03◆ いざ出発
俺たちに正式な勅命が下るまで、それから九日掛かった。
帝都ルフェアはガルシアから、汽車を使えば一日で着くらしい。
ガルシアみたいな軍事施設は僻地に作られるのが普通だと思うが、レヴナントを恐れる帝都の金持ち連中が、それを断固として許さなかったのだと分かる。
ガルシアから出発した、テルセ侯爵の使者がルフェアに着くのに一日。
そこから登城の許可が下りるのに二日。
更に使者が事情を説明し、斯く斯く云々と用件を話し、俺たちの登城を命じる勅命が作成されるのに二日。
で、使者が帰って来るのが六日目、その翌日に俺たちが帝都向けて出発、帝都に到着したその日は皇城の外で待機、そしてやっとのことで皇帝に謁見して、陛下御自ら俺たちに勅命を下す、という流れである。
皇帝の正気を疑うレベルの亀の歩みの手続きだが、思い返せばいつもそんなペースだった気がする。
それに、俺たちはアーヴァンフェルン帝国の国民だからいいけど、トゥイーディアは他国の――レイヴァス王国の名門の娘だから、国家間での調整も必要だったんだろう。
使者が帰って来るまでの六日間、俺たちが何をしていたかというと、全く以前と変わりない訓練の日々だった。
さすがに、当初の予定では隊員として職務に励む予定だったトゥイーディアは、救世主と分かってしまった上でそれはないだろう――という判断が下り、隊服も支給されず、主に魔法研究院で講義と題したおもてなしを受け続けたようだったが、元より隊員の俺たちと、当初の予定通りにガルシアに留学するヘリアンサスは、なんと普通に訓練をしていた。
ちなみに、まさかヘリアンサスがその扱いになると思っていなかった俺たちは、珍しいくらいに全力で、「ヘリアンサスとグループが被りませんよう」と祈りを捧げた。
その祈りが通じたのか、あるいはトゥイーディアが何か手を回してくれたのか、俺たちは五日間、特にヘリアンサスと顔を合わせることも無かったが、問題はトゥイーディアである。
さすがに会わないわけにはいかない。
ていうか、昼餐はヘリアンサスが研究院に招かれて毎日一緒になっている。
朝はそれぞれ一日の予定が違うために起床時間も異なるということで回避し、夜は「隊員と親睦を深めたい」だの「婚姻前、しかもまだ正式に婚約していない相手と晩餐を毎日共にすることは避けたい」だのと言い募って逃れたようだが、昼だけはどうしても理由をつけられなかったとのこと。
「お父さまが一緒だから耐えられる……」
と、完全に死んだ目をして言っていたが、夜の食事のがっつき振りを見ていると、多分昼は一口も食ってない。あるいは食っても後で吐いてる。
可哀想すぎて代わってやりたいが、それは出来ない相談である。
見かねたカルディオスが一度、身分を盾に「自分もご一緒したい」旨を申し入れたところ、「昼餐しかない婚約者同士の逢瀬を邪魔するとは何事か」と研究院から怒られたらしい。
逢瀬ってなんだよ、視線で殺し合ってる図しか浮かばねえよ。
そんなわけでガルシア滞在五日目、当初の予定通りにレイヴァス王国へと戻る船へ乗り込むお父さんを見送るトゥイーディアが泣き出したという噂が広まり、「救世主なのに意外」との意見を呼んだ。
その噂に色々思うところはあるが、あいつが泣いたのは高確率で嘘だ。
あと一日、あいつはヘリアンサスと昼餐を共にしなくてはならない。
唯一の盾であったお父さんが帰っていくのは心細いだろうが、それでもあいつは絶対に泣かない。
嬉し泣きとか感激で泣き出したとか、そういうのは見たことがあるが、トゥイーディアが辛いだとか悲しいだとかで泣いたのを、俺は見たことがない。
絶対にそんな涙を他人には見せないやつなのだ。
とはいえお父さん、娘が救世主として勅命を待ってるんだから、予定変更してもうちょっといてやれば――と思わなくもないのだが、まさかこんなことになるとは思ってもおらず、レイヴァスの方に山ほど予定を残して来ているんだろう。
