17◇ ――運命の日
ルドベキアが何かを覗き込んでいる。
雑多に色を重ねたような景色の中で、確とは分からないが、何かを熱心に覗き込んで難しい顔をしている。
しばらくそうしていて、やがて誰かに呼ばれたかのように顔を上げ、何かを言う――
――そこで、おれのものではないおれの目、世双珠を通して見えていた景色が途絶えた。
おれは目を開ける。
そして、見事な朝焼けの眩しさに瞳を細める。
東の方角には山脈が見えている。
初めて山脈の影を見たときには、てっきり何か大きな生き物が地面に横たわっているのかと思ったものである。
あれはなに、と訊いて、カルディオスが説明してくれる山の説明を聞いたおれの熱心さを、カルディオスはやっぱり、無いはずのおれの表情から察してくれたらしい、「だいぶ掛かるけど、向こうまで行ったらちょっとだけ山登りしよう」と言ってくれた。
なお、おれが、「大きい生き物かと思った」と言ったのを聞いたカルディオスは、しばらく息も苦しい様子で笑い転げていた。
カルディオスの笑い声は心地いいので、おれは別にそれで気分を害したりはしなかったが、笑いを収めたあとでカルディオスは謝ってくれた。
今、山脈の端から、見事に白い朝焼けが覗きつつあった。
山脈はくっきりと翳を切り取って、夜が陣地を主張するようだったが、その後ろから夜が吹き散らされている。
白々と明けていく空が、やがて太陽を迎えて黄金と薄紅に染まっていく。
山の輪郭が見事に白い輝線となって煌めく。
たなびく雲が赤みを帯びた真珠色に光る。
水のような透明さを湛えて、大空が粛々と一日を始めていく。
星が消えていく。
少し前までは、カルディオスは朝にはがたがたと震えていることもあり、それで目を覚ますことも度々あった。
おれには感知できなかったが、相当な寒気があったらしい。
だがこの頃ではそれもなくなって、カルディオスは、「今がちょうど春の真ん中くらい」と言っていた。
あちこちで花が咲いていることが増えて、おれはひたすら、その花の種類をカルディオスに尋ねることが多かった。
花は地面から生えているもののみならず、木にも咲くものであるらしい。
カルディオスは、分かる範囲で花の名前を教えてくれたが、種類が分からないものもあるらしく、そういうときは決まって、「師匠なら分かるかも知れない」と言った。
けれども――名前が分からなくとも――、花はそれぞれ特徴があって目に楽しく、更に近付けば良い香りがすることが多かった。
カルディオスは、おれが足を止めてまじまじと花を観察していても大抵の場合は笑っていてくれて、あるいは背伸びして木の枝に咲く花を覗こうとしていると、「ちょっと待って」と言って器用に木に登っていって、枝を上から押さえて撓らせてくれて、おれが花を見易いようにしてくれることもあった。
撓る枝から花びらが落ちて、おれがそれを追い掛けることも度々あった。
「これ、なに。いっぱい咲いてる」
「これ? 蒲公英。食えるよ。夏になったら綿毛になって飛んで行く」
「……綿毛に変わるの?」
「そうそう。夏になったらまた教えてやるよ」
と、そういう遣り取りをする度に、おれはカルディオスのことを嫌いにならずに済んで良かったと思う。
カルディオスの軽やかで綺麗な声は、やはり変わらずおれにとって、世界を美しく名付けるものだった。
おれの子供が世双珠という名前を付けられて、どうやら世界中で高値で取引されているらしく、それがためにサイジュが行われていたのだと知ってから、おれはあんまり町に近寄りたくなくなった。
カルディオスは敏感にそれを察して、カルディオスの方もほっとしたらしい。
カルディオスはカルディオスで、人間が沢山いるところは嫌いなのだ。
そんなわけだったので、おれたちは町には最低限しか近寄らず――カルディオスには食事が必要なので、蓄えが心許なくなると町に立ち寄って、何かを買っておく必要があるらしい――、大概が、街道からも外れた道なき道を進むことが多かった。
整備された街道は人間が通ることが多くてカルディオスが嫌ったうえ、こうした野原の方がおれが喜ぶことが多いので、おれたちどちらにとっても損がなかった。
――カルディオスの手形が盗まれた町を出てから、月の大きさは一巡りし、更にまた半分を巡ろうとしていた。
カルディオスが言った通りに、一度は姿が見えなくなった月は、徐々にその大きさを取り戻し、真ん丸に輝いたあと、また少しずつ欠けつつあるのだ。
