23◇ ――それだけの話
椅子を一つ完成させたカルディオスは、続いて、今度は座面が四角い椅子を作り始めた。
「本当はもっと凝ったのを作りたいんだけど、」
と、カルディオスはむっと唇を曲げたものである。
「時間もないからなぁ」
雲上船に乗るまであと半月くらいだし、と、カルディオスは呟く。
とはいえ凝りたい気持ちが勝ったのか、カルディオスは椅子の脚を、優美な曲線を描くものにしてみせた。
綺麗に木を削ってあるべき形を彫り出していくカルディオスを眺めながら、おれは素直に感嘆し、感心する。
おれのその表情を読み取って、カルディオスは得意そうにする。
カルディオスが無事にその椅子を完成させ、また義理のように宿の主人に見せると、主人はやはり目をしょぼしょぼさせながら、「いいねえ、いいねえ」と繰り返して破顔し、「脚の形がいいねえ」と言い足して、カルディオスを驚愕させた。
「あのジジイ、目ぇ見えてたのか」
と、カルディオスは後ほど口走っていたものである。
その頃には暑さは収まりをつけつつあって、空気の匂いにも清冽なものが混じり始めていた。
勢いばかりを感じていた季節から、その勢いを溜めようとする季節に移ったような。
「秋だよ」
と、おれが不思議そうにしていることに気付いたのか、カルディオスが教えてくれた。
「これから涼しくなんの。あと、木の実とかもいっぱい出来る。あと、葉っぱの色が変わる」
「葉っぱの色が」
おれが繰り返すと、カルディオスは首を傾げた。
「たぶん、この町にいる間にはそんなに派手に変わらないだろうから、リーティに着いたら教えてやるよ。リーティはここより北だから、季節が進むのも早いんだ。もう多分、あっちはすっかり秋じゃないかな」
分かった、とおれは頷く。
部屋の窓から町を見下ろしていると、なるほど街路樹の中には、葉の一部を濃い赤色に変化させつつあるものもあった。
おれはその変化を楽しみ、町に出たときには街路樹の傍に寄って背伸びして、そういった葉を眺めることも度々あった。
カルディオスは、町中においておれが目立つ行動を取ることを嫌ったが、それでもおれに付き合って足を止めて、おれが満足するまで待っていてくれた。
また、道端に見慣れない木の実が落ちているのを示して、「それ、団栗」と教えてくれることもあった。
丸くて艶やかな木の実は大いにおれの興味を惹き、カルディオスが呆れ果てたような声で、「そんなに気に入ったんなら、それで首飾りでも作ってやろうか」と言ったくらいだった。
おれは一瞬それを依頼し掛けたが、カルディオスの表情が「呆れているというのはこういう状態である」と示すお手本のようなものになっていたので、「それ程じゃない」と、そっと言うことになった。
カルディオスは溜息を吐いて、
「団栗くらい、秋になったら何回だって見られるよ」
と保証した。
――確かにそうだった。
おれはこれからずっと、秋になると団栗であったり、他の木の実であったりを、頻繁に目にすることになる。
ただ、それが完全に一人でのことになったというだけの話だ。
一人で見る季節が、存外につまらないものであったというだけの話だ。
カルディオスはそうして、秋をおれに語った。
――そして、その秋こそが、おれにとっての最後の季節になった。
カルディオスはおれに春を教え、夏を伝え、秋を語った。
冬はなかった。
――それだけの話だ。
◇◇◇
おれとカルディオスは、宿に戻るために用水路脇の道を歩いている。
ちょうど明日の昼前にはおれたちは雲上船に乗ることになるらしく、その前に外套を買いたい、とカルディオスが大騒ぎをしたがために、おれたちは町に出ていたのだった。
「外套?」
と、聞いたときにおれは訊き返した。
