19◇ ――天使の喇叭は聞こえない
カルディオス曰く、知識というのは高価なものであるらしい。
まずは字を習い覚え、その字を習い覚えるだけであっても、生まれの運が必要となるというのに――何しろ、カルディオスの言うところの、「そこそこの階級に生まれなきゃならない」という運を試される――、そこから知識を与えてくれる人に出会うか、あるいはそれなりの書籍を手にするだけの運を発揮しなければならない。
確率的にも金銭的にも高価なもの、それが知識だという。
――が、殊おれに限っていえば、そんなことはなかった。
ちゃんと意識してみれば、喩えるならばそう、おれの目の前に、常にぎっしりと本が詰められた本棚があって、望んだ知識が記されている本が勝手におれの手許に降りてきて、かつ、隣で誰かがその本の内容を解説してくれているかのようだった。
おれの耳目が世界中どこにでも転がっていて、その耳目は物事の本質を正確に捉えることが出来る。
疑問に思ったことがあれば、それについて話している人間を捜して、話す内容に耳を澄ませればいいだけ。
――これで、一向に知識が身に着かないのであれば、おれは自分を軽蔑していたところだ。
従前までのおれは、ただぼんやりしていただけだったから、何もかも分からないことだらけだったわけだ。
きちんと意識して、自分がどういうものかを弁えてみれば、これほど容易なことはなかった。
惜しむらくは、おれが興味を向けたことのみの知識が着いていくのみで、おれの思考の埒外にあることについては、一向におれは無知なままだった、ということだが。
おれは目の前に見える世界についての知識の吸収には貪欲だったが、一方で、例えば“生き物には寿命があること”だとか、“生きていくためには通常どこかで働かなければならないものなのだ”とか、そういう基本的なことは知らないままだった。
このときのおれは既に、人間全般を――ただ三人の例外を除いて――軽蔑し切っていたから、そういう人の営みからは意図的に目を背けていたということもある。
――そしておれは、目に付いた初見のものや、初めて耳にする単語などは、意味が分かってなお、隣にいるカルディオスに「あれはなに」と尋ねることをやめられなかった。
理由は本当に単純で、カルディオスが教えてくれたものの方が、おれの目に好ましく映るからという、ただそれだけのことだった。
だからおれは時々、既に知っていることをカルディオスに尋ねて、逆にカルディオスがそれを知らなくて首を捻るのを、新鮮な気持ちで眺めることになった。
例えばそれは、カルディオスがよく理解していない自然の法則のことであったり(地面に落ちた花びらがどうして消えていくのかと尋ねて困らせた)、遠く離れた場所に起因することであったりした。
そういうわけでおれは、自分の振る舞いはそれほど変わっていないと確信していたが、カルディオスにとっては違ったらしい。
カルディオスに突然、「おまえ、喋り方変わったな」と言われて、おれは動揺したものだった。
「――え?」
と問い返すと、カルディオスは何かを勘違いしたのか手を振って、「悪い意味じゃないよ」と。
「単純に、なんかこの頃――口が回るようになってるっつーか。あれかな、俺がずっと喋ってて、おまえも言葉を覚えたかな」
カルディオスは冗談めかしてそう言って、おれはちょっとだけ笑ったあとに、「そうだと思う」と同意した。
少なくともおれの口調が、ルドベキアが喋っていたような――どことなく角のあるような言葉遣いから、やや柔らかい言葉遣いに変わったのは、おれの隣で囀るように話し続けるカルディオスの、軽やかな語調の影響を多大に受けたものだったから。
◇◇◇
おれが、世界中に散らばるおれの耳目を辿って色々と声を集め、その声を頭の中で繋げていくに、ルドベキアはどうやら無理難題を、正確にいうならばこの世界から魔法を一掃する任を与えられて、おれのところから引き離されたらしかった。
なるほど人間の中には、あの子を――世界を――助けようとしているものもあるらしい。
