの場は解散したらしい。
おれの目は、雑多な色彩の中を歩く女伯を見ていた。
どことなくぼんやりと歩を進めていた女伯が、背後から呼び止められた様子で瞬きし、振り返る。
そして彼女が目を瞠ったが、随従を連れて女伯を呼び止めたのは、青髪の侯爵だった。
青髪の侯爵が女伯に歩み寄って、女伯が訝しげながらも頭を下げる。
更に青髪の子が手を振って自分の随従を下がらせるに至って、女伯は明確に警戒心を顔に昇らせた。
しかしながら礼儀と思ったのか、女伯自身の方も合図して、連れていた侍従を下がらせた。
侍従は心なしか、清々したといった表情で女伯から距離を置いた。
青髪の子の振る舞いは堂々としていた。
豊かに裾を引き摺る青い衣裳の裾を手で捌き、更に一歩間を詰める。
『パルドーラ閣下、お話しても?』
『お断りする理由も方法もございませんが』
女伯がそう応じて、青髪の子は唇を緩めて微笑んだ。
瞳は冷たいままだった。
『ええ、そうですわね。
――ところで、閣下とお呼びしていてよろしいものかしら。直に爵位も廃されるでしょうし、今からでもお名前でお呼びする習慣づけをいたしましょうか』
青髪の侯爵はそう言って、ごく自然に、「トゥイーディア」と口に出した。
それから小さく首を傾げて、「愛称は、イーディ、とお呼びするのが素敵でしょうか」などと、扇子で口許を隠して嘯く。
呼ばれた女伯はうんざりした顔を見せた。
『閣下にとっては残念極まることでしょうけれど、パルドーラの名はまだ生きておりますの。どうぞ今まで通りにお呼びになって』
『あら、然様でございますか』
わざとらしいまでににこやかにそう言ってから、青髪の侯爵は更に女伯に一歩近付いた。
さすがに女伯が一歩下がって、どうやらそこは壁際らしい。
追い詰められた姿勢でいながら、女伯は怪訝そうに眉を寄せてみせる。
『閣下……?』
女伯が首を傾げ、対する青髪の侯爵の顔には、もはや笑みの一欠片もなかった。
冴え冴えとした表情で女伯を間近に見据えて、青髪の侯爵が呟く。
『――二つ、尋ねますから答えなさい』
女伯が瞬きし、それから急に焦った表情を見せた。
視線を左右に向けて、恐らくは人がいないことを確認している。
そして口を開けて何かを言おうとしたが、機先を制するように青髪の侯爵が、閉じた扇子を鋭く女伯に向けた。
『お弟子さんはどちらに?』
完全に女伯の動きが止まった。
瞬きもせずに、飴色の目が間近にある薄紫の瞳を見詰めている。
たっぷりと沈黙を置いてから、ようやく口の開き方を思い出したかのように、女伯は応じたが、回答を口に昇らせたのではなかった。
『……なぜです?』
『麗しい師弟愛です。涙が出そう』
青髪の侯爵は、生涯に亘って一滴も涙を零したことがなさそうな、一点の歪みもない真顔でそう告げた。
『あまりわたくしを困らせないでくださいな。それに、怒らせるのはもっと得策ではありません。
――パルドーラ、わたくしの目も耳も無いものと思ってか』
もはや口調を繕う必要もないと言わんばかりに侯爵がそう言い募るに至って、おれも疑問を覚えた。
――この女伯の弟子はカルディオスのはずだ。
どうしてこの子がカルディオスの行方を気に掛けている?
それともカルディオスの他にも、この女伯には弟子がいるのか?
