09◇ ――鬼雨よ驟雨よ
カルディオスが荷物の中から変なものを取り出して、広げた。
小川の傍で、カルディオスがまた先日のように、素手で魚を捕まえて焼いて、食べた後のことだった。
カルディオスが広げたそれを見て、おれは「それ、なに?」と尋ね、カルディオスは軽やかに、「地図だよ」と応じた。
それからしばらくそれを眺めて、はたと気付いた様子で顔を上げ、
「あっ、待って。これは地図だけど、おまえ、紙って分かる?」
おれは首を傾げた。
カルディオスは笑いを堪える顔をして、「だよな」と。
「お日さまも知らなかったんだから、まあそりゃそーだよな」
しみじみとそう言ってから、カルディオスは紙というものについて説明した。
とはいえカルディオスも精製方法について知見があるわけではなくて、「なんか、文字とか絵を書くやつ。集めて硬めの表紙つけると本になる。師匠も書いてるよ」という、ざっくばらんな説明をしてくれたのみだった。
それからカルディオスは地図について、
「紙に、このへんの地形を絵にして書いたやつ」
などと説明した。
おれが無言で首を傾げていると、カルディオスは真顔で、
「どっちに行きゃいいか分かるだろ。便利なんだぞ」
と言い募る。
それからすぐに苦笑して、
「まあ、俺には字ぃ読めないから、他の人より地図も読めないけどね」
と、なんだか自嘲の色のある声で言った。
おれが首を傾げていると、カルディオスは続けて。
「コツはね、でかい町で地図買うだろ、そしたら大抵、その近くだけを描いた地図が手に入んの。で、大抵そういう店って、壁にでかい地図貼ったりしてんの。そういうのって、現在地はここって印ついてる場合が多いんだよね。その位置と、買った地図の位置を見て、そこから地道に推測。そうすれば字が分かんなくても何とかなる」
カルディオスはそう言って、息を吸い込んでから、おれとの間の距離を詰めた。
その瞬間には小さく震えたものの、カルディオスはすぐに、はあっと息を吐き出すと肩の力を抜いた。
そして、地図の一点を示す。
そこに小さな穴が開いていた。
「ここね、俺が地図買った町。雲上船の発着所があるから、でかい町だった」
「雲上船、って、なに」
「なんか、空飛ぶでっかい船。乗ろうとするとすげぇ金取られんだけど、師匠がそのへん面倒見てくれるから……」
カルディオスはちょっと俯いたあと、また顔を上げて、言葉を続けた。
「で、地図って右が東なの。東って、お日さまが昇ってくる方向ね。だからそれを基に、自分がどこにいるか見とけば、迷子になることはない」
カルディオスは地図の右側を押さえて、「東」、左側を押さえて「西」、上を押さえて「北」、下を押さえて「南」と言った。
それから目を上げて、四方を指差しながら「東、西、北、南」と唱える。
おれはやっと方角の概念を理解した。
なるほどルドベキアが言っていた「西」というのは、方角の一種であったのだ。
おれが頷くと、カルディオスはふっと笑って、がさがさと音をさせながら地図を持ち直し、「今はこの辺」と一点を示す。
「地図買ってから二つ町を過ぎたから、この辺。なんかこういう細かい字が書いてるのは町なの。このくねくねしてる線は川ね。この、変な絵は山」
おれは頷いた。
それからカルディオスは、「ここからちょっとだけ南に行けば町があるけど、だいぶ小さい町っぽいから目立ちそうで嫌だ」というようなことを言った。
よく分からずにおれが首を傾げていると、カルディオスは大きな翡翠の瞳でおれを見て、「あのね、アンス」と。
「小さい町ほど怖いんだぞ。マジで。でかい町なら色んな人間がいるから、いざってときには奇跡的にこっちを庇ってくれる人もいたりするけど、小さい町ならまずないから、そーいうの。一回襲われたら詰みだから」
顔を歪めてそう言われたので、おれは瞬きして、「じゃあ別のところに行こう」と提案。
カルディオスは地図を眺めてしばらく黙ったあと、呟いた。
「ここから北に行こう。そしたらでかめの町がある」
更に少しの沈黙を挟み、
「――ちょっと遠いけど」
