02◆ 歪んだ鏡面
今回に限っては俺が魔王だが、いつもはこいつが魔王だった。
いつも魔王で――いつも最終的に、俺たちを惨殺していったのはこいつだった。
覚えている限り昔から、こいつが俺たちの死因である。
コリウスに限って言えば、他の奴に殺されたこともあるけど。
煌めく新雪のような白い髪、黄金の目。
線が細く、男にしては小柄。
今はトゥイーディアのドレスと同じ色のガウンを羽織って、自分を見て口々に何かを言っている隊員たちに、穏やかに微笑みながら大広間を歩いている。
ヘリアンサスの演技に俺はぞっとしたし、何よりもその出で立ちにぞっとした。
忘れていたがこいつ、どういう手段を使ったのか、今はトゥイーディアの婚約者候補である。
恐らく、あいつのガウンを用意したガルシア側は気を遣ったつもりだったのだろう。
ヘリアンサスが近付いてくるに従って、ちらちらとトゥイーディアを窺う視線も増えた。
対外的には婚約者同士、遣り取りに注目を集めるところもあるだろう。
そしてトゥイーディアは、その聴衆の期待を絶対に裏切らない。
なぜなら彼女の婚約自体が、名家でありながらも窮乏に陥った、リリタリス家――トゥイーディアの今の実家を救うためのものだからだ。
転生を繰り返す俺たちみんなにとって、親とはもはや他人。親の顔を思い浮かべようとしても、浮かぶ顔は数十あって、そのどれもが霞んでいるような有様。
――だが、今回のトゥイーディアに限って言えば違う。
こいつは前回も正当な救世主だった。そして正当な救世主を経験した直後の人生において、こいつは一切合切を忘れて、まっさらな状態で生を享ける――恐らく、それがトゥイーディアの代償なのだろう。
代償のことは誰も口に出せないから、はっきりと確認したことはないけれど。
記憶を取り戻したのは実に昨日で、今のトゥイーディアは今の自分の親に対して、正しく親子の情を覚えているはずだ。
そんな親のために、実家のために、トゥイーディアは生命線であるヘリアンサスとの婚約に、支障を来す真似はしないだろう。
ヘリアンサスを殺すと断言した彼女だが、実際に行動を起こすそのときまでは、恐らくじっと耐えるだろう。
――俺のその内心の予想を裏付けるが如く、トゥイーディアが立ち上がった。
表情は笑顔。作り込まれた親愛の仮面。
立ち上がったトゥイーディアに、ヘリアンサスが歩み寄って来る。
俺たちは一斉に息を吸い込んで覚悟を決めたが、トゥイーディアはごく自然に一歩前に踏み出した。
「――おはようございます、ロベリアさん。こちらにいらっしゃったんですね。父と同じく侯爵さまのお宅にいらっしゃるものかと」
朗らかなまでの声音で、トゥイーディアはそう言った。
空虚な、もはや感情の起伏の一切ない、作られた声だった。
「おはよう、リリタリス嬢。僕はここで二年間お世話になるからね、あなたの父上とは訳が違うよ」
ヘリアンサスはそう答えて、わざとらしくも心配の顔を作る。
「あなたの任務のことを聞いたけど、大丈夫?」
「大丈夫です、お気遣いありがとうございます。せっかくの留学を、しばらく空けてしまうことは心残りですけれど」
高い調子を保って棒読みでそう言ったトゥイーディアに、ヘリアンサスはにっこりと笑った。
毒を持つ花のような、中性的な美しさで。
「そう。まさかあなたが救世主だとは思わなかったな。頑張って――無事の帰りを待っているよ」
こつ、と更に一歩を踏み出して、ヘリアンサスはトゥイーディアの耳に口許を寄せた。
きゃあ、と黄色い声が周囲で上がったが、俺たちは寸でのところで立ち上がるのを堪えたし、トゥイーディアがびくりと身震いしたのを俺は見た。