船の旅は予測が立て難いこともあるし、仕方がないと言えるのかも知れない。
トゥイーディアはそんな波瀾万丈な毎日を過ごしたようだが、俺たちの方は安穏としたものである。
ヘリアンサスの顔を見ないのだから怖いものは何もない。
辟易したのは、急に方々から話し掛けられるようになったことだが、そこは人生経験豊富だからね。
愛想よくやり過ごすなんて余裕余裕。
ニールとララは逆に俺から距離を取りそうな勢いで委縮していたが、「今まで通りでいいよ」と伝えるや、安心した様子で以前みたいに打ち解けてくれるようになった。
ちなみにティリーは、いきなり媚び諂うのは自尊心が許さず、だからといって以前みたいに高圧的に接するのは立場的に出来ない、という板挟みになって、俺と極力距離を置く、という結論に至った様子だった。平和的で何よりだ。
で、やっとのことで帝都へ出発と相成る。
使者が戻って来たその日の夜に、俺たち六人全員がテルセ侯爵邸に召集され、登城を命じる勅命の読み聞かせ。
この辺はちょっと意識が飛んでた。何しろ何十回目かって感じだから。
こういうときの勅命の文面って、時代が移り変わっても国が変わってもあんまり変わり映えしないもんだな。
俺が普通の一般人なら、「すげぇ侯爵邸って豪華! これが貴族か!」となったんだろうが、俺は貴族も経験済みだし。
が、帝都へ向けての道中にヘリアンサスも同行させるか、という侯爵の問いには、俺たち全員が即座に覚醒した。言葉を尽くして止めたね。
「ロベリアさんは飽くまで『リリタリス家』との婚姻を結ばれる予定の方ですから、こういったことにまでご足労願うのは避けたい」
「ご一緒しては名残惜しくなってしまいますから」
「一日も早くガルシアの生活に慣れていただき、再会に備えていただきたい」
等々。
俺たちの勢いにテルセ侯爵もびっくりしていたが、俺たちは勝った。本気で安堵した。
帝都に向かう俺たちに同行するのは、まず、勅命を持って帰って来てくれた使者さん。
往復の仕事になってお疲れだろうが、使命感溢れる顔をしていた。
次に、護衛の人たち数名。
普通に考えて、力量的に、俺たちが護衛の人たちを護衛することになると思うんだけど、半分は見栄えのためだろう。
見栄えのためといえば、俺たち全員、ガルシアの制服での登城を念押しされた。
俺が正直に、軍帽と外套を失くしましたと申し出ると、全員に新品が用意されるので心配ないとのこと。
みんなとお揃いだ、とトゥイーディアが目を輝かせていたのは余談。
次に、トゥイーディアの侍女さん一名。
実家からずっと一緒にいるらしくて、トゥイーディアにとっては友達代わりなんだとか。
友達を作るのが苦手なこいつにしては珍しい、得難い存在なんだろう。
翌日の――帝都に出発する日の朝の段取りなんかを聞いて、その夜は解散となった。
毎度のことながら面倒だ。
俺たちが勅命の読み聞かせを受けていたのは、侯爵邸の応接間だった。
解散を受けてそこから出ると、どうやら俺たちを待っていたらしい女性がそこにいた。
使用人の服を着ていたが、この侯爵邸に仕える人たちのお仕着せではない。
水色を基調としたメイド服は、トゥイーディアが連れて来た人たちのお仕着せだ。
ホワイトブリムで押さえた髪は麦藁の色。雀斑の浮いた整った顔立ちに、若草色の目。
壁際で慎ましく待っていたらしい彼女が、トゥイーディアを見てぱっと顔を輝かせた。
同瞬、トゥイーディアが駆け出して彼女の手を取る。
「メリア! きみも帝都まで来てくれるのね?」
ほう。とすると、この人がさっき話に出たトゥイーディアの侍女さん。
足を止めて自分をしげしげと見る俺たちに、メリアさんは自分の手をトゥイーディアの手から引っこ抜いて頭を下げた。