女伯は口籠っている。
その女伯を冷ややかに眺めて、青髪の侯爵ははっきりと言った。
『今も巷で猛威を振るうあの兵器、報告を受けただけでも何とも特徴的なこと。――あれは、わたくしの思い違いでなければ、パルドーラ、あなたの弟子が造ったものだ』
女伯が息を引くと同時に、おれも思わず指を鳴らした。
――そうか、この青髪の侯爵、カルディオスのあれを見たことがあるのか。
そう思いながらおれは目蓋を上げて、おれの隣で手持無沙汰そうにしている、ムンドゥスが抱える例の機械を一瞥する。
なるほどこれを見ていれば、巨大な方の機械を見ても、大きさを差し引いても相似性に思い当たるはずだ。
『それは――』
女伯が目を伏せる。
青髪の侯爵は顔色ひとつ変えず、眉ひとつ動かさず、女伯の頭のすぐ傍の壁と思しき箇所を――何しろ世双珠を通した視界なので、人間以外のものは雑多な色彩の塊にしか見えない――、閉じた扇子の骨組みでこつこつと叩いた。
『よろしいか、わたくしはあなたの弟子に用がある。どうしてこんなふざけた真似をしているのか、会って話を聞かねば腹に据えかねる。
――陛下は御心を痛めていらっしゃる』
侯爵は、まるでそのことが全世界の価値を決定するかのように断固として、何よりも大切なことであるかのようにそう言った。
『カルが――こんなことをする理由がありません』
女伯が、反論というよりもむしろ、本音が零れたかのようにそう言った。
口調は無防備だった。
青髪の侯爵は目を細める。
苛烈な眼差しが、静かに静かに睫毛の下をくぐっていく。
『麗しい師弟愛です。涙が出そう。
――理由? そんなもの、本人に直接尋ねればよろしかろう。
あなたは隠し立てをしていたようですけれど、』
青髪の子が首を傾げ、微笑んだ。
決して友好的な笑顔ではなかった。
『良からぬところから拾ってきた野良猫でしょう。理由など如何様にも。わたくしの想像の及ばぬところに存在しましょうとも』
女伯の頬に赤みが差した。
そして短く呼吸をしてから、「残念ですが、」と前置く。
『――わたくしも、あの子が今どこにいるかは存じておりません。
それよりも、侯爵閣下。例の機械、ええ、あの子がわたくしのために造ってくれたものですけれど、造り出すのはあの子にしか出来なくとも、模倣することくらいなら――……』
ここまで言って、女伯の声が止まった。
不自然に呼吸を止めて、女伯の顔が蒼白になる。
青髪の侯爵の顔に当てていた視線が逸れて、女伯はしばし動きを止めた。
そして唐突に、全く何の脈絡もなく、呟いた。
『――……あの人もご覧になったことはある……』
『パルドーラ』
青髪の侯爵は不機嫌に呟いた。
女伯が我に返った様子で瞬きしたが、動揺は顕著だった。
瞳が泳いでいる。
青髪の侯爵はしばらくそんな女伯を眺めて、それから突然、離れたところから見ていたおれも驚くほどに唐突に、手にした扇子で女伯の頬を叩いた。
女伯が、痛みというよりも驚きに目を瞠った。
咄嗟に頬に指先を当てている。
目を丸くしたその顔が痛快で、おれは青髪の侯爵に好感を抱いたほどだった。
目の前に彼女がいれば、立ち上がって拍手を送っていたに違いない。
青髪の侯爵は顔色ひとつ変えておらず、淡々と女伯の挙動を見届けてから、極めて静かに呟いた。
『――よろしい。陛下は非常に憂えていらっしゃる。それでも弟子を庇い立てするならば、よろしい。
あれほどの魔力の保有者です。捜しようはいくらでも』
女伯が言葉と息を呑んだような顔をした。
おれはますます侯爵に好感を持った。
それから侯爵は、まるで何事もなかったかのように続けた。
『二つめです。答えなさい。
――カロック帝国の件、あなたの指示ではないでしょうね?』
女伯の頬から血の気が失せた。
『――は?』
青髪の侯爵が微笑んで、優雅に首を傾げた。
そして閉じた扇子を自分の口許に当てて、にっこりと唇を綻ばせた。
『もう一度機会を差し上げますから、やり直しなさい。
口の利き方には気を付けて。お忘れのようですけれど、わたくしは侯爵、あなたは伯爵』
思い出したように瞳をくるりと回して、
『崖っぷちの伯爵』
と、歌うように付け加える。
女伯は、言いたいことなら本にしたいほどある、という顔をした後に、慎重に口を開いた。
おれはこの辺りで、ムンドゥスが目を丸くしておれを見るほどには、腹を抱えて笑い転げていた。
『――どういう意味でしょう、閣下も十分にご存知かとは思いますけれど……』
ここまで言って、女伯が口籠った。
言い難いことを言おうとしているというよりは、毒と分かっているものを飲み下すといった方が近い、そういう顔をしていた。
しかし結局のところは、女伯はごく小さな声で、視線を俯かせて呟いた。
『……――あのときの魔力の気配は、恐らく、大使さまのものだったかと』
『ええ、存じております』
そう言って、青髪の侯爵は冷笑した。
『あの大使、時折わたくしどもの様子を隠れて窺っておりましたものね。大議場に潜り込んで』
女伯が、言葉を探そうとして失敗したような顔で黙り込んだ。
その顔をまじまじと観察してから、青髪の子は言葉を続けた。
『あの大使、どうしてカロックに?