カルディオスはおれに目を移して、首を傾げた。
西日が見事にその頬を赤く染めた。
「おまえ、人捜し、急いでる?」
「――――」
おれは黙り込んだ。
――ルドベキアのことを考えた。
あの暗いところに来てくれていたルドベキア。
ルシアナの息子。おれの息子。
灯火の傍で、空の色に映える瞳。
ルドベキアの声が聞きたかったし、考えながら言葉を作るような、あの口調が好きだった。懐かしかった。
おれに向かって、何かを話してほしかった。
手品を見せてほしかったし、あの合言葉を言い交わしたりもしたかった。
でも、ルドベキアは戻って来なかった。
――それがなぜだったのかは分からないが、事実だ。
だからおれも、大急ぎでルドベキアに会いに行かなくてもいいような気がした。
このときのおれに、人間には寿命があるという理解があれば、おれは即答で「急いでいる」と応じたことだろう。
ルドベキアの命は謂わば砂時計のようなもので、刻一刻と、さらさらと失われていくものだ。
おれとは違う。
ちゃんとそれを分かっていれば、おれは一刻も早くルドベキアに会おうとしたことだろう。
だが、おれはそれを分かっていなかった。
ルシアナもその前の代のものも、番人がなぜ交代したのか、おれは理解していなかった。
人間の成り立ちを理解していても、時間そのものが肉体を摩耗させるのだという考えはなかった。
いなくなる番人たちに、死という名前がつくことを知らなかった。
――だから、おれがルドベキアに会いに行きさえすれば、また会える、話をしてもらえると思ったのだ。
あるいはおれは、腹が立っていた。
――これほど綺麗で素晴らしい世界を、おれに見せまいとしたルドベキアに、どうしようもなく腹が立っていたのだ。
おれは口を開いて、応じた。
「――急いで、ない」
カルディオスは眉を寄せた。
「ほんと? おまえ、俺に気ぃ遣ってない?」
おれは瞬きした。
「気を遣うって、なに?」
「――――」
カルディオスは黙り込み、そして笑った。
「分かった。じゃ、師匠のとこに行く前に、俺にちょっと付き合ってよ。
師匠、ここよりずっと北の国の、めちゃくちゃでかい都会にいるんだ。ぶっちゃけ、お城にいるんだ。で、俺は師匠のお情けを貰って弟子にしてもらって、最初のうちは師匠んちであれこれ教わってたんだけど、そのうち師匠に、あちこち見ておいでって言われて放流されて――」
放流、と、カルディオスはお道化た口調で言った。
それからきゅっと唇を結ぶ。
「――師匠、俺が読み書き出来ると思ってんだよね。俺がそういう風に演技したからなんだけど。だからどっか行くときは、手紙書いてって言われんだけど、いっつも絵で誤魔化してる。
金もいつもすげぇ持たされるんだけど、全部銀貨と銅貨。金貨なんか持ってたら、金持ちって思われて揉め事になりがちだからって。
紹介状も山ほど書いてくれる。なんかこう、偉い人? に会うときに、それ見せたら通してくれんだって。
で、治安のいいとこ回るようにっていっつも言われんだけど、そういうとこって金持ちが多くて怖いんだよな。で、いつもこういう田舎を回るんだけど」
立て板に水でそう喋って、カルディオスは肩を竦めた。
関係がないことまでを喋ったことを恥じるような仕草だった。
「あー、えっと、つまり、こないだ俺、師匠に会ったばっかりなんだ。すぐ戻ったら、多分あれこれ心配されるから……」
土産話にも事欠くし、と口の中で呟いて、カルディオスはおれを見て、窺うように微笑んだ。
「――アンスが嫌じゃなかったら、幾つか町を見てから、リーティ――えっと、師匠がいるとこに戻ろう」
おれは首を傾げ、それから頷いた。
特段問題がないように思えた。
「……分かった」
カルディオスはにっこりした。
おれはそれを見てふと、ルドベキアは笑うことが少なかったな、と思い出した。
ほっとしたように表情を緩めることはあったがそれだけで、ルシアナとは違ってあけすけに表情を動かすということはなかった。
カルディオスはどちらかと言えば、ルシアナに近い表情の動かし方をしているように思えた。