「――メリアと申します。道中、お嬢さま――トゥイーディアさまのお世話をさせていただきます。皆様も、何なりとお申し付けくださいませ」
落ち着いた声で挨拶されて、俺たちもぺこりと頭を下げる。
メリアさんはいたく恐縮した様子だったが、トゥイーディアはふふっと笑って言った。
「固くならなくても大丈夫よ。みんないい人よ。――それより、ねえ、私にも遂に隊服が支給されるらしいんだけど、もうそっちに届いてるの? それとも明日? それ着て出発するの?」
立て板に水で問い掛けられて、メリアさんは苦笑した。
「わたくしの手元にございますよ。ですがお嬢さま、明日はいつものお召し物でのご出立です。隊服は、皇帝陛下に謁見するときに下ろすんですよ」
「なんだ……」
トゥイーディアはディセントラをじっと見た。ディセントラはもちろん隊服を着ている。
「ここの隊服、かっこいいから楽しみにしてたのに……」
思わずといったようにディセントラが噴き出し、カルディオスがトゥイーディアの肩を叩いた。
「イーディがトリーと同じように着こなせるとは限らないんじゃねーの?」
「殴るわよ」
反射の速度でそう言い返し、トゥイーディアは目を丸くするメリアさんに微笑み掛けた。悪戯っぽく口許に指を当てて、
「道中の私の振る舞いは、お父さまには内緒よ?
お父さまにとっては自慢の娘でありたいの」
俺は視界の隅でその仕草を見ていて、脳裏に焼き付けていた。百年経っても思い出せそう。
メリアさんも相好を崩し、指を組み合わせて手を鳩尾の辺りに当て、尤もらしく一礼した。
「承知しました。
――さてお嬢さま、御父上のご意向です。明日のご出立に備えて本日はご入浴なさるように、と。お手伝いいたしますから、湯殿へ」
頷いたトゥイーディアが、振り返ってディセントラとアナベルの手を取った。
「ねえメリア。二人も一緒にいい?」
メリアさんは目を瞠り、
「それは無論でございますが、――お二人が、わたくしの拙いお手伝いで許してくださるなら」
「じゃあ行きましょ」
ディセントラとアナベルが、すたすたと歩くトゥイーディアに引っ張られていく。
メリアさんは俺たちの距離感を掴みかねる様子で目を瞬かせていた――まあ、そりゃそうなるよな。メリアさんの主観では、俺たちはつい先日が初対面なわけだし。
ちらりとコリウスを見ると、コリウスは遠ざかる女性陣の背中を見詰めながら、疲れた様子で呟いた。
「――僕たちの関係性をどう説明したものか、……悩むね」
「さすがにイーディが自分で説明するんじゃね?」
カルディオスがそう答えて、大きな欠伸を漏らした。
「じゃー俺、部屋に戻るわ。明日の出発に向けて、挨拶しとかなきゃならない娘がいっぱいいるから」
「…………」
「…………」
すたすたと歩み去るカルディオスの後ろ姿を見送り、俺とコリウスは顔を見合わせて溜息。
「……戻るか」
「……そうだな」
普通なら、もっとこう緊張とか意気込みとかがあって然るべきこの夜。
まあ、俺たちにとっては通過儀礼。
毎度のことなので慣れたものである。
◆◆◆
翌朝、恙なく俺たちは出発した。
砦の前に用意されたでかい黒塗りの馬車に乗り込み、騎馬の護衛の人たちに囲まれての仰々しい出発だ。
立て続けの任務になる使者さんも騎馬。お疲れが出て転落しないか心配である。
ここに来たときとの落差に、俺はちょっと感慨深いものを覚えた。
見送りも盛大だった。見送りの列の先頭に立ったのは当然のことながらヘリアンサスで、わざとらしくも微笑んで、「どうぞご無事で」と宣いやがった。
それに応じるトゥイーディアは、いい加減胃に穴が開いてもおかしくなかろう。
俺たちにあと出来るのは、戻って来るまでにガルシアが壊滅していないことを祈ることのみである。
