21◇ ――割れた鏡面
雲上船が飛んでいる間、おれは殆どずっと窓の外を眺めていた。
カルディオスが途中で席を替わってくれて、おれは思う存分窓に張り付くことが出来るようになったが、食事が出たときですらおれが眼下を見詰めているに至って、とうとうカルディオスが苦言を呈した。
「――あのさぁ、アンス。見晴らしが気に入ったのはよく分かるけど」
と、カルディオスは不貞腐れたように言った。
「メシ食うときくらい目を逸らせよ。ってか、偶には俺と喋れよ。友達と雲上船乗るのなんて初めてなのに、これじゃ俺、ずっと退屈じゃん」
おれは瞬きして、カルディオスに目を向けた。
カルディオスは顔を顰めていた。
――退屈とは、何もすることがないということ。
もうずっと前にルシアナが教えてくれたそれを思い出して、おれは微笑んだ。
こんなに沢山の見るものがある世界において退屈とは、カルディオスはなかなか贅沢なことを言う。
けれども、退屈というなら大変だ。
退屈は恐ろしい。
なのでおれは、頷いた。
「分かった」
おれのその返答を聞いてカルディオスは嬉しそうに笑ったが、それからも強いておれに話し掛けることはなかった。
恐らくおれに気を遣ってくれたのだとは思うが、おれはそのことに気付かなかった。
ただただ、今までおれが奪われてきたものの大きさを思っていた。
夜になると、カルディオスは周囲を警戒しつつも、おれの陰に隠れるようにしてうたた寝していた。
少しの物音にも飛び起きていたので、安心して眠ってはいなかったのだと思う。
そうして三日が経った頃、雲上船は降下を始めた。
下降の際には、カルディオスだけではなく他の乗客も、少々気持ち悪そうにしていた。
なんでも、腹の中が浮くような、そういう不快な感じがあったらしい。
おれが何ら気持ち悪そうにせず、揺れる船の中でさえじっと窓の外を眺めて、町が近付いて来る様子を見守っていたからか、カルディオスは若干呆れた風でさえあった。
「おまえは、あれかな。頑丈ってよりも、鈍いのかな」
けれども、カルディオスが暢気にしていたのも雲上船から下船するまでだった。
雲上船は、乗り込んだ場所と同じような発着所に着陸し、着陸してからややあって、再び入口の蓋が開かれた。
そこに梯子が掛けられて、乗客に下船が促される。
下船と同時に、緑色の紙――搭乗許可証といったか――が回収される。
下船してみると、時刻はちょうど夕方頃だった。
西日が、人間や雲上船、建物の影を長く引っ張って地面に縫い留めていて、空気が僅かに蒸し暑い。
橙色を帯びた夕陽の光に、宙を漂う埃が白く照らされて見えていた。
上空から見ていて把握したところによれば、この雲上船の発着所は、広大な町の、中心からやや外れた場所にあった。
下船した乗客たちはしばらく、思い思いに伸びをしたりして、強張った身体を解しているようだった。
カルディオスも同様だった。
おれもそれを真似ようとしたが、特段の意味を感じない動作だったので、虚しくなってやめておいた。
それから、カルディオスがおれを引っ張って、他の乗客も同じく動いていたが、歩き出し始めた。
目指しているのは、発着所から一番近い位置にある背の低い建物で、おれは、なるほど搭乗のときとは逆の手続きを取るのだな、と理解した。
そしてその建物を入り、(カルディオスは待合室と呼んだが)背凭れのない長椅子の並んだ広間を抜けた先のもう一つの広間で、カルディオスは見事な絶句を披露した。
カルディオスがあんまりにも驚いた顔をしたからか、カウンターの向こうの、中年くらいの四角い顔の男は決まり悪そうだった。