「――収穫があるといいね」
ヘリアンサスが囁いて、口許が裂けるのではないかと思うほどに大きく微笑んだ。
――俺は鳥肌が立った。
「――でも、魔王の首を獲るのは僕だよ」
低く続けられたその声に、トゥイーディアは紙のように白くなった顔色でなお、強い口調で低く返した。
「魔王の首を獲るのは私、戻ってきておまえの顔を見たときだ」
表情はにこやかなまま、潜めた声で激烈に、トゥイーディアが呟くように告げる。
「言っただろう――私が殺す魔王はおまえだ」
「とても楽しみだ」
す、とトゥイーディアとの距離を開けて、ヘリアンサスは彼女の右手を取って軽く押し頂く仕草をした。
ヘリアンサスのその手首の腕輪が、きらりと青く煌めいた。
コリウスとアナベルが腰を浮かせた。
それを眼差しで押し留めて、トゥイーディアはなおも親愛の仮面を被ったまま、それでも隠しようのないほど苛烈な視線でヘリアンサスを見る。
それを受けて、ヘリアンサスは含み笑った。
「戻って来るのを楽しみにしているよ、親愛なる婚約者どの」
「――おまえを殺す」
食いしばった歯の間で潰れた声を押し出したトゥイーディアに、ヘリアンサスは今度こそ笑い声を上げて、大広間に聞こえるよう声を出した。
「――勇敢なことだね」
端から聞けば賛辞と捉えられる言葉をトゥイーディアに与えて、ヘリアンサスは踵を返し掛け――ふと、俺を見た。
視線が合って、俺はぞっとした。
この黄金の目。
感情の見えない、歪んだ鏡面のような、人間味の一切感じられないこの目。
――この目が厭だった。
だが一方で、ヘリアンサスは興味深そうに俺の目をしげしげと見てから、一列に並ぶ俺たちを見て、軽く首を傾げた。
「なんだ、全員揃ってはいないのか」
呟いて、ガウンの裾を翻して歩み去っていく。
大広間では、「婚約者同士一緒に朝食を摂らないのはなぜか」という当然の疑問が漣のように広がったようだったが、正直知ったことではない。
トゥイーディアは無表情に長椅子に座り直し、大きく深呼吸した。
吐き出す息が震え、ヘリアンサスを前にしていた彼女が、どれだけ緊張していたのかを伺わせる。
――俺たちの誰も、間に入ってやれなかった。
それをすると不自然で、トゥイーディアの実家――リリタリス家にとって不利に働くだとか、そういうのは全部言い訳だ。
結局のところ怖かったのだ。
いつもそうだった。
魔王の城にあいつを殺すために乗り込むときですら、俺たちは怯えながら進んでいたのだ。
落ち着こうとするように深呼吸を繰り返すトゥイーディアを、ディセントラが大きな淡紅色の目で覗き込んだ。
「イーディ、ごめんなさい――」
「なんで謝るの」
小さな声でそう返したトゥイーディアは、ゆっくりと、少しだけ強張った笑顔を浮かべた。
そして、ディセントラが今にも泣きそうに瞳を潤ませているのを見て、今度こそ苦笑した。
「――相変わらず泣き虫ね、トリー」
そう言って、トゥイーディアはディセントラの手をぎゅっと握った。
「大丈夫よ。今回は、今までとは違うから」
自分に言い聞かせようとするかのように、トゥイーディアは明るく言った。
昨日と同じように。
「私がみんなを守るからね」
その直後に大広間に来たカルディオスは、軍服こそ着ていたものの、暗褐色の猫っ毛には寝癖がついたままで、翡翠色の目を眠たげに細めていた。
それでも様になるこの天性の美貌。
早朝訓練が中止になると踏んで、敢えて寝坊したことがありありと分かる。
眠たげにしていたカルディオスだったが、さっきまでここにヘリアンサスがいたと知らされるや、ぎょっと目を見開き、