――どうにも嫌な予感がしたが。
「帰って来るのを楽しみにしているよ。――それに、楽しみにしていてね」
笑顔で言ったあいつの言葉が異様に気に掛かる。
しかもそれを言うとき、あいつはトゥイーディアを見ていなかった――俺とカルディオスを見ていた。
いつもはへらへらしているカルディオスが、その視線を受けて怯えて半歩退いていた。
――というわけで、馬車に乗り込み、窓から手を振る謎の時間が流れた後、無事に馬車が動き出した瞬間、俺たちが一斉に深々と溜息を吐いたのは当然であろう。
窓際のディセントラとコリウスが、シャッと素早く窓に帳を引く。
俺たちの足許には各々の荷物を詰めたトランク。メリアさんに至っては大きなトランクの上に、小さなトランクをもう一つ重ねている。
本当は、荷物を運ぶためだけの馬車をもう一台付けようかという話になっていたらしいのだけれど、トゥイーディアが断ってくれたらしい。どうせすぐ汽車に乗り換えるので要らないと。
因みに駅に着いたら、この馬車と乗馬はお役御免になるわけだけれど、それ全部をこの馬車の御者台にいるお二人がガルシアまで持ち帰るらしい。
本当に申し訳ない限りである。
車内には、俺たち六人とメリアさんがいる。
俺たちの物々しい溜息に、メリアさんは目を丸くしていた。案じるように隣のトゥイーディアの背中を撫でつつ、眦を下げて気遣わしげに彼女の顔を覗き込む。
「どうなさいました、お加減が優れませんか? このところのご様子を拝見していますと、この出立も早すぎる気がします……」
違うんだメリアさん、早すぎるんじゃなくて遅すぎるんだ。
そう内心で突っ込んだのは俺だけではないだろう。
トゥイーディアは微笑み、メリアさんの手を握った。
「大丈夫よ。ありがとう。――それに、これからは調子も良くなっていくと思うわ」
ほぅ、と息を漏らして、メリアさんはトゥイーディアの髪を結い上げるリボンをちょっと直した。
「然様でございますか――それならば、良うございました」
がたごとと進む馬車はガルシアの南の城門を出て、そのまま街道を走った。
俺が初めてガルシアに来たときの道筋そのままである。
あのときは祈りながら馬車に揺られていたものだ。
ガルシアを出た時点で、ディセントラが自分の側の帳を上げていた。
彼女の真向かいに座るメリアさんが、「気が付きませんで」と恐縮していたが、ディセントラは「いいのいいの」を手を振ってみせる。
よく考えれば今回のディセントラは平民出身なので、ごく自然に偉そうにしているのがおかしいのだが、俺たちとしては大勢に傅かれて育ったディセントラの方を見慣れている。
ちなみに今日はみんな隊服ではない。メリアさんだけはお仕着せだが、他の俺たちは私服である。
俺の私服はディセントラとアナベルに見繕ってもらったもので、細身の黒いズボンに白いシャツ、その上から深い青色の上着を羽織っている。
値段の割に質は良かったが、見るからに庶民と分かる出で立ち。
一方、同じ庶民のはずのディセントラは結構値の張る赤いドレスを着ていた。
長年貴族をやっていた彼女は、どうにも普通の平民の衣服がしっくりこなかったらしく、今までの給料は殆ど全て衣類に費やしたとのこと。似合うからいいと思うけどね。
対してアナベルは全く拘りの窺えない青いワンピース。
コリウスは、今日って軍服じゃなくていいんだよな? と念を押したくなるくらい、制服とよく似た形の軍服みたいな服を着ていた。
徽章とか着けたらそのまま軍服で通用しそうである。ただし色は、ガルシアの制服の黒ではなく白。
かっちりした印象がとてもよくお似合いだ。
カルディオスの装いは俺とよく似ているが、多分値段に直すと二桁は違う。
シャツは絹、上着は深い緑の天鵞絨で、内ポケットには彼の名前が刺繍してあった。
そしてトゥイーディアである。