変な風に素敵だ、と、おれはルシアナの顔を見たときと同じように考えて、自分も真似をしようとしてみたが、生憎と顔の動かし方が分からなかった。
カルディオスは地図を眺めて、もっといえば地図を引っ繰り返したり、あるいは自分が地図を持ったままぐるぐる回ったりしていたが、ようよう進むべき方角を特定したようで、地図を畳みながら一方向に顎を向けた。
そのときには夕闇が辺りに忍び寄りつつあって、カルディオスが示した方角は、川の流れが来ている方向――つまりは川上であるということ以外、何も分からなかった。
けれどもカルディオスは慣れた様子で、畳んだ地図を荷物の中に突っ込みつつ、「木立沿いに行こう」と提案した。
「平たい場所でうろうろするの、あんまり好きじゃないしね」
そう言ってからカルディオスはおれを振り返り、落ちて行こうとする夕日の明かりの残滓の中でさえ、おれの、無いはずの表情を拾ったらしい。
苦笑して、おれの顔を覗き込んできた。
「どしたの、アンス。笑い方分かんないの」
「分からない」
おれが素直にそう言うと、カルディオスは笑い出した。
それから手を伸ばし、一回は躊躇った様子で手を引っ込めて、しかし結局はその手をちゃんと伸ばして、おれの顔に触れた。
そして、結構遠慮なくおれの頬を左右に引っ張った。
「こう、こんな感じ」
おれはひたすらに驚いていたが、カルディオスはおれが無言で瞬きを繰り返すのが面白かったらしい。
すぐにおれを離して、声を上げて笑った。
「そっか、おまえ、びっくりした顔も分かんねーのか」
そう言って、カルディオスは肩を竦めた。
「笑うのは覚えた方がいいよ」
西日に翡翠の目が細められる。
「――笑ってりゃなんとかなることだってあるんだ」
眠るとき、カルディオスはおれとの距離を開けなくなった。
「昼間寝ちゃったから、夜は寝れねーかも知んない。そしたらアンス、俺の話し相手して」
と、カルディオスは真顔で言っていたが、言っていた割にはすぐに寝息を立て始めた。
おれはまた梢越しに夜空を見上げて、月が欠けているのを心配した。
もしかしたら月は削れていって、もう戻らないかも知れない、と思ったからだ。
朝になって目を覚ましたカルディオスにその心配事を告げると、カルディオスは目を丸くして、次いで手を叩いて笑った。
そして、月というのは欠けたり膨らんだりするのだ、満月から満月まででおよそ三十日で、その三十日を十二回繰り返すことで一年になるのだ、と教えてくれた。
「そんな心配しなくてもさ、だいじょーぶだって」
と、カルディオスは請け合った。
「この世の中、変わることの方が少ないんだ。春だって、夏になったら溶けて消えるわけじゃなくて、冬が終わればまたくるんだからさ」
おれは安堵し、それから呟いた。
「一年は、分かる。明るいのと暗いの、合わせて一つで、繰り返して三百六十だ。それで一年だ」
カルディオスは目を瞠った。
瞳が零れ落ちそうだった。
「誰がそんな教え方したの。面倒だな」
おれはむっとしたが、何に対してむっとしたのかは、自分自身でさえ把握していなかった。
ルドベキアの教え方を貶されて腹が立ったのか、それともルドベキアがおれに、面倒な数え方を押し付けたことに腹が立ったのか。
カルディオスはおれにビスケットを渡して、「腹に入れとけ」と言った。
おれがその言い回しに首を捻っていると、「食べとけって意味だよ」と苦笑する。
そうしてビスケットがなくなった頃から、カルディオスはそわそわし始めた。
盛んに空を見上げては、匂いを嗅ぐような仕草をして不安そうにする。
空は気持ちよく晴れていたので、おれにはその気持ちは分からなかった。
歩き始めてからもカルディオスはそわそわと空を見上げたり振り返ったりしていて、しばらくしてからとうとう、「嵐になるかも知れない」と神妙に言った。
「――嵐って、なに?」
おれが端的に尋ねると、カルディオスは「雨と風のすごいの」と答えた。
おれは瞬きして、
「風は好きだ」
と報告する。
カルディオスは首を振った。
