26◇ ――砂が落ちる
おれが絶句したことを見て取って、カルディオスが眉を寄せた。
自分の発言を振り返って、何がおれを驚かせたのかを辿るような表情を浮かべる。
三つめの歌が始まった。
随分と明るい曲調で、音も高い。
天井に反響して荘厳に響く歌声。
しかしながらおれが、もはや全くそちらを一瞥だにしないことに、カルディオスはなおいっそう驚いた顔をする。
おれは口を開いた。
声が妙に平坦になった。
「――おまえ、死ぬの?」
カルディオスは瞬きして、声を低めるようにおれに合図した上で、こそこそと応じた。
響き渡る歌声に、その返答は溶けて消えてしまいそうになる。
「いやそんな、今すぐ死ぬような言い方すんなって」
「でも、死ぬのか?」
おれは喰い下がった。
是が非でもカルディオスから、「否」の返答を引き出したかった。
だがそのおれの意思に反して、打ち切っていたはずの世双珠からの情報が溢れて流れ込んでくる。
その全てが、たった今聞いたカルディオスの言葉を肯定していた。
カルディオスは困った顔で頬を掻いて、「そっか」と呟いた。
「おまえ、何も知らないんだった。忘れてた。あー、そういや、歳とることも知らなかったもんな」
おれは瞬きすら忘れていた。
「おまえ、死ぬのか」
「そんなのおまえもだろ」
カルディオスが小声で呟いたが、おれは半ばほどしかそれを聞いていなかった。
――確かに、そうだ。
おれにも終わりがくることはある。
今まさに、おれの姉であるムンドゥスが終わっていこうとしているのと同様に。
だがそれは、おれに関していえば、年数に直せば何千億といった長さの後の話だ。
対して、カルディオスは、そして何よりルドベキアは、違う。
あと数十年で死んでしまう。
人間は、というよりも生き物は、外的な要因が何もなくとも、何の悪意も向けられなくとも、経年で肉体を擦り減らし、結果として命を手放すものなのだったのだ。
そうして自由になった魂を、おれの姉が回収して、また新たな肉体に宛がっていく。
なるほど、これまでの番人の交代は、そうして行われていたのだ。
――どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのか。
単純だ。
興味がなかったから。そんなことはあるわけがないと思い込んで、想像の埒外だったから。
そして何よりも、知りたくなかったからだ。
カルディオスは、いずれいなくなる。
おれからすれば僅かの後だ。
ルドベキアもそうだ。
これでは砂時計だ。
生まれたその瞬間から、さらさらと砂を落としていく時計。
澱みも止まりもせず、淡々と砂を減らしていく――
「――アンス?」
カルディオスがおれを覗き込んだ。
その表情に、はっきりと憂慮の色がある。
「どうした? ――大丈夫だって、俺たちまだ十代じゃん。人生これからじゃん。っていうか、いつか死ぬなんて、そんなの当たり前だろ? 常識じゃん」
――人生。
ルドベキアは、では、どうしておれの傍を離れたのだ。
人生に制限時間があることを知っていたなら。
さらさらと絶え間なく落ちる砂のように自分の命が時間に喰い潰されていることを知っていたなら、どうしておれから離れたのだ。
そして何よりも――どうして、約束通りに戻ってこなかったのだ。
――おれは三百六十、きちんと数えたのに。
あれほど待ったのに。
ひたすら数を数え、壁に色を重ねて、その色さえもが黒に近付いてしまうのを、あれほど悲しい思いで見ながら、それでもひたすらに待ったのに。
――おれはあれほど、ルドベキアが番人の任を解かれるのを恐れたというのに。
頭の奥が熱くなった。
一気に焦燥が胸の中に溜まって、おれは口を開く。
「大丈夫」
――早く、早く、ルドベキアを見付けないといけない。
あの青い目も、言葉を探す朴訥な癖も、僅かな安堵に緩むようなあの表情も、もうすぐ消えてしまうものだった。
早くあいつを見付けないと、あいつがおれのために作ってくれるはずの言葉もなくなってしまう。
それは間違っている。
「大丈夫だから、カルディオス」
嘘を吐くのは、違和感がある。
だがそれでもおれは、もはや眩暈すら覚えるほどの混乱と焦燥の中で、そう言っていた。
「だから、早く、師匠――だっけ、その伯爵のところに行ってきて」
カルディオスは眉を寄せ、顔を顰めていたが、短く頷いた。
「うん、急いで行って来るから、ここにいろよ」
それからカルディオスは、理由こそよく分からないものの、おれが何かの衝撃を受けていることは分かっている――といった仕草で、躊躇いがちに、おれの肩に手を置いた。
そして、少しばかりの困り顔で言っていた。
