16◇ ――唯一人の不知を恕す
昼近くになって目を覚ましたカルディオスは、「首が痛い……」と言いつつも元気そうで、おれが窓の外を見上げているのを見付けて、びっくりしたように、
「もう起きてたの」
と言った。
おれが振り返ると、カルディオスは首を傾げて、
「ちゃんと寝た?」
と尋ねる。
――おれは瞬きした。
「眠る」という行為が人間に必須のものであるらしいと、おれはこのとき初めて見当をつけた。
そうであるならば頷かねば拙いだろうと判断して、おれは頷いた。
カルディオスはほっとした顔をして、立ち上がり、ぐっと身体を伸ばした。
ぱき、と、カルディオスの方から耳慣れない小さな音がした。
カルディオスは、んーっと長々と呻くと、ほう、と身体から力を抜き、気安い仕草でおれを手招きした。
おれが首を傾げてカルディオスに近付くと、カルディオスは少しばかり難しげな顔をして、右手で拳を作ってそれをおれの方に向ける。
おれは数瞬首を捻ったが、すぐに、食堂で見た人間の振る舞いを思い出して、カルディオスの拳にそっと自分の拳を当てた。
カルディオスが手を開いたのでおれもそれに倣って、カルディオスがおれの手を下から掬うように握って揺らす。
おれも取り敢えずカルディオスの手を握り返した。
カルディオスが照れたようにぱっと笑っておれの手を離し、誤魔化すように言った。
「――いや、なんかああいうの、いいなと思って」
おれが無言で瞬きしていると、カルディオスは付け加えるように。
「ほら、俺、今まで友達いなかったから」
おれはもう一度瞬きして、頷いた。
それから、カルディオスが気まずそうにしているのをどうにも居心地悪く思って、付け足した。
「いいと思うよ」
カルディオスはにこっとして、それから首筋に手を宛がい、首を捻った。
ぱきん、と、また、その首筋で骨が鳴った。
カルディオスはもう一度伸びをして、それから自分の荷物を椅子の上に持ち上げて、中身を点検し始めた。
特に変わった点はなかったらしく、カルディオスは満足そうに頷いていたが、おれは怪訝に思った。
というのも、カルディオスがあの盗人の部屋から持ち出すことに成功していた大きな財布のみならず、盗まれた方の――つまり、最初からカルディオスのものだった――財布も、ちゃっかり荷物の中に入っていたからである。
どういうわけか、カルディオスは二つともあの部屋から持ち出すことに成功していたらしい。
カルディオスは、手形も大事そうに荷物の中に仕舞って、荷物の口をぎゅっと締め、それを担ぎ上げた。
それから少し考え込む風情を見せる。
「――もう行きたいけど、あれかな。挨拶とかってした方がいいのかな」
「挨拶って、なに」
「良くしてくれてどうも、みたいなこと言うの」
「なんで」
「礼儀……?」
カルディオスは首を捻ったあと、「礼儀ってなにって訊くなよ、俺もよく分からない」と言い添えた。
おれは頷いた。
カルディオスは迷ったようだったが、「取り敢えず外に出て、途中であの人に会ったら挨拶しよう」と呟くと、おれを促して歩き出した。
廊下は陽光を受けて明るく、窓から滑り込んだ光が、あちこちで反射して輝いているようだった。
カルディオスはきょろきょろしながら出口に向かって歩き、その途中で、カルディオスを叱り付けたあの衛兵に行き当たった。
カルディオスはぺこりと頭を下げて、
「色々とありがとうございました」
と。
衛兵はちょっとびっくりした様子で、「もう行くのか」と言ったものの、すぐにくどくどと、「今後は気を付けるよう」だの、「そもそも子供の二人旅は感心しない」だのと言葉を続け、カルディオスはひたすら頭を下げたり相槌を打ったりしてそれを躱していた。
そうして衛兵の詰め所を出たカルディオスは、おれを振り返って眦を下げた。
「――アンスもごめん……」
「なんで?」
おれが首を傾げると、カルディオスは両手の指先をそれぞれ合わせ、そのうちの人差し指だけを互いにくるっと回した。