カルディオスはこの広間でおれと一緒に列に並び、順番がきたところでこの男の前に進み出て、「次のリーティ行きの雲上船はいつですか」と尋ねたわけだが、返ってきた答えが、「えーと、一月後かな」というものだったので、素直な絶句を披露してくれたわけである。
おれはカルディオスの顔を見てからカウンターの向こうの男を見て、そういえば歳を取っていった人間は最終的にはどうなるのかな、と、興味にも至らない思考を働かせていた。
カルディオスはぱちぱちと瞬きをしたあと、確かめるように繰り返した。
「……一月? 一箇月? なんで? リーティですよ? もっといっぱい便が出てるでしょう、普段」
男は決まり悪そうに、こちらからは見えないようになっている、自分の手許をちらっと見て、それから幅の広い頬を掻いた。
「いえ、一箇月後ですね。正確には半月後に一便出るんだけど、」
「えっ」
「そちらは予約でいっぱいで」
カルディオスはぱくぱくと口を開け閉めしたあと、おれを見た。
そして、おれがこの状況を解決する何らの手助けも出来ないと、当然の結論に当然に到達したらしく、息を吐くと、言った。
「あの、じゃあ、リーティの近くでも。それかパルドーラ領のどこかとか」
「いや、今はレンリティス方面の便を絞っていて」
男は言った。
「リーティ以外には、基本、船は出していないですね」
「なんで?」
カルディオスは素っ頓狂な声を上げ、四角い顔の男は肩を竦めて両手を軽く広げてみせた。
「さあ。こちらに訊かれましても。
私たちはお上の言う通りに雲上船を運行しているだけですからね」
お上、と言いつつ、男は右手の人差し指で天井を示した。
おれは瞬間、上の方に実際に誰かがいるのかと思ったが、勿論のことそんなことはない。世双珠を通して分かっている。
天井を示したまま、男は真顔で言った。
「雲上船の運行は、この国では、皇太子殿下の直轄事業ですからね」
カルディオスは何も言わなかったが、表情がありありと、「なんでレンリティス行きの船の数が絞られなきゃならないんだ」と言っていた。
おれは瞬きした。
その拍子に、おれの耳目、世界中に散らばる世双珠から、ぱっと光が閃くようにして情報が運ばれてきた。
――条約さえ締結できれば、こちらの陣営には大魔術師が三人、女王も濫りに手を出しますまい――そもそもどこから条約の話が漏れたのだ、今後は罷りならん、隠し通せ――締結までは人流も絞れ、あちらにも利のある条約だ、諂わずとも乗るだろう、女王に対して国交を隠すことを優先しろ――商流が――あちらから人を入れるのは良い、こちらから出すな――
どこで上がった声なのか、はたまたいつ上がった声なのかも分からなかったが、声の主の一人は分かった。
あの皇太子だ。
この国の、銀髪の皇太子だ。
けれども、声が見えたからといって意味まですぐに呑み込めたわけではない。
おれは内心で首を傾げつつ、カルディオスが食い下がるのを見ていた。
「他の町からなら、もうちょっと早く出ますか」
「出ないよ。レンリティス行きの便がそもそも絞られてますからね」
カルディオスはそわそわと踵を揺らす。
カウンターの隅を掴む手が不安そうだった。
「じゃあ、あの、ほんとに一番早いので一箇月後?」
男は苛立った様子で頭を振り、カルディオスの肩越しに、その後ろをじっと見詰めた。
おれには振り返らなくとも分かるが、後ろの行列はなかなかの長さになっていた。
「最初からそう言ってたと思いますけどね、僕」
カルディオスは途方に暮れたような、不貞腐れたような顔をする。
「雲上船に乗るときは、そんなの言われなかった」
「そりゃあ」
男は呆れた風を見せる。
「ヴァフェルから来たんでしょ? きみら。この時間だもんね、さっき到着したのはヴァフェル発の便だ。