おれは、どうして月が欠けたり満ちたりするのかとカルディオスに尋ね、カルディオスもその理由は知らない様子だったので、二人であれこれと言い合った――曰く、星を食べたり吐いたりしている。あるいは、誰かが布を掛けたり取ったりしている。または、何かが月を照らす角度が少しずつ変わっている。
おれもカルディオスも、別に結論が欲しいわけではなかったので、単純にそういう言い合いは楽しかった。
今はおれたちは、所々に巨岩が露出している野原を進んでいる。
すぐ傍には森も広がっていて、昨日カルディオスはその中で泉を発見して喜んでいた。
おれとしても、滾々と湧き出す澄んだ水には感嘆したが、すぐに、「この水はどこからくるのか」とカルディオスを質問攻めにして困らせた。
野原には点々と白い花が咲いていて、訊いてみると白詰草というらしい。
カルディオスは昨日の夜に、器用に白詰草を縒り合わせて花冠を作り、手品のようなその仕草におれが感心していると、凝った形の花籠も作ってくれた。
おれは夜中その花冠と花籠を触っていて、形を少し崩してしまっていた。
これ、直せるんだろうか。
そんなことを考えていると、カルディオスがもぞもぞと身動きし、目を覚まして伸びをした。
そしておれを見て、ぼそぼそと「おはよ」と言ったあとに苦笑する。
「アンスって早起きだよな」
おれは瞬きして、頷く。
おれが眠らないものであるということを、隠しておかなければならなかった。
「空が綺麗で」
「そーだな」
カルディオスは同意したものの、肩を竦めて欠伸を漏らし、言った。
「けど、多分昼くらいから雨だよ」
「そうか」
おれは頷く。
カルディオスは天候を言い当てるのが得意だった。
雨も、おれが最初に遭遇した嵐のような規模のものにはあれ以来巡り合っていなくて、しとしとと降る雨は、おれは結構好きだった。
雨上がり、空の機嫌が良ければ虹が見えるのも気に入っていた。
水溜まりを踏むのも面白く、おれは何度か膝から下を水浸しにしてカルディオスを閉口させていた。
おれは、少し形が崩れてしまった花冠を持ち上げた。
「直せる?」
カルディオスは瞬きし、目を細めて笑った。喉の奥で笑い声が上がった。
「直せるけど、気に入ったんならまた作ってやるから気にすんな」
「そうか」
おれはまた頷く。
カルディオスはごそごそと荷物を探って、朝食の堅パンをおれに手渡し、自分も同じものを食べながら地図を開いた。
「こないだこの町を通ったから、今はこのへんで」とか、「こないだ通った湖がこれで」とか、「そろそろもう一つ町があるはずで」とかと呟いている。
この地面はとにかく大きく広いので、現在地を見失ってしまうと大変なことになるらしい。
地面の大きさについては、カルディオスも確かなことは知らなかった。
カルディオスが持っている地図でさえ、地面の一部を拡大して描いているもので、その拡大があってすら、町ひとつが点の大きさなのだ。
「雲上船に乗ってみると、なんかもう見渡す限りって感じで」
と、カルディオスは言って、そもそもこの大陸は東西よりも南北に広いとか、北の方に関しては、端はまだ発見されていないとかと話してくれた。
なんでも、寒すぎて人が立ち入れなくなってしまうのだとか。
「雲上船も凍り付くくらい寒いんだってさ。嘘か本当か知らねーけど、地面が一面氷になってるらしいぜ」
と、カルディオスは真顔で言っていた。
そして、「氷ってなに」と尋ねたおれには、「冬になったら教えてやるから」と応じた。
更には考え深げに、
「大陸は二つって言われてんだけどさ、北の端っこを見た人っていないわけじゃん? もしかしたらそこで、二つの大陸がくっ付いてたりしねーかな」
とも呟いていた。
おれが首を傾げて、
「くっ付いてると、何か変わるのか」
と尋ねると、カルディオスは真顔極まりない表情で、
「地図が変わるし、ものすごい大発見になる。この大陸よりもずーっと南の方に、めちゃくちゃでかい島が発見されたらしいんだけど、そのときも大騒ぎになったんだってさ。師匠が言ってた」
そう言って、カルディオスは悪戯っぽくおれを窺った。
「おまえの人捜しが終わったら、二人でずーっと北の方まで行ってみようか」
それもいいな、と思ったので、おれは頷いた。
そんな風に、カルディオスも知らないことはあったが、陸地の端がどうなっているのかについては、「陸地が途切れるとな、海に入る」と自信満々に答えてくれた。