「いや、俺のせいであちこち引っ張り回したし……危うく死ぬとこだったし……」
おれは瞬きして、応じた。
「いいよ」
「いや、良くはないだろ……」
カルディオスはしょんぼりと項垂れて、歩きながらも落ち込んだ様子で鼻を啜った。
おれは、どうやらカルディオスはおれのせいで落ち込んでしまったらしいと気付いて、言い添えた。
「おれ、怪我してないよ」
そもそも出来ない。
おれの身体の構造は、おれに負傷を許さない。
「それ、おまえが運よく頑丈だったってだけじゃん」
カルディオスが不貞腐れたように呟いたので、おれは少し考えて、考えた内容を言葉に直したが、慣れていないため時間が掛かった。
その頃にはおれたちは、衛兵の詰め所を遥か後方にして、周囲には道行く人の姿も増えていた。
「――貰ったものは返さないと駄目だから……」
おれがそう言って、カルディオスは訝しそうにした。
「ん?」
「おれ、おまえに沢山返さないと駄目だと思う。だから、別に、引っ張り回すくらいは」
カルディオスは瞬きして、眉を寄せて首を傾げた。
「……俺、なんかした?」
「前も言った」
おれはそう言って、それでカルディオスも思い出すものと思ったが、カルディオスが怪訝そうにしているばかりなので、微かにがっかりしつつも言葉を続けた。
「――おまえから名前を聞いた方が、おれにとっては、見るものも聞くものも綺麗になる」
カルディオスが目を見開いて、それから俯き、呟いた。
「……あー、それね。
それ……いや、それだと俺の方が返さないと駄目になるんだ」
おれは首を傾げた。
カルディオスは気まずそうにおれから視線を逸らす。
「あれね、多分おまえが思ってるよりずっと、俺は嬉しかったんだよ」
おれはまた首を傾げて、左手の指先で自分を示した。
しゃらん、と腕輪が鳴る音が聞こえた。
「一回」
そしてその指先をカルディオスに向けて、言葉を続ける。
「何回も」
カルディオスは少しだけ怪訝そうに眉を寄せたあと、「ああ」と呟いて小さく笑った。
こいつは本当に、おれの意図を汲むのが上手かった。
「おまえが俺にあれを言ってくれたのが一回で、俺は何回もおまえに色々教えてるって?
――いやまあ、回数で言えばそーなんだけどさ」
肩を竦めて、カルディオスは目を擦った。
「……一回のでかさってあるじゃん」
おれは首を傾げたが、水掛け論を嫌ってそれ以上は言わず、単純に繰り返して告げた。
「とにかく、別に、引っ張り回すくらいはいい」
カルディオスは少しの間おれを窺って、それからようやく笑顔になった。
「そっか、ありがと」
――この先のことを言ってしまえば、これから先繰り返される『魔王討伐』のための千年以上に亘って、おれがカルディオスの笑顔を見ることはなかった。
声を聞くことすら稀で、おれに向かってカルディオスが何かを言うとなれば、それは殆ど無いも同然だった。
このときカルディオスは確かに、おれがカルディオスに向かって言った内容を、嬉しいものであると捉えていたはずだ。
だがそれも、綺麗にカルディオスは忘れてしまったらしい。
カルディオスは気を取り直した様子で足を進め、「昼はここで食って行こっか」と提案。
おれは拘りなく頷いた。
「また立ち食いでいい?」
「うん」
「何か食いたいものある?」
「分からないけど――」
おれは眉を寄せて、呟いた。
「あれは嫌だ。あの肉」
カルディオスはすぐに閃いた様子で、
「羊な。了解」
と。
そのまま、カルディオスは恙なく足を進めて行くものかと思ったが、やがてぴたりと立ち止まった。
まだ、食事処の立ち並ぶ区画には入っていなかった。
辺りには――後から思い返してみれば――住宅が立ち並んでおり、しかもそれほど羽振りの良さそうではない人間たちが多く歩いている区画だった。
道端には複数の人間が座り込んでいて、手に手に何かが書かれた木の板を持っていたり、あるいは道行く人に何かの声を掛けたりしている。
身体の下に薄い布を敷いている人間もいれば、直に座り込んでいる者もある。