秋になったとはいえ――そうだ、秋だ、夏は一年後に姿を隠したのだし、天使の喇叭はなくとも秋が天穹を覆ったのだ――、まだそこまで寒くはないはずだった。
おれには寒暖を感じ取ることは出来なかったが、町で目にする人間は、皆が皆まだそういった上着は身に着けていなかったのだ。
「なんで?」
おれが尋ねると、カルディオスはばつが悪そうに顔を顰めた。
「――この格好のままで会いに行くと、師匠が心配する」
むす、と眉を寄せて、カルディオスは不本意そうに。
「ほら、俺、外套を駄目にしちゃっただろう。でも師匠にそれがバレたら、なんで駄目にしたのかって訊かれる。師匠に隠し事は出来ないから、余計なことが色々バレる。
さすがに師匠も、俺の格好を細かく覚えてはいないだろうけど、外套の有る無しは絶対バレる」
おれは眉を顰めた。
カルディオスが外套を駄目にすることになった切っ掛けを思い出したからだった。
「普通は外套って仕立ててもらうもんなんだけど、誰かの古着とかが売ってるかも知れないから、それを当たろう。で、俺が着てたのと似た感じのがなかったら、もう俺が自力で造るよ」
おれは頷く。
カルディオスはそんなおれを見て、「どっちにしろ、おまえにも要る」と続けた。
「え?」
「え、じゃないよ。秋が終わったら寒くなるの。春はおまえ、そういう恰好で平気そうだったけど、さすがに冬は無理だろ」
おれは自分の姿を見下ろし、それからカルディオスを見て、反論をやめる。「そうか」と頷く。
このとき反論をやめたおれを、おれは責めたい。
そうしておれたちは最後にこの町を練り歩くことになったわけだが、カルディオスが目当てとした外套は見付からなかった。
カルディオスはがっかりした様子だったが、それはそれとして切り替えつつあった。
「まあいいや、宿に戻ったら俺が造るわ、ちゃちゃっと」
そんなことを言って、すっかり夕闇が征服しつつある空気の中を、おれとカルディオスは並んで宿屋まで歩いていた。
用水路を水が流れる音が聞こえる。
世双珠が仕込まれた街灯が、等間隔に夜陰を払う。
そんな中を、向こう側から長身の男が三人、歩いて来た。
カルディオスはちょっと目を細めたあと、その三人が用水路とは逆側に寄るだろうと予測したのか、おれを促して用水路側に寄った。
擦れ違う瞬間に、向こう側の男が一人よろめいた――ように見えた。
カルディオスが唐突に後ろに下がったので、おれは驚いて足を止めた。
そして、刃物がこちらを向いているのを見て、今度は明確に身体が凍った。
おれが動きを止めたのが分かったのか、カルディオスがおれを見た。
それから三人を見て、今や三人ともがそれぞれ小振りなものではあったが刃物を手にしていたわけだが、焦った様子で「えっ」と呟いた。
多分、突き出されてきた刃物を避けたのは咄嗟の反射的行動だったのだろうが、その反射がカルディオスの中から立ち消えたかのようだった。
唐突すぎる事態に、思考が空回った様子だった。
カルディオスは目を見開き、それから瞬きを繰り返した。
刃物が街灯の明かりを拾って、鈍い白色に煌めいていた。
あるいはわざと刃物の平で明かりを捉えるよう、男たちは短刀を動かしたのかも知れなかった。
刃物を持っていると顕示すれば抑止力になる。
こいつらが知る由もなかったが、おれにとっては特に。
「――えっ」
カルディオスはもう一度そう口走って、用水路におれたちを追い詰めるように距離を詰めてくる三人を見渡した。
そしてじりじりと後退りつつ、つまりはおれに近寄りつつ、言葉を落とすようにして口走った。
「金?」
「察しがいいな」
最初に刃物を出してきた男が言った。
カルディオスは結構あけすけに、「手形じゃなくて良かった」という表情を、つまりは安堵に分類される表情を浮かべて、素直に荷物を探った。
その挙動を見て、やっとおれは、このところこの町の破落戸は大人しくするのをやめていたのだった、と思い出した。