「いや、違う。こう、災害の方の風だから。好きとか嫌いとかじゃないから。危ないから」
そう言って、カルディオスは頭を掻いた。
そのときにまた、「いたっ」と言って顔を顰めた。傷が残っていたのだと、今なら分かる。
「前のとこにいたときは、ずーっと窓の外見てたんだよね。まあそのときの俺、正気じゃなかったんだけど。でもまあ一応、天気は分かるというか……。まあ、おっかない侯爵閣下の御機嫌は分かんないけどね……」
口籠るようにそう言って、しかしカルディオスは目を擦って、すぐに続けた。
「まあ、いっか。アンス、雷の音が聞こえたら――」
「雷って、なに」
「――。とにかく、なんかが空の上でごろごろいってたら、すぐあっちの方に抜けるぞ」
カルディオスは棒を呑んだような顔をしてから、木立から離れる方向を指差した。
おれが疑いなく頷くと、カルディオスは説明の義務を感じたかのように言い添えた。
「雷って、落ちてくるとやばいんだ。で、木って割と雷を呼んじゃうんだよね」
訳が分かっていたはずもなかったが、おれはまた頷いた。
――ここから遠からずして、おれは雷に打たれる経験もすることになるわけだが、さすがにそんなことまでが分かっていたはずもない。
とはいえ、空は晴れていた。
おれは歩いている最中に、あの茶色くて小さな奇妙な生き物を発見し、今度はカルディオスに「あれ、なに」と訊くことに成功した。
カルディオスは木の上を見て、「栗鼠だよ」と。
木立から一斉に鳥が飛び立って行って、まるで生きている雲が空に向かって立ち昇ったようだった。
おれは背伸びしてそれを見送り、カルディオスはそんなおれを見て笑った。
おれはあちこちを眺めるのに忙しかったので、カルディオスが言っていたことも、すっかり頭の外に放り出してしまった。
とはいえ、太陽が空のてっぺんに昇る前に、どこからか薄い雲が流れてきて、その太陽を半ば翳らせ、続いて冷たい風が吹きつけるに至って、なんとなく思い出した。
更には急速に空が暗くなり、背後からは黒い雲が湧き出してきたもので、カルディオスは泡を喰った様子で、
「思ったよりやばい、思ったよりやばい」
と。
おれはひたすら首を傾げていたが、カルディオスはおれの様子に腹を立てたらしい。
「おれだってね、靴くらいは作れるけど、屋根なんてでかいもんは作ったことないの!」
そう怒鳴って、木立から出るようにおれを促した。
ざわざわと不安そうに木立の梢が揺れていた。
おれは促されるままに歩いて、それから振り返って湧き立つ黒雲を眺め、その黒雲の峰の中で、ぴかりと白い光が閃いたのを見てびっくりした。
「あれなに?」
おれが尋ねる語尾に被って、ごろごろと低い音が鳴り響く。
音源の位置さえ咄嗟に分からず、おれは周囲を見渡したが、カルディオスは振り返りもせずにぴしゃりと答えた。
「あれが雷! なんか知らねーけど、光る方が鳴るより早いんだ。光るのと鳴るのが同時になってきたらやばいって感じで――」
またも、もくもくと峰を作る黒雲の間で白光が迸った。
よくよく目を凝らせば、光の筋が雲から伸びるように角張った動きで放出されているのだと分かる。
そして消える。
瞬く間の眩しい光に、おれは足を止めそうになった。
「綺麗だと――」
「綺麗でもなんでも危ないの! 神さまは綺麗で危険なもんもお造りになったんだって、知らねーの!? これを怖がらないでいられるの、師匠とすっげぇ仲の悪い侯爵閣下だけだから!」
ごろごろ、と音が鳴る。
おれはすっかり後ろを振り返り、カルディオスは業を煮やした様子でおれの腕を掴んで引っ張った。
「こら、馬鹿、急げ。急いだところで逃げられねーだろうけど、取り敢えず急げ」
白光が迸り、雲の腹が白く照らされる。
ぴしゃんっ! と強烈な音が続いて、カルディオスが首を竦めた。
冷えた風がびょうびょうと吹き、身の丈の短い草でさえ、引き千切れんばかりに靡いた。
おれは踏ん張ることを知らなかったので馬鹿正直によろめき、カルディオスを大いに呆れさせた。
夕方を待たずして夜がきたかのようだった。