カルディオスが唐突に立ち止まったので、おれは数歩先まで行ってしまって、それから振り返った。
「カルディオス?」
おれに呼ばれて、カルディオスははっとしたようだった。
だが、足踏みしてしばし躊躇ったあと、おれではなくて別の方向に近付いた。
おれは瞬きして、カルディオスの行く手に目を向けた。
道端に座り込んでいる他の人間から少し離れて、小さな女の子が――初めておれに声を掛けてくれたときのルシアナ程度の大きさだった――地面に直に座り込んでいた。
手には何かが書かれた木の板を持っていたが、その板を見た通行人が、他の人間を見たときとは違って、くすくすと小さく笑うのが印象的だった。
女の子はぼうっとした眼差しを中空に向けていて、薄汚れた茶色い髪は長く伸びてぼさぼさになっていて、肌も全体が汚れていた。
木の板を持っている指は細くて、細かい傷が沢山走っていた。
おれは思わずじっとそれを見てしまう。
――傷。おれには有り得ないもの。
おれと人間の距離の証。
カルディオスは、逡巡しつつもそんな女の子に近付いていた。
おれの知る限り、カルディオスから進んで他人に近付いたのは、この一回だけだった。
カルディオスはがしがしと頭を掻いたあと、一歩分の距離を挟んで女の子の正面にしゃがみ込む。
女の子はカルディオスに目を向けなかった――いや。
おれは首を傾げ、それから頷いた。
おれは人間ではないから、人間よりも多くの情報を視界から拾うことが出来る。
生まれるのが双子だったらどうしようと不安がっていたルシアナに、ルシアナの腹の中にいる人間は一人だけだと教えたとき然り。
――そのおれの目が、女の子の目の異常を感じ取っていた。
目の奥の方が壊れていて、光を受け取っていないと分かる。
つまり、あの目は飾り物であって、視界の確保には役立っていないのだ。
女の子の目は飾り物に相応しく、綺麗な茶色い色をしていた。
「――こんにちは」
カルディオスが小さな声で言った。
女の子の瞳は動かなかったが、口が動いた。
「――食べ物、ある?」
おれはカルディオスの方に近付いた。
カルディオスは困り顔だった。
「ううん、これから買うところ。良かったらきみの分も買おうか?」
「あんまりそういうの言わない方がいいよ」
女の子は淡白に言った。
「周りの人に聞かれたら、いっぱい色々言われちゃう」
「そっか」
カルディオスはまた頭を掻いて、まじまじと女の子を窺った。
「……目、見えないの?」
「見えないよ」
女の子は答えて、にこっと笑った。笑窪が出来た。
「綺麗な声してるね、お兄さん」
カルディオスはやや怯んだ顔をしたが、言葉を続けた。
「その木の板、なんて書いてるの?」
女の子は微動だにしないまま、答えた。
「『ごはん下さい』って書いてもらったの。でも違うのかも知れない。みんな笑ってるのね、声が聞こえる」
「そうみたい。でもごめん、俺、字読めなくて。直してやれない」
「いいの」
女の子は極めて淡々とそう答えた。
カルディオスは唇を噛んでから、おずおずと言い出した。
「――教会まで連れて行こうか? こんなとこ居たら、変なやつに変なとこに売られるよ」
「お兄さん、経験者?」
女の子は穏やかにそう答えて、また笑った。
「だいじょうぶ、私ね、お腹と背中に傷があるらしいの。あんまり売れないから、捕まったりしないわ」
カルディオスは悲しそうな顔をした。
「……そっか」
「教会もね、連れて行ってもらったことあるの。でも私、この目だから、何のお手伝いも出来なくて、放り出されちゃった」
カルディオスは無表情に頷いた。
「どこもかしこも碌でもないね」
「そうね」
女の子は同意した。
おれは首を傾げてそれを聞いていた。
カルディオスが立ち上がって、「じゃあ」と言ったので、おれは瞬きした。
女の子も、「じゃあ」と返し、それを聞いてから振り返ったカルディオスはおれを見て、「なんだよ」と。
おれは首を傾げて、
「――連れて行かないの?」
「行けないよ」
カルディオスは穏やかにそう答えて、おれを促して歩き始めた。