とはいえ遅過ぎるし、自分たちの尻拭いをルドベキアにさせている時点で論外だ。
そもそもルドベキアはおれの番人で、おれの傍にいるべきだった。
第一、人間たちの中でも意見は固まり切っていなくて、ルドベキアの周囲には時折、それを嘆く声も聞こえた。
ルドベキアは自分に与えられた任の話になると、大抵顔を曇らせて、周囲からの苦言を買っているようだった。
おれはそれを可哀想に思う。
だが同時に、嬉しく思う。
世界中に散らばったおれの耳目を通して推してみるに、魔法は世双珠に――つまり、おれとおれの子供に――依存して発達している。
つまり魔法を殺すということは即ち、おれを破壊することを意味する。
それが可能か不可能かはさておいても、ルドベキアに与えられている任は、おれを抹消することを含み置くものだ。
ルドベキアがその任に対して後ろ向きであることに、おれは安堵し喜ぶ。
そしてやはり、ルドベキアの居場所の見当がつかなくて悩む。
身分制度についてもおれの興味の対象外だったから、おれは、ルドベキアに与えられている任に当たりをつけることは出来ても、ならばルドベキアが大国の王宮にいるはずだという、至極当然の回答に行き着くことが出来ていなかった。
カルディオスに少し尋ねてみれば、ルドベキアの居所は知れたはずだったが、おれは自分が遠く離れた場所のことを詳細に知っていることから、おれ自身が人間ではないものであることを、カルディオスに悟られることを恐れた。
ルドベキアがおれからの視線に気付くことは殆どなくて、一度だけ――ルドベキアと、そのときルドベキアと一緒にいた誰かが、二人しておれに気付いたことがあった。
ルドベキアと一緒にいた誰かが、おれの知らない妙な魔法を使う気配があったので、おれは慌てて視線を逸らし、それからしばらくはルドベキアの様子を覗くことをやめてしまった。
おれが視線を遣るとき、ルドベキアは憂鬱そうな顔をしていることが多いが、時折姿を消すこともある。
おれの耳目の及ばない――つまりは世双珠のない――どこかに行ってしまう。
それは朝方や夕方に多い出来事だったが、おれはおれの息子に、ささやかながら休息の時間があるのだろうと察して安堵する。
そういう休息から戻ってくるときのルドベキアの顔は明るいことが多いので、おれは複雑な気持ちながらもそれを許す。
――ルドベキアは、この世界の美しさを知らないのだ。
だから、おれに外に出るなと言ったのだ。
そうでなければならない。
ルドベキアがこの世界が素敵であることを知っていて、なおおれに外に出るなと言っただなんて、そんな惨いことがあっていいはずがない。
だからルドベキアが明るい顔をしているのは、きっと綺麗な世界に触れたからではなくて、何かもっとこう、おれからは度し難い理由があるはずだった。
おれはそう考えて、ルドベキアを見付けたらそのときには、ちゃんとカルディオスと会わせてやろうと算段する。
それでも段々と無意識下では怖くなって、おれがルドベキアの様子を窺う頻度は下がっていく。
代わりにカルディオスの、他愛もない話を沢山聞く。
カルディオスの声は美しく、言葉は綺麗にこの世界を彩ってくれる。
蒲公英の花が綿毛に変わって宙を泳ぐ様を、カルディオスはおれに説明する。
おれは綿毛が種子であるということ、種子を以て蒲公英が増えていくのだということを、もはや言われずとも理解している。
だがそれはそれとして、綿毛を付けた蒲公英を吹いて、綿毛を飛ばすカルディオスの姿は喜ばしい。
ふわふわと風に乗って綿毛が流れていく様は、おれの知識の上では単なる自然の摂理だったが、カルディオスの声で、言葉で、楽しげにその光景を説明されて、おれの中ではその風景に特別な色がつく。
その光景を美しく豊かなものであると記憶する。
黄金の日差しを纏って風の中を泳ぐ綿毛を、その数ですら数えられそうなほどはっきりと、今でもおれは覚えている。
◇◇◇
空気の温度が上がった。