おれは空を見上げ、もはや青空が一片たりとも残っていないことを認め、カルディオスに向かって、生まれて初めて声を張り上げて尋ねた。
「――これも曇り!?」
「もうそれ通り越してる!」
カルディオスも叫び返した。
風が声を千切っていくのが分かって、おれは余りの面白さに興奮した。
けれどもそれを表情に出す方法も分からず、おれは声が飛んで行った方向を見遣り、また空を見上げて、叫んだ。
その声すらも吹き散らされていく。
「空が低い!!」
「雷雲のせいだから!」
カルディオスは叫び、おれの腕を握る手に力を籠めた。
「なんも楽しいことねーから!!」
風は後ろから前へ吹いていた。
おれは、今この場で飛び跳ねたら、恐らく身体ごと浮かぶのではないかと疑った。
実際、歩こうと足を上げれば、地面に立つ基点を一つ失った身体を、風は容赦なく揺らそうとした。
おれが足を止めて、その場で軽く飛び跳ねようとすると、カルディオスが泡を喰った様子で止めに掛かった。
カルディオスの外套がばたばたと風を含んで忙しなく翻っている。
その音が耳を叩く。
「何してんの、馬鹿!」
怒鳴られて、心外だったおれは首を傾げる。
「風、強いから、飛ぶのかと」
「ばかやろう」
カルディオスが割と真面目な声で怒鳴ったので、怒鳴り声の意味を知らなかったおれも、只事ではないと首を傾げた。
瞬きしてみせると、カルディオスは断固として。
「おまえが飛ばされたら俺が困るだろ!!」
「そうか」
おれは頷いた。
カルディオスが困るなら仕方ない。
カルディオスの声が曇るのは好きではない。
たつ、と、どこからか降ってきた水滴が、近くの地面に落ちた。
怪訝に思ってそちらに目を遣ったときには、どこかの栓を引き抜いたかのような土砂降りの雨が、風景を煙らせるほどの勢いで叩き付けてきていた。
あっと言う間に足許がぬかるむ。
頭から水を掛けられて、おれは瞬きを繰り返した。
髪の先から水滴が落ちる。
衣服がぐっしょりと濡れて肌に貼りつき、のみならず冷え切った感触を押し付けてくる。
余りにも激しく水が落ちるので、カルディオスの姿こそ見えたものの、少し離れた場所を流れていたはずの小川の位置ですら、もう分からなくなりそうだった。
「――なに、これ?」
首を傾げて尋ねると、カルディオスは片手で髪を掻き上げつつ、
「――これが雨! その中でも大雨とか豪雨とかっていうやつ!」
カルディオスの顔を水滴が落ちていく。
カルディオスは雨を厭うように目を細めた。
またびょうびょうと風が吹いて、雨の向きが変わった。
風に乗るようにして、横殴りに吹き付けてくる。
おれはいっそう困惑した。
「こんなに、どこから、水が」
「雲の上から!」
カルディオスが怒鳴るようにそう答えて、おれは――その仕草を知ってさえいれば――大きく目を瞠っているところだった。
「あんなところから」
見上げると、雨のためにもはや空さえ霞んで見える。
「じゃあ、この水は、雲の上がどんななのか知ってるんだ」
おれは幸福な気持ちでそう呟いたが、ちょうどそのとき雷鳴が轟いた。
しかも、おれたちの真上で白光が閃くのとほぼ同時に、耳を引っ叩くような大音響を轟かせたのだ。
「アンス、そんなこと言ってる場合じゃない!」
カルディオスが叫んだ。
「やばい、舐めてた、これじゃ水が出る!」
おれは首を傾げた。頭の上にも肩の上にも、叩き付けるような勢いで水が降ってきていた。
「水が出る?」
「川が溢れるってこと!」
カルディオスが何を焦っているのか、おれには理解できなかった。
だがどうやら、この雨と風がカルディオスを困らせているらしいと当たりをつけた。
――残念な気持ちはあった。
風と雨は――これを嵐というらしいが――おれが思っていた以上に素敵なものだった。
空の上から水が降ってくるなんてこと、おれは想像もしたことがなかったし、閃く雷光も、夕日や朝焼けとはまた別種の美しさを持っていたから。
でも、まあ、仕方がない。
嵐はカルディオスが嬉しそうに話さないから、おれの中ではやっぱり朝焼けや夕日の方が綺麗なものだった。