女の子は無反応だった。
おれは不思議に思って瞬きをする。
「おれのことは連れて来てるのに」
「おまえ、完全に迷子でやばいやつだったじゃん」
カルディオスはそう言って、肩を竦めた。
「それに、単純に人捜してんだろ? それなら師匠に手伝ってくださいってのも言えるけど、あの子みたいなのはちょっと――師匠も、一生面倒みる奴が俺以外に増えるのは嫌だろうし。
それにあの子、しっかりしてるから大丈夫そうだし」
おれはまた首を傾げた。
カルディオスの行動に合理性が見当たらなかったためだった。
「――声、掛けたのに」
「うるさいな」
とカルディオス。
「ちょっと気になっただけだよ。
――あんな子を笑うなんて、正気かな」
気味悪そうに後ろを振り返ってカルディオスはそう言って、身震いした。
――あの子は大丈夫そうだ、とカルディオスは言ったが、その実心配だったらしい。
行き当たった最初の食事を売る露店で串焼きになった肉を三つ買うと、カルディオスはそのうち一つを自分が食べ、二つめをおれに渡したうえで、おれに断ってから道を引き返し、あの女の子のところまで戻った。
無言で肉を手渡されて、女の子は驚いたようだったが、持っていた木の板から手を離し、手探りで肉を食べ始めた。
周囲の、同じように道端に座っている人間から女の子に注がれる視線が増えた。
カルディオスは女の子が食べ終わるまで、女の子の目の前に立っていた。
肉を食べ終わっていたおれは手持無沙汰にその後ろに立っていて、風が吹いたり太陽が雲の後ろに隠れたり顔を出したりする変化を楽しんでいた。
女の子は食事を終えてから、気配でまだ目の前にカルディオスがいることを察していたのか、ぺこりと小さく頭を下げた。
「どうも、ありがとうございます」
カルディオスは答えなかったが、女の子がまた手探りで木の板を持ち上げようとするのを、何とも言えない眼差しで眺めていた。
そして、おれの方に小声で囁いた。
「――あれ、何て書いてんのかな」
その声に、同情以上の嫌悪が詰まっているのを聞き取って、おれは眉を顰めた。
――どうやらカルディオスは、あの女の子が笑いものになっているのが嫌であるらしい。
おれは女の子が持つ板に目を向けた。
ルドベキアから字を教わってはいたが、おれにはその意味が取れなかった。
なのでおれは、呟いた。
――ぴりぴりと肌が痛む。
「『ごはん下さい』って書いてる」
ぐにゃ、と、女の子が持つ板に掛かれた文字が歪む。
文字が歪んで全く別物に変わっていく。
おれが押し付けた意味を文字の側で拾って、その通りに姿を変えていく。
カルディオスが目を見開いた。
勢いよくおれを振り返って、それからまた女の子が持つ板を凝視して、唖然とした様子で目を擦る。
女の子は、勿論のこと変化に気付きようもないから、ぼんやりとした顔のままで座っている。
文字の変化が終わって、カルディオスはぽかんとそれを眺めたあと、呟いた。
「――すっげぇ……」
そのあともう一度目を擦って、カルディオスはおれを見た。
「すげぇ……今のは多分、師匠でも無理……」
「そうなの?」
おれは首を傾げたが、カルディオスは興奮した様子でにこっと笑うと、女の子の前に膝を突いて、「大丈夫だよ」と朗らかに言った。
「その板、もう大丈夫。ちゃんと持っときな」
女の子はそのときになって、先刻自分に声を掛けた人間と、今こうして肉を差し出した人間が同一人物であると気付いたらしい。
びっくりした表情になって、声を少しだけ大きくした。
「――お兄さんだったの? 大丈夫って、どういう?」
「いや、どういうことかは俺も分かんないけど、とにかく大丈夫」
カルディオスは押し付けるようにそう言って、立ち上がり、「じゃあね」と声を掛けた。
女の子は頷いて、おずおずと手を振ったが、手を振った方向はカルディオスとは少しずれていた。
「じゃあね」
カルディオスも、相手に見えないことは分かっていただろうに、明るく手を振った。