同時に、町中のおれの耳目から、この目の前の三人に関する情報が、時系列すらばらばらに押し寄せてくる。
いつもの雑多な色を重ねたような光景ではなく、明瞭な光景。
もしかすると、世双珠からの情報を、おれの頭のどこかがきちんとした光景に直していたのかも知れない。
人間以外のものを雑多な色としてしか見られないのは、今現在の情報。
過去の情報についてはもしかすると、世双珠からの情報を、何某かの手段で修正できているのかも知れない。
――この三人が、何かの葉を燻して煙を吸っている光景。
あばら家で、壁に向かって短刀を、間違いなく今おれたちに向けられている三本のうちのどれかだろうが、それを投げて、壁に刺さった短刀を引っこ抜いて、また投げている光景。あばら家の隅の方で、なぜか服を着ていない女が一人震えている。
あるいは別の、似たような風体の男たちと剣呑な雰囲気で何かを言い合っている光景。
無人の、多分というか間違いなく、この男たちのものではないだろう家の中を歩き回る光景。箪笥という箪笥、戸棚という戸棚を開け放って中を物色する光景。
それが終わって外に出るこの三人。
ぶらぶらと歩いて、ちょうどおれたちを見付ける。
目を見交わして、合図する。
近付いて行く。
――今に至る。
男たちはカルディオスを見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「――おい」
と、さっきとは別の男が言った。
「おまえ、なんか他に持ってんの?」
「持ってない」
カルディオスが即答して、おれを見た。
おれはひたすら、ここにある刃物を自分の肌に届かせてはいけないということを思い詰めていた。
カルディオスはおれと目を合わせるのを諦めた様子で、いつものように――破落戸に絡まれたときにはいつもそうしてきたように――おれの手首を掴んだ。
カルディオスはそうするとき、いつもおれの右手首を掴む。
カルディオスは自分の右手で、自分の顔の、鼻から下を覆って隠していた。
カルディオスの踵が蹴った小石がころころと道を転がって、その端から用水路に落ちて、ぼちゃん、と音を響かせた。
カルディオスは、誰か通り掛からないかな、と期待するように、道を左右に見渡したが、人通りは少なかった。
あるいは人影があったとしても、只事ならぬおれたちの様子を見た人間は、足早にこの場を立ち去っていた。
カルディオスは全身を緊張させていた。
金ならばカルディオスは抵抗なく相手に渡しただろうが、要求がそこで終わるとは考えていない様子だった。
案の定、街灯の乏しい明かりにカルディオスの顔を見て取った男が、三人いるうちの一人が、奇妙に甲高い笑い声を上げた。
「いやいや、持ってんじゃん。おまえちょっとうちまで来いよ」
カルディオスが全身を震わせると同時、他の二人が一斉に笑い出す。
夜陰を破裂させるような不愉快な声の大合唱だった。
「ガキだぞ、しかも男だ」
「きれーな顔してんじゃん、いけるいける」
おれは瞬きして、おれの手首を握り締めるカルディオスの顔を見た。
――またあの、瞳の奥の扉を閉めてしまったような、そういう眼差しをされるのではないかと思ったのだ。
けれどもカルディオスは、まだ落ち着いていた。
嫌悪こそ顔にあれど、あのときのような無表情にはなっていなかった。
そして、おれの視線に気付いて、ちらっとこちらに眼差しを向けた。
おれの手首を離して、その手でこっそりと、背後を示した。
後ろは用水路だ。
飛び込もう、と仕草で示した。
なるほど合理的だ、とおれは納得したがその瞬間に、まるで銅鑼が鳴らされるかのように激しく、世界中のおれの耳目から情報が、知識が送り付けられてきた。
――水は人を殺す。夜は特に。