この嵐があんまりにもカルディオスを困らせてしまったら、カルディオスももしかしたら、ああいう風に綺麗な形で物事を教えてくれなくなるかも知れない。
また、雷が轟いた。
かっ、と鮮烈に雷光が煌めき、おれは思わずそっちを見上げる。
顔を叩く雨が新鮮だった。
雨は不思議な匂いがする。
その匂いさえ吹き荒ぶ風が頬を叩く。
カルディオスがおれの腕を引いた。
顎から水が滴っている。
おれはまじまじとその顔を見た後で、カルディオスの手の中から自分の腕を引き抜いた。
カルディオスが、びっくりした様子で目を見開いた。
――ぴりぴりと肌が痛む。
もう分かっている。
この微細な痛みは、おれが望むように何かが動くその前兆だ。
――今までになく、震えるほどに肌が痛んでいる。
おれは身震いして、それから左手を持ち上げた。
真っ直ぐ上を指差した。
手首で腕輪がしゃらりと鳴る。
濡れた手首を腕輪が滑る。
人差し指を立てて、おれはカルディオスの頭上一点を指差す。
「もう終わるよ」
おれが教えた。
途端、凄まじい勢いで雲が割れた。
雲が割れ、そこから鮮烈な日差しが差し込んでくる。
日差しは真っ直ぐにここに届いて、それからどんどんその輪を拡げていった。
雨の筋が白く光り、しかしその雨さえも尽きていく。
雲が、どこに流れるのでもなく消滅していく。
溶けて消えて、真っ青な空が顔を覗かせる。
忽ちのうちに、おれたちの頭上は青一色になった。
カライスの色。ルドベキアの目の色。
風さえ鳴りを潜めて静まり、穏やかに風景を撫でるだけのものになる。
雨に磨かれたかのように、日差しの中に見える光景は鮮やかに眩しかった。
色彩が息をしている。そう思う。
おれは無意識のうちに目を細め、そしておれとは対照的に、零れんばかりに双眸を見開くカルディオスを見た。
頭のてっぺんから爪先までしとどに濡れて、ぬかるんだ地面に足を突っ込んでいるカルディオスは、唖然とした、目を疑うといった表情でおれを見て、それから空を見上げて目を細め、そしてぐるりと周囲を見渡して茫然としている。
カルディオスの衣服の裾や髪の先から、ぽたぽたと水滴が落ちていた。
おれも全く同じ状態であったわけだけれど、それを見ておれは笑ってしまった。
――そう、笑ったのだ。
カルディオスが、おれの顔に触れて教えてくれたから、その表情を作ることが出来るようになったのかも知れない。
あるいはおれの隣で笑うカルディオスをずっと見ていたがゆえに、おれにもそれが伝染ったのかも知れない。
――だが、ともかくも、表情が動いて声が出たのだ。
おれの口角が上がった。
口が開いて、聞いたことのないおれの声が漏れた。
変な風に胸が震えて、おれは咳き込んだ。
カルディオスはますます目を見開いて、翡翠の瞳を落っことしそうになりながら、まじまじとおれを眺めた。
おれは息を吸い込んで、笑い声を仕舞い込んで、頷いた。
そして、尋ねた。
「びっくりした? カルディオス」
カルディオスはゆっくりと瞬きし、それから濡れた顔を片手で拭って、呻くように呟いた。
「――これでびっくりしなかったら、何でびっくりしたらいいのか、俺、分かんない」
顔を上げて、カルディオスは本当に、心の底からの感嘆を籠めて、言葉を続ける。
「すげぇ。アンスが笑った」
◇◇◇
おれはのちに、このときのおれの気紛れが、大陸南方で例年発達する雲の流れを断ち切ってしまい、この年の春の降水が、この以北の地域において異常な程に少なかったのだと知る。
そのために、ここより南の国々では、土地や河川で多少の混乱があったようだが、まあ、どうでもいいことだ。
――おれがこの日をはっきりと覚えているのは、おれが初めて笑った日だったからだ。
――カルディオスが、おれが嵐を止めたことよりも、おれが笑ったことに驚いた日だったからだ。
だからこそ、おれはずっとこの日を覚えている。
おまえはとっくに忘れたんだろうけど。
3章82話で、ヘリアンサスはこのときのことに軽く触れています。
5章45話で、「今年は雨が少なかった」といっているのは、ヘリアンサスのこの気紛れのせい。