「海ってなに」
「一面の水。こないだ、湖の傍通っただろ。あれの大きいやつ。
ただ、水はしょっぱい。真水じゃなくて、塩水なんだ。波があって、色んな生き物が棲んでる」
そう言われておれは少し考え、あの暗くて冷たい穴ぐらから出て最初に、見渡す限りに広いものを目の当たりしたことを思い出した。
ちらちらと光りながら揺らいでいた、あれは水ではなかったか。
そのときのことを思い出し、あれこれとカルディオスに話してみると、カルディオスは最初は訝しそうにして、それからぱっと顔を明るくしたあと、頷いて請け合った。
「それ。それ、海だよ。足許が砂だったんだろ? 砂浜だ。おまえ、海から来たんだ」
カルディオスの言い様は、まるで、「おまえ、海から生まれてきたんだ」と言わんばかりだった。
おれはおれで、自分がもう海を見ていたということに驚愕していたため、「そうか、あれか。あれが海か」と繰り返してしまい、そのうちにカルディオスは笑い出したものだった。
――カルディオスは地図を見終えてそれを仕舞い込み、堅パンを一気に食べて少し咽たあと、水を飲んで落ち着いた。
それから、おれがもう食べ終わっていることを見て取って、「じゃ、行こっか」と言って、荷物を持ち上げて立ち上がった。
昼前には青空は徐々に雲に隠されて、昼過ぎからは、カルディオスが言ったように雨が降り始めた。
決して激しい雨ではなかったが、カルディオスは森の中に引っ込んで、豊かに枝を広げる木の根元に避難することを選んだ。
ぽたぽたと雨粒が木の葉を打つ音を聞きつつ、カルディオスは荷物の中から小さな鍋を取り出して、干した豆と水をその中に入れて火に掛け、ふやかして食べられるようにする。
小さな、半ばが透き通るような石榑に見えるものを砕いてその中に入れる。
いつだったかおれが初めてそれを見たときに、カルディオスは、「これは塩だよ、岩塩」と教え、なお不思議そうな顔をするおれに、真顔で、「舐めてみな」と言って騙まし討ちにしてきた。
小さな欠片を口に入れられ、これほど塩辛いものがあるのかと目を白黒させるおれを、カルディオスは爆笑しながら見ていたものである。
そのあとカルディオスはおれに水を飲ませて、笑いながらも「悪かった悪かった」と言っていた。
カルディオスは食べられるようになった豆を器によそって匙と一緒におれに渡して、「こういう雨はすぐ止むよ」と予見した。
自分も匙で豆を掬って、ふうふうと吹いてそれを冷ましつつ、カルディオスは言う。
「師匠が言ってた。こういうの、紅雨っていうんだって。花に降る雨」
「ふうん」
カルディオスが言った通りに、しばらくして雨脚は弱まり、やがて木の葉から滴を落とすのみとなった。
空はじわじわと明るくなって、おれは雨宿りしていた木の下から出て、「虹、出る?」と尋ねながら四方を見渡した。
残念ながら虹は見えなかった。
足の下で、地面に沁み込み損ねた水気が押し出されて、濡れた音がした。
カルディオスは荷物を纏めて立ち上がり、雨に濡れた下草を踏んで、また出発の号令をおれに掛けた。
しばらくすると、雲を振り払った太陽が下界を照らし始め、雨に磨かれた風景がくっきりと輝いた。
おれはそれが好きで、雨上がりの、足許から不思議な匂いが立ち昇ってくるような香りも好きで、目を細めて何度も深呼吸した。
カルディオスはそんなおれを可笑しそうに見ていて、ふと言った。
「――おまえ、ほんと、師匠と気が合いそう。師匠もなんか、雨上がりに虹探したりするし、話も合うんじゃない?」
おれは首を傾げて眉を寄せた。
カルディオスはよく「師匠」とやらの話をするが、おれは余りその人物が好きではなかった。
カルディオスはおれの、殆ど無いも同然の表情をきちんと見て取って、それ以上は言わなかった。
話を変えるように、「お日さまの周りに円い虹が見えると、それから天気が悪くなりやすい」と、尤もらしく言い始めた。
おれは早速太陽を見上げたが、白く輝く日輪の周りには、それらしいものは見えなかった。
カルディオスは肝を潰した様子で、「だから、直にお日さま見上げたりすんなって」と。
おれは目を閉じた。
目蓋の裏が、陽光を写し取って白く見えた。
目を閉じた拍子に、おれのものではないおれの目、世双珠を通して、またルドベキアが見えた――
――どこかを歩いている。
沢山の人間が行き交う中を歩いていて、その隣に金色の髪の誰かがいる。