今日の彼女のドレスは深い青色で、素材からして雲泥の差があるだろうが、俺の上着の色と似ていた。それに気付いて、俺は内心でちょっと気分を上げていた。
盛装ではないのでドレスの形は非常にシンプルだったが、だがそれがいい。
惚れた弱みを込みで考えても、トゥイーディアは際立った美人ではない。
ディセントラのような目を惹く華やかさもなければ、アナベルのような清雅な雰囲気もない。
俺が知っているトゥイーディアの最高に可愛いところは、その表情の動かし方であり仕草だ。
そういうものが際立つのは、こういうシンプルな意匠のドレスなのだ。
本音を言うと俺としては斜め前に座るトゥイーディアを眺めていたかったのだが、代償ゆえにそれは出来ない相談なので、ぼけっと窓の外を流れていく景色を眺めておくことにする。
しばらくそうしていると、隣のカルディオスにつんつん、と肘をつつかれた。
「あ?」
そちらを向くと、カルディオスが興味津々といった様子で俺を見ていた。
「そういや、ルドってどうやってガルシアまで着いたの?」
「え、話してなかったっけ?」
瞬きすれば、カルディオスは喉の奥で笑った。
「おまえからあったの、衝撃の大発表だけだったよ」
「そうだっけ」
首を傾げてから、俺は肩を竦めた。
「普通に汽車と馬車で着いたよ」
「ふうん」
カルディオスは翡翠色の目を煌めかせた。
「――金、どうやって工面したの?」
「…………」
俺は素早く目を逸らした。
海賊から貰いましたなんて言えない。
それを見てカルディオスが笑う。ひでぇ。
「やっべ、マジ? ルドが、あのお堅いルドが?」
「殴るぞてめぇ」
俺はカルディオスを睨んだ。
コリウスとアナベル、ディセントラ、そしてメリアさんまでがびっくりしたように俺を見ていた。
――そういえば、メリアさんは俺たちのことを詳しくは知らない。
格好からして貴族と平民の区別は付けただろうが、それ以上のことは分かっていないはずだ。トゥイーディアからもその辺のことを説明した気配はないし。
トゥイーディアだけは、我関せずとばかりに窓の外を眺めている。
その横顔に僅かに失望が浮かんだ気がして、表には出せないものの、俺は大いに焦った。
「盗みとかそういうのじゃねえから」
力を籠めて言った。
別に俺自身が犯罪に手を染めたわけではないから。
本当かぁ? と絡んでくるカルディオスをいなしているうちに、馬車は無事にカーテスハウンの町に入った。
華やかに整った町並み。
行き交う人々は、俺がここを通った前回に比べて軽装で、心なしか足取りも軽い。季節はもう春に傾いているのだ。
一気に賑やかになった窓の外に、トゥイーディアが「わぁ」と小さく声を上げた。
なに初めて見たみたいな声出してんだ、これまでの人生でもっと大都市にも生まれたことあるだろ――と思いつつも、トゥイーディアが無邪気に笑っている貴重な瞬間なので、そういう野暮な思考は彼方へ吹っ飛ばしておいた。
「レイヴァスにはこういう町はないのか?」
興味深げに訊いたコリウスに、振り返って彼と目を合わせながら、トゥイーディアはちょっと寂しそうに微笑んだ。
「あるにはあるけれど――、レイヴァスは、今はちょっと、……ややこしい」
呟いたトゥイーディアに、メリアさんが小声で、「お嬢さま」と呼び掛ける。
いつもの優しい呼び方ではなかったので、国外の人間に滅多なことを言うな、という意味なのだろう。
その声におざなりに肩を竦め、トゥイーディアは窓の外に視線を戻した。
メリアさんは少し不服そうに眉を寄せる。
「結構いい生地を卸してる店があるのよ」
ディセントラが明るく言った。自分の着ているドレスを摘まみ、
「これ、カーテスハウンで仕立てたの」
「ディセントラは妥協を知らなさ過ぎるのよ」
アナベルがむっつりと口を挟む。