子供らしい、相手を持て余すような顔だった。
「なあ、そんなに落ち込むなよ。
――それに、どうせなら、笑っとけ」
いつか聞いたような台詞を、もう一度カルディオスが吐く。
響き続ける豊かな歌声が、その言葉の縁を彩る。
「笑ってりゃなんとかなることだってあるんだ」
◇◇◇
――笑ってりゃなんとかなることだってある。
おれは風に吹かれながら、その言葉を思い出していた。
もうすっかり日が落ちて、空は暗い。
リーティの町並みは街灯と灯火、その殆ど全てに世双珠が使われているわけだが、その明かりに照らされて、まるで都市全体で星空を再現しようとしているかのようだった。
その明かりの所為か、夜空の星は薄らとしか見えない。
まるで都市に役割を譲ってしまったかのような、弱々しい星明かり。
カルディオスはまだ戻って来ていない。
おれはカルディオスが離れたあと、聖歌が終わるまではあの席にいた。
玲瓏と響く歌声は美しく、おれはひたすらに聞き惚れた。
耳も頭も歌でいっぱいにして、ただそこに座っていた。
途中からは目を閉じた。
純粋な旋律は美しい。
聖歌が終わったあと、おれはふらっと教会を出て、しかしながら教会を離れるのは控えて、当初考えていたように、教会の屋根の上に昇った。
その気になれば案外に、簡単に昇ることが出来た。
おれは教会の冷えた屋根の上、尖塔の手前に腰掛けて、目を閉じて足を伸ばしている。
屋根には傾斜があるが、滑り落ちるほどのものではなかった。
夜風が全身に当たるのが心地いい。
様々な音が耳に届く。
家路を急ぐ人声、その足音。
並んで歩きながら、寒くなったね、と言い交わす声。
犬が吠える。
今日のごはんなにー、と尋ねる少年の声に、帰ってからの支度なのよ、あなたが愚図るせいで遅くなったのよ、と叱る女の声。
目を開けて、少しだけ前方に身を乗り出す。
ちょうど、通りを挟んで教会の正面――即ちおれから見て正面にある家では、窓に明かりが入っていた。
窓越しに、忙しく立ち働く前掛け姿の女が見えている。
くるくると動き回って、テーブルの上に皿やカトラリーを置いている。
テーブルの傍の暖炉には火が入っていて、ちらちらとひときわ明るい赤い光を投げ掛けている。
女は時折、窓からは見えない方に向かって何かを言っていて、そのうちに小さな女の子が、渋々といった様子でグラスを幾つか運んできた。
同じ家の玄関の戸口は開いていて、そこから暖色の明かりが漏れ出している。
開け放たれた戸口では、戸枠にしがみ付くようにして、小さな男の子が立って背伸びをし、通りを左右に見渡している。
おれは瞬きする。
人間には制限時間がある。
どうやらそれを寿命と呼ぶらしい。
人間は、何もしなくとも存在をやめてしまう、つまりは死んでしまうものだった。
おれの耳目を通して得られる情報の中で、それを否定するに足るものは一つもなかった。
ただ一つ、辛うじて、ヴェルローの女王にだけは寿命がないという話は聞こえてきた。
だがそれも信憑性は怪しい。
――ルドベキアもカルディオスも、もうすぐ死んでしまう。
眼下を二人連れが行き過ぎていく。
二人ともしっかりと外套を着込んで、親密そうに身体を寄せて、ゆっくりと歩いていく。
そんなにゆっくり歩いていては死んでしまうぞと、おれは忠告したくなる。
――どうしてルドベキアはおれから離れたのだ。
どうして戻ってこなかったのだ。
寿命があると知っていたなら、どうしておれを置いて行こうとしたのだ。
ただでさえ短い制限時間を、なぜなおもおれから削ろうとしているのだ。
サイジュは苦しい、その苦しさで壊れたおれの中の何かを、ルドベキアの声はゆっくりとではあるが修復してくれた。
ルドベキアが死んでしまうなら、誰がそんなことをしてくれるのだ。
ルシアナはもういないのに。
――ルドベキアの、ゆっくりとした朴訥な口調を思い出す。
おれのために言葉を作ってくれていた声を思い出す。
手品を思い出す。
「手品の時間だ」と言うときの、窺うような、確かめるような口調を思い返す。
おれは息を吸い込む。
冷えた屋根の上に寝そべって、暗い夜空を見上げてから、もう一度目を閉じる。
背中に屋根の冷たさが移る。
風が渡る音が耳をいっぱいにする。
――カルディオスの師匠とやらは、ルドベキアを見付けられるだろうか。
これまでは特段気にしていなかったが、今となっては何よりも気に掛かる。
そう考えているとふと、目蓋の裏側に人の姿が見えた。
いつものように、また、世界中に散らばるおれの耳目が働いているのだ。
そして今、おれがどこの光景を見ているのか、おれには分かった。
なぜならカルディオスがそこにいたからだ。