金色の髪の人間が何かを言って――声が上手く見えない――、ルドベキアがぴたりと足を止め、何かを訊き返す。
途端に金色の髪の人間の表情が険しくなり、ルドベキアが焦った顔をする――
「――アンス?」
カルディオスに声を掛けられて、おれは目蓋を持ち上げた。
カルディオスが訝しそうに首を傾げて、おれを見ている。
「どうした? 具合悪い?」
「いや……」
おれは呟いて、微笑してみせた。
カルディオスの笑顔を頻繁に見ているから、笑顔はおれも堂に入ってきた。
「――大丈夫」
カルディオスは夕方まで歩いて、森の中の水辺で夜を明かす案を表明した。
おれは同意した。
太陽はまだ地平線から距離を置いた場所に浮かんでいて、それを見て推してみるに、いつもより、歩くのを切り上げる時間が早かった。
もしかしたらカルディオスは、おれの具合が悪いのではないかと思って案じてくれたのかも知れない。
森の中の浅いところに、たぶん昨夜に見つけた泉から水が流れているのだろうが、川とも呼べないほどささやかな水流があった。
ごつごつした岩の上を流れる水は冷たくて、岩と岩の境目で小さな滝を作りながら、淀むことなく清涼に流れている。
どこかの木の枝から落ちた葉が水に浮かんで流れていって、おれは、「あの葉はどうなるの?」と尋ねてカルディオスを困らせた。
森の中にも、野原と同じくところどころに巨岩が露出していた。
岩に苔が生えていることもあって、おれが興味津々にそちらに近付いて行くものだから、カルディオスは、「間違っても苔の上に立ったりしないように」とおれに注釈を入れてきた。
「なんで?」
「滑って転ぶ」
木の幹にも苔が生えていることがあって、カルディオスは「この辺は湿気てるんだ」と言っていた。
まだ陽光は残っていたが、森の中に入ってしまえば薄暗かった。
カルディオスは、「ちょっと早いけどメシの支度しとくから、おまえ、ふらふらしてていいよ」とおれに許可を出し、それから、「でも、ちゃんと戻って来いよ」と言い添えた。
おれは頷いて、穏やかな水流の音を聞きながら、その水流を上の方に辿るようにして、木の根を踏み越えたり巨岩を越えたりして、興味のある方へ進み始めた。
目に付いた木に近寄ってよくよく観察すれば、木の皮は分厚く罅割れている。
木の幹はそうして古びているのに、芽吹いている葉が新しいばかりの生命力に満ち溢れているのが面白い。
黄色い蝶がひらひらと飛んでいるのが目に入って、おれはそちらに手を伸ばしてみたが、ひらひらと飛ぶ蝶はおれには無頓着に去って行ってしまった。
ぱしゃぱしゃと水音が聞こえている。
おれはそちらにもう一度近付いてしゃがみ込み、浅く透明な水面を覗き込んだ。
ちょうどそのとき、向こうからも何かが出て来た。
木の根を迂回するようにして、足音もなく水辺に寄って来たその生き物を、おれはこれまで見たことがなかったが、カルディオスが教えてくれた、猫という生き物に少しばかりは似ているように思って眺めていた。
向こうの生き物もおれに気付いて、橙色の特徴的な目でおれを見た。
警戒心を持って、おれの出方を探るようにその生き物は足を止めたが、おれが特段動かないことに安堵したのか、早足にこちらに近付いて来て、ぴちゃぴちゃと水を飲んだ。
そのまま、くあ、と欠伸をして、悠然と尻尾を翻して去っていく。
おれは右手の指先を水に浸けてみた。
――冷たい。
流れる水が指先を叩いて、仄かに水流の形が変わる。
小枝が流れてきて、おれの指先に当たったあとに、くるくると回転しながら流れて行った。
それを見送ってから、おれはそこら中から香る苔や木の皮の豊かな香りを吸い込んで、目を閉じた。
――その閉じた目蓋の向こう側に、また、ルドベキアが見えた。
世双珠を通して見えるルドベキアだ。
意識してルドベキアを見ようと思ったわけではないから、なんだろう――もしかしたらあいつも、おれのことを考えていたのかも知れない。
見えはするものの、声を届けることが出来るわけではない息子を眺めつつ、おれは顔を顰めた。
――どこにいるんだ、ルドベキア。
遠過ぎて方角すらも分からないから、おれからルドベキアを見付けに行けない。
カルディオスの師匠とやらが、ルドベキアを見付けてくれればいいけれど。
ルドベキアは困ったような顔をしていて、何かをじっと見て考え込んでいる風情。
人間以外のものは、おれからは雑多に色を重ねた影のようにしか見えないから、ルドベキアが何を見て思い悩んでいるのかもよく分からない。