一度沈んでしまえば、暗さが手伝って水面の方向が分からなくなる。
人間が生きるには呼吸が必要だが、水は呼吸を阻む。
おれは思わず、離された手でカルディオスの手首を掴んだ。
カルディオスが存在をやめてしまうのは困る。
本当に困る。
カルディオスは驚いたように目を瞠り、そしてそのときには、げらげらと笑う男たちのうち一人が、無造作にカルディオスに向かって手を伸ばしているところだった。
「別に、大人しくすりゃ殺しゃしねえって、」
ぼんっ、と間抜けな音が響いた。
続いて、ばしゃん、と、大量の水が地面を叩くときとそっくりな音。
げらげらと笑う声が数秒続いて、しかし数秒後、困惑のためにそれが止まる。
カルディオスも目を見開いていた。
更に数秒、当惑したような沈黙が続いて、
「――――ぁあっ!」
カルディオスに手を伸ばしていた男が、飛び退って絶叫した。
絶叫というより咆哮じみていた。
右手を押さえている。
先ほど、つい数秒前まで、カルディオスの方に伸ばされようとしていた腕だ。
今はもうない。
肘から先が、原型を留めず足許に飛び散っている。
――その半ばから破裂したのだ。
おれはただただその光景を眺めていたが、飛び散る血液すらも不愉快だった。
おれにはないもの。
人間にあるもの。
夜陰に黒く見える血液をおれが嫌った結果、透明な壁に途中でぶつかったようにして、血液はカルディオスとおれの目の前で防がれて、まさに窓硝子を伝う雨の如く、ゆっくりと、何もないはずの空中に跡を刻んで滑り落ちようとしていた。
「――はっ?」
「なになに、なに!?」
「どうし――」
二人の男が交互に叫んで、よろめいて後退る男からすら、身内であるはずのその男からすら、まるで不気味なものを避けようとするかのように足を引いた。
カルディオスも、事態が分からない様子で唖然としている。
まじまじと、目の前の空中を伝う大量の血痕を眺め、その赤黒く染まった空気の向こう、右腕を抱えて絶叫する男を、むしろぽかんとして見ている。
おれは安堵に胸を緩めたが、直後、右腕を抱えた血塗れの男が顔を上げ、周囲に轟く絶叫を張り上げたために驚いた。
「――ぶっ殺す!!」
男が喚いた。
おれの耳が、その意図を汲んだ。
存在をやめさせるぞと、そう言っている。
あろうことかカルディオスに向かってそう言っている。
――駄目だ。
おれは瞬きした。
それを合図に、今度は男の全身が膨れ上がり、破裂した。
一瞬、本当に一瞬の間だけ、男の顔が奇妙に膨れ上がり、笑いすら誘うような絵面になったのを、おれは見た。
両目が極端に離れ、目尻が裂けようとして血走り、鼻は平らに広がり、口が裂けたように大きくなり、頬と額は鞠のように丸くなっていた。
直後、その皮膚が裂けた。
全身の皮膚が、隈なく裂けた。
ぼんっ、と、先程よりも大きな、しかしながらやはり間の抜けた、どことなく浮いたような音が響く。
どしゃん、と、それよりも更に大きな音がそれを追い掛ける。
真っ赤な霧が目の前に漂った。
それすら不快に思うおれの意思が、おれとカルディオスをその霧から庇ったものの、もはや他の二人の男は、頭の先から爪先までもが血塗れだった。
ぼとぼとと激しい音がする。
雨の音に似ているが、決定的に不愉快な音だった。
「――――は?」
カルディオスが呟いた。
いっそ落ち着いた声に聞こえたが、翡翠の瞳が盛んに揺れていた。
「なにこれ――?」
同瞬、ようやく事態を理解したらしい残りの二人が悲鳴を上げた。
いっそ驚くほど甲高い声だった。
片方が、がくがくと足を震わせながら後退った。
もう片方がよろめきながら踵を返し、ふらつきながら走り出した。
しかし数歩で転倒し、立ち上がろうとしてもがき、その場に嘔吐する。
「なんだよ、なんだよ、なんだよ――」