カロックがレンリティス行きの便を絞ってることを、なんだってヴァフェル側が知ってると思うの」
カルディオスは口籠った。
男は苛立った溜息を零すと、「で」とカウンターを指先でこつりと叩く。
「一箇月後の便、予約するの、しないの? 席数に限りがありますからね、予約しないのなら搭乗の保証はしませんが」
カルディオスはむっと顔を顰めたあと、おれを見て、肩を竦め、言った。
「予約します」
「了解。二人ね――身元の分かるものは?」
カルディオスがごそごそと荷物を探って、例の手形を差し出した。
カウンターの向こうの男は驚いた様子で手形を三回くらい見直したあと、頭を振りながら、手許で何かの作業をした。
ちらりとおれの方に視線を向けてきたが、同時におれたちの背後に伸びる行列も見て、僅かの逡巡ののちに、おれのことはカルディオスの連れであるという一点で見逃すことにしたようだった。
間もなくして、おれたちの前には赤くて分厚い紙に何かが書かれたものが差し出され、対価としてカルディオスが相当の数の銀貨を男の方へ押し遣った。
カルディオスは更に、雲上船がいつ出るのか、その正確な日時を訊くことに余念がなかった。
男は「その許可証に書いてあるでしょう」と苛立った様子を見せたが、カルディオスがぐっと言葉に詰まったあとに小さく、「俺は字が読めない」と言うや、何やら自分を恥じるような顔をして、雲上船が出発する日取りについて、丁寧にカルディオスに教えていた。
カルディオスは頷きながらそれを聞き、礼を言ったが、最後に投げられたカウンターの向こうからの言葉には驚愕の表情を晒した。
「――あと、町の外に出てしまいますと、その許可証が無効になるので」
「はい?」
「町の外で、別の誰かにその許可証を譲渡されますと、こちらとしても困りますので」
男の口振りから、「町の中には怪しい人間はいない」こと、「市門を潜るにはそれなりの身分証、あるいはそれを代替するものを求めていること」を、おれは聞き取った。
そして同時に、町中に散らばる世双珠から、その言葉が嘘であることも知らされていた。
また、そういった――この町の中にいる――怪しい人間は、謂わばここに土着して生活しているのであって、他所へ行っても生きていく術などなく、また雲上船に欺罔によって乗り込む誰かしらの援助をすることも、特に大きな利益を生むことはないという事情で、ここの、例えば目の前の男の、警戒の目が向けられていないのだ、ということまでを、頭の中に糸が浮かぶようにして悟っていた。
カルディオスはしばし絶句していたが、カウンターの向こうで男が咳払いすると、慌てたように会釈して、カウンターの前を離れた。
おれはいつものようにそれに従って動いたが、カルディオスがしゅんとしているので心配になってきた。
「――カルディオス?」
呼び掛けると、カルディオスは顔を上げておれを見て、なんだか悔しそうな顔をする。
「アンス、ここで一箇月足止めだよ」
「一箇月」
「これから、月の形が今日と大体同じになる日までってこと。――おまえの人捜し、更にここで足止め」
「別にそれは」
おれが言い差すと、カルディオスは苦笑する。
そして、ちょうど擦れ違った人間が、わざわざ振り返ってまで自分を見たことに気付くと、顔を強張らせて衣服の襟元を摺り上げ、顔の下半分を隠した。
そして、そのためにくぐもった声で続けた。
「――そう言ってくれると思った。けどな、更に何が問題かと言うとな」
「うん」
「その間ずっとこの町の中にいなきゃいけない。――マジかな、市門くぐるときに、『許可証なんて持ってません』って白を切れば何とかなったりしねーかな」