わたくしの知る限り、カロックに――いえ、カロックの皇太子殿下に、それこそ殺したいほどの恨みを持っているのはパルドーラ、あなたでしたが』
『わたくしに尋ねられましても』
女伯が打ち返すようにきっぱりと言った。
青髪の侯爵はゆっくりと、大きな薄紫色の瞳を瞬かせて、微笑んだ。
『――まあ、殺したいほど恨んでいた、という件は否定なさいませんのね。
あなたのそういう素直なところ、愛おしいほどですわ』
女伯が口を閉じ、眉を寄せた。
眉間に浅く皺が寄っている。
『わたくしの知る限り、』
と、青髪の侯爵が同じ台詞を繰り返した。
『あの大使が明瞭に、陛下に向かって無礼な口を利いたのは、パルドーラ、あなたを庇い立てしたときだけです』
女伯が瞬きした。
首を傾げてみせたが、その仕草は強張っていた。
『……何を仰っているのか』
『まあ、てっきり隠れて仲良くなさっているものかと』
青髪の子はわざとらしく目を瞠ってそう言って、自分の口許を軽く、とんとんと扇子で叩いた。
『それでしたら筋が通りますもの――あの大使、あなたのためにカロックに行って、あれほどのことをしたのかと』
『そんなはずが』
息継ぎをするかのように女伯が口走ったが、青髪の子は意に介さなかった。
『加えてあなたの弟子が、こうして陛下を苦しめているとなれば、ねえ。それもパルドーラ、あなたの指示ではないかと疑ってしまうのです』
青髪の侯爵が婉然と微笑んだ。
『疑り深いわたくしを許してほしいのですけれど。――ですけれど、ねえ。パルドーラ。
これまでさぞかし必死に、それこそ岩に齧り付くようにして、爵位を守ってこられたことでしょう。
分かります――わたくしにはよく分かります』
最後の一言のみ厳粛に呟いて、青髪の子は首を傾げた。
『それが全て不意になってしまって、自暴自棄どころか国を巻き込んで心中を企んでいらっしゃるのではないかと、わたくしは疑ってしまうのですけれど』
『――なんてことを』
女伯が呟いた。
唇が震えた。
飴色の瞳が激情に燃えているのがよく分かった。
『そんなことをするはずがないでしょう。思いつきもいたしませんでした。
キルディアス閣下、過ぎた侮辱です』
『侮辱もなにも、あなたを愚弄してわたくしが得るものが無い。あなたが失うものももはや無い』
青髪の侯爵は事も無げにそう言い放って、まじまじと睫毛の下から女伯を眺めた。
『――少なくとも、わたくしが同じ目に遭えば、それ相応のことはいたしますけれど』
女伯が掌を青髪の侯爵に向けた。
その指先が微かに震えていた。
『お戯れを。これ以上はお互いに時間を損なうだけでしょう。失礼を』
青髪の侯爵は瞬きもしなかった。
『――あなたの弟子がもう少し賢そうであれば、独断で、窮地のあなたを救うために、こんなことをしているのかとも疑いますが、――あれには数字は分かりますまい』
呟いたその口調に、おれは確かにカルディオスに対する軽侮と憐憫を聞き取った。
それがゆえに、おれは好きになり掛けていたこの女侯への評価を落とした。
『学がない。学を与えてやれなかったわたくしどもの責任でもありますが。
――魔法の才気は目を疑うほどですが、あれには学も、知恵もない』
青髪の侯爵はそう呟いて、すっと一歩下がった。
そして典雅に微笑んだ。
『ええ、お引き留めしてしまって失礼を。
――どうぞ、お弟子さんから連絡があれば、わたくしにもご一報くださいね』
そしておれは、そのとき初めて、青髪の子の額に青筋が浮かぶのを見た。