それは不快をおれに齎すものではなかったが、カルディオスは露骨に顔を顰めることが多くなった。
朝方や夜中でさえ冷え込むことはなくなって、吹く風すらも暖かく――あるいは暑く――なった。
陽光はいっそう眩しくなり、気のせいでなければ夜さえも昼に侵食されて、その時間を圧迫されている。
夏だ、と言っている人間の声を、言葉を、おれの耳目が拾った。
とはいえ、それでおれは満足しなかったので、きちんとカルディオスにも尋ねた。
「――なんで、この頃、余計にあったかいの」
カルディオスは顔を顰めつつ。
「夏だからな」
カルディオスの蟀谷に汗が伝っていた。
陽光がその滴を照らしていた。
相も変わらず、必要最低限のほかは町を避けて歩くおれたちは、今は所々に細木の生えた草原を歩いていた。
草原には、うねりながら浅い小川が流れていて、川面は陽光に白くちらちらと光っていた。
おれはカルディオスの返答を聞いて少し考え、更に尋ねた。
「春はどこにいったの」
カルディオスは笑った。
「冬のあとにまたくるよ」
まるで、おまえの友達は無事だよ、というような口調だった。
訳もなくおれは安堵した。
春が未来永劫消滅してしまうことなどないと、そんなことは知っていたのに。
おれは息を吸い込んで、カルディオスに教わった夏を胸に満たす。
春に比べて、なんとなく、空気の匂いが濃い気がした。
おれの仕草を見て、カルディオスは呟いた。
「いちばん明るくて、日が長くて、暑い時季だよ。それが夏」
「夏」
繰り返してそう言って、おれは首を傾げた。
その首筋に、確かに勢いを増した日差しが突き刺さっていた。
「ちょっとずつ夏になったの?」
おれの言葉を聞いて、カルディオスは笑い出した。
そして、「そうだよ」と頷く。
「そうだよ、ちょっとずつ夏になったんだ。
――天使が喇叭でも吹いて教えてくれると思った?」
なんとなく、おれはその言い回しが気に入った。
「天使が喇叭を吹く」
「まあ、実際にはそんなのいねーけど」
醒めた口調でそう呟いて、しかしカルディオスはすぐに、ぱっと笑顔になった。
「でも、春がきたときは喇叭も聞こえそうな気がする」
「そうなの?」
「うん。冬って結構厳しいの。雪とか降るともうね。
で、雪が溶け始めて最初の花を見付けると、あ、春がきた――って、結構嬉しい」
カルディオスはそう言って、裏表のない笑顔をおれに向けた。
「次の春はさ、たぶん最初から一緒にいるから――また教えてやるよ」
おれは頷く。
そこにルドベキアもいるといいな、とぼんやりと思う。
「うん」
「訪春祭、一緒に回ったら楽しいと思う」
「訪春祭?」
「冬の終わりのお祭りのこと。師匠のいる――リーティのお祭りはめちゃくちゃ豪勢だよ。そのぶん人もいっぱい来るけどね」
おれは頷く。
訪春祭、と思い浮かべるだけで、世界中のおれの耳目から情報が集まりそうだった。
おれはそれを俯瞰して、検分して、確かにカルディオスがいれば楽しそうだ、と認める。
――実際には、おれがカルディオスと一緒に訪春祭を回ることはなかった。
冬さえも、カルディオスとこうして並んで迎えることはなかったし、春の訪れを二人で待つことなどあるわけもなく、だからといっていいものか、おれは未だに春の訪れを知らせる喇叭の音色など想像も出来ていない。
この後は、どうだろう――今のおれであっても分からない。
時間の流れとは即ち事象の流れのことだから、未来なんてものはまだ存在していない。
だからこそ、ルドベキアのあの魔法ですら、時間を前へ進めることは不可能だったのだ。
可能だったのは、時間を停めること、あるいは戻すこと。
存在しないものへの干渉は、不可能だ。
カルディオスは、「暑い!」と、全世界へ不平を表明するように叫んで、小川の方へ寄って行った。
そのまま頓着なく靴を脱いで、ズボンを捲り上げて、ばしゃばしゃと川の中に入って行く。
おれがきょとんとしていると、こちらを振り返って悪戯っぽく、
「川の中の方が涼しいよ」
と笑う。
そしておれを手招くので、おれはのこのこ川の方に近付いた。