「給金はドレスに全部使うし、数少ない非番の日は躊躇いなく外出申請して服を仕立てに行くし」
「何回か付き合ってくれたじゃない」
「金遣いの荒さに絶句したわよ」
言い合う二人にトゥイーディアが笑い出した。
俺はその横顔を、視界の隅に収めていた。
端から見れば、自分の靴の爪先でも眺めているように見えただろう。
靴は高級品なので私物ではなく、これだけはガルシアから支給されたものをそのまま履いている。
――いつもこうだった。
トゥイーディアは俺以外の人に向かって笑い掛け、俺もトゥイーディア以外の人と軽口を言い合う。
俺はこっそりとトゥイーディアの横顔を見ていて、心が折れそうになったときなんかに、擦り切れそうなほどに何度も何度も繰り返し、その横顔を思い出す。
今回再会したときみたいな非常事態とか、再会の次の日の朝に俺が詰め寄ったときみたいに必要があるときなんかは、トゥイーディアも普通に俺と話すけれど、俺がトゥイーディアと話せない。
話すとしても喧嘩腰だったり無愛想だったり。
ふとした瞬間に話し掛けられても、そんな受け答えばっかりしてしまって、トゥイーディアに辛そうな顔をさせたこともある。
本当に、何なんだろうな、この代償は。
そんなことをぼんやり考えているうちに駅に着いた。
救世主の噂はどこからか広まっていたらしく、駅周辺は異様に人が多かった。
駅に上がる扇状に広がる階段なんかには、そこに立ち止まって俺たちを待ち構えている人が相当数いるほど。
一体どこから今日の出発が漏れたんだ。
っていうか今回の人生では、魔王は魔王らしいこと何もしてないのに、なんでこんなにいつも通りに救世主が大歓迎されるんだ。
いつもはもっとこう、ヘリアンサスは大陸にちょっかいを出していた。
悪質な魔力の瘴気を季節風に載せて流してみたり、うっかり南の海に出た漁船や貿易船を悉く沈没させたり、魔族の群れを差し向けて来たり――あいつ本人は、なぜか島から出られないようだったけれど。
その中でも一番酷かったのが、前回の人生での、巨大兵器の襲来だったが。あれには腰を抜かしたね。
だから、救世主が熱烈に歓迎されるのも分かったのだが、――まあ、救世主といえばなんかすごい伝説の存在みたいなもんだもんな。
お祭り騒ぎになるのも無理はないか。
メリアさんは人混みを見て渋い顔をしたし、外の護衛の人たちも、駅の周りにいる人たちに下がれ下がれと合図をし始めた。
だが実は全く心配ない。
安心してほしい。俺たちは慣れてる。
護衛の人たちが下馬し、馬を馬車の御者台近くに繋いだ。
それを待って、階段のすぐ下に停まった馬車の扉を、御者さんがさっと開けてくれた。
救世主を一目見ようとして背伸びをする人も多数いる中、どことなく俺たちを隠すような身振りだったし、真っ先にトランクを抱えて馬車から降りようとするメリアさんも、俺たちを好奇の目から守らねばという使命感溢れる目をしていた。
「――そんなに気負わなくて大丈夫よ」
トゥイーディアが微笑んで柔らかく言うと、メリアさんはきっぱりと首を振る。
「いえ、そんなわけには。ただでさえ皆様、ご自身が救世主だと分かったのは先日なのですから」
言われて、俺は思わず苦笑。
確かに、普通なら吐くほど緊張していてもいい場面だ。
けど、歴代救世主にその「普通」はなかった。
とはいえ、せっかくメリアさんが頑張ってくれるのを無碍にするのも申し訳ないので、俺たちは各々荷物を持ち――というか、女性陣の荷物は男性陣がそれぞれ持ち――、護衛の人たちとメリアさんに誘導されるがままに馬車から降りた。
カルディオスがメリアさんの荷物を持とうかと申し出て、メリアさんがとんでもないと首を振る。
それを後目に、俺は自分のトランクとアナベルのトランクを手に、そっと周囲を見渡した。
救世主一同が馬車から降りて、それを見た人たちが口々に何かを言っていた。