それからおれを促してもう一度歩き出し、鹿爪らしい顔でおれに向かって拳を突き出す。
おれはちゃんとその意図を汲んで、同じ仕草でカルディオスの拳に自分の拳をそっと当てた。
カルディオスが手を開いて、おれの手を取って握る。
お互いの親指が交差する。
そしてカルディオスは、満面に笑みを浮かべた。
「――アンス、おまえほんとにすごいな。師匠に会ったら、あれもう一回やってよ。師匠も絶対びっくりするよ。俺の魔法でもびっくりしてたもん。おまえ、ほんと、いいことしたよ」
おれは困惑して瞬き。
けれどもカルディオスは上機嫌だった。
「世双珠使う方が便利だってよく言うけど、やっぱ世双珠だとああいうの出来ないもん。俺の魔法だって世双珠じゃ使えないし。師匠も、普通に世双珠使うのも得意だけど、自分で魔法使う方が手軽でいいみたいなこと言ってたし。師匠もおまえのこと気に入ると思う。人捜しも絶対手伝ってくれるよ」
おれは眉を寄せて、足を止めた。
無意識だった。
カルディオスは数歩先に行ってから、はたとおれが付いて来ていないことに気付いたらしい。
足を止めて振り返り、首を傾げた。
「――アンス? どうした? 俺、はしゃぎ過ぎ?」
「いや……」
おれは呟いて、尋ねた。
表情を作ろうとしても出来なかった。
「……セソウジュって、なに?」
カルディオスは訝しそうにしたあと、ぱっと笑った。
「そっか、おまえ、魔法も知らなかったんだから知らないか。
――世双珠ってのは、……ええっと、なんて言ったらいいのかな。なんか、魔法を使いやすくしてくれるんだよね。予め、この魔法用の世双珠、って決まってるのがあって……例えば、〈燃やす〉魔法を使うための世双珠、とか。で、その世双珠があると、魔法を使うのに楽なんだよね。こう、なんつーか、自分でちゃんと魔法を使うときよりも法の変え方が適当で良くて――世双珠が何とかしてくれるから――、魔法を維持するのも世双珠がやってくれるからさ。
普通の魔術師は世双珠使うもんだよ。俺らが珍しい部類なの」
おれは瞬きした。
「その……世双珠、露店――でも使われてる?」
「よく分かるな」
カルディオスが翡翠色の目を軽く見開いて、笑顔で肯定した。
「そうだよ。じゃなきゃ、あんな風に鍋あっためたり出来ないって。便利なんだぞ」
おれは息を吸い込んで、頷いた。
――確信した。
おれの子供だ。
それが世双珠と呼ばれているのだ。
おれがそのことを呑み込んでいる間に、カルディオスは言った。
「まあ、便利なだけあって、めちゃくちゃ高価なんだけどね」
◇◇◇
おれがぴくりとも動かない無表情に戻り、声すら出さなくなったので、カルディオスは大いに困惑したようだった。
しばらくあれこれおれに話し掛けて、食事を買っておれにそれを手渡し、それでもおれが何も言わないので、最終的には悲しそうな顔になって呟いた。
「……アンス、急におれのこと嫌いになった?」
おれは肯とも否とも応じられなかった。
――恐らく、魔法というのは便利なものなのだ。
そして、おれの子供は――世双珠は、その魔法を楽に扱えるものであり、ゆえに高値で遣り取りされている。
だからこそ、あの連中はおれにサイジュを施し、あるいは金の生る木だと言ったのだ。
つまり、――順当に考えれば。
今この町は、おれのお陰で回っている。
おれから奪ったものを基盤に回っている。
何しろ、もうひとつのおれが、無作為に地上に子供を――つまりは世双珠をばら撒くようになったのは最近のこと。
それまでは、もうひとつのおれがあの暗くて冷たい穴ぐらに世双珠を生み出す他は、サイジュのみが世双珠を生成していた。
数に直せば、サイジュによって獲得されたものの方が多いはずだ。
――ほら、全部おれの苦痛を土台にしたものだ。
「アンス、ほんとにどうしたの? 俺、なんかおまえの嫌がることした?」
カルディオスが悲しそうにおれの顔を覗き込んできたので、おれは顔を逸らした。
カルディオスはいっそう傷付いた顔をして、おれから一歩離れて俯いた。