そして、見事にカルディオスに水を掛けられた。
ばしゃあ、と目の前に飛沫が舞ったと思うと顔にも頭にも水が掛かって、おれは目を擦って唖然。
カルディオスは無遠慮に、だが心地よさすら感じさせる笑い声を上げて、「冷たいだろ」と。
「濡れた。冷たい」
おれが取り敢えず現状を訴えてみると、カルディオスはあっけらかんと、「暑いしすぐ乾くよ」と。
そして川底から石を浚って、身軽に岸に戻ってきた。
そして、「見てて」と得意げに言って、手にした平たい石を川面に向かって投げる。
ひゅ、と風を切った石が、見事に川面で三、四回跳ねて、ぼしゃん、と水に沈んだ。
「すごい」
素直に感嘆しておれがそう言うと、カルディオスはにやっとした。
「上手いだろ」
おれもカルディオスの真似をしようとしてみたが、如何せん上手くいかなかった。
あの、肌がぴりぴりと痛む感覚――魔法を使えば、恐らくおれは永久に川面で跳ね続ける石ですら作ることが可能だっただろうが、なんとなくそれは無粋な気がした。
カルディオスは何度か、「平たい石じゃなきゃだめ」とか、「こうやって構えて、回転させながら投げるの」だとかと、おれに助言のようなものを贈った。
それでも上手くいかないのを見て取ると、カルディオスは愉快そうに指を鳴らして、
「分かった、アンスおまえ、不器用なんだ」
と、あっけらかんと言い放つ。
嫌な気はしなかったので、おれは「そうかも知れない」と認めた。
カルディオスはそのあと、「暑いから休憩しよう」と言って、川の傍の木の根元に荷物を放り出し、自分は器用にその木の上に登っていった。
下の方の枝の根元に、幹に凭れ掛かるようにして座って、カルディオスは風を待ち詫びて目を細める。
梢の影になっている部分で、カルディオスは影に守られているように見えた。
木漏れ日がちらちらとカルディオスを照らして、まるでその場所そのものが、カルディオスをずっと待っていたかのようにも錯覚させる。
おれはカルディオスほど器用に木に登れないので、カルディオスが放り出した荷物の傍に腰を下ろして、木の幹に背中を預けた。
ざあっと梢を揺らす風が吹いて、おれは夏の匂いを覚える。
そして、ふと尋ねた。
「――カルディオス、この木、なに?」
「んー」
カルディオスは、知らないことを訊かれたとき独特の間を置いてから、知っている木の名前を全部並べるみたいにして、答えた。
「トネリコ、ポプラ、トチノキ、ブナのどれか」
おれは笑った。
「ほんと?」
「違うかもしんない」
ばつが悪そうにカルディオスはそう応じたが、おれはそういう、カルディオスの突拍子もないところも好んでいた。
カルディオスはそれからしばらく、「少なくともこれは、冬になったら葉っぱを落とす」だの、「実が生ってる」だのと言っていた。
それから不意に声を明るくして、「アンス」とおれの名前を呼ぶ。
「なに?」
カルディオスの方を見上げると、カルディオスは葉の繁る枝越しにおれを見下ろして、得意そうに笑っていた。
「いいものやる」
そう言って、カルディオスが右手でおれに何かを投げて寄越す。
おれは驚いて瞬きしたものの、落下してきたそれを片手で受け取った。
受け取ってみると、びっくりするほど冷たい。
掌から滑りそうになる。
僅かに白さのある透明の塊。
「なに、これ」
なんとなく察しつつもおれは尋ねて、カルディオスは、「いいから、口に入れてみ」と。
言われるがままにおれはそれを口に放り込んで、痛みすら感じさせる冷たさを味わった。
だがすぐに、それは溶けていく。
「それ、氷」
カルディオスが言った。
「水が冷たくなると固まるんだ。口に入れると楽しいだろ」
美味いだろ、ではなくて、楽しいだろ、とカルディオスは言った。
おれは半ば以上が溶けた氷をころりと口の中で転がしてから、頷いた。
「うん」
小さくなった氷を、がり、と噛み砕く。
砕けた氷が水に戻る。
燦々と降り注ぐ日差しに熱される空気と相反する、冷たい感触が口の中に残る。