ただ、ルドベキアはやっぱり外のことが好きではないらしい、と思って、おれは残念に感じると共に、奇妙に少し安堵する。
――ルドベキアが、この素敵な世界のことを知っていて、おれに外に出るなと言ったのではないということを確かめられたような気がして、安堵する。
ルドベキアが、おれに悪意を持っていたわけではないことを確認できたような気がして、安堵する。
ルドベキアは溜息を吐き、小さく首を振った。
それから、ふと何かに気付いたように顔を上げて、周囲を見渡し――
――『ヘリアンサス? ――兄ちゃん?』
呼ばれた。
声が見えた。
意味が見えた。
おれは驚いて目蓋を上げ、その拍子にルドベキアの姿は掻き消えてしまった。
慌ててもう一度目を閉じたが、見えるのは目蓋の奥の暗闇だけだった。
おれは渋々、再度目蓋を持ち上げる。
――だが、確かに、ルドベキアはおれのことを呼んだ。
しかも、以前に呼んでいた方の、おれの好きな呼び掛け方をしてくれた。
初めてだった。
これまでも、おれがルドベキアの姿を垣間見ることはあったが、ルドベキアの方でそれに気付いた風情を見せたのは初めてだった。
しかも、方角すらも分からなくなるほどの距離があってなお、声が見え、その意味が見えたのも初めてだった。
おれは瞬きをしたが、その拍子に、自分の手指が少しだけ震えているのを感じ取った。
――どうやらおれは思った以上に、ルドベキアのことを懐かしく思っていたらしい。
あの朴訥な癖のある話し方を、自覚している以上に恋しく思っているらしい。
心から安堵した。
――ルドベキアは確かに約束を破ったが、だがそれはそれとして、今でもちゃんとおれのことを考えているらしい。
信じられないほど気持ちが軽くなって、おれは立ち上がった。
ちょうどそのとき、おれを呼ぶカルディオスの声が聞こえてきた。
おれは微笑んで、カルディオスの傍に戻るために足を踏み出す。
左の手首の腕輪に触れて、ルドベキアがくれたおれの空がちゃんとそこにあることを確認する。
――カルディオスと会わせてやれば、きっとルドベキアもこの世界のことが好きになって、おれにいっそう色んな話をしてくれるに違いない。
第一、今は、おれの方にもルドベキアに話すことが沢山ある。
きっとあいつも興味を持ってくれることだろう。
◇◇◇
不安定な足場を下ってカルディオスの傍まで戻るのは、思ったよりも時間が掛かった。
けれどもカルディオスは、苛立ちの欠片も見せずにおれを待っていて、おれを見ると眉を上げた。
おれは相変わらず表情を作るのが下手だったが、カルディオスは傍に戻ってきたおれをまじまじと見るや、
「――アンス、なんか面白いもんでもあった?」
と尋ねてきた。
おれのささやかな変化に気付いてくれたのが嬉しくて、おれはカルディオスの傍に座り込むと、拳を作ってそれをカルディオスの方に動かした。
気付いたカルディオスも同じ仕草をして、拳が軽く触れ合う。
それからどちらからともなく指を開いて、手を握り合う。
お互いの親指が交差する。
その手を軽く揺らす。
真面目な顔でその儀式に付き合ってくれてから、カルディオスはふっと表情を緩めた。
「いいことあったんだな。良かった」
もしかしたらカルディオスは、それが例えば綺麗な花を見付けただとか、虹が架かっていただとか、そういうことだと思ったのかも知れない。
仔細は訊いてこなかった。
それがまたおれには嬉しくて、おれはすっかり、先ほど見た生き物が何であったのか、カルディオスに尋ねるのを失念してしまった。
カルディオスがおれを呼んだのは、勿論のこと、食事の支度が出来たからだった。
昼と同じく豆を茹でていて、今度はそこに干し肉と腸詰も入っていた。
小鍋の中でことことと揺れる水面をおれが覗き込んでいると、カルディオスは小さく笑った。
「腹減ったの?」
おれは曖昧に首を傾げておいた。
空腹という感覚を、おれは知らなかった。
おれが鍋に興味を惹かれたのは、単純に水面が動くのを見るのが面白かったがゆえだったが、おれはそれを言えなかった。
いつの間にか、辺りはめっきりと暗くなっていた。
日が落ちたのかも知れない。
ここからでは木々が視界を遮って、太陽がどの辺りにあるのかは見えない。
カルディオスにとっては、鍋の下で燃えている炎だけが光源だったのだろう、荷物の中から器を取り出そうとして、少し手間取る様子を見せた。