がくがくと震えながら後退った方が、へなへなとその場に頽れた。
同時にカルディオスが、足許の惨状に、数秒遅れの驚愕を抱いたらしく飛び上がり、血の海から離れる方向へ飛び退った。
おれはその場から動かなかった。
目を上げて、次に近くにいた、頽れて座り込んだ男の方を見ていた。
男は盛んに震え、両目からしとどに涙を零している。
顔がびっしょりと濡れていて、血と涙が混じって流れている。
汚いなぁ、とおれは思う。
「くそ、違う、ハッパをやり過ぎた、くそ、こんなことあるわけねえ――」
男が喚いている。
おれは眉を寄せ、カルディオスの方を見た。
男の内面が混沌としていて、言葉に意味すら汲み取れない。
「……ハッパ、って、なに。葉っぱ?」
いつものようにおれが尋ねたことに、カルディオスははっとしたようだった。
カルディオスは血の海をじっと眺めていたが、顔を上げて、まるで習慣づいた何かであるかのように、応じた。
「薬になる葉っぱのことだよ、燻して煙を吸うんだけど」
そこまで言って、カルディオスは急に口籠り、それからくるっと用水路の方を振り返ると、その場に膝を突いて嘔吐した。
おれはぎょっとする。
「カルディオス?」
びしゃびしゃと音を立てて、吐瀉物が用水路に落ちた。
カルディオスは口許を拭い、「大丈夫」と不明瞭に呟く。
「違う、ちょっと、やなこと思い出して」
そう言いながら、カルディオスがよろめくように立ち上がる。
逃げ出そうとして転倒した方の男が、再び起き上がることに成功していた。
そのまま、ふらふらと右往左往しながら、もはや目の前の空気を引っ掻くようにして、必死な動きで、ただしどうにも愚鈍に、この場から離れて行く。
座り込んだ方の一人は、不規則な足音からそれを察したらしい、「おい、おい」と叫ぶ。
「おい、うそだろ、おい、待て、待てよ」
立てばいいのに、どうにもその男にはそういった考えがないらしかった。
あるいは立てなくなったのかも知れない。
どちらにせよ興味はない。
カルディオスが、血の海を前に立ち竦んだように動かない。
怯えているというよりも、足の踏み場がないことに困っている様子だった。
おれは当然ながら、一旦下がって迂回すればいいじゃないか、と提案するつもりでカルディオスの方を向いて、右手を伸ばして、カルディオスの背後を指差した。
「ちょっと下がれば、」
そのとき、衝撃があった。
おれは瞬きした。
――同瞬、おれの最も慣れ親しんだ感覚が、つまりは痛みが、右腕で爆発した。
「――死んで堪るか、ちくしょう!」
男がそう叫ぶ。
周辺の世双珠からは怒濤のように、数瞬前の男の挙動が、おれが全く注意を払っていなかったその挙動が示される。
男は震え、泣き喚きながらも手に持っていた短剣を持ち上げ、それを振り被って、がむしゃらに投げ付ける。
それが、回転しながら飛んだ短剣が、偶然にもおれの右前腕に激突する。
続いて、世双珠がその男の、今現在の行動をおれの目蓋の裏に次々と送り付けてくる。
雑多な色を重ねたような光景の中を、男が這いずるようにして逃げ始める。
もはやこちらを振り返りもしない。
違う、そんなことはもうどうでもいい。
「――――」
痛い。痛い。
全身が震えるほどに、与えられた苦痛に対しておれの全てが絶叫している。
右前腕に激突した短剣が、おれの皮膚を切り裂いて、その下すらもざっくりと裂いて、地面に落ちる。
人間に刺さったのならば腕に突き刺さったところで止まっただろうものを、おれに血肉がないことが如実に表れた。
腕は、千切れこそしなかったもののざっくりと裂けて、有り得ないはずの方向に曲がった。
がらん、と短剣が音を立てる。
そして、いや、それ以上に。
「――――」
おれはその場に座り込んだ。
咄嗟に傷口を左手で押さえたが、もはやそんなもので抑えられるはずもない。