この氷が魔法の産物であるということは分かったが、おれは特段それを不快には思わなかった。
カルディオスは特別だった。
おれはずっと長い間、このときの氷の感触を覚えていた。
夏になって、夕立が増えた。
夕方になって急に空が暗くなり、雷鳴すらも伴って大粒の雨が降り注ぐこともあれば、頭上のごく狭い範囲に雲が渦巻いて雨を降らせ、それを西日が照らすこともあった。
どちらにせよ、カルディオスはそういった雨が長くは続かないと知っていて、雨が降ると涼しくなると喜んだ。
近くの木の根元に避難して雨をやり過ごすこともあれば、柔らかい雨を全身に受けながら、はしゃいで走り回ることもあった。
はしゃいだ後にはおれの傍に戻って来て、「乾かして」と当然のように頼んでくることもあった。
カルディオスは――おれの姉であるムンドゥスも認めたところによれば――世界最大の魔力の器だ。
地上で並ぶものなき二つの極大の器の、その一つだ。
だが、魔法の遣い方を教わったのが最近だからか何なのか、あるいはその師匠とやらがいけなかったのか、魔法の遣い方は決して器用ではなかった。
無から有を生み出す破天荒な魔法を苦も無く扱うことが出来ていたが、細かい基礎的な魔法が下手だったりした。
それに対しておれは、どういう魔法であっても、少し意識を向けるだけで扱うことが出来たから、カルディオスはそれを察してからというもの、おれに頼み事をする回数を増やしていた。
おれはそれを快く受け入れていた。
――魔法は、ひとつ使う度に世界を傷付けていくものだが、それはおれの罪ではない。
夕立のあとには独特の香りがあって、おれはそれも好きだった。
地面から命そのものが立ち昇って薫るような、そんな匂いを吸いながら夕焼けを眺めていると、おれは幸福な気分になる。
そして同時に、あの暗くて冷たい穴ぐらのことを思い出してぞっとする。
あの穴ぐらと、この外の世界と――落差は残酷なまでに明瞭で、歴然としていて、恐怖すら覚えるほどだった。
夏の夜空には星もいっそう沢山煌めき、カルディオスは寝転んで夜空を指差し、星が示す方角をおれに教える。
春とは見える夜空が微妙に違うことにおれが驚けば、カルディオスは得意そうな顔をする。
だからおれは、おれがもう既に知っている沢山のことを、知らないものとして振る舞う。
それに、何事もカルディオスから教わる前と教わったあとでは別物のように目に映った。
カルディオスからおれが貰ったものは堆く積み上がっていて、おれはそれを愛おしみ、何度も何度も思い返す。
ルドベキアにも話してやろうと思って、何度も何度も振り返り、なぞり、復唱する。
ルドベキアはおれの傍にいるべきおれの番人だが、カルディオスは違う。
カルディオスはどちらかといえば風みたいで、伸びやかに自由でいてほしい人間だった。
そのためにおれは、おれが人捜しを終えて――ルドベキアを見付けたあと、カルディオスがどう振る舞うのかを心配する。
一緒にいてくれと頼むことはしなかった。
おれは、カルディオスの行動を縛るものは、たとえそれがおれ自身であったとしても嫌悪した。
だからこそカルディオスが、当然のように次の季節の話をしてくれる度に、おれは嬉しく思って耳を傾ける。
カルディオスは当然のように秋の話をして、冬の話をして、次の春の話を、次の夏の話をする。
その話の全部におれが出てくることが、おれを喜ばせる。
カルディオスは、随分と表情豊かになったおれの顔を見て、おれが嬉しそうにすることに対して訝しげにする。
おまえ、なんでそんなににこにこすんの、と、いっそ鬱陶しげでさえある声を出す。
おれは上手い言葉を思い付かなくて、ただそういうときは単純に、右手の拳をカルディオスに寄せる。
カルディオスは笑いながら同じ仕草でおれに応じて拳をぶつけ、お互いに手を組んで、その手を揺らす。
食料を買い足す必要があって町に入るときには、カルディオスは相も変わらず俯きがちで、びくびくしていた。