カルディオスはそう言ったが、そのときおれのものではないおれの目の一つが、おれたちが立ち去ったあとのカウンターの向こうの男の挙動を捉えた。
雑多な色を重ねたような視界の中、挙動すらも正確に受け取ることは難しかったが、その挙動の意味は分かった。
――書き付けている。
おれとカルディオスの容姿の特徴を何かに書いて、振り返ってその紙を――見えないが恐らく紙だろう――後ろにいた誰かを呼び付けて渡している。
そして、これを門衛に、と告げる。
――なるほど。
こうして入手した人間と同じ特徴の者が市門を潜らないか、門衛は目を光らせるというわけだ。
それが分かったので、おれは呟いた。
「……たぶん、ばれるとは思うけど、」
「バレるとは思うのか」
「うん。でも、おまえが外に出たいなら、なんとかなると思う」
おれがそう言うと、カルディオスは真面目な顔でおれをしばらく眺めた。
多分、ヴァフェルで雲上船に乗ったときのことを思い出しているのだ、とおれは思い、少し落ち着かない気分になった。
――カルディオスは、おれの振る舞いから、おれが人間ではないことを察するだろうか。
おれが無言でカルディオスを見詰め返すこと数秒で、カルディオスはおれから視線を逸らした。
そして、言った。
「いや、いい。アンスが、別に町中も嫌じゃなきゃ、それで。
――宿探そーぜ。そろそろ日暮れだ」
カルディオスがそう言ったので、おれは頷く。
おれたちは雲上船の発着所の、その建物を出る。
町はざわめいていて、夕陽に照らされて騒がしく、どこかで鳥が鳴いている。
建物は一律の高さではなくて、背が高いものも低いものもあった。
道幅は広く、そこを忙しなく馬車が行き来している。
馬の微かな嘶きからですら、おれの特異な耳は、敷石を嫌がる馬の声を聞き取ってしまう。
建物の窓硝子が夕陽を弾いて、温かみのある白色に煌めいていた。
カルディオスはその反射光に眩しそうに目を細めて、「宿はどっちかな」と呟く。
おれにはそれも把握が可能ではあったが、それを言い出してカルディオスに怪訝な目で見られるのは嫌だった。
カルディオスはおれを連れて歩き出し、当てずっぽうに方向を決めて進み始めた。
途中で、商店が軒を連ねる区画まで来て、カルディオスは人の多さに肩を窄めた。
沢山の人間と肩がぶつかる。
カルディオスは荷物が人波に持って行かれないように、ぎゅっと荷物を身体の前で抱えるようにした。
青果店の方から怒鳴り声がする――ふざけるな、高すぎる、十日前までは銅貨一枚だったじゃないか、何を考えてこの十日で値が三倍になるのだ。
癇癪を起こしたその声に応じる、青果店の主だろう男の声も聞こえる――仕方なかろう、卸値が上がっている……
おれは瞬きをする。
どこかからか、おれの耳目が情報を拾い上げておれの目蓋の裏にそれを見せる。
――ヴェルローがうちに手を出そうとしているらしいぞ――まさか、確かなのか――真偽は知らんが財は溜め込むが良しだろうに――どのみち戦になれば、金を出すことも求められように――ヴェルローと喧嘩か、負け戦だな、沈む船からは逃げるのが知恵だ――何を、こちらには皇太子がいる――
おれは眉を寄せ、瞬きし、首を振る。
意味の分からない、興味の湧かない情報は不愉快だ。
カルディオスがおれの挙動に気付いて、人混みの中で振り返る。
「大丈夫か」
「うん」
「方向間違えたかも」
そう言うカルディオスが不安そうに見えたので、おれはとうとう手を持ち上げた。
その手首で、しゃらん、と空の色の宝石が鳴る。
そして一方向を指差して、おれは言ってみる。
「あっちの方なら、人も少なそう」
そっか、と屈託なく頷いて、カルディオスはそちらへ足を進める。