「マジで!? ――寝坊して良かった……」
おい。
俺たちが無言で殺気を纏ったことに気付き、カルディオスはわたわたと手を振る。
そしてアナベルの隣に滑り込むように座り、猫目を見開いてトゥイーディアを見た。
「――ていうか、イーディ。大丈夫?」
トゥイーディアは微笑んだ。
もう普段通りに柔らかな表情に戻っていて、こいつの精神の強靭さには驚嘆する。
「……大丈夫よ。
――私も、きみが寝坊していて良かったと思うわ、カル」
そして心が広い。
内心で感涙する俺(表情は無)を他所に、アナベルがカルディオスをちらりと横目で見て、端的に尋ねた。
「そういえば、聞いた?」
「えっ、何を?」
きょとんと目を瞬かせてから、カルディオスは思い当たった様子でにっこり。
「あ、俺たちが救世主だってイーディが公表したこと? 聞いた聞いた。
朝から部屋の前でいっぱい女の子が待ってて、すっげぇ入れ食い状態じゃんって――っいてぇッ!」
アナベルの肘鉄を脇腹に受け、カルディオスが悶絶。
ていうか、こいつもコリウス同様、トゥイーディアの衝撃の発言の現場に居合わせたはずだけど、敢えて「聞いた」って言ったってことは、こいつ晩餐会ですら退屈すぎて意識飛ばしてたな。
溜息を吐き、ディセントラが更に尋ねる。
「で、私たちの魔界行きも聞いた?」
「えっ、聞いてない!」
いたたた……と脇を擦っていたカルディオスは、ぴょこんを顔を上げて驚いた顔をする。
やっぱりこいつ、晩餐会の間ずっと、他のこと考えてたんだな。
トゥイーディアの爆弾発言に絶句したコリウスが、カルディオスと目を合わせようとしてそれも出来ずに眉間に皺を刻む様子が目に浮かぶ。
「なんでなんで? まさか――」
カルディオスが俺を見て、それから自分の首を斬る仕草をした。
魔界に行く、即ち魔王討伐、即ち俺死亡。そこまで一気に考えが進んだのだろう。
「――違ぇわ」
俺が呟くように答え、トゥイーディアが慌てて説明を始める。
聞いたカルディオスは大きく目を見開き、
「ナイスじゃん、イーディ」
ディセントラとコリウスがぎょっとしたようにカルディオスを見たが、カルディオスはそれをむしろ不思議そうに見返して、魔界に行くメリットを指折り数え始めた。
「昨日の一件の首謀者探せるし、ルドは今までの仇討ちが出来るし、俺はここで窮屈に隊員生活送るより、みんなとのんびり旅してる方が好きだし、それに――」
ぐっと身を乗り出し、カルディオスは真顔になった。
「合法的に、不自然さは一切なしに、ヘリアンサスのやろうと離れられる」
――あ。
トゥイーディア以外の全員が、俺と同じ顔をした。
即ち、「確かにそうだ!」と。
ヘリアンサスのことだから、どこに行こうがその気になれば追い着いて来そうな感じがするので、あんまり意識していなかったが、確かにそうだ。
ガルシアから出れば俺たちはあいつと距離を置ける。
――とはいえ、あいつをここに残して心穏やかにいられるかといえば、そうではない。
戻って来たときにここが死体の山になってたらどうしようとか、あいつがここを制圧してたらどうしようとか、思うことはいっぱいある。
俺と同じことを考えているらしき、ディセントラと目が合った。
ディセントラは首を傾げた。
「――残していくここが気に掛かるけれど、――誰かここに残る?」
全員が一斉に首を振った。
「嫌だ、絶対」
結局のところ俺たちは、全員一緒にいてこそ安心できるものなのだ。
お互いに顔を見合わせて頷き合った俺たちは、やっとのことで朝食に手を付けた。