おれはカルディオスにそうさせる人間が嫌いで、更には町中に世双珠の気配を見付けると、輪を掛けて何もかもが嫌になった。
カルディオスはおれのそういう機微を察していて、町に滞在する時間はよりいっそう短くなってはいたが、カルディオスの目立つ容貌と、端から見れば子供の二人連れと見えることもあって、何度か――いわゆる破落戸に絡まれることもあった。
そういう人間が刃物を出してくると、おれはどうしても引いてしまう。
サイジュの痛みを思い出して、また万が一おれに損傷が与えられて、おれが人間ではない、金の生る木であることがカルディオスに知られたらどうしようと思って、足踏みすることが多い。
あるいはそういう人間全部を叩き潰せば良かったのかも知れないが、おれがそういう行動に出る前に、大抵の場合はカルディオスがおれの腕を掴んで、脱兎の如くにその場から逃げ出すことばっかりだった。
背後からの怒声に耳を塞いで逃げ出したあとで大抵、カルディオスは不服そうに足許の敷石なんかを蹴りつけて、「次に生まれてくるときはさ」と言う。
「もうちょっと厳つい顔に生まれたいな」
おれは、まだこのときは寿命の概念も知らなかったから、そう言われる度に妙に動悸を覚えたものだった。
カルディオスが今にも、自ら存在をやめてしまおうとするのではないかとどきどきして、おれはそっと、
「おれ、おまえは今のままがいいと思う」
と言い添える。
カルディオスは複雑そうな顔をしながらもちらっと笑って、
「他の奴に言われたらぶち切れるところだけど、アンスはいいや」
と言ってくれていた。
方角を示されるところから推すに、カルディオスとおれは順調に北上しているようだった。
進路は概ね北東の方角を保っていた。
約束したように、カルディオスは遠くに見えていた山脈を目の間にしたときに、ちょっとだけその山の中に入ることに同意してくれたが、本格的な山登りは避けたい様子だった。
「山って結構危なくて」
と、カルディオスは小難しい顔で言っていた。
「冬はもちろんなんだけど、夏もね。夕立のせいで土砂崩れが起こって巻き込まれちゃった、とか嫌でしょ」
「土砂崩れって」
「崖とかが崩れるの。雨のせいで柔らかくなって、すごい勢いで」
おれは頷く。
土砂崩れ、と口に出したときには既に、世界中のおれの耳目から、それに関する情報が集まっていた。
もっと言えば、まさにこの瞬間に大雨に見舞われて土砂崩れを起こしている箇所が複数箇所あることも察していた。
おれは空を見上げる。
眩しく濃い青色。
春の空に比べて色が清々しく深い。花の色というよりも宝石の色みたいだ。
つまりおれが察知した土砂崩れは、現在雨が降っている――どこか遠く離れた場所で起こっていることなのだ。
世界は広いな、と、おれはおれの姉を思って首を振る。
◇◇◇
おれたちはそうやって、幾つかの町を経由しながら北上していた。
山脈に沿って更に北へ向かった俺たちは、徒歩で進んでいたのだから当然に、地図上で見れば遅々とした速度で歩むことになっていた。
カルディオスは何度か地図を買い替えた。
現在地が分からなくなることを警戒したがゆえだったのだろう。「今いるところは、地図の真ん中にある方がいいじゃん」と言っていた。
おれはてっきり、このままカルディオスの師匠とやらがいる場所まで徒歩で向かうのかと思っていたが、違った。
「そんなわけないだろ、馬鹿」
とは、おれが旅の手段として徒歩を貫くと信じ込んでいたことを知ったときのカルディオスの第一声である。
カルディオスは軽やかに笑って、
「前も言ったと思うけど、世の中って広いの。歩いてたら師匠のとこまで何年も掛かっちゃうよ」
おれの方が世の中の広さは知ってる、と思いつつも、おれは素直に頷く。
「そうか」
「そうだ。だから、これも前に言ったと思うけど、雲上船を使う」
おれはまた頷く。
カルディオスはそれを横目で眺め遣りつつ。
「ただ、ここ――ええっと、そもそもここ、ヴァフェルって国なんだけど、ここから直接リーティに行く便はないんだ。殆どの便がカロック行きで、カロックからレンリティスに飛ぶ感じだな」