結果として人混みは、密度こそ下がれども途絶えることはなかったが、そちらに横たわる大規模な用水路の畔で、カルディオスはちょうど空室のある宿を発見することに成功する。
「おまえの勘、アテになるじゃん」
カルディオスが感心したようにそう言ってくれるので、おれは微笑んで、俯く。
◇◇◇
宿は手狭な石造りの三階建てで、決して高級な部類ではなかっただろうが、カルディオスは気に入った様子だった。
その理由は明らかで、帳場に座っていた宿の主が、もはや目も見えていないのではないかと思えるような老人で、白濁しつつある目をしばしばと瞬きながらおれたちに応対し、カルディオスの顔を見て脂下がった顔をするとかどうとかいう以前の問題で、そもそも正常にカルディオスの姿形を把握出来ていなかったからだった。
宿の一階は食堂になっているようだったが無人で、中には埃が積もっており、宿の主の老人は、「すまんねえ」と、何らの呵責も覚えていない様子で言った。
「うちのがいなくなってから、厨房まで手が回らんくなってねえ」
「はあ」
「そこの用水路、そこに落っこちて、もう三年前かな。そのくらいに亡うなったんじゃけれども」
「そうなんですか」
「一月泊まるの? 長いねえ、厨房、好きに使ってくれて構わんよ」
「えっと、……はい」
カルディオスは困惑した様子で受け答えし、念を押すように尋ねた。
「あの、俺らの他にお客さんって」
「おらんよ」
老人は応じて、カルディオスは嬉しそうにしつつも、「大丈夫なのかな、この宿」と呟くことはしていた。
おれたちに宛がわれたのは三階の部屋で、それぞれ一室ずつの鍵を受け取った。
おれは、カルディオスと行動を共にしてからこちら、長時間に亘ってカルディオスと壁を隔てたところに追い遣られた例がなかった。
一時的に離れることはあっても、大抵がすぐに隣に戻っていたのだ。
ゆえに鍵を渡されたときにはきょとんとしてしまったが、カルディオスは本気で訝しそうに、「宿の部屋には余裕がある、俺に預けられてる金にはまだ余裕がある、部屋は一人用だ。で、なんで俺とおまえが一緒の部屋で寝起きすんの?」と問い詰めてきた。
おれは首を傾げて、そういうものかと納得する。
けれども、いざ部屋の前まで来たときには心配になって、「おまえ、大丈夫?」と尋ねていた。
カルディオスはぽかんとしたあとに笑い出し、「逆だよ」と。
「俺は一人の方が安心して寝られるの。他人がいると寝られなくなるんだけど、アンスだけは例外ってだけ。一人で寂しくて寝れねーなんてことはないよ」
おれは瞬きして、「そうか」と頷く。
カルディオスはしばらくけらけら笑ったあとに、「ああ、でも」と言い差して、おれを手招きした。
おれが首を傾げて寄って行くと、カルディオスはどん、と荷物を一旦床に下ろして、
「腹が減って寝られなくなるってのはあるかも知んない。ほら、もう日暮れだし、これからメシ買い込みに行くのも怠いだろ。――ってわけで、はい」
カルディオスはおれに、いつも食べているような、堅パンと干し肉を差し出して微笑む。
「これ食べて、今夜は凌いで。で、明日の朝、何か食いに行こう」
おれはカルディオスの手許に視線を落とし、それから手を伸ばして、差し出されたものを受け取る。
カルディオスは頷いて、荷物を担ぎ直し、ひらりとおれに手を振る。
おれも頷いて、踵を返し、自分に割り当てられた部屋に入る。
部屋は手狭で、埃っぽく、既に薄暗かった。
夕陽の明かりは届かない角度に縦長の形の窓があって、おれは真っ先に部屋を横断してその窓に近付き、がたつくその窓を開け放つ。
ひゅう、と音を立てて、夏の匂いの残る風が部屋に吹き込み、埃を舞い上げていった。