――露見した。
痛みと混乱に、おれは恐怖すら覚えていた。
――これは、どうしよう、カルディオスが近くにいるのに。
実際、茫然と傷口を見るおれの視界の隅に、こちらに駆け寄って来るカルディオスの靴が見えつつあった。
駄目だ、これは。
傷口を押さえた掌の下から、傷口から、幾つも幾つも、世双珠が溢れて地面を叩いている。
敷石にぶつかり、硬質な音を奏でている。
夜陰に煌めく、色とりどりのおれの子供が、一気に数十溢れ出し、おれの目の前を埋めている。
眼前が揺らぐ。視界が歪む。
痛みと混乱に、頭が一気に熱くなる。
「――アンスっ、ヘリアンサス!」
カルディオスが叫んで、世双珠を避けておれの隣に座り込んだ。
そのままカルディオスがおれの右腕に手を伸ばしたので、おれは咄嗟に、その右腕を自分の方へ引き寄せた。
――駄目だ、おれに届く手を増やしてはならないのだ。
もうサイジュは嫌だ。
耐えられない。
おれの挙動に、カルディオスが瞬間、動きを止めた。
だがすぐに、おれの耳許で、怒鳴るように言った。
「馬鹿っ、傷みせろ!!」
――傷。
一瞬、おれは意味を取り損ねて硬直した。
その間に、カルディオスがおれの右腕を掴んでいた。
いや、掴むというより、支えて持ち上げるといった仕草だった。
続いてカルディオスの、怪訝そうな声がする。
「……血、出ないの?」
おれの胸の奥の方、存在しない心臓の辺りが、何かに捻り上げられたかのように痛んだ。
声が出なかった。
身動きも出来なかった。
おれは目を閉じた。
カルディオスはそれから数秒の間、街灯の明かりに透かして、丹念におれの腕を観察したようだった。
そして、ぽかんとしたように呟いた。
「……治ってる?」
おれは目を開けた。
目の前で、カルディオスの翡翠色の瞳が怪訝そうに瞬いている。
「――もう痛くないのか?」
おれは、そっとおれの右腕を引く。
カルディオスの手の中から腕を抜いて、おれは自分でそこを擦る。
世双珠を吐き出し切って、おれの皮膚は完全に再生していた。
カルディオスは怪訝そうだった。
全く事態を理解していないといった顔で、カルディオスは続いて、地面に散らばった世双珠を見て、それからおれを見た。
「……これ、どういうこと?」
「――――」
おれは黙っていた。
ただひたすらに、今のカルディオスの荷物の中に刃物が入っていないことを願っていた。
カルディオスは更に数秒、無言でおれを眺めたあと、ぶっきらぼうに尋ねた。
「――これ、この……世双珠っぽく見えるんだけど。とにかくこれ、こっちにもおまえの感覚はあんの?」
何を訊かれたのかを殆ど理解しないまま、おれは首を振った。
なんとなく、関係を否定しているような気分だった。
――これと、これは、無関係。
世双珠と、おれは、無関係。
親から関係を否定された世双珠が煌めく。
カルディオスはそれを見て、「うん、世双珠だな、これ」と、何かを認めるように呟くと、さっさとその世双珠を用水路に叩き落としていった。
――おれは目を疑った。
世双珠は、世双珠には、価値があるはずだ。
それなのに。
ころころと転がる世双珠を悉く、何かを掃除するかのように用水路に叩き落とし、ぼしゃんぼしゃん、と連続して上がった水音を聞き終えてから、カルディオスはおれの腕をまた掴んで、引っ張った。
今度は、立ち上がれと促しているようだった。
おれがよろめきながら立ち上がると、カルディオスはおれの周りをくるくると回って、ぱたぱたとおれの衣服から埃を払った。
なんとなく、あのときの――カルディオスの外套が駄目になったあのとき、おれがカルディオスの髪を払った仕草に似ているように思われた。
それからカルディオスは、最後にもう一度、気味悪そうに血の海の方を見遣った。
それだけだった。