「カロック」
おれは繰り返した。
呟いた瞬間に、カロック帝国という国があること、それはこの国の東に位置していること、この国はカロックに多大な借りがあることを悟っていたが、おれはそれを口に出さなかった。
「そーそー」
と、カルディオスは柵に凭れ掛かりつつ。
――今のおれたちは、山の麓の平地に伸びる木柵沿いに進んでいる。
この木柵が何のためのものかはあっさりと知れて、木柵の向こうでは、もこもこした身体つきの生き物が沢山、草を食んだりしながらのんびりうろついている。
なお、カルディオスはそれを見るなり、「あれが羊だよ!」とはしゃいでいた。
おれが羊肉の味を受け付けなかったことを、こいつは覚えていたのである。
木柵で仕切られた地面は広大な大きさで、カルディオスは、「ここ、牧草地なんだ」と言っていた。
時間帯によっては、軽やかに跳ねるように走る黒い犬が羊を追い立てて行くのを目にすることも出来た。
柵に凭れ掛かったカルディオスは、ごそごそと地図を取り出して。
「ここより北にね、でかめの町があって」
カルディオスは文字が読めないから、町の名前までは分からなかったのだろう。
ぼかした言い方に、カルディオスは気まずそうに肩を竦めた。
「こういう印」と言いつつ、カルディオスは地図を傾けて、おれにもそれを見せた、「が付いてるから、そこに雲上船の発着所があるはずなんだ。で、カロックまで行く。そこで雲上船を乗り継いで、レンリティスまで行く。リーティ直通の便が捉まればいいし、そうじゃなかったとしても近所まで行くはずだし」
カルディオスがそこまで言ったタイミングで、柵の向こうから人間が歩いて来た。
がっしりとした身体つきの、大柄な男だった。
男は単純に、自分の羊たちの様子を窺いに来たのかも知れない。
が、カルディオスはさっと顔を強張らせると、「やべ」と呟いて地図を荷物の中に突っ込み、おれを促して跳ねるように走り始めた。
しばらくそうやって走ったあと、木柵から随分距離が開いたことを確認して、カルディオスは荷物を放り出して脈絡もなくその場に引っ繰り返り、仰向けに寝転ぶ。
草花に埋もれて、カルディオスが見えなくなる。
おれがカルディオスに近寄ってその顔を覗き込むと、カルディオスはけらけらと笑い始めた。
「あー――」
そして、両手で顔を拭う。
額に蟀谷に首筋に、汗が光っている。
「走ったら暑っちぃ」
カルディオスは夏の暑さに不平を言うことも多かったが、おれは存外に夏という季節が気に入った。
春に比べて、日差しにも生い茂る草花にも勢いがあるのが好きだった。
おれがそう思っていることを、カルディオスは敏感に察したようだった。
そもそもおれが、汗のひとつも掻かないことを、さしものカルディオスであれ奇妙に思っていたはずだったが、カルディオスがそれに触れることはなかった。
「夏、好きか」
カルディオスは、自身は暑さに参ったような表情で訊いてきて、おれは素直に頷く。
「春も好きだけど、」
前置いて、おれは呟く。
「夏も気に入った」
カルディオスは笑う。
暑さに顔を顰めるのと笑顔とが、奇妙に混ざったような表情になっていた。
「そっかそっか。次は秋だぞ」
それから少し間を置いて、カルディオスは尤もらしく指を立てる。
「もちろん秋も、天使が喇叭を吹いて教えてくれるわけじゃない」
「春だけ?」
おれはそう訊き返し、カルディオスは瞬間、怪訝な顔をした。
どうやら自分が言ったことをすっかり忘れていたらしいが、すぐに思い出した様子でにやっと笑った。
「そうだな、春だけ」
――残念ながらというべきか、このカルディオスに次の春はこない。
天使の喇叭は聞こえない。
他ならぬおれがその手を下すわけだったが、それはもう少し後のことだ。
それにおれは、その出来事については、あんまり後悔はしていない。
あれはあれで、仕方なかったのだ。
――おれが後悔しているとすれば、それはただ一点、余りにも大きな嘘を吐いたことだ。