壁が薄いのか、隣の部屋でカルディオスがくしゃみをする音が聞こえてきた。
おれは外気を胸いっぱいに吸い込んでから、窓に背を向ける形で部屋の中を振り返る。
手狭な部屋に置かれた調度品は三つ。
枕元に灯器を備えた小さな寝台と、小さな円卓と、それから華奢で質素な鏡台だった。
鏡台の鏡は罅割れていて、鏡の左上の方から蜘蛛の巣が走るように、罅が走って鏡に映る光景を歪めている。
――それを見て、ふと、おれはおれの姉を思い出した。
ムンドゥス。
まさにこんな、鏡のような銀色の瞳をしていて、そして全身に罅が走っていた。
思い付いて、鏡台の前まで歩を進める。
途中で、円卓の上にカルディオスから受け取ったものを置く。
絨毯も敷かれていない、剥き出しの板木張りの床が軋む。
鏡台の前には、本来ならば鏡台と対になるのだろう背凭れのない丸椅子が置かれていたが、座面がばきりと割れていたので、腰掛けることはやめておく。
少し屈んで、鏡を覗き込む。
罅割れに歪みながらも、おれの姿が映った。
万人の目に映るだろう、見せ掛けの姿、真似事の姿が。
真っ白な髪に、カルディオスのものよりも白い肌、黄金の目。
改めて自分の姿をまじまじと見ると、作り物だという張り紙が全身に貼り付けられているような気分になる。
耐えかねて、目を強く閉じる。
――ムンドゥスの方が、全身を罅割れに覆われていたあの姉の方が、まだ人間らしかった。
そう思うと同時に、声がする。
密やかな、親しげな、熱に浮かされたような。
「――よんだ?」
目を開ける。
鏡越しに、寝台の傍の壁際に、ムンドゥスが忽然と姿を現しているのが見えた。
罅割れは、以前に見たときよりもいっそう酷い。
全身を隈なく覆って砕き、今や瞳さえもが罅割れの下にあった。
ムンドゥスがこちらに手を伸ばしたのを、おれはやっぱり鏡越しに見ていた。
そして目を閉じて、断固として呟く。
「呼んでない。どこかに行ってくれ」
そして目を開ける。
音もなく無言で、おれの姉は姿を消していた。
おれはほっと息を吐き、そしてそのとき、聞き慣れた声を耳が捉える。
「――アンス!」
カルディオスの声だ。
おれは声が聞こえる方、窓の方に戻って、窓から身を乗り出してみる。
同じようにして、カルディオスがこっちを見ていた。
「訊き忘れてたわ。明日のメシ、何がいい?」
カルディオスがそう尋ねるので、おれは首を傾げる。
そして、尋ねた。
「明日、一緒に行くんじゃ、ない?」
カルディオスはぱちくりと目を瞬かせ、それから笑い出す。
あんまりにも屈託なく笑うものだから、おれもほっとする。
おれの身体に貼られている、作り物だという形而上の張り紙の存在を、しばし忘れる。
「――あー、まあ、そーだな」
カルディオスは決まり悪そうにそう言って、首の後ろを掻く。
「あれだわ、もしかしたら俺、おまえと四六時中一緒にいるのに、思ったより慣れちゃってたのかも知れない」
「それは」
おれは瞬きして、頷く。
「それは、おれもだと思う」
何しろおれは、ルシアナともルドベキアとも、これほど長い間一緒にいたことはない。
風が吹く。
おれは目を細める。
用水路の上を渡る風は、微かな水の匂いを含んでいる。
カルディオスがふと思い付いたように、長い指で眼下の風景を指差し、歌うようにおれに教える。
――あれは街路樹、あれは煙突、あれは花壇、あの屋根で寝ているのは猫。
猫はもう知ってる、とおれが口を挟むと、カルディオスは笑い出し、また更に沢山のものを指差しておれに教える。
――あれは煉瓦、あれは屋上庭園、あれは教会の薔薇窓、その上に見えるのが鐘楼、あれは街灯、もうすぐ点灯夫が来るぞ。
おれは全部に頷く。