おれがそちらに手を伸ばして、カルディオスが探しているものを取り出すと、カルディオスは「おぉ」と感心したような声を零したあと、にこっと笑った。
「ありがと」
「うん」
おれは頷いて、カルディオスがおれの分の食事を器によそうのを眺めた。
――カルディオスは一度も、おれに荷物を持たせたこともなければ、料理をしろと迫ったこともなかった。
もしかしたらそれは、カルディオスがおれのことを信頼し切っていなかったからかも知れない。
今となっては、もうその理由は分からない。
――いや、分かるかも知れない。
これから全てが上手くいって、なおカルディオスがおれと何某かの話をしてくれれば。
――だが、ともかく、このときのおれは、カルディオスのそういった振る舞いに、何ら疑問は覚えていなかった。
おれはただ、渡されるがままに食事を受け取って、口を付けた。
カルディオスは、きちんとした店や人目があるところでこそ、真面目な顔で食前の祈りを唱えるが、こういう場所でそういうことはまずしない。
自分にも食事をよそって、カルディオスも口を付けた。
それから、山の麓に着くのはいつになりそう、だとか、大きな町まで行って雲上船に乗れば、急げばリーティに着くのは夏には可能だ、とか、そういう話をしてくれた。
「リーティ?」
「師匠のいるとこ。前も言ったでしょ」
おれは機嫌が良かったうえに、人間に寿命があるということも知らなかったから――外的な要因があってのみ、人間は存在することをやめるのだと、おれは未だに思っていた――、何の気なしに呟いた。
「急がなくていいよ」
カルディオスはむっと顔を顰めた。
翡翠の瞳の中で、炎の明暗が大仰に踊った。
「おまえ、前もそう言ったけど。人捜しだろ。早い方がいいんじゃねーの」
おれは瞬きして、首を傾げる。
「そうか?」
「そうか、って、おまえ」
カルディオスが呆れたようにおれを見て、おれは反対側に首を傾げ直した。
「――あいつ、大丈夫だと思う。だから、急がなくても、会えると思う」
カルディオスは眉を寄せた。
心配そうなのと呆れたのが混じったような、そんな表情をしていた。
「いや、世の中って、おまえが思ってるより広くてな」
「うん、分かってきた」
「だろ?」
カルディオスは匙でおれを指したあと、「あ、これ師匠に怒られるやつだ」と、すごすごとその匙を下げた。
――おれはぎゅっと眉を寄せた。
まただ。
ここにカルディオスの師匠とやらはいないのに、カルディオスは自分の行動の尺度にその存在を持ち出す。
過去の施しを以てカルディオスに対する何某かの権利を得ている存在がいるということが、おれにはどうにも不快だった。
匙でくるっと器の中を掻き回すカルディオスを眺めつつ、おれは呟く。
「――でも、時間を掛ければ、会えると思う」
ルドベキアがおれから逃げ回りでもしない限り、いつかは行き当たるだろうし。
そういう、おれの――無限に続く時間の前に突っ立っているがゆえの――言葉に、カルディオスはぶっと噴き出した。
「なんだそりゃ。気の長い話だな」
「気の長い?」
「のんびりしてんなー、って」
カルディオスはもう一口スープを飲んで、尋ねてきた。
「おまえが捜してるのって、どんなやつ?」
ぱちん、と、炎の中で何かが爆ぜた。
穏やかな激しさのある音で、おれは好きだった。
「どんな……?」
おれが言葉に迷ったことを見て取って、カルディオスは首を傾げた。
「ええっと、男だっけ? 女だっけ?」
おれは頷いた。
男女の違いも、朧気ではあったがこの頃のおれはもう理解していた。
「男」
男だから、ルドベキアだ。
女ならエノテラになるはずだった。
そもそもおれはルドベキアのことを、ルシアナの“息子”だとカルディオスに言ったことがあるはずだ。
カルディオスはどうやら、それもすっかり忘れてしまっているらしい。
そう思いつつも、おれは言葉を付け足した。
「すごく綺麗な青い目をしてる。あと、変な――変な魔法を使う」
あれも魔法だろう、間違いなく。
おれの言葉に、カルディオスが瞬きする。
「変な魔法?」
「辺り一面青くなる」
「なんだそりゃ」
カルディオスが笑った。
おれはその顔を見てから、スープの最後の一口を飲み、言葉を続けて繰り返した。
「――急がなくていいよ。あいつもおれのところに来るはずだから、会えると思う。
それに、おれ、おまえとこうやってるのは楽しい。あいつにも、こういうのを話してやるから」