それ切り、カルディオスは男への興味を失ったように見えた。
そして、またおれの腕を掴んで歩き出す。
「行こ」
おれは茫然としたまま、促されるままに足を踏み出した。
地面の感触を、妙に遠く覚えた。
――どうした、どういうことだ。
どうして何も訊いてこない、確かめようとしない。
緊張に胸が震える。
いつカルディオスがこっちを振り返って刃物を振り翳すのか、おれは全身を張り詰めさせて怯えている。
しばらく歩いたところで、カルディオスが口を開いた。
「――さっきのあれ、おまえがやったの?」
「…………」
おれは口を開けない。
瞬きもせずにカルディオスの横顔を眺めている。緊張に額が熱くなる。
おれからの返答は期待していなかったのか、カルディオスはあっさりと言葉を続けた。
「多分おまえだろうけど、すごいね。
――見た? あいつ、最後すっげぇ面白い顔になってた。鼻なんか潰れてさ。いい気味だ」
顔を顰めてそう言って、カルディオスは吐き捨てる。
「――悪人には結構似合いだと思う」
「…………」
おれはなおも何も言えない。
カルディオスもそれ以降は何も言わず、無言でおれを宿に連れて帰り、白濁しつつある双眸でおれたちを出迎える宿の主人に会釈し、狭い階段を昇って部屋の前までおれを連れて来た。
ここまでで、もしもおれが人間であったならば緊張の余りに嘔吐していただろうが、一向にカルディオスがおれに向かって刃物を取り出す様子はなかった。
あるいは手許になかったのかも知れない。
カルディオスはそうして、おれを部屋に入れながらも、声音はいつもと同じようなもので、おれに向かって言っていた。
「晩メシ、出来たら呼びに来るから。ほんとにもう怪我治ってんだよな? 痛いならそう言えよ。とにかくゆっくりしてて」
おれはカルディオスの顔を見られず、頷くことも出来ず、まさしく物があるべき場所に収納されるかのように、部屋の中に入れられて、取り残された。
がちゃり、と扉が閉められる。
その数秒後、「びっ――くりしたぁっ!!」と叫ぶカルディオスの声が聞こえてきた。
今まで堪えに堪えてきたものを吐き出すかのような、そんな叫び声だった。
今までと全く変わらない、何ならあのとき、嵐をおれが止めたときと、同じような声だった。
廊下をカルディオスが遠ざかっていく足音、階段を下りていく音。
「――――」
おれは息を吸い込んだ。
ようやく目を上げて、もはやすっかり見慣れてしまった、おれに宛がわれた部屋の中を、ゆっくりと歩き回る。
足許で床板が軋む。
そして、確かめるように呟いた。
「……カルディオスは、サイジュをしない」
がたがた、と、窓が風に揺れる。
どうだろう、と、それに応じる声がする。
おれは瞬間、それがムンドゥスの声ではないかと思ったが、違った。
何のことはない、それはおれの内心の声だ。
「確かに、今からカルディオスは包丁を持って、こっちに向かって来るかも知れない」
そうだ、と声がする。
おれの声だ。
耳で聞くものではない声だ。
「でも、別に大丈夫だ。
おれがちゃんと、いつも、カルディオスを見ていればいい」
見ていてどうするのだ、と声がする。
自問自答だ。
おれは混乱している。
「カルディオスを見ていて、カルディオスがサイジュをしようとしたら、あんな風にすればいい」
あんな風に――そう、あのとき、おれを金の生る木だと言った連中のように。
今日の、あの男のように。
「そうすれば安全だ」
カルディオスは師匠とやらに、おれの正体を言うかも知れないぞ。
おれが金の生る木だと教えてしまうかも知れない。
「無理だ。カルディオスは字が書けない。手紙に書けない」
これからリーティとやらに行くなら、そのときに言ってしまうかも知れない。
「見ておけばいい。誰かに言ってしまう前に、存在をやめさせればいい。