「あれが救世主だってさ」
「ガルシアで出た何かを斃したのってどの人?」
「救世主って一人じゃないんだな……」
「あの人めっちゃ綺麗じゃね?」
護衛の人たちが素早く俺たちを囲み、駅の方へ誘導する。
俺たちが移動するのを見ようとして、人混みもちょっと動いた。
白亜の駅に入ると、護衛の人たちは迷うことなく俺たちを汽車の乗り場に誘導した。
多分手を回してあるんだろうなと思いつつも、一応俺は尋ねる。
「切符は買わないんですか?」
「不要です。閣下がお話を通していらっしゃいます」
一人がきっぱりと答え、俺はなるほどと頷いておく。
観葉植物の配置された広く天井の高い通路を辿り、汽車に向かって護送される俺たち。
カーテスハウンに到着したときにも使った駅で、あのときは結構な人混みだったと思うのだが、今日はやけにがらんとしている。
それを怪訝に思ったのは全員同じだったらしく、ディセントラが首を傾げて問い掛けた。
「ねえ、もしかして、この通路って今、通行規制でもされてるの?」
躊躇いなく頷く護衛の皆さん。
お、おう……。
擦れ違う人も追い越す人もいないまま、俺たちは靴音を響かせて汽車の乗り場に辿り着いた。
幾つかの路線が入り混じる汽車の乗り場を、完全に通行止めにすることはさすがに出来なかったらしい。やっと人声が聞こえた。
カーテスハウンが富裕層が多く住む町だからか、汽車から降りてくる人、汽車に乗り込む人は大抵身なりがいい。
汽笛の音が聞こえる中、俺たちは護衛の人たちに先導され、何本かの軌道を越えて、ルフェア方面の汽車に乗り込んだ。
帝都方面へ向かう汽車である、さぞかし多くの人が利用するのだろうと思ったが、乗り込んだ車両は無人。
「――貸し切りじゃん」
カルディオスが笑いを堪える口調で呟いた。
「無論です。御身の安全に優先するものはございません」
護衛の人がきっぱりと答えるのに対し、初めてトゥイーディアが不愉快そうに言葉を返した。
「それは本末転倒じゃありません? 私たちは他の方たちを守るためにいるのですけど」
「お嬢さま」
メリアさんが咎めるように口を挟んだ。
それに合わせて、まあまあ、とトゥイーディアの肩に手を置いて、ディセントラが声を低めて宥める。
「イーディ、せめて帝都までは格好をつけて行かないと、色々と面子があるでしょ」
割り切ったその言いように、思わずといった様子でトゥイーディアが噴き出した。
護衛の人たちと使者の人が車両の前後に座り、俺たちは真ん中に適当に座るように示される。
俺は真ん中辺りの窓際、その隣にカルディオスが座った。
通路を挟んで隣の座席にディセントラが、その隣の窓際にトゥイーディアが腰掛ける。
アナベルとコリウスがその前の座席に座り、メリアさんはトゥイーディアの真後ろに座る――のかと思いきやすぐには腰掛けず、持っていたトランクの小さな方を開いた。
中には厚みのある布地を詰めていたらしく、メリアさんが俺たち一人一人にそれを一枚ずつ配ってくれた。尻の下に敷いて乗り心地を改善するものらしい。
汽車の座席は硬い木で出来ているから、俺たちは有難くそれを受け取った。
汽笛が鳴り、がたん、という衝撃と共に汽車が動き出した。
足許に置いたトランクに足を乗せ、窓際に肘を突いて外を眺める俺は、コリウスに話し掛けるアナベルの声を聞いた。
「――レヴナントでも出て足止めされたら、予定が全部狂ってくるわね」
もはや予定調和の悲観論に、俺は思わず噴き出したが、カルディオスは割と真面目に呆れた顔をしていた。
「アナベル、よくそんだけ悪い予想ばっかり出来るよな……」
「――そうかしら」
トゥイーディアが、窓の外を眺めたまま、呟くように言った。
「でもきっと、この汽車は大丈夫よ」
そして、トゥイーディアが正しかった。