カルディオスは食事の手を止めて、目を見開き、それからにっこり笑った。
嬉しそうだった。
「そっか。――師匠もね、多分、冬頃までは忙しいんだ。こないだ会ったときに、エルリヒさんっていう、師匠の――なんだろ、予定とかを分かってる人? その人が、師匠は一年くらい予定が立て込むだろうからあんまり手間掛けさせるなって言ってきたし……」
夏に会いに行っても、もしかしたら延々とお屋敷で待たされるかも知れない――と、カルディオスは言葉を続けた。
「師匠のお屋敷、とにかく広いから退屈はしないけど、窮屈なんだよな」
「窮屈って、なに」
「えーっと、なんだろ、なんかこう、一挙手一投足に気を遣わないといけない感じ」
カルディオスは、「一挙手一投足」という言葉を、なんだか面白そうに口に出した。
おれは瞬きして、頷く。
「そうか」
「うん、だから、」
カルディオスは言って、首を傾げた。
「秋の終わりくらいに師匠に会いに行くのでも、いい?」
カルディオスがそう尋ねてきたので、おれは頷いた。
まだ春しか知らないおれにとっては、全く実感の湧かない尋ねられ方だったが、構わなかった。
そうしているうちに、辺りはいよいよ暗くなった。
どこかで耳慣れない声がしたので、おれが首を傾げると、カルディオスが、「狼でもいるんじゃない」と。
「あれ、たぶん、遠吠え。――狼とか熊ってさ、襲われたらやべーから気を付けろってよく言われるんだけど、俺、そういうのは遭遇したことねーんだよな」
気のない声でそう言って、小鍋を覗き込んだカルディオスが、「おかわりする?」と、おれの方へ手を伸ばした。
器を渡せという合図で、このとき器を渡すと、カルディオスが食事を注ぎ足してくれることを、おれはもう覚えていた。
おれは瞬きして、促されるままにカルディオスに器を渡そうとした。
――その手が滑った。
「――アンス?」
カルディオスが、並外れた反射神経で、転がり落ちかけた器を片手で受け止めて、驚いたようにおれを呼んだ。
けれどもおれも驚いていた。
――声が聞こえる、いや、見える。
今までも度々あったことだ。
だがこのときは、おれが別に目を閉じてもいないのに、まるで視界に割り込むようにして声が、言葉が、その意味が見えた。
――それはまるで、騒がしい場所にいたとしても、自分の名前が聞こえれば振り返ってしまうかのような。
知らない声だった。
一度も聞いたことも、見たこともない声だった。
その声が、唐突に、あらゆる距離を跨いでおれの眼前に差し出されていた。
――『……魔法よりも更に、彼女を傷つけるものがあります』
おれは目を閉じて、軽く頭を振った。
瞬きして、カルディオスの心配そうな双眸を見る。
「アンス、だいじょうぶ?」
「――大丈夫」
おれは呟いた。
カルディオスは、「眩暈でもした?」と笑って言いながら、それでも心配そうにおれを窺い、スープを器によそった。
おれはいつものようにそれを受け取ろうとして、
――『……世双珠――』
聞き間違えるはずのない、見間違えるはずのない声が見えて、また動きを止めてしまった。
――今のは、今の声は、ルドベキアの声だ。
周囲を見渡す。
夜陰にざわざわと木々の梢が揺れている。
空気を擦るように枝葉が揺れる音が聞こえる。
「……アンス? どうした?」
カルディオスの、本気で訝しそうな声がした。
おれは首を振った。
違和感があった――ルドベキアは一度も、あんな風におれを呼んだことはなかった――
そうだ、おれだ。
ついさっき、『世双珠』と呼んだルドベキアの声の奥、言葉の奥に、おれを指す意図があった。
おれにはそれが分かる。
言葉の裏、声の裏の意図を聞き取り、見て取るのがおれの耳目だ。
たとえば真正面から誰かがおれに嘘を吐いたとしても、おれの耳は正確に、その言葉の真意だけを汲み取ったことだろう。
世双珠、と、おれが呼ばれた。
おれはそんな風に呼ばれるのは好きではない。
――『そうです』
また、別の声がした。
おれの知らない声だ。
おれは試しに目蓋を下ろしてみたが、おれのこの目で見ている声ではない。
声は遮られなかった。
ただ、カルディオスがいっそう心配そうに目を見開くのが分かった。
「アンス、どうしたの、気分悪い?」
「……分からない」
目蓋を上げて、おれは呟いた。
意図していない間合いで、これほどはっきりと声が見えることが初めてで、どうすればいいか分からなかった。