笑みの仮面の下に潜んだ、沸騰する怒りを垣間見た。
『――国体にも陛下にも、あれは害を与え過ぎました。
神が許そうが陛下がお許しになりません。我が国はヴェルローとは異なりますもの、王位は王のもの、神が授けるものではございませんから』
女伯は立ち去ろうとしていたが、足を止めて振り返った。
『……あの子のしたことではありません。こんなことが出来る子ではございませんもの。
陛下のご慧眼が、その事実を見逃されるものですか』
『陛下がお許しになろうが、わたくしは到底許せません』
青髪の侯爵はひどくきっぱりとそう言った。
『大変心苦しいことですが、陛下はそのお慈悲の深さゆえに、眼差しを曇らせてしまわれるときもありますから』
そう言って、青髪の侯爵は身を翻した。
水が流れるような仕草だった。
どこからともなく、小走りで随従が現れて恭しく彼女に続く。
おれは視線を女伯に移した。
彼女は瞬きもせずに侯爵の後ろ姿を見送り、離れたところから――こちらは明らかに束の間の自由時間が終了したことを惜しむ表情で――、侍従が現れたことにも、恐らく気付いていない風情だった。
女伯の頬は蒼白で、おれはその色に蝋燭を連想したほどだった。
女伯の唇が震えて、ぽろっと声が零れた。
『……カロックと揉めている、と仰っていて……』
侍従が訝しそうに顔を顰め、「来るのがちょっと早かったかな」と言わんばかりに首筋をがしがしと掻いて、踵を上下させた。
女伯はそれにも気付かない様子で、それこそ、精神の要が唐突に外れたような表情のまま、呟いていた。
『……私が殿下をどう思っているか、わざわざ確認までなさって……』
女伯が瞬きする。
しかし眼差しが茫漠としていることに変わりはなかった。
『……カルの作品を、魔法技術展でご覧になっていたわ……それに、あの人の目には、魔法が見えるから……』
女伯が息を吸い込み、額を指で支えた。
零れた声は戦慄いていた。
『……きっと模倣することなら出来る……』
侍従がここで、肩を竦めて声を出した。
暇を持て余したような声の出し方だった。
『――閣下?』
女伯が、はっとしたように侍従の方を向いた。
視線を向けたものの、侍従の後ろの壁を見るような眼差しで、女伯は茫然とした、空虚な口調で呟いていた。
『……ねえ、どう思う?』
侍従は首を傾げて、「ところで、私の紹介状ですが」と口に出す。
女伯は不意を打たれたように瞬きをして、溜息を吐く。
――おれは目蓋を持ち上げて、女伯に向けていた視線を打ち切った。
それから腕を組み、しばし考え、ムンドゥスに目を向ける。
「……よく分からないけど、カルディオスに濡れ衣を着せちゃったみたいだ」
おれは呟いて、青髪の侯爵の苛烈な眼差しを思い出した。
氷が氷のまま沸騰するとしたら、きっとあんな風になるに違いない。
ちょっと顔を顰めて、おれは空を仰ぐ。曇天がおれの眼差しを吸い込んだ。
「今からでも追い掛けて、リーティに行ったら怖い目に遭うって言ってやるべきかな?」
いや、そもそもあいつはリーティを目指しているのか?
確信を持てないおれは息を吐き、ムンドゥスに視線を戻して首を傾げた。
「ねえ、どう思う?」
言った直後に顔を顰めてしまったことに、今のおれの台詞は、つい先程の女伯の台詞と、一言一句違わぬ同じものだった。
ムンドゥスは無垢に首を傾げて、「あなたがすきよ、ヘリアンサス」と嘯く。
おれは溜息を吐く。