全部が全部、既におれは知っているものだったが、カルディオスが改めて名前をつけることで、おれにとっての意味が生まれる。美しさが生まれる。色がつく。
日が暮れるまでそうやってあれこれ指差してくれてから、カルディオスはおれに手を振って、窓の奥へ引っ込んでいった。
「明日の朝、俺より早く起きたらノックして。俺の方が早く起きてたらノックするから」
「分かった」
おれは頷いたものの、ばたんと窓を閉めたカルディオスとは違って、おれはそのまま窓を開けて、窓枠に腰掛けて、身体を捻って眼下の光景を見詰め続ける。
あれは街灯、あれは煙突。
唱えながら眼下の光景を眺める。
そのうちに、長い棒を担いだ男が道を歩いているのが見えて、その男が街灯の下で立ち止まり、棒の先端で街灯の先をつつくのが見えた。
いや、つついたように見えて、違う。
街灯の先、カンテラのようになっている部分に、〈明るさ〉の法の変更を掌る世双珠を入れたのだ。
世双珠が輝き、忍び寄る夕闇を払う。
昼日中は別の場所で使われている世双珠なのだろう――そうだと分かる。
世双珠が溜め込んでいる情報を、おれは自由に覗くことが出来る。
街灯と、家々の軒先と、窓。
それらの明かりが夜陰を照らして、夜に対して明るさを保つ牙城を示すようだった。
和気藹々として平穏で、そういう明るさは好きだと思った。
そしてふと、おれがずっと閉じ込められていた穴ぐら、あの暗さを、夜というにも余りにも冷たく残酷だったあの暗がりを、それでも辛うじて夜であったというならば、おれにとっての夜のいちばん明るいところはルドベキアなのだ、と思った。
おれは窓を開け放したまま、窓枠から下りて寝台まで短い距離を歩いた。
灯器はおれの意図を汲んで、ぼんやりと闇を散らす明かりを点した。
寝台に仰向けに寝転ぶ。
途端、埃が舞い上がって息が詰まる。
それがどうも面白くて、おれは目を閉じ、声を低めて笑う。
目を開けると、低い位置の梁と天井が見えた。
そして、声が、
「ルドベキアなら、いまは、」
「うるさい」
おれは覚えず、声を荒らげてそれを黙らせた。
どうしてなのか分からなかった。
おれの姉、世界そのものであれば、ルドベキアの居場所程度なら簡単に分かるだろうに、おれはそれを黙らせていた。
――いつの間にかまたそこに立っていたムンドゥスは、罅割れに覆われ傷付き切った、銀の双眸でおれを見ている。
「カルディオスと捜してるんだ。あいつを捜してるんだ。おれは、今、楽しいんだ」
おれはそう言った。
自分で、自分の心の中を整理しているようでさえあった。
「でも、ヘリアンサス」
ムンドゥスが囁く。
「わたしと、ヘリアンサスは、同じ。カルディオスと、ヘリアンサスは、違う」
おれは思わず、跳ねるように起き上がった。
そして覚えず、全く無意識に、右手をムンドゥスの声が聞こえる方向に振り被って、投擲した。
その瞬間、いやどうだろう、その数瞬前だろうか、おれの手の中には小さな石ころが握られていて、石はムンドゥスを逸れて部屋の壁に当たり、こんっ、と小さな音を響かせた。
――カルディオスの魔法だ。
見ているうちに、おれはそれも覚えてしまったようだ。
そう、なんとなく他人事のように考える。
ムンドゥスは、たった今石を投げ付けられたことなど感知しなかったように、相も変らぬ耽溺した眼差しでおれを見て、繰り返していた。
「わたしと、ヘリアンサスは、同じ。カルディオスと、ヘリアンサスは、違う」
「うるさい」
おれは呟いた。
声に力が入らなかった。
「分かってるんだ、そういうことは」
「かわいそうに」
ムンドゥスは囁いた。
その瞬間だけは、声に情といえる温度が通った。
「かわいそうに。手がとどかないものもあるのよ」