カルディオスは、今、王宮と呼ばれる場所にいる。
だからこそ、おれが見ているのは王宮の光景に違いない。
例によって、人間以外の万物は雑多な色の重なりにしか見えないが、カルディオスがしっかりと外套の頭巾を被って、どこかを覗き込もうとしているのは分かった。
やっぱり、いつものようにびくびくしている。
そのうちにカルディオスの目の前に、濃紺の色の贅沢な衣装を身に着けた女が現れた。
蜂蜜色の髪を飾り立てていて、驚いた表情でカルディオスを見ている。
カルディオスはあからさまにほっとしたように、その女に声を掛ける。
差し詰めあれが、カルディオスの言う「師匠」なのかも知れない。
二人がしばらく言葉を交わすのを、おれは見るともなしに見ていた。
声や言葉までは見ていなかったが、カルディオスが首を振ったり頭を掻いたり、そういう仕草を取るのを見ていた。
カルディオスが他人と長々と話しているのを見るのは新鮮だ、と、そう思ったときだった。
カルディオスがさっと顔を強張らせ、外套の襟元を摺り上げて顔の下半分を隠した。
同時に、カルディオスの師匠と思しき蜂蜜色の髪の女が振り返った。
おれも無意識に、その視線が翻った方を、世双珠を通して見た。
――おれに心臓があったなら、その瞬間にそれは止まっていたに違いない。
ルドベキアがそこにいた。
◇◇◇
おれは身動きも出来ず、声も出せず、ただただ茫然と、久し振りに見るおれの息子を、世双珠を通して凝視した。
――変わっていない。
青い目はそのまま。
いや、だが、少し違う。
はっきりとは言えないが、おれが最後に見たときよりも背が伸びた気がする。
それに、最後に見たときよりもややがっしりとして見える。
それに何より――表情が違う。
おれの知っているルドベキアではない。
両手をポケットに仕舞い込んで、困ったように蜂蜜色の髪の女を見ている、その表情――顔つき――眼差し――全部が、おれの知る、常に強張った顔をしていたルドベキアとは異なる。
むしろ少し、ルシアナの面差しを想起させる顔になっていた。
ルシアナがエルドラドについて話していたときの、その表情に微かに似ている。
――それが喜ばしくて、何よりもルドベキアがどこにいるのか分かったことが嬉しくて、おれは胸が苦しくなるのを感じていた。
おまえ、そこにいたのか、そんなところにいたのか。
なんで戻って来なかったんだ、と言いたい。
責めたい気持ちもあったが、なんだかそれは後にしていいような気がした。
カルディオスと一緒にこっちに来てくれ、と言いたい。
おれがすぐにでも向かって行きたいが、なんでだろう、身体が動かない。
胸の辺りが変な風に痛んで、何かがその内側で膨らんだようで、おれはその感情の捌き方を知らない。
ルドベキアが何か言う。
蜂蜜色の髪の女がそれに応じる。
ルドベキアは変な風に表情を動かして、妙に女から目を逸らしたりして、頷いたり、何かを言ったりして応じる。
――それを目で追っているうちに、おれは違和感を覚える。
おかしい。
ルドベキアは、外の世界が嫌いなはずではなかったか?
それなのにどうしてこんな、寛ぎ切った、好ましいものを見る目を何かに向けているのだ。
――今度は、明確に、刺されたように胸が痛んだ。
その感覚が余りにも鮮やかだったので、おれはてっきりサイジュが行われたのかと思って、弾かれたように目を開けて、身を起こしたほどだった。
周囲には誰もいない。
おれに損傷はない。
それを確認しているうちに、ルドベキアが何かしたらしい――十中八九、あの魔法を使ったのだ――、急に、視界が際立って不明瞭になった。
だがそれでも、ルドベキアの姿は見える。
おれはじっと、おれの息子を注視する。
もうすぐ死んでしまうらしい、ルシアナの息子を凝視する。
約束を守らなかった、おれの不出来な愛すべき息子を。
ルドベキアはしばらく、その場をぶらぶらと歩き回っていた。
だがやがて、ふと顔を上げて、周囲を見渡した。
そして、呟いた。
――その声が見えた。
『――兄ちゃん? ヘリアンサス?』
そうだ、おれはここだ。
――おれは応じるが、その声が届くわけもない。
おれは目を閉じ、考える。
――ルドベキアは、外が嫌いなはずだ。
世界の美しさも素晴らしさも知らないから、おれに、外に出るなと言ったのだ。
そうでなければならない。
そうでないなら、それは余りにも残酷に過ぎる。
だが、なんだ?
あの目も表情も全部、ルドベキアが今まで見せたことのないものだ。
寛いだ、好ましいものを見るような、熱のあるものだった。
おかしい。
――ルドベキアは、ここで、何をしていたんだ?