万が一、カルディオスの師匠――だっけ、そいつにも伝わったら、そいつも同じようにすればいい」
出来るのか。
「やってみよう」
足を止める。
目蓋を下ろす。
おれの意図を汲んで、世双珠が雑多な色合いを重ねた視界をその向こうに送り付けてくる。
見えるのはあの男――先刻、おれに向かって刃物を投げ付けてきた男だ。
よろめき、転びながら走っている。
顔は相変わらずびしょ濡れになっていて、涙と鼻水で醜いこと極まりない。
どこを走っているのかは分からない。
人間以外は全て、輪郭を取らない色彩にしか見えないから。
だが、居ることは居る。
そこに存在している。
――おれは指を鳴らした。
ぱちん、と、妙に明瞭な音が部屋に響く。
途端、視界に映るあの男の姿が四散する。
文字通り、破裂した。
ただの血肉となったものは、もはや人間とはいえないから、おれの視界から失せていく。
おれは目蓋を持ち上げる。
心は一切動かなかった。
安堵もなく、悲哀もない。
「出来る。大丈夫だ」
意識してみれば、カルディオスの姿も見えた。
カルディオスはどこかで――いや、この宿の厨房だろう、考えるまでもなく――立ち働きながら、時折動きを止めて頭を振り、それからまた動きを再開する、ということを繰り返している。
何かを呟いているようでもあったが、声が小さいのか、はたまた意味もないことを口走っているだけなのか、その声の意味は一向に見えてこない。
カルディオスが包丁を手に、ここに向かって来る様子は、今のところは、ない。
おれは寝台に腰を下ろして、膝に肘を突いて、頭を押さえた。
頭が割れるように痛んでいた。
もはやその原因すら、おれには分からなかったが、
「――たくさんのことを、かんがえすぎているの、かわいそうなヘリアンサス」
また、あの声が聞こえた。
今度は耳で聞こえている。
おれの姉の、不明瞭な声だ。
どこから響いてくるのかすらも曖昧な、あの声。
「だからいったのに。カルディオスとは、違うのよ」
おれは歯を食いしばる。
ぎり、と奥の方で音が鳴る。
「――どこかに行ってくれ」
それきり、声はしなくなる。
――しばらくしてから、カルディオスが実際におれを呼びに来た。
「メシ出来たよ」と軽やかにおれを呼び、食堂までおれを先導する。
おれは、刃物がふんだんに揃っているだろう厨房の方から目を離すことが出来ないが、カルディオスはごく普通の態度でおれの差し向かいに腰掛けて、おれに野菜のスープと、焼いた腸詰を勧める。
味が分からないが、おれはそれを食べる。
食べながらも絶えず、カルディオスの一挙一動に目を配っている。
おれの目を、あるいは世双珠を通した目を。
カルディオスはそれには気付かない様子で、食事の途中で唐突に笑い出し、言った。
「――やべーよね、俺ら。ついさっきあんなことがあったのに、普通にメシ食ってる。
警吏とか来るかな、いや、誰にも見られてなかったし大丈夫か。人死にくらい、よくある話だろうしな」
おれは応じられない。
カルディオスは、おれが一向に返答を投げないことに寂しそうな顔をしたあとで、妙にしみじみと呟いた。
「事情は分かんないけど、おまえの涙は宝石だったわけだ。
――苦労するな、ほんと」
おれは瞬きして、息を吸う。
――おれの耳は、嘘を受け付けない。
声の奥、言葉の裏の真意を読み取るのがおれの耳目だ。
そして、このカルディオスの声に、言葉に、嘘はなかった。
――それは分かったのに。
それでもおれが、自分自身で重々分かっていたはずのその事実、カルディオスが嘘を口にしていないという事実にすら疑念を差し挟んだ理由は、記憶だ。
切り刻まれ閉じ込められてきた、そのおれの歴史のゆえだ。
――苦痛の記憶も冷たい穴ぐらの記憶も、おれの目を塞ぐには十分に重く、暗いものだった。