――『世双珠は、世界の双子ですから。そもそもの発生は――』
「風邪でも引いた? どっか痛いとことか、ある?」
――『……五百年前でしたか、これはエイオス教の教義と――』
「眩暈とかする? 変に寒かったりとか」
――『一致します――偶然に母石と守人が生じて……当時の諸島の人々が、』
知らない声とカルディオスの声が交互に聞こえて、おれは不愉快さに眉を寄せた。
そして、こちらが自分の意思で黙らせられるだろう方に黙ってもらうことにした。
「カルディオス、黙って」
カルディオスは目を見開いたあと口を閉じ、首を傾げた。
それからごくごく小さい声で、「頭痛い?」と訊いてくる。
声音に心配を感じたので、おれは首を振っておいた。
――『世双珠の量産に成功したと聞いていますが、詳しいところは、それこそ守人が知っているでしょう』
知らない声がそう結んで、おれはいっそう眉を寄せた。
――そんなことは知らない。
第一なんだ、量産とは。
ただおれを切り刻んだだけじゃないか。
それとも、おれともうひとつのおれを作り変えたことをそう言っているのか。
どうしてこれほど軽くその事実を声に出来るのだ。
おれは痛くて、苦しくて、怖いのに。
知らない声が言うことの訳が分からなくて、おれは眉を寄せて、目蓋を下ろしたり上げたりすることを繰り返した。
声を振り払いたかったためだが、どこかにあるのだろうおれのものではないおれの目が、注意深くその声を拾い続けていた。
カルディオスはしばらくおれをじっと見ていたが、その辺りで口を閉じていられなくなったらしい、「アンス、大丈夫?」とまた言った。
手に持っていた器を地面に下ろして、おずおずとおれの顔を覗き込んでくる。
「眩暈? 耳鳴り?」
「分からない」
おれは再度そう呟いた。
眩暈も耳鳴りも、おれの知らないものだった。
――『――世双珠は、この世界と同じように、別の次元――どこかから、継続的に魔力を注ぎ込まれているわけです。世界からすれば、』
「変な声がずっと見え――聞こえてくる」
おれはとうとう素直にそう言った。
カルディオスは、笑い飛ばしこそしなかったものの、ぎゅっと眉を寄せ、「誰かが自分の墓の上を歩いてる感じ?」と、おれには分からない表現を持ち出してきた。
おれはいっそう混乱した。
「墓ってなに」
「え、死んだ後に入る」
「死ぬって、なに」
カルディオスは目を見開いた。
それからちょっと言葉を選ぶように目を泳がせたが、その間に、誰のものかも分からない声が、おれの視界を占領するほどに、いっそうくっきりと見え始めた。
――『自分の中にもうひとつの世界を抱え込むようなもの。それが、今は数えるのも馬鹿馬鹿しいだけ重ねられていて――しかも、』
カルディオスが口を開いたが、おれはそれを手で遮った。
ともすればカルディオスの顔が見えなくなるほど明瞭に、鮮明に、目の前を声が流れている。
――『そこからも魔力を注がれるときている』
カルディオスは心配そうにおれを窺って、「横になる?」と言って首を傾げた。
おれは首を振って、なんとなくカルディオスの方へ目を向けて、
その瞬間に、まるでカルディオスの翡翠の双眸を覆い隠すようにして、声が、
――『恐らく世双珠は、世界にとってこれ以上ない毒でしょうが』
おれは瞬きした。
――思考のどこかが途絶えて立ち消え、おれの無意識が行き着いた言葉の意味を、おれの意識から覆い隠そうとしたかのように、その瞬間、頭の中から何もかもが消え去った。
まるで――喩えるならば――頭の中のどこかで、灯火がふっと吹き消されたかのような。
いつの間にか、辺りは塗り込めたような暗闇に覆われていた。
目の前の焚火が掻き消えて、吹く風が途絶えて森が沈黙する。
カルディオスが、弾かれたように周囲を見渡すのが見えた。
ちかッ、と、上空で何かが光った。
そしてその一秒後、辺り一帯に雷鳴が轟く。
天から何かを叩き付けるような大音響――
――だが、おれには聞こえなかった。
唐突に、何も見えなくなっていた。
おれは目を閉じて、その上から両手で視界に蓋をする。
表情の作り方を忘れた顔を隠す。
カルディオスが、恐らくこのとき何かを言っていたはずだ。
あいつが、激変した気候を無視したはずもない。
だが、おれにはそれも分からなかった。
おれはおれらしく、生き物の振りをするのをやめて、息をせず、身動きをせず、口を開かず、自分の上から痛みが過ぎ去るのを待つ。