魔法を廃絶するという任を負わされていたのは知っている。
ルドベキアはそれを嫌がっていたのではなかったか?
――本当にそれだけだったのか?
おれがそう思った途端、そこに関心を向けた途端、興味を持った途端、ありとあらゆるおれの耳目が、時系列すら遡って情報を送り付けてきた。
――それは単純に、本を読むルドベキアであったり、誰かと話し込むルドベキアであったり、広い庭園を歩き回るルドベキアであったり――
眩しそうに目を細めて、青い空を見上げるルドベキア。
あるいは興味深そうに、小さな花に目を向けるルドベキア。
雨が降っている窓の外を、頬杖を突いて眺めるルドベキア。
何か嬉しいことでもあったかのように、部屋の中ではしゃぐルドベキア。
椅子に座って本の頁を捲る誰かに向かって、何かの花の説明をしているルドベキア――『銀の花って知ってる? 実際は白いらしい。カロックで見たんだけど名前が分からなくて、気になってんだって』。
おれは目を開けた。
世双珠からの情報を、全てもう一度断ち切った。
「――――」
暗い夜空を見上げて、おれは無意識に口を開け、何かの声を出していた。
それは気付けば、先程まで聴いていた聖歌の、その継ぎ接ぎの旋律の破片だった。
歌詞など聞き取ることは出来ていなかったから、おれは小さく口を開けて、旋律だけを声に載せて、切れ切れに歌っていた。
そのうちに笑いが込み上げてきて、おれの歌はなおいっそう途切れ途切れになった。
喉の奥から、震える笑い声が次から次に込み上げてくる。
歌が震えて、途切れて、でもおれは口を閉じることが出来ない。
――そうか。
おれがひたすら数を数え、三百六十まで数えればルドベキアが戻って来るのだと、また沢山の話を聞かせてくれるのだと、それだけを支えにして、過ぎていく時間という棘を必死になって呑み下していたようなあの日々――おれがサイジュに耐え、退屈に耐え、壁に色を重ねることにさえ限界を迎えていたあの時間――、ルドベキアは、そんな風にして過ごしていたのか。
さぞや楽しかったことだろう。
おれはどうだった?
数を数えていた。
苦痛に耐えていた。
壁に色を重ね、その色が黒に近付いていくのを見て焦り、新しい絵具さえなくて、ただひたすらに壁に絵筆を擦り付けていた。
その間に、ルドベキアは青い空を仰ぎ、小さな花に心を寄せて、何事かを喜び、誰かと親しく花の名前を調べていたわけか。
――それを、三百六十日ののち、約束通りにおれのところへ戻って来て、話してくれることさえもなかったわけか。
声が途切れた。
もう歌が出なかった。
だが口を閉じられず、おれは乾いた息ばかりを吐き出し続けた。
その息はもしかしたら、笑みであれば欠片程度は含んでいたかも知れない。
笑み――嘲笑だ。
自分に対する嘲笑だ。
よくもまあ、愚直に、無様に、あいつを待っていたものだ。
おれは笑っている。
腹を抱えて笑ってもいい程だと思ったが、どうやっても声が出なかった。
ただ、掠れた息だけが漏れ出していくのみだ。
唇が震えるのを感じた。
瞬きすらも、その動作の方法を忘れた。
――ルドベキアの命には制限時間があって、そんなものはおれからすれば本当に短いものだ。
おれはひたすらルドベキアを待っていたのに、あれほどの苦痛に耐えていたのに、ルドベキアはその時間すらも、おれにくれる気はなかったらしい。
そして何よりも、ルドベキアはとうの以前から、この世界の美しさを知っていたらしい。
カルディオスと会わせてやろうと算段していたおれはとんだ道化だ。
それに留まらず、つまり、ルドベキアがこの世界の美しさを知っていて、それでなおおれを助けに来てくれなかったということは、それは――
ルドベキアが、それがおれにとってどれだけ残酷かを知ったうえで、おれをあの穴ぐらに押し込めていたということに他ならない。
いやむしろ、ルドベキアがその行為を残酷であると認識してくれていた方が、おれとしては有り難い。
何の痛痒もなく、まさしく金庫に宝物を仕舞うが如くに処理されていたなどと、そちらが事実だったと分かる方が、おれにとっては恐ろしい。
――夜が更けて空は暗い。
おれの正面に見える家の前に、小走りで一人の男が到着した。
戸口に立っていた子供がそれを喜び、「お父さんっ」と叫んで、身長差のある男に、飛び付くように抱き着いた。
男がそれを抱き留め、あしらいながら家の中に入り、中に声を掛ける。
後ろ手に、扉を引き寄せる。
扉が閉じる。
通りに漏れ出していた光が絶えて、おれの気が狂った。