「ごめん……」
呟いて、カルディオスは上着の襟元を摺り上げて、顔の下半分を隠した。
そうして黙り込んでしまったので、今度はおれが落ち着かなくなった。
――世双珠は、おれの苦痛を土台にしたものだ。
おれの苦痛の上で高笑いしていたのは、てっきりあの、白い布を被ってサイジュにやって来た連中だけかと思っていた。
それが聞いてみれば、この町の人間全員――いや、事によれば全世界の人間すべてが、おれの苦痛の上で高笑いしていたのかも知れないわけだ。
カルディオスとて例外ではない。
おれはカルディオスを嫌いになったんだろうか。
――カルディオスの顔を見た。
顔の下半分を隠して、カルディオスは落ち込んだ様子で視線を落としている。
カルディオスは知らない。
おれが世双珠を生み出していることを知らない。
おれが世双珠そのものだということを知らない。
だが、不知を斟酌するつもりはない。
おれは苦しかったのだ。
痛かったのだ。怖かったのだ。
今ですらそうなのだ。
ならば知っていようが知っていまいが、おれに何をしてきたのかは変わらない。
直接手を下していなかろうが、そんなことは関係がない。
おれの苦痛の影で甘露を啜ったことがあるのならば、それはおれに直接サイジュを施したのと変わりない。
けれども、カルディオスが教えてくれたものが綺麗に見えるのも、綺麗に聞こえるのも事実だった。
おれがカルディオスから、そういう沢山のものを貰っているのは確かだ。
――おれはカルディオスが嫌いなんだろうか。
ルドベキアは、別だ。
ルシアナも別だ。
あれは、あれらは、おれの番人だ。
だから違う。他の人間とは違う。
ルシアナは、理由なんてなくとも他とは違うものだし、そもそもルドベキアはおれの息子だ。
他と同じであるわけがない。
だが、カルディオスは――ただの人間だ。
おれの苦痛の上で高笑いしていた人間の、その一人だ。
――おれはカルディオスが憎いんだろうか。
よく分からなかった。
目が回りそうだった。
胸の奥が妙に痛かった。
「……カルディオス」
おれが呼ぶと、カルディオスが目を上げた。首を傾げる。
声はくぐもっていた。
「なに?」
おれは躊躇ったが、結局は口を開いていた。
「――魔法って、便利なの? どのくらい?」
カルディオスは、束の間きょとんとしたように目を見開いてから、「そりゃあ……」と呟く。
「そりゃ、便利だよ。師匠の国がでかいのも、魔法の技術が他に比べて強いからだし……ヴェルローもそんな感じだし……」
「ヴェルロー?」
「西の大陸――ええっと、今俺たちがいるのは東の大陸で、もうひとつ、でかい大陸が西にあるんだよ。そっち側の一番大きい国。そこの女王がめちゃくちゃ魔法を使える人だから、国がでかくなったらしい」
おれは表情を作ることが出来なかった。
――どうやら世界は、おれが思っているよりも遥かに広い。
これほど広々とした地面があるだけでもおれには驚きなのに、それがもう一つあるとは。
そもそも、この地面の端がどうなっているのかさえ、おれには想像も出来ない。
そしてそのもう一つの地面の上にさえ、おれの子供である世双珠がばら撒かれているとは。
――そこまで世双珠をばら撒くために、おれは何度あの苦痛に耐えたのだろう。
おれがいっそう無表情になったので、カルディオスは俯いた。
「……ごめん。アンス、やっぱ俺のこと嫌になった?」
「――――」
ゆっくりとおれは瞬きした。
――そういえばカルディオスは、自分のことを汚いと思っている節があった。
おれがそれを否定しただけで嬉しそうにしていた。
もしかしたら今、カルディオスは、おれがやっぱりカルディオスを汚いものだと思ったのだと考えているのかも知れない。
おれは息を吸い込む。
――雑多な町の匂いに混じって、春の匂いがした。
目を上げると、白い雲が不規則に流れる空が、やはり高く青々と光っている。
風が吹いている。
日差しが降り注いでいる。
温かい。
春だ。
全て美しく目に映る。
カルディオスがおれに教えてくれたからだ。
それに、ルドベキアに会えたら、カルディオスに会わせてやろうと思っていたんだった。
ルドベキアはきっと外が好きではないのだろうから、カルディオスに会わせてやって、こういう美しさを知ってほしかった。
――眩暈がした。
胸の奥の方が、サイジュのときとは違う痛み方をしていた。
眉間の辺りが熱くなっている。
「――――」
おれは息を吸い込んで、おれが獲得してしまった情緒が何かを叫ぶのを呑み込んだ。
――カルディオスは、おれに沢山のものをくれている。
だから、カルディオスは、カルディオスだけは別だ。
おれの苦痛の上で高笑いしていたのだろうと、カルディオスはそれに見合うものをおれに施した。
だから、別だ。
カルディオスの不知だけは、おれは斟酌しなくてはならない。
番人以外の人間の中でこの一人だけ。
目の前にいるこの一人だけ。
おれは口を開いた。
声を出すまでに、一拍の間が必要だった。
「……違う」
カルディオスが目を上げて、おれを見た。
翡翠色の目が怯えていて、おれは戸惑ってしまう。
おれは躊躇して、結局いい考えが浮かばすに、カルディオスの真似をすることにした。
そっと拳を作ってカルディオスの方に向けてみると、カルディオスは瞬きして、顔の下半分を隠すのをやめ、おずおずと――同じくそっとおれの拳に自分の拳を当てた。
指を開く。
カルディオスの手を取って、握る。
――カルディオスの掌は温かい。
おれには無い、血の流れが運ぶ温かさがある。
そのことが、おれにはどうあっても悔しかった。
けれどもおれは、まだその感情につける名前を知らなかったから、表現の方法すらも分からなかった。
その感情を苦労して呑み下して、おれは口を開いた。
「……違う。びっくりしただけ」
カルディオスの指が、おずおずとおれの手を握り返した。
不安そうな表情で、カルディオスがおれの無表情を覗き込む。
「ほんとに?」
おれは頷いて、呟いた。
――この一言にどれだけ価値があったのか、恐らくカルディオスは知らないだろう。
「……おまえは、特別だから」
特別という言葉を、ルシアナがおれに教えた。
特別とは、おれにとってのルシアナ。
おれにとってのルドベキア。
眩しいということ。
この世界。
カルディオスはほっとしたように微笑んだが、おれの真意を汲んだ様子はなかった。
「ほんと? 良かった……」
おれは頷く。
繰り返す。
おれに、夕焼けの空の色の名前を教えて、月を教え、星空を教え、朝陽を教え、空気の温度に名前があるということを、吹く風の匂いの豊かさを教えた目の前の人間が、おれを害したあの人間たちとは違うのだということを、おれ自身に言い聞かせるために。
――そうでなければいけなかった。
おれはカルディオスのことが好きだったから、カルディオスを憎むのはつらかった。
カルディオスを嫌いになってしまえば、おれがこの世界全部を嫌いになってしまうだろうという予感があった。
それがどうしようもなく厭だった。
この素敵な世界のことを、おれは嫌いたくなかった。
だから、そうでなくてはならない。
「おまえは、特別だ。カルディオスは。カルディオスだけは」
おれが余りにも必死に繰り返すものだから、カルディオスは途中から、安堵も剥がれて怪訝に思った様子だった。
それでも途中から笑顔を見せて、カルディオスは言った。
「――うん。おまえも特別だよ」
おれは頷く。
その一言が嬉しいという自分の情動を確認して、安堵する。
おれはカルディオスを嫌っていないのだ。憎んでいないのだ。
この情動がその証拠だ。
カルディオスは心配そうにおれを覗き込んでから、首を傾げた。
「じゃあ、なんか食おうよ。さっきのじゃ足りないでしょ。――アンス、なに食べたい?」
おれは声が出なかったので、黙って首を振った。
――おれには食べ物が必要ないのだということを、おれは言えないでいた。
最後まで言えないままでいた。
今でさえ、カルディオスはそれを知らない。